〜史実無根の物語〜 

〜其の三〜



襄陽に立て篭もった劉表軍を撃破し、荊州一帯を手中にした俺達。しかし、間をおかずに、北方から二つの凶報が舞い込んできた。
一つは、襄陽陥落前に救援の使者を送られた劉備軍が、五万の兵を擁して、新野から襄陽に向かっているとの報告。
そしてもう一つは、北方の覇者、曹操が数十万という大軍を引き連れて、南下を開始したと言う報告であった。
この状況に対し、建業からは、柴桑まで撤退せよと言う命令が届く。曹操、劉備、そして、孫権と孫策……三つの勢力が覇を争う時期が、すぐそこまで近づきつつあった。



「……状況は、聞いての通りだ。劉備軍は既に渡河を終え、襄陽の北方至近にまで迫っている。曹操の方は、大軍故に動きも遅く、まだ猶予はありそうだが」
「では、劉備群とは戦わず、襄陽から撤収すると言うことでしょうか?」
「出来る事なら、そうしたいですね〜。こちらとしても、曹操さんと戦うときは、一兵でも多く要するべきでしょうし、それは、劉備さん達も一緒だと思いますよ〜」

亞莎の質問に、穏が応じる。その言葉を受けて、蓮華が重々しく頷くと、居並ぶ諸将を見渡し、新たに加わった荊州の諸将の前で視線が止まった。

「現状、戦うのは得策ではない。我々は、襄陽を引き払って柴桑まで移動することになるのだが……蔡瑁殿たちには、今後の身の振り方を選んでもらわねばならない」
「ふむ、身の振り方と言うと、どういったものでしょうか」
「我々は、襄陽から離れなければならない。そうなると、襄陽は曹操軍の侵攻の矢面に立つことになる。諸将は、我々と来るか、曹操に降るか――――」

蓮華の言葉に、荊州諸将の顔が強張った。襄陽や江陵に家族があるもの、また、荊州に愛着がある者は離れづらいことだろう。
しかし、曹操に降って、身の安全が保障されるとは限らない。かといって、このまま呉軍についていくのが得策なのか。そんな困惑が、ありありと顔に出ていた。
そんな困惑した諸将を前に、蓮華は淡々と言葉を続けた。

「……それとも、襄陽に近づいている劉備軍に保護を求めるか。私としては、これが一番、諸将に理があると思うのだが」
「おお」
「確かに、それが最上の案かと」

劉備の名を出した途端に、諸将の顔が、ほっとしたように和らいだ。やはり、劉備という存在は、荊州の人にとっても信頼に値する存在なのだろう。
口々に賛同の声をあげる諸将に対し、思春が面白くなさそうな顔をしているのが見えた。呉の諸将も、口にこそ出さないが、少々、不満そうな顔をしている。
蓮華と劉備……どちらを選べと問われた時、荊州の人からすれば、面識も薄い蓮華よりは、劉備を選ぶのは仕方のないことだと、皆、そのくらいは分かっている。

しかし、それでも不満と言うのは隠しきれるものではなく、無意識か、思春の手が剣の柄に掛かっているのが見えた。
そんな思春の動きを制するように、蓮華は静かな口調で、淡々と溜め息をつくかのように言葉を続けたのだった。

「我が軍と劉備軍は同盟関係にあることだし、諸将等の受け入れも、滞りなく行われるだろう。方針は以上だ。各自、撤退の準備に当たってくれ」

蓮華のその言葉で、軍議はお開きになる事になった。襄陽からの撤収のため、広間から諸将が三々五々に散っていく。
俺も、広間から出ようと踵を返したのだが……その場に留まって、なにやらひそひそと話している、荊州の諸将の様子が気になった。



新野より出立し、広大な河川の渡河を終えて、関の旗を先頭に押し立てた劉備軍が、襄陽の前に姿を見せたのは、それから一週間後のことであった。
呉軍は既に柴桑への撤退を開始しており、城に残っているのは数千足らずの兵のみである。殿となる軍を率いるのは、思春の役目であった。
この状況では、劉備軍から攻撃を受けたら、ひとたまりもない。その為、こちらに交戦の意思がない事を伝える使者が必要となった。

さて、その使者なのだが………こうして、俺が説明している状況で察している人もいるかもしれない。
そう、俺自身が停戦の使者として劉備軍の陣営にいく事になったのだった。このことに関しては、蓮華を始め、反対するものも結構いた。
とはいえ、全軍が撤収準備に掛かりきりになり、人手が足りないことと、思春が護衛役をかってでてくれた事で一応の納得を得たのだったが。

「さて、それでは行くぞ」
「あ、ああ」

数千の軍を城門前に展開させた後……思春と俺は、同じ馬に跨って、一騎で劉備軍の陣営に向かうことになった。
供の者を連れて行っては、かえって足手まといになるだろう。と、思春は言っていたが、目の前の5万もの大軍を見ると、流石に気圧され、不安になるのだった。
やっぱり、百名ぐらいの兵士は連れてった方がいいんじゃないだろうか……そんなことを内心で考えた、俺の不安を見抜いたのだろうか?
二人乗りの馬上で、俺の前に跨り、手綱を手に持った思春は、上半身をひねって振り向きながら、鋭い目を俺に向け、静かな声で問いを投げかけてきた。

「どうした、臆したとでも言うのか、北郷」
「そんな事はない……とは言えないなぁ。あれだけ凄い軍勢を目の当たりにしたら、流石に気後れするよ。なにぶん、自分の身を守れるほどの実力もないし」
「気後れする必要はないだろう。我が軍とて、陣容は負けてはいないし、北郷一人くらいなら、私が護ってみせる。貴様が死ねば、蓮華様が哀しむだろうしな」
「ああ、その点は信頼させてもらうことにするよ」

正直、一人だったらとても、あんな中に足を踏み入れようとは思えなかっただろう。普段、蓮華が護衛として思春を従えているのを、大げさだなと考えた事もある。
でも、こんな状況になると、護衛役という存在のありがたみというのは良く分かる。心細い時に、傍にいてくれる事は、思っていたよりも大切なことであった。

「では、行くぞ。それほど急ぐというわけでもないが、何かあったときに対処できるように、私の身体にしがみ付いていろ」
「あ、ああ……これでいいのか?」

バイクの二人乗りをする時のように、馬上で前に座る思春の背に身体を寄せて、腰に手を回す。普段なら、こんな事をすれば、刃を向けられるか投げ飛ばされるかだろう。
流石に、状況が状況ということもあり、思春は特に何も言わず、前を向き直ると、いつも通りの口調で淡々と言葉を言い放った。

「そうだ。単騎で近づく相手に、矢を射てくるような事はないと思うが……万一そうなった場合は、私から離れないようにしろ。しがみ付いている限りは、護ってやる」
「………つまり、振り落とされたら、助けてくれないってわけか。気をつけることにするよ」

容赦のない口調の思春に苦笑しながら、俺はもう少し強めに、思春に密着しておくことにした。思春も緊張しているのか、密着した部分から、早鐘のような鼓動を感じる。
おそらく、さっきの言葉は、緊張をほぐす為の思春なりの冗談だったんだろう。そんな事を考えていると、思春は手に持った手綱を一つ、強めに打った。

「はっ!」

思春の掛け声と共に、俺達の乗った馬は劉備軍の陣中に向かって駆け出す。殿の数千の軍が無事に撤退できるかどうか、正念場といえる状況が近づきつつあった。



劉備軍の陣に俺と思春の乗った馬が近づくと、陣中から一騎が俺達の行く手を遮るように進み出てきた。
その手に持った槍と、その身に宿る雰囲気から、かなりの使い手であるのが分かるが、何より目を引いたのは、進み出てきたのが見目麗しい美少女だという点だった。

「止まれ! それ以上進むとあれば、この趙子龍が、力尽くで止めさせてもらうことになるぞ!」

その言葉を聞いた思春は、一瞬、不機嫌そうに身体を揺らしたが――――挑発を真っ向から受けて、抜刀するような事はせず、馬の歩みを止める。
十メートルほどの間を空けて、趙雲と俺達は対峙をする。思春と趙雲の放つ覇気のせいか、一陣の風が、つむじを巻くように両者の間を駆け抜けていった。

「趙子龍か………相手にとって不足なし、と言いたい所だが……生憎、武を競いに来たわけではないのでな」
「そう言う貴様は、甘興覇か………孫呉の将軍が、何様でこの陣中に参った?」
「おおよその、察しは付いているのだろう。とりあえず、諸将に目通りを願いたい。我々は、戦う為に来たわけではないのでな」
「……我々?」

と、そこで、ようやく趙雲は、甘寧の後ろに俺が居ることに気が付いたのだろう。いぶかしげな瞳が、俺に向けられてきた。

「ああ、どうも……こんにちは、趙雲さん。北郷一刀といいます」
「これは……どうも、ご丁寧に。甘寧殿の伴侶ですかな? 随分と仲睦まじい様子ですが」
「断じて、違う」

即答であった。そう聞かれたときの為に、前もって用意しておいたんじゃないかという位の、素早い返答である。相変わらず、そっけない所が思春らしい。
その思春の態度が面白かったのか、趙雲は面白そうにクスクスと笑う。いつの間にか、両者の間に渦巻いていた殺気めいた気迫の渦は、雲散霧消していた。

「まぁ、そう言うことにしておこうか。いっしょに参られよ。陣中は私が案内をさせていただく。流石に、馬からは降りてもらうがな」

そう言うと、趙雲は馬首を巡らして、陣に向かって馬を歩かせていく。その様子を見ていた思春は、特に疑う様子もなく、後を追った。
馬を劉備軍の兵士に預けると、俺と思春は、趙雲の先導で陣の中を歩く。今日はここで夜営をするつもりなのか、そこかしこで兵士がせわしなく働いているのが見えた。
劉備軍の陣中は、何と言うか、一風変わった雰囲気である。活気があるのは呉軍も一緒だけど、何と言うか、緊張感と言うものが少な目のように感じられた。
炊事の途中や、馬の世話の合い間に馬鹿話をしているのか、そこかしこから楽しそうな笑い声が聞こえる。

「なんていうか、活気のある軍だよな。呉軍とは別の意味で、活き活きしているように感じるよ」
「………確かにな。とはいえ、我々が真似できる類のものでもないようだが」

周囲を見渡しながら呟く俺に、どこか落ち着かないといった様子で、思春が相槌を打った。生真面目な思春にとっては、この開放感はどうにも慣れないようであった。
それから、しばらく後…………趙雲に案内されて、俺と思春は一つの天幕の中に足を踏み入れた。周囲に護衛の兵が配備されているのを見ると、高官用の天幕らしい。
天幕の中には、何名かの少女達がいた。さすがに、外の砕けた雰囲気とは違い、緊張した様子で俺達を見つめてくる。
俺達の来訪は、前もって伝令か何かで知っていたのだろう。天幕に入ってきた俺達に、誰何の声をあげることもなく、黒髪の少女が一歩進み出て、口を開いてきた。

「そちらが、報告にあった者達か………我が名は関羽。劉玄徳の腹心にして、この軍を纏めている者だ。さっそくだが、来訪の理由を聞かせてもらおう」
「ああ。ええと、俺の名は北郷一刀。一応、停戦の使者として、ここに来たんだ」

と、俺がそう言うと、関羽と名乗った少女は、あからさまにムッとした表情でこっちを睨んできた。

「停戦だと? 襄陽の城門前に軍を展開させて、よく言ったものだ」
「まあ、あれは予防策みたいなものだよ。それに、あの軍は、君達と戦うために城外に出たわけじゃないからね」
「――――どういうことだ?」

俺の言葉に、怪訝そうな表情を見せる関羽。どうも、状況がこんがらがっているみたいだし、一から説明した方が良いのかもしれない。

「まぁ、その事だけを説明しても、多分、分かりづらいだろうから、順を追って説明しようと思うんだけど……いいかな?」
「…………そうだな。我々としても、色々と知らなければならないことがあるからな。皆も、それで良いか?」

関羽が周囲を見渡して聞くと、居並ぶ諸将は一様に頷きを見せた。と、そんな中で、俺の目は一人の少女に止まった。
他の皆が、武官ですといった格好をしている中で、大きめな帽子を被り、戦闘には向いてなさそうな衣服を身に纏った姿が、俺の目を引いたのである。
恐らくは、劉備軍の軍師なのだろう。そんな事を考えながら少女を見つめていると、向こうも俺の方に視線を向け、バッチリと目があった。途端、少女の顔が紅潮する。

「あ、あわ……」
「?」

俺と目が合うなり、その少女は、帽子で顔を隠してしまった。怯えさせてしまったんだろうか? ちょっと、ショックである。
まあ、落ち込んでもいられないし、状況の説明を済ませてしまおう。俺は、前に一歩進み出ると、周囲からの視線をなるべく気にしないようにしながら、口を開く。

「まず、俺達の軍なんだけど、建業から出立し、荊州全域を併呑、襄陽を支配下に置いた。で、俺達の侵攻に対し、劉表が劉備に援軍を求めた、で、合ってるかな?」
「ああ。劉表殿の救援要請を、我が主である劉玄徳は受けいれ、我々を派遣したのだ。それで、貴様達が襄陽を攻め落としたのは分かったが、劉表殿はどうなったのだ?」
「……劉表は俺達が襄陽攻めをするしばらく前に、病で亡くなっていたらしい。略式だけど、葬儀は行わせてもらったよ」
「――――そうか。もともと、老齢であられたからな。無理もない」

俺の答えを聞いて、関羽は沈痛そうな表情で視線を落とす。同じ劉性と言うこともあり、劉備とも親しかった劉表とは、関羽も面識があったのだろう。

「劉表殿の事は分かった。その御子息達や、荊州の諸将については、どうなっている?」
「劉表の子供達は、看視つきだけど危害は加えられなかったと思う。荊州の諸将達も、攻城戦で怪我をしたり、戦死した人を除けば、誰も処断されなかったよ」
「――――そうか」
「まぁ、詳しい事は本人達に聞いてくれればいいと思う。襄陽で、君達の到着を待ちわびているだろうからね」

と、俺がそう言うと、関羽をはじめ、劉備軍の面々は怪訝そうな顔をした。そんな彼女達を一瞥してから、俺は言葉を続ける。

「とりあえず、結論だけを言っておこう。俺達、呉軍は襄陽を放棄して撤収する。今、城門前にいる兵達は、殿の部隊だよ」
「撤退だと……? 攻め取った城を、放棄すると言うのか?」
「うん。まぁ、それどころじゃない事態が起こったからね――――みんな、驚かないで聞いてほしいんだけど」

僅かに起こったざわめきが静まるまで、一拍の間をおいて――――俺は、一つ咳払いをした後で、それどころじゃない事態を、劉備軍の諸将に伝える事にした。

「つい先日の事だけど、北方の曹操が、大兵力を率いて南下を開始したという報告があった。その兵力は………数十万と言うことらしい」
「なっ………数十万だと? そ、それは本当なのか!?」

俺の言葉に、諸将は驚いたように顔を見合わせる。ざわめきが湧き出した中、ひときわ大きい声で、俺に確認を取ってきたのは、険しい表情の関羽である。
願わくば、誤報であって欲しいという気持ちが、顔にありありと出ているのが分かる。そんな彼女を見据え、俺は一つ息を吐くと言葉を続けた。

「ああ。先鋒に猛将である夏候惇、夏候淵の部隊を先陣に推したて、火のような勢いで南下を続けている。君達の領地である新野の城も、危ないらしいよ」
「……新野が?」
「曹操軍は、ひたすら南へ進んでいる。俺達の予想では、新野、襄陽を陥落させて、そのまま東に進路を変え、呉の本拠地である建業を襲うだろうと読んでいるんだ」
「ふむ………では、曹操の進軍の矢面に立ったのは、我々ではなく、呉の面々と言うことか。正直なところ、ご愁傷さまとしか言えぬな」

俺と趙雲が話しているのを聞き、劉備軍の面々は顔を見合わせる。自分達が曹操軍の進撃の矢面に立たずに、ホッとした顔をしている者もいた。
しかし、先ほど俺と目が合った、帽子の少女は、顔を真っ青にしてカタカタと震えだしてしまっていた。

「あ、あわ………大変です」
「どうしたのだ、雛里? 顔色が悪いようだが……」
「もし、その話が本当なら………最悪の場合、新野が落とされてしまっているかもしれません。そうなったら、私達は孤立する羽目になってしまうんです」
「!」

雛里と呼ばれた少女の言葉に、関羽をはじめ、諸将の顔が強張った。劉備軍は、新野を橋頭堡に荊州に出陣してきている。
もし、新野を曹操軍が抑えると、関羽達の部隊は北方に曹操軍、東方に呉軍を抱えることになり、身動きが取れない状況になってしまうのだった。
襄陽に立て篭もって戦うという手もあるだろうが、それも有利かは分からない。生半可な数の兵なら兎も角、相手は数十万という報告があるのだ。
城塞ごと、一のみにされてしまう可能性もあるのだろう。険しい表情を見せる関羽達をに向け、俺は再び口を開く。

「まあ、そう言うわけだから、俺達は東に撤退して、そこで曹操軍を迎え撃つことになると思う。そこで、一つ提案なんだけど――――君達も一緒に来ないか?」
「………何だと?」

俺がそう申し出ると、関羽が怪訝そうな表情を見せた。いったい、何を企んでいるのかと、いぶかしんでいる様子である。他の面々も同様で、戸惑った顔を見せていた。
そんな彼女達を安心させるように、俺はなるべく、穏やかな笑顔を見せながら、更に説明を加えることにしたのだった。

「一応、互いの同盟は継続しているだろ? 同盟ってのは、共通の敵に当たるから意味があるわけだし、一緒に東に移動して、戦線を構築してくれると有り難いんだけど」
「共通の敵………つまりは、それが曹操軍といいたいわけか」
「ああ。もし、それが受け入れられないなら、船を出して河を渡って、江夏に向かってくれてもいい。襄陽にとどまるのは、一番、危険だと思うからさ」

曹操と正面衝突する赤壁付近の柴桑と違い、江夏はある程度安全な地域である。無論、いつまでも、そこに留まらせる訳にも行かないが、避難場所としては申し分ない。
俺の言葉に、関羽は悩むように眉をしかめるが、しばらくして………静かな口調で言葉を発した。

「ありがたい申し出だが、受け入れる事は出来ない。襄陽の救援が、我々の命じられたことだし、民を見捨てて逃げるのは、我が主である劉備の声望を損ねる事になる」
「………そうか。まぁ、無理に一緒に来いとは言わないよ。だけど、東に逃げる事はできるって事を、覚えておいてくれ。俺達は、君達の敵じゃないからね」
「――――ああ。北郷殿、といったな。その名、覚えておこう」

関羽はそう言うと、静かに微笑みを見せる。その後、殿部隊の撤収を劉備軍が追撃しないという確約を貰ってから、俺達は劉備軍の陣地から戻ることになった。
劉備軍としても、北方の曹操が動いた事を知り、俺達を追撃する余裕などなかったのだろう。
そうして、大きな妨害をされることなく、殿軍である俺達の部隊は、柴桑への撤退に成功したのであった。

その旅路の途中――――襄陽に入城した劉備軍が、荊州の武将達の襲撃を受け、江夏へ撤退した事を聞くことになった。
ただ、その後、襄陽に入城した曹操の軍が、荊州の諸将を処刑したと言う話は聞かなかったので、襲撃云々の話は、真実なのかどうかは微妙な所である。
曹操の性格からしても、救援を求めた軍を、手の平を返して追い返すような真似をする武将を、そのままにしておくとは思えなかった。
ともあれ、関羽達と荊州の諸将達との間に軋轢があり、劉備軍が江夏へ撤退した事は間違いがないようであった。

新野、襄陽は曹操軍の手に落ち、劉備軍は同盟勢力である呉の支配地・江夏へと撤退。江陵もまた、曹操軍の猛攻の前に、落城する事になった。
そんな曹操軍の猛進から辛くも逃れた俺達は、柴桑に到着し、建業から部隊を引き連れてきた雪蓮達と合流する。
曹操と戦うために、多くの兵力を柴桑に結集する呉軍――――にわかに活気に溢れるその場所で、俺は、意外な人物と顔を合わせることになるのであった。



柴桑に集まった呉軍の兵は十万余り。各地から集められた猛者達は、皆、目前に迫った戦を前に、思い思いの表情で戦支度を整えている。
魏軍の侵攻を防ぐため、前線となるであろう陸口の港には多くの船が集まり、殿として帰還した俺達は、大回りをして、九江から上陸することになった。
九江の港から、柴桑に向かった俺達。無事に柴桑の城門前に着いた俺達だったが、城壁に靡く旗の中に、珍しい名を発見し、目を見張ることになった。

柴桑に入城した俺と思春は、部下達に休むように命令すると、一路、城へと向かうことにする。前線の建設の為、多くの将兵は陸口に出払っているようであった。
今、呉の将で、この城に居るのは……君主である雪蓮と、冥琳だけらしい。近衛の兵に居場所を聞き、俺達は城の庭へと足を向ける。
緑に囲まれた庭のほうからは、朗らかな笑い声が聞こえる。声の方に向かってみると、雪蓮と冥琳が、客人と一緒に酒盛りをしているのが見えた。

「あ、一刀ぉー、おかえりなさい。思春も、ご苦労様。殿軍の任は大変だったでしょ。まだ曹操の軍が攻めて来るまで間があるし、身体を休めておきなさいね」

既に、良い感じに出来上がっているのか、ほろ酔い気分で杯を掲げる雪蓮。その様子に、冥琳は呆れ顔である。久方ぶりに見る光景に、どこか微笑ましい気分になった。
けど、そんな気分に浸る時間は、それほど長くはなかった。その原因は、雪蓮と冥琳の対面に座っている、三人の女の子にあった。

「ああ。ゆっくり休ませてもらうよ。けど、その前に気になったことがあってね。さっき、城門に劉旗が掲げられてたけど、やっぱり来ていたんだ」
「――――あの、こちらの方は、どなたですか?」

俺の言葉に、客人の少女は興味深そうな表情を俺に向けた後、冥琳に質問をした。他の二人も、俺に対して興味深げな目を向けてくる。

「…………我が国の将の一人、北郷だ。世間では、天の御遣いとしての方が、知名度が高いだろうがな」
「へえ、そうなんですか……朱里ちゃん、聞いた? この人が天の御遣いさんなんだって」
「一刀って呼んでくれれば良いよ。皆、北郷か、一刀って呼んでるからね。それで、雪蓮、何で劉備さんがここに居るんだ? もしかして、小沛が陥落したとか?」
「ううん。そう言うわけじゃないわよ。ただ、この娘の部下である関羽の為にも、ちょっと共闘することになってね」

雪蓮に聞いてみると、そんな答えが返ってきた。確か、関羽達は江夏に留まっているんだったな。曹操達の侵攻の矢面に立ってはいないものの、撤退できる状況でもない。
彼女達を無事に帰還させるには、曹操軍を破って追い返すしか手がないわけだが……劉備たちも、ただ、手をこまねいて見ているわけにも行かなかったのだろう。
そんな事を俺が考えていると、酒をあおる雪蓮の傍らで、ゆっくり酒盃を掲げていた冥琳が、面白そうに俺を一瞥した後で、からかうように言葉を投げかけてきた。

「……そういう意味では、北郷の手柄は大きいかもな。北郷が関羽を説得したおかげで、襄陽で関羽達が、曹操軍に蹂躙される事もなかったわけだからな」

加えて、そのおかげで劉備軍とも共闘が取れることになったのだし、とは、口にしなかったものの、冥琳がそんな事を考えているのは、容易に想像できた。
と、そんな冥琳の言葉に、劉備が驚いた様子で俺の方を見てきた。ぱちくりと、驚いたように瞬きをした後、劉備は冥琳に聞き返した。

「ほへ? そうなんですか?」
「ああ。北を曹操、東を我々に挟まれて、身動きが取れないと困っていた関羽に、江夏に撤退するように、申し出たらしい。まったく、お人良しとしか言いようがないな」
「――――そっか。それじゃあ一刀さんは、愛紗ちゃん達の命の恩人なんですね」

冥琳の言葉に、納得したように頷くと、劉備は俺に向き直り、深々と頭を下げてきた。

「愛紗ちゃん達を、助けてくれて、ありがとうございます。国の代表として、一人の義姉として、お礼を言わせてください」
「いや、そんな風に畏まらなくてもいいよ。俺としても、良かれと思ってやったことだからね、劉備さん」
「桃香、って呼んでください。愛紗ちゃん達の命の恩人だし、真名で呼んでくれた方が嬉しいですから」

そう言いながら、朗らかな笑みを浮かべる劉備――――桃香。せっかく、呼んで良いと言っているんだし、ここは呼ばない方が失礼だろう。

「ええと、分かったよ、桃香。まぁ、さっきも言ってたけど、気にする程のことじゃないから」
「そんな事ないのだ! 愛紗が助かって、鈴々もお姉ちゃんもホッとしてるし、お兄ちゃんに感謝をして、当然なのだ!」

と、桃香の隣に座っていた女の子が、意気込んだ様子でそんな事を言ってきた。もう一人の帽子を被った子が大人しそうなのとは対照的に、元気溌剌といった感じである。

「え、ええと、君は?」
「鈴々は張飛なのだ! でも、お姉ちゃんが真名で呼んでも良いって言ってるし、鈴々のことも、鈴々って呼んでいいのだ! それで、こっちは朱里!」
「は、はわ………こんにちは、諸葛孔明です。その、軍師をやってます」

鈴々に押されるように、俺の前に出てきた女の子は、わてわてといった様子で頭を下げる。その様子が微笑ましくて、俺は思わず、微笑みを浮かべてきた。

「ああ、よろしく、孔明さん」
「――――はぅ、あ、あの、朱里って呼んでください。主である、桃香様が認められた方ですし……その、嫌な感じはしませんから」

俺が笑いかけると、孔明こと、朱里は照れたように俯いてしまう。その様子が微笑ましくて、思わず笑みを深くすると、その様子を見ていた雪蓮が頬を膨らませた。

「ちょっとぉ、一刀ったら、少しは私を構ってくれてもいいじゃないの。まったく、可愛い娘を見ると、見境がないんだから」
「あ、ゴ、ゴメン」
「北郷、謝る事はないぞ。雪蓮の場合は、嫉妬で言っているのではなく、じゃれて欲しくて言っているだけだからな」

平謝りをする俺を見て、冥琳が呆れた様子で肩をすくめる。ここ最近は、充分に休養を取れたのか、その表情に翳りは見えなかった。
と、そんなやりとりをしている俺達が面白かったのか、桃香が楽しそうに笑みを浮かべる。鈴々も朱里も、つられてか穏やかな表情を浮かべていた。

「なんだか、仲がいいんですね、孫呉の人達は、怖い人ばかりだって愛紗ちゃんは言ってたけど……朱里ちゃん。これなら、さっきの話を受けても良いんじゃないかな?」
「……ええ、そうですね。現状、私達が今後も平和を得ようとするならば、最善の話であるかと」
「え、え? いったい何の話なんだ?」

桃香に話を振られた朱里が、真面目な表情で頷くが、今さっき来たばかりの俺には、何の話かさっぱりである。説明を求めるために、俺は冥琳に視線を向ける。
冥琳は、俺の視線の意味を察したのか、酒杯をテーブルの上に置くと、いつも通りの真面目な表情で、口を開く。

「今回、劉備殿達には、我々と共に曹操軍と戦ってもらうが、それと平行して、恒久的な同盟を結ぼうと提案をしていた所だ。天下を二分する為にな」
「つまりは、孫家と劉家による天下二分の計ってところね。今後は、二つの国で協力して、天下をとろうって話よ」

冥琳の言葉に補足するように、上機嫌な様子で、お酒をあおりながら、雪蓮が言う。その言葉を受けて、桃香が頷くのを見る限り、どうやら本決まりの話のようだった。
しかし、天下二分の計か……天下三分の計という物語を知っている俺としては、少々の違和感を感じざるを得ない話である。
まぁ、違和感っていう点だと、三国志の豪傑が、美少女ばかりっていう違和感もあるから、そう大したことじゃないのかもしれないけどな。
そんな事を考えながら、俺は何となく、桃香の方を見る。と、向こうも俺のことが気になっていたのか、俺のほうを見てきて――――バッチリと視線が合わさった。

「あぅ……」

目があったのが恥ずかしかったのか、桃香は照れたように俯いてしまう。と、そんな様子を見て、雪蓮が面白そうな表情を見せる。

「あら、桃香も一刀のことが気に入ったみたいね。ひょっとして、天の御遣いである、一刀の子種を授かりたいとか思ってるのかしら?」
「こ、子種って………そんな事、思ってませんよ〜。そりゃ、ちょっとは素敵かなって思ったりもしましたけど」

雪蓮の言葉に、照れたようにそんな事を言う桃香。しかし、面と向かって素敵とかいわれると、やっぱり恥ずかしいな。
まぁ、明命とか亞莎とかにも、素敵だって言われることがあるから、そこまで恥ずかしがることじゃないのかもしれないけど。
俺が、そんな事を考えていると……桃香の言葉を聞いた雪蓮が、からかうような口調で、桃香に語りかけながら微笑みを見せた。

「まあ、同盟をするわけだし、一刀に言い寄るくらいは、大目に見てあげるわよ。あ、でも、一刀の子供を最初に貰うのは、こっちだから」
「は、はぁ……そうですか」
「そうなの。蓮華には頑張って、一刀との間に世継ぎをつくってもらわなきゃね」

戸惑った様子で相槌を打つ桃香に、雪蓮は上機嫌でそんな事を言う。相変わらずの雪蓮の様子に、俺は苦笑したのだったが――――不意に、雪蓮が口元を押さえた。

「――――雪蓮、どうした?」
「うぷ………飲みすぎたのかしら。何か気持ち悪くなってきたー、冥琳、部屋まで運んでー」

飲みすぎたのか、気持ち悪そうにしながら、雪蓮は冥琳にしなだれかかる。何となく、羨ましいと思ってしまうのは、二人の仲に嫉妬しているからだろうか?
もっとも、雪蓮に寄りかかられている冥琳はというと、それほど嬉しそうでもなく、疲れたように溜め息をついたのだったが。半分は、照れ隠しなんだろうなぁ。

「……やれやれ。仕方がないな。すまない、劉備殿。今回の会談は、これで区切りとして欲しい。北郷、私達は席を外すが、良かったら、劉備殿の相手をしておいてくれ」
「――――ああ、分かったよ。雪蓮のこと、頼むな」

冥琳は、俺の言葉に頷くと雪蓮に肩を貸して、席を立つ。そうして、桃香達に一度会釈をしたあとで……冥琳は引きずるように、雪蓮を支えて歩き去っていったのだった。
雪蓮を見送っていた桃香達は、二人が居なくなると、安心したかのように肩の力を抜いた。慣れ親しんだ俺とは違い、あの二人を相手にすると、緊張するものらしい。

「ふぅ……なんだか、凄い人だなぁ、雪蓮さんって。君主らしからぬのに、君主っぽいって言うか……愛紗ちゃんがいつも言っている、雰囲気って、ああいうのかな?」
「いえ、流石に違うと思います。桃香様がああいう風になったら、きっと、愛紗さんは泣いてしまうと思いますけど」
「んー、そっかなぁ。一刀さんは、どう思います?」
「え、俺?」

唐突に話を振られた俺は、戸惑ったように瞬きをする。殆ど初対面の俺に、気さくに声を掛けるあたり、人懐っこい性格なのかもしれない。
そんな事を考えながら、俺は桃香の問いに頭をひねる。といっても、会話の断片だけでは、何を問われているのか、さっぱりだったのだが。

「――――まぁ、何の事かはよく分からないけど、雪蓮の行動を真似するのは難しいと思うよ。見ての通り、奔放な女の娘だからな」
「……ですよね」
「まあ、雪蓮には雪蓮の、桃香には桃香のいいところがあるんだし、そう気にすることもないんじゃないか?」
「そうなのだ! さすが、お兄ちゃん! いい事言うのだ!」

俺の言葉に笑顔で賛同し、抱きついてきたのは鈴々である。その様子を見る限り、どうにも気に入られ、懐かれてしまったようだ……悪い気はしないな。

「さて、冥琳にあとの事は頼むって言われたけど、これから桃香達は、何か予定があったりするのか?」
「予定? んー、何かあったっけ、朱里ちゃん」
「いえ、特にはありません。出立の日までは柴桑で寛いでくれと言われていますし、さしあたっては、どこかで食事を取るくらいでしょうか」
「……あれ? そういえば、雪蓮や冥琳は酒を飲んでたのに、君たちは飲んでいなかったな。お酒が苦手なの?」

ふと、気になって聞いてみると、三者三様の苦笑い。どうやら、あまり聞かれたくない話題だったようだ。

「苦手ってわけじゃないですけど……いつも愛紗ちゃんに、決して人前では、お酒を飲むなって言われてるんですよ」
「にゃー……お姉ちゃんの酒癖は、すっごく悪いから、仕方がないのだ。鈴々は、お酒が好きだけど、状況が状況だし、飲まないでくれって朱里に言われてるのだ」
「そ、それは仕方ありませんよ。愛紗さんを始め、武官の方のほとんどは、出払ってますし、こんな時に酔い潰れられたら、こまってしまいます」

桃香や、鈴々の言葉に、朱里が困ったような様子で、そんな事を言う。そういえば、関羽や趙雲を始めとする、他の五虎将軍は、江夏に居るんだったよな。
戦力が分散されてしまっているこの状況では、うかつに酒も飲めないだろう。色々と、大変な状況だな……劉備軍も。

「なるほどな……兎も角、これから昼食をとりたいってことだよな。だったら、俺が城下を案内するよ」
「え、一刀さんがですか?」
「ああ。一応、今は戦時中だし、君達だけで出歩くよりは、俺が居た方が色々と都合がいいだろうからね」

桃香の問いに、俺が笑顔で応じると、桃香達は微妙な顔。どうしたんだろうと思っていると――――不意に、背後からぼそりと低い声がした。

「随分と、乗り気なようだな、北郷」
「う、うわっ、いきなりビックリしたな。居たのか、思春」
「………居たも何も、ここに来る時に貴様と一緒だったはずだがな。まったく、若い娘を見ると、すぐに周りが見えなくなる男だな、貴様は」

驚く俺に、不機嫌そのものといった面持ちで、思春は襟首をつかんで顔を近づけてくる。その勝気な瞳が、真っ直ぐに俺を射抜いていた。

「うわー、ねえねえ、これって修羅場って言うのかな。さっきから、ずっと不機嫌そうだったし、あの人って、一刀さんの恋人さんかな?」
「この顔は、いつも通りです。決して、不機嫌になど、なっていませんので」
「ひゃわ? そ、そうですか」

ひそひそと、鈴々に話しかけていた桃香は、声が聞こえていたとは思ってなかったのだろう。思春の返答に、素っ頓狂な声をあげた。
そんな彼女から俺に視線を戻すと、思春は斬りつけるような口調で、俺の耳元で静かに言葉を囁いた。

「他国の娘にうつつを抜かすより、まずは呉国の為に、その身を使うべきだろう。あまり放蕩が過ぎるようなら、私の手で削ぎ落とすから、覚悟をしておけ」
「ちょ……削ぎ落とすって、何をだよ!?」
「さぁな。ともかく公謹殿から劉備殿の世話を任されたのだし、その任は全うしろ。無論、手をつけないように気を使ってな」

言いたいことだけ言うと、思春は俺を突き飛ばすかのように、襟首を離して解放すると……桃香達に一礼し、歩いていってしまった。
まだ、柴桑城内に入ったばかりであり、配下の兵士達の休息場所の手配や、軍編成のもろもろは手付かずだったし、それを処理しに行ったのだろう。
しかし、見事に釘を刺されてしまったな。まぁ、出会ったばかりで、そういった関係になれるはずも無いし、とりあえず、言われた通りに桃香達を案内するとしよう。

「さて、それじゃあ、行くとしようか。といっても、柴桑の地理に詳しいわけでもないし、屋台とかの食べ歩きになるけど、いいかな?」
「鈴々は、屋台とか大好きなのだ! お姉ちゃんも朱里も、構わないか?」
「うん、大丈夫だよ」
「そうですね……それほど多くは食べれませんし、極端に辛い味付けとか、そういったものじゃなければ、大丈夫です」

俺の問いに鈴々が賛成し、桃香も朱里も頷いた。訪ね終わってから、よくよく考えると……一国の君主相手に、食べ歩きを勧めるのは、拙かったかも知れない。
まぁ、本人達も同意してるし、大丈夫だろう。もし問題があったら、後で冥琳や思春に怒られるだろうけどな。

「そういえば、さっきの女の人なんですけど、放っておいて大丈夫なんですか? なんだか、凄く怒っていたみたいですけど」

と、俺が思春の事を考えていたのが顔に出ていたのか、桃香が心配そうな顔で聞いてきた。思春の怒りっぷりに、心配してくれたらしい。

「ああ、大丈夫だよ。あのくらいは、いつもの事だし、別に怒っているって訳でもなかったからな」
「そ、そうなんですか?」
「ああ。まぁ、厳しく叱ってくれてるって所かな? 桃香にも、そういう人はいるんじゃないか? 厳しいけど、本当は優しい仲間がさ」
「うーん……私にとっての愛紗ちゃんみたいなものなのかな? それにしては、なんだか厳しすぎるような気もするけど」

笑いながら言う、俺の言葉に、困惑したように桃香は首を傾げる。それから、俺は桃香達を連れて城下に向かうことにした。
まるでバケツのような大きさの丼のラーメンを食べる鈴々や、甘いものに舌鼓を打つ桃香と朱里。そんな彼女達と共に、俺は久方ぶりに、のんびりとした時間を過ごした。
三者三様の可愛さを持つ、彼女達との時間は楽しかったのだが……案の定、国主を連れまわしたことで、冥琳に説教を喰らうことになったのは、まぁ、別の話である。



柴桑に到着した俺達は、雪蓮の命により、休暇を貰うことになった。曹操軍との戦いの舞台、赤壁への橋頭堡となる陸口の港には一週間の休息の後、出立する予定だ。
殿の軍として強行軍を強いられていた俺達にとっては、身体を休めるためにも、休暇は必要不可欠なものである。
俺も、来たる決戦の時に備えて、充分に身体を休めるつもりではあった。もっとも、そうは問屋がおろさない事件が、人知れず起こっていたのだったけれど。
柴桑到着から3日目の朝――――目を開けたら、思春が俺に馬乗りになって、喉もとに刃を突きつけられていた。

「…………ああ、おはよう、思春」
「――――おはよう、と言うべきか……まったく、少しは焦るなり、怯えるなりしたらどうなんだ? 可愛げが無くなったものだ」

のんびりと挨拶する俺に毒気を抜かれたのか、思春は面白くなさそうに呟くと、喉にあてていた刃を離す。実を言うと、少しはビビッていた俺である。
その証拠に、普段なら朝に高確率で立ち上がっているものが、今朝はしおれている。思春のお尻が腹に当たっているにも関わらず、元気になる様子はなかった。

「まぁ、俺の可愛げはさておいて、こんなに朝早く、どうしたんだ? 今日は別に、仕事の予定とかはなかったと思うけど」
「ああ。特に予定は入っていない。ただ、公謹殿が貴様を呼んでいてな。話を聞いて――――」
「聞いて?」
「喉元に刃を突きつけたくなった」

危ない人のような事をさらりと言う思春。下手な事を言うと、また喉に刃を突きつけられるような気がして黙っていると、思春はムッとした顔で俺を睨んできた。

「まったく、いつかはこうなると思っていたが、やはり何となく腹ただしいものだな。まぁ、最初が雪蓮様であるだけ、ましと言うものだが」
「雪蓮………? 雪蓮がどうしたんだ?」
「――――私に聞くな。兎も角、起きて公謹殿のもとに行くんだな」

雪蓮の名前が出て、怪訝そうに聞く俺に、思春は投げやりに吐き捨てると、ベッドから降りて部屋を出て行ってしまった。
なんだか、様子がおかしかったけど、どうしたんだろう? 気にはなったけど、冥琳が呼んでいるといっていたし、そっちを先に済ませるべきだよな。
俺は眠たい目を擦ると、ベッドから出てのろのろと着替える。束の間の平穏な日々に浸っていたおかげか、なかなか目が冴える事はなかった。
半分、寝ぼけた状態で部屋を出ると、廊下を歩き出す。特にどこで待つとは言われてはいないし、多分、冥琳は執務室あたりにいるんだろう。

その予想に違わず、冥琳は城の執務室で一人、朝早くから書類に目を通していた。俺がノックをして部屋に入ると、冥琳は書類から目を上げる。

「おはよう、冥琳。俺を呼んでるって思春に聞かされたんだけど、何か様なのか?」
「ああ。そうだが――――北郷、随分と眠そうだな。眠りが浅かったのか?」

寝起きの俺を見て、冥琳は呆れたような表情になる。そんなに眠そうな顔をしているんだろうか? 俺は、目覚まし代わりに、自分で頬を叩いてみる。
眠そうな俺とは対照的に、冥琳は朝から元気そうである。もちろん、無理をしての空元気と言う奴ではなく、正真正銘の、元気一杯と言うやつだった。
なんだか、上機嫌みたいだけど、何かあったんだろうか? そんな事を考えている俺に、冥琳は笑顔を向けてきた。

「身体は大事にしろよ。今回の成果だけでなく、北郷にはこれからも、頑張ってもらわなければならないからな」
「……ああ。気をつけるよ。ところで、俺を呼んだのは、どんな用件なんだ?」
「――――すまない。柄にもなく浮かれていたようだな。実は、雪蓮の事なんだが――――ひょっとしたら、身ごもっているかもしれない」
「…………え?」

冥琳の言葉に、眠気が一気に吹き飛んだ。雪蓮が、身ごもる……って、妊娠してるって事、だよな。それって、つまり――――、

「俺の子、ってことか」
「ほう、それほど驚かないんだな、北郷。てっきり、誰の子かと騒ぐかと思っていたが」
「いや、いくら俺でも、そこまで無責任じゃないよ。それに、早とちりは、前の育児書の時だけで充分だからなぁ」

冥琳の言葉に、俺は苦笑して答える。冥琳の育児書選びの時に、誰の子供を産むんだと、取り乱してしまったのは恥ずかしい思い出だった。
それにしても、雪蓮が妊娠か――――確かに、避妊とかしてないことを考えれば、妊娠するのは当然の成り行きかもしれないけど、何となく実感の沸かないものだった。

「それで、妊娠は確かなのか? 医者の華陀がそう言っていたとか」
「いや、まだ医者には見せていない。雪蓮の性格からしても、医者に掛かるのは嫌がるだろうし、状況を見て判断しただけで、確かとは言えないが」
「それでも、ほぼ確実ってことか」
「ああ。月経も遅れているし、ここ最近、吐き気を訴える事が何度かあったからな。本人は、酒のせいと思っているようだが」

冥琳はそう言うと、肩をすくめる。そういえば、先日も、酒を飲みながら吐き気を訴えていたな。
雪蓮が悪酔いするなんて、珍しいこともあるものだと思っていたけど、妊娠したと言うのなら、頷ける話であった。

「それで、雪蓮には妊娠の事を伝えたのか?」
「――――いや、まだだ。実は、その事なんだが……」

と、冥琳が気遣わしげな表情で眉根を寄せたのはその時だった。いったい、どうしたと言うんだろうか?

「どうしたんだ? 何か気にしてるみたいだけど」
「ああ……雪蓮に伝えるにしても、どう伝えるべきかと思ってな。実の所、雪蓮自身は、身ごもるつもりはなかったのではと、私は危惧しているんだ」
「――――え?」

冥琳の言葉に、俺は目を丸くする。身ごもるつもりはなかったとは、どういう事なんだろうか?

「雪蓮の悲願は孫呉の復興と、その繁栄だ。復興こそ果たしたものの、繁栄という面では、いまだ孫呉は途上にある。領土や経済、それに跡取りなどの面についてもな」
「ああ、それは分かってる。けど、跡取りって言うのなら、雪蓮が妊娠をしたのは、喜ばしいことなんじゃないか?」
「――――平穏な状況ならばな。だが、今は曹操軍が大挙として攻めてきている時期……この時期に出産の為に身を休めることなど、雪蓮には出来ないだろうな」
「それって……身重の身体で戦場に行くって言うのか!? そんな無茶な……!」

妊娠した時期は、母体のためにも赤ん坊のためにも、安静にしなければならない時期である。
無茶が過ぎる話に、血相を変える俺。冥琳も気持ちは一緒だったのか、渋面で深く深く溜め息をついたのだった。

「前例はある。雪蓮の母御も、身重の身体で戦場に出たことが何度かあったそうだ。家臣達は、気が気ではなかったそうだがな」

無論、身重の身体で軍の先頭に立ったり、実際に剣を交えたりはしなかったらしいが……戦場という特殊な環境が、胎教に良いとは思えなかった。

「せめて、曹操の軍が攻めて来ていない状況なら、雪蓮も安静にしてくれるだろうが……国家存亡の危機に、他人任せで寝ていられるはずもないからな」
「そんな………何とか、説得できないのか?」
「――――私に、それをしろと言うのか?」

俺の言葉に、冥琳が苦悶の表情を見せる。普段の冥琳は決して見せない、弱気な表情に、俺は言葉を失った。

「辛酸を共に舐め、苦難を共有し、雪蓮の性根も願いも、何もかも分かっている私には……安静にしていろなどとは、口が避けても言うことは……できない」
「――――」

雪蓮と冥琳の付き合いは、俺が知るよりも遥かに長く、深いものなのだろう。相手の事を知り、信頼しているからこそ、いえない台詞もある。
だけど、それでも言わなければならない時もあるのではないかと思う。そして、その役目が冥琳に荷が勝ちすぎるのだとすれば――――

「分かったよ。それじゃあ、俺が言う」
「北郷…………しかし、それは」
「分かってるよ。雪蓮はきっと納得しないだろうし、反発するのは分かってる。けど、言わないと伝わらないと思うんだ。皆が、雪蓮の事を大事に思ってるってこと」
「――――」

冥琳は、俺の瞳をじっと見つめてくる。心底を見定めるような、深い冥琳の瞳を見返しながら、俺は、自らの思いを口にした。

「雪蓮が、皆を大切に思ってるように、皆も、雪蓮の事を大切に思ってる。雪蓮が無理をしたら、蓮華やシャオ、他にも気を揉む人が出ることを、知ってもらわないとな」
「――――ああ、そうだな。その通りだとも」

俺の言葉に、心底、同意するように冥琳が頷く。きっと、今まで同じような悩みを何度も抱える事になって、そのたびに悩んでいたのだろう。
険の取れたような表情で、肩の荷が下りたという風に、冥琳は俺に微笑んでくる。自分の代わりに、雪蓮を諫める事ができる相手を、待ち望んでいたのかもしれないな。

「雪蓮のこと、宜しく頼む。すまないな、面倒な役を押し付けて」
「面倒だなんて、思っていないさ。大切な、雪蓮のことなんだからな」
「――――ふ、そうか」

俺の言葉に、冥琳は笑みを浮かべる。自分で言っておいてなんだけど、流石に恥ずかしい台詞だったかもしれない。
そうして、俺は冥琳と別れると、雪蓮の姿を捜し歩くことにした。妊娠の事を告げ、できることなら安静にして欲しいと告げるためである。
冥琳の話によると、雪蓮は今朝から街に出かけているらしい。柴桑の街が、どの程度発展しているか見るためという名目らしいが……多分、遊びに行ったと見るべきだろう。

「雪蓮は、どこに居るんだろうな?」

俺は城を出ると、周囲を見渡しながら、街並みを闊歩する。戦の前と言うこともあり、柴桑の街中には、武装した兵士たちの姿も多く見える。
もっとも、実際に戦端が開かれているわけでもないため、空気が必要以上にピリピリしていることもなかった。
むしろ、普段よりも人通りが多い分、街並みに活気が満ち溢れているようにも見えた。そんな事を考えながら、歩いていた矢先である。

「かーずとっ」
「っと…………雪蓮」

楽しげな声と共に、背中を指でつんつんと突かれた。俺が振り向くと、そこには楽しそうな表情の雪蓮が、笑顔を見せながら立っていた。
俺が探し始めようとした矢先に、雪蓮の方が俺を見つけて近寄ってきたようである。正直、こうもあっさり会えるとは思ってなかったので、拍子抜けした気分だった。

「ちょうど良いとこであったわ。退屈しのぎに街に出てきたんだけど、やっぱり一人だと面白くないし、一緒に回りましょうよ」
「ああ。別に構わないよ。俺も、雪蓮と話したい事があったし」
「ふーん……それじゃ、行きましょ。通りの向こうに、美味しいお店があるって話を小耳に挟んだの」

雪蓮はそう言うと、俺の手を引いて、街並みを歩いていく。何と言うか、エスコートされているような雰囲気で複雑であった。
周囲からは、羨望の視線やら、嫉妬めいた視線やらが、あちこちから飛んできている。この城の住人の視線よりも、孫呉の駐留兵のものが多いようだった。
まぁ、住人からしてみれば、孫呉の君主が護衛の一人もつけずにホイホイ出歩いているとは、思いもしなかったのだろう。
孫呉の兵達はというと、雪蓮が俺を連れまわしているのが面白くない者も居るようだが……さすがに、恐れ多いと思ったのか、声を掛けてくる者は居なかったのだった。

さて、そんな視線の雨をかいくぐって、俺達は街角にある一店の料理屋の中に入った。
朝食の時間からは大分過ぎ――――まだ、昼前の時間帯ということもあり、店内には他に客はいなかった。
向かい合わせに席に座ると、俺は料理を、雪蓮は飲茶を注文した。まだ朝食もとってなかった俺と違い、雪蓮は食事を取ってから街に出てきたとの事である。

「で、私に話って……何? ひょっとして、相談ごとか何かかしら」
「んー、まぁ、そんなとこだけど」

雪蓮の言葉に、俺は言葉を濁す。まず、どうやって話を切り出すべきか、さすがに悩むところだった。そんな俺の様子を見て、雪蓮は面白そうに瞬きをする。

「何かしら? 蓮華との仲が上手くいってないとか、それとも、思春に迫られて困ってるとか?」
「いや、蓮華とは仲良くやってるよ。思春は……今朝も馬乗りになられたけど、別に困ったりはしてないかな」
「そう? それじゃあ、シャオがワガママ言って困らせてるとか、穏が書物を読むたびに、一刀を求めてきて疲れたとか?」
「んー……シャオのワガママは、俺としては可愛らしくて有りだと思うけど。穏の場合は……求められるのは嬉しいし、疲れるとは思わないな」
「じゃあ、明命に懐かれすぎて困ってるとか、亞莎に無理やりに迫って泣かせちゃったとか?」
「明命が慕ってくれるのは、純粋に嬉しいけど――――……って、亞莎に無理やり迫ったことなんてないよ。まぁ、迫ったことが無いと言うこともないんだけど」
「あら、そうなんだ。んー……それも違うとなると」

雪蓮は、腕組みをすると、うーんと、考えるように首をかしげる。何となく、声を掛けるのを躊躇っていると、雪蓮がポン、と手を打った。

「あ、わかった! 何か失敗して、祭か冥琳に怒られたんでしょ。分かるわ、あの二人のお説教って、けっこう堪えるわよね」
「いや、それも違うけど…………というか、何気に雪蓮が、俺の事をどう見ているのか、分かった気がするな」

まぁ、俺の日頃の行いが、節操のない点もあるんだけど……そんな事を考えて苦笑すると、雪蓮が降参とばかりに手を上げた。

「んー、分かんないなぁ……一刀、降参するわ。結局、相談ごとってなんなの?」
「ああ、雪蓮のことなんだけど」
「え、私?」

俺の言葉が意外だったのか、雪蓮はキョトンとした表情をすると、自分を指差す。俺が無言で頷くと、雪蓮は困惑した表情で首をかしげた。

「私は別に、一刀を困らせるような事をした覚えはないんだけど」
「ああ。別に困っているとか、そういうわけじゃないんだけど……雪蓮は、最近は身体の調子はどうなんだ?」
「――――」

俺がそう聞くと、雪蓮の表情が僅かに険しいものになった。真剣な表情で、俺を睨むように見つめてくる。

「誰に聞いたの……って、冥琳以外に居ないか。ここ最近の様子を遠征していた一刀に話せたのは、冥琳しか居ないしね」
「ああ、雪蓮の身体の事は、冥琳から聞いたよ。雪蓮も、自分の身体のことだし、薄々は気づいていたみたいだな」
「ええ……自分の身体がおかしいのは、何となく気がついていたわ」

静かな表情で言うと、雪蓮はポツリと、深刻な口ぶりで、俺に問いを発してきたのである。

「それで……私はあと、どのくらい生きられるのかしら」
「――――へ?」
「恍けないで。冥琳が言い悩むくらいの難病なんでしょ? 治るなんて期待はしてないわ。せめて、曹操との戦いが終わるまで持てばいいんだけど」
「…………」

雪蓮の言葉に、俺は目が点になった。何というか、ここまで噛み合っていない勘違いも、珍しいだろう。

「どうしたの? やっぱり、言う勇気がないのかしら? ……それもいいわ。後で冥琳に聞けばいいことだし」
「――――あの、雪蓮? ひょっとして、大真面目に言ってる、んだよな」
「………?」
「いや、何と言うか………雪蓮の身体が最近おかしい理由は、病気とかじゃなくて――――妊娠してるからだって聞いたんだけど」

俺がそう言った時の、雪蓮の顔は、ちょっと見ものだった。飄々とした表情でも、真面目な顔でも、怒った顔でもなく、呆然とした表情を、彼女は見せたのである。



「しかし、さっきの雪蓮の顔は見物だったな」
「あー……もう、その事は良いじゃない」

少々遅めの朝食を終え、食後に雪蓮と飲茶をしながら、俺と雪蓮は話に花を咲かせていた。話題は、先程の雪蓮との会話についてである。
普段は飄々とした顔で、俺をからかう事の多い、そんな雪蓮の呆けたような顔を見るのは珍しく、俺にとっては話のネタになるのだった。
が、自分の失態を掘り返されたくないのは、誰でも同じであるらしく――――…

「いや、やっぱり珍しいしさ、この話を冥琳とかに話したら面白――――痛っ!」
「それ以上言ったら、張り倒すわよ」
「いや、もう張り倒されてるけど」

席を立ち、俺の傍に歩み寄った雪蓮に、後頭部を叩かれた俺は、良い音を立てて机に突っ伏すことになった。普段は普通に接しているけど、力を込められると痛いな。
額をさすりつつ、身を起こした俺。雪蓮は、向かいの席に戻るのではなく、ふてくされたような表情で、俺の隣に座った。
まるで子供のような仕草に、俺は苦笑をすると、雪蓮の機嫌を損ねた事を素直に謝ることにした。

「ごめん、悪かったよ。確かに、人に言うべきことじゃなかったよな。とりあえず、なるべく早く忘れる事にするから、機嫌を直してくれよ」
「………本当に?」
「ああ。雪蓮の恥を言いふらすような事は、俺としても本意じゃないしな」
「そうしてくれると、嬉しいわね。まぁ、忘れられないようなら、実力行使もありかと思うけど」

と、そんな事を言いながら、ニッコリと笑う雪蓮。正直、その笑顔が何となく怖い。実力行使って、頭を殴って記憶を飛ばそうとでも言うんだろうか。
冗談めいた、洒落にならないことでも、雪蓮なら本気でやりそうな気もする。何かの気まぐれで、実力行使に出ないことを、祈ることしか出来ない俺であった。
それにしても……雪蓮と俺の子か――――いったい、どんな子が生まれるんだろうな? 横に座った雪蓮の腹部を、俺は、何とはなしに横目で見る。
そんな俺の視線に気がついたのか、雪蓮は口元を綻ばせると、太腿の部分をポンポンと叩いた。

「私のお腹、気になるみたいね? ちょっと、聞いてみる?」
「え、でも………なんだか恥ずかしいな」
「照れない照れない。どうせ誰も見てないんだしさ。ほら」

急かすように雪蓮に言われ、俺は膝枕をしてもらう時のように、身体を横にすると、雪蓮のお腹に耳を付けてみる。
赤ん坊の発する鼓動は耳に届かなかったけど、こうしていると、とても心地よい気持ちになれた。まるで、母さんに抱かれているような感じ。
こうしていると、雪蓮もお母さんになるんだなと、しみじみと実感できた。

「ふふ、こうしていると、一刀も可愛いわよね。いつもは生意気盛りで、やんちゃな子だって思ってたけど」
「やんちゃ……って酷いな。俺はそんなに子供じゃないと思ってるんだけど」
「私にしてみれば、一刀はまだまだ子供よ。蓮華やシャオもそうだけどね」

そんな言葉と共に、俺の頭に雪蓮の指先の感触。どうやら、上機嫌で俺の髪を梳いているようであった。
子ども扱いされるのは、何となく癪だったけど、こうしている時間は、嫌いではなかったので、しばらくの間、俺は雪蓮のお腹に耳をつけて、流れる時間を過ごしていた。



「……さて、そろそろ起きないとな」
「あれ? もういいの? ずっと甘えてくれてよかったのに」

それからしばらくして――――そろそろ離れようと、俺が身を起こすと、雪蓮がそんな事を言ってきた。
そう言ってくれるのは嬉しいけど、さすがにいつまでも、甘えてはいられない。それに、雪蓮に言うべきことが、俺にはあったのだ。

「まあ、甘えるのは後でも出来るから……それより、雪蓮。俺がこの事を伝えたのは、雪蓮には、柴桑に残って安静にして欲しいと思ってるからなんだ」
「――――赤ちゃんの、ことね」
「ああ。曹操の軍が迫ってきているのは分かっているけど、子供の居る身で戦場に出たらまずいことは、雪蓮も分かるだろ」

俺の言葉に、雪蓮は考えるよな仕草を見せる。それから一分ほど、考え込んでいた雪蓮は、俺の問いにイエスともノーとも言わず、ポツリと呟きを発した。

「……なんだか、実感が沸かないものね。私がお母さんになるなんて」
「それは俺も同じだよ。正直、親になるっていっても、実感が沸かないものだよな」

雪蓮の言葉に、俺もしみじみと同意する。さんざん、そうなる要因の行為をあちこちでしているのだけど、実際に子供が出来たとなると、戸惑いが先にたつ。
親になるってことに、不満や不安があると言うよりは……どうにも実感が沸かないというのが今の心境だった。
多分、これから先、子供が産まれるまでの間に実感が沸いてくるのだろうけど。今は、手探りな心境だというのが現状だった。

「あ、そんなこと言うんだ、傷つくなぁ……お父さんは、責任を取ってくれないのね」
「いや、そんなこといってないって!? 雪蓮の事は大切だし、赤ちゃんが産まれるのは嬉しいって思ってるんだし!」
「あはは、そんなに慌てなくてもいいのに。冗談よ、じょーだん。一刀が喜んでくれてるのは、さっき、お腹に耳を当ててるときに分かってたからさ」

慌てる俺の様子がおかしかったのか、雪蓮はケラケラと笑いながら、そんなことをいう。
どうやら、さっき俺がからかったことへの意趣返しらしい。俺が憮然とした顔をすると、雪蓮は笑顔を引っ込めて、静かに言う。

「それは兎も角、戦場には出るつもりよ。少なくとも、今回だけは譲るつもりは無いわ」
「曹操との……戦か」
「ええ。地方の豪族相手なら兎も角、今回の相手が別格なのは一刀も分かっているでしょ? 総力を挙げた戦のときに、私だけ後方でのんびりしているわけには行かないわ」

その言は、多分正しい。今回の曹操の大遠征は、軍の規模も編成も、今までとは別格である。
有名な三国志の話のような、百万の軍勢という程ではなくとも、こちらの数倍の兵力があるのは、斥候により分かっている。
そんな大軍を迎え撃つというときに、雪蓮という精神的支柱がなければどうなるか……正直、想像すると気が重くなる。
だけど、雪蓮を戦場に立たせるのは、それでも反対だった。良識とか、常識とか、といった事はどうでもいい。
ただ、彼女には、もっと仲間を頼ってほしかった。彼女がこれまで皆を支えてくれたように、俺達もまた、雪蓮を支えたいと思っていたのだから。

「雪蓮の気持ちは分かる。だけど、今回は俺達に任せてくれないか?」
「……無理ね。率直に言うと、蓮華では曹操に対抗できるか分からないわ。私でないといけないのよ」
「そんなことは、ないだろ。蓮華だって成長しているし、皆で力を合わせれば、きっと曹操にも対抗できる」
「――――…」

俺の言葉に、雪蓮は黙り込む。ここ最近の蓮華の成長を思い返し、思考を巡らせているんだろう。
そんな彼女に、俺は畳み掛けるように言葉を続けた。

「少しは、信じてみてもいいと思うぞ。雪蓮が立ち上げた孫呉と、その旗の下に集った皆の力をさ」
「信じてないわけじゃないわよ。でも」
「不安なのは分かるさ。でもな……正直、雪蓮は凄いと俺は思うよ。この国がここまで大きくなったのも、雪蓮の力があってのことだと思う」

そう、他の誰でもない。雪蓮がいたからこそ、呉という国は大陸に覇を競う強国になり得たのだ。そこは、誇って良いところだと思う。

「だからさ、その国を、ほんの少しだけ信じてくれても良いと思う。ここには、雪蓮の築いた礎が、仲間がある。曹操にひけを取るとは思わない」
「…………」
「俺も、頑張るから、今回は安静にしてくれないか? 雪蓮に惚れてる俺としては、やっぱり、後方にいてくれた方が安心できるんだけど」

俺の言葉に、雪蓮は無言。そうして、しばらくしてから、雪蓮はキッパリとした口調で、

「一刀の言いたい事は分かったわ。でも、桑柴には留まらないから」
「……雪蓮!」
「そんな顔はしないの。誰も、戦の前線に立つとは言っていないわよ」
「――――え?」

雪蓮の言葉に、ポカンとなる俺。そんな俺に、しょうがないなあといった苦笑を浮かべながら、雪蓮は肩をすくめた。

「一刀は、戦の時には後方にいるんでしょ? だから今回は、私は一刀の傍で状況を見守ることにするわ。そうすれば、いざという時、すぐに動けるわけだし」
「だけど、それは――――」
「私が、のんびり後方の城で、じっとできる性格だと思うの? これでも、譲歩したつもりなんだけど」
「う」

ふくれっつらになる雪蓮を見て、俺は考える。冥琳に約束したのは、雪蓮を戦場に立たせないということ。
雪蓮にしてみれば、国家の一大事に後方でじっとしていられるかー、ということ。この二つは、結局のところ、両立は出来ない部分だった。
俺のいる部隊は、戦の時は後方に控え、補給運搬を担当する部隊であり、いざという時の予備戦力でもある。
実際に、戦に参加する事は稀であり、状況さえ悪化しなければ、戦場にありながら、後方と同じ状況といえなくもなかった。
確かに、譲歩といえなくもない……というか、これで断って、雪蓮が意固地になったら、ますます揉めそうな気もするな。

「はぁ……しょうがないな。雪蓮のことだし、断っても聞くとは思えないしな」
「そういうことよ。分かってるじゃない」
「まあ、惚れた弱みって奴だな。もっとも、今度は冥琳を説得するのが大変そうだけど」

雪蓮を戦場に出さないという前言を撤回して、彼女の擁護に回るわけだし、失望されるか罵倒されるくらいの覚悟はしなきゃならないけど。
まぁ、悪役になることくらいは何て事はないな。俺が責められることより、雪蓮と冥琳の仲が悪くなる方が、俺にとっては辛いことなんだから。

「大変よねー。頑張ってね、一刀」
「………って、軽く言わないでほしいんだけどな」

楽しげな様子で、俺の肩をばしばしと叩く雪蓮。そんな彼女の様子を微笑ましく思いながら、俺は城に帰ったら、まずは冥琳にことの次第を説明する事にしようと思った。
その後、しばらくの間、雪蓮と茶飲み話をして時間を潰した後で、俺と雪蓮は城に戻ることにした。

「じゃあ、また後でね」

雪蓮はそう言うと、城の廊下を歩いていってしまう。互いに少し休憩した後で、冥琳のもとに行こうという話になったのであった。
正直、頑固さで言えば雪蓮も冥琳も、負けず劣らずだし――――なんとか、お互いが譲歩できる部分で話がつけばいいんだけど。
そんな事を考えながら、俺は部屋に戻る。そうして、半刻ほど時間を過ごし、そろそろ雪蓮のところに行こうかと思った矢先であった。

「かずとぉ〜……」

と、なにやらどよーんと落ち込んだ様子の雪蓮が、ノックもなしに扉を開けて、部屋に入ってきたのである。

「ちょ、いきなりどうしたんだよ、雪蓮――――って、酒くさっ!?」
「うっさいわねー、飲まなきゃやってられないってのよ〜……う〜」

そういうと、酒瓶片手に、なんだか猛獣のような唸り声をあげる雪蓮。いったい、俺が知らないうちに何があったんだろう?
おおよそ、考えれる範囲で予想するとなると……城に戻るなり、冥琳と鉢合わせして口喧嘩になったとか、くらいだろうか?

「いったい、どうしたんだよ? 戦場に出るかどうかってので、冥琳と口論にでもなったのか?」
「そんなんじゃないわよ、ただ……」
「ただ?」
「――――きちゃったのよ、月のものが」

そういうと、雪蓮は気まずそうに顔を逸らす。月のものって、ええと、月経というか生理というか、それはつまり――――。

「……ドウイウコトデショウ?」
「それは、私が聞きたいのよ! いったい誰よ、私が妊娠してるなんて言ったのは!」

呆然とする俺に、つかみ掛かりかねない剣幕の雪蓮。おーけー、落ち着け、クールになるんだ北郷一刀。
つまりあれだ。生理が来たって事は、雪蓮は妊娠してないわけで、戦場に出る出ないの話は、立ち消えになったと思っていい。
そもそも、妊娠だという話は、冥琳に聞いただけで、確証がなかったからな。それでも、妊娠しているものだと思ってたのも確かだけど。
しかし、そうか――――結局のところ、冥琳の早とちりだったわけか。でも、雪蓮はどうして怒っているんだろう?
妊娠がデマという事なら、戦場に行くのに支障はなくなるはずだし、喜んでも良いものだと思うんだけど。










戻る