〜史実無根の物語〜 

〜其の二〜



何だか、変な夢を見た。フランチェスカ学園の制服を着た、俺と華琳が、夕焼けの道を歩いている。
不機嫌そうな華琳だったが、隣に並んで手を繋ぐと、仕方がないと言った風に微笑みを浮かべてくれた。そんな、温かい夢を見た。

「ふっ………ああ、もう朝か」

部屋の窓から差し込む朝日で、夢と自覚できる夢から覚めた。眠気まじりに目を擦ると、ベッドの傍らに立てかけてあった杖に目が向いた。
足の骨折という怪我から半年も経ち、日常生活に支障が無いほどには回復をしていた。杖に頼ったのは数ヶ月の間であり、ここしばらくは普通に過ごしている。
とはいえ、飛んだり跳ねたりは無謀なわけで………この前、調子に乗った俺は、馬にのって視察に行き、乗り降りの時に痛い目にあったのを思い出した。
まぁ、骨自体は問題なく繋がっているらしいので…久しく激しい運動をしていなかったせいで、筋肉がおかしな具合に引きつったんだと思う。

「って、そんなことを考えてる場合じゃないか………さて、着替えて朝議の席に顔を出さなきゃな」

とりとめもなく頭に浮かぶ考えを振り払うように、一つ頭を揺らすと、俺はベッドの上で身を起こした。
最初の数ヶ月は、部屋の中をまともに動く事もできなかった俺だったが、今は普通に城内を散策する事も出来るようになった。
まぁ、行動の自由が増える代わりに、時々開かれる朝議の席に出席したり、散歩がてらに警邏の真似事もしなければならなくなったが、それは仕方がないだろう。
働かざるもの食うべからず、というのはどこも一緒のようで、動けるなら仕事をするのは、蜀でも当然の事であった。



着替えを終えてから、玉座の間に足を運ぶ。不定期に朝早く行われる朝議には、文官武官の一部……国の上層部の面々が集って、大まかな方針を決定することになる。
ちなみに、出席は各自の自由であり、朱里や愛紗のように、毎回顔を見せるものもあれば――――恋や鈴々のように時たまにしか顔を見せない者もいる。
まぁ、重要な懸案は同日の昼頃に行われる会議でも取り立たされるわけだし、仕事熱心な者でなければ、出席する必要も無い、井戸端会議のようなものでもあった。
そんな会合の場に着くと、広間には一人の女の子が所在無げに立っていた。艶やかな黒髪と、凛々しい顔立ちが特徴的な愛紗は、姿を現した俺に笑顔を見せてくる。

「おはようございます。一刀様。今日はお早いのですね」
「ああ、おはよう。今日は愛紗が先に来ていたのか。朱里は桃香と一緒に来るのかな?」

ちなみに、桃香は君主ということもあり、朝議には出席が義務付けられている。朝も早い時間ということもあり、時折、寝床から出ようとしないこともあるらしい。
そんな彼女を起こす役割は、愛紗と朱里が交代で行っているらしかった。まぁ、曲がりなりにも君主なのだし、起こすにしても人を選ぶということなんだろう。

「…ええ。先ほど部屋を訪ねた時は、寝ぼけ眼で返事がきましたが、朱里に任せておきましたので、大丈夫でしょう」
「――――そうだな。朱里も愛紗と一緒で真面目だし、こと仕事ということになると、気弱な面も薄くなるからなぁ」

半年近くの付き合いで、朱里という女の子の、気丈な部分も身に染みてわかっていた。普段は気弱な部類なのに、重要な所では妥協をしないタイプだからな。
きっと今も、寝床で不満を漏らしている桃香に、怒ったような顔でお説教をしているに違いなかった。
そんな事を俺が考えていると、人の気配。出入り口のほうを見ると、雛里と紫苑、焔耶の姿があった。どうやら、彼女達も朝議に出席するらしい。

「お、おはようございます、一刀様」
「ああ、おはよう雛里。今日も出席か、偉い偉い」
「あ、あわわ……」

特徴的な帽子の上から頭を撫でると、雛里は照れたように、帽子で顔を隠して俯いてしまった。こういうリアクションが微笑ましくて、ついつい構ってしまうんだよな。

「あらあら、随分と楽しそうですね、羨ましいわ………ねえ、焔耶ちゃんもそう思うでしょ?」
「はぁ、いえ………それより、桃香様は、まだいらっしゃらないのでしょうか?」

雛里に構う俺の様子を見て、紫苑が焔耶に話を振るが、焔屋の方はというと、そわそわとした様子で玉座の間を見渡している。その様子を見て、愛紗が眉をしかめた。

「桃香様は、まだ寝室だ。朱里が起こしに行っているから、着座されるまでは、ここで待っているようにな」
「そ、そうですか………その、出来れば起こしに――――」
「却下」

即答であった。焔耶の桃香への傾倒ぶりは、愛紗も気に掛かっているようであり、時折こうして、釘を刺すことがあったのである。

「桃香様は、この国の主である大切な御方だ。そんな方のお世話を、簡単に任せられるはずも無いだろう」
「まぁまぁ、愛紗。そんな風に怒らなくても良いんじゃないか? 焔耶だって桃香のことを大切に思っているんだし、忠義の士は何にも代え難いものだろう?」
「う、ま、まぁ………一刀様の仰りようも、分からなくもないのですが」

俺の言葉に、愛紗は困ったように口ごもる。最近の愛紗は、俺のことを、それなりに評価してくれているのか、こうやって敬意を持った態度で接してくれるようになった。
最初の頃は、桃香にとって有害な相手かと、警戒心むき出しだったからな。そんなことを考えていると、愛紗の矛先を逃れた焔耶が、俺に向かって頭を下げてきた。

「ありがとうございます、御館様」
「いや、大したことじゃないよ。それよりもその、御館様っていうのは勘弁してほしいんだけど。自分が偉くなったように錯覚して、時々、恥ずかしくなるからさ」
「あら、ご主人様ったら、ひょっとして照れておいでなのかしら? 何だか可愛らしいですね」
「紫苑もだよ。魏の方じゃ、俺の事は呼び捨てだったんだし、普通に呼んでくれって言ってるのに」
「すみません。でも、ご主人様って呼ぶことが、何となくしっくりと来るものですから」

ニコニコ笑顔の紫苑に言われ、俺はそれ以上は強く言えず、消極的に認めざるを得なかったのであった。
しかし、御館様に、ご主人様かぁ………魏での呼び名として、一番敬意があったのは隊長くらいだし、実際に言われてみると、凄く恥ずかしかったりする。
ここ最近では、たんぽぽや翠を始め…多くの人が俺の事を、ご主人様と呼ぶようになっていた。何となく、くすぐったい気分でいると、また誰かが広間に入ってきた。
どうやら、愛紗か朱里が気を効かせていたのか、お菓子とお茶の用意をしたメイドの女の子が二人、王座の間に入ってきたのである。

「おはようございます、皆さん。お茶の用意ができましたので、よろしかったらどうぞ………はい、ご主人様」
「ああ、ありがとう、月。詠も朝からご苦労さん」
「別に、こんなの大した苦労じゃないわよ。って、どさくさに紛れて月に触ろうとするんじゃないわよ!」
「ははは」
「何が、はははよ。まったく………」

そんなことを言いながら、ぶつぶつと口の中で文句を呟く詠。月はというと、困ったような申し訳ないような表情をしていた。
そんな風にじゃれあって、お茶を嗜んでいると、ようやく起きたのか、王座の間に朱里を伴って桃香が姿を現した。

「おはよう、みんな〜………うう、今朝もみんな、元気だね」
「ほら、しゃんとしてください、桃香様。一刀様も、そこにいらっしゃいますよ」
「一刀さん………?」
「ああ、おはよう桃香。何だか今日は眠そうだな」

朱里に促されて、こっちを見た桃香に俺が声を掛けると、桃香は大きなあくびを一つ。どうやらまだ、眠気が抜け切っていないようだった。

「うん、昨日は夜遅くまで色々と考え事をしていたから、眠くって………」
「そうか。まぁ、今朝は良い陽気だったからな。ずっと布団に入っていたいって気持ちも分からないでもないよな」
「うんうん、そうだよねぇ………そういうわけだから、一緒に寝る?」
「って、発想が飛躍しすぎだろ! 朱里、桃香はまだ寝ぼけてるんじゃないか?」

周囲から呆れたような視線を注がれ、俺は慌てたように場を誤魔化すように声を張り上げた。まったく、俺がいうのもなんだけど、マイペースだよな、桃香って。

「ちぇ………引っかかってくれないのかぁ。一刀さんって、変なところで真面目なんだから」
「桃香様、一刀様をからかうのはそのくらいにして、そろそろ朝議を始める事にしませんか?」
「はぁい。分かりました。それじゃあ、みんな席についてね」

愛紗に促されて、桃香は会議の席に設えられた上座に座る。桃香が席に付くのを待って、俺たちも席に座る事にした。
特に席次は決まっていないので、座る場所は適当ではあるが………愛紗と朱里は常に桃香の傍に座ることが常だった。朱里の隣には雛里、愛紗の隣には焔耶が座った。
焔耶としては、桃香の隣に座りたいところだろうけど、桃香の周辺は愛紗がガードしているため、仕方無しにその隣に座ったといった風である。
焔耶の隣には紫苑が座り、雛里の隣には俺が座った。給仕である月と詠は、それぞれの席を回って、かいがいしくお茶の世話をしていた。

「さて、それじゃあ………朱里ちゃん、今日の朝議の懸案を説明してくれる?」
「はい。今回の議題は、一月程後に迫った、三国間の留学交流についての話です」

桃香に話を振られて、朱里が説明を始める。前回の魏への訪問で、呉国からの提案があった件だと、俺も小耳に挟んでいる。
詳しい話は、こうである。現在は、それなりに交流があるものの、魏・呉・蜀の各国それぞれが、政治や軍事など、それぞれ秘匿する所が、まだまだ多く残っている。
出来ればこの機会に、それぞれの国の政治や文化のありようを学び、自国の繁栄に役立てる制度を作ってはどうだろうか。というのが留学交流の概要であった。
他国に人材を派遣して、レベルアップを図るという話だが、逆に考えれば、自国の技術を持っていかれるという話しでもあり、一長一短の制度とも言えた。

「留学交流の場所としては、魏の洛陽が選ばれています。魏国の実力が飛びぬけている事を考えれば、当然のことでしょうけど」
「しかし、ほぼ決定しているとはいえ、よく魏国の面子が納得したものだな………向こうにしてみれば、一方的に学ばれるだけで、旨みは無いだろうに」
「その通りですけど………華琳さんの鶴の一声で決まったらしいですよ。盗めるものなら、盗んでみなさいとの言っていたらしいです」

愛紗の疑問に朱里が答えると、会合の場にいた面々は一様に苦笑を浮かべた。俺も思わず、笑いが口から出た。
相変わらず、自信満々な様子の華琳が容易に想像できて、どこか安心した気持ちも若干ながら含まれていた。
そんな、和んだ場の空気の中で、朱里は桃香に顔を向けて、困りきったような表情で、質問をした。

「今回の議題は、留学する人材の餞別なんですけど………本当に、桃香様も行かれるつもりなんですか?」
「うん。だって勉強をしに行くんでしょ? 私もまだまだ勉強不足なんだし、こういう機会に、他国の文化に触れてみるのも良いかなって」

そう。留学にあたって一番の問題となったのが、国主である桃香も留学に行きたいと言い出した事であった。
留学の期間は、試しということもあり、2、3ヶ月となる予定だが、短期間でも国主が国を空にするのはどうだろうと、前々から反対意見が上がっていたのである。
その代表格である愛紗が、苦りきった様子で桃香に諫言を始めた。

「桃香様………桃香様には国を統べるという大役があるのです。そもそも、桃香様がいなくなったら、誰が皆を取りまとめるというのですか」
「んー、そうだね。白蓮ちゃんに任せれば問題ないと思うけど」
「問題があるとか無いとか、そういう話ではありません。私も鈴々も、桃香様だからこそ付き従っているのであって…他の誰にも、桃香様の代役は誰にも出来ないのですよ」

桃香の提案を、厳しい表情で愛紗は突っぱねる。まぁ、白蓮が悪いってわけじゃなくて、桃香の代わりが居ないという事は、俺にも何となくわかる。
御旗である桃香を大事に思うのは分かるし、出来れば城で大人しくしていてほしいという気持ちも分からないでもない。ただ、大事にしすぎるのも、どうかと思うけど。

「なぁ、朱里。一つ聞きたいんだけど………留学場所は、洛陽近辺になるって言っていたよな」
「はい。留学する人たちの逗留先は城内に部屋を用意し、市外や近辺には警護のために兵を配置すると決まっていますけど」
「なるほど、なら、安全面については信頼できるっていうわけだ。魏としても、留学した相手に何かがあれば、国としての面子が潰れるわけだし、真面目にやるだろうな」
「………一刀様? その言いようを聞くと、貴方は桃香様の留学に、賛成しているように聞こえるのですが」

朱里の言葉にうんうんと頷くと、俺の話を耳にした愛紗が、呆れたような表情で俺に質問をしてきた。
俺にも桃香の説得をしてほしかったんだろう。確かに、君主が留学するというのは問題なのかもしれないけど、俺としては桃香の熱意を肯定したかったのだった。

「ああ。確かに君主が城を出るというのは大事だけど、遠征とかで国を長期間、空にすることもあったんじゃないか? 今回は留学だし、危険も少ないと思うけど」
「いえ、しかしですね………桃香様に万一の事があった場合のことを考えると――――」
「なら、愛紗が傍で護れば問題ないんじゃないか? 確かに、今までに無い話だし、大事に考えるのは分からないでもないけど」
「………そうですね。では、桃香様が行かれるのであれば、私も共に参るとしましょう。もともと、言い出したら聞かないですからね、桃香様は」

俺の言葉に、愛紗は重々しい表情で頷く。気負いすぎだと思うけど、愛紗の立場からすれば、無理も無いだろうなぁ。
一年ほど前までは敵対していた国への留学――――不測の事態が起こってはと、考えるのも仕方がないだろう。華琳の事は信じているけど、何事にも例外はあるだろうし。
そんな愛紗の心配など、どこ吹く風といった風に、桃香は愛紗が了承の意を示したことを素直に喜んでいたのだった。

「愛紗ちゃんも一緒に、お勉強、頑張ろうね。あ、そうだ。せっかくだから、鈴々ちゃんも連れていこっか?」
「連れて行くも何も、桃香様と私が出かけて、鈴々を置いてけぼりにしたら、間違いなく怒られますよ。連れて行くしかないでしょう」

桃香の言葉に苦笑をすると、愛紗は朱里に顔を向ける。事の次第を聞いていた朱里は、仕方がないといった様子で笑顔を見せた。何だかんだで、朱里も桃香には甘いからな。

「そういうわけだ、朱里。桃香様も留学なさるということを考えると、警護もかねて人選を餞別しなおすべきではないだろうか?」
「そうですね………確かに、前もって考えていた人選には不安も残る事ですし、いっそ総入れ替えするのも、ありかもしれませんね」

などと言いつつ、桃香を挟んで、真面目な表情で議論を始める愛紗と朱里。結局のところ、今日の朝議は留学の人選のみで費やされる事になったのだった。
留学のため、洛陽に赴く面々は、以下の通り。桃香、愛紗、鈴々、朱里、雛里、星、翠、蒲公英、月、詠、焔耶、桔梗、紫苑、そして俺である。
その他に、警護役としての精鋭と輜重隊を含めて千名の兵士が、同行することになっていた。
留守居役は白蓮。その他にも恋やねね、麗羽や斗詩や猪々子、それに美以達、南蛮の面々も留守番をすることになっている。
そうして、準備にあっという間に時は過ぎて――――…準備を終えた俺達は、一路、魏の洛陽を目指した。俺にとっては、軽い里帰りのような気分である。

旅は順調、と言えるものだったが、問題が一つ。
留守番になった麗羽達や美以達が不満を持って、こっそりあとをつけてきたのである。結局、止めに来た白蓮や恋達も一緒に、洛陽への同行を認めることになった。
麗羽たちに気づいたのは、経路の中ほどを通過した後のことであり、このまま無理に帰すよりは、身近に置いておくべきだという判断に達したのである。
無論、麗羽などは華琳に敵対していた相手ということもあり、その存在を極秘に扱うということになった。

もっとも………人づてに聞いた話では、前に洛陽で麗羽たちが日雇いのバイトをしている時に、軽いブッキングがあったらしいのだが。
その時は、華琳は麗羽のことを気にも留めていなかったらしい。袁家自体は潰れているため、実害は無いだろうと判断されたのだろう。
そのことを考えると、そこまで心配するべき事でもないような気もするが、念を入れるに越した事はなかった。

そんな風な些細なトラブルは数多くあったものの、盛都から出立して長い距離を踏破し――――いま、俺たちの目の前には、洛陽の都が遠目に見えていたのだった。

「あと少しで、到着ですね。いかがです、久方ぶりに見た洛陽の街は」
「うん、なんていうか、変わっていなくて安心したって感じかな」

隣に並んで馬を歩かせる愛紗の問いに、俺は胸の奥に郷愁めいた気持ちを感じながら、そんな風に答えた。
俺が居なくなって早一年………きっと、洛陽の街の中は発展を続け、見慣れない店や、見たことのない人々が増えているだろう。
しかし、遠目にみる魏国の首都は、その雄大さと雄々しさは変わらず、俺の思いでの中に映るままに、そこに存在していたのだった。

「洛陽から一軍が姿を見せました。旗印には夏、楽、李、于と並んでいます。その数、おおよそ一万以上かと!」
「ほう、随分と仰々しい出迎えなことだ。数は十倍以上か………一戦するにしても、勝ち目は無いでしょうな」
「星の言う通り、戦うなら勝ち目は無いだろうな。でも。今回は留学生の警護が目的なんだから、過剰に反応する事もないだろ」
「うん、一刀さんの言う通りだよ。でも、これだけの人数が揃って都に入るのは、やっぱり向こうとしても、気になるって事かな?」

数は千名と少ないとはいえ、全員が選りすぐりの蜀の兵士である。訓練された他国の兵を、都の中に入れるのは混乱の火種になるのかもしれない。
そう思ったのは、俺だけではないらしく、桃香や桃香に話を振られた朱里も、難しい顔をして考え込む仕草を見せていた。

「そうですね………ここに来る事で目的は達成されたわけですし、警護の皆さんには、このまま休息をとった後で、帰ってもらう事にしましょうか」
「だね。無理強いをしたら、お互いに気まずくなりそうだし。それじゃあ、いったん軍を停止させて、休息をとる事にしようか」
「はい、わかりました。雛里ちゃん、各部隊に陣営の用意をするように伝えてくれる? その間に、向こうの軍の関係者に、連絡が行くように手配をするから」
「うん。それじゃあ、お願いしておくね」

朱里の言葉に、雛里はコクリと頷くと、近くに居た伝令の兵士に、事細かに指示を出し始めた。
にわかに周囲が慌しくなる。兵士達が周囲を駆け回り、陣を構築するために杭を打ったり、陣幕を張ったりと忙しく立ち動いていた。
気の早い兵士達の中には、炊事の準備をするものもいて、食欲を誘う良い匂いが、陣幕の中に流れ始めていた。

「それじゃあ、お出迎えの準備をしよっか? 愛紗ちゃん、鈴々ちゃんも、警護役をお願いね」
「はっ、お任せください」
「鈴々に任せておくのだ!」

桃香の言葉に、意気込んで応じる愛紗と鈴々。天気が良い事もあり、立ち並ぶ陣幕の真ん中に出来た、広場のような空間で、出迎えをする事になった。
しばらくの後………案内役の兵士に連れられて、魏の国の中核でもある複数の将が、陣内に案内されてきた。秋蘭に真桜、沙和、凪と見覚えのある顔ばかりである。

「お久しぶりです、秋蘭さん。わざわざの御足労、ありがとうございます」
「これは………陣内に劉旗が立っていましたので、もしやと思ったのですが………桃香様が、なぜ、このような所に?」

桃香に出迎えられた秋蘭は、答礼をしながらも、普段はクールな顔に戸惑った表情を見せている。一国の君主が、僅か千名の部隊で訪問するとは思ってなかったんだろう。

「留学をしに来たんですよ。せっかくの機会ですし、私もまだまだ、勉強しなくちゃいけませんから」
「………そうですか。その意気は華琳様もお気に召す事でしょう。後ほど、華琳様との面談の時間をおつくりしますので、それまでは城内でごゆるりと寛いでください」
「はい。よろしくお願いしますね」

微笑む秋蘭に、桃香も笑顔で応対する。こういう時、桃香は堂々としていて格好良いって思う。君主としての強かな面が強調されるからだろうか?
そんなことを考えていると、不意に視線を感じた。いつの間にか、桃香と話をしていたはずの秋蘭が、こっちに顔を向けていたのである。

「ところで一つ、御前での無礼をお許しいただきたいのですが。実は、この陣に旧知の友が居る事を旗印で気が付きまして、我々としても再会を手放して喜びたいのです」
「――――…ああ、そういうことですか。ええ、構いませんよ。みんな、温かく見守ってあげる気、満々ですから」
「ありがとうございます。それでは………久しぶりだな、北郷」

桃香に許可をもらった秋蘭は、まっすぐに俺のもとに歩いてきた。そうして、いつも通りといった風な口調で、さらりと再会の挨拶を投げかけてきた。

「ああ、久しぶり。秋蘭も元気そうだな。ところで、姿が見えないけど、春蘭はどうしているんだ?」
「姉者は、今は城内で待機している。華琳様を警護するためにな。それにしても………お前は変わらないな」

変わらないというのは、この場合、褒め言葉を受け取っていいんだろうか? 秋蘭が浮かべる静かな微笑みは、どことなく嬉しそうにも見える。
と、そんな秋蘭の両脇をすり抜けるように、二つの人影が小走りに、俺に向かって駆け寄ると、思いっきり抱きついてきたのだった。

「うわーん、久しぶりや! 会いたかったで〜、隊長〜!」
「真桜ちゃんばっかり、ずるーい! 沙和もね、会いたかったんだよ、隊長!」
「ちょっ、二人とも密着するな! ああ、もう、こんなに顔をグズグズにして………ほら、顔をふけって」

涙で顔をぐしゅぐしゅにしている真桜と、久しぶりの再会に、はしゃいだ様子の沙和。俺はとりあえず、真桜の泣き顔をどうにかしようと、ハンカチを差し出した。が、

「うう、あんがとな、隊長………ち〜〜ん」
「鼻をかむなー!」

渡したハンカチで顔を拭くだけならともかく、鼻までかまれて涙目になる俺。俺の部下は超マイペースな面々である事を、すっかり失念していたのだった。

「沙和も真桜も………隊長が困っているだろ。少しは離れたらどうだ? すみません、秋蘭様。仲間が騒いでしまったようで」

そんな状況を見かねてか、比較的に常識人でもある凪が、そうやって口を挟んできた。二人を注意しつつ、秋蘭にも謝るなど、気苦労の掛かる立ち位置のようである。

「いや、かまわないさ。むしろ、ああも明け透けに振舞えるのは羨ましいと感じるくらいだ。凪は、そうは思わないのか?」
「う………そ、それは」
「もう、凪ちゃんってば、隊長の前だからって真面目になりすぎなの! さっきまで、隊長が居るかもしれないーって、浮かれてたのにー」
「っ――――! 沙和!」

沙和の言葉に、顔を真っ赤にする凪。なんだかんだで、彼女も俺との再会を心待ちにしていてくれたらしい。そう考えると、果報者だよな、俺って。

「ふ………まぁ、ここであまり長話するのも気が引けるからな。挨拶はこのくらいにして、積もる話は後でゆっくりするとしよう」
「ああ。みんなには話したいことも一杯あるしな。またいつかの時みたいに、お茶でも飲みながら、ゆっくりと話そうな」

俺の言葉に、四人とも嬉しそうな表情で頷く。女の子としても好きだけど、やっぱりみんな、気心の知れた友人でもあるんだよな。
長く離れていても、当然のように茶飲み話のできる関係………そんな友達をたくさん持てて、俺は果報者だと思う。と、

「もぅ………一刀様ったら、デレデレしちゃって。みんなが呆れて見てますよ」
「え」

不機嫌そうに頬を膨らませた朱里に指摘され、俺は慌てて周囲を見渡す。と、四方八方から俺に向けて、しょうがないなぁ…といった視線が向けられているのに気づいた。

「うわ、ひょっとして注目されてたのか………恥ずかしいなぁ」
「それは………注目しますよぉ」
「隊長………あらためて聞くのもなんやけど、ここ半年ばかり、大人しくできんかったんやなぁ」

朱里の言葉を聞いて、真桜が呆れたように肩をすくめる。って、俺のことをどんな風に評価しているんだ?
真桜の言葉に憤慨する俺であったが、自己の評価と他人の評価というのは食い違いがあるもので………沙和と凪、秋蘭も呆れたような顔をしたのであった。

「それは仕方ないの。隊長の二つ名は魏の種馬なんだし」
「…大丈夫です、隊長。この程度の事では、わたしの隊長に対する信頼は揺らぎませんから」

沙和の言葉をフォローするように、凪が生真面目にいうけど………さりげなく沙和の言葉を肯定している事に、気がついているんだろうか?

「北郷………乱行は別に構わないが、きちんと仔細を華琳様に報告するようにな」
「――――それは暗に、俺に死ねと言ってるのか、秋蘭?」
「なに、北郷の気の多さは華琳様も知っている。そのお心を裏切っているのでなければ、責められこそすれ、咎められる事はないさ」

からかうような口調で、秋蘭は平然とそんな事を言ってのける。蒔いた種は、自分で何とかしろと、楽しそうな笑顔で言ったのであった。
まぁ、華琳には話したいことが、星の数ほどあるんだけど――――だからと言って、自分の首を絞めるような事を報告しろというのもなぁ………。

「まぁ、がんばりやー、隊長」
「骨は、きちんと拾ってあげるのー」
「はは………気楽だね、キミたち」

まさに他人事といった表情の真桜と沙和。心配そうな表情の凪と対照的な面々を前に、俺は笑うしかない状況であった。
そんな風に、のんびりとした和気藹々な空気に浸っていた時である。一人の兵士が駆け足で、桃香の傍に駆け寄って報告をするために礼をした。

「報告します。孫呉の軍が、ただいま陣営の近辺に到着しました。呉軍の指揮官から面談を求められたのですが、いかが取り計らいましょうか?」
「そうなんだ………わたし達は構わないけど、秋蘭さん達はどうします?」
「ふむ………」

桃香に話を振られた秋蘭は、数秒の間、沈黙をしたあとで………考えを纏めたのか首を縦に振った。

「我々としても、いずれは顔を合わせなければいけないのですし、この場で会うのも良いでしょう。呉の陣に行く手間も省けますから」
「………分かりました。そういうわけだから、陣の中に案内するようにしてくださいね」
「はっ、直ちに!」

桃香の言葉に敬礼をすると、兵士は陣の外に駆け出て行き――――直ぐに、複数の人を陣内に案内してきた。総数は9名。全員が見目麗しい女性である。
その先頭に立つ女性が、気さくな表情で桃香に声を掛けた。

「桃香、お久しぶりー。元気だった?」
「はい。雪蓮さんも元気そうですね」

桃香の真名を、気さくに呼んでいるあたり、かなり親しい関係なんだろう。確か、彼女は孫策だったよな。で、あっちの眼鏡を掛けた美人の女の人は周瑜だっけ?
他にも、そうそうたる面子が揃っているみたいだよな。孫権や甘寧、あっちは陸遜に周泰と呂蒙、それに――――…あれ?

「なんじゃ、儂の顔に何か付いているのか?」

俺がじっと見つめているのに気が付いたのか、怪訝そうな顔をされる。こうして見ると、人違いじゃないみたいだけど、聞いてもいいんだろうか?

「ええと、あらためて聞くと失礼千万な話だし、怒られるかもしれないけど、気になってしょうがないというか」
「…遠まわしにいうでない。聞きたいことがあるのなら、はっきりと申せ」
「それじゃあ遠慮なく――――黄蓋さん、あんた死んだはずじゃ無かったのか?」
「そ、そうだ………貴方は確かに、この手で撃ったはずだが」

俺の言葉を継ぐように、秋蘭は驚いた様子で目の前の女性――――黄蓋を見つめている。そんな驚きを隠せない秋蘭に、黄蓋は闊達な笑顔で挨拶をしてきたのだった。

「おお、夏候淵殿か。赤壁以来じゃな。元気にしておったか?」
「は、はぁ………」
「驚くのも無理は無いわ、秋蘭。私達も、この目で見るまでは信じられなかったからねぇ、冥琳」
「ええ。そうですね。まさかあの状況で生きていたとは、祭殿のしぶとさには感服せざるをえませんね」

孫策の言葉を受けて、周瑜は呆れたように肩をすくめた。その言葉を聞き、黄蓋はというと不満そうな表情で肩を怒らせる。

「…人を化け物か何かのように言うでない。実際のところは、万に一の幸運に救われただけじゃしの。こうして立てるようになるまでに一年もかかったしな」
「でも、生きていてくれて本当に良かったわよ。冥琳なんて、祭の無事を知ったら、わんわんと泣き出してね」
「雪蓮!」
「なによ、もー。照れなくてもいいんじゃない?」

顔を赤らめる周瑜に笑顔を向ける孫策。詳しい事はよく分からないけど、どうやら黄蓋さんは死んでいなかったらしい。

「しかし、儂のことを覚えているとは………余程、この儂の姿が心に残っていたらしいな」
「うん。まぁ………印象的だったよ。強かったし、美しかった」
「はは、なかなかに言うではないか。気に入ったぞ!」

黄蓋さんは、そう言って俺の背中をバシバシと叩く。何と言うか、力加減が出来てないのか、けっこう痛いんだけど。

「しかし、本当に良く死ななかったものですな。確かにあの時――――私の放った矢は、貴方の胸を貫いたはずですが」
「ああ。じゃが、華陀という童に助けられてな。正確には髭の筋肉達磨に担ぎこまれたらしいのだが。詳しい事は、よく分からん」
「華陀………確かに、名医という噂は聞いたことがありますが、筋肉達磨というのは一体…?」
「さてな、卑弥呼と名乗ってはいたが――――まぁ、儂はこうして今も生きているわけだし、細かい事は気にせんでもいいじゃろ!」

はっはっは、と笑う黄蓋さん。なんというか、細かいことを気にしない性格の人らしい。と、そんなことを考えていると、孫策さんが俺の顔をじっと覗き込んできた。

「………」
「な、何?」
「ねえ、貴方が天の御使いなんでしょ? 名前は、何て言うの?」
「北郷一刀………一刀って呼んでくれれば良いよ」

孫策さんに名前を聞かれ、俺が本名を告げると、彼女は満面の笑みを浮かべて俺を見つめてきた。なんだろう………可愛らしい笑顔なのに、どこか怖い感じがする。

「一刀か………祭のことを気にかけてくれてたみたいだし、あなたの事が気に入ったわ。雪蓮って呼んでくれていいわよ」
「姉様!?」
「蓮華ったら、そんなに大きな声をあげないの。冥琳、前々から話をしていた案………実行に移すことにするわよ。異論は無いわね」
「………あると言っても捻じ伏せるでしょう。北郷と言ったな………私の真名は冥琳。雪蓮が認めたのだ、私を失望させるなよ」

そう言って、凄みのある笑みを浮かべる冥琳。なんというか………話がまったく見えないんだけど。
と、そんな事を考えていると、雪蓮が俺の肩をつかんできた。両肩に万力のような力で指が食い込む………なんというか、加減知らずな人ばかりなんだけど。

「ねえ、一刀。貴方って魏の種馬って言われているんでしょ? その胤、呉でも蒔いてくれないかしら?」
「はい?」
「だから、天の御使いである、貴方の子種をもらいたいのよ。ここに居る娘たちは、その候補って事で」

一瞬、何の冗談かと思ったが、話をする雪蓮の顔は真剣そのもので………だからこそ、笑い話でもなんでもないことが実感できた。

「ええと、雪蓮………? 聞かせてもらいたいんだけど、何で俺なんだ? 別に天の御使いって肩書きがあっても、たいした力は何も持ってないぞ」
「うん。それは分かるわ。でも、天の御使いってのは確かなんでしょ。だからこそ、その胤が必要なのよ。子孫の繁栄のために………分かるでしょ?」

つまりは、天の御使いの血を引いた子供ということで、人民の敬意を得るということなんだろう。しかし、それって種馬と変わらないよなぁ。
雪蓮に肩をつかまれたまま、彼女の背後に居る女の子たちに目を向ける。雪蓮の話を耳にして、それぞれに思うところがあるんだろう。
面白そうに俺を見る娘、照れたように俺を見る娘、反感を持って俺を睨む娘と様々である。特に気になったのは、雪蓮の妹である孫権の表情だった。
明らかに、俺に対して反感を持っているように見える。まぁ、見ず知らずの相手の子供を身ごもるなんて、女の子にしてみれば、勘弁してほしいだろう。

「別に、貴方さえ望むなら、呉国の誰だって良いのよ。何なら、私でも………」
「雪蓮………ちょっと、いいかな」
「――――何? まさか、断ろうっていうのかしら」
「断るとか、断らないとかじゃなくてさ………せめてそういうのは、お互いに信頼できる間柄になってから、持ちかけるべきじゃないか?」

なんというか、雪蓮の言いたいことも分かるし、これが政略結婚のようなもので、全面的に否定する事が出来ないものである事も、何となくわかる。
ただ………なんというか、政略結婚でも、幸せな関係は築けるものだって俺は信じているし、こういう一足飛びな関係作りは、あまり乗り気にはなれなかった。

「せっかく、留学って名目で会うことが出来たんだし、お互いに好きになる時間は取れると思うんだ。だったら、こういうのは、なんというか――――」
「無粋って、言いたいわけか――――…分かるわよ。でも、仕方ないじゃない。魏も蜀も、あなたとの関わりを持っている。でも、私達には、まだ、何も無いわ」
「………」
「気分を害したのなら、ごめんなさいね。だけど、既に他の娘達との関係が深いなら、どうしたって気持ちはそっちに向くでしょ? だから、これは手付けみたいなものよ」

そう言うと、雪蓮は俺の両肩においていた手を離した。そうして、思わず見惚れてしまうほどの清々しい笑顔を、俺に向けてきたのである。

「その気になったら、いつでも訪ねてきなさい。呉国一同、もろ手を挙げて歓迎をするわ」

そうして、挨拶を済ませた雪蓮達は、来た時と同様に颯爽と立ち去っていった。帰り際に、孫権がこっちを見てきたけど、幾分か悪感情が和らいでいるように見えた。
華琳に報告があるからと、秋蘭達も洛陽に戻っていき………出迎えの使者が来るまで、俺は桃香達と一緒に、洛陽外の野営地で時間を潰す事になった。
待つ時間は、それほど長くは無かっただろう。小一時間も経過した頃に、秋蘭が戻ってきた。秋蘭を始め、沙和、真桜、凪と、先ほどと同じ顔ぶれである。

「お待たせいたしました。歓迎の準備が出来ましたので、ご案内するようにと華琳様の言伝です。桃香様を始め、主だった方々の御足労をお願いします」
「はい、分かりました。兵士さん達は、このまま帰しちゃって良いんですよね?」
「…いえ、華琳様の命で、洛陽内に宿泊場所を手配しています。夜営よりは幾分かましでしょうし、今日はそちらで旅の疲れを癒してから、帰国なさるといいでしょう」
「うわぁ、さすが華琳さん。至れり尽くせりだなぁ………そういうことなら、お言葉に甘えちゃってもいいよね?」

秋蘭の言葉に、感心した表情の桃香は、傍らに居た朱里たちに確認を取る。朱里と雛里は無言で目配せをしたあとで、肯定とばかりに頷いたのであった。

「ええ。長旅で皆さんも疲れているみたいですし、申し出を受けてもいいと思います。ただ、洛陽内で無用な騒ぎを起こさないように厳命するべきでしょうけど」
「…そうだな。桃香様の名を貶めないように注意はしておくべきだろう」

朱里の言葉に、愛紗が重々しく頷くと、鈴々や星、翠やたんぽぽも一様に、真剣な表情で首を縦に振った。
部隊の取りまとめ役として、白蓮が細かな厳命…乱暴はするな、略奪はするな、剣を抜くなと兵士達に告げている間に、俺は桃香達と一緒に、一足早く洛陽入りをした。
華琳との会見のため、洛陽の街中を突っ切って城に向かう。見慣れた街並みを歩きながら、俺は久しぶりの華琳との再会に、心を躍らせていたのであった。



秋蘭に先導されて着いたのは、城内にある中庭の一つであった。パーティの準備も終わっており、机の上に並ぶ料理は、流琉のお手製のもののようである。
座る椅子がないところを見ると、立食パーティのようで、会場内には魏の面々の見知った顔と、先に会場に付いたのか、呉の面々の姿もあった。
そうして、あたりを見渡していると、桂花と春蘭を左右にはべらせて、華琳がこちらに歩いてくるのが見えた。華琳………しばらく会わないうちに、また綺麗になったな。

「お久しぶりね、桃香。秋蘭から話は聞いたわよ。せいぜい頑張って、身の研鑽に励みなさい」
「ありがとう、華琳さん。色々とお世話をかけますけど、よろしくお願いしますね」

そんな風に、和やかに会話をする華琳と桃香を見ていた俺だったが、華琳の傍らに控えた春蘭が、物言いたそうに俺を見つめている事に気が付いた。
…何だろう? 普段だったら、どんな事でも物怖じせずに言ってくる春蘭にしては珍しいな。そんなことを考えていると、桃香と話していた華琳がこちらを向いた。

「さて、随分と懐かしい顔があるのだけど、何か申し開きはあるのかしら、一刀」
「申し開き………? ああ、連絡が遅れた事は謝るよ。色々と、心配をかけたみたいだし」
「別に、心配なんてしていないわ。私が聞きたいのは、一年近くも出奔し、私の期待に背いたという事実に関しての申し開きよ。桂花、軍規に照らすと、どうなるかしら?」
「はい。事は大逆罪の部類に入りますし、極刑も止むなしかと」

華琳の言葉に、桂花は真面目な様子でこたえる。なるほど、春蘭が物言いたそうにしていたのは、これだったのか。
その口調や態度から察するに、華琳も心底、本気なんだろう。もし俺が、華琳の期待に背けば、間違いなく死刑を言い渡されるに違いない。そういう女の子だしな。

「ちょ、ちょっと待ってください! 一刀さんに悪気が無かったのは、この前、話した通りで――――」
「桃香は少し黙っていてくれるかしら? これは魏国の問題で、蜀での一刀の働きなどは問題にならないのよ。春蘭、我が武器をこれへ!」
「は………っ」

さすがに華琳の命令には逆らえないのか、春蘭は華琳の武器である大鎌を両手に掲げる。華琳はそれを受け取ると、軽く一振り…その切っ先が、俺の喉もとに向けられた。
身動きが取れない。動けば、喉笛を掻き切られると、俺は本能で悟っていた。もともと、華琳自身もかなりの武芸者なのだ。実力で敵うはずも無かったのである。

「せめてもの手向けに、この私、自らの手で裁いてあげるわ。それで、覚悟は出来たのかしら? この曹孟徳の為に自らの命を差し出すのですもの。本望でしょう?」
「本望かって、聞かれてもな………華琳の為に死ぬのは、俺の本望じゃないんだけど」
「………何ですって?」
「なっ………! 北郷一刀っ! 華琳様に向かって何て言い草を………その一言だけでも、死罪は免れないわ!」

俺の言葉に、激昂したのは華琳よりもむしろ、桂花のほうだった。春蘭も、俺の言葉が意外だったのか、呆けたような顔でこっちを見ている。
華琳はというと、俺に武器を突きつけたまま瞳で先を促してきた。どうやら、言葉の途中で斬りかかって来るようなことは無いようだ。

「華琳の為って言うのなら、死ぬよりはむしろ、生きたいな。せっかくまた、こうして会えたんだし、華琳のために命を懸けるならともかく、犬死はごめんだよ」
「………ふぅん、命を懸ける…ね。それで、もし私が一刀の命が欲しいって言ったら、貴方はどうするのかしら?」
「――――時と、場合に寄るだろうな。少なくとも、こんな事で俺の命を絶つほど、華琳は愚かではないと信じているよ」

そう。俺の知っている華琳は、厳しさも尊さも併せ持つ少女だ。彼女の為に懸命になることに不満は無い。
だからこそ、この場面で死を賜るということは、俺にとっても華琳にとっても、不幸な事であると分かって欲しかった。

「華琳が許してくれるなら、また、華琳のもとで働きたいな。今度は勝手に、どこかに行かないように努力するからさ」
「………」

俺の言葉に、華琳は無言。俺の喉もとに突きつけられた刃は変わらないけど、華琳の持つ剣呑な空気は、薄れているようだった。

「そうだ………言い忘れていたけど――――ただいま、華琳」
「………おかえりなさい、なんてことは言わないわよ」

そう口にすると、華琳は構えていた武器の切っ先を俺からそらした。どうやら、許してもらったと思って良いのだろう。

「しかし、良かったよ。華琳にきちんと、ただいまって言えて。これだけは、華琳に初めに言いたかったからさ」
「あら………そうなの。ひょっとして、他の娘には、ただいまって言ってなかったのかしら」
「まぁ、一番に迷惑を掛けたのは華琳だし、それに、別れの言葉を言ったのも、華琳だけだったからな」

あの時、別れを告げたことが、俺の心の中に重いしこりとなって残っていた。俺が居なくなった後で、華琳は悲しんだんだろうか?
一度、さよならを伝えた俺にとっては、華琳との再会の時には、ただいまと言おうと、心の中で決めていた。
華琳の方から、予想の斜め上の行動に出られたこともあって、なかなか伝えれなかったけど、ようやく、肩の荷が下りたといった感じであった。

「ともかく、改めてよろしくな、華琳。俺に出来る事なら、政務から雑用まで、精一杯やるよ」
「そんなこと――――当然よ。貴方には、一年分以上の負債が溜まっているわけだし、これから精々、励むと良いわ」

華琳は、春蘭に武器を返しながら、さも当然の事のように言う。その華琳らしさが、何となく微笑ましくて、俺は知らず笑みを浮かべていた。
かたずを呑んで、状況を見守っていた周囲からも、ホッとした空気が漂う。と、静まり返った庭先で――――、

「この私を泣かせたんですもの。きちんと責任を、取ってもらうからね」

華琳が笑顔で、とんでもない爆弾発言を口にしたのであった。他の女の子だったら、爆弾でもなんでもなかっただろう。ただ、それを口にしたのが華琳なのが………、

「ほ、北郷! 貴様、華琳様を泣かせるなど、ど、ど、どういうことだ!」
「………北郷、事の次第によっては、華琳様が許しても、私達が許さないことは、理解しているな」
「ちょ、春蘭、それは華琳の武器だろう! 秋蘭も、淡々と矢をつがえないでくれっ!」

春蘭と秋蘭に詰め寄られ、俺は助けを求めて周囲を見渡す。しかし、周りの面々はというと、華琳の発言に多々な反応を示している最中だった。

「ふぅん、あの華琳を泣かせるとはねぇ、さすがは魏の種馬の面目躍如ってことかしら?」
「姉様、そんなことを言っている場合ではないと思うんですが。あのままだと、一刀が屠殺されてしまうかもしれないけど、良いんですか?」
「ん〜……まぁ、その時は、その時でしょ。藪をつついて蛇にかまれるのは嫌だし。何? ひょっとして蓮華ったら、一刀のことを気に掛けているのかしら」
「べ、別にそんな事は………」

呉の面々は雪蓮を筆頭に、関わる気はないようだった。むしろ、この騒ぎを酒の肴に、楽しんでいるような気配がする。

「まったく、ご主人様ったら何をやってるんだよ………助けに行っても、いいのかなぁ?」
「翠、悪い事は言わない…やめておけ。春蘭と秋蘭も本気のようだし、大立ち回りをして、桃香様の立場を悪くするわけにも行かないだろう」
「そんな事を言っても、愛紗もお兄ちゃんの事が気になって仕方ないみたいだし、翠とあまり変わらないのだ」
「なっ………鈴々! 変なことを言うな! 私はただ純粋に、一刀様や桃香様の立場を考えて――――」

蜀の面々は、俺に同情的な目を向けている娘達も居るけど、足並みも揃っていないし、助けを期待できそうになかった。
そうなると、後の頼りは魏の国の面々なのだけど――――、

「死んじゃえ死んじゃえ、死んじゃえ死んじゃえ………北郷のやつめ、華琳様を泣かせるなんて」
「ああ、涙を浮かべた華琳様が、一刀殿の手によって一枚一枚、その身も心も裸にされ、そうして、遂にっ………ぶーっ!」
「ほらほら、稟ちゃん。鼻血を出しちゃ、めーですよ」

軍師組は、駄目っぽいな。桂花はもちろん味方をしてくれないし、鼻血を出した稟の看病で、風も忙しそうだ。

「うー、兄ちゃんったら、華琳様を泣かすなんて悪い子なんだ。流琉もそう思うでしょ?」
「え、そ、そうだね………でも、華琳様を泣かせるなんて、いったいどんな事をしたんでしょうか?」
「まぁ、そこはそれ、男女のイロハってやつやろ。何だかんだで、華琳様も乙女っちゅうこっちゃ」
「男女のイロハ?」

季衣と流琉はというと、得意満面の霞の言う事に耳を傾けている。というか、変なことを教えないでくれ、頼むから。
しかし、そうなると後の助けになりそうなのは………そうだ、俺には頼りになる部下たちが居るじゃないか。彼女達ならきっと助けて………

「うわー、まるで、お人形さんみたいで可愛いのー! ねぇ、お名前は?」
「璃々っていうの! よろしくね、お姉ちゃん達」
「おう、よろしくなー。なぁなぁ、璃々ちゃん、からくりとかに興味あらへん?」
「真桜、子供に何を勧めているんだ………すみません、本当に」
「あらあら、良いんですよ。璃々も遊び相手を探していたみたいですから」

………くれないみたいだなぁ。紫苑が連れてきた璃々ちゃんを囲んで和気藹々と話しており、こちらの事に気づいても居ないようだった。
まぁ、よくよく考えたら、本気を出した春蘭と秋蘭に、まともに太刀打ちできる相手なんて、ほとんど居ないんじゃないだろうか?
つまり、俺の命はどう考えても、風前の灯といったところなのは、間違いないようだった。そんなことを考えていると、武器を持った春蘭たちが一歩前に出てきた。

「さて、覚悟はいいな、北郷」
「運がよければ、軽症ですむだろう。せめて華琳様に謝りつつ、逃げると良い」
「って、運がよくても軽症なのかよ! ああ、もう、勘弁してくれー!」

つきあってられるかと、俺は背中を向けて必死に逃げ出した。もし、運よく生き延びられたら、今後は決して華琳を泣かせないようにしようと、心に誓って。

「頑張りなさい、一刀! 無事に逃げ切れたら、今夜は可愛がってあげてもいいわよ!」
「って、華琳! また俺の立場が悪くなるような事を………うわぁ!」
「死ねぇい、北郷!」

華琳の武器を振り回す春蘭と、間断なく矢を放つ秋蘭に追い掛け回されながら、その後もしばらくは、命がけの鬼ごっこが続いたのであった。



――――ねえ、一刀。貴方に会えたら、いろんな事を話すつもりだったけど、何だか貴方の顔を見たら、どうでも良くなっちゃったわ。
一刀がこうして、ここに居てくれれば、語ることなんて勝手に沸いて出てくるもの。だから、もう二度と私の傍から離れないようにね。
いつか、一刀は言ったわよね。貴方は、私のものだって………だったら、もう二度と、あんな思いはさせないでちょうだい。

もし、また同じような事があったら、貴方の前で泣いてあげるわ。それが貴方には、一番に堪えるでしょうし。
それが嫌なら、私とともに在りなさい。この蒼天の空の下、この世界で私と共に………この世が泡沫の夢であっても、それが真実となるように。
たとえ琥珀の月の下にあっても、離してあげないわ。いいこと? 覚えておきなさい。何があっても、一刀は………私のものだからね。



――――終


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