〜史実無根の物語〜 

〜其の一〜



赤壁での戦いが終わり………魏を併呑して蜀と二分する――――天下二分の計は成った。しかし、それで全てが終わったというわけでもない。
併呑した領内の統治、肥大化した国力を内政に回し、緩やかに軍備の縮小を進める………時が過ぎ去っていき、気が付けば、雪蓮達の墓参りに行くことも少なくなった。
別に、彼女達のことを忘れたわけではない。ただ、彼女達の墓で泣くよりも、明日のことを考えることを、彼女達は望んでいると、俺はそう思っていた。

「ふぅ………疲れたな」

それでも、こうして机に向かっていると、時折、気持ちは過去へと飛んでいく。
雪蓮の笑顔、冥琳の聡明な顔――――…不思議なことに、失った瞬間のことよりも、日々の合い間………どうでも良いような瞬間の、彼女達の笑顔を心は覚えていた。
こんな時は、とても仕事が手に付かなくなる。仕事なんかで心を乱して、彼女達の笑顔を忘れるのが、もったいないと感じたからだ。

「どこかで酒でも拝借して、のんびりとするかな」

ここ最近は、のんびりと休む暇も無かったんだし、たまに休息をしても罰は当たらないだろう。
そんなことを考えながら、俺は部屋を出ることにした。今日は日よりも良い事だし、どこか外で、酒でも飲むことにしよう。



「ん〜、良い陽気だなぁ」

厨房から、酒を拝借して中庭に出てみる。おりからの陽気に当てられて、庭に植えられた花々は、多くが花を咲かせており、自然の美しさを主張していた。
目を奪われるほどの、鮮烈な色の花模様。これはお酒が、美味しく呑めそうだと適当な場所を探してうろついていると――――、

「あれ、祭さん?」
「おお、お主か。ちょうど良い所に来たの。一杯、やっていかんか?」

花の舞う庭の中にある、休憩の為の場所を………酒瓶で埋め尽くした先客がいた。普段なら、遠慮する所だけど、今日は呑みに来たんだし、断る理由はなかった。

「それじゃあ、お邪魔するよ。あ、そうだ、さっき厨房から、酒をくすねてきたんだけど、呑むかな?」
「おお、そうかそうか。気が効くのお。それでは一献………むぅ、それほど強い酒ではないな、これは」

俺から酒を受け取って、嬉しそうな顔を見せる祭さんだったけど、酒の中身を口にしたとたんに渋い顔になった。
俺にとっては、かなりキつめの酒なんだけど………相変わらずの酒豪っぷりだよなぁ。そんなことを考えながら、俺は祭さんに聞いてみる。

「祭さんは、いつからここに? 今日って、祭さんは非番なんだっけ?」
「なんじゃ? 儂が仕事を放って、こんな場所で酒をあおっていると思っておるのか、お主は?」
「いや、そこまでは思っていないけど………」
「案ずるな。仕事なら明命に任せておる。今頃はしっかり、街の警邏をしてくれているだろうよ」

酒瓶から杯に酒を注ぎながら、平然とそんな事をいう祭さん………って、やっぱりサボっているんじゃないか。
まぁ、俺も仕事をほったらかしにしているから、人の事は言えないんだけど………そんなことを考えていると、祭さんはふと、溜め息をついた。

「ふぅ………しかしな、最近はどうにも酒が美味くなくてな。別に、身体の調子が悪いわけでもないんじゃが………何故じゃろうな」
「…………まぁ、何となく分かるけどね」
「ほう、理由が分かるというのか? それなら是非とも、教えて欲しいものじゃが」

俺の言葉に、興味深そうに身を乗り出してくる祭さん。そんな彼女に、俺は笑いながら思ったことを口にしたのだった。

「祭さんの酒の美味しさの大半は、悪い事をしてしかられないかって、そんな事を考えながら呑む事にあるんじゃないかと思うんだ。禁忌は、甘美な味であるってね」
「ふむ………しかし、それなら、今までと何ら変わりがないと思うんじゃがな。別に、しかられるなどと考えた事もないしの」
「そうだね。まぁ、でも………強制的に叱る相手がいたからなぁ」
「――――…ああ、そうじゃな」

俺の言葉に、合点がいったように祭さんは頷く。こうして気ままに酒を飲む祭さんを、ひょっこり現われた冥琳がしかりつけて、口論になる。
そういったことが、祭さんにとっては酒の肴のようなものだったんだろう。何となく物足りなく感じている心が、お酒を美味しく感じられないでいたんだろう。

「まったく、冥琳のやつめ………儂の些細な楽しみまでも持っていくとはな。後々、文句を言わなければ、ならんじゃろうな」
「いや、それは無理だと思うよ。腕っ節ならともかく、口論で祭さんが冥琳に勝てるとは思えないし」
「なんじゃと? いや………確かに、それはそうかもしれんな。昔からあやつは、口が達者であったからのう」

そう言うと、祭さんは朗らかに笑う。昔を懐かしむような優しげな笑みに、俺も自然と笑顔になる。と、

「………お主は、そうして笑う事ができるのじゃな」

俺の笑顔を見た祭さんは、感心したかのように深く頷くと、一息に酒をあおった。祭さんの飲んでいる酒は、俺の持ってきた物よりも、何倍も強い酒のようだ。
だけど、そんな強い酒でも、祭さんは酔っていないようだった。酔わない体質なのか、それとも………酔おうとしても、酔えないのか。

「冥琳が逝き、蓮華様は、ずっと塞ぎこんでおられる。政務では目を見張るような働きをされるが………どこか無理をしておられるように思えるのだ」
「ああ、そうだな。蓮華や思春、他のみんなも、冥琳が亡くなったショックは、大きいと思うよ。祭さんも、そうして塞ぎこんでいるみたいだし」
「ぬかせ。誰が冥琳のことなどで落ち込まねばならんのだ。そういうお主はどうなのだ? 冥琳のことは、憎からず想っていたのだろう?」

聞き返してくる祭さんの言葉に、俺は冥琳のことを思い出す。誰よりも聡明で、国のために尽くした彼女………その生き様は、とても誇らしいもので、

「そうだな。冥琳のことは、愛していた――――いや、今でも愛していると思う」
「………そうか。野暮な事を聞いたようじゃな。許せよ」
「いや、良いんたよ。それで、俺がこうして笑える理由なんだけど、多分、それは………突き詰めれば、蓮華のためだと思う」
「蓮華様のため、じゃと?」

俺の言葉に、呆気に取られた様子で、祭さんは俺を見る。どうしてそこで、蓮華の名前が出てくるのかと、思っているようだった。俺は、頬を掻きながら口を開く。

「まぁ、理由は単純な事だよ。蓮華が冥琳のことを考えて落ち込むのなら、俺が蓮華の分まで、笑っていようと思ったんだ。それが、蓮華の負担を減らす事になるから」
「………そういう、ものなのか?」
「多分ね。雪蓮の時も、そうやって毅然として、蓮華を支え続けた人を、俺は知っていたからさ」

そう。雪蓮を失った時、多くの者が嘆く中で、もっとも近しい位置にありながら、嘆きも悲しみも、胸のうちに秘めた女性がいた。
彼女の苦悩や悲哀を考えれば、俺のやっている事など、大したことではないだろう。それでも、俺は彼女の代わりに、蓮華の支えになりたかったのだった。

「もちろん、冥琳の事は今でも忘れられないよ。だけど、頼まれたからさ………蓮華のことを。その為には、落ち込んでは、いられないからね」
「ふ………そうか。冥琳の見立ては、間違っていなかったということじゃな」
「間違いにならないように、努力はしているけどね。それはそうと、一つ、祭さんに頼みたい事があるんだけど」
「む? なんじゃ? 今なら機嫌も良いことだし、大抵の頼みごとなら聞いても良いが」
「昔の事を、教えて欲しいんだ………雪蓮と冥琳のこと。俺の知らない、二人に関する、色々な思い出を」

俺の言葉に、祭さんは息を呑む。故人の過去を語るのは、古傷を抉る行為に似ているのかもしれない。長い間、雪蓮や冥琳と共に居た、祭さんなら尚更に。
それでも、俺は知りたかったのである。思い出の中に生きる彼女達。その生涯を、もっと深く、理解したかった。
過去の思い出を色あせさせないためにも、昔の彼女達をもっと知って、思い出を美しく飾りたかったのだった。

「――――良いじゃろう、儂に二言はない。もっとも、酒の席の話だし、少々、尾ひれが付くかもしれんが、構わぬか?」
「ああ。構わないよ。俺も、面白い話の方が好きだしね」

俺が頷くと、祭さんは酒杯を持って一気飲みをする。そうして、大きく息を吐き出した。ただ一度だけ、鼻を鳴らしたのは涙を抑えるためだったのかもしれない。
だけど、そんな弱々しい所を見せる祭さんでもなくて………俺の方を向いた顔はいつも通りだった。そうして、祭さんは語りだす………彼女の知る、昔の思い出を。

「そうじゃな、あれは雪蓮様が、まだ童の頃の事じゃ………」

穏やかな風が吹き、木々に宿った花々を揺らして、花びらが舞う。陽気に満ちた庭先で、俺は祭さんと一緒に杯を傾けながら、彼女の思い出話に耳を傾けた。
過去の思い出を、未来への力に………雪蓮や冥琳の事を思い、彼女達のことを思い返しながら、俺は心の中が満たされていくのを感じたのだった。


――――終

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