〜史実無根の物語〜 

〜其の一〜



人も寝静まり、家々の明かりも消える夜半――――灯りのなくなる時間帯は、夜の星が自己を主張するように瞬いている。
漆黒のキャンバスに、輝く宝石を散りばめたような夜空………蜀の首都である成都。そこに立つ居城の廊下で、一人の少女が夜空を見上げて、呟きを発した。

「星々が、ざわめいてる………天に何かが起ころうとしているのかな?」

小柄な身体に、特徴的な帽子。まだあどけなさをのこす顔立ちで天を見上げる少女。天文に通じ、政略、軍略の両面に通じる少女の名は、鳳統。真名を雛里と言った。
どこか不安そうな表情で、天を見上げていると、傍らに人の気配。廊下の向こうから歩いてきたのは、雛里と似通った小柄な体格の少女だった。

「どうしたの、雛里ちゃん」
「あ、朱里ちゃん………少し、空を見ていたの。何だか、天文がおかしいように感じたから」
「空が――――? 本当だ、星の動きが活発になってきている。ここしばらくは、乱の兆しもなくて、安定していたのに」

朱里と呼ばれた少女は、雛里に倣って空を見上げ、眉をひそめる。諸葛孔明と一般に呼ばれている彼女も、空に掛かる変化の兆しに、気がついたようであった。

「動乱と栄盛………何か大きな変化があって、それが発展のきっかけになるってことかな?」
「うん………でも、悪い兆しじゃないみたい。凶兆を示す星が強くなっているというよりも、いくつかの吉兆が合わさって、星空が乱れているみたいだし」
「そっか。国内は安定しているし、呉も魏も、今は不穏な噂も出ていないから、雛里ちゃんの言う通り、そんなに心配する事もないよね」
「そうだと、思うけど――――あれ?」

夜空を見上げながら、朱里と話をしていた雛里は、ふと困惑したように首をかしげた。気のせいか、夜空の星のひとつが、強く光り始めたように思えたのである。
目をゴシゴシと擦り、空を再び見上げてみる。数多の星々は、一つ一つが砂粒のように小さいはずである。しかし、やっぱりよく見ると、一つの星が大きくなって――――

「…どうしたの、雛里ちゃん?」
「――――! 朱里ちゃん、星の一つが、こっちに向かって落ちてきてる!」
「えっ?」

雛里の言葉の意味を、朱里が理解するよりも早く――――二人の周囲が眩しい閃光に包まれ…次の瞬間、光に続いて何かがぶつかる様な轟音が、周囲に響き渡ったのであった。
激しい光の眩しさと、唐突な轟音に、朱里も雛里も顔を覆い、可愛らしい悲鳴を上げる。

「はわわっ!?」
「あわわ!?」

思わず瞳を閉じる、朱里と雛里だったが…幸いな事に光も音も、数秒間続いた後は、収まったようであった。恐る恐るといった風に、こわごわと目を開ける朱里。
光避けにと、目深にかぶっていた帽子の淵をあげながら、雛里も閉じていた目を開ける。二人は先ほどの出来事は何だったんだろうと、周囲を見渡して首を傾げた。

「な、なんだったんだろう………凄い光だったね。雛里ちゃん、大丈夫?」
「私は大丈夫………あれ? あそこ………誰かが倒れてる」
「えっ?」

雛里の指差すほうに、朱里が目を向けてみると――――そこには、月光の光を照り返すような、光り輝く服を着た青年が、倒れこんでいたのだった。

「さっきまでは、こんな所に人なんていなかったよね………いったい、どうしたんだろ?」
「朱里ちゃん、ひょっとしてこの人って――――」

恐る恐るといった風に、倒れた青年を覗き込む朱里と雛里。二人の少女に顔を覗かれている状況だが、青年は起きることもなく眠り続けているようであった。



まどろみから目が覚めて、目に入ったのは木造の天井。見知った天井ではなかったけど、そこにあるべき蛍光灯がないことに、俺はいち早く気がついていた。
首をめぐらして、部屋を見渡してみる。見たことのない部屋――――だけど、そこにある調度品は………現代科学とかそういったものとは無縁な意匠のものばかり。
大きく一つ息を吸うと、すっかり肌になじんだ、木々の混じる香りの空気を感じる事ができた。それで、俺は実感する………ここが、学園ではないということに。

「あ、目が覚めたみたい。もしもーし、大丈夫ですか?」
「ん………?」

ぼうっとした頭で考えていると、視界にひょっこりと女の子の顔が覗いた。ほんわかした顔の女の子。たしか、彼女は――――

「ええと、私のこと、分かります? 曹操さんと話をしているとき、何度か顔を合わせたことがあると思うんだけど」
「確か、君は――――劉備さん、だっけ?」
「うん。そういう貴方は、天の御使いさんでしたっけ?」

俺の言葉に…劉備さんは、ほがらかに言って笑顔を見せた。人を癒すような優しい笑顔に、俺も知らず知らず、笑顔で受け答えをする。

「うん、まあ………そんな風に呼ばれていた事もあったけど。俺の名は、北郷一刀………一刀って呼んでくれればいいよ」

俺は言いながら、ベッドから上半身を起こし、改めて部屋の中を見渡した。客間であろうか、素朴ながら、整頓された部屋のベッドの上に、俺はいる。
ベッドの傍らには、劉備さんのほかに、小さな帽子をかぶった女の子と、艶やかな黒髪を縛り、ポニーテールにしている少女が、劉備さんの隣にいた。
たしか、小さな女の子の方が諸葛孔明で、黒い髪の女の子の方が、関羽だったと思う。そんなことを考えていると、にこやかに劉備さんが話しかけてきた。

「一刀………それって、あなたの真名なの?」
「いや、俺には真名ってものは無いんだ。華琳は一刀って呼び捨てにしていたけど、劉備さんもそれで良ければ…」
「――――…私のことは、桃香って呼んでくれていいですよ。華琳さんが認めた人ですし、こうして話していて、信頼できる人だって何となく分かりますから」

桃香と名乗った女の子は、そう言って朗らかに笑っている。その鷹揚な態度に、傍に従っていた二人は呆れた表情をしている。
どうやら、真名を呼ぶことには反対されていないようだし、遠慮するのもなんだから呼ばせてもらうことにしよう。俺は一つ咳払いし、桃香に向き直る。

「それで、桃香………一つ聞きたいんだけど」
「はい?」
「どうして俺は、こんな所にいるんだろうか」

確か、おぼろげながら最後の記憶は、月夜の晩に華琳と話をしていた事が思い出される。あの時、自分の存在が希薄になりつつあるのを感じ、意識が遠のいたんだけど…。
それから先のことは、覚えていない。何だか長い間、夢を見ていたような気がするんだけど。そんな俺の質問に、桃香は困り顔で首を傾げる。

「それは、こっちが聞きたいくらいなんだけど…朱里ちゃん達が、流星と一緒に姿を現したって言っていたけど――――どうなの?」
「あ、はいっ。そうなんです」

桃香に話を振られ、小さな身体の女の子が、慌てた様子で首を縦に振る。朱里と呼ばれた女の子は、考えをまとめるように顎に手をやりつつ言葉を口にする。

「昨夜遅く、城内に流星と思われる光が落ちてきました。私をはじめ、起きている人達の多くが、それを目撃しています」
「それなら私も知っている。もっとも、鈴々をはじめ、寝入っていた者の方が多い時分だったがな」
「はい。それで、気がついたら………ええと、一刀様が地面に倒れ付していたんです」

俺の方をちらりと見てから、俺のことを様付けで呼んだ。どうやら、どんな風に呼べばいいのか、彼女なりに悩んでいたらしい。

「別に、そんなかしこまった言い方をしなくても、普通に一刀って呼んでくれればいいよ」
「はわわっ、そ、そんな事はできませんよ! 何しろ、天の御使い様ですし、華琳さんの大事な人なんですから」
「いや、まぁ………それならそれで良いんだけど。ところで、桃香の事は真名で呼んでるけど、君達の事はどう呼べばいいんだ?」

いちいち、人と出会うたびに真名を呼んでいいのか確認しなければならないのは面倒だけど、まぁ、習慣だから仕方ないだろう。

「はい、私の事は朱里って呼んでくださればけっこうですよ」
「私の真名は愛紗という。桃香様が認められた方だ、真名を呼ぶことを認めるのは臣下として当然だろう」
「もう、愛紗ちゃんったら真面目さんなんだから」
「桃香様がお気楽過ぎるだけです。まったく………素性が分かっているとはいえ、こんな少人数で面会をしようなどと………」

そう言うと、ぶつぶつと口中で文句を言う愛紗。どうやら見た目どおり、忠義一辺倒な女の子らしい。まぁ、あの関羽なんだし、無理もないのだろうけど。

「ええと、つまり朱里の話だと、その流星と一緒に、俺は何も無いところから忽然と現われたわけだ」
「はい。現われる際に、けっこうな怪我もしたみたいですけど………その様子だと、大丈夫そうですね」
「へ………怪我――――って、何だこれ!?」

朱里にそう言われ、俺は今さらながら、ベッドに寝ている自分の身体の一部――――有り体に言うと、右足がおかしなことに気が付いた。
布団を剥いで見てみると、膝より先がグルグルと包帯で巻かれ、まるで丸太のように固定されていた。なんと言うか、病院とかでよく目にするギプスのようなものである。

「その、一刀様が現われたのは屋根の上だったみたいで…実際に見たわけではないですけど、ごろごろと屋根を転がり落ちて、そのまま足の骨を折ったみたいなんです」
「………ひょっとして、今まで気づかなかったの?」
「ああ。まぁ、屋根から落ちて、このくらいの怪我で済んだなら運が良かったと思うよ」

下手をすれば、首の骨を折ってお陀仏という事も考えられたわけだし、それを考えれば大した事はないだろう。何事もプラス思考でいった方がいいしな。

「なるほど。どうやら初めて、この世界に来た時と同じような状況だったみたいだな。怪我とか細かな違いはあるみたいだけど」
「この世界に来た――――って、ひょっとして、天界に戻っていたんですか? 半年前に出奔したって噂を風の便りで聞いた事があるんですけど」
「………半年前?」

桃香の言葉に、俺は首を傾げる。何故だろう、何だか物凄く、嫌な予感がしてならないんだが。

「一つ聞きたいんだけど………盛都を魏軍が攻め落としたのは、どのくらい前のことになるんだ?」
「――――…前の戦いは、半年前だ。それから一つ訂正すると、攻め落とされてはいない。落城する前に、停戦をしたのだからな」
「あ、ああ………ゴメン。しかし、半年前か」

愛紗の言葉に、俺は謝罪の言葉を口にしてから溜め息をつく。華琳との別れ――――あれから数日は寝ていたと思ったけど、まさか半年も時間が飛んでいるとは。
しかし、参ったな……一日どころか、半年も仕事をほったらかしにしたとなると、俺の立場というものが無いような気がする。まぁ、もともと無いようなものだったけど。
それに、華琳との別れ際に、物凄く木っ恥ずかしい事を言ったような気がする。なんというか、もう二度と会えないと思って、本心が口を付いたというかなんというか。

「戻ったら、華琳に絞め殺されかねないかもしれないな………とはいえ、戻らなければいけないんだろうけど」
「うーん。何があったか詳しくは聞かないけど、そんなに落ち込んだ顔をしなくても、きっと大丈夫ですよ。華琳さんも、一刀さんのことを知れば喜ぶと思いますし」
「そうかな…? だったら嬉しいんだけどね。ありがとう、励ましてくれて」

俺が礼というと、桃香は何故か、もじもじと身じろぎをして頬を赤らめた。ひょっとして、面と向かってお礼をいわれるのに、慣れていないんだろうか?

「あ、あはは。いいんですよ、そんな風にお礼を言わなくても。とにかく、足が治るまでは安静にしてもらわないと。戻るにしても、片足じゃ旅は出来ないんですから」
「そうか。そうだよな………すまないけど、しばらくの間、やっかいになって良いかな?」
「ええ、構いませんよ。しばらくと言わず、気が済むまでいてもらって良いですから」

朗らかな笑顔で、桃香は俺の頼みを請け負ってくれた。なんというか、良い子だよな。感謝の気持ちを込めて彼女を見つめていたその時、前触れもなくドアが開いた。

「おーい、お兄ちゃんは起きたのか?」
「鈴々! 今は、面談の最中だぞ!」
「まぁまぁ、つれないことを言うな、愛紗。ふむ、この方が噂の御仁か」

部屋に入ってきたのは、小柄で元気一杯な女の子と、飄々とした風貌の女の子だった。確か、彼女達は張飛と趙雲だったと思う。

「ええと、愛紗、彼女達は?」
「彼女達は、我が蜀の将で張飛と趙雲だ。名前は聞いた事があるだろう。鈴々、星、こちらは北郷一刀殿。魏の主要人物であり、天の御使いなのは知っているな」
「鈴々は鈴々なのだ! 愛紗が真名を呼ぶのを許しているみたいだし、鈴々って呼ぶといいのだ」
「ふむ……まぁ、愛紗の態度を察するに、信用の置ける御仁であるようだし、私のことは星と呼んでくれれば良いぞ」
「鈴々に星か………よろしくな」

口々に自己紹介する彼女達に挨拶をしながら、俺はしばらく前のことを思い起こす。春蘭や秋蘭とも、こういう会話を最初に交わしたんだったよな。
華琳のことも気に掛かるけど、他のみんなもどうしているんだろうか? 元気にしているといいんだけど。

「あ、お兄ちゃんが何だか遠い目をしているのだ。どうしたのだ?」
「あ………いや、なんでもないよ。ちょっと考え事をしていただけさ」

怪訝そうに小首をかしげる鈴々に、俺はそう言って誤魔化す。さすがに女の子のことを考えていたとは、言いづらかったのだった。

「まぁ、こうやってお世話になるからには、俺に出来ることなら何でもするよ。一通りの政務なら、足に怪我をしてても手伝えるだろうしな」
「本当ですか? それならぜひ、一刀様の知っている、天界の知識というものを教えてほしいです。色々と、参考になりそうですから」
「それほど大したことは教えられないと思うけど、朱里が知りたいのなら、喜んで教えるよ。知りたい事があったら、何でも聞いてくれればいいから」
「は、はい。よろしくお願いします………」

俺の言葉に、照れたように顔を赤らめる朱里。恥ずかしがりやなのか、照れる仕草は可愛かった。と、

「ふむ、それでは一刀殿の女性遍歴を教えてもらえぬかな? なにやら魏の国元では、魏の種馬として有名だったそうではないか」
「な――――!?」
「ちょっ、星! 物事を問うにしても、聞き様というものがあるではないか!」

とうとつ過ぎる発言に、俺以上に驚いたのは、愛紗だった。しかし、星という少女の方はというと、しれっとした表情で済ました顔をしていた。

「そうは言ってもな、愛紗とて気にはなっていたのだろう? 大事な主人がたぶらかされるのではないかとな」
「う、そ、それは………」

星の言葉に、愛紗は困った顔で言葉に詰まる。どうやら、俺の異名は遠く蜀にまで響いているらしい。まったく、嬉しくはないんだけどな。

「それで、いかがなのかな? まったく身に覚えがないというわけでも無いのでしょう?」
「あー………」

参ったな、なんて言ったらいいんだろう。濡れ衣だって主張しても、信じてくれそうにないし、実際、まったくの事実無根というわけでもないしなぁ。
よく分かっていないという風な鈴々や、警戒するように桃香を護ろうとする愛紗。ニヤニヤとしている星に、顔を真っ赤にしている朱里と反応は様々である。
ともあれ、なんて言って弁解すれば良いんだろう………新たに始まる療養生活の多難さを予感し、俺は内心で今一度、深い溜め息をついたのだった。



魏が大陸統一を果たした後………蜀と呉の領土は、それぞれの君主であった劉備と孫策に返還された。
本来は、返還するにあたって反抗の力を摘むために、重い税や不利な条約が締結されるのが普通である。しかし、魏の君主である曹操は、それを良しとはしなかった。
重税は結局のところ、民に負担を強いる事になり、反抗の火種ともなる。そういった考えもあり…ほぼ無条件で、それぞれの国の返還が行われたのだった。
無論、その背景には…たとえ両国で反乱を起こされても、魏一国でそれに対抗できるという自信と実力の裏づけがあったからこそなのだが。

返還を行ってから早一年………魏・呉・蜀の三国間の関係は、至って良好といえた。魏の首都である洛陽にて、今日も君主達による会合が開かれる事になっている。
会合といっても、その実は食事会のようなものであった。料理や酒に舌鼓を打ち、和やかに会話をする様子は、平和の象徴ともとれた。

「桃香、楽しんでいるかしら? 流琉の作った料理が口に合えば幸いだけど」
「あ、はい。楽しませてもらってますよ。料理も美味しいし………お酒の方は、ちょっと付き合いきれないですけど」

会合の席、のんびりと食事を取っていた桃香のもとに、華琳が上機嫌に近寄り、声をかける。桃香はというと華琳に対し、物怖じする事も無く、笑顔を見せる。
ちなみに、桃香や華琳の席の反対側では、孫策や厳顔、趙雲などの酒豪が集まって一代宴会を開いている。大騒ぎをする娘達を見て、華琳も呆れたような顔を見せた。

「あれはウワバミの集まりね。無理に付き合う必要は無いわよ。それに、貴方に酒を与えると色々と困った事になるからね」
「?」

桃香の絡み酒に、迷惑をこうむった事のある華琳は、なるたけ桃香には酒を飲ませないようにと考えていた。そんな華琳の考えは、桃香には届かなかったのであるが。
まぁ、こうして料理で満足している分には大丈夫でしょ。そんなことを考えていたときである。

「あ、そうだ。華琳さん………一刀さんのことなんですけど」
「――――え?」

何のことはないという風に、桃香がそんな事を口にしたのである。その言葉に、会場内の喧騒が一瞬、小さくなった。黙り込んだのは一様に、魏の主要人物たちである。

「あれ、どうしたの? 急に黙り込んじゃって」

楽しく酒盛りをしていた雪蓮は、目の前で酒を酌み交わしていた春蘭が、驚いたように杯を落としたことに、怪訝そうな顔を見せた。
鈴々とじゃれていた季衣達も、朱里と論舌を交わしていた稟達も、会場の警護をしていた凪達も――――…皆、その名前を聞き逃す事はできなかったのだった。
そんな風に、多くの視線が桃香に集中する中で、その爆心地のもっとも近辺にいた華琳は、奇妙な予感を胸に感じながら、恐る恐る桃香に問いかける。

「…ちょっと待って。一刀の名前を、何で貴方が口にするのかしら」
「何でって――――…一刀さんは、今、私達の国に滞在しているんですよ。あれ、言ってませんでしたっけ?」
「――――初耳なんだけど」

のんびりとした桃香の言いように、不機嫌そうに眉根を寄せる華琳。一刀がいるというのは、どういうことなのか、そのことを問い詰めようと口を開こうとして…。

「それはどういうことだっ! あいつは華琳様の目の前で消えたと聞いているぞ!」
「わひゃっ!?」

血相を変えた春蘭が割って入ってきたのであった。酒が回っている事もあってか、普段よりもガラの悪そうな雰囲気のままに、桃香に詰め寄る春蘭。
そのまま掴み掛かりかねない剣幕に、愛紗や鈴々の表情が鋭くなる。会合の席では、刀剣類の所持は禁じられているが、彼女らは素手でも桃香を護ろうとして………。

「下がりなさい、春蘭!」

その場に響き渡った華琳の言葉に、動きを止めた。怯えたような桃香を背に庇い、自分の部下の動きを封じるように、鋭い声をあげたのは華琳であった。

「で、ですが、華琳様」
「………貴方の言いたいことはわかるわ。でも、皆が寄ってたかって質問攻めにしたら、桃香が可哀想よ。ねえ、そう思うでしょ?」

最後の確認は、春蘭にというわけではなく、近寄ってきた他の皆に対して、けん制するかのような言い回しであった。
華琳のその言葉に、その場に集まった面々は顔を見合わせた。そうして無言のやりとりが行われた後で、皆を代表して声を発したのは秋蘭であった。

「では、この場の尋問は華琳様が行うという事で………皆、異論はないな」
「じ、尋問って――――やだなぁ、そんなに血相を変えなくても………やっぱり一刀さんって、こっちでも人気者なんだ」
「………色々と問い詰めたい事はあるけど。とりあえずは聞いてあげるわ。結局のところ、一刀は今、どこでどうしているのかしら」

拗ねたような桃香の物言いに、何となく不愉快なものを感じながらも華琳は桃香に話を促す。桃香は、しばし考えを纏めた後で、一刀の現状を口にする事にしたのであった。



「なるほど〜、お兄さんは足を怪我して、そっちで療養をしていたんですね。で、そのついでに蜀の人気者になってしまったと」
「なんや、隊長らしいっちゅうんか、なんちゅうか………どこに行っても種馬は健在って感じやな」
「真桜………その言い方はどうかと思う」

桃香の説明…一刀が怪我をして、半年前から蜀の盛都で療養していると聞き…風や稟、季衣に流琉、凪に沙和に真桜といった面々は、一様にホッとした表情を浮かべた。
日々の仕事に忙殺されているといっても、想い人の安否は心配の種であり、ふとした時に思い出して不安に胸が締め付けられることのあったのである。

「でも、一刀さんは色々と頑張ってくれているんですよ。足が不自由で遠出が出来ないけど、朱里ちゃんの相談役になってくれてますから」
「………そう。元気にしているのね」

笑顔で一刀のことを話す桃香に対して、華琳は若干ではあるが、不機嫌そうな顔。その不機嫌そうな顔に影響されてか、苛立った表情をしたのは春蘭である。

「それにしても、たかだか足の一本を怪我したからといって、半年も華琳様のもとに馳せ参じないとは………あいつも存外に根性が無い」
「いや、足の一本って、けっこう大変な事だと思うんですけど」

春蘭の言葉に、呆れたように桃香が合いの手を入れるが、頭に血が上った春蘭には届かなかったようである。
普段は、春蘭と仲違いばかりをしている桂花も、この時とばかりに華琳に対して、諫言めいた口調で一刀を追い落とすような言葉を発したのであった。

「そうですよ。たかだか怪我で華琳様のもとに戻らないというのなら、北郷の忠誠というのも、その程度のものだったのでしょう」
「………」

桂花の言葉に、華琳はわずかに肩を落とす。自分のもとに一刀が戻ってこない……それがたとえ怪我が理由だとしても、それは華琳よりも優先されるものなのだろうか?
そんな、心に掛かった暗い気持ちに、人知れず懊悩していた華琳を見て………桃香は気まずそうな表情で、華琳に向かって頭を下げた。

「ごめんなさい。多分、それは私達のせいです」
「――――え?」
「それは、どういうことですかな、桃香殿」

桃香の言葉を聞いて、キョトンとする華琳の代わりに、静かに問いかけたのは、華琳の傍らで事の次第を聞いていた秋蘭であった。彼女の問いに、桃香は静かに返答する。

「言葉通りの意味です。私達の国は、魏に比べてもまだまだ発展途上の国で、だから、色々と困った事を一刀さんに相談しては、解決の手伝いをしてもらっているんです」
「なるほど、しかし、それが北郷が華琳様のもとに戻られない理由には………」
「一刀さんが、頼まれたことを放り出す性格だと思いますか?」
「………」

桃香の静かな物言いに、秋蘭は沈黙する。脳裏には、北郷と共に過ごした日々が思い起こされた。どんな無茶も、最後には引き受けてしまう青年。
それは、皆が共通して知っている事であり、桂花でさえも、それに反論することもできず、悔しそうな表情で桃香の話を聞いていたのだった。

「本当は、一刀さんは一日でも早く、華琳さん達に会いたいと思うんです。でも、色々と大変な私達を放っておける性格じゃないから………」
「………ふぅ、分かったわよ」
「華琳さん」
「一刀のおせっかいは、筋金入りだしね。しばらくの間は、あなた達の手伝いをするのも良いでしょう。その代わり、ちゃんと顔を見せるように伝えておきなさいな」

こっちから会いに行くのも癪だしね………と、言外に告げる華琳の様子に、桃香の顔に笑顔が浮かんだ。

「はい、ちゃんと伝えておきますね。あ、そうだ。一刀さんから皆さん宛に、手紙を受け取っているんですけど」
「北郷殿から、手紙ですか?」
「お手紙か〜。隊長って、そういうとこ、真面目だよね〜」
「あの、それってどこにあるんですか?」
「あ、はい、確か朱里ちゃんが預かっていたような………朱里ちゃん、手紙を出してくれるかな?」

稟や沙和、流琉に急かされて、桃香は近くで事の成り行きを見守っていた朱里に声をかけた。朱里は、心得たとばかりに桃香の言葉に大きく頷いたのであった。

「はい、それでは竹簡をとってきますから、少し待っていてくださいね」

そう言って、会合の場所から出て行く朱里。そうして、しばらくした後で、両手に山のような書簡を持って、戻ってきたのであった。

「ええと、春蘭さんと秋蘭さんへの手紙はこれ。季衣さんと流琉さんのはこれ………っと、順番に渡しますから、落ち着いて受け取ってくださいね」

朱里に名前を呼ばれ、皆が皆、各々に竹簡を受け取っては、顔を寄せて手紙の中を見つめていた。

「春蘭に秋蘭、元気にやっているか? 俺の方は元気にしている。俺が帰るまで、華琳のことはよろしく………まったく、そういうなら、早く帰ってくればいいものを」
「そう言うな、姉者。北郷に早く帰ってきてほしいという気持ちは分かるがな」

「季衣も流琉も元気にしているか、俺の方は………息、災い?」
「息災って読むのよ、それ。ほら、貸して。私が読んであげるから」

などと、きゃいきゃいと手紙を読んだり見せっこする魏の面々。その様子を蜀や呉の娘達は呆れたように見守っていた。
もっとも、呉の面々が状況がよく分からないといった顔をしているのに対し、蜀の関係者は、一刀の出した手紙の事を知っていたので、肩をすくめるに留めていたのだが。

「やれやれ、一騎当千の娘らも、一刀殿にかかっては形無しだな。さすがは魏の種馬といったところか」
「………一刀って、天の御使いの事よね。姿を消したって話に聞いていたんだけど」
「ああ。今は故あって、我々の国に滞在してもらっている。なかなかに洒落た御仁ではあるぞ」
「――――ふーん、そうなんだ」

星と話をしていた雪蓮は、なにやら考え込むような表情で、杯を一気飲み。そうして一息ついたところで、ポツリと口から言葉をすべり落としたのだった。

「天の御使いか………種馬という評判がどれほどのものか、一度、会ってみるのも良いかもしれないわね」



そんな不穏な会話は、幸いな事に華琳の耳には届かなかった。華琳もまた、朱里の持つ手紙に興味を引かれていたし、遠く離れた呟きを聞くほど地獄耳でもなかった。
そうして、朱里が次々と手紙を渡していくのを見ていると、華琳の肩をちょんちょんと叩く者がいた。華琳がそちらに顔を向けると、笑顔の桃香がいた。

「楽しみですか? 一刀さんからの手紙」
「別に、そんな事無いわよ。ただ、そうね………連絡の一つも寄越さない言い訳を、どう手紙に書き綴っているのかは興味があるわね」
「もう、素直じゃないんだから………そんなことを言ってると、手紙をあげませんよ」
「え?」

桃香の言葉に、驚いたように目を見開く華琳。そんな華琳の背後では、朱里が最後の手紙を渡し終えた所であった。

「実は、華琳さんの手紙だけは、特別に私が預かっているんです。きちんと渡してくれって頼まれてますけど。本人がいらないなら、渡さなくてもいいかと思うんですけど」
「誰も、いらないなんて言ってないわよ。ほら、早く渡しなさい!」
「やっぱり、ほしいんですね。はい、どうぞ」

おかしそうに笑いながら、桃香が懐から出したのは、紙の封筒だった。この時代、紙が貴重であることを考えても、それが特別な手紙である事は容易に推測できる。
華琳は厳かに封筒を受け取ると、封を開けて中から手紙を取り出す。そうして、手紙をじっと見つめて動かなかった。
その様子がただ事でない事を察したのか、華琳にいち早く声をかけたのは、春蘭だった。

「華琳様、北郷は何と言ってきているんです?」
「………大したことじゃないわ。読んで見なさいな」
「は、はぁ………ですが、私は持って回った文章は苦手――――って、何だこれは!?」

華琳から手紙を受け取って、それに目を通した春蘭は困惑した表情を見せた。真っ白な手紙に記されていたのは只一言、我想イ尓 (会いたい)と書かれていたのである。

「会いたい………って、これだけ? まったく、北郷のやつ…華琳様のことを何だと思っているのかしら!」
「確かに、奇を衒っているとしても、これはいささか問題があるような気がしますね」

春蘭の横から手紙を覗き見て、憤慨したような表情を見せる桂花。その隣にいた稟も、フォロー仕様がないと言った感じに肩をすくめた。
と、そんな春蘭や桂花、稟の様子を見て、面白そうに笑みをこぼしたのは、じっと話を聞き入っていた風であった。

「そうでしょうかね〜、風には何となく、お兄さんの考えが分かるような気がしますけど」
「………考え、ですか?」
「兄ちゃんの考えって、どんなことなの?」

風の言葉に、凪や季衣が怪訝そうな表情を見せる。風は、相変わらずのマイペースのままで、のんびりと自分の考えを口にした。

「時として…ひと言は、万の言葉に勝るということですよ。風には手紙に書かれたその言葉が、お兄さんの本心ではないかと推測する限りです」
「――――なるほどね。風の言いたいことは分かったわ」

華琳は、そう言って空を見上げる。この空を見上げて思ったのだ。今度会うときは、色々な出来事を、彼に話してあげようと。
それは、手紙などでは記せないほどの気持ちの塊で………面と向かって言わなければ、満足できそうに無かったのである。そしてそれは、遠く離れた彼も同じようだった。

「気持ちは、確かに受け取った。そう、一刀に伝えてちょうだい。きっと、分かると思うから」
「は、はい」

静かに微笑む華琳に、桃香は気圧されたようにコクコクと首を縦に振る。何だか、さっきまでとは別人だと思いながら。
そう遠くない未来での、想い人との再会を約束された少女は、静かに微笑みを見せる。それは久しく、誰もが見たことのない、華琳の安らいだ笑顔であった。



きっといつか、君に会いに行く。
ここには居ないはずの、その声を、華琳は確かにこの耳で聞いたような気がした――――。



――――了。


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