〜史実無根の物語〜 

〜其の二〜



「………やはり、蓮華様の捕縛は本当でしたか」

かつて、呉の国のあった地方――――未だ、地方には反抗勢力も多く、反乱の火種は各所に燻っている。
広大な呉にあって、北郷率いる他国の部隊と戦端を交えたのは、ほんの一部隊に過ぎない。大半の兵は地方の安定と治安のために駐留している。
また、先の戦いにおいても、北郷軍の捕縛を逃れ、野に下った智謀兼有の人材も、決して少なくはなかった。

「呉の再興の為にも、蓮華様に害が及ぶ前に、救出を急ぐことにしましょう」

報告書に目を通し、黒髪の少女は静かに呟きを発する。まるで刃のような鋭い気配を身にまとった少女は、主の安否を案ずるように、瞳をそっと閉じた。



草木も眠るとされる丑三つ時――――…夜間の警護をするごく少数の者を除き、城内に住む者達は、皆、寝静まっている。
時折、わずかな虫の音が聞こえるくらいは、静かな夜であった。人気の無い通路を、一握りの靄が、ゆらゆらと流れ過ぎて行く。
それは、風に流されれば吹き消えるように儚く見えたが、形を崩すことも無く、やがて、一つの部屋の前に流れ着いた。そこには呉の美姫である、二人の少女が眠っている。

「ぅ、ぅぅ………」
「すぅ………すぅ………ん…」

扉の隙間を擦り抜け、部屋の中に流れ着いたその靄は、眠っている二人の少女の周囲をしばらく浮遊すると、やがて、その鼻や口から体内に入り込んでいったのである。

(大喬、大喬………)
「ん………雪蓮………さ、ま?」

眠っていた少女の顔が、苦しそうにゆがむ。彼女の耳元には、亡くなったはずの伴侶の声が、静かに響いていた。それは、ささやきに似た怨嗟の声。
それは、地獄の底から呼び寄せた死者の声のように、暗く重い声――――…ささやかれる言葉は、脳に染みこむように、少女の耳元で繰り返される。

(大喬………私の無念を晴らしなさい………呉の国を滅ぼした、あの男に復讐を………)
「雪蓮さま………そんな」
(迷う必要はないわ………さあ、貴方の手で、復讐を………)

眠りながらうなされる、少女の耳元でささやかれる呪いの声――――…それは、朝になり、少女が目覚める時まで繰り返された。延々と、延々と………。



「では、朝議を始める。一月ほど前より、各地方で起こり始めた反乱に対する対処と、それに伴う出兵についてだ。朱里、説明を」
「は、はいっ。ええと、江東地方を中心として、複数の地方領主が兵を挙げているそうです。いずれも万を超す兵を揃えているものの、相互の連携は行っていないようです」

愛紗から促され、朱里はそう説明を始める。あの事件から一月ほどが経過し、国内の治安は安定に向かっていた。
蓮華や思春といった面々も、城内の生活に慣れてきたのか、日増しに笑顔で居る時間も増え、平穏な生活に安らいでいるようにも見える。
しかし、そんな平穏な国内とは対照的に、国外の――――特に、併合をした呉のあった地方では不穏な動きの気配が出始めていたのだった。

「目的は、呉の旗印である蓮華さんの奪還………それに、滅亡した呉国の復興だそうです。挙兵した将は、陸抗、周泰、丁奉…他にも多数の名のある人が、参加しています」
「ふむ………呉軍の壊滅で、名のある将は捕らえたと思ったが、さすがに大国だな。人材の層の厚さは侮れんと言うことか」

朱里の説明を聞き、感心した様子で頷いたのは星。一騎当千の猛者であり、また、軍を率いても無双の強さを誇る彼女も、今回の事態の深刻さに気がついているのだろう。

魏を統合した時も、地方での小競り合いは多々あった。とはいえ、有能な将官が参加しているわけでもなく、それほど規模が大きいわけでもなかった。
それでも、かなりの時間と損害を出して、ようやく混乱を収拾することができたのだ。今回の事態は、以前よりも手を焼くであろうことは明白であった。

「各地の反乱の討伐に、討伐軍を編成しようかと思っています。翠さん、紫苑さんのお二人に、それぞれ5万の軍を率いてもらおうと思っていますけど、よろしいですか?」
「ああ、まかせときなって。たかだか地方の反乱くらい、あたしたちの部隊だけで蹴散らしてやるよ」
「そう軽口を叩くものでもないぞ。連中には後がない。窮鼠になった相手を舐めて掛かって大怪我をする事もあると、肝に銘じておくべきだろうな」

翠の軽口に星が呆れたように忠告を投げかける。もっとも、出陣ということで意気が上がっている翠には、あまり効果がなかったようだったが。

「それで、私達は反乱を討伐するだけでいいのかしら? 出来ることなら、穏便に済ませたほうがいいと思うのだけれど」
「…それは、お二人の判断にお任せします。遠征ともなると、こちらの判断を待っていられないときもあるでしょうから」

そう言うと、朱里は愛紗の方に、ちらりと視線を向ける。本来なら、このような挙兵に対しては、誰よりも真っ先に討伐を主張するはずの愛紗だが、今は沈黙している。
どことなく覇気がないように見えるのも、やっぱり、先日の件が後を引いているんだろう。

「それで、連れて行くやつは、あたし達で決めていいのか? だったら、蒲公英(馬岱)が手柄を立てたそうだから、連れて行きたいんだけど」
「私の方は………そうね、焔耶(魏延)ちゃんを連れて行きたいのだけど、良いかしら?」
「人選の方はお任せします。軍師として雛理(鳳統)さんを同行させますから、よく話し合って決めてくださいね」

ただ、愛紗個人が気落ちしている状況でも、会議は続くものであり――――呉地方への討伐軍の編成と、出兵の方針が決まり、朝議は終了となった。



朝議が終わり、各々が三々五々に、今日の仕事、また、遠征の準備などに散っていく。そんな中で、俺は愛紗の姿を探して、城内を散策していた。
別に仕事をするのが面倒くさいから、部屋に戻るのを渋っているわけではない。ここのところ、様子がおかしい愛紗のことが気になってしょうがなかったからである。

「確か、こっちの方に歩いていったと思ったんだけど…っと、なんだ、恋か」
「………ご主人様、どうしたの」

物陰から、にゅっと姿を現したのは、相変わらずのマイペースな少女、恋である。そういえば、今日は朝議に姿を見せなかったな…多分、またどこかで寝ていたんだろう。

「ああ、ちょっと愛紗を探しててね………ちょっと、話したいことがあったんだけど」
「………………………」

俺の問いに、恋は無言。そうして、考えるように視線をゆらゆらとさせたあと――――唐突に俺に向かってポツリと聞いてきた。

「けんか」
「は?」
「ご主人様と愛紗、けんかしたの?」

そう言って、俺を見てくる瞳には、ちょっとだけ責めるような感情。どうやら、愛紗が元気が無いことは恋にとっても心配事のようだった。
俺は、どう言ったものかと考えながら、恋の質問に答えることにする。

「喧嘩をしているわけじゃないよ。ただ、ちょっとしたことがあって、愛紗が落ち込んでいるのを放って置けなくてさ」
「………本当?」
「恋に嘘をついてどうするんだよ。それに、俺が恋に嘘を言ったことってあったっけ?」
「………………………」

………何で、そこで黙ったまま? 恋の様子を見ると、拗ねたような表情で、俺の方を見てきた。何か俺、恋の気に障るようなことしたかな………?

「………わかった」

内心で心配をしていると、長い長い沈黙の後で、恋はポツリと呟いた。どうやら、今の今まで俺が嘘をついていないか思い返していたらしい。
とりあえず、彼女の判断では、俺は嘘をついたことが無い、ということになるんだろうか? 単に、大目に見てもらったような気がしないでもないけど。
そんなことを考えると、恋が俺の腕を取った。そうして、力任せにグイグイと引っ張り出す。

「ついてきて」
「お、おい、ひっぱるなって。それに、ついていくって、どこに?」
「………愛紗のとこ」

俺の質問に、恋はそれがさも当然といった表情で、ポツリと答えたのだった。



城内にいくつもある木々の木陰――――いつも、恋やその友達の昼寝場所となる、そんな場所に座り込んでいるのは、探していた愛紗だった。
何やら考え込むように俯きながら、彼女はそこにじっと座っている。と、構ってほしいとばかりに彼女のとなりにセキトがうつぶせに寝そべった。
伏せの姿勢のまま、愛紗を見上げてくるセキト。その愛らしい様に、愛紗はふっ、と笑うと、セキトの背中を優しく撫でていた。

「よしよし、ふふ………お前は悩みがなさそうでいいな」
「わふっ」

恋に手を引かれて、その場に連れられてきた俺が見た光景は、そんなものだった。残念なことにその光景は長く続きはしなかったのだけど。
人の気配を感じたのか、愛紗がこちらを向いて……沈黙。そうして彼女は、セキトから手を離し、慌てた様子で俺の傍らの恋に文句を言った。

「れ、恋………! ここには誰も来ないと、言っていたではないか!」
「言った。ここには誰も来ない。誰もこないけど、恋がつれてきた」

恋の言葉に、愛紗はぐむ、と沈黙する。確かに城内の木陰に、わざわざ用事があって寄り付く者はめったに居ない。
居るとすれば、恋のように昼寝を決め込む物好きか、そんな恋がひっぱってくる者達だけだろう。マイペースな恋の物言いに、愛紗は憮然とした表情になる。
このままだと、恋が怒られてしまいそうだったので、そうなる前に俺は助け船を出すことにした。

「愛紗、恋を怒らないでくれ。俺が愛紗の居場所を探しているのを知って、連れて来てくれたんだからな」
「そうでしたか。私のことを探していたということは、何か不測の事態でも生じたのですか?」
「いや、ちょっと様子が気になってね」

俺が答えている間に、恋はチョコチョコと、座り込んでいる愛紗のそばに行って、その膝を枕代わりにコロンと寝転んでしまった。

「こら、ご主人様の目の前で、だらしが無いぞ、恋!」
「まぁまぁ、いいじゃないか。愛紗に甘えたがっているみたいだし、無下にする必要も無いだろ」

そう言って、俺は愛紗のそばに座る。愛紗の膝枕が気持ちいいのか、恋は直ぐに寝息をたてて寝入ってしまった。
愛紗は半ば呆れたように、その髪を撫でながら微笑みを浮かべる。そんな愛紗の横顔を見ながら、俺は気になってきたことを問いただすことにした。

「それで、いったいどうしたんだ? こんなところで落ち込んでいるなんて、珍しいじゃないか」
「………落ち込んでなどいません」

俺の言葉に、愛紗は気まずそうに言う。眉根を寄せて、うつむく様子は落ち込んでいるようにしか見えないが、言ったらますます意固地になるだろう。
そう考えた俺は、少し考えて話題を変えてみることにした。

「まあ、いいや。愛紗を探していたのは、俺の愚痴を聞いてもらおうと思ってね………大喬と小喬のことなんだけど」
「………」

大喬達の名前を出したとたん、愛紗の表情にわずかな影が差す。やっぱり愛紗も、あの時の事を気にしているようだった。

「小喬に言われたこと、分かっていた事だけど、ちょっとこたえてさ。今までは、分かってたふりをしてたけど、ああも目の前で言われるとな」
「ご主人様のおっしゃることは、良く分かります。私も、小喬の言葉には胸を突かれました」
「愛紗も、か」

俺の言葉に、愛紗は、はい、と答えると、苦しそうに顔を歪める。それは、彼女にしては珍しい、つらそうな表情だった。

「いえ、胸を突かれたのは、彼女の言葉にではなかったのかもしれません。戦に勝って、浮かれていた自分に恥じているのかもしれませんね」
「………どういうことだ?」
「今まで、大儀のための戦を繰り返し、多くの者を殺めてきました。そのことを忘れ、勝利におごっていた時だからこそ、小喬の言葉は胸をついたのでしょう」

その言葉に、俺も内心で納得する。いつもの愛紗ならば、誰に何を言われても一蹴しただろう。
だけど、この時期、呉に勝ち、天下が安定するこの時期だからこそ、その気の緩みの間に放たれた小喬の言葉は、愛紗の心をえぐったのではないだろうか。

「我々は、多くの犠牲とともに此処にある。そのことを忘れてはならないのでしょう。小喬の言葉はよい教訓となりました。今後も、今まで通りに鋭気を持って………」
「ちょ、ちょっと待った!」

一人で納得しかかる愛紗を、俺は慌てて止めた。長い付き合いで何となく、愛紗がこのまま、自分を追い込んでいきそうな気がしたからだった。
めったなことでは妥協せず、どこまでも自分の義を貫く少女。だけど、その思いが彼女の心身を損ねるのなら、愛紗のためにも、俺が止めなければならなかった。

「変に気負う必要は無いんだぞ。別に、肩の力を抜いても構わないんだからさ」
「何を言っておられるのです! そのような気の緩みこそが、今の最大の敵でしょうに」
「それは良く分かってるよ。だけど、気持ちを張ってばかりなのもどうかと思うんだよ。暴風に木の柱は折れても、柳の枝は折れないといわれているし」
「む……」

俺の言葉に、言いたいことが伝わったのか。愛紗は渋い表情で沈黙する。そんな愛紗の表情を柔らかくする事は出来ないだろうかと、俺は頭を悩ませた。
もっとも、大した案も浮かばなかったので、結局はスキンシップに頼ることになるのだったけど。俺は愛紗の肩を抱くと、自分の方に寄りかからせる。

「なっ、ご、ご主人様!? 何をお戯れを……!」
「ほら、逃げない。しばらくは、こうしていてくれよ」

逃げる愛紗の肩をつかんで重ねて言うと、観念したのか、愛紗は俺の肩に頭を寄せるように寄りかかってくる。その唇から、安心したような溜め息が漏れた。

「ほら、こうしていると落ち着くだろ? 周りには誰もいないんだし、俺と居るときくらいは、こうして肩の力を抜いていてくれよ」
「……ご主人様は、酷い方です。貴方を守るためには、気を張らなければいけない私に、肩の力を抜けと言う」
「場をわきまえてはいるさ。必要になるときは、愛紗の力を借りることもある。だけど、だからこそ、それ以外の時には、愛紗という女の子の支えになりたいんだ」

我ながら、これだけ恥ずかしい事をよく言えるなと思いながらも、偽りの無い本心を、俺は愛紗に打ち明けた。

「厳しく、強くない愛紗は愛紗じゃない。だけど、繊細で優しくない愛紗も、愛紗じゃないと俺は思うよ」

そう、俺が愛紗と言う女の子を尊敬し、惹かれている部分は………不安定なほどの彼女の内面にあると思う。
責任感が強く………ともすれば、誰にも頼ることが出来ない彼女の支えになることが、俺の望みの一つだった。

「俺の実力じゃ、戦でも政治でも愛紗の支えにはなれないのは分かっている。だから、せめてそれ以外の事で愛紗を助けていきたいんだ」
「………」
「愛紗が辛い時や悲しいとき、そういった気持ちを受け止めれればいいなと思っているんだけど………俺じゃあ、役者が不足しているかな」
「いえ、そんなことはありません!」

俺の言葉に、はっきりと大声で言い切る愛紗。気持ちは嬉しいけど、さすがにちょっと恥ずかしいかもしれない。それは愛紗も同じだったのか、彼女の頬が赤く染まった。

「あ、その………ご主人様は他人の痛みや苦しみを受け止められる方ですから。それは、私には勿体無いくらいの気概だと思います」
「それは、買いかぶりすぎだと思うけど。ともかく、肩の力を抜くのは大事なことなんだから、今は、こうしていること。いいね?」
「………はい」

恋に膝枕をして、俺の身体に寄りかかるようにして、愛紗は改めて身体の力を抜くように一息つく。
多分、俺が口で何と言っても、愛紗は気を張るだろうし、どこまでも頑張ろうとするだろう。だからこそ、今だけは普通の女の子として、時を過ごしてほしかった。
結局、それからしばらくの間…恋が昼のまどろみから目を覚ますまで、俺と愛紗は肩を寄せ合って、緩やかな時の流れに身を任せていたのだった。



その日の夜………まとまった仕事を終えた俺は、早々と眠ることにした。
呉の各地で反乱が起こった以上、この本拠地も、いつ戦渦にさらされるか分からない。眠れる時には眠っておくのは必要なことだった。
というのは建前で………実の所、そんな気構えとは無関係に、溜まりに溜まった仕事を片付けたことで出た疲れから、早く眠りたいと思っただけであったが。

「ふぁ………今日も色々と疲れたな」

明日は、もう少し楽な仕事だったら良いなぁ………そんなことを考えながら、俺は寝床にもぐりこむ。
仕事疲れで脳が止まりかかっているのか、睡魔はすぐに訪れた。だが、そういうときに限ってなかなか眠ることが出来ないのが人体の不思議だった。
寝よう寝ようと意識すると、どんどんと眠りの淵から遠ざかっていくのである。どうしたものかなと考えていると、不意に部屋の戸が開いた。
身体を横にしたままで、入り口に顔を向けると、そこには小柄な影があった。小さい身体つきは、女の子のようだったが、誰かはわからない。

「………誰だ?」
「!」

俺はベッドの上に上半身を起こすと、人影にそう聞いてみる。俺が身を起こしたのを見て、人影は走りよってくる。その手には、鈍く光る短刀が――――!?

「う、うわっ!?」

俺はとっさに、枕を盾にして短刀の切っ先を受け止めた。刃の長さが短かったのが幸いして、何とか短刀を受けることに成功した。
しかし、ほっとしたのも束の間、影は枕に突き刺さった短刀を手放すと、俺の上に馬乗りになって喉を締め上げてくる。その口から、怨嗟の声が湧き出てきた。

「北郷………殺す、殺す、殺す!」
「き、君は――――」
「主、無事ですか!」

異常を察したのか、俺の部屋に誰かが駆け込んできた。誰かは分からないが、この状況は逆にまずい………! 俺は、首を絞められながらも、とっさに声をあげていた。

「まて、殺すな!」
「!」

そういった矢先、俺の身体の上に馬乗りになっていた影が、ゆらりと傾いだ。そうして、ベッドの上に倒れ付す。
影を打ち据えたのが、槍の柄だと気づいたのは、数秒がたってのことだった。危なかった………もし俺が止めなかったら、柄でなく刃の方が使われていただろう。
俺は溜め息をつき、助けに来てくれた相手を見る。幾分顔が強張った様子の趙子竜――――星がそこにいた。

「ありがとう、助かったよ。星」
「いえ、それは当然のことですが………何故止められたのですか、主。その娘には、確かに殺気があった………主に害をなそうとしていたことは明白でしょう」
「あー………それは」

どうしたものかなと、考えながら、俺は星にかける言葉を探し――――誤魔化してみようと試みた。

「痴話げんかだよ」
「――――は?」

俺の言葉に、星はキョトンとなる。予想もしない返答に、呆気にとられているようだった。俺はその機を逃さず、更に言葉を付け加える。

「いや、この娘の姉さんとも、ちょっと厭らしい事をしてみたいなーって言ったら、本気で怒ってさ。刃物は振り回すやら、首を絞められるやらと大変だったよ」
「………主殿」
「はい」

俺の話を聞いていた星が、心底から呆れたように俺を見つめてくる。その顔には、苦笑めいた微笑みがあった。

「いささか苦しい言い訳ではありませんか? まぁ、その心意気には感服いたしますが。つまりは、ここで起こった事は、単なる喧嘩だと言われるのですね」
「ああ。この娘も思うところがあるみたいだからな。呉が陥落してまだ時も経っていないから」
「………御意。主がそう仰られるのでしたら、それでよい事にしましょう」

そう言って、星は俺に笑顔を見せる。相手が星で助かった。もし助けに来たのが愛紗だったら、きっと話は通じなかっただろう。

「ただし、後に禍根を残すのは問題ですから………そのあたりは、きっちりとしなければなりませんが」
「ああ、分かってる。とりあえず、この娘を部屋まで送ろう。 俺が小喬を担いでいくから、星は護衛を頼む。あ、それと枕に刺さった短刀も回収してくれ」
「分かりました。それにしても………こんな得物で人を殺そうなどとは、考え無しもいいところだと思いますが」

ベッドに倒れ付した人影――――小喬を見下ろして、呆れたような表情を見せた星は、枕に刺さった小刀を抜く。
それは、果物を剥く時に使われるもので、刺すよりも剥くことに特化している。もちろん、斬ることなど、出来る武器では無いものだった。

「俺を襲ったのは、衝動的なものだと思うよ。計画的な犯行なら、もうすこし色々と根回しをして行うものだろう」
「…そうですな。先ほど、この娘を見かけたときも、思いつめた表情で主の部屋に向かっているものだから、てっきり夜這いだと思って後をつけたのですが」
「………ちょっとまて」

なにやら、今、聞き捨てならない事が星の口から出たような気がしたんだが。

「なんですか、主」
「何ですかじゃない。もし、本当に夜這いだったら、どうするんだよ」
「もしそうでしたら、語学のために聞き耳を立てていたでしょうな。まぁ、良いではないですか。こうして主を助ける事もできたのですから」
「………」

しれっとした表情をする星を見て、俺は疲れたように肩を落とす。本人に悪気があったわけじゃないし、何を言っても無駄だと言う事は身に染みて分かっていた。
とりあえず、覗きや出歯亀の対策は、後の朝議に掛けるとして………今は、小喬達の問題を片付けるとしよう。
俺は、寝巻きに包まれた、小喬の小柄な身体を抱き上げる。その身体はとても軽く小さな幼子のように、俺には感じられたのであった。



「失礼、おじゃまするよ――――大喬、起きているか?」
「あ、はい…………いったいどうし――――、小喬ちゃん!?」

小喬を抱えたまま、ドアをノックして中に入ると……部屋の中にいた、寝巻き姿の大喬が驚いた顔を見せた。

「いったい、どうしたんですか? 小喬ちゃんが、どうして……」
「少し、落ち着いてくれよ。起きたらまた、暴れるかもしれないからさ」

慌てた様子の大喬を落ち着かせながら、部屋のベッドに小喬を横たわらせる。先ほどまで暴れていたとは思えない穏やかな寝顔で、小喬は寝息をたてていた。
眠る小喬の顔を心配そうに眺めてから、大喬が不安そうに俺のほうを見つめてくる。いつもは控えめに穏やかな表情を浮かべているその顔が、不安に翳っていた。

「その、いったい何があったんですか?」
「ああ、それなんだけど……さっき、小喬が俺の部屋に来て――――」

小刀を手に持って襲い掛かってきた事の、一部始終を話すと、大喬の顔が蒼白になった。
どうやら、大喬は小喬が俺の部屋に足を向けたこと自体を知らなかったらしい。暗殺計画というよりは、暴走っぽかったから、小喬の個人的犯行といったところだろう。

「そんな事があったなんて……お願いです、罰は私が全て受けますから、小喬ちゃんのことは許してあげてください!」
「落ち着いて………大丈夫、俺も大事にするつもりは無いよ。ただ、小喬がまた同じ事をしないように、原因を知っておきたいんだけど……」
「やれやれ、甘いですな、主。私としては、姉妹ともども斬り捨てて、後の禍根を断つべきだと思いますが」

と、横合いから口を挟んできたのは、俺の後について部屋に入ってきた星だった。
その口調は冗談と真剣の半々であり、もし俺が斬り捨てろとでも命じれば、即座に実行できるようにか、槍の柄に両手が掛かっていた。

「俺は、そういう事を命じる気はないよ。そもそも、名だたる趙子龍に、無抵抗の少女達を斬らせるなんて、君主として恥ずべき事だろう」
「………御意。そうですな、私とて、この槍は武勇ある敵手に向けるのが本懐ですから」

俺の言葉に殺気を削がれたのか、笑顔を見せて片手を柄から離す星。とはいえ、もし大喬が妙な素振りを見せれば、即座に飛びかかれるような雰囲気を発していたが。
とりあえず星を後ろに控えさせて、俺は大喬に繰り返して質問をすることにした。小喬が何故、俺に刃を向けたのか、その理由を聞くためである。
とはいえ、何となく理由は察してはいたけど。ここ最近は、特に俺に敵愾心を向けていた小喬。彼女の口から発された、冥琳という名が、原因ではないだろうか。

「それで……小喬が、俺に襲い掛かってきた理由は、分かる?」
「――――…多分、それは…………冥琳さまが亡くなられたことが、原因だと思います。亡国である呉の軍師、周瑜さまが、小喬の想い人でしたから」



戻る