〜史実無根の物語〜 

〜其の一〜



孫権が北郷軍に降り、周瑜が焔に消え…支柱を失った呉は事実上消滅した。中国大陸の大半を制した北郷軍に敵対する国家は、事実上なくなったといっても良い。
三国鼎立という状況から魏が併呑され、呉が吸収され――――広大な領土の大半は、一つの国家に集約されることになった。
これで、戦争の無い平和な世になると、多くの者はそう思った。しかし、舞台裏で暗躍する者達にとって、中国統一は、ひとつのきっかけに過ぎなかったのである。

「ふむ………呉も存外あっけなかったですね。それとも、北郷軍の力が強まっているということでしょうか」

落日の呉――――勝者の歓声と、敗者の嗚咽が響き渡る戦場を遠くから睥睨し、眼鏡を掛け、法衣を着た青年――――…干吉は考えをめぐらすように腕を組む。
柔和な佇まいとは裏腹に、死屍累々が転がる戦場を見ても眉一つ動かさず、まるで何も無い野原を見るかのように、淡々とした表情で視線を前に向けていた。

「北郷軍が、これほどの規模に成長したとなると、一筋縄ではいかないですね………内外から攻めるとしましょうか」

誰にとも無く干吉はひとりごちると、ふいに姿を消す。血なまぐさい臭いを運ぶ風は、不穏な空気を乗せ、戦場跡に吹きすさんでいた。



「〜♪」

北郷軍の本拠地である城内には、いまだ多くの貴人が捕虜として収監されている。もっとも、君主の意向か、その扱いは捕虜というよりは貴賓の扱いであったのだが。
晴れ渡った昼下がり、のんびりと楽しそうに時を過ごす瓜二つの姉妹――――大喬と小喬も、故あって場内にとどめおかれている。
その理由の一つとしては、彼女たちが呉出身であり――――両国間で戦端が開かれた事もあり、間諜の疑いがあると懸念されたからである。
もっとも、疑いなどではなく、それは事実であり…彼女達は周瑜が送り込んでいた間諜の類であった――――その実、間諜としての役目は果たせていなかったのだけれど。

「なんだか嬉しそうね、小喬ちゃん」
「ええ。だって、もうすぐ冥琳様に会えるんですもの。呉が負けたのは悔しいけど、これで私たちの役目も終わるなら、北郷に感謝しなきゃね」
「………うん、そうね」

無邪気に笑う小喬とは対照的に、大喬は浮かない顔をする。大陸に覇を唱えるため、ありとあらゆる手を使い…手段を選ばないほどに勝利に固執した周瑜…。
それほどの、病的なまでに勝ちに執着した彼女が、戦に負けて大人しく虜囚の身に甘んじるとは、大喬には思えなかったのであった。

「あ、月が歩いてるわ。みんながいつ帰ってくるか、聞いてみましょう!」

うきうきした口調で、侍女の格好をした少女のもとに走っていく小喬。そんな妹を微笑ましく思いながらも、大喬はどこか不安そうな表情で空を仰ぐ。
空には太陽が高々と昇り、季節の鳥が宙を舞う――――平穏といって差し支えない午後の日………だが大喬には何故か日が翳ったように思えたのだった。



「………んっ、朝、か――――」

寝床から這い出すように起き上がり、眠気に支配された頭で俺は周囲を見渡した。呉の併合を終わらせて、本拠地に戻ってきた俺たち。
勝利を祝う祝宴や、戦後処理のゴタゴタがあって、けっきょく眠るのは、夜半過ぎになってしまったけど…なんと言うか、久しぶりにぐっすりと眠ることが出来たな。
行軍中の場合も寝床がないわけじゃないけど、身の危険がいつ降りかかるか分からないし、気持ちを落ち着かせて眠るのは難しいからな…。

「ふぁ〜〜〜」

眠気が残っているせいか、無意識のうちに大きなあくびをしていた。普段なら二度寝なんてしない…というか、愛紗達に睨まれるので出来ないけど、今日ぐらいは良いかな?
何しろ、ここに戻ってくるのもかなりの強行軍だったし――――他のみんなもベッドで眠っている頃合だろう――――…。

「おはようございます、ご主人様! 今日も良い日和ですよ」
「………」

なんて、考えたのが甘かったんだろうか? まるで俺が起きたのを見計らっていたかのように、ドアをノックして部屋に入ってきたのは愛紗であった。
俺が黙っていて反応しないでいると、愛紗はしばしの間のあとで、怪訝そうな表情を俺に見せてくる。

「…? どうかなされましたか、ご主人様? 何やら心ここにあらずの様ですが――――どこか、お加減が優れないのですか?」
「あ――――いや、そうじゃないんだよ。ただ、大きな戦のあった後だからさ、こうやって誰かが起こしに来るとは思わなかったから」
「ああ…なるほど。確かに、疲れが一気に出て寝入っている者もいましたね。激戦の後ですし、無理もないですが…鈴々も、今朝は寝床から出ようとしませんでしたから」

と言いながら、愛紗は困ったように微笑んだ。いつもは厳しい姉として鈴々と接しているけど、こういう時に愛紗の優しさが垣間見えるんだよな。
だらしない格好で寝入っている鈴々の身体に、愛紗が優しい顔でシーツを掛け直している姿が容易に想像できた。俺の勝手な想像だけど、あながち間違いじゃないだろう。

「な、なんですか………? 急に相好を崩されて………私の顔に、何か付いていましたか?」

愛紗の顔を見て、微笑んでいたのが気になったのか、何となく気恥ずかしそうな表情をする愛紗。普段の凛々しい愛紗も良いけど、時々見せる違った一面も良いよな。
それはそうと…惚気話はともかく、愛紗の質問に答えたほうがよさそうだ。変な受け答えすると、機嫌を損ねてしまうかもしれないし…怒らせると怖いだろうしな。

「ああ、ゴメン、そうじゃないんだ。 なんとなく、どんな光景か想像がついたからさ…」
「――――なるほど、そうでしたか。おそらく、御主人様の想像の通りだと思いますよ」

俺の言葉に、得心が言ったように頷くと、くすっと笑いながら、愛紗は顔をほころばせる。どうやら、鈴々の寝入った光景を思い出しているようだった。
そんな笑顔の愛紗をあらためて見つめる………戦場では獅子奮迅の活躍を見せ、普段から俺の支えになってくれる愛紗…彼女に慕われている時点で、俺は果報者なんだよな。
愛紗だけじゃない。俺を御輿として担いでくれる皆のためにも、こんな風に自堕落に寝入っていちゃいけない。起きて、今日も仕事に励むとしようか。

「まぁ、今日くらいは、鈴々の事を大目に見てやってもいいんじゃないか? 何だかんだで、大活躍だったんだし………ところで、愛紗…そろそろ起きようと思うんだけど」
「承知しました。では、私は部屋の外に控えておりますので、何か大事がありましたら声をかけてください」

俺の言葉を察してくれたのか、愛紗は一礼すると部屋の外に出て行った。いくら親しい間柄とはいえ、さすがに女の子の前で着替えを見せるわけにはいかないからな。
さて、着替えを終えたらみんなの様子を見てまわろうか。呉への遠征で疲れている人も多いだろうし、手伝えるところは手伝わないとな。



愛紗と共に、場内を散策する。先日の祝勝騒ぎのせいか、朝の城内は静まり返っている。ようやく戦が終わったという開放感からか、昨日は皆、はめを外していたからな。
今はみんな、眠りの中にいるんだろう。今、城内で起きているのは、ほとんどいないようだ………しかし、愛紗じゃないけど無用心すぎるかもな。

「まだ、誰も起きていないみたいだな………昨日の大騒ぎじゃ、無理もないか」
「そのようですね。ですか、このような日もよろしいのではないでしょうか? もう、敵の攻撃に気を張る必要もないのですから」

城内を見渡して言う俺に、愛紗は静かに微笑みながら、そんな事を言う。長い戦いが一区切り付いて、愛紗も気が抜けたんだろうか?
と、そんな事を考えていると、愛紗の表情が急に引き締まった。愛紗の見つめる方向に視線を向けると、廊下の向こうから歩いてくる人影が見えた。

「あら、北郷じゃない。こんな時間に起きているなんて、意外だわ」
「華琳………それに、春蘭と秋蘭も起きていたのか。三人とも、昨日の宴会には参加してたと思ったけど」
「ええ、おかげさまで楽しめたわ。もっとも、名だたる呉の将帥に会えなかったのが、少し残念だったけどね」

ニコヤカに笑いながら、華琳は平然とそんな事を言った。昨夜の宴会は、城内を巻き込んでの騒ぎだったが、さすがに呉の関係者の参加はなかった。
まぁ、呉征伐の成功を祝う宴会だったし、捕虜になったばかりの相手を宴会に参加させるのは問題だと皆の反対があったからだけど。

「俺としては、別に構わないと思ったんだけどな………これから、仲良く暮らすんだし」
「…その口ぶりからすると、また処刑をするつもりはないみたいね」

俺の言葉に、呆れたように華琳は俺を睨めつける。とはいえ、口調や態度とは裏腹に、目の奥の光は、面白そうに俺を見つめてきたが。

「また、甘いって言うかな」
「そうね………甘いと思うわ。もっとも、そう言いたいのは私だけじゃないと思うけど」

言いながら、愛紗に目配せのような視線を送る華琳。それに対して、愛紗は無言だったが…愛紗の性格からすると、やっぱり甘いって思っているんだろうな。

「でも、仕方ないだろ。華琳みたいな可愛い女の子達を処刑するなんて、俺にはとても命令できないんだし」
「か、可愛いって………そんな事いわれても、別に嬉しくはないんだから!」

などと言いつつも、まんざらでもないように頬を染める華琳。しかし、照れていたのも僅かの間で、すぐに何かに気づいたように、不機嫌そうな表情になった。

「ちょっと待って、今、可愛い女の子”達”って言わなかった?」
「あ、ああ。そうだけど――――」
「貴様っ! 他の娘たちと華琳様を同列に扱うとは、どういうことだ!」

と、華琳の気持ちを代弁するかのように、怒りの声を上げたのは春蘭である。捕虜の身の上であるから、帯刀は許可されていないが、それでも迫力が減ることもなかった。
思わず、たじろいでしまった俺。そんな俺を庇うように愛紗が俺の前に出て、春蘭とにらみ合いになった。まさに一触即発の状況で――――、

「少し落ち着け、姉者。先程の言葉…北郷殿に悪気はないだろう」

そんな空気を和らげるように、やんわりと横合いから口を挟んだのは、華琳の後方で、事の成り行きを静かに見守っていた、秋蘭であった。
秋蘭に横合いから口を挟まれて、春蘭は不満そうな表情を見せる。華琳に関することなだけに、怒りがおさまらない様だった。

「これが落ち着いていられるか、秋蘭! 華琳様が可愛らしいのは当然としても、他の娘たちと一緒にするなど…」
「落ち着けと言っているだろうに…その有象無象の中には、我々も混じっていると思うぞ」
「なっ!?」

秋蘭の言葉に、虚を突かれたかのように目を丸くする春蘭。驚きのあまり、怒りもどこかに吹き飛んでしまったようだ。
固まってしまった春蘭を横目に…秋蘭が、からかうような口調で、俺に言葉を投げかけてくる。

「北郷殿、そうなのでしょう? 先程の可愛らしい娘という言葉には、そういう意味合いがあったと思われたのですが」
「あ、ああ………そうだけど」

秋蘭の言葉に首肯する俺。しかし………面と向かっていわれると、さすがに照れくさいな。呆れたような愛紗の視線が少々痛いのは、気のせいじゃないだろう。
しかし、照れくさいのは俺だけではなかったらしい。俺が肯定をしたのを聞いて、春蘭も顔を真っ赤に染めていた。可愛いと言われるのに慣れていないんだろう。

「あー、うー………何だ、しかし、それでもやはり、序列というものがあってな」
「………………春蘭、何を、照れているのかしら?」
「ひっ、も、申し訳ありませんっ」

しかし、そんな照れた様子も長くは続かなかった。春蘭の照れた様子が気に障ったのか…華琳が、ものすごく不機嫌そうな表情で、春蘭を睨みつけたからである。
底冷えするような声音に、春蘭は真っ青な顔になって頭を下げる。長い付き合いから、華琳が相当に立腹しているのを察したのだろう。
とはいえ、頭を下げるだけで華琳の機嫌が直るはずもなく――――案の定、怒りの矛先は変わることなく、頭を下げる春蘭にぶつけられたのであった。

「あら、どうして頭を下げるのかしら? 春蘭は私にやましいところでもあるの?」
「い、いえ、けしてそのような」
「おだまりなさい。誰が口を開くことを許したの?」

ぴしゃり、と春蘭の口を一言で沈黙させる華琳。ここ最近は表に出てなかったけど………華琳ってサドっ気があったんだよな。
まぁ、サドになる対象が女の子限定みたいだし、俺が目の当たりにする機会もそう多くなかったわけだが…やはりこうして見ると、女王様って感じがする。
さて、春蘭を不機嫌そうに睨んでいた華琳だったが、しばらく春蘭を虐めているうちに、ますます乗り気になってしまったようである。
青い顔で華琳に頭を下げ続ける春蘭を一瞥すると、華琳は傍らにいた秋蘭に、ものすごく愉しそうな声で同意を求めたのだった。

「これは、教育が必要かしら? ねぇ、秋蘭、あなたもそう思うでしょう?」
「御意」
「ちょ………おい、秋蘭!」

華琳の言葉に即応する秋蘭に、さすがに慌てた様子で声を上げる春蘭。しかし、秋蘭は春蘭に対し、平然とした顔で頭を振ったのである。

「すまない、姉者。しかし、華琳様の勘気を治すにはこれしか方法が無いのでな。私とて、心苦しくはあるが」
「嘘つけ! お前も楽しんでいるだろ!?」

春蘭の言葉に、秋蘭は無言で肩をすくめる。否定もしないその様子は、明らかに肯定の態度ともとれるものであった。
秋蘭があてにならないのを知ってか、春蘭は救いを求めるように、俺を見つめてきた。とはいえ、俺に何か出来るわけでもないんだが。しかも――――…。

「――――随分と、北郷に熱い視線を向けているわね、春蘭」
「!?」

俺に視線を浴びせたことで、ますます華琳の機嫌が悪くなってしまったようだ。なんと言うか、悪循環の見本のような光景だな。
顔を引きつらせる華琳を見て、硬直した春蘭。と、その腕を秋蘭がガッチリとつかんだ。逃がさない為の配慮と言うより、覚悟を決めるようにと促したようだった。
がっくりとうなだれた春蘭を連れて、秋蘭は廊下の向こうに引き返していってしまう。さっそく、教育とやらをするつもりだろうか?

「それじゃあ北郷、私はすることができたから、また今度会いましょう」
「あー…俺が言うのもどうかと思うけど、ほどほどにな」
「…それを聞いて、ますます教育に熱が入りそうだわ。それじゃ」

表面上は笑顔でも、よほど頭にきているのか、華琳は足音高く歩き去っていってしまった。残された俺と愛紗は顔を見合わせて苦笑する。

「なんと言いましょうか………相変わらずの傲岸不遜ぶりですね、彼女は」
「まぁ、華琳だしな。らしいと言えばらしいと思うけど………とりあえず、ここでの立ち話もなんだし、行くとしようか」

華琳の件は心配と言えば心配ではあったが、さりとて俺に出来ることもないため、俺は愛紗を連れて散策を再開することにした。さて…次は、どこを見回ろうか。



城内には、迎賓のための区画がいくつか用意されている。遠方からの来客を迎えるときに使う他には、捕虜となった王族達の生活の場として機能している。
俺と愛紗が訪れた時分には、掃除や世話をするための女官たちが、周囲に姿を見せ始める頃合であった。女官達に混じり、武装した兵士達もそれなりの数がいる。

「さすがに、華琳達の住んでる場所とは違って、兵士達も緊張しているみたいだな」
「ええ。ですが、それも仕方のないことでしょう。何しろ、大陸に覇を唱えようとしていた呉の主要人物が、この区画に収監されているのですから」
「…まぁ、華琳達のときも、一時はギスギスとしていたからな。それに比べれば、今回はまだ穏やかなほうか」

周囲を見渡して、俺はそんな感想を漏らす。以前、華琳達を城内に迎え入れた時は、あちこちからの反対の声があったのを覚えている。なぜ、早く処刑しないかと。
そういった意見を跳ね除けたり、華琳達の立場を良くするために奔走したこともあったが…当の華琳達は、そんなことを気にせずに好き放題やっていたよな。
………思い返すと、随分と損な役回りだったような気もするけど、そのおかげで蓮華達を迎え入れるときの混乱が軽減されたわけだし、結果良しといったところだろう。

「…せっかくここまで来た事だし、蓮華達に会うことにしようかな」
「――――孫権に会われるのですか? 今は城に落ち着いたばかりですし、会談する機会は後でも取れると思いますが」

俺の漏らした言葉に、愛紗が控えめに提言してくる。心配性な愛紗のことだから、たった二人で蓮華達と会うことに危惧を感じているのかもしれない。
しかし、俺自身はそうは思わなかった。むしろ、他国の城に連れて来られた蓮華達の方が、不安を抱えていると思うし、その不安を取り除いてあげたいと思う。

「いや、多分、今だからこそ話せることもあると思うんだ………確かに、身の危険がまったくないわけじゃないけど、そこは愛紗を信頼しているからさ」
「………そのように言われては、私としても強くは申しません。ですが、くれぐれも油断だけはなさらぬよう」
「ああ、分かったよ」

愛紗の言葉に一つ頷くと、俺は周囲を歩いていた女官の一人を呼び止めて、蓮華達の泊まっている部屋の場所を聞くことにしたのだった。
蓮華の部屋の前には、完全武装の兵が数名、警備のために立ち、周囲を警戒している。蓮華達の警護をしているというより、逃亡を警戒しているのだろう。

「これは国主様………いかが御用でしょうか」
「孫権と話がしたい。今、時間が空いているかと取り次いでくれないか?」

俺の言葉に、警備の兵士達は互いに顔を見合わせると、一人が扉を開けて、部屋に入っていった。そうして、一分ほど待った後――――…

「お待たせしました。面会に応じるそうです」
「…そうか」

部屋から出てきた兵士の言葉に、俺は頷く。さすがに城に着いたばかりだし、色々と立て込んでいる可能性もあったけど、どうやら暇だったようだ。

「我々も同行します」
「い、いや、そんなに大仰じゃなくてもいいんだ。一緒に話すのは愛紗だけでいいよ」
「は、はぁ…」

部屋に入ろうとした俺についてこようとした兵士達を、俺は慌てて止める。変に話を大きくする必要はないだろう。
兵士達は困惑したように顔を見合わせるが、俺の隣で愛紗が力強く頷くと、納得したように扉の前での警備を再開した。こういう時、愛紗への信頼が強いのを感じるな。
俺が言ったんじゃ、こうして通してはもらえないだろうしなぁ………そんな事を考えながら、俺はあらためて、部屋の扉を開く。

部屋に入ると、ほのかな柔らかい香りが鼻をくすぐる。書き物でもしていたのか、書簡に墨やすずりが置いてある机。椅子に座った部屋の主は、笑顔で俺を出迎えてくれた。

「一刀………おはよう」
「ああ、おはよう。昨日はよく、眠れたのか?」

そう言いながら、蓮華のほうに一歩踏み出した、俺の足が止まる。横合いから、鋭い視線が刺さってきたのだった。顔をめぐらすと、部屋の片隅にむすっとした顔。
蓮華の護衛のつもりなのか、殺気を隠そうともせず、甘寧は部屋に入ってきた俺と愛紗をぶしつけに睨んできた。隠さぬ殺気に、愛紗も剣呑な表情になる。
好戦的な甘寧の態度ではあったが、それはいつものことなのか、蓮華は特に気にした様子もなく、席とたつと俺に歩み寄ってきて微笑みを見せた。

「ぐっすり、とはいかないけど、人並みには眠れたわ………こんな風に、安らいだ気持ちで朝を迎えるのは、久しぶり」
「そうか、それはよかった………目覚めに立ち会えなかったのは残念だったけど――――っと、今のは失言だったかな」

さりげなく、愛紗にわき腹をつねられて、俺は顔を引きつらせる。甘寧の表情も険しくなったし、さすがにこの雰囲気で、軽口を叩いたのは間違いだったのかもしれない。

「ううん、そんなことはないわ。私も、起きたときに貴方の姿を探したもの」
「…え?」
「あ――――な、なんでもないの。今のは、忘れて」

照れたように頬を染めて視線をそらす蓮華。なんでもないといったけど、ばっちりと聞こえてはいたんだけど――――愛紗達の手前、さすがに口に出すのはためらわれた。
気まずい空気を感じたのは、蓮華も一緒だったようで、慌てた様子で話題を振ってきたのはすぐのことだった。

「そ、それで………今日はどうしたの? わざわざ部屋を訪ねてくるなんて」
「ああ………蓮華たちが元気にしているかな、って思ってさ。あと、不自由なところがあったら、聞いておこうと思って」
「――――ふん、随分と気の利いたことだな。いったい何をたくらんでいる」
「思春!」

俺の言葉を聴き、吐き捨てるように言葉を投げかけてきた甘寧。その言葉に顔をしかめたのは、愛紗よりも蓮華のほうがわずかに早かったようだ。
俺としては、疑われるのは寂しいと思ったけど、前にも似たような事があったから、それほどこたえてはいなかった。

「疑いたくなるのは、しょうがないかもしれないけどさ。別に君達をどうこうするつもりはないよ。ただ、当分はここで暮らしてもらうから、不便の無いようにと思ってね」
「…ふん、どうだかな。口でそう言っておいて、返す手に刀を持つのが貴様達のやり方ではないのか?」
「思春、言いすぎよ! 一刀に謝りなさい!」
「――――申し訳ありません、蓮華様」

蓮華に注意された甘寧は、渋々といった様子で『蓮華に』頭を下げる。どうやら、意地でも俺には謝りたくないらしい。ここまで徹底されると、むしろ清々しいよな。

「…その位にしておくのだな。いかに御主人様が温厚といえど、それ以上の減らず口は、私がお前を斬って捨てるぞ」

そんな甘寧の態度がよっぽど腹に据えかねたのか、愛紗が怒りを押し殺した声をあげたのは、その時だった。見ると、すでに手が腰の懐刀の柄にかかっている。
冗談でもなんでもなく、甘寧の態度次第では、即座に斬りかかりかねない様子だった。そんな愛紗の態度に甘寧の方も剣呑な表情になる。
徒手空拳とはいえ、鍛えられた武人である甘寧。対して、室内ということもあり、得意の武器である青竜刀ではなく、懐刀を抜こうとする愛紗。
戦場なら、映える立ち回りをするような組み合わせだが、さすがにこんな場所で喧嘩をさせるわけにはいかなかった。

「愛紗、落ち着くんだ」
「――――お言葉ですが、御主人様。さすがに今度ばかりは、看過できません。御主人様に対し無礼な振る舞い…斬刑に処されても、文句を言うものはいないはずです」

殺気を隠そうともせず、愛紗は甘寧から視線を逸らすことなく、俺に返答する。俺は、愛紗の殺気を鎮めるために、その肩に手を触れた。
人の身体というのは不思議なもので、それだけで、愛紗の身を包む殺気が、幾分和らいだように思える。愛紗を落ち着かせようと、俺はさらに口を開いた。

「そんな風に言わなくてもいいだろ。それに、甘寧の気持ちは、愛紗が一番理解できると思うんだけどな」
「………それは、どういう意味でしょうか」

俺の言葉に、興味を持ったのか、愛紗は懐刀の柄から手を離し、俺の方に向き直って質問をしてきた。ひとまずは、矛先を収めることにしたらしい。
いきなりの大立ち回りにならなかった事に安堵しつつ、俺は思ったことを愛紗に聞かせようと口を開いた。

「戦に勝ったのが俺達だから、ここにこうしているわけだけど、場合によっては、俺達が捕虜となってることもありえただろ?」
「結果が出た後で、もしを話すのはそれほど意味がないと思うのですが………確かに、戦に負けていたら我々が虜囚の身になっていたでしょうね」
「ああ、それで、そういう状況になった場合、たぶん愛紗は、今の甘寧と同じように俺を護ろうとするんじゃないかな」
「――――それは、確かに」

思うところがあるのか、俺の言葉に納得したように首肯する愛紗。その様子を見てから、俺はことの次第を傍観していた甘寧にも声をかけた。

「甘寧もさ、愛紗の立場になって考えてくれれば、愛紗が腹を立てたのも理解できると思うよ。何しろ二人とも、生真面目で主想いな所がそっくりなんだから」
「………貴様に言われたくはないが、言うことは理に適っているな」

甘寧はそういうと、愛紗に視線を向ける。ちょうど愛紗も、甘寧へ目を向けたところだった。お互いの視線が交錯し――――やがて二人は、互いに笑みを見せた。

「なるほど、つまり我々は、似た者同士と言うわけか」
「ああ………そういう事になるだろうな」

剣呑な空気が若干和らぎ、俺と蓮華はホッとした表情をする。しかし、安堵したのもつかの間――――

「もっとも、だからといって仲良くできるとは限らないがな」
「同感だ。同属嫌悪というやつだろうが、やはり貴様は気に食わないな」

などと言い、愛紗と甘寧は再び殺気を応酬しだしたのである――――駄目だこりゃ。俺は溜め息をついて、二人の関係修復を一時後回しにすることにした。
このままでは何をやっても仲良くなりそうにないし、時間が経たなきゃこういった問題が解決しないことを、華琳達の時に学んでいたからであった。

「はぁ………愛紗、甘寧を連れて部屋の外に行ってくれないか? このままじゃ、落ち着いて話もできないし」
「なっ? ご、ご主人様! いきなり何を言われるのです!?」

俺の言葉に、愛紗は驚いた様子で俺に詰め寄ってきた。俺の言葉が、それほど意外だったらしい。別に、変なことを言ったつもりはないんだけどな。

「何を、って言われてもな…孫権は俺に危害を加えるつもりはないと思うし、席をはずしても問題ないんじゃないか?」
「い、いえ、しかし、それでは別の問題が――――…」
「?」

言葉の途中でゴニョゴニョと愛紗は言葉を濁らせる。いったい、どうしたんだろうか? そんな事を考えながら首をかしげていると、今度は甘寧が声をかけてきた。

「貴様………私を蓮華様から引き離し、何を企んでいる!?」

部屋の外に出ろ、と言ったのに腹を立てたのか、甘寧は鋭い目つきで俺を睨んできた。蓮華の心配をするのは分かるけど…少々、過保護のような気もするけどな。

「別に、何もたくらんじゃいないんだけどな…蓮華からも言ってやってくれよ」

正直なところ、甘寧を説得できるとは思えなかったので、俺は蓮華に助け舟を出してもらうことにした。蓮華の言うことなら、甘寧も聞くだろう。

「貴様っ………蓮華様の真名を呼ぶなど――――!」
「思春、北郷の言うとおりよ。部屋の外に出てなさい」
「なっ、蓮華様!?」

慌てた様子の甘寧に、蓮華は無言で首を振る。百万言の台詞よりも、その態度が甘寧にはこたえたようだ。唇をかみ締め、そうして、俺を睨んできた。

「いいか、貴様! もし蓮華様に何かをしでかした時は、私は決してお前を許さないからな!」

そう捨て台詞を残すと、肩を怒らせて部屋を出て行ってしまった。おそらくは、何があってもすぐに駆けつけれるように扉の外に居座るつもりだろう。
それでも、面と向かっての圧迫はなくなったので、肩に掛かった重さを払いのけるように、俺は大きく息をはいた。
甘寧という目に見える脅威が居なくなったため、愛紗も俺の言葉に従う気になったようだ。といっても、その表情はどことなく心配そうであったけど。

「ご主人様、我々は扉の外に待機しています。くれぐれも、くれぐれも! 自重していただくようにお願いします」
「あ、ああ。わかったよ」

なんだかすごい剣幕に、俺が首を縦に振ると、愛紗は足早に部屋を出て行ってしまった。先に出て行った甘寧の監視をするつもりなのだろう。
何はともあれ、ようやく蓮華と二人きりになれたわけである。先程よりも、広く感じられる部屋の中で、椅子に座る蓮華のもとに、俺は歩み寄った。

「ふぅ、愛紗も甘寧も…二人とも、もう少し肩の力を抜けばいいのにな。いつもいつも気を張ってたら、疲れるとおもうけど」
「彼女達は、いつも主君のことを気に掛けなければいけない立場でしょう。張り詰めてしまうのは仕方のないことじゃないかしら」
「まぁ、それはそうなんだけどな。それで、いったい何を書いていたんだ?」

蓮華の手元を覗き込むと、書簡には達筆な綴りでつらつらと文字が筆記されている。なんと言うか、育ちの良い文字と表現するのが適切な、整った字だった。

「…各地の諸侯に手紙を書いていたの。呉が降伏したといっても、地方にはまだ、抗戦の構えを見せている者もいるから」
「――――そうか。確かにまだ、地方にはこちらの影響力も行き届いていないだろうしな」

魏を統合した時も、司馬氏による反抗、郭嘉達の降伏など、小規模ながら数多くの事件があった。おそらくは今回も、しばらくの間は混乱の状況になるだろう。

「できればこれ以上、戦渦が長引いてほしくは無いんだけどな。そのためにも、地方の諸侯達にも矛を収めてもらいたいんだが」
「きっと、分かってくれると思うわ。皆が一刀のことを理解すれば、戦う理由は持ち得ないでしょうから」
「………そうだと、いいんだけどな」

蓮華の言葉に、俺はなんとも言えず、曖昧に頷いた。蓮華の考えも思いも、俺は充分以上に理解できるし、共感できる。
だけど、だからこそ、それがどれだけ困難なことか、今までの戦いで身をもって知っていた。今後も、こういった小競り合いが終わることは無いだろう。

「それはそうと、さっきも聞いたことだけど…不自由していることは? 生活に必要な身の回りのものは、用意させたつもりだけど」
「大丈夫。特に困ったことは起きていないわ。捕虜になった身で、贅沢な暮らしを望むつもりはないけど………他の皆も、同じように良くしてもらえているのかしら?」
「ああ。みんな元気にしているよ。来たばかりで遠慮しているかもしれないけど、自分の家のようにくつろいでくれて良いからさ。華琳…曹操なんて、好き放題しているし」
「曹操――――そうか、彼女もここに来ているのね」

華琳の名を出すと、蓮華の表情がわずかに曇ったように見えた。何か、華琳について思うところでもあるんだろうか?

「一刀は…彼女のような奔放な女性が好きなのかしら」
「え?」
「ぁ………その、彼女のことを話すとき、とても優しげな顔になるから、そうなのかなって思って」

蓮華はそういうと、探るような上目づかいで俺のことを見つめてきた。面と向かって聞かれると、恥ずかしいものがあるんだけどな。
ともかく、聞きたそうな顔をしているのは変わらないし、こたえないわけにもいかないだろう。ちょっと考え、俺は口を開いた。

「好きか嫌いかで言えば、好きっていえるだろうな、でも、それ以上に何より、曹操のことは尊敬しているんだよ」
「………尊敬?」
「ああ。書を読み、武芸に秀で、ありとあらゆることに精通しようとする――――どこまでも、成長しようとする彼女が、俺には羨ましくてね」

それは憧れとも嫉妬とも取れる感情。自分では持つことの出来るはずもない………よしんば持つことができたとしても、けして背負おうとは思わない、病的なまでの向上心。
何の気負いも無く、それを体現できるものが、この世に………いや、前に居た世界にもいただろうか? 少なくとも、俺の知っている中では、華琳だけがそうであった。

「だから、華琳のことは恋愛感情以前に、ライバル………好敵手として見てる事が多くてね。もっとも、華琳にしてみれば取るに足らない相手だと思われているんだろうけど」
「………そう。何となく、分かるような気がするわ」

俺の言葉に、納得したように頷く華琳。ほとんどの者は、華琳に対してどこかしらコンプレックスを抱くことになるだろう。それは、華琳が悪いわけではない。
生きようが、生き様(ざま)が、そこにあるだけで他者を圧倒する――――決して他者とは同列に並べない存在が、華琳という少女だった。

「まぁ、そんなわけで、女としても好きと言えばそうだけど………それ以上に、人として好きというか、なんと言うか」
「そうなのね………よかった」

何が良かったのかは分からないけど、蓮華はどこか安心したように微笑を見せた。答えになったかどうか不安だけど、蓮華は納得したようだった。が、

「――――じゃあ、関羽のことは? 彼女のことは目を掛けていたみたいだし、彼女の方も、貴方に好意を持っているように思えたけど」
「おいおい、矢継ぎ早だな………あいにく、身辺調査の類は出来ればご遠慮願いたいところだけど」
「あ………ご、ごめんなさい、不快にさせてしまったかしら」

続けられる質問攻勢に俺が苦笑を浮かべると、蓮華はしゅんとした表情でうつむいてしまった。そう恐縮されると、悪いことをしたような気分になるなぁ。

「いや、そんなことは無いよ。それにしても、やっぱりどこか様子がおかしいように思えるけど………やっぱり、疲れているんじゃないか?」
「………そんな事ないわ。様子がおかしいというのも、多分気のせいだから」
「――――」

そうは言うものの、やっぱりどこか元気がないように見える蓮華。そんな彼女を元気付けれればと、スキンシップのつもりで、俺は蓮華の手を握った。

「まぁ、すぐに安心できるようにってのは無理だろうけど、俺を頼りにしてくれれば嬉しいな。俺は蓮華のことが好きだし、味方でありたいって思ってるからさ」
「――――…ふふ」
「ど、どうしたんだ? 俺、変なことを言ったつもりはないんだけど」
「ごめんなさい。自分でも分からないけど、なんだか、すごく嬉しかったから」

そういうと、くすくすと笑い出す蓮華。ひょっとして、俺、変なことでも言ったんだろうか? その後の会話でも、蓮華は終始ご機嫌だった。
彼女の気分が良くなったのは良かったことだけど………その原因が良く分からなかったので、なんとなく、首を傾げたい気分の俺であった。
そんなこんなで時間はあっという間に過ぎ――――、一通り話を終えた俺が、蓮華の部屋から出ると、そこには――――…。

「…やっと出てきたか」

相変わらずの鉄面皮な甘寧と、

「………お待ちしておりました、ご主人様」

ものすごく不機嫌そうな、愛紗の姿があった――――というか、何故に不機嫌になってるんだ?
思わず怯んでしまった俺の横をすり抜けて、甘寧は部屋に入っていく。どうやら蓮華の警護に戻るようだった。

「…ごめん、少し待たせすぎたかな? なんだか、怒っているみたいだけど」
「いえ、別に待ってなどおりません。 ただ、扉越しにご主人様と孫権の会話が聞こえてきましたので」

げ、筒抜けになっていたのか。別段、変な事は話していないと思うけど――――正直、気恥ずかしいな。
周りを見渡すと、扉を警護してくれている兵士達が、笑みを浮かべてきた。なんというか、盗み聞きをしてしまって、どうして良いか分からないといった表情だ。
………気まずい。早くここを離れるとしよう。

「と、とりあえず、ここで立ち話もなんだし――――場所を移すとしようか」
「はい。かしこまりました」

額に汗をしながら言う俺の言葉に、愛紗はムッとした表情で頷く。やっぱり、どうみても機嫌が良くないようだ。
蓮華の部屋を離れ、人通りのない通路に出ても、愛紗の表情は変わらず、無言で俺の横につきしたがっている。傍から見ると、殺気が漂ってるように見えるだろう。
俺は、溜め息をついて足を止めた。この状態の愛紗を連れて誰かと出会ったら、何事かと思われるだろうし…俺としても胃の痛くなるような状況は勘弁してほしい。
ここは、一つ腹を割って愛紗と話をするべきなんだろうな。………なんというか、火中の栗を拾うというか、燃え盛る火口にダイビングするような心境だけど。

「愛紗………何を怒ってるんだ? 孫権と話をしたのが、気に入らなかったのなら謝るけど」
「いえ、そのようなことはありません。………あ、ですが、関係ないこともないのですが」
「………どっちなんだ?」

思わず突っ込みを入れると、愛紗は考え込むようにうつむいてしまった。なんというか、その気弱そうな表情は愛紗らしくはないように思える。

「………愛紗?」
「先程、部屋の中で、ご主人様は孫権にこう告げていました。自分は味方だ、好きだから力になりたい、と」
「あ、ああ。そうだけど」

愛紗は、何やら思いつめた表情で考え、しばらくして深刻な表情で俺に問いを投げかけてきた。

「もし、私と孫権が争いになった時………ご主人様はどちらに味方されるおつもりですか?」
「…難しい質問だな」

しばらく前…呉との争いが始まる前なら、何の躊躇もなく、愛紗の味方をすることができただろう。だけど今は、蓮華のこともよく知っている。
迷いもなくどちらか片方を選べるほどに、俺は果断でもなく、また、迷った末でも…どちらかを選べるとは、到底、思えなかった。

「そうだな…できれば、そうなる前に何とかしたいものだよな。争うより、仲良くしてくれたほうが俺としても嬉しいし」
「ご主人様………それでは、答えになっていません」

俺の答えに、愛紗は不満そうな表情を見せる。愛紗にしてみれば、望みの答えは自分に味方をしてくれることだっただろう。
ただ、真摯な問いかけだったからこそ、こちらも真摯な答えで………お世辞や虚言の類は使えなかった。

「そう言われてもな………俺はどちらも大切に思っているし、どちらかを選ぶなんてこと、したくはないんだよ」
「したくないといわれても、選ばなくてはならない時もあります」
「――――…分かってるよ。今日、この時までにも似たような状況はたくさんあったし、たくさんの事を切り捨ててきたのも知っている」

そう。今この時を迎えるまでに、敵も味方も、誰であれ何らかの犠牲を強いて生き残ってきた。だけど、それを仕方ないとは思いたくなかった。
華琳には常々甘いといわれても、俺は、出来るだけのことはしたいと思っていて、特にそれは、好きな娘達に対しては強く思っていたことだった。

「それでも、俺は大切な人を切り捨てたいとは思えないんだよ。これが、愛紗と見知らぬ人だったら愛紗を取るあたり、薄情者と思われるだろうけど」
「………やはり、ご主人様は孫権のことを大切に思っているのですね?」
「愛紗と同じくらいにね。だから、二人が争ったら俺としては困るんだけど………そもそも、俺の実力じゃ止めようもないんだけどな」

蓮華の実力がどれほどかは分からないけど、傍には常にあの甘寧が控えているし、愛紗の実力は折り紙つきだ。
国士無双の実力を持つ、彼女達の間に割って入ろうものなら、あっという間になますにされそうな気もする。
そんなことを考えていると、愛紗が溜め息をついて、ひとつ肩を落とした。呆れられたのかとも思ったが、顔を上げた愛紗の表情は、なぜか憂いが消え微笑が浮かんでいた。

「ご主人様は、ずるいですね」
「…なんだよ、それ?」
「自覚がないのでしたら、それでよろしいかと。もし、意図的でしたら、さすがに私でも怒らざるをえませんから」

などと、愛紗は良く分からない言い方で、俺の質問をはぐらかした。何となく、気になる言い方だったけど、重ねて問うべきなんだろうか? そう考えていた矢先である。

「ん………? あれは、どうしたんでしょうか?」
「え…?」

愛紗が何かに気づいたように、廊下の向こうを指差した。つられてそちらに視線を向けると、そちらには肩を落として廊下を歩く侍女…月(ゆえ)の姿があった。
俺と愛紗は顔を見合わせると、明らかに様子のおかしい彼女のもとに駆け寄った。顔をうつむかせている月。いったいどうしたんだろうか?

「月………どうしたんだ?」
「あ、ご主人様…」

声を掛けると、月は顔を上げる。その目を見て、俺と愛紗は息を呑んだ。俺を見上げるその瞳には、涙で一杯で、大粒の涙が、今も頬をつたっていたのだ。

「いったい、何があったんだ? ただならない様子だと見て、声を掛けたのだが」
「それは………その…」

愛紗に詰問され、月は何故か、俺の方をチラッと見てから言いにくそうに顔をうつむかせた。いったい、どうしたんだろう?
まさか、いじめを受けているんじゃないんだろうか? 見るからに大人しい月だから、そういうことがあっても、口には出せないだろうし。
と、そんなことを考えていると、軽い足音とともに、廊下をこっちに向かってくる者がいるのに気がついた。月と一緒に暮らしている、詠がこっちに走ってきたのが見える。

「月、良かった、ここにいたんだ」
「あ、詠ちゃん…」

親友に会ってホッとしたのか、月の瞳からまた涙が零れ落ちた。それを見た詠の表情が、剣呑なものに変わる。眦がつりあがり、明らかに怒っているようだった。

「あー………言っておくけど、俺達は何もしていないぞ。たまたま通りかかったら、月が泣いているのが見えたからさ」
「………分かってるわよ。普段なら疑うところだけど、今回は目撃証言があって、月を探していたんだから」
「目撃証言?」

俺の弁明を受け流す詠の言葉に、愛紗が怪訝そうな表情を見せる。詠はというと、そんな愛紗の視線を意に介さず、瞳に涙を溜めていた月に詰め寄った。

「月、聞いたわよ。江東の二喬達に何か悪口を言われたんですって!?」
「………っ、詠ちゃん、どうして知ってるの?」
「紫苑が教えてくれたのよ。仕事に行く途中で中庭で月が絡まれているのを見たって。ああ、もう! ボクが付いていれば、月を泣かせるようなことは無かったのに!」

そういうと、詠は憤慨した様子で目つきを険しくした。月はというと、そんな詠を困ったように見つめている。

「行きましょ、月! 今から二喬達のところに行って、とっちめてやるんだから!」
「…ううん、いいの。しばらく、そっとしておいてあげたほうがいいと思う」
「へっ? なんでよ、月?」

月の言葉に、詠は困惑した表情を見せる。悪口を言った相手に対して、そっとしておいてとは、どういうことなんだろうか?

「その、悪口を言われたわけじゃないから………ちょっと、今は色々あって、疲れているみたいだったし」

などと言いつつ、月は俺のほうをチラチラと見ている。何か、意味ありげだけど――――…そういえば、こっちに帰ってきてからあの二人の様子を見に行っていなかったな。

「疲れている、か………大喬も小喬も大切な客分だし、俺が様子を見に行って見ようか? ついでに、詳しい話を聞けば一石二鳥だし」
「ぇ…?」
「ん〜。あんたに任せるのも癪だけど、ボクは月についてなきゃいけないし、仕方がないから任せるわ。その代わり、しっかり事の次第を確認してきなさいよ!」

何とも納得が行かないような顔をしていた詠だったが、泣いたままの月をそのままにしては置けないと思ったのか、渋々といった様子でそんな事を言ってきた。
月はというと、俺の言葉に驚いたような、普段の月では見せないような表情をしている。なんというか、その表情は………怯え?

「………月、どうかしたのか? 顔色が悪そうだけど」
「あ………いえ、何でもないんです、けど」

どうにも歯切れの悪い様子の月だったが、それを問いただそうとする俺の横顔に、ちくちくと刺さる視線――――そちらを見ると、詠が急かすような眼差しを向けてきていた。
あまりのんびりしていると、我慢の限界に達した詠が、やっぱり自分で行くと大喬達の部屋に怒鳴り込む可能性があるし…ここは早めに様子を見に行くとしよう。

「そっか。何でも無いんならいいんだ。それじゃあ愛紗、散歩がてらに大喬達の部屋に行ってみるとしようか」
「御意」

物言いたそうな月の様子が気にはなったが、結局、俺は問いただすことをせず、愛紗をつれて大喬と小喬の住む部屋に足を向けたのだった。



朝の時間帯…既に早朝からは、かなりの時間が過ぎており、気の早い者は仕事を始めているものも、ちらほらといる。
戦時ということもあって――――というか、捕虜に対して無駄飯を食べさせる余裕もないため、捕虜になった、ほとんどの者に仕事が与えられていた。
最も、中には例外もいる。華琳や蓮華のように、国の要職にいた者、また、その親族達は貴人として扱われ、本人が希望しない限り、仕事に従事させられる事は無かった。
まぁ、華琳のように、自分でやりたいことを探して、勝手にあれこれするような奴もいるにはいるのだが…基本的には暇な人のほうが多い。

そんなわけで、大喬や小喬の場合はというと…日がな一日、詩を詠んだり、日向ぼっこしたりと、自由な時間を満喫していると、朱里から聞いたことがある。
通りがかった使用人に聞いたところ、二人とも部屋にいるらしいので、話を聞くために部屋に向かっていた。ちなみに、同行しているのは愛紗だけである。
そろそろ朝議の時間ということもあり、残りの時間もあまり無い。俺が遅刻するのは別に問題ない…と思うが、愛紗を巻き込んでしまうのは少々心苦しい。
ここは一つ、回りくどい聞き方をせず、大喬たちに話を聞くとしよう。軽い気持ちで、俺はそんな事を考えていた。

「確か、大喬たちの部屋はここだったよな」
「はい。気配からすると………部屋の中に居るのは、間違いないようですね」

部屋の扉を一瞥し、愛紗が呟く。それを聞いて、俺は扉に近寄り、トントンと、手でノックをしてみた。中にいるといっても、着替え中とかだったら失礼に当たるだろうし。

「あのー、ちょっといいか? 北郷だけど――――」

と、声を掛けた直後である。ドカッ!という、何か硬いものがドアにあたる音が、唐突に聞こえてきた。

「!?」
「…ご主人様!? 下がってください! 何事だ!!」

思わず、扉の前で身をすくませた俺に反応し、愛紗は俺を押しのけるように前に出て、部屋の中に駆け込んだ。
愛紗の後ろについて俺も部屋に入る。すると、俺の目前に部屋の惨状がありありと映し出されてきた。まるで、何が大嵐でも起こったかのような室内。
調度品は壊れ、ベッドのシーツは引き裂かれ、床には様々なものが転がっている。足元を見ると、扉の近くに銀製の調度品転がっていた。

「ほんごう………北郷っ!」
「やめて、小喬ちゃん! お願いだから!」

そうして、部屋の中心には、双子の少女が抱き合うように立ち尽くしていた。抱き合うというより、片方が片方を押さえつけるように抱きついていると言った方が正しいが。
言葉を聴く限り、暴れているのは小喬のようだ。しかし、いったいどうしたんだろう? その目は、憎悪にすら満ちて、俺を睨みつけているように見える。

「これは、いったいどうしたことだ? 賊が押し入ったという分けでもなさそうだが…」

愛紗も、戸惑いを感じたようで、怪訝そうに周囲を見渡す。いったいどうしたのか、重ねて質問をしようと口を開こうとした愛紗だが、その口を凍りつかせた。

「北郷、あんたが、あんたが冥琳様を殺したんだ! 返して、冥琳様を返してよっ!」

嗚咽交じりのその言葉は、大喬に押さえつけられていた少女の口から発せられた。それは見えない矛となって、俺と愛紗の胸を穿つ。
戦乱の終わりを感じ、気の緩んだこの時期、心の片隅に追いやっていた罪状を突きつけられ、俺達は言葉も無くその場に立ち尽くしたのだった。

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