〜史実無根の物語〜 

〜其の一〜



――――外史における、改竄の可能性の示唆を行います、よろしいですか?

<是>

通信配界内より提案された、呉国の物語における、孫策<雪蓮>、周瑜<冥琳>の生存の可能性についての定義を開始します、よろしいですか?

<是>

物語内における、必要不可欠な要素として、孫策<雪蓮>の死。それについての真逆の可能性の示唆は、史実上不可能とされています。
孫策<雪蓮>に放たれた矢は毒性の強いものであり、その場での治療は不可能、時間経過と共に確実に死に至ります、よろしいですか?

<否>――――治療を受けられる可能性について。ひそかな護衛など、治療できる者が近辺に在る可能性を示唆。

検討します………不可。護衛に感づかれないように、孫策<雪蓮>は行動しています。周瑜<冥琳>も、孫策<雪蓮>の行動をつかみかねています。
護衛の無い状況での、負傷と絶命――――これは、物語における大前提であり、覆すことは不可能となります。

<否>――――状況はともかく、負傷については一行の余地あり。放たれた矢が外れるという可能性を示唆。

検討します………………不可。飛来する矢については、筋書としての力が上乗せされており、これは対象に<必ず命中>します。天命の一矢として認定されています。
孫策<雪蓮>が気づき、回避をする可能性はありません。天命に関し、彼女に抗うすべはありません。孫策<雪蓮>の死は、認定されたものになっています。

<否>――――可能性の再考を求む。彼女が気づかず、矢が放たれないという可能性を示唆。

不可。物語の主軸となる出来事のため、必ず起こりえることとなります。矢が放たれ、孫策<雪蓮>に命中し、命を落とすのは一連の流れです。

<否>――――認めたくない。彼女の生存を求む。
<否>――――雪蓮が死ぬ場面を見たくはない。彼女と共に生きていたい。
<否>――――こんな筋書きで、彼女が死ぬ事は間違っている!
<却下>――――あらん。だったら、わたしはこうすればいいと思うんだけど。

――――孫策<雪蓮>における、可能性の審議を終了。北郷一刀のその場の行動を上書きします、よろしいですか?

<是/否>――――?
<了承>――――認めましょ。ご主人様の、乙女演技5番目の過程を終了している事を条件付けに、孫策<雪蓮>の回避判定に改竄を要請するわん。

検討します……………………検討を繰り返します…………………可能です。北郷一刀の介入を持って、天命の一矢を回避する事は可能です。
しかし、物語の改竄は、当人にも負担が及びます。最悪の状況の場合、北郷一刀が死亡する可能性もあります、よろしいですか?

<了承/却下>――――それを決めるのは、わたしじゃないわ。どうするの、ご主人様?
<是/否>――――あんたは、いったい……?
<了承/却下>――――単なる通りすがりの絶世の美女よぉん。それより、本当にどうするの? 場合によっては、ご主人様の身が危うくなるんだけど。

<是>――――………それでも俺は、彼女を助けたい。

認証されました。回避判定の上書きにより、孫策<雪蓮>の死亡判定を消失。以後の筋書きは三国志演義の赤壁の章までを参考に構築しなおされます。
また、孫策<雪蓮>の死亡によって付けられる条件付け、周瑜<冥琳>への病魔の体力減少判定も消失しました。これにより、周瑜<冥琳>の死亡判定も消失します。

――――それでは、外史を再開します。願わくば、貴方の物語に幸せがあらんことを。


<共通項・第六章・一節>

「――――ずと、かーずーとー!」
「っ……!?」

不意に襲われた軽い眩暈から覚めると、目の前には雪蓮の顔があった。なんだか険しい顔をしているけど、どうしたんだろうか?

「な、何だ? どうかしたのか、雪蓮」
「それは、こっちが言いたいんだけど……急に足を止めたと思ったら、ボーっとしちゃって……ひょっとして、疲れてるの?」
「いや、そういうわけじゃないと思うんだけど――――」
「もう、しっかりしてよね。いまからこっそり、城から抜け出なきゃいけないんだから」

そう言うと、雪蓮は呆れたように肩をすくめる。先程、雪蓮に誘われた俺は、彼女に手を引かれて城下町に出てきたところだった。
歩いている途中で、足を止めて呆けてしまっていたのか、周囲の人々から奇異の視線を向けられている。そんな周囲に愛想笑いをしながら、俺は雪蓮に謝る事にした。

「ごめん、気を抜かないように気をつけるよ。お忍びの行動だったんだっけ」
「ええ。護衛なんてめんどくさいし、そんな気の効かない連中より、一刀を連れて行った方が楽しいからね。冥琳や蓮華は、あまり良い顔はしなかったけど」

飄々とした笑みで、雪蓮はそんな事をいう。しかし、冥琳を相手によく我を通せるよなぁ。俺だったら萎縮して、自由気ままになんて振舞えないだろう。

「さぁ、それじゃあ行くとしましょうか。目的地までは、そう遠くでもないから、歩いていく事にしましょ」
「ああ………そういえば、聞いてなかったんだけど、結局、どこに連れて行こうっていうんだ?」
「それは、な〜い〜しょ♪」

俺の質問に、雪蓮は微笑みを浮かべると、俺の手をつかんで歩く。色々と聞きたい頃はあるんだけど、こうして手を握られていると、疑問を聞く気もなくなってしまった。
遊びに連れて行かれるのか、それともこれは、逢引と呼べるのか……そんな浮ついた気持ちになるのは、相手が雪蓮だからだろう。
自由気ままで、奔放な江東の風のような雪蓮は、ただそこに居るだけで、俺の気持ちを捕らえて離さないのであった。



雪蓮の先導で向かった先は、城下から少し離れた森の中だった。生い茂った木々の合い間を縫うように整備された道を、俺の手を引いて歩く雪蓮。
迷いも無く、道の先へと歩いていく雪蓮。何となく、声を掛けるのが憚れるような雰囲気に、俺は黙って彼女の後に付き従って歩いていた。
人の気配の無い森の中で、雪蓮と二人っきり………つい先だっての、雪蓮との逢瀬のことを思い出して、俺は何となく気恥ずかしくなった。
雪蓮の肌の感触、唇の柔らかさ、甘い香りなどは今でも鮮明に思い出すことが出来る。こうして二人っきりになっているんだし、雪蓮も少しは恥ずかしいんだろうか?

「さぁ、ついたわ。ここよ」
「っと………ここは?」

何となく、甘い展開を期待していた俺であったが、雪蓮の方は、俺の気持ちに気づいてはいないようであった。唐突に足を止めた雪蓮につられ、俺も停止する。
耳に聞こえてくるのは小川のせせらぎ――――森の奥に足を踏み入れた俺達の目の前には、小さな川が水を湛え、サラサラと流れている。

「へえ、なかなかに良いところじゃないか。ここが目的地なのか?」
「ええ、そうよ。ここは、母様の眠る場所なんだ」
「……え」

雪蓮の言葉に、俺は目を瞬かせる。眠る場所………その言葉の意味を知るのに、数秒の時が掛かった。つまり、ここに来たのは……墓参りの為なのか。
周囲を見渡すと、道の端に、小さな墓標があることに気がついた。雨風に朽ち、周囲には雑草が生えて、打ち捨てられたかのように朽ちた墓標。
雪蓮は懐から布を取り出すと、小川の水に浸して墓標を磨き始めた。それを見て、俺も手伝おうと思い、雪蓮に向かって歩み寄った。

「俺も、手伝うよ」
「…ん、ありがと」

雪蓮と共に、時間をかけて墓標を磨き、周辺の雑草も刈り取っては横に除ける。そうしているうちに、汚れていた墓標の周囲は、徐々にではあるが変わっていく。
そうやって、雪蓮と穏やかな時間を過ごしながら、どうにか墓として、申し分ない状況に戻す事ができたのであった。

「……よし、これでいいだろ」
「ええ、ありがとね、一刀、手伝ってくれて」
「これくらい、どうって事ないさ。それに、雪蓮のお母さんのお墓だし、手伝ってあげたいと思うのは当然だろ」

俺がそう答えると、雪蓮は嬉しそうに顔を綻ばせた。その笑顔を見ているだけで、手伝ってよかったなという気持ちになる。

「それにしても、雪蓮のお母さんか……噂に聞く限りだと、かなりの女傑だったらしいな」
「ええ。江南、江東を制覇し、孫家の礎を築いた人――――私の師匠でもあったわ」

昔を懐かしんでいるのか、どこか遠くを見るような瞳を墓石に向けながら、雪蓮は微笑みを深くする。

「まぁ、師匠といっても……私が歩くのも、ままならない時期から、戦場に引き連れていったりと、けっこう無茶苦茶な人だったんだけどね」
「へえ、そんな事があったんだ」
「ええ。おかげで、こんなに図太い性格になっちゃったのよ。この性格は、きっと母様ゆずりなのよね」

そう言うと、雪蓮は朗らかに笑い、そうして墓石の前に跪いた。何となく、俺も雪蓮に倣ってその左隣に跪く。

「母さん、見ている? 貴方の始めたもの、その途中で失ったものを、ようやく取り戻す事が出来たわ。ここまで来るのに、本当に長かった」

今までの様々な出来事を懐かしむような表情で、雪蓮は呟く。実際に、長かったんだろう。雪蓮と冥琳の……いや、皆の願いが叶うまで、どれだけの時が流れたのか。
途中から参加した俺には分かりかねないが、それは、どれほどの苦難の旅路だったんだろう。だけど、それを成し終えて、雪蓮は今、ここに居たのである。

「孫家、そして呉の民の悲願は、きっと私が叶えてみせる。だから、きちんと見ていてちょうだいね」
「孫家の悲願、か……天下を統一するんだっけ」
「ええ。でも、それは手段の一つに過ぎないわ。私達の目的は、呉の民の恒久的な平和……その実現案として、もっとも現実的なのが、天下統一というだけよ」

天下を統一すれば、争いも減り、平和な世の中が来る………その理想は、雪蓮の基軸であり――――決して折れない強さの支えでもあった。
無論、矛盾もあるだろう、平和のために剣を取り、多くの者を犠牲にする……それでも、その間違いを知りながらも、なおも進もうとする雪蓮を、俺は誇りに思う。
自己満足とか、そういうものじゃない………国の為に、そこに暮らす人々の為に戦う雪蓮を、俺は支えていきたいと思っていた。

「私は、戦い続けるわ。孫家が天下を平定し、民達が安らげるその時まで――――それまで、決して倒れるわけにはいかないのよ」
「ああ。俺も、雪蓮を支えるよ。冥琳や皆のように、なにかの役に立てるってわけじゃないけどさ、それでも、雪蓮の支えになりたいと思っている」
「ふふ………ありがと。あ〜あ、やっぱり、蓮華に譲ったのは間違いだったかなあ」

俺の言葉に、悪戯っぽく笑って、雪蓮はそんな事をいう。可愛らしく小首をかしげる雪蓮の様子に、俺の胸の鼓動が高まった。
ほんの少し前、肌を重ねあった記憶がよみがえる。正直なところ、俺の方は、それなりに未練があるのだが――――雪蓮にとっては、あくまでも俺は蓮華達のものらしい。

「はぁ………譲るも譲らないもないと思うけどな。そもそも、そう思っているのは雪蓮だけだろ」
「あら、一刀は違うの? ひょっとして、蓮華のことが気に入らないとか?」
「いや、そうじゃなくてさ………俺は、雪蓮も蓮華も、同じように好きだっていいたいんだ。だから、俺は雪蓮のものでもあるって事だよ」
「――――そっか、ありがとね。一刀」

俺の言葉に、少しの間、キョトンとしていた雪蓮だったけど、くすくすと笑いながら、そんな風に嬉しそうに言ってくれた。
きっと、雪蓮の俺に対するスタンスは、これからも変わりはしないだろう。だけど、こうして時々の合い間でも、触れ合う事ができれば、俺も雪蓮も満足だったのである。

「さて、それじゃあ、そろそろ行かないとね。母様に挨拶してから行くとしましょうか」

そう言うと、雪蓮は再び墓石へと向き直る。同じように跪いた俺が、隣で見ている前で、雪蓮は訥々と言葉を口に乗せる。

「そろそろ行くわね、母様。これから忙しくなると思うから、なかなか来られなくなると思うけど……」

墓石に向かって、語りかける雪蓮。その横顔はどこまでも、凛々しく、雄々しく、美しく見えた。

「でも、貴方の娘は命の限り戦うから……母様が、思い描いた夢。呉の民たちが思い描く未来に向かってね……」
「ああ。俺も手伝うよ」

雪蓮の横顔を見つめていた俺は、決意も新たに、誓うように言葉を口にしていた。彼女の支えになろうと、万感の思いを込めて。

「――――…一刀」

雪蓮は笑顔を見せて、左隣に跪いていた俺を正面から見つめようと、跪いたままの姿勢で、腰をひねって上半身を向けてくる。
まさに、その刹那――――唸りをあげて飛来した矢が、雪蓮の左腕を削る様に、彼女の身体を掠めて飛んでいったのは、その時だった。

「なっ……!?」
「――――!」

一瞬のことに、呆然となった俺だったが、雪蓮の反応は尋常なものではなかった。まるで飛び跳ねるように立ち上がると、白刃を抜き放つ。
付近を見渡すと、茂みの向こうに数人の兵士の姿を発見した。その中には、弓を持った兵士の姿も見える。どうやら、先程の矢を放ったのは、あの男らしい。
と、俺がそんな事を考えている間に、雪蓮はまるで獣のようなしなやかな足取りで、兵士達に向けて地を蹴ったのだった。

「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

その剣幕に恐れをなしたのか、兵士達は逃げ腰になり、我先に逃亡をしようとする。しかし、到底、逃げ切れるものではなかったのだった。
一瞬で、兵士達に追いついた雪蓮は、容赦無しにその肩口に、頭部にと剣を振り下ろす。先程の、雪蓮の左腕から舞った血しぶきの、何十倍もの血の飛沫が飛び散った。

「ひっ、ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ! げぅっ!」
「た、助け………ぎゃあぁぁぁ!」
「お、俺が悪かった、どうか命ばかりはぁぁぁ……うごっ」

聞く耳を、持たないとはこういう事を言うのだろうか? 斬り伏せられ、倒れた兵士達に向けて、なおも雪蓮は刃を振り下ろす。
その光景に、俺は立ち上がることも出来ずに呆然としていた。ただ、頭のどこかでホッとしている自分がいた事に気づいていた。
さっきの矢、あれが雪蓮に当たらなくて良かったと、そんな事を内心で思う。目の前の凄惨な光景よりも、雪蓮が怪我をする方が、俺にとってはショックだっただろう。

「はぁ、はぁ、はぁ………」

そんな事を考えているうちに、事は終わったようであった。物言わぬ兵士の骸の上で、雪蓮は荒々しく息をつく。
剣を杖代わりに、身体を支えているのは、疲労ではなく………奥底から溢れ出てくるような狂気を押さえつけているかのようであった。
静寂が戻る。雪蓮に、どう声を掛けようかと考えていると、蹄の音が耳に聞こえる――――立ち上がって振り向くと、森の向こうから蓮華が馬を走らせてくるのが見えた。

「姉様っ! 城で緊急事態が……! なっ、こ、これは、いったい……?」
「ああ、蓮華じゃないの……どうしたの、血相を変えて」
「は、はい………曹操の率いる魏国の軍が、国境を越えて我が国に侵入。既に、本城の近くにまで迫っているそうです」

刺客達の返り血を浴びて、全身血まみれの雪蓮――――そんな雪蓮を怯えたように見つめながら、蓮華は馬を下りて報告をする。
蓮華のその言葉に、雪蓮の顔が不快そうに歪んだ。まるで、不味い酒を無理やり飲まされたかのように、その表情は不機嫌そのものだった。

「そう………ってことは、この刺客も曹操の差し金かしら? まったく、あのおチビちゃんも舐めた真似をしてくれるわね」

雪蓮は淡々と言うと、抜き身の剣を鞘に収める。そうして、こちらに歩いてきたかと思うと……蓮華の乗ってきた馬に、無造作に飛び乗ったのであった。

「城に戻るわ。蓮華は一刀と一緒に、ゆっくり城まで戻ってきなさい。ひょっとしたら刺客がいるかもしれないから、気を抜かないようにね」
「…あ、ま、待って下さい、雪蓮姉様!」

呼び止める、蓮華の言葉は届かない。雪蓮は馬を嘶かせると、俺たちが止める暇も無く……風のように駆け去ってしまったのだった。
――――後に残されたのは、呆然と立ち尽くす俺と蓮華。そして、物言わぬ刺客達の骸だけであった。
雪蓮の駆け去った先を見据え、言葉も無く立ち尽くす蓮華。そんな彼女に歩み寄り、俺は気を取り直させるように肩を叩いて声を掛けた。

「蓮華……とりあえず、城に戻ろう。曹操が攻めてきたんなら、出陣の準備もしているんだろう? 遅刻したら、冥琳辺りに起こられかねないしな」
「……ぇぇ――――ねえ、北郷」
「ん?」
「あれは、本当に雪蓮姉様なの…………? なんだか、私の知っている姉様とは、別人に――――いえ、違うモノに見えたわ」
「――――…」

蓮華の言葉に、俺は無言。口でどんなことを言っても、気休めにしかならないだろう。
それほどまでに、血にまみれた雪蓮の姿は凄絶であり、彼女の優しい面を知っている蓮華にとっては、それは寛容し難い光景だったのだろう。

「ぁ――――ご、ごめんなさい、変なことを言ってしまって。今の言葉は、忘れてちょうだい」
「………ああ。分かってる」

戦に勝とうとする気概が生み出した、敵を惨殺する狂気――――それは、雪蓮と蓮華の間に溝として現われ始めているんだろう。
出来る事なら、蓮華には時間をかけてでも、雪蓮のことを理解して欲しかった。そうでなければ、雪蓮があまりにも報われない。
雪蓮が天下を求めるのも、果て無き修羅に身をやつすのも――――結局のところは、蓮華達が、平和に暮らして欲しいと思うが故の決断なのだから。
不意に、その言葉に不安を感じた。孫呉のため、皆のために戦い続ける雪蓮。しかし、彼女の幸せは、その中に含まれていないように思えたのである。



蓮華と一緒に城に戻った俺達。先に戻った雪蓮の指示なのか、曹操を迎え撃つための布陣は、既に整いつつあるようであった。
城内に戻った俺達は、一目散に玉座の間に向かう。軍議の最中だったのか、玉座の間には、冥琳や祭さんを始めとした諸将と、雪蓮の姿がそこにあった。

「姉様、ただいま戻りました」
「……二人とも、おかえりなさい。少し心配していたけど、無事でよかったわ」

先程まで血まみれだった雪蓮は、湯浴みでもしたのか、いつも通りの格好で俺達を出迎える。一つ違う点といえば……左腕に包帯が巻かれているくらいであった。

「――――姉様、その腕は?」
「ん……ああ、これ? 最初の一矢が腕を掠めていたのよ、幸い、かすり傷で、大した事は無かったんだけどね」

蓮華の問いに、雪蓮はそう言うと、手をひらひらと振る。その様子は普段通りだったが、彼女の傍にいた冥琳が、真面目な表情で雪蓮に問い訊ねたのは、その時であった。

「――――本当に、大丈夫なの、雪蓮?」
「やだなぁ、何を言ってるのよ、冥琳ってば――――大丈夫、このくらいなら平気よ」
「…………ふぅ、それなら結構」

溜め息を一つつくと、冥琳はそれっきり、雪蓮を追求するのを諦めたかのようだった。
何か、言いたそうにしていたけど、どうしたんだろうか? 気にはなったが、冥琳が追求しないのだし、大したことじゃないんだろう。

「さて、それよりも軍議の続きよ。といっても、曹操に先手を取られた以上、こちらの方策は迎撃か、篭城かの二択しかないんだけどね」
「現状、こちらの有する兵力は六万弱……曹操軍は十万を超えており、兵力差を考えると、篭城するという手もあるの思いますけど〜」

雪蓮の言葉に、穏が控えめに意見を述べる。それに対して、真っ向から反対意見を述べたのは、祭さんであった。

「兵力差など問題ではない! それより問題は、こちらの喉もとに刃を突きつけられたということ……臆していれば勝機が無くなる思うぞ。打って出るべきじゃろう」
「………どちらの意見にも一理はある。明命、周辺の支城からの連絡はどうなっている? 援軍が来るのなら、私は篭城策も良いと思うが」
「それが……魏軍は機動力のある張遼軍に、周辺経路を巡回させているようで、伝令の多くは捕殺されているようです」

明命の言葉に、俺は傍にいた蓮華と顔を見合わせる。どうやら事態は、予想以上に深刻なようであった。
唐突に侵攻してきた曹操軍は、周辺経路を制圧し、本城を孤立させる策をとったようだ。援軍が来るにしても、明確なあてのない状況である。
かといって、迎撃をしようにも……相手の数はこちらの二倍。野戦となれば、苦しい戦いになるのは火を見るより明らかだった。
篭城か、迎撃か――――誰もが決断できない状況で、自然と皆の目は、玉座に座る雪蓮に向けられていた。皆を代表し、冥琳が問いかける。

「伯符――――決断を」

それは、親しき友人にでは無く、仕えるべき主に向かって問いかける言葉――――それを聞いて、雪蓮は覚悟を決めたように立ち上がる。

「出陣の陣ぶれを――――! 孫呉の誇りにかけて、曹操を正面から粉砕する!」

その言葉を聞き、多くの者は納得したように雪蓮の言葉に頷いた。是ゆえに主であると――――そんな中、俺は冥琳の沈んだ表情が、妙に気になったのであった。



「まってくれよ、冥琳!」
「――――…北郷か、どうした?」

軍議が終わった後、各々が準備のために三々五々に散っていく中で、俺は冥琳の後を追って、声を掛けていた。
先程、軍議の途中で見せた深刻そうな顔が、どうにも気になっていたからである。こうして対峙をしている冥琳は、いつも通りのクールな美人ではあったのだが。

「その、聞きたいことがあって」
「……生憎だが、出陣の準備が控えているからな。政務の事なら穏に聞けばいいし、軍務なら祭殿に聞けばいいだろう?」
「雪蓮のことだよ。冥琳は、何か知っているんじゃないのか?」
「――――…さて、何のことやら」

俺の言葉に、僅かな沈黙の後で、そんな風に言う冥琳。どうも、何かを隠しているような素振りは見せているものの、答える気はないようだった。
まぁ、教えても良い事なら、口にするだろうし、あまりしつこく聞いても意味はないだろう。

「……分かったよ。二度は聞かない。けど、信じてもいいんだよな、大丈夫だっていう雪蓮の言葉を」
「無論だ。雪蓮は誰よりも強い……それは北郷も知っている事だろう?」
「…………ああ」

冥琳の言葉は、俺に問いかけているというよりは、自分に言い聞かせているように聞こえる。しかし、俺はその事に気づかない振りをしながら、頷く事しか出来なかった。



城を出た俺達は、軍を展開させて曹操の軍の到着を待つことになった。兵力差で劣る呉軍が優位に戦うには、戦場での優位を確立しなければならない。
幸い、後背には本城が存在する。一戦で負けたから、即座に壊滅ということにはならないだろう。無論、敵を撃破するのが最も望ましいのだけれど――――。

「前方に砂塵! 旗印には、夏、楽、李、于、郭とあります!」
「魏の先鋭隊か――――本隊が来る前に、少しは数を減らしておくのもありかと思うけど」

伝令の言葉に、雪蓮が考え込むような仕草を見せる。普段は、先陣を切って突っ込む雪蓮でも、さすがに慎重にならざるをえないようだ。
と、その呟きを聞いてか、居並ぶ武官の中から進み出てきたのは祭さんであった。意気込んだ様子で、祭さんは雪蓮に向かって出陣の許可を請う。

「ならばその役目、儂に任せてもらいたい! 先程から、敵と戦いたくて、うずうずしていた所でな」
「祭………いいわ、よろしくね」
「応、任された! 子明、幼平、興覇! 儂について来い!」

亞莎、明命、思春を呼びつけ、陣幕を出て行こうとする祭さん。そんな彼女達を励まそうと、俺は思わず声を掛けていた。

「皆、無事で帰ってきてくれよ………待ってるからさ」
「は、はいっ……頑張ってきます!」
「大丈夫ですよ。わたしが皆さんを守りますから!」
「ふん、貴様に言われずともそのつもりだ」

俺の言葉に、嬉しそうに笑顔を見せる亞莎と明命。ぶっきらぼうな表情の思春と、反応は様々だったけど、皆、良い感じでリラックスしてくれたようだ。と、

「ははは! 言うではないか。小娘どもの心胆を据えさせられるとは、見直したぞ」
「痛っ………そんなつもりじゃないんだけどな」

祭さんにバシバシと肩を叩かれて、俺は苦笑を漏らす。口より先に手が出るタイプなのは分かってたけど、もう少し加減をしてくれると嬉しいんだけどな。

「それはそうと、祭さんも気をつけてよ。戦場では何が起こるか分からないんだからね」
「言われるまでもないわ。儂を誰だと思っておる。それよりも………」

不意に、祭さんが俺の耳元に口を寄せてくる。いきなりな事に、心臓が跳ね上がりそうになった俺だったが――――、

「雪蓮様の様子が、どこかおかしい。北郷もそれとなく、気にしておいてくれ」
「!」

本当に心臓が跳ね上がったのは、その直後だった。さすが呉の重鎮。普段は飄々としているけど、見るべきところは、しっかり見ているのだった。

「一刀………祭とくっつきすぎじゃないかしら? 皆、呆れてみているわよ」

と、祭さんにヒソヒソと声を掛けられていると、その様子が気に障ったのか、蓮華が幾分か険しい表情でそんな事を注意してきた。
思わず恐縮してしまう俺だったが、祭さんの方は気楽な様子だった。俺の耳元から顔を離すと、不機嫌そうな蓮華をからかうように、明るい声を投げかける。

「おお、これはすみませぬな。順番を待っているのでしたら……そう、声を掛けてくれれば宜しかったでしょうに」
「なっ、わ、私は、別に………」

慌てた様子で、口ごもる蓮華を見て、そこかしこから笑い声が溢れてくる。戦の緊張感が、幾分か和らいだ陣幕。
これから、壮絶な戦が始まるというのに、皆の顔には不安も緊張もない。それは、旗印である雪蓮がいるからこそだろう。
その雪蓮はというと、冥琳と二人でひそひそと話をしているようである。輝くような笑顔は損なわれる事もなく、それにつられてか、冥琳も穏やかな笑みを見せていた。



「敵城前に展開した部隊の一部が突出して参りました! 総数はおよそ三万……旗印は黄、呂、周、甘があります!」
「ほう、挨拶代わりに仕掛けてくるつもりのようだな。数はこちらと同じくらいか……よし、全部隊に通達、迎撃用意!」

曹操に先遣隊を任された夏候惇は、進撃してくる黄蓋の軍を睨みつけると、それを迎え撃とうと号令を発した。
そこかしこから、威勢の良い掛け声と、強い覇気が伝わってくる。先遣隊の兵士達は、議の精鋭達である。自らの指揮官に対する信頼もひとしおであった。
そんな中、夏候惇の傍らにいた郭嘉が、彼女を諫めるように言葉を投げかける。先遣隊の軍師を任されている彼女にとっては、この激突は好ましい状況ではなかった。

「……春蘭さま、我々は華琳さまの到着までの舞台を整える、いわば前座の役割。あまり過度の立ち振る舞いは、華琳さまの勘気に触れると思いますが」
「そうは言うがな、稟。相手が仕掛けようとしているのだ、黙っていては、それこそ華琳さまのご威光を損なうのではないか? それに、敵は待ってはくれそうにないぞ」

夏候惇の言葉通り、孫呉の軍はまっすぐに魏国の軍に向かっていた。既に武器を抜き放っているのか、陽光に白刃が煌いている。
その様子を見て、郭嘉は溜め息を一つ吐く。戦になるのであれば、軍師として本懐を尽くすのみ。だが、敬愛する主君が居ない場での戦いは、気乗りしないものでもあった。

「……仕方ありませんね。では、戦線の維持はお任せします。ですが……退き時は、こちらで合図しますので、それにはきちんと従ってください」
「ふっ、退く合図など必要ない! 敵の先鋒など、一息に揉み潰してくれる! お前達、いくぞ!」

郭嘉の言葉に、自信満々に応じると、夏候惇は配下の将に号令をくだす。彼女の傍らに控えていた少女達は、夏候惇の言葉に、元気よく応じた。

「はっ!」
「は〜いっ!」
「よっしゃ、ほんなら行くで〜!」

楽進が、于禁が、李典が部隊を率いて迫り来る呉軍の矛先に肉薄する。その後方より、夏候惇率いる精鋭部隊が、第二陣として後に続いた。

「はぁ………」

その様子を見て、郭嘉は再び溜め息をつく。双方の士気の高さ、練度の高さを見ても、激戦は免れないだろう。
出来る事なら、主の着到までは、大事な兵を出来る限り損ねたくはないというのが、郭嘉の本音であった。そんな彼女の思いとは関係なく、戦端は開かれる――――。
激しい斬りあいが始まったのか……喧騒の声と剣戟の音が、郭嘉の居る本陣にまで、響いてきたのであった。



曹操の進撃

〜苛烈なる前哨戦〜

自軍兵力 VS 敵軍兵力
30000  VS  30000

敵軍将軍:夏候惇
敵軍軍師:郭嘉

選択可能武将:黄蓋(祭)・呂蒙(亞莎)・周泰(明命)・甘寧(思春)



「でぇいっ!」
「はぁっ!」

平原で真正面から激突した両軍は、がっぷり四つに組むように、拮抗した状況での戦いを行っていた。
双方とも、最初の突撃で相手方が陣容を乱し、崩れる事を期待していた。だが、戦国の世を勝ち残ってきた魏国も呉国も、共に戦慣れしていたのである。
さすがに、盗賊相手の殲滅戦とは違い、一手で勝負が決まる事はなかった。今は互いに、相手の隙をうかがいつつ、衝突を繰り返している最中である。

夏候惇と甘寧が、戦場の真ん中で一騎打ちを行っている。双方の兵士達は遠巻きに見守り、その様子を見守っていた。
一騎打ちの勝敗は、兵達の士気に伝播する。そのことを身をもって知っている彼女達も、互いに負けじと剣を振るい、武を競っていた。

「うぉぉぉぉぉっ!」

甘寧が雄たけびを上げながら、夏候惇に向かって剣を振るう。常人ならば、数合とて持たぬであろう斬撃を、夏候惇は正面から受け止めた。

「ふっ、どうした、それで終わりか? ならば、こちらも行くぞ!」
「ぐっ………」

お返しにと放たれた、夏候惇からの一撃を甘寧はどうにか受け止める。しかし、衝撃を受け流す事はできなかったのか、甘寧の顔が苦悶に歪む。
だが、それで怯む事もなく……痛みなどまるで無視するかのように、甘寧は夏候惇に向かって刃を振る! その一撃を受け止めて、夏候惇の表情も僅かに歪んだ。

「く………ええい、なかなかしぶとい!」
「はぁ、はぁ………ここで、退くわけにはいかん!」

十合、二十合と剣を合わせる両者であったが、実力は伯仲しているのか、いっこうに勝負がつく気配はなかった。
かたずを呑んで、兵士たちが見守る中、なおも続けようとする夏候惇と甘寧。と、双方の陣から太鼓の音が鳴り響いた。その音を聞いて、両者は剣を止める。

「……!? なんだと、帰還しろというのか!? くそ、どういうことだ……ええい、しばらくは、その首を預けておいてやる!」
「…………」

軍をまとめて、退いていく夏候惇。甘寧はというと、夏候惇に負けず劣らず不機嫌そうであった。一騎打ちの邪魔が入ったとなれば、機嫌が悪くもなるだろう。
黙って立ち尽くす甘寧。そんな彼女に、歩み寄ったのは黄蓋である。呉の宿老である彼女は、気さくな様子で甘寧に言葉を投げかけた。

「ご苦労じゃったの。どうじゃった、元譲殿の剣裁きは? こちらとしては、見ごたえのある内容じゃったが、実際に行ったものとしては、寿命が縮む思いだったじゃろう」
「………お留めにならずともよろしかったでしょうに。あのまま続けていれば、私が勝っていました」
「ははは! 向こうもきっと、そう思っているじゃろうな」
「――――……」

笑い飛ばす黄蓋に、甘寧は不満そうに沈黙するが、相手に悪気がないことを知っているため、口に出して文句をいう事はなかった。

「まあ、儂とて、もうしばらくは見ていたかったのじゃが………残念ながら、ここいらが潮時かと思うてな」
「潮時……?」
「ああ。敵後方に砂塵が見えたのを物見が確認した。おそらくは曹操率いる本陣じゃろう」
「!」

黄蓋の言葉に、甘寧の表情も引き締まる。一騎打ちの決着がつかなかったからと、ふてくされている状況ではないと判断したのである。
そんな彼女の表情を満足そうに見ると、黄蓋は周囲を見渡して、兵士達に向けて号令を発した。

「敵が合流するとなれば、こちらもそれに倣う事にしよう。雪蓮様たちと合流し、曹操を迎え撃つ……先程の戦に勝る働きを、皆に期待するぞ!」
「はっ!」

先程の戦いで傷ついた者がおり、剣刃に斃れた者も居る。だが、それでも兵士達の顔には恐れはなく……これから起こる戦に、心を昂らせているかのようであった。



「………で、着いた早々に、ふっかけられた喧嘩を買って、戦端を開いたというわけね」
「――――はい、私がついていながら、みすみす敵方の挑発に乗せられてしまいました。この一件は、軍師である私の責任です」

曹操率いる、魏軍の本陣――――分散していた兵力を糾合し、決戦に望むための準備をする陣の中で、曹操に事の仔細を説明していたのは郭嘉であった。
その傍には、夏候惇を始め、楽進、于禁、李典らの姿があった。彼女達の表情は一様に硬くなっている。
先程の戦いは、負けなかったとはいえ、勝ったわけでもないのである。曹操に無断で戦端を開き、成果が上がらなかったとなれば、勘気を恐れて当然であった。

「別に詫びる必要はないわ。もともと、春蘭に先発の部隊を任せたのも、その可能性を考慮してのことだもの。負けていないのであれば、上出来よ」

しかし、予想に反して、曹操の表情は穏やかなものであった。夏候惇達がホッとした表情を見せると、曹操は、静かな口調で、彼女達に問い尋ねた。

「それで、呉軍の強さはどんなものかしら? 相手を見くびらずに、思ったままの意見を教えてちょうだい」
「はっ………そうですね――――強敵、かと」
「ふぅん、春蘭にそう言わしめるとは……さすがは呉国、なかなか楽しめそうね」

愉快そうに笑みを浮かべると、曹操は目を細める。強大な敵、そして、孫策という好敵手との戦いを目前にして、彼女の気持ちも昂りを見せているようであった。

「糾合した軍を展開させなさい。季衣と流琉は私の護衛を――――まずは、孫策相手に舌戦を仕掛けるとしましょうか」



「魏軍が、我が軍を包囲するかのように展開しています! それに、敵の陣頭に騎影が………あれは、曹操です! 曹操が護衛をつれて出てきました!」
「……どうやら、お出ましみたいね。それじゃあ、挨拶をしに行こっかな………祭、護衛を頼めるかしら?」
「――――ああ。任せてもらおう」

敵が動きを見せ始めたこともあり、決戦の雰囲気が漂い始めた陣内。物見からの報告を聞いた雪蓮が、どことなく気だるげな表情で腰を上げた。
その様子は、やはりどこかおかしいような気がする。だが、冥琳や祭さんを始め、主だったものは何も言わなかった。
ただ、どうしても放って置けなかった俺は、曹操との舌戦に赴くために、馬上の人となった雪蓮に、思わず声を掛けていた。

「雪蓮………その、無理は――――じゃないや。とにかく、気をつけてくれよ」
「やだなぁ、もう、心配しすぎよ、一刀ったら………大丈夫、私に秘策あり……よ」

無理はするな。と言いかけた俺の内心は、おそらく雪蓮に届いているのだろう。それを知ってなお、雪蓮は気丈に微笑んでいた。
さすがに、何かを感じ取ったんだろう。蓮華が怪訝そうな表情を見せながら、俺と雪蓮を交互に見て、質問をしてきたのは、その時だった。

「……姉様? 一刀が物言いたそうにしていますけど、何かあったのですか?」
「なんでもないわよ。ただ、一刀は私のことを心配してくれているだけ。変に、おせっかいなんだから……そういう所が、一刀の魅力なんだけどね。そう思うでしょ?」
「は、はぁ………」

俺を引き合いに出され、どう答えてよいのか分からず、沈黙をしてしまう蓮華。雪蓮はというと、そんな妹の様子を微笑ましげにしばらく見つめ、やがて、馬首を返した。

「さて、それじゃあ行ってくるわ。冥琳、後の事は宜しくね」
「――――ああ」

投げかけられた言葉に、短く答える冥琳。彼女の目は、祭さんを連れて、曹操に対峙すべく馬を歩ませる、雪蓮の背中に注がれていた。
俺も、雪蓮の背中を見つめる。今まで、幾度となく見つめる事となった背中…………それが、今日はいやに遠くにあるように思えてならなかった。



戦場を渡る風が、軍旗をなびかせる。数騎の護衛をつれて、二人の覇王が対峙していた。
一人は、北方の雄、曹操――――もう一人は、南方の雄、孫策――――どちらも互いに、天下に覇を唱える人物であり、この撃突は、双方にとって必然のものであった。
先に舌戦を仕掛けたのは、曹操。彼女は、放つ言葉に力を込めて、相手方を捻じ伏せんと論説を開始する。

「江東の支配者にして、孫家の主、孫策よ! 我々は、実力を持って、この地を奪いに来た! されど、そちらが降伏するというのなら、拒みはしない。返答はいかに?」
「生憎だけど、その申し出は受けられないわね。この地は、我々の祖が長年守ってきた地……誰であれ、その侵略を許すわけにはいかないわ」
「ならば、戦うというのかしら? 無駄な血を流し、多くの者を死なせ、それでも大儀はあるとでも?」
「流れる血に、無駄なものはないわ。数多の血も涙も、この国の為に流されたもの……袁術の悪政をしっているでしょう? あれを繰り返させるわけにはいかないのよ」

孫策の言葉に、曹操の柳眉が逆立った。袁術などと同じにするなと言いたいようである。

「そうね……確かに貴方達には、そう見えるかもしれない。でも、我々の支配を受ければ、呉は変わるわよ。悪い方にでなく、いまより良い方向に」
「だとしても、それは呉国としてではないでしょう。この地は我らのもの――――他国の干渉は受け付けない!」
「愚かね、ひとつの価値に縋りついて、それが絶対と信じている――――もう少し、あなたは利口だと思ったんだけど」
「――――そうね、普段の私なら、もう少し別の考え方も出来たかもしれない。でも、今は駄目――――この傷の痛みが、私に訴えかけてくるのよ!」

そう言うと、孫策は左腕に巻き付けてあった包帯を外す――――そこには、ふさがりつつある傷口と……傷口の周りに広がりつつある、黒い染みがあった。
それを、実際に目の当たりにしたものは、多くはなかった。だが、孫策を中心に発した異常は、瞬く間に戦場を覆う。
重苦しく、息をするのも、困難なその場で、孫策の声が朗々と響きわたる。

「聞け! この場に居る全ての者達よ! 私は先刻、刺客の襲撃を受けた! 刺客は姑息にも、毒矢を用いて、私の命脈を立とうとした!」
「――――なんですって?」

孫策の発言に、驚きを隠せない表情の曹操。彼女のあずかり知らぬ所で起きた出来事に、呆然とする曹操。そんな彼女の前で、朗々とした孫策の口上は続く。

「鏃に含まれた毒は私の身体を掠め、今もこの身を蝕んでいる………だが、この程度の毒では私の命を、孫呉の誇りを屈服させる事はできない!」

そう言うと、孫策は懐から短刀を取り出すと――――躊躇いもなく、傷口につきたてた。黒々とした血が流れ、孫策の腕を伝う。

「毒に犯された血など、私はいらない……! 孫呉の兵よ、今こそ奮起せよ! 目の前にあるのは、我らが土地を蝕もうとする、毒、そのものなのだっ……!」

孫策の叫びは戦場に響き渡り………魏軍の兵士達は、すぐにその異常に気づいた。数では絶対に劣るはずの呉軍から立ち上る、あの鬼気はいったいどういうことか。
それは、純粋な怒り――――大切な主が、尊敬していた主君が、刺客の手によって傷つけられた事を知り、毒によって苦しんでいる事を知った憤怒の炎であった。

「戦え、我が同胞よ………っ!」
「――――策殿!」

馬上で、ぐらりと身体を傾がせた孫策を、傍らに居た黄蓋が慌てて支える。それが、決壊のきっかけだった。
呉軍の各所から、怒りの叫びが上がった。それは、瞬く間に全軍に伝播し――――呉軍の兵は、武器を抜き放つと、まるで津波のように、魏軍に向かって突撃を始めた。
まるで津波のような、次から次へと押し寄せる人の波――――狂気を伴う呉軍の突進に、魏軍は崩れたった。

「――――いけない、このままじゃ……流琉、華琳様をお願い!」
「う、うん………華琳様、退きましょう。ここに居たら、危険です!」
「そんな、そんなことって………」

事の異常を察した許緒と典韋が、曹操を何とか後方へと退かす事には成功したものの、いまだ魏の軍隊は戦場にある。
双方の主君なき戦場――――だが、片方の軍は怒りと憤怒で奮い立ち――――もう片方は、恐慌に陥らないようにするのが手一杯な状況であった。
そうして、誰もが望んでいなかった形での――――血戦がはじまった。



曹操の進撃

〜小覇王の落日〜

自軍兵力 VS 敵軍兵力
50000  VS  90000

敵軍将軍:夏候惇
敵軍軍師:夏候淵

選択可能武将:孫権(蓮華)・周瑜(冥琳)甘寧(思春)・周泰(明命)・呂蒙(亞莎)・陸遜(穏)・孫尚香(小蓮)



<共通項・第六章・二節>

「……それで、どうだったのかしら。孫策の言葉通り、こちらが刺客を送ったという可能性はあるの?」
「はっ、そのことですが……先遣部隊の中で数名の兵が、こちらに来るまでに出奔していたとのことです。手柄を立てたいと、功名に流行っていたらしいですが」
「――――なるほど、それで抜け駆けをして孫策を襲ったということね。所詮は急ごしらえの兵か……いえ、それを承知で軍を進めた私の失策ね」

郭嘉の言葉を聞き、苦い表情で曹操は嘆息する。堂々たる決戦をもって、孫策の打倒を狙っていた曹操にとっては、この事態は愉快なものではなかった。
孫策の負傷は、呉軍の戦意を昂らせ、逆に魏軍の指揮をくじいている。現在は、夏候惇、夏候淵両名の奮戦により、何とか持ちこたえている状況であった。

「それにしても、地の利は向こうにあり、人の和をこちらは欠いている。天の時も、果たしてどちらにあることやら……」
「華琳さま、さすがにこの場は、引くべきではないでしょうかー。北方の袁紹さんもまだ健在なわけですし、元気なうちに引き上げるのがいいと思います」
「――――そうね。思わぬ横槍も入ってしまったことだし、この場は退くとしましょう。後で、孫策には詫びの使者も出さないといけないわね」

程cの言葉に、曹操は気を取り直したかのようであった。伝令の兵を呼び寄せて、彼女は命を下す。

「夏候惇、夏候淵の両名に伝達! 戦線を維持しつつ、粛々と後退せよ! 敵の追撃が途切れた所で軍を再編し、洛陽に帰還する!」
「はっ!」

伝令が駆け去った後で、曹操は一つ息をつく。今回の遠征は、彼女にとって苦い思い出になりそうであった。

「天の時、地の利、人の和………そのどれもが今回の戦いに欠けていたわね。これも、勝ち続けた驕慢が生んだ驕りというものかしら」
「華琳さま……」
「安心しなさい、稟。この曹孟徳、同じ失策を繰り返すほど愚かではないわ。いずれは万全の準備を整えて、私は江東(ここ)に再び赴くでしょう」

軍師である郭嘉に、轟然と肩をそびやかして言う、曹操。何者にも負けない、不屈の意思を持つ少女が、そこに居たのであった。



「敵軍、撤退していきます!」
「何をバカな事を…………大人しく逃がすと思うのか! 全軍、追撃用意!」

狂乱的な戦意で、魏軍を蹴散らした呉軍。その先頭に立っているのは、抜き身の剣を引っさげた蓮華だった。
雪蓮を害された事もあり、怒りに燃える彼女は、思春や明命を伴い、なおも魏軍を追撃しようとする。そんな蓮華を、俺は慌てて押し留めた。

「ちょっと待った! 蓮華、これ以上の追撃は無謀だ! 敵は整然と退却しているし、こちらの兵士達も疲れが出始めている!」
「冗談じゃないわ! あいつらは姉様を傷つけたのよ。その償いは、こんなものでは済まないわ!」
「いや、だけどな……」
「北郷の言う通りです。この場は軍をお引きください、蓮華様」

鬼気迫る表情の蓮華に、どうしたものかと困っていると、横合いから冥琳が俺に賛同をしてきた。冥琳の言葉に、蓮華は怒りの表情を彼女に向ける。

「冥琳、貴方まで………! 姉様が傷つけられたのよ! あなたは平気だというの!?」
「ふぅ…………その雪蓮の為にも、軍を引いてほしいといっているのですが」
「え………?」

淡々とした物言いに、蓮華の表情が戸惑ったものになる。そんな彼女に、冥琳は肩を落としながら説明を始めた。

「雪蓮の被った毒は、確かに深刻なものです。しかし、それでも医者に掛かれば、どうにかなるものでしょう。もっとも、本人は医者に掛かるのを拒んでいましたが」
「そんな………! どうして、雪蓮姉様は医者に掛かろうとしなかったの……?」
「単純な事ですよ。すぐ傍に、曹操という脅威が迫っていましたから。のんびりと養生など、するわけにもいかなかったのでしょう」
「――――…」

冥琳の言葉に、蓮華は沈黙する。冥琳の言葉は、雪蓮だけが曹操に対抗できると、暗に言っているようなものであった。

「雪蓮は、己が毒をもって……呉国の民に、曹操達に対する憎しみを植えつけました。これで当面は、魏に対する士気の高さは保障されるでしょうね」
「…………そこまで考えて、雪蓮姉様は毒のことを秘していたのか」
「――――話が逸れましたね……ともかく、雪蓮を想うのであれば、この戦いは、これまでにすべきでしょう。戦が続く限り、雪蓮は休もうとはしないでしょうから」
「ええ、そうね………わかったわ。全軍に通達! 急ぎ兵を取りまとめ、本城に帰還する! 足の速い馬を使い、医者の手配をせよ! 国主の危機だぞ、急げ!」

蓮華の命に応じ、兵士達は速やかに撤収を開始する。雪蓮に対する忠誠の表れなのか、彼らの動作はいつもよりも迅速に見えたのだった。



「………それで、雪蓮の様子はどうなんだ?」
「分かりません。城にお運びしている時は、とても苦しそうにしておられましたけど……」

…………それからしばらく後、城内に戻った俺達は、雪蓮の部屋の前で、医者の治療の結果を待っているところだった。
あまり多くの者が雪蓮に付き添っても、治療の妨げになるということもあり、今、雪蓮に付き添っているのは蓮華と小蓮、それに冥琳の三名であった。
本音で言えば、俺も付き添いたい所だったが…………それを言い出したら、この場に居る、他の皆も雪蓮に付き添いたいと言い出すだろうと考え、自重していた。

思春や穏、祭さんや明命、それに亞莎と一緒に、俺は部屋の外でじりじりと時を過ごしている。その場に居る者は皆、雪蓮の回復を願わずにはいられなかった。

「しかし、本当に大丈夫かな………もし、このまま――――痛っ!?」
「こら、馬鹿な事をいうではない! この儂が、直々に応急処置を施したのじゃぞ。策殿はきっと元気になる!」
「あ、あの………治療中ですし、静かにした方が良いんじゃないかと――――ひぅっ、す、すみません……」

俺の背中を思いっきりぶっ叩き、怒るような表情で声をあげる祭さん。そんな祭さんに、おずおずと意見を述べた明命だったが、一睨みされて、縮みあがってしまった。

「それにしても、遅いですね〜、もう二刻は経っているんじゃないでしょうか?」
「…………まだ半刻も経っていないと思うぞ。確かに、時の進むのが遅くは感じるがな」

穏の言葉に、呆れたような表情で応じる思春。その足を、せわしなく組み替えている所を見ると、彼女も落ち着かないんだろう。
と、雪蓮の部屋の扉が開いて、医者である華陀が姿を現した。雪蓮の治療に神経を使ったのか、幾分か疲労をしたような表情である。

「っと………なんだ、外が騒がしいと思ったら、こんなに沢山の人が集まっていたのか。随分と慕われているんだな」
「あの、お医者さま………雪蓮さまは大丈夫なんですか?」

居並ぶ俺たちを見て、驚いた様子の華陀。そんな彼に、おずおずと質問をしたのは亞莎だった。皆が聞きたかった、その質問に対し――――華陀は、首を縦に振った。

「ああ。手術自体は成功した……といっても、身体内に回った毒は、すぐには抜けないだろうから――――当分は安静にしなければならないけどな」
「じゃあ、命に別状は無いって事だよな」
「もともと、自分で傷つけた分も含め……怪我自体は大した事は無かったさ。もっとも、毒の回った身体で動き回った分、それの治療に手間取る事になりそうだけどな」

華陀の言葉に、皆はホッとした表情を見せた。俺も雪蓮の無事を知り、ホッとしていると、華陀が皆を見渡して、首を傾げて聞いてきた。

「それはそうと、皆の中に一刀という名前の人はいるかな? 患者である孫策さんに、呼んできてもらうようにと言われたんだが」
「ええと、一刀は俺だけど………面会しても大丈夫なのか?」
「ああ。いま出来る、一通りの治療は終わったからな。どうにも横になっているのが退屈らしくて、話し相手を求めているみたいなんだ」

いかにも雪蓮らしい様子を聞いて、俺は思わず苦笑を浮かべる。ベッドに横になりながら、もう大丈夫といって蓮華や冥琳を困らせている姿が目に浮かぶようであった。

「ふ、策殿らしいのう――――さて、主の無事を確かめる事も出来た事だし、儂等のするべき事は分かっておろうな?」
「はい〜。内外に、すぐに触れを出しますね〜。孫策様は健在なりと〜」
「はいっ! 私は、城の中にいるみんなに伝えてきますね!」

祭さんの言葉に、穏や明命が、元気を取り戻した様子を見せる。彼女達の言葉に賛同するように、亞莎も思春も力強く頷いたのであった。



華陀に呼ばれた俺は、雪蓮の様子を見るために部屋に入る。俺一人が先駆けて、面会をするというのも皆に悪いと思ったけど、ご指名されたのだし、割り切る事にしよう。
部屋の中に入ると、そこには冥琳と蓮華、小蓮が居て――――ベッドに横になった雪蓮が、部屋に入ってきた俺を見て、いつも通りの笑みを浮かべた。

「はぁい、一刀。心配、掛けさせちゃったみたいね」
「雪蓮………その、もう大丈夫なのか?」
「ええ、この位は大した事ないわよ。それなのに、みんなして大仰に騒いじゃって………扉の外の騒ぎ、ここまで聞こえてきてたわよ」

そう言うと、呆れたように苦笑する雪蓮。そんな雪蓮の言葉に、冥琳が呆れたような様子で、肩をすくめたのだった。

「大仰に騒ぐのも無理は無いと思うがな。実際、華陀の治療が無ければ、いささか危なかったかもしれないのだからな」
「え、そうなのか?」
「ああ。今も毒による手足のしびれに、神経痛があり――――あのまま放っておけば、最悪の場合は失明したかもしれないという、ありがたい診断だったよ」
「あはは………でもまぁ、こうして無事だったんだし、そんなに目くじらを立てなくてもいいじゃないの」

冥琳がじろりと睨めつけると、さすがに分が悪いと思ったのか、雪蓮は苦笑を浮かべながらそんなことを言った。
と、その物言いが気に入らなかったのか、蓮華と小蓮が雪蓮に向かってブーイングを浴びせはじめた。

「馬鹿なことを言わないでください、姉様! 私たちが、どれだけ心配したと思ってるんですか!?」
「そうだよ、ほんっとうに、心配したんだからね!」
「う、二人して、そんなにガミガミ言わなくても…………一刀ぉー、みんなが苛めるの〜」
「いや、そこで俺に助けを求められても困るよ。それに、心配したのは俺も一緒なんだしな。少しは反省する事」

俺の言葉に、ぶー、と頬を膨らませる雪蓮。その、いつも通りの様子を見て、俺はなんだかホッとした。
もしかしたら――――そんな不安が胸の奥に付きまとっていた事もあって、本当は涙を流したいほどに嬉しかった。
だけど、そういう湿っぽい事は、この場には相応しくないなと思って………俺は、涙の代わりに笑顔を見せて雪蓮に話しかける。

「それにしても、元気そうで本当に良かったよ。あのまま、雪蓮が居なくなったりしたら、どうしよう……って、皆も不安になっていたみたいだからさ」
「そっか………頼られてるのは嬉しいんだけど――――ん〜……」

あれ? どうしたのか、雪蓮は難しい表情で考え込んでしまった。俺の言葉に、冥琳は無表情、蓮華は困ったような顔、小蓮はいつも通りの表情をしている。

「ねえ、冥琳。やっぱり、ここは私がやらないと駄目なんじゃないかしら? ほら、身体なら誤魔化しがきくだろうし」
「……それは賛同できないな。毒が自然に消え去るまで、怒るな、騒ぐな、安静にと、そこの華陀に言われただろう?」
「その通り。仕事など、もっての他だ。少なくとも二月は、様子を見た方がいいだろうな」
「ん――――じゃあ、やっぱり任せるしかないのかぁ。まぁ、その為に一刀を呼んだんだけど」

そう言うと、雪蓮は俺の方を向く。いったい、何の事かと考える俺に、雪蓮は笑顔で――――

「そういうわけだから、蓮華と一緒に国主の代理をよろしくね、一刀♪」
「……は?」

なんだか、さらりと笑顔で、とんでもないことを言われたような気がして、俺は瞬きをして首を傾げる。蓮華と一緒に、国主の代理?
救いを求めるように蓮華の方を向くが、彼女も戸惑っているのか、その表情はさえない。そんな俺を見て、雪蓮はキョトンとした顔を見せる。

「あれ、ひょっとして意味が分からなかった? ようは、私の代わりに国政を取り仕切ってくれって言いたいんだけど」
「――――ああ、なるほど。やっぱりそういう意味だったのか。でも、何で俺なんだ? 蓮華の補佐をするなら、冥琳や穏がいるだろ?」
「んー、別に一刀に、政治の事をしてくれっていうわけじゃないのよ。ただ、蓮華の支えになってくれたらなぁってこと。ほら、今も不安そうにしているわけだし」

つまりは、精神的な支えになってくれって事なのか。確かに、雪蓮はともかく、蓮華の場合は勝手に煮詰まって自滅するような気がするからな。

「本当は、私が休まなければ良いんだけど……それは冥琳が許してくれそうに無いからね。ま、これも蓮華の成長のためと思って、見守る事にするわ」
「そういうことか………なら、俺が拒む理由は無いよ。精一杯、蓮華を支える事にするよ」
「うん。お願いね。私はお酒を飲みながら、あなた達を応援してるから」

ニコニコ笑顔で、雪蓮はそんな事をいう。俺達を不安にさせないようにと、明るく振舞っているのだと思うけど、案外、骨休めが出来て本当に嬉しいのかもしれない。と、

「ああ、言い忘れていたけど、一ヶ月は酒を飲むのは禁止だ。身体内の毒に、どんな影響を及ぼすか知れたものじゃないからな」
「え、嘘っ!? 冗談――――じゃないみたいね……」
「雪蓮………病人が酒を飲みふけるのを、医者が許すわけが無いだろう。まぁ、しばらくは自重することだな」
「う〜、なんだか冥琳ってば、嬉しそうじゃないの?」

子供のように拗ねる雪蓮の様子を見て、やれやれといった風に、冥琳は笑みを浮かべる。雪蓮に向けられる、その笑みは……俺にはとても、優しい笑みに見えた。
そんな風に、二人の様子を見つめていた時である。ずっと、何かを考えるようにしていた蓮華が、不安げな眼差しを雪蓮に向けて、口を開いた。

「雪蓮姉様………その、私に姉様の代わりが務まるのでしょうか?」
「ん? ああ、別にそんなに深刻に考える事は無いのよ。難しい事があったら、冥琳に押し付ければ良いわけだし。私がそうしていたのは、蓮華も知ってるでしょ?」
「……そういうことではないんです。ただ、なんというか」
「――――不安、なんでしょ?」

淡々と問い返す雪蓮の言葉に、蓮華は暗い表情のまま、コクリと頷いた。うーん、やっぱり、蓮華は責任感が強いんだよな。
仕事をこなす分には、それは強みにもなるんだけど…………責任感が強いと、その重みに圧し潰されることもあるからな。
雪蓮は、その辺りの匙加減が上手だと思う。きっと、蓮華に何かしらの、アドバイスがあるんだろうと見守っていると――――

「まぁ、こればっかりは、どうにもならないからね。場数をふむなりして、度胸をつけるのが一番なんだけど……あ、そうだ。一つ、良い方法があるけど、知りたい?」
「良い方法、ですか……? いったい、何をすればいいんです?」
「簡単な事よ。一刀に抱かれればいいの。不安を消すには、好きな人に抱かれるのが一番なんだから♪」
「なっ………!?」

とんでもないアドバイスをする雪蓮の言葉に、蓮華が硬直した。いきなり、何を言い出すんだ、雪蓮はっ…………!
雪蓮の言葉に、冥琳は呆れ顔。小蓮は、少し嫉妬気味? な表情で頬を膨らませている。華陀はそれほど驚いていないようだったが、それは特に慰めにもならなかった。
そんな周囲の様子など気にもせず、雪蓮は蓮華にアドバイスを続けている。

「立場や役柄に重みを感じるのは当然よ。そこには確実に、他人への責務というものが混じっているからね。その重みを和らげる方法は、人肌に触れる事が一番なの」
「で、ですが……私は別に」
「ん? 一刀に抱かれるのが不安なの? 一刀はとても、上手だったんだけどなぁ」

うわー、何かさらりと、とんでも発言をしてくれているなぁ。事実だから、否定しないけど………ああ、周囲の視線が痛い。

「ふーん、そうなんだ。ねえねえ、一刀って、上手なの?」
「本人に質問されても、分かりかねないと思うけどなぁ」

無邪気な顔で質問をしてくる小蓮に、俺は苦笑するしかない。と、何を思ったのか、小蓮が元気一杯に手を上げた。

「そうだ、蓮華姉様が国主になるのが不安なら、シャオがなってあげよっか?」
「な………! いきなり、何を言い出すの、小蓮!」
「だぁってぇ〜、国主になれば、一刀とイチャイチャできるんでしょ? シャオだって雪蓮姉様の妹だし、国主になる資格もあると思うんだけどなぁ」

しれっと、笑顔でそんな事をいう小蓮。それを見て、蓮華の表情が怒りに変わった。まぁ、確かに不真面目な発言に取れたかもしれないけど、小蓮に悪気は無いと思う。

「国主という立場をなんだと思っているの!? 遊び半分で出来るものじゃないのよ!」
「そんなこと、わかってるもん! お姉ちゃんこそ、深刻に考えすぎなんじゃないの? せっかく一刀とベタベタできるのに、不安とかいうんだもん」
「だ、だから、何故、そこで一刀を引き合いに出すの!?」
「えー? だって、国主と一刀は一組なんでしょ?」

きゃあきゃあ、わあわあと言い争いをはじめる蓮華と小蓮。さすがに間近で被害を受けるのは嫌だったので、俺は雪蓮のベッドの近くに避難することにした。
同じように退避したのか、雪蓮のベッドの近くに居た冥琳が、俺を見つめて愉しそうに笑顔を向けてきた。

「なんだ、こちらに逃げてきたのか。両手に華の状況を楽しむものだと思っていたが」
「さすがに、あの渦中に居たくは無いよ。どっちが勝つ結果になっても、被害が俺に及ぶような気がするから」
「そうだな……違いない」

俺の言葉に笑みを浮かべ、冥琳は蓮華と小蓮に視線を向ける。周囲の状況など気にせず、喧嘩のような口論は続いている。それを見て、冥琳は呆れた様子で呟いた。

「随分と愛されているようだが……争奪戦のあまり、血を見るのは避けてもらいたいものだ。二人とも、雪蓮の妹であり、呉の柱石なのだからな」
「それを俺に言われても困るよ。焚き付けた張本人は、雪蓮なんだし」
「なによぉ、私は悪くないわよ」

俺の言葉に、不満そうな表情を浮かべる雪蓮。そんな雪蓮は、ひとまず置いておき……俺は冥琳に、気になった事を聞いてみることにした。

「それで、冥琳からしてみれば、どっちを雪蓮の代理にするべきだと思う? まぁ、順当に考えて蓮華だと思うけど」
「そうだな…………蓮華様は真面目過ぎ、小蓮様は不真面目すぎだな。どちらも、補佐するには物足りないだろうが……なんだ、急に笑顔を浮かべて」
「いや、聞いてて思ったんだけど、それってやっぱり、あの二人よりも雪蓮の方が良いって事なんだろ? 冥琳はやっぱり、雪蓮のことが好きなんだなって」
「な………!」

不意を打たれたのか、冥琳の顔に赤みが差した。俺の言葉に照れた冥琳だったが………それを、傍にいた雪蓮が見逃すはずがなかったのである。

「ふーん、そうなの? やっぱり冥琳は、私のことが大好きなんだ」
「別に、そんな事は誰も言っていない。北郷の勝手な推測だろう」
「もー、照れちゃって、可愛いんだから!」
「――――…」(ジロッ)

雪蓮にからかわれ、冥琳は恨みがましい目で俺を睨んでくる。あー、ちょっと不用意だったかな? あとで、色々と小言を言われような気がする。
と、そんなやりとりに気がついたのか、蓮華と小蓮が、ベッドの傍に避難していた俺に向かって詰め寄ってきたのはそのときだった。

「ちょっと、一刀! 何を自分は無関係だって顔をしているの!」
「そうだよ、一刀も当事者なんだからね!」
「いや、二人とも少し落ち着いてだな…………雪蓮も冥琳も、見ていないで助けてくれよ!」

どうしたものかと、傍にいた二人に助けを求めるが……冥琳は、冷たくそっぽを向いてしまった。さっきのことを根にもっているようである。で、雪蓮はというと……

「んー、まぁ、ここは一刀の甲斐性の見せ所でしょ。二人同時に相手をするって方法もあると思うわよ。あ、私を含めて三人って手もあると思うけど」
「なっ、さ、三人でだなんて………見損なったわよ、一刀!」
「いや、だから俺じゃないってー!」

余計に場を混乱させるようなことを言って、俺を窮地に落としてくれるのだった。まったく、この天性の小悪魔めっ……!

「一刀、いくら姉様の公認があるといっても、節度というものがあるでしょう? それに、できればその……初めてのときくらいは二人きりで……」
「ちょっと、お姉ちゃんったら、どさくさに紛れて何を言ってるの! やっぱり、お姉ちゃんも一刀ねらいだったんだ!」
「なっ、別にそんな事は言ってないでしょう! 今のは一般的な良識の話をしていたのであって……!」

きゃあきゃあと言い争う蓮華と小蓮。これは前途多難かもなぁ…………二人に挟まれながら、俺はこっそりと雪蓮を見る。
雪蓮は、俺の視線に気づいたようで、こっそりとウインクを返してきた。まあ、雪蓮が復帰するまでは、頑張らなければならないだろう。
蓮華も小蓮も良い娘なんだし、雪蓮の期待を裏切らないためにも、彼女達をしっかりと支えていくとしよう。

「聞いてるの、一刀!?」
「はい、すみません!」

そんなことを考えながら、蓮華の怒りの声に、反射的に謝る俺であった。何はともあれ、こうして俺達は、新たなスタートを切ることになった。
雪蓮はしばらくの間、第一線から身を引き、後釜に蓮華が座る事になった。俺は蓮華の補佐役として、公私共に彼女を支えることになったのである。

――――曹操の進撃より始まった、一通りの騒動は……こうして幕を下ろすことになったのであった。


――――了。

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