〜史実無根の物語〜
〜其の一〜
呉の軍旗と、蜀の軍旗が正面を向いて対峙をしている光景。天下二分をしてからというもの、実際に大規模な戦争が行われるような事はなかった。
しかし、それで軍の精強さを弱めるわけには行かない。野党や盗賊が無くなるわけもなかったし、五胡など、外の脅威は依然として存在している。
そんなわけで、調練もかねての模擬戦が、時折、呉と蜀の間でこうして開かれる事になっていたのだった。
「いよいよですね………」
俺の隣で、いささか緊張した表情で亞莎が呟きを漏らした。今回の模擬戦では、亞莎が大将として、軍の指揮を握ることになっていたのである。
それは、少し前のこと――――…一通りの事務仕事を終えて、蓮華の所に報告に向かった俺は、玉座の間で蓮華と亞莎が深刻そうに話をしているのを見つけた。
何やら揉めているようで、蓮華も亞莎も表情がさえない。いったい、何があったんだろうか?
「――――ですが、模擬戦の大将は、今まで思春さんや祭さまが行っていたはず……私では荷が重いと思うのですけど……」
「それは、重々承知の事だ。だが、今までどおりの布陣で行っても、苦戦は免れないだろう。正直、打てる手は、どんな手でも打ってみたいという心境でな」
「………二人とも、何の話をしているんだ?」
「――――…一刀。ちょうど今、亞莎と模擬戦の話をしていた所だ」
俺が声をかけると、いささかホッとした様子で、蓮華がそう言ってくる。傍らの亞莎を見ると、同じように肩の力を抜くように小さく溜め息をついていた。
どうやら二人とも、先程までの会話が不毛だったらしく、いつ切り上げようかと頃合を計っていたようだ。そうすると、俺の登場は渡りに船だったんだろう。
「模擬戦っていうと……ああ、時々、呉と蜀で行っているアレのことか。確かここまで、呉が負け越しているんだっけ?」
「貴方って人は………言いにくい事を、はっきりと言う」
俺の言葉に、蓮華は溜め息をつきながら肩をすくめる。どうやら勝ち負けの事は、触れて欲しくない話題だったようだ。
「……気が利かなくてごめん。それで、模擬戦の話ってのは何なんだ?」
「ええ、その事だけど、今回の模擬戦では、亞莎に大将を任せようと思ったんだけど、本人が渋っていて……」
蓮華はそう言うと、困ったような表情で亞莎を見つめる。その亞莎はというと、救いを求めるように俺を見つめてきた。
本人は乗り気じゃないんだし、無理してまで出す必要も無いと思うんだけどなぁ。
「それって、どうしても亞莎じゃないと駄目なのか? 代役を立てるなり、他に方法はあると思うんだけど」
「そういう問題ではない。ここ何度かの模擬戦では、蜀にばかり軍配が上がっていて……これ以上負け続けるのも、国家としての沽券に関わることになるんだ」
「ああ。なるほど……そういう意味での亞莎の抜擢というわけか」
つまりは、亞莎なら勝てると見込んでの大抜擢ということなんだろう。そういうことなら、亞莎に頑張ってもらいたいものなんだけど……
「だ、だめです……以前の模擬戦では、祭さまや思春さんが頑張っても勝てなかった相手ですよ。私じゃ、無理に決まってます」
「ふう……いいか、亞莎。思春や祭が負けたのは時の運というものだ。別に彼女達が、相手より劣っていたとは、私は思っていないぞ」
「……あのさ、一つ訊きたいんだけど――――蜀の軍を率いる将は誰なんだ? 思春や祭さんが負けた相手って、只者じゃないんだろ?」
「ええ。模擬戦で軍を率いるのは、劉玄徳の義妹である関雲長。一刀も面識があると思うが」
蓮華の言葉に、俺は内心で納得する。三国志の英傑の一人である関羽。見た目は凛々しい女の子だけど、その実力は折り紙つきだった。
確かに、彼女が率いるというなら、呉が連続で辛酸をなめたというのも頷ける。しかし、関羽に亞莎――――呂蒙か……相性的には悪くないと思うけどな。
「――――なるほど。そういうことなら、亞莎が大将をやるのも良いかも知れないな。蓮華も、亞莎ならひょっとして、と思っているんだろ?」
「……推挙したのは、穏だ。模擬戦のことで彼女に相談したら、『それなら是非、亞莎ちゃんに大将を任せてください〜』と言っていたのでな」
穏の真似なのか、声色を変えてそんな事をいう蓮華。なんというか、この場で押し倒したいくらい可愛いんだけど、さすがに自重しよう。
……話を戻そう。ともかく、亞莎を大将に推薦したのは、穏だということらしい。そのあたり、穏も亞莎の才覚に気づいているんだろう。
「あの……それなら穏さまはどうなんですか? あの方が参戦するなら、関羽さんにも太刀打ちできると思うのですけど」
「無理だ。そもそも、君主や軍師は模擬戦に参加しないということになっている。あくまで模擬戦だとしても、不慮の事故を起こしたら大変なのだからな」
「そ、そうでした……」
「それに、もしそうなったら、相手側からは諸葛孔明が出て来る。関羽の武略に孔明の機知が加わるのであれば、穏が参戦しても差し引きは無いようなものだ」
溜め息をつくような口調で、蓮華は淡々という。ただ、その言葉の端々に、微妙な苛立ちが見え隠れしているのは、気のせいではないだろう。
蓮華は、かなりの負けず嫌いである。出来る事なら、自らが軍を率いて模擬戦を戦いたいという気持ちもあるのだろう。君主としての立場上、それは出来ない相談だが。
「………ともかく、これは君命だ。今度の模擬戦、大将として采配を振るい、何としても勝つこと。いいな?」
「うぅ………わ、わかりました」
君命とまで言われれば、亞莎もさすがに固辞する事は出来ないようであった。半ば泣きそうな表情で、蓮華の言葉にコクコクと頷く亞莎。
さすがに、ちょっと気の毒だなぁと思っていると、蓮華がこっちを見つめてきた。そういえば、仕事が終わった事を、蓮華に報告しに来たんだっけ。
「そうだ、蓮華……こっちの仕事は、ひと段落したよ。与えられた仕事は全部終わらせたけど、次は何をしようか?」
「そう……それならちょうど良かった。一つ、折り入って頼みたい事がある。模擬戦が終わるまでの間、一刀には亞莎の補佐に回って欲しい」
「え、俺が亞莎の補佐役?」
「か、一刀様がですか?」
蓮華の言葉に、俺も亞莎も驚いた様子で顔を見合わせる。そんな俺たちの様子を見て、何故か納得したような表情で、蓮華は首を縦に振った。
「ああ。亞莎に一番に必要なものは、精神的な支えだろうし、一刀が傍で見ているともなれば、良い所を見せようと躍起になってくれるだろうからな」
「そ、それは……」
蓮華の言葉に、亞莎は真っ赤になった頬を袖で隠してしまう。そのリアクションに満足したのか、蓮華は笑顔を見せて俺の肩を叩いてきたのだった。
「亞莎の支えになってくれ。呉の名誉のためにも……勝ってくれる事を、二人には期待している」
「さて、どうしたものかな」
それから少し後――――場所を亞莎の部屋に移し……俺と亞莎は、来るべき模擬戦に備えて、頭を悩ませている最中であった。
模擬戦は、双方が同兵力の兵数で、歩兵と騎馬兵、それに弓兵の組み合わせからなる部隊を率い、相手の大将旗を奪うべく戦うというものである。
なお、参加する者は、全員が馬印(目印となる布)を身に付けており、これを奪われた場合は、死亡扱いとなり、退場する事になる。
「なるほど、ルールは分かったよ。それで今までの戦績ってのは、どうなっているんだ?」
「ええと………天下二分の計の後、行われた模擬戦は十二回――――呉の戦績は四勝八敗。特に、ここ三回は連続で負け越しています」
「さっき話していた、関羽にやられているって話だよな。そういえば、模擬戦には亞莎も参加した事があるのか?」
「はい。大将を任される事はありませんでしたが、部隊を率いて参陣したことはあります。ただ、功を上げる事はできませんでしたけど」
そう言うと、亞莎は顔を俯かせる。過去の模擬戦のことを思い起こして落ち込んでいるようであった。
しかし、亞莎に模擬戦の参加経験があるなら、関羽の戦いぶりも分かるはずだし、対処法を考えることもできるだろう。落ち込ませているわけにもいかないよな。
俺はことさらに表情を明るくしながら、亞莎の肩に手を置いて、模擬戦の時の、関羽の戦いぶりについて質問することにした。
「まあ、今までは活躍する場がなかっただけで、今回は大将なんだから、きっと功績を上げることができるよ。で、実際には、関羽はどんな指揮を取るんだ?」
「関羽さんの指揮ですか……そうですね――――猪突しながらも手綱を緩めることなく、敵陣の弱い部分を、的確に突いた戦い方をしていたと思います」
「ようは、遠慮なく前に出て、相手を徹底的に叩く立ち回りをするってことか………容赦のない性格をしてるみたいだなぁ」
「ですが、見習うべき所でもあると思います。こと戦場において、関羽さんほど的確に軍を運用する人を見た事はありませんから」
生真面目な表情で、そんな事をいう亞莎。どことなく気負った感じがしたので、俺は緊張をほぐそうと、その両肩に手を置いて、揉みほぐすことにした。
どうも、大将に選抜されてから、妙に肩肘を張っちゃっているような気がするからな。もっと気楽になればいいのに。
「あ………か、一刀様!? いったい何を……?」
「なにって――――見ての通り肩をもんでいるんだけど。おー、これは結構、凝っているみたいだな」
「ひゃっ、お、おやめくださいっ……! お戯れを……んっ」
恥ずかしそうな素振りは見せるものの、俺の手から逃れるような様子も無かったので、俺は遠慮無しに亞莎の肩を揉むことにした。
日々の過労が溜まっているのか、コリコリに凝った肩を揉み解すと、亞莎は鼻に掛かったような声を、気持ち良さそうに漏らす。
その様子に気をよくして、俺はしばらくの間、亞莎の肩を気の済むまで揉む事にしたのだった。そうして、思う存分に堪能してから、亞莎の肩から手を離す。
「さて、こんな所か――――どうかな……? 少しは、肩の力は抜けたかな」
「あ、は、はい………ありがとうございます」
俺が手を離すと、亞莎は恥ずかしそうな表情で、袖で顔を隠してしまった。うーむ、こうも照れられると、こっちも少し恥ずかしくなってしまう。
何となく、浮ついてきた空気を引き締めるように……俺は咳払いをして、亞莎に勝算を訊ねてみる事にしたのだった。
「こほん………それで、亞莎的にはどうなんだ? 次回の模擬戦、どうやって関羽に勝つかの算段は、多少は考えているんだろ?」
「――――はい。蓮華様が勝てと仰られましたし、それに、一刀様が手伝ってくださいますから……何としても、勝とうと思います」
「そ、そうか………俺を引き合いに出されるのは、何となく面映いんだけど――――それで、具体的な案は?」
「関羽さんは、戦場では常に前線に立ち、その性根は退くよりも前進にあると思います。ですから、前進してきた関羽さんの本隊を孤立させ、大将旗を奪う策を考えます」
………なるほど。大仰な作戦ではなく、至極、単純な計画だけど、確かに理にはかなっているだろう。
前線に突出するタイプの指揮官というのなら、確かに討ち取る機会もあるのかもしれない。ただ、前線に出れる指揮官は出れるだけの才覚も備えているものである。
「だけど、本隊を孤立させるって言っても、相手がそれに引っかかるとは限らないんじゃないか? 何しろ、相手が関羽なわけだし」
三国志という話の中で、誰でも知るような有名な武将であり、ゲームとなれば軍略も政略も文句なしに高い、反則的なキャラなのである。
あの関羽が、どのくらいの知能を有しているのか分からないけど、猪武者というはずもないだろう。傍から見て、聡明そうな女の子だったし。
「はい………前の戦いでも、周辺の部隊を手足のごとく操っていました。関羽さんの部隊だけを狙い打つというのなら、よほど相手が油断していなければなりませんが」
「相手の油断を誘う――――か。何か、良い案はないものかな」
顔を見合わせ、うーんと考え込む亞莎と俺だが、なかなか良い案は浮かばなかった。知恵をひねり出すにしても、亞莎と俺だけでは、うまい考えは浮かばないようだ。
しかし、どうするか……誰かに相談でもしてみる事にしようか……? 昔から、三人寄れば、文殊の知恵というし――――と、俺がそんな事を考えていた時である。
「は〜い、どうも〜、陣中見舞いに来ましたよ、亞莎ちゃん♪」
「あ、穏さま……いらっしゃいませ!」
ひょっこりと、部屋の出入り口から顔を覗かせたのは、ぽややんとした表情の穏であった。彼女は、俺と亞莎を交互に見てから、悪戯っぽい表情をする。
「あらあら〜、ひょっとしたら、お邪魔しちゃいました〜? 二人っきりで甘い時間を過ごしてたんでしょ〜?」
「あぅっ………い、いいえっ! そんな、甘い時間なんて……」
「んふふ〜、照れちゃって〜。可愛いなぁ〜」
顔を真っ赤にする亞莎を見て、笑顔を見せる穏。亞莎をからかうのが、実に楽しいといった様子である。女の子同士のじゃれあいは、見ていて微笑ましいなぁ。
まぁ、あまりからかい過ぎるのも亞莎が気の毒だし………ちょうど穏が顔を見せたことだし、話題を逸らす意味も込めて、先程の相談に乗ってもらうことにしよう。
「穏………あまり亞莎をからかってやるなよな。それはそうと……実は、穏に相談したい事があるんだけど」
「はい〜、なんでしょうか?」
俺の言葉に、ぱちくりと目を瞬かせながら、こっちに向き直る穏。彼女に先程までの会話の内容をかいつまんで説明をすると……穏は納得したように、ふむふむと頷いた。
「なるほど〜。つまり、関羽ちゃんを油断させるためには、どうしたら良いかを考えていたわけなんですね」
「ああ。警戒している相手には、策が効きづらいのは分かるからさ。だったら、どうにかして相手が油断してくれればって思うんだけど……さすがに、思いつかなくて」
「やっぱり、油断をしてくれる人じゃないですよね……」
俺の言葉に、亞莎もそんなことを言って肩を落とす。と、俺達の話を聞いていた穏が、ぽつりと口を開いたのは、そのときだった。
「まぁ、方法が無いってわけではないんですけどね〜。関羽ちゃんは、確かに油断はしない人でしょうけど、それも程度の差があるのでしょうから」
「程度の……差?」
「そうですよ〜。例えば、歴戦の猛者の前なら、誰だって警戒しますけど、新兵相手の訓練で、同じように気を張る事は無いと思います。つまりは、そういうことです〜」
おうむ返しに呟いた俺に、そんな事を説明する穏。なるほど、言いたい事は何となく分かった。
つまり……関羽が亞莎のことを、どう見ているかで、策への警戒度も変わるということだろう。相手が舐めていてくれた方が、罠にかかりやすいということか。
「蜀の人達は、思春ちゃんや祭さまほどには、亞莎ちゃんの事を知らないでしょうし〜。新米の大将ってことを伝えておけば、関羽ちゃんも気を抜いてくれると思いますよ」
「あの………新米の大将と伝えるといっても、どうやって伝えればいいんですか?」
穏の言葉に、亞莎は戸惑った表情で聞いている。その光景を見て――――ふと、三国志の物語で、似たような場面があることを俺は思い出していた。
「それは、簡単な事ですよ〜。一刀さんは、わかったみたいですけどね〜」
「え、そ、そうなんですか?」
「まぁ、似たような話を知っているからな………そうだ、どうせなら自分の考えを手に書いて、出してみるってのはどうだろうか?」
「うふふ〜、いいですねぇ。赤壁の再現といった所ですか〜」
俺の言葉に、乗り気な様子で頷く穏。亞莎はというと、答えが分からないといった様子で、おろおろと戸惑った表情を浮かべていた。
「そんなに難しい事じゃないよ、亞莎。ヒントは、現実的な方法だってこと。亞莎のことを関羽に知らせるなら、この方法しかないだろうしね」
「現実的………ですか」
俺の言葉を噛み締めるように、神妙な表情で頷き、長い袖の留め金に手をあてる亞莎。亞莎の隣では、穏が墨汁をつけた筆で、楽しそうに手の平に文字を書いている。
穏に倣うように、俺も手に文字を書く。そうして、最後は亞莎………悩んではいたけど、とにもかくにも文字を書いたようであった。
「さて〜、それじゃあ見せあいっこしましょうか〜? せ〜のっ」
「あ、あの……これだと思ったんですけど」
楽しそうに手の平を開く穏。袖を外した腕をおずおずと突き出し、手の平を開く亞莎。そこには、同じ文字が書かれていた。
同じように、手を開く俺――――そこに書かれていた文字を見て、穏はいっそう笑みを深くし、亞莎はホッとした表情になる。そして俺は、ポツリと呟いたのだった。
「……やっぱり、そういうことなんだな」
三人ともに、手の平に書かれた『文』の一文字。勢い盛んな関羽を油断させるために、陸遜と呂蒙が相談し、文を送るというエピソードを彷彿とさせるものであった。
「この度は御日柄もよく、美髪候につきましては、日々健勝な毎日をお送りされていることとお慶び申し上げます……ええと、こんな書き出しでよろしいんでしょうか」
「いや、俺に聞かれても、もって回った言い方は分からないからなあ。でも、丁寧そうだし大丈夫だと思うよ。関羽にしても、美髪候って褒められれば嬉しいだろうし」
「は、はぁ………そういうものでしょうか?」
美髪候とは、この世界の関羽の呼び名の一つである。さすがに、女性であるので髭(ひげ)の立派さを表した、美髭候とは呼ばれないようである。
艶やかな黒髪のポニーテールが特徴的な女の子だったし、そう呼ばれても違和感は無いだろうなぁ。本人も自慢しているようだし、褒めちぎられれば嬉しくも思うだろう。
「とりあえず、不自然が無いように関羽を褒めながら、油断させる文を作らなきゃいけないわけだけど………いざ書くとなると、難しいものだよな」
「………はい。あの、一刀様――――やっぱりこの案は、無理があるんじゃないでしょうか」
手に持った筆を置き、亞莎がそんな事を言ってくる。ノリノリで文を出す案を薦めてきた穏とは対照的に、亞莎の方は、あまりこの案には乗り気で無いようである。
「んー………そうかな? 俺としては、良い案だと思うんだけど。文を使って相手の油断を誘うってのは、策としても上出来だと思うし」
「ですが、相手を敬うのならともかく、そうしているように見せかけて油断を誘うのは、なんというか、その――――」
「――――ひょっとして、ずるいんじゃないか、とか思っているのか?」
俺の言葉に、僅かな沈黙の後で首を縦に振る亞莎。彼女は生真面目な性格だから、こういった方法は好みではないんだろう。
「関羽さんの事は、武人として尊敬できますし、こういったことをするのは、どうかと思うんです」
「……まぁ、気持ちは分からないでもないけどな。する方は兎も角……やられるほうにしてみれば、たまったものじゃないし」
実際、三国志の話でも、このエピソードの時は陸遜と呂蒙は悪役として描かれている事が多い。関羽を主軸とするエピソードが多いから、無理も無い話しだけど。
ただ、実際に関羽と敵対する立場になると……策を立てなければ勝ち目がないのであれば、狙うのが当然なのではないかとも思う。
この辺りの機微は、精神的な問題だから強く言う事はできないんだけど――――きっと、冥琳がいたら一喝するんだろうな。甘えたことを言っているんじゃないって。
「だったら、手紙を出すのはやめるのか? 亞莎がそうしたいというなら……穏には、俺からとりなしておくけど」
自分の出した案を途中で中止されたとなれば、穏もあまり良い気分にはならないだろう。とはいえ、無理を押して亞莎のテンションを下げさせるのも駄目だと思う。
どちらを優先させるべきかとなれば、亞莎の気持ちをとるべきだと考える俺は甘いんだろうけど、性分なんだし、仕方ないだろう。
そんなことを考えていると、俯いてじっと考え込んでいた亞莎が、顔を上げて俺を見つめてくる。その瞳は、どことなく迷いに揺れているようだった。
「……本当は、分かっているんです。孫呉の事を考えれば、この策を使うべきだというのは理解しているんですけど……一刀様は、どう思われているのですか?」
「関羽を油断させるために立てた、この策を、俺がどう思っているかってことか?」
「――――…はい」
神妙な表情で頷く亞莎。俺は、少し考えをまとめるように頭をひねってから、思ったことを口にする事にした。
「俺としては、あまり蟠り(わだかまり)とか、そういった事はないな。むしろ、同じ状況になったら、仕方がないくらいは思うと思うよ」
「――――…仕方がない、ですか?」
俺の物言いに、首を傾げる亞莎。武人としても名を馳せている亞莎にしてみれば、俺のこの物言いは、不思議に思えるのかもしれない。
「ああ。ほら、俺って剣の腕も軍略の才能もそんなには無いからさ。弱っちい俺が関羽みたいな凄い人に勝つには、策を弄するしか無いと思う」
「弱いって……一刀様は弱くなんかありませんよ! 一刀様の頼りになる所は、私も知っていますから」
「――――フォローしてくれて、ありがとう。けど、俺は弱いのを嘆いているわけじゃないんだよ。そういう弱い部分も含めて、俺なんだから」
「弱い部分も、含めて――――」
亞莎は、俺の言葉を噛み締めるように口に乗せて呟いた。そんな彼女に苦い微笑みを向けながら、俺は言葉を続ける。
「もし俺が、関羽を一撃で倒せるくらいの凄腕とか、相手の裏をかく知略を持っているなら、小細工なんかしなくてもいいんだろうけど……そんなものは持ってないしな」
「………」
「正々堂々は、大いに結構なことだと思うよ。ただ、どうしても勝ちたい時、勝たなきゃならないときは、面子に拘る必要は無いと思う」
「――――私だけの問題じゃないんですよね。呉の尊厳を掛けた戦いですし、策を弄するのは当たり前なんですね」
「もちろん、方法は選ぶ必要はあると思うよ。例えば、勝てないからって相手を毒殺するとか、そういった事は認められないと思う」
……いや、本当のところを言えば、乱世の世の中ならば、それも有りと考える者もいるだろう。ただ、孫呉の将にとっては毒殺というものは禁忌に近い言葉となっていた。
「勝つために最善を尽くし、最悪の方法を取らない――――…ありがとうございます、一刀様。私の進む道が、少し見えてきたように思えます」
「ん、そっか………それで、関羽に出す手紙については、どうするんだ?」
「手紙は…………出す事にします。悔しいですけど、今の私では関羽さんに勝てるか分かりませんから。ですから、あらゆる布石を置こうと思います……勝つために」
そう言うと、きりりと表情を引き締める亞莎。決戦を前に、良い感じで気を引き締める事ができたようである。
さて、亞莎が燃え始めた事だし…………俺も彼女の補佐として、全力を尽くすことにしよう。蓮華達の期待を裏切らないためにも、他ならない亞莎のためにもな。
「ああ、絶対に勝とうな、亜莎」
「はいっ、一刀様!」
俺の言葉に、笑顔を見せる亞莎。色々な意味で吹っ切れた様子の亞莎の笑顔に見とれながら、俺は来たる模擬戦への確かな手ごたえを感じていたのであった。
呉と蜀……双方の軍旗が立ち並び――――決戦の時を、今か、今かと待ちわびている決戦前。今回の模擬戦の場所は、蜀の首都である盛都であった。
地域的にはアウェーになる状況ではあったが、孫呉の将兵達に気負う様子は見て取られなかった。これならば、亞莎も充分に采配を振るうことが出来るだろう。
居並ぶ呉の諸将を前に、亞莎が進み出る。気負った様子も無く、しかし気迫に満ちた表情で、亞莎は皆を見回して口を開いた。
「今回の模擬戦においては、蓮華様の命により、私が大将を任ぜられました。若輩者ではありますが、全力を尽くそうと思います。皆さんも御協力をお願いします」
「はいっ、いっしょに頑張りましょうね!」
「………言われるまでもない。蓮華様直々の選抜だ、恥をかかす事の無い様にしろよ」
「まあ、いざとなったら儂が代わりに指揮を取っても構わんからの。失敗を恐れず、派手に立ち回れば良いさ。それで、布陣は決まっておるのか?」
亞莎の挨拶に、明命、思春、祭さんの順で口を開く。祭さんの質問を受けて、亞莎は一つ頷くと、模擬戦の布陣について説明を始めた。
「はい。今回の模擬戦において、我々は弧月陣で蜀軍と対峙します。左翼は明命に、右翼を祭さまにお願いします。思春殿には、本陣の前衛をお願いします」
「弧月陣じゃと……? 同数の兵で陣容を横に広げるとは……何を狙っておる? その布陣で行くのならば、本陣が心もとない事になると思うが」
弧月陣とは、いわゆる鶴翼の陣のような陣形であり、大兵力による包囲と、多数の兵力を活かした射撃戦に特化した陣形である。
広範囲に渡って陣を広げる分、陣容の密度は薄く、敵の突撃には、いささか不利になる陣容であり、祭さんの疑念も、もっともな事であった。
「はい、この陣形を見れば、関羽さんのことですから、まず間違いなく短期に事を決しようと、突撃をしてくるでしょう。それが狙いです」
「本陣を囮に、関羽をつり出そうというのか? 大胆な策だが、餌をちらつかせている間に、腕ごと食いちぎられる可能性もあると思うが」
「その為に、思春さんに前衛をお任せするんです。関羽さんの突撃に対抗するだけでなく、その勢いを受け流す事なんて芸当は、私にはできませんから」
「…………なるほど、責任重大だな」
亞莎の説明を聞き、思春が重々しく頷く。重要な場所を任されたということもあってか、その表情は、どことなく嬉しそうにも見えた。
「本陣は蜀の軍の攻撃を受け流しながら後退すると共に、左右両翼は軍を転進させ、蜀軍を包囲します。何か質問は?」
「あの、包囲すると言っても、もし蜀軍が兵を分けて左右両翼の押さえに回したら、どうするんですか?」
「その時は、包囲よりも目の前の敵軍の切り崩しを優先してください。ただ、兵力に差があるのならば兎も角、同数の状況で兵を分けるような事はしないと思いますけど」
「そうじゃな、兵はいたずらに分散させぬもの……相手に合わせて兵を分けるような愚は犯さんじゃろうが……まぁ、そうなった時の対処は心にとどめておこう」
明命の質問に亞莎が答えると、それを聞いていた祭さんが、もっともだという風に頷いた。
「それで、包囲についてですが……祭さまは本陣が敵と接したら、直ちに軍を返してください。明命は、祭さまの軍が動き始めてから、時間差で軍を動かしてください」
「……時間差で包囲を縮めるのか?」
「はい。包囲されてつつあると分かれば、関羽さんは脱出を図るでしょう。その際、明命の軍の動きが遅いと見れば、そちらから包囲を切り崩しに掛かるでしょう」
「囲まれているのならば、弱そうな部隊から切り崩すのは当然だな………それで?」
思春に先を促されて、亞莎はこの作戦の重要な点を口にする。
「その際、明命には単騎で関羽さんの捕獲を試みてください。脱出に気を取られているのならば、不意を打つことも出来ると思います」
「わ、わたしがですか!?」
「はい、この作戦は、関羽さんの捕獲に成功するかが成否を分ける部分だと思います。関羽さんを捕らえれば、蜀軍の士気も挫けると思いますから……お願いしますね」
「………分かりました! 任せてください!」
亞莎の言葉に、勢い込んで返事をする明命。その様子を見て、明命は全軍に号令を下した。
「では、全軍出陣です! 必ず勝ちましょう!」
亞莎の言葉に、居並ぶ諸将が気合の入った声をあげた。そうして、蜀と呉による模擬戦が始まる……双方共に武器を構え、勝利のために軍を前進させるのだった。
模擬戦
〜亞莎の真髄〜
自軍兵力 VS 敵軍兵力
10000 VS 10000
敵軍将軍:関羽
敵軍軍師:趙雲
選択可能武将:呂蒙(亞莎)・黄蓋(祭)・周泰(明命)・甘寧(思春)
晴れ渡った青空に、呉軍の勝利の雄たけびが響き渡る。模擬戦の最中に、関羽を捕らえる事に成功した事もあり、俺達は終始、模擬戦の主導権を握る事ができたのだった。
蜀軍も、趙雲を中心に頑張ったが、先手を取られたことが大きかったのか、散発的な抵抗に終わり、蜀軍の大将旗を奪うことが出来たのである。
「やりました、一刀様! 勝ちましたよ!」
「ああ、やったな、亞莎」
模擬戦に勝利して、はしゃいだ様子の亞莎。そんな亞莎の頭を撫でると、彼女は嬉しそうに俯いた。そんな風にじゃれ付いていると、明命が俺たちの方に駆け寄ってくる。
ずいぶんと慌てた様子だけど、何かあったんだろうか?
「あの、亞莎……蜀軍の関羽さんが、大将である亜莎に会いたいって言ってるんですけど……どうします?」
「へっ? か、関羽さんがですか!?」
そういえば、さっきの戦いの最中に、明命が関羽を捕獲していたんだっけ。模擬戦が終わっても、まだ蜀の自陣に戻っていなかったんだろう。
関羽が面会を求めている事を聞き、亞莎は大いに慌てたようであった。まぁ、気持ちは分かるけど。俺だって、いきなり有名人に面会を求められたら驚くだろうし。
「ど、どど、どうしましょう、一刀様……関羽さんが私に会いたいなんて、何か言われるんでしょうか?」
「んー、そうだな……会ってみても良いんじゃないか? どういうつもりかは分からないけど、文句を言いに来たってわけじゃないだろ」
「――――そ、そうですね。では、関羽さんを通してください」
俺の言葉に頷いて、亞莎は明命に関羽と会う事を伝える。明命は亞莎の言葉に頷くと、その場から離れ……それから直ぐに、関羽をつれて戻ってきたのだった。
黒く長い髪を束ね、大地を渡る風に靡かせながら、颯爽とした足取りで関羽はこちらに歩いてくる。緊張した様子の亞莎と向かい合い、関羽は静かに口を開いた。
「……貴公が呂蒙か。先だっては、挨拶の手紙を頂いたな」
「あ、は、はいっ……関羽さんの事は、武人として尊敬しています」
「ふ、そうか――――返事を出す事もせず、すまなかったな」
「い、いえ、そんな……もったいない御言葉です」
関羽の言葉に、照れた表情で顔を隠す亞莎。その表情を見て、関羽は興味深そうに微笑むと、僅かに悔いるような表情で、亞莎に頭を下げた。
「もう一つ、謝ることがある。この模擬戦、貴公の力を侮り、采配を怠ってしまった。武人として恥ずべき事だったと思う……許して欲しい」
「あ、あの………その事なんですけど」
「いや、慰めの言葉は不要だ。戦に負けたのはひとえに、私の驕りが原因なのだからな。いくら言葉を尽くしても、その事実は変わる事は無い」
関羽はキッパリとそう言うと、亞莎をまっすぐに見つめる。澄んだ瞳に宿ったその気迫は、亞莎を好敵手として認めたのか、強い力を宿していた。
「次の模擬戦では、私も力を尽くして応じよう。再戦を楽しみにしている」
「は、はい………私も、楽しみにしています!」
「いい返事だ――――では、私はもう行こう。次に会う時は、戦場でな」
亞莎の言葉に満足げに頷くと、関羽は踵を返し堂々とした足取りで蜀軍の陣の方へと歩いていった。彼女の姿が見えなくなってから、亞莎は緊張を解いたのか息をつく。
ずいぶんと気を張っていたようだけど……それでも、大将として関羽と対峙できた亜莎はすごいと思う。もし、俺が同じ状況になったら、ガチガチに緊張していただろう。
「ふぅ、凄い気迫だったな。関雲長の名は伊達じゃないって事かな」
「はい、そうですね。私も緊張しちゃいました」
俺の言葉に、コクコクと首を縦に振る亞莎。関羽と対面した緊張からか、頬が僅かに紅潮している。そんな彼女に、俺は明るい口調で聞いてみる事にした。
「それにしても、再戦を楽しみにしている、か…………すっかり亞莎の事をライバル視しちゃったみたいだな」
「らいばるし……?」
「好敵手として認めたってことだよ。次は本気でやるっていっていたし、強敵として認められたってことかな」
「そ、そんな……恐れ多い事です」
俺の言葉に、照れたようにそんな事をいう亞莎だったが、関羽に認められたことが嬉しかったのか、ほんの少し誇らしげのようでもあった。
「まあ、亞莎の実力が認められたのは嬉しいし、これで次の模擬戦は、全力の関羽と戦えるんだから良かったんじゃないか? 関羽を油断させた事を悔いてたみたいだし」
「………そうですね、実の所をいうと、少し楽しみなんです」
「お、いうなぁ。最初の頃の、関羽と戦うなんて無理って言っていたのが嘘みたいだな」
「……一刀様の、おかげですよ」
俺の言葉に、はにかみながら亞莎がじっと見つめてくる。自惚れなのかもしれないけど、その瞳には、俺に対する全幅の信頼がこめられているように思えた。
「俺のおかげ……?」
「はいっ。一刀様が、私の有り様を教えてくださいましたから……それが、私の自信に繋がっているんだと思います」
そう言うと、亞莎は輝くような笑顔を見せた。それは、固い蕾が陽の光を受けて華開くような……そんな、大輪の笑顔であった。
この模擬戦を通して、亞莎はまた一つ、成長したようである。この分なら、近い未来――――呉の大都督として彼女の名が上がる日も、そう遠くは無いのかもしれない。
――――終
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