〜それは、日々のどうでもいいような小話〜 

〜悩める乙女の合唱曲(由飛&凛奈リクエスト)〜



ファミーユとキュリオ3号店が軒並みを構えるブリックモール。最初に完成した頃の騒々しさは薄れてきたものの、地域の人に親しまれる名所として、観光スポットにもなっている。
春先――――桜の花びらが舞い、空は瑞々しいまでに青く、小鳥がせわしなく鳴きだす頃――――そんな、五月のある日…ゴールデンウィークも過ぎた週末の日。
週末ともなると、いっそうの賑わいをみせる店内を、メイドさん然としたウェイトレス姿の少女達が立ち回っていた。

「はい、お待たせしましたお客様。スフレチーズケーキとダージリンティーになります。以上でご注文はよろしいでしょうか?」
「洋ナシのタルトですね、かしこまりました。少々お待ちくださいませ」

パタパタと、足音と共に厨房とフロア、もしくはオープンカフェへと行ったり来たりする。それは、もうすっかり慣れっこになった光景だった。
そんな、いつも通りのあわただしい週末の光景………そんな風景の中に、ふらりと異邦人が入り込んだのに気づいた人は、皆無であった。
ただ一人、フロアに出て接客をしていた少女…風美由飛は、注文を受けて厨房へ戻るなり、怪訝そうな表情をして、何かに気づいたように小首を傾げたのだけれど。

「あれ…?」
「ん、どうしたんだ、由飛?」

ふと…怪訝そうな表情で窓際の席を見やる由飛に、店長である高村仁は声をかける。由飛の視線の先を追うと、窓際に面した席に一人佇む少女の姿があった。
まだ、高校生くらいだろうか? どこか一匹狼のような雰囲気を身に纏った少女は、片肘をついた手を頬に当て…窓の外に顔を向けながら物憂げな表情をしている。
少なくとも、常連客ではない。仁には見覚えの無い少女である。気だるげに、ぼんやりと店の外を眺めている…その横顔、左耳には赤色のピアスが付けられていた。

「あのコ、どっかで見た事のあるような気がして………ん〜、どこだったかなぁ」
「ひょっとして、由飛の知り合いか何かか? にしては、少々歳が離れてるように見えるけど」
「ううん、そんなんじゃないの。ただ、ずっと前に、見かけた事があるような、無いような………?」

頭を使うのに慣れていないのか、うんうんと考え込んでしまった由飛。その様子を見て、仁はやれやれと肩をすくめる。
こうやって、ころころと表情を変えるのは見ていて可愛いと思うのだが、さすがに営業時間中である。小事に煩わされている場合ではない。
何しろ今は、昼過ぎの一番忙しい時間帯――――店内どころか外のオープンカフェまで満席御礼といった次第なのだ。

「ほら、考え事をしてる場合じゃないぞ。注文を聞いてきたんだから、伝えないと」
「はっ…! いけないっ。恵麻さ〜ん、いちごのシュークリームにガトーショコラに、ええとそれから………」

仁の言葉に、考え事をしている場合ではないと気づいたのか、厨房の主に次々と注文を伝える由飛。この時間帯、フロアは考え事をする暇もないほどの盛況ぶりなのだ。
注文を伝えてから、今あるケーキのストックを持って、フロアへと出て行く由飛。この辺りは、随分と手馴れたものである。
仁はそんな由飛の姿を目線だけで追いかけながら、注文を受けた料理のため、卵をかき混ぜる。午後のもっとも急がしい、昼過ぎの時間はそうして過ぎていく――――。



「それじゃ、みんな、おつかれさまー」
「あ、はーい。おつかれさま、由飛さん」

そうして、あっという間に時間は過ぎて、午後の5時。朝一番から出勤していたバイトの娘達が、午後のシフトの娘と入れ替わりに店から出て行く。
経営も軌道に乗ってきているファミーユも、何人か新たなバイトを入れており、朝一から夜中まで、という無茶なシフトをする必要は無くなった。
もっとも、店長と総店長に限っては、相変わらず終日働きづめという状況であったが…ともかく、今日は由飛も、午後5時上がりの状況であった。
ただ――――彼女の場合、仁を待っていたり玲愛を待っていたりと、実際に帰るのは、かなり遅くなるのが常であったけれど。

「♪〜、♪〜………あれ?」

そんなわけで、今日も時間を潰すために、ブリックモール内を探索しようかと意気込んでいた由飛は、普段着に着替えて店を出ようとした。
しかし、出入り口に向かいかけていた足が止まる。由飛の向けた視線の先には………昼頃に見かけたそのままに、窓際の席で物憂げに外を見ている少女の姿がある。
放って置いてくださいといった雰囲気を全身にまとって、どこか疲れた風に、少女は一つ溜息をつく。それはそれなりに、絵にはなる光景ではあった。
と、そんな少女の何が気になったのか、由飛は小首を傾げるように、その少女の前に回りこんで、顔を見つめようとした。折りしも、気配を感じたのか、少女が由飛の方を向く。

「………何ですか?」

視線が合わさったとき、少女が浮かべた表情は、どこか警戒するような表情。言うなれば、見知らぬ相手を見つめる、野良猫のような表情だった。
警戒心剥き出しの表情――――普通なら、悪感情にも近いその視線に、気おされたり怯んだりするのだが………いかんせん、由飛はその手の視線に、耐性が充分にあった。
何しろ、迫力なら数倍はある、義妹の怒りの表情をいつも見ているので、少女の警戒した表情など、さして気にもしていないようだったのである。
由飛は、テーブルに両手をつき…もっと間近で少女の顔を見ようと、ずずいっと身を乗り出したのだった。顔が近づき、吐息が掛かりそうなくらい、お互いの鼻先が近づく。

「ちょ、ちょっと…? なんなの?」
「ん〜、やっぱり、どこかで見たような気がするんだけどなぁ」

困惑した表情でのけぞる少女。その顔に視線を向けながら…由飛はどこか、すっきりしないといった風に、そう呟いた。
その顔はなんと言うか――――奥歯に物が挟まって、気づいているのになかなか取れないような、そんなもどかしい表情を由飛は浮かべている。
そうして、うんうんと考え込んだ後………思い当たる事があったのか、あ、と由飛は何かに気づいたように声を上げた。

「あ〜っ、そうだ! 去年の夏、ちっちゃい女の子と一緒に、ウチのメニューを全制覇してったコでしょ?」
「…へ?」
「あれ? ちがった? おかしいなぁ…人違い?」
「――――いや、たぶんそれは、あたしだと思うんですけど」

よく覚えているなぁ、と表情に出しながら、少女は由飛に返答する。と、そんな二人のやり取りに、あわてて横槍を入れてきたウエイトレスがいた。
何しろ、私服に着替えたとはいえ、立ち振る舞いが人目を引く由飛である。加えて、少女に向けて放った言葉は、ファミーユ中に響き渡るほどの大きな声だったのだ。

「ちょっと、ちょっと由飛さん。騒ぎすぎ。バイトがあがったからって…店内で騒いじゃ、お客さんたちに迷惑でしょ?」
「あ…ごめんね、明日香ちゃん」
「…………」

周囲のお客からの視線が集中し、ちょっと気まずそうな表情になった由飛。と、気まずいのは少女も一緒なのか、カタン、と席と立って、床に置いてあったバッグを肩にかけた。
スポーツバッグを肩に掛けて、少女は足早にレジに向かう。周囲からの注目を浴びるのが嫌なのか、その表情はうつむき加減で、誰とも視線を合わせまいとしているかのようだった。

「はい、1000円になります。ありがとうございましたー」
「あ、ちょっと、ちょっとまって――――」

手早く会計を済ませて、店から出て行ってしまう少女。その様子を見て、慌てて由飛はお店を飛び出した。
幸い、少女はファミーユすぐ近くに佇んでいた。何やら覇気が無いその表情は、これからどこへ行こうかと、途方にくれているようにも見える。
少女に向かって由飛が歩み寄ると、足音で気づいたのか、少女が振り向いた。先程よりは和らいだといえ、警戒した表情を見せるのは変わっていなかった。

「………なんです? いったい」
「あ、あの………ごめんなさい。わたし、よくデリカシーが無いって言われてて――――不愉快にさせちゃった?」
「別に、不愉快になんてなってないです。機嫌が悪く見えるのは、他の理由が…」

と、そこまで言った時、きゅるきゅると、間の抜けた音が聞こえてきた。その音が何なのか、一瞬理解できず、ぱちぱちと瞬きをする由飛。
そんな由飛の目の前で、少女は恥ずかしげに、顔を赤くする。無意識なのか、腹部に手を当てたのが、由飛の目に留まった。

「………」
「………えっと、ひょっとして、おなか空いてるの?」



「はーい、半熟オムライス、お待たせいたしました。どうぞ…ごゆっくり、お寛ぎくださいませ。由飛ちゃんもね」
「うん…ありがと、かすりさん」

フードコート内にあるオープンカフェ。そこにあるテーブル席の一つに、由飛と少女は、向かい合わせで座っていた。
少女の目の前には、運ばれてきた半熟オムライスがある。まだ暖かく、湯気の立つそれの香りにあてられてか、少女の喉がゴクリと鳴った。

「さ、どうぞめしあがれ。仁の作る半熟オムライスって、すっごく美味しいんだから」
「あの、でも、あたし持ち合わせが…」
「いいよいいよ。さっきのおわび。遠慮なんて必要ないんだから」
「――――それじゃあ、その………いただきます」

結局、空腹には勝てなかったのか、由飛の勧めるままに、半熟オムライスを口にする少女。と、その表情がびっくりしたものに変化した。

「わ………なにこれ? すっごくおいしいっ!」
「でしょ? ファミーユの卵料理は、天下一品なんだから」
「うん…ほんとにおいしいっ! こんなオムライス、生まれて初めて食べたかも!」

笑いかける由飛に、少女の顔にも微笑みが浮かんだ。それは、両者の心の距離が近づいたことの証なのかもしれない。
オムライスの美味しさを語り合ううち、話は自然と枝分かれをして――――そうして、他愛もない世間話に姿を変えたのだった。

「へぇ、凛奈ちゃんは、高校3年生なんだ。いいな〜、自由な時間があって」
「あはは…そんなに言えるほど、自由でもないんですけどね。由飛さんは…大学生なんですよね?」

食後の紅茶に口をつけつつ、少女――――沢城凛奈は、由飛に質問を投げかける。ちなみに、双方の呼びかけは、『凛奈ちゃん』と、『由飛さん』である。
基本…体育会系の凛奈は、年上である由飛のことを、呼び捨てには出来なかったようだ――――まぁ、さえちゃんのような例外はあるにせよ、由飛には敬称を使っている。
で、由飛のほうはというと、終始一貫で『凛奈ちゃん』で通すつもりらしい。ちなみに、『りんりん』という呼び名も考えたのだが…それは凛奈に止めてほしいと懇願されていた。

「うん、そうだよー。でも、ほとんど大学には行ってないんだけどね。あはは」
「いや、そこで朗らかに笑われても………」

大学にほとんど行ってないって…卒業とかは大丈夫なんだろうか? 他人事ながら心配になった凛奈だが、由飛はというと、これっぽっちも気にしている様子は無かった。
けっこう規則が緩い大学なのかな? ほんわかした雰囲気を身に纏った由飛を見て、凛奈はそんな事を考えていた…実際は、そうでもなかったりするのだが。

「凛奈ちゃんも、来年は大学生になるんでしょ? 今年は大変だよね、受験勉強とかさ」
「………………」
「あ、あれ? けっこう深刻だった? 何なら、いい家庭教師を紹介してあげよっか? 仁も明日香ちゃんも、そういうのに向いているみたいだし――――」

大学受験の話になったとたん、無言で俯いてしまった凛奈に、由飛は慌てたように、言いつのる。
凛奈はというと、そんな由飛の様子がおかしかったのか、いくぶん笑顔を見せてはいるものの、顔におちた翳りは消えそうにも無かった。

「ありがとうございます。でも、家庭教師とか、そういうので解決できる問題じゃないから――――」
「………そうなんだ」

苦笑する凛奈の顔を、しばし見つめて――――由飛は何処か、納得した表情で頷く。そうして次の瞬間、それはもう楽しそうな笑みを浮かべた。

「ねぇ、凛奈ちゃん。これから…何か予定とかあるの?」
「いえ………特にこれといって、用事は無いんですけど――――それが何か?」
「そっか。そんじゃあさ―…」

由飛は問い返してくる凛奈に、ニコニコ笑顔で身を乗り出すと――――ある言葉を口にした。それに対して、凛奈はというと…

「………へ?」

と、ぽかんとした表情で、その提案をした由飛の顔を、見つめ返しただけだったのである。



「いらっしゃいませー…って、由飛さん? どうしたの、何か忘れ物でもしたんですか?」
「あ、明日香ちゃん。ちょっと更衣室を借りるねー」

それから、すぐ…ファミーユの店内を取り仕切っていた明日香は、店内にひょっこりと現れて、そんな事を言ってきた由飛の言葉に、怪訝そうな表情を浮かべることとなった。
由飛は先程、店内で声を掛けていた少女――――凛奈の手を握ってニコニコしている。仲良くしているというよりは…逃げ出さないように拘束しているように見えた。

「借りるって………? あのー、話が見えないんだけど」
「まぁ、いいからいいから♪」
「あ、ちょ、ちょっと。由飛さんってばぁ」

明日香の質問など気にもしないという風に、更衣室に向かって歩き出す由飛。と、由飛に引っ張られたまま、凛奈が助けを求めるように明日香を見た。
なんというか、BGMにドナドナが流れてきそうな表情で、凛奈は由飛に連れて行かれてしまう。後には、呆然とした顔の明日香が取り残されたのであった。



「てんちょてんちょ、大変! 由飛さんが女の子を更衣室に連れ込んじゃったの!」
「はぁ? なんだそりゃ…って、おい、引っ張るなよ」
「なになに、なんかあったの?」
「あ、仁くん…おいてきぼりにしないで〜」

慌てた様子で、仁を引っ張る明日香と、その様子を見て興味深げに寄って来た、かすり&仁の後を付いてきた恵麻と、更衣室の前に集合をしたのは、数分後の事だった。
ちなみに週末とはいえ、食事時ともなると…さすがに本格的なレストランの方に客足が向く。そのため、バイトの娘にフロアを任せる余裕も出来たのだった。
だからといって………何十分も持ち場を離れるわけにも行かないのが現実ではあったのだけど。

「で、いったい何の騒ぎなんだよ。由飛が女の子を連れ込んだって………中で何をしているんだ?」

怪訝そうな表情で、更衣室の中の物音に聞き耳を立てる仁。更衣室の中からは由飛と凛奈のやり取りが聞こえてくる。

「ほら、早く服を脱いで………うわぁ、凛奈ちゃんって、きれいだね〜」
「や、ちょっと、やめてください………由飛さんっ」


「…………そこはかとなく、百合の香りのするのは気のせいだろうか?」
「あ〜、そういえば、さっき由飛ちゃんと一緒の席に座ってるコの顔を見たけど、ありゃ、女の子受けする顔だったね」

意図してか無意識か――――のほほんとした口調で、かすりは冷や汗をたらした仁に向かい、爆弾発言を投げつけた。
その言葉を聞いて硬直する仁。傍らでは、明日香と恵麻がひそひそ声で焦ったように話をしている。

「ひょっとして、由飛さんって…そっちのケがあるんでしょうか? だとしたら、わたしも気をつけないと」
「か、考えすぎよぉ、明日香ちゃん。きっと、そういうのじゃないと思うな〜………たぶん」

最後のたぶん、が何気に自信がなさそうに聞こえたのは、普段の由飛のスキンシップばりばりの行為が脳裏をよぎったからだろうか?
さすがに放置してはマズイと思ったのか、仁は慌てた様子で、ドンドンとドアをノックし、ドアノブに手を掛けた。

「由飛、何をやってるんだ!? 入るぞ!」

そうして、勢い込んで仁は更衣室へと突入し――――、

「まだ着替え中!」
「うおっ? お、おのれ、由飛のやつめ――――」

由飛に叩きだされる事となった。更衣室から廊下へと、一瞬で逆戻りし、舌打ちをする仁。と、仁に向かって、じとりと冷たい視線が浴びせられた。
何ごとかと思って振り向くと、責めるような視線が二つと、楽しそうに事の成り行きを見守る視線が一つ。

「てんちょ、さすがに今のはデリカシーが無いと思うな」
「仁くん…」
「ちょっと待て、今のは悪気のあってのことじゃなくてだな…」
「まぁまぁ、若気の至りってのもあるし、いいじゃないの、仁くんだって興味があったんだろうし」
「って、飢えた野良犬を見るような目で直視しないでくださいよ、かすりさん」

弁明の言葉を発しながら、それでも仁は、さっき覗いた更衣室の光景を思い出していた。見慣れた更衣室で着替えていた少女。
スタイルは悪くなかった…じゃなくて、着替えの途中と由飛が言っていた通り、少女は見慣れたあるものに着替えていた最中だった。

「おまたせー」

と、着替えが終わったのか、更衣室からファミーユの制服に着替えた由飛が、ひょっこりと姿を現した。彼女は、待ち構えていたいた仁達に微笑むと、さっと横に退く。
そうして、由飛の後ろにいた少女――――凛奈を見て仁達は皆、驚いた表情を見せた。明日香達と同じファミーユの制服に袖を通し、恥らうような表情を見せる凛奈。
おそらく、このままフロアに出ても………何の違和感も感じられないくらいに、凛奈のその格好は似合いすぎていたのだった。

「紹介するねっ。このコは沢城凛奈ちゃん。ほら、凛奈ちゃん、ご挨拶」
「あ、は、はい…凛奈です。どうぞよろしく…」

どうしてあたし、こんなトコにいるんだろ………などと考えつつ、複雑そうな表情で頭を下げる凛奈。
こういうのは、海己なら似合うのになぁ――――そんな事を考えつつ、頭を上げると、その場にいた全員に注目されている事に気づき、凛奈はちょっと驚いた。
しかし、驚いたのは凛奈だけではなかったらしく、ひとまずの矛先は、事の発端であることは間違いない、由飛に向けられる事になった。

「由飛…これはどういうことだ?」
「ん? ん〜…バイト希望かな? 凛奈ちゃん、暇そうだったから、だったら良いかなって思って」
「何が、だったら…なのか知らないが――――君、凛奈くんだっけ? こういう接客業の経験はあるの?」
「あ、いえ、ありませんけど…」

返答する凛奈を、ふむ………と立ち姿を一瞥して考え込む仁。容姿としては十二分に合格点…というか、立ち上げの頃だったら間違いなくスカウトしていただろう。
それに今だって、ちょっとした事で誰かが欠けると、人手不足になる可能性もある。接客経験が無いのがネックだが、それはまぁ、おいおい覚えさせて行けばいいだろう。
所在なげに立っている凛奈を見つめていた仁だが、ふいに視線がわずかに動く。思わず見てしまったという感じの視線だが、それを受けて、凛奈は恥ずかしげに胸元を隠した。

「ちょっとてんちょ、胸見すぎ」
「ゴホン、い、いや、そんなことはないぞ。それはそうと、大丈夫なのか? 見た目と違って、けっこうハードだけど。走りまわる事になるし」
「あ…走るのは好き――――ですけど」
「?」

思わず、走るといったフレーズに反応し、何気に落ち込んだ表情を見せる凛奈。その表情を、由飛を除いた皆は、怪訝そうな表情で見つめた。
妙な雰囲気になりそうだった場を、相変わらずのマイペースで突き進んだのは、他ならぬ由飛であった。ニコニコ笑顔で、彼女は仁に微笑みかける。

「じゃあ、今から入っても構わないよね? わたしもフォローするし、短時間ならそれほど負担にならないだろうから」
「――――そうだな。いいんじゃないか? 仲間が増えるのは、大歓迎だし」
「え、ええ? いいんですか? そんなに簡単に決めちゃって」

仁の発言に、驚いた表情を見せる凛奈。こういうバイトってのは、面接とか色々あるものだとおもっていたのである。
それに対して、仁はふっ、と何となく遠い目をしながら、どこか空ろに笑みを浮かべた。

「………由飛は言い出すと聞かないからな。これくらいの事なら今さら動じはしないさ」
「あ〜、てんちょが遠い目をしてる」
「ほ、ほら、仁くんも元気出して。姉さんも頑張るから」
「ま、この程度の事件じゃ、さすがに誰も驚かないしね」

仁を囲んで、きゃいきゃいと騒ぎ立てる娘達――――この人たちって変○なんじゃ…などと、失礼な事を考えつつ、凛奈の頬に冷や汗がたらりと流れた。
と、万力のような馬鹿力で、凛奈の肩が、がしっとつかまれる。腕の先を見ると、そこには満面の笑みを浮かべた由飛。

「がんばろうね〜、凛奈ちゃん♪」
「あ、は、は………ガンバリマス」

逃げ場なし――――脳裏に浮かんだ言葉は多分に間違いなく、凛奈としては引きつった笑みを浮かべる事しか出来なかったのだった。



「よし、それじゃあ頑張ろうな、凛奈くん。それじゃあ俺が、さっそく接客の基本を――――」
「それじゃあ、私もフロアに入るから、明日香ちゃんも凛奈ちゃんに色々教えてあげてね」

新人バイトに、さっそく店長の威厳を見せようと、張り切る仁。しかし、そうは問屋が卸さないのが現実なわけで――――、

「よろしくね、凛奈ちゃん。分からない事があったら、何でも聞いてくれたら良いから」
「いや、だから俺が――――…」
「かすりさんは、恵麻さんと一緒に厨房をお願いします。何かあったときに、対応してほしいから」
「おっけ、まかせてよ」
「そうね…それじゃあ、かすりちゃんにお手伝いしてもらうわね」

テキパキとシフト変更を決めていく由飛。随分と手馴れたものだと、感心したいところだが、新人の前であり、仁の立つ瀬が無いわけで…

「俺が――――…」
「あ、仁は外をお願いね。オープンカフェは、まだまだ混雑してるみたいだから」
「……………………はい」
(うわ、何だか、かわいそう………)

とぼとぼと、肩を落として外へと出て行く仁。その背中に、哀愁が漂っていて、何となく同情してしまった凛奈であった。
と、その視線に気づいたのか、明日香の表情がわずかに険しくなった。彼女としては、ライバルはこれ以上増えてほしくないというのが実情である。
なので、彼女は即座にストレートに、直球での質問を、凛奈に投げつける事にした。

「ところでさ…凛奈ちゃんって、彼氏もち?」
「え、ぅぇえっ? いや、その………あ、はは…はい」

何でそんな事を聞くんだろう、と、疑問に思わないでもなかったが、世間話の類だろうと思い、凛奈は照れながらも返事をする。
その返答が、ちょっと予想外だったのか、凛奈に詰め寄っていた明日香の表情が、ぽかんとした間の抜けた表情になった。

「――――え、そうなの? てんちょ狙いで来たわけじゃないんだ」
「…え?」
「あ、ううん、なんでもないの、こっちの事」
「? ?」

慌てたように言い繕う明日香。凛奈の返答は、少なくとも何人かの心に平穏をもたらす事になったのだが…当の本人はその事を知る由も無かったのである。



「はい、ガトーショコラとモンブランになります。どうぞ、ごゆっくりおくつろぎくださいませ」

流れるような一礼と、不自然でない微笑みを見せて、玲愛はオープンカフェ内での接客を続ける。週末の夕食時ともなり、決して暇ではないのだが、それでも忙しいというほどでもない。
文字通り、死ねるくらいの忙しさとなったゴールデンウィークに比べて、いささか物足りなさを感じる、今日この頃の玲愛であった。
そんなわけで、日々の充実感を得るためという名目で、週に一回以上のペースでファミーユの店長に勝負を吹っかけるのが最近の日課であり………、

「…あら?」

ファミーユから浮かない顔をして、仁が出てきたのにすぐに気づいたのも、暇さえあればファミーユの方に視線が行っている事の証明なのかもしれない。
もっとも、それを認めてしまうと、仁に対する自分の気持ちとか、仁との関係をからかいまくる同僚達に口実を与えてしまうので、玲愛は決して認めなかったのであるが。
なんにせよ、浮かない顔をする仁が気にもなったので、玲愛はスタスタと、彼の近くへと歩み寄って声を掛けた。

「どうしたのよ、仁。何だか、浮かない顔をしてるけど」
「…ああ、誰かと思ったら玲愛か」
「何よぉ、人が声を掛けてるのに…随分と、ぞんざいな扱いするじゃない」

仁の素っ気無い態度に、むっときたのか、表情を険しくして玲愛は仁に詰め寄る。
その様子に、仁は苦笑い。彼としては、玲愛に話しかけられたことで、多少なりとも落ち込んだ気分が軽くなったのだが…玲愛はそう採らなかったらしい。
きりきりっ、と眉を上げる表情は、明らかに怒りの一歩手前であり、慌ててフォローをしなければならない仁であった。

「ごめん、悪かったって。ちょっとフロアを追い出されて、落ち込んじゃっててさ」
「――――何? 何か失敗でもしたわけ? 帳簿を間違えたとか、注文を聞きそこねたとか」
「いや、そういうことじゃなくて…バイトをするってコがいてさ、彼女に教育する役目は由飛達がするから、俺は邪魔だって」
「…ああ、なるほど、そういうことね」

仁の説明に、得心が行ったように頷く玲愛。彼女はほんの数秒、考え込む仕草を見せた後、仁に向かって肩をすくめる。

「でも…それは、しょうがないんじゃないの。相手が男子なら兎も角、女子なら仁に教育係を任せるわけ無いじゃない」
「でもなぁ、一応は店長だし、ここは店長としての威厳を………ってちょっと待て、バイトのコが女だって、何で知ってるんだ」
「え? 仁が言ったじゃない。『彼女』に教育する役目を――――とか。男子なら、『彼』って言うだろうし」
「細かいところによく気が回るな…チーフの肩書きは、伊達じゃないって事か」
「お褒めに預かり、光栄の至り………って言っておくわ」

誉められたのが嬉しいのか、しかめっ面から一転して、満面の笑みを浮かべる玲愛。それに一瞬見とれた仁だが、当の玲愛は気づいていないようである。
上機嫌になった玲愛は、仁の傍らに立って、嬉しそうな顔。オープンカフェは、けっこう込み合っているが…キュリオもファミーユも、バイトの少女が接客をしている。
自分たちが抜けても、多少は大丈夫だろう――――とは、少々楽観かもしれないが…仁と話す機会を放棄して、接客をする気にもなれない玲愛であった。

「何にせよ、新人の教育を店長直々にする店なんて、そうそう無いと思うけど」
「そうか? 雇うのは店長の判断だし、実際に教えるのだって、部下任せじゃいけないだろ」
「………うちの店長に聞かせてやりたいくらいの正論ね。新人の教育なんて、真っ先に私に押し付けてくるもの、あの人は」

めんどくさいことは、全部カトレア君任せだから――――とは、板橋店長の言であり、冗談でもなんでもないところが笑えない。
憮然とした表情を見せた玲愛は、気を取り直すためか、小さくため息をひとつ。そうして、すぐに真顔に戻った。

「まぁ、正直な所、あれこれ口を出されるよりも…全部任せてもらった方が、気は楽なんだけどね」
「玲愛はそうだろうな。何しろ、仕切り屋だし」
「責任感が強いって言ってよ。それに、実際にフロアに出ている分、予備のお皿の場所とか、細かい点まで指摘できるからね」

玲愛の言葉に、なるほどと仁は頷く。フロアを始め、厨房やらオープンカフェやらを掛け持ちしているとはいえ、大学通いの分…知識は皆には及ばない。

「餅は餅屋ってとこか………情けないけど、由飛達に任せるのが最適なんだなぁ」
「そういうこと。そもそも、仁は店長なんだし、もっと大きなことに目を向けなさい。………あ、そうだ。一つ相談があるんだけど」
「ん? 何だよ。ひょっとしてまた、売上勝負でもしようっていうのか?」

すでに恒例となりつつある、キュリオとファミーユの売上勝負は、最初のころとは違い、一進一退の勝ち負けを繰り返していた。
毎回、勝った方が負けた方に一つ命令をできるというルールがあり、前回、惜しくも負けた仁は、休日に玲愛の荷物持ちをする羽目になったのである。
丸一日、仁は引っ張りまわされることになったが、その日の玲愛は、終日上機嫌だったので、損をしたとは思っていない。

何にせよ、前回が負けで終わった分、リベンジを狙っていたのは確かだったので、勝負をするという申し出なら歓迎するところだった。
しかし、玲愛が口にしたのは売上勝負のことではなく、それとは少々、趣向の違った話だったのだが………、

「勝負じゃないんだけど………ねぇ、仁。このところ、少し売上が落ちてない?」
「う」
「やっぱりね。ま、ファミーユのことを言えた義理じゃないんだけど」
「というと、キュリオの方も厳しいってことか? 花鳥チーフ」
「――――ええ、そうよ。高村店長」

苦笑混じりの表情で、それでも気弱なところを見せたくないのか、精一杯の威厳を持って胸を張る玲愛。といっても、それでバストアップがされるわけでもないが。
それはさておき、確かにこの所、ファミーユもキュリオも売上が少々落ちている。とはいっても、ゴールデンウィークが終わったばかりの時期である。
夏の観光シーズンまでの間の、小休止めいたものだと、仁は判断していたのだが、玲愛はというと、そうは思っていないらしい。

「今の時期って、けっこう重要なのよ。夏休みの行楽シーズンまでは、大きな稼動人数は見込めないし、その間にお客様の足が廃れちゃったら立て直すのに大変だからね」
「そういえば、前の店舗のときも………常連さんが来なくなると、けっこう深刻だったしな。気を抜いてる場合じゃないか」
「そういうこと。というわけで、集客のアイディアを考えてはいるんだけど、なかなか良い案が無くてね――――…? どうしたの、仁」
「…ん、ちょっとな」

玲愛が見ている目の前で、仁は携帯電話を取り出すと、何やらディスプレイを操作する。どうやら、どこへ掛けているようだった。
たっぷり数分の間をおいて、仁は溜息混じりに携帯電話を閉じた。その顔には、諦めに似た失望の表情が浮かんでいる。

「………駄目か」
「ちょっと、人が話をしている時に、他所へ電話を掛けるなんてマナー違反じゃないの?」
「ああ、悪い」

話を中断させられ、機嫌が悪そうな玲愛。しかし、仁の表情を見て、彼女はふと、電話を掛けていた相手の事が気になった。
電話が繋がらなかった事に対する仁の反応が、普通とは違ったように見えたのだ。どこか、憂いを帯びた表情のように、玲愛には見えた。

「誰に、掛けてたの…?」
「ああ、大学の友人にね――――最近、連絡が付かなかったから、どうしてるかと思って」

仁は表情にこそ出さなかったものの、明らかに寂しげな雰囲気を醸し出していた。連絡先は、仁にとって見慣れた番号。
その番号の持ち主である女性とは、ここ数ヶ月、連絡が取れないでいた。仁にとって、彼女は大切な存在の一人である事に間違いはない。
大学の友人達や、ファミーユのメンバーにも声を掛けて、行方を捜してはいるが………何の音沙汰も無いまま、時だけが過ぎていった。
今でも時々、彼女の携帯に掛けてはいるものの、それが通話状態になる事はなかった…彼にとって、着信拒否になってない事だけは、救いではあったが。

「あいつなら、いいアイディアを出してくれると思ったんだけどなぁ」
「――――そう。ま、繋がらないなら、しょうがないんじゃない? 私達は私達で、出来る事をするしかないんだから」
「………そうだな」

玲愛の言葉に頷いたものの、まだ未練があるという風に、仁の表情は語っている。しかし、玲愛は必要以上に踏み込もうとはしなかった。
玲愛にとっては、そうした仁の甘いところは決して嫌いではなかったし、余計な事を言って、場の空気を壊したくなかったのである。
わずかに心配そうに、仁を見つめなおす玲愛。そうして――――電話の話題を打ち切るように、玲愛は話の本筋を元に戻した。

「それで、アイディアの件なんだけど………場合によっては、お互いに協力をする必要があるんじゃないかと思うんだけど」
「…協力?」
「ええ。お互いの店内じゃ、フォローのしようは無いんだけど、オープンカフェ内なら色々できるでしょ?」
「そういえば、制服交換とか、前は色々とやったよな」

バレンタインフェアの一騒動を思い出し、どこか懐かしげに、しみじみと仁は呟く。といっても、わずか3ヶ月ほど前のことなのだが。
まぁ、わずかといっても、充分に密度の濃い毎日を送っているせいもあり、随分と昔の事にも思えるのは仕方の無い事なのかもしれない。

「オープンカフェが盛り上がれば、お客様がたくさんいるように見えるでしょうし…今週中にでもアイディアを考えないとね」
「そうだな。頼りにしてるぜ、玲愛」
「ええ。って、仁も考えるのよ。私一人じゃ、どうやったって考えだせる量は知れているんだから」
「了解。由飛達にも聞いて、皆で考えるよ」

お互いに笑いあい、そうして仁も玲愛も、休憩を終える。休憩と呼ぶには少々語弊があるかもしれないが、お互いに元気になったんだから、それは休憩と呼ぶべきだろう。
さて、ブリックモールの閉店時間までもう一頑張り――――…お互いに頑張って働くとしようか。



さて、その頃の店内では、明日香&由飛による、凛奈へのレクチャーが行われていた。

「まずは、お客様がいなくなった席の片づけを担当してもらうから。注文を聞いたり、運んだりするには、ケーキとか紅茶とかの種類も覚えなきゃいけないし」
「は、はいっ」
「あはは…そんなに、かしこまらなくていいから。それじゃあ由飛さん、お手本をお願い」
「は〜いっ」

明日香の呼びかけに元気に返事をすると、由飛はフロアに出ていった。お客様が使用したテーブルに近づくと、空になった皿やカップをお盆に移し、手早くテーブルを拭く。
さすがに手馴れたものであって、その動きは流れるようで、かつ無駄がないように凛奈には見えた。

「へぇっ…なんだか、すごい」
「由飛さんも、場数をこなしてるからね…最初のころは、お皿を割ってばかりいたけど」

思わず感嘆の声をあげる凛奈に、得意満面の表情で言う明日香。しかし、得意そうな表情は長くは続かなかったのであるが。
テーブルを拭き終えて、キッチンに戻ろうとしたとたん――――由飛が、何もないところで足をとられて、見事にバランスを崩したのである。

「わ、わ、わ…」

由飛が転倒するのと一緒に、ガシャガシャンッという食器の割れる音が響いて、凛奈は思わず身をすくませてしまった。
驚いた様子の凛奈だが、明日香はというと、そんな由飛の様子を見て、あきれたように溜息をつく…どうやら、この手のトラブルは、ファミーユでは日常茶飯事のものらしい。

「も〜、ちょっと誉めたとたんにこれなんだから…ごめん、凛奈ちゃん。ちょっと待っててね」

そう言うと、明日香は掃除用具を持って、早足で由飛の所へと歩いていった。お客を安心させるためか、決して焦る素振りを見せないところが、手馴れたものである。
由飛と協力して、手早く掃除を済ませる明日香。そうして、数分かけて掃除を済ませえると、二人は割れた食器をお盆に載せて、凛奈のいる場所に戻ってきた。

「えへへ…失敗しちゃった」
「まったく…これじゃあ新人への示しが付かないでしょが。…まぁ、とりあえず見ての通りだから。何があってもフォローはしっかりするから、心配しないで」
「は、はぁ…」

困惑と呆れが入り混じった表情で、由飛と明日香を交互に見やる凛奈とはいえ、その表情も長くは続かなかったのであるが。

「よーしっ、それじゃあ次は、凛奈ちゃんがやってみようか?」
「え”」

ニコニコ笑顔の由飛の言葉に、ガチガチに緊張してしまった凛奈。緊張してきたのか、冷や汗すらかいているようにも見える。
しかし、由飛はというと、凛奈の困り果てた表情に気がついていないようである。明日香は気づいていたようだが、あえて傍観しているようだ。

「あ、あの〜…やっぱり、無かった事に出来ません?」
「駄目だよー。せっかく可愛い制服を着てるんだもん。どうせなら、バイトもやってみようよ、ね?」
「うぅ…」

笑顔で由飛に押し切られ、渋々とフロアに出て行く凛奈。その様子を傍目で見つつ、明日香はポツリと呟いた。

「ああいう所は、真似できないんだよねぇ………押しが強いというか、何と言うか」

………さて、渋々といった感じで始めた凛奈ではあったが、緊張している分、逆にそれが幸いしてか、カップを割るような失敗はしなかった。
航の前では、粗暴というか物怖じしないように振舞ってはいたが、凛奈だって年頃の女の子である。他人の感情には人一倍敏感だし、気を使う点も心得ている。
何度かキッチンとフロアを往復しているうちに、入店したお客に挨拶を自発的にしたり、頼まれなくても汚れている部分を掃除したりと、明日香を驚かせた。

「すごいすごい、凛奈ちゃん! この調子なら、うちでも充分にやってけるよ」
「あ、はは………ど、どうも」

明日香の手放しの賞賛に、照れ半分、困惑半分で微笑む凛奈。彼女自身も、自分がこの手の種類の、接客のバイトができるとは思っていなかったのだ。
確かに、細かな作業には向かない性質ではあるが、ウェイトレスに関しては、それはさほど重要ではない。必要なのはむしろ、自ら進んで行動する行動力である。
その点に関しては、凛奈は確実に合格点だろう。良い感情であれ、悪い感情であれ、表に出さずにはいられないのだから。

――――結局、一時間ほどフロアに出て…凛奈のファミーユでの初めてのバイトは終了となった。
正式なバイトということでもないため、今日の分のバイト代を手渡しで渡され、恵麻特製のショートケーキを貰って、凛奈は由飛と一緒にファミーユを出た。

「それじゃあ、凛奈ちゃんのバイト成功を祝って、乾杯ーっ」
「乾杯っ!」

ブリックモールに幾つか点在しているベンチ。そこに並んで腰を落ち着け、凛奈と由飛は缶ジュースを掲げて乾杯する。
オープンカフェに行かなかったのは、もらったケーキを営業中のカフェで広げるわけには行かなかったからである。
ショートケーキに舌鼓を打ちつつ、先ほどのバイトの時間のことを、和気藹々と話す由飛と凛奈。すっかり打ち解けた様子で、話に花を咲かせている。

「それでね、最初の頃は大変だったんだよ。シフォンケーキとパンプキンケーキを間違えて出しちゃったり」
「うわ………それで、どうなったんですか?」

ファミーユで、由飛がバイトを始めた最初の頃――――その失敗談やら日々の様々な出来事に、興味深げに相槌を打つ凛奈。
そうこうしているうちに、時間は更に過ぎ――――ふと、由飛が何かに気づいたように腕時計に目を向けた。

「あ、そろそろファミーユが終わる時間だ」
「え、そうなんですか?」
「うん、ファミーユは夜7時までなんだよ。このブリックモールも、8時には閉まるんだ」
「そう…もう、そんな時間なんだ」

由飛の言葉を聞き、凛奈は小さな声で呟いた。なんというか、その表情は…夏休みが終わるというのに、宿題をやっていない時に見せるような、ばつの悪い表情をしていた。
そんな凛奈の顔を見ていた由飛だったが…不意に、凛奈の手を握って立ち上がった。

「凛奈ちゃん、一緒に来て欲しいところがあるの…いこっ」
「え、ちょ、ちょっと………由飛さん、ちょっと待って、あたしの荷物〜!」

凄い握力で手を掴まれ、ズルズルと引っ張られながら、凛奈は慌てた様子で声を上げる。伸ばした手の先には、ベンチの脇にポツンと置いてある、彼女のスポーツバッグがあった。



「ここは…?」

弊店間際の時間帯――――由飛に引かれるままに凛奈がつれてこられたのは、ブリックモールの一角にある、アンティークの家具店であった。
戸惑うように、古めかしい様相の店内を覗く凛奈。もっとも、ここに連れて来た張本人の興味は、店内にではなく、店頭に鎮座する古めかしいアンティークピアノにあったのだが。

「ここは、わたしのお気に入りの場所…いつも、ここでピアノを弾いてるんだ」

そう言うと、ピアノの前に腰掛けて、鍵盤に指を滑らす由飛。流れるような旋律に、目を丸くする凛奈。

「由飛さんって、ピアノが弾けるんですか?」
「あたりまえだよ〜、音大生なんだから。あれ…? 言ってなかったっけ?」

凛奈の言葉に小首を傾げる由飛。大学生だとは聞いていたが、詳しい事は聞いていなかった凛奈は呆然としている。
何しろ…ピアノの演奏はとまっていないというのに、由飛は鍵盤ではなく凛奈に目を向け、平然と話しながら曲を奏で続けている。
それが、どれほどのレベルなのかは知らないが――――少なくとも、普通の人では到底できない芸当だろう。

「それで、どんな曲が良い? 今日は記念日だし、好きな曲をリスエストしていいよ」
「記念日…?」
「うん、わたしと、凛奈ちゃんが知り合えた記念の日」

臆面も無く、さらりと言われ、凛奈は恥ずかしそうに頬を染める。知り合いの少女――――海己とは別の意味で、天然の人だと思ったようだ。
ただ、由飛の言葉に一つの疑問が頭の中に浮かび、凛奈は演奏を続ける由飛に、おずおずと声をかけた。

「その、一つ聞いて良いですか?」
「ん? なに?」
「どうして、初対面のあたしに、こんなに親切にしてくれるんです?」

それは、何となく思っていた疑問――――それをあらためて口にして、凛奈は懸念を深める。どうしてこの人は、こんなに私に優しくしてくれるんだろう?
初対面の時から馴れ馴れしくて、平気な顔で、こっちを振り回して、ピアノがうまくて――――まるで、あいつみたい。その言葉を口に出さず、凛奈は由飛の返答を待つ。
そうして、凛奈から投げかけた質問に――――由飛はパチパチと瞬きをして、笑顔を凛奈に向けた。

「家族だから、かな?」
「…え」
「ファミーユって、家族って意味なんだよ。スタッフも、お客様も、お店の中ではみんな家族………だから、落ち込んでいた凛奈ちゃんを放っておけなかったの」

由飛は、幸せそうな、満ち足りた笑顔を見せる。声も無く、凛奈はその姿を見つめる。演奏を続ける少女の姿は、まるで聖母のよう。
その笑顔に、張り詰めていたものが切れ――――凛奈は顔をくしゃっと歪めると、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。

「っ………ほんとは、つらかった。東京に出てから、タイムもあがらなくて、みんな、期待にこたえれないのが」
「そっか、凛奈ちゃんは、頑張ったんだね」
「でも、一人じゃ無理だって、あいつに、頑張るって約束したのに、逃げ出してきちゃって」

切れ切れに、しゃくりあげながら、凛奈は思いのたけを喋る。それは、文章にすらならない、思いの羅列――――。
由飛は、静かに演奏をやめると、ぐすぐすと泣く凛奈の頬に、ハンカチを当てる。まるで、涙を隠そうとするように。

「大丈夫だよ。凛奈ちゃんは、もう一人じゃないもん。つらいことがあったら、ファミーユに遊びに来ればいいよ。みんな、良い人たちばかりなんだから」
「う、う、ふぇっ…」

そうしてしばらくの間、凛奈は由飛の胸に顔をうずめ、泣きじゃくった。それは、凛奈が久方ぶりに見せた、本当の涙なのかもしれない。



それから数分後、ありがとうとお礼を言い、凛奈は由飛から身を離した。泣いたばかりで目元が赤く、恥ずかしかったのか頬を染めているが、元気を取り戻したようだ。
そんな凛奈の様子に、由飛は嬉しそうに微笑を返した。そうして、うずうずといった様子で鍵盤に指を置く。今にも弾きだしそうに、その指は鍵盤に触れたり離れたりしている。

「さて、凛奈ちゃんも泣き止んだみたいだし、何の曲を弾こっか? ショパンとかモーツァルトとか…聞きたい曲があれば、言ってほしいな」
「あ、あたし、そういうのに詳しくないですから…あ、でも………」

由飛の問いかけに、困ったように首を振った凛奈だが――――ふと、何かを思いついた様子で、スポーツバッグを開け、中に手を入れる。
そうして、スポーツバッグの中を掻き回すこと数秒…そうして凛奈が取り出したのは、一枚の楽譜だった。その楽譜を、凛奈はおずおずと由飛に差し出す。

「この曲を、弾いてもらえませんか?」
「…ちょっと、見せてもらえるかな? ――――…〜♪〜〜♪♪〜〜〜♪♪〜〜」

楽譜を受け取った由飛は、音程を確かめるかのように、喉の奥で口ずさむように楽譜に目を走らせ続け――――しばらくしてから、感心したように凛奈に笑顔を向けた。

「うん、すっごい良い曲だね。聞いたことのない歌だけど………ひょっとして、凛奈ちゃんの自作なのかな?」
「友達の曲なんです。歌詞の部分は…あたしも少しは手伝いましたけど」

照れたように微笑む凛奈を、由飛は少しだけ、眩しいものを見るような目で見つめていた。そうして、気を取り直すかのように深呼吸を一つして、ピアノに向き直る。
指先が滑らかに、鍵盤を叩いて音を紡ぎだす。楽譜に添って奏でられる由飛の生み出した旋律に、凛奈は知らず知らず、歌うように声を合わせていた。
夕暮れ時…ブリックモール内も閑散とし始め、人々が家路につき始める時間………残りの時間を惜しむかのように、二人の少女による合唱は最後の瞬間まで続いていたのだった。



二人の少女の出会いから数週間後――――…。



五月も半ばを過ぎ、早くも梅雨の到来を感じさせるかのように、その日は朝から長々と雨が降り続いていた。
駅前にあるブリックモールでは、雨から逃れるためにやってきた人々で、それなりに賑わっている。そのため、店長である仁もまた、午後の一番から店内で働いていたのだった。

「…ふぅ、どうやら注文も途切れてきたみたいだな――――あ〜、腕が重く感じる」

昼のラッシュが終わり、わずかに疲労した様子で、仁は肩をほぐすように腕を回した。相変わらず、仁の卵料理は絶品で、わざわざ昼時に、駅前に食べに来る人もいるほどである。
この時間の仁の仕事といえば、主に卵料理のために卵をかき混ぜることがメインとなっているのである。好きな事とはいえ、さすがに長時間の作業は疲労が溜まるようだった。

「仁くん、大丈夫? 姉さんがマッサージしてあげよっか?」

そんな仁の様子を見かねてか、やさしく声を掛けてきたのは、彼の義姉である恵麻であった。相変わらずの過保護っぷりに、一緒に働いていた少女が肩をすくめる。
同じ場所で働いている同僚にしてみれば…こうもベタベタされると少々うっとうしくも感じるのだが………本人は露ほども気がついていないようである。

「ま…ブラコン&シスコンだもんね、しょうがないか」
「かすりちゃん、何か言った?」
「いいえ、別に何も。それより恵麻さん、こっちは注文がまだまだあるし、いいかげん作業を続けましょうよ〜」

かすりは呆れ半分といった様子で、仁の肩やら腕やらを嬉しそうに触っている恵麻に、困った顔で訴えかけた。
一緒に厨房で働いているとはいえ、実質仕上げの部分は未だに恵麻の担当なのだった。これは上下関係というよりも、端的に実力の問題なので、かすりにも不満はない。
しかし、それでも限度というものがあった。商売をしている以上、お客を待たせるわけにも行かないので、半ば実力行使の形にうったえる事になるのだが。

「え〜、でも…」
「でもじゃありません。ほら、仁くんから離れて、恵麻さんはこっち」
「あ、ああ〜…仁くん〜」

ずるずると、かすりに引っ張られていく恵麻は情けない表情。とはいえ、持ち場に戻るなり…きりりとした顔つきに戻るのは、さすがではあったが。

「…さて、それじゃあ、一休みするとしよう」

厨房に居続けたら、また恵麻の集中を途切れさせてしまうのが分かりきっていたので…仁は早々に、厨房から離れると、休憩のために従業員用の更衣室に場所を移した。
また夕食の時間帯には忙しく立ち回らなければいけないので、休めるときには休んでおかないといけない。仁はソファに座ると、肩の力を抜くように、大きく息を吐いた。
そうして、どのくらい目を閉じていただろうか? 不意に、優しく体を揺すられて、仁はゆっくりと瞳を開ける。ソファに身を埋めた仁を覗き込むように、つぶらな瞳が彼を見ていた。

「おはようございます、てんちょ」
「ん…ああ、明日香ちゃんか。今、何時くらいだ?」
「時間ですか? ちょっと待ってくださいね」

仁に問われた明日香は、胸元から携帯電話を取り出して、時刻を確認する。大学生になってからも、成長を続けているのか…寝起きの仁には、眼福である目の前の光景だった。
さて、そんなこととは露知らず、私服姿の明日香は、折りたたみ式の携帯を再び胸元にしまいこむと、人懐っこい笑顔を仁に向けた。

「夕方の四時くらいですね。 けっこう、店内に人が増えてましたよ」
「そっか、そろそろ厨房に出ないといけない時間だな。起こしてくれてありがとう…っと、おはようって言うのが先か」

凝った首をまわしたり、張った肩肘を伸ばすように動かす仁に、明日香は少々呆れ顔である。しょうがないなぁ…って気分になるのは、こんな時なのかもね。と思っているようだ。

「そういえば、てんちょ。ゼミの教授がいい加減に顔を出せって怒ってましたよ。また留年するつもりかって」
「あー…そうだな。また後日、顔を出すってことで、上手く取り成しといてくれないか?」
「いいですけど…そのうち、わたしと同学年になっちゃいますよ? それはそれで、楽しそうですけど」
「――――せめて、先輩とは呼ばれたいよなぁ」

仁と同じ大学に入った明日香は、キャンパスライフを満喫しているようである。仁はというと、生活の主体をファミーユ中心にしているので、あまり大学には顔を出してはいない。
その点が、明日香には不満ではあった。わざわざ仁が居る大学を選んだというのに、当の本人は、まるでその事に頓着していないのだから、無理も無い。
とはいえ、ファミーユに足を運べば会えるのだし、そこまで気にする事でもないのだったが。眠そうに目をしばたかせる仁に、明日香は苦笑しつつ、言葉を続けた。

「そうですね、わたしも同意見です。………それはそうと、そろそろ着替えたいんで、ちょっと席を外して欲しいんですけど」
「ああ、だから起こしたのか。そうだな、さすがに俺の寝ている横で、着替えるわけにも行かないもんなぁ」
「わたしは、別に構わないですけど――――何かあったとき、てんちょが責任を取ってくれるかは半信半疑なので」
「…信用無いんだな、俺。まぁ、いいや。ごゆっくり」

苦笑をして、ソファから腰を上げる仁。更衣室を出るついでに、暇つぶしの為か、何とはなしに机に置いてあった雑誌を手に取ると、部屋を出た。
ちなみに、彼は背中を向けていたため、明日香の不満そうにむくれた表情と、「ちぇ、乗ってこなかったか」という呟きを見聞きすることは無かったのであった。



「さて、もう少し休んでから仕事をするとしようか………そういえば、由飛の記事が載ってるんだっけ?」

更衣室から出た仁は、通路の壁に寄り掛かると、残った時間を潰す為に、部屋を出るときに持ってきた雑誌をパラパラとめくりだした。
本格的にプロへの道を進みだした由飛であるが――――本人にはこれといった自覚もなく…相変わらず大学とファミーユ、そしてピアノコンクールをウロウロしている日々だった。
まぁ、その容姿と実力、またあくの強いキャラによって、知名度は既に世界的に有名になりつつあった。どちらかというと、海外の方が評価が高い由飛は、時折、取材も受ける。
中には、不定期的にではあるが、由飛の記事をよく載せる雑誌もあり、仁が読んでいる雑誌の表紙にも、隅の方にではあるが、由飛の名が記載されていたりする。

「あったあった――――あれ? この娘って…」

と、ページをめくっていた仁は、由飛と一緒に写真に写っている少女を見て、思わず声を上げていた。
『話題の歌姫は、陸上界の新星と仲良し?』というつづりが大きく出ているその頁には、見覚えのあるアンティークショップで、仲良く微笑んでいる二人の少女の姿が写っていた。
一人はもちろん由飛であり、もう一人の少女は、闊達そうなショートカットの少女だった。ある日、ひょっこり由飛が連れてきたのだが、それ以来、姿を見せていない少女である。

「たしか、凛奈って名前だったよな…彼女も有名人だったんだ」

感心したように、へぇ、と呟くと、仁は記事の内容を読む事にした。と、記事に目を落とした仁に向かって、たたた…と走り寄って来た少女がいる。
気配を感じた仁が顔を上げるより早く、その少女は仁に抱きついてきたのだった――――半泣きで。

「なっ、由飛!? いきなりどうしたんだ?」
「仁〜…助けてよぉ! 玲愛ちゃんが怖いのっ」
「姉さん! 出て来なさいっていってるでしょうっ!」

と、店舗の奥にまで聞こえる大きな声で、玲愛の声が響き渡り、仁は思わず、空を仰いだ…といっても、店舗内なので、見えるのは天井だけだったが。

「………念のために聞くけど、今回はどっちが悪いんだ?」
「え、わ、わたしじゃないよ? 急にぶつかってきたのはお客様で、ただちょっと、ショートケーキと紅茶を、玲愛ちゃんの頭に浴びせちゃったから………」
「何気に、命知らずな事するよな、お前も………はぁ、しょうがない。一緒に謝りに行ってやるから、由飛も謝るんだぞ」
「うぅ、ごめんね、仁」

うるうると、感激したように見上げてくる由飛に苦笑すると、仁は手近な棚に雑誌を置いて、由飛と一緒に店頭に向かった。
長雨続く、梅雨のある一日――――午後の時間も、騒々しい日となりそうであった。



ここのところ、ずっと降り続いていた雨もここ数日は途切れ、徐々に空気は、夏の暑さに焦がれていくように感じる。
南栄生島では、気の早い蝉も鳴き始めるこの時期――――暑さのせいか、教師も生徒も今一つ授業に身が入らないのは、のどかな田舎の高校だからだろうか?

「………」

かちかちかち、と、携帯のディスプレイを見ながら、せわしなく指を動かしているのは、3年に進学した星野航である。
時刻は昼休み――――昼食を終えて、遠く離れた場所にいる凛奈と、メールをやり取りするのは、航の日課となりつつあった。

「しっかし、よく続くよな、沢城と航のメールも。俺ならすぐ飽きちまうと思うけどな」
「ま、熱愛中だからね、この二人は。不特定多数にコナを掛けている雅文とじゃ、比べ物にならないでしょ」
「か…返す言葉もございません!」

友人である雅文と紀子のやりとりに、思わず笑みを浮かべつつ、航は送信を完了する。これを毎日続けているのだから律儀なものだ。
ちなみに、返事の方はかなり遅い時間になる。なんでも、凛奈は昼の時間も走り込みをしており、ここ最近は更に頑張っているらしいからだ。
航がメールの送信をしたのを見計らって、傍に居た茜が声を掛けてくる。どうも彼女も、凛奈の事を話題にしたくて、うずうずしていたようだった。

「そういえばさ、凛奈ちゃんもついに全国デビューしたんだよねっ! この前のペアでの出演から、ソロへのランクアップ! 彼氏としても鼻が高いよねっ!」
「ああ、そういえば、なんかの雑誌に凛奈の事が載ってるらしいよな…見てないけど」

あまり芳しくない航の反応に、茜は不満そうな表情を浮かべる。ちなみに、凛奈が雑誌に出たというのは島でも噂になっており、発信源が誰かは言わずもがな。
特にここ最近は、凛奈関係の記事を探す事に情熱を向けているというのだから、航の無反応っぷりは、拍子抜けもいいところであった。

「ええ〜っ? 駄目だよ航くん、せっかくの晴れ舞台なのに、ちゃんと雑誌を見てあげないと、そんでもって懸賞にも応募しないとね! 幸せの石が狙い目だよ!」
「その胡散臭さ10割の懸賞はさておき…良いんだよ、そういうのは見るつもりはないんだ。毎日、こうやってメールのやりとりしてるんだし」

………ちなみに、実家では延々と長電話もしており、冷める気配もない熱愛っぷりなのだが、この場でそれを暴露するほど、航は阿呆ではなかった。
とはいえ、その言葉の裏に含まれる感情を、読み取れる者はいて――――茜は満足そうに微笑む航を見て、嬉しそうな表情になったのだが。

「そっか…そだよね。航くんと凛奈ちゃんは、どこにいても繋がってるんだしね」
「ああ」

頷いて、航は窓の外に目を向ける。夏の風が青い空を流れ、白い雲が蒼穹の天に浮かんでいる。僅かに聞こえる蝉時雨と、身を焼くような日差し。
再会の季節となる、夏――――ふいに、彼女の歌声が聞こえたような気がして、航は静かに瞳を閉じた………さよならのあとの、再会を待ち望むかのように。



――――FIN


戻る