〜史実無根の物語〜
〜其の二〜
立ち並ぶ棚に、陳列された数々の本――――母校であるフランチェスカ学園のような大仰な設備ではないとはいえ、城に設えた図書室は、かなりの大きさのものになった。
数週間前に…いくつかの大部屋の壁を取っ払うという、突貫工事によって出来た図書室には、本を読みながらくつろげる、サロンのような歓談室も設けられている。
物珍しさも手伝ってか、城の住人のなかには毎日のようにここに入り浸っているものも居るらしい――――ちなみに、俺が図書室を訪れたのは、今日が初めてであった。
「お、何だか賑わってるな」
にぎわっているといっても、ガヤガヤとした喧騒があるわけではない。静謐な空気の中に、人の衣擦れや本をめくる音が流れるだけである。
けれど、図書館を満たす空気は活気に満ち満ちたものであり、何となく、この場に居るだけで身の引き締まるような気分になるのであった。
みんな、張り切って勉強してるな――――俺は、物珍しげに室内を見渡す。と、窓際の日のあたる場所に置かれた席で、独り読書にふける眼鏡の少女を見つけた。
何となく、その光景に見惚れていると、視線を感じたのか、少女は顔を上げるとこちらを見た。…目が合ったんだし、挨拶くらいはしておこうかな?
「やあ、くつろいでくれているかい、郭嘉」
「…ええ、おかげさまで」
言葉少なげに応対する彼女の名は郭嘉奉孝――――曹魏の軍師であり、曹操の信頼も厚い知略家の一人である。
呉の併合と前後し、曹操に合流するという形で、一軍を率いて俺たちのもとに投降してきた彼女は…どうも、俺に対しあまりよい感情を抱いてはいないようである。
まぁ、彼女の主君である曹操を、俺は捕虜にしているわけだし…悪感情を持つなというのは無理な話だろう。俺としては、仲良くしたいと思っているんだけどな。
「ここには一人で来たのか? それとも、他に誰か………」
「あら、北郷じゃないの」
誰かと一緒に来たのか、と聞こうとしたところで、背後から声を掛けられた。振り向くとそこには、秋蘭と桂花を連れ立った、華琳の姿があった。
俺の姿を見咎めてか、桂花はあからさまに嫌そうな表情を見せる。秋蘭はというと、相変わらずの物静かな佇まいで会釈をしてきた。
「やあ、華琳。華琳もここに来ていたのか」
「ええ。城内に新しい書庫が出来たと桂花に聞いて、せっかくだから来てみたのよ」
「そうだったのか…それで、感想は?」
「そうね…前の書庫よりは百倍はマシじゃないかしら? もっとも、洛陽の書庫の品揃えに比べれば、まだまだだけど」
そんな事を言いながら、それでも楽しそうな笑顔を見せる華琳。どうやら、言葉とは裏腹に、この場所を気に入ってくれたようだ。
「まぁ、気に入ってくれてよかったよ。この部屋が出来たのも、華琳の言葉があってのことだからな」
「私の………ああ、そういえば、そんなことも言ったわね」
「名目上は捕虜って扱いだけど、出来れば皆には不自由をさせたくないからなぁ…華琳みたいにハッキリと言ってくれると助かるよ」
「相変わらず、甘い事を言ってるのね………まぁ、そこが貴方らしいのだろうけど」
華琳は呆れた様子で肩をすくめると、郭嘉の隣の席に腰をおろす。そうして、鉄面皮な表情で俺達の会話を聞いてきた彼女に微笑みかけた。
「私の話していた通りでしょ、稟(りん)。貴方の目には、北郷はどう映ったのかしら? 聞かせてちょうだい」
「………そうですね、主とは別の意味で、稀代の英傑なのは間違いないでしょう。もっとも、仕えるべき主君としては、及第点には程遠いでしょうが」
淡々とした口調で、ずっぱりと俺の事をそう批評する郭嘉。なんというか、遠慮容赦の欠片もない言葉である………さすがに、ちょっとヘコむぞ。
少々落ち込んで、肩を落とす俺だったが、郭嘉の批評はまだ終わっていなかったらしく………追い討ちをかけるように言葉を連ねてきたのだった。
「魏・呉の両国が併呑されてまだ日も浅いこの時期に、このように他国の捕虜のもとに安んじて近づいてくるあたり、緊張感が欠如していると言えますね」
「まあ、そうよね。私も初めは驚かされたわ」
郭嘉の言葉に賛同するように、うんうんと頷く華琳。お前はいったい、どっちの味方――――って、郭嘉に決まってるか。気心の知れた仲みたいだし。
助けを求めるように辺りを見渡すが、華琳の供をしている秋蘭と桂花はというと………我関せずといった風に、それぞれ俺から視線をそらしたのであった。
俺に助け舟を出して、話に巻き込まれるのを嫌っているみたいだな。もっとも、桂花の方は巻き込まれようがそうでなかろうが、俺を助ける気はなさそうだけど。
「そもそも、捕虜にここまで優遇を与える君主というのは、前例がないといえるでしょう。監視すらつけずに野放しでは、騒動の火種になるでしょうし」
「まぁ、私や孫権くらいになると、多少は見張りもいるけど、それもたいした数じゃないしねぇ」
………ん? なんだか、並んで座っている曹操と郭嘉の距離が縮まっているような――――…?
「主の生命が保証されているのは安堵すべきところですが………これでは国そのものが成り立たないのではないでしょうか?」
「それはいわゆる、専制政治――――…一人の統治者による政治のありようを否定しているといいたいのか?」
「――――はい、その通りです。絶対的な統治者というものがあってこそ、政治というものは纏まりを見せると思うのですが…」
「ふふふ、北郷が急に政治の話を振ってきたから驚いたんでしょ、稟。普段はのんびりとしているのに、時々鋭いところを見せるのよね、北郷は」
無表情ながら、多少は面食らった様子を見せた郭嘉に、曹操は楽しそうな表情を見せる。しかし、その言葉より気になることがあるんだが………。
「なぁ、華琳」
「あら、どうかしたの、北郷?」
「どうかした、というか………俺の目には、華琳が郭嘉に抱きついているようにしか見えないんだが」
そう、最初はある程度…一人分くらいの間隔をあけて座っていたはずが、いつの間にか肩が触れるくらいに近づき…今や密着状態の二人である。
無論、何の因果も原因もなく、そうなったわけでもなく――――話をする郭嘉に華琳がじりじりと近づき、抱きついたのである。
抱きつかれた郭嘉はというと、相変わらずの無表情――――…どうやら、華琳がこうして抱きつくのはさして驚くことではないらしい。
「あ〜…その、なんだ………一応、ここは人目があるんだし、そういうのはどうかと思うんだが」
「いいのよ。別に誰かに迷惑をかけているわけじゃないんだし、このコだって内心は喜んでいるんだから…そうでしょ、稟?」
「はぁ………そうですね」
華琳の言葉に、気のない返事をする郭嘉。迷惑なのか、そうでないのかはハッキリしないが………あまり喜んでいるようにも見えないんだけど。
「まったく、うらやましい………どうして華琳様は、稟ばかりに抱きつくのかしら。私だって、華琳様に抱きしめてもらいたいのに…」
と、俺の耳に、控えていた桂花のそんな呟きが聞こえてきた。その声は小さく、華琳には届かなかったみたいだが…どうも、郭嘉を快く思っていないらしい。
同じように呟きが聞こえたのか、視界の端に映った秋蘭の表情はというと、やれやれといった表情…内心であきれているらしい。
そんな周囲の様子など気にせず、ますます郭嘉に抱きつく華琳――――題名をつけるなら、『抱き枕(郭嘉)とお嬢様』といったところか。
「それにしても………ずいぶんと郭嘉に構うんだな、華琳は」
「あら、ひょっとして嫉妬してるの?」
「――――い、いや、そんなことは」
う〜ん、無い、と言いたいところだけど、ここまで楽しそう&優しげな表情の華琳を見ると、さすがにちょっと、うらやましいとも思う。桂花の気持ちが理解できそうだ。
知らず知らず顔をしかめていた俺の表情を見て、華琳はますます上機嫌になったようだ。
「…まぁ、このコは特別だからね。稟は私の魅力を知っていながら、それでも媚びたり甘えたりしてこない…だから、私がその分、甘えてあげているのよ」
「なるほど――――確かに特別かもな。華琳みたいな可愛い子を見たら、普通は構ってあげたくなるだろうし」
「それは、お世辞でいってるのかしら…? まぁ、北郷のことだし、偽りの無い本心なのでしょうけど」
まったく、単純なんだから――――などと言いつつも、まんざらでもない表情の華琳である。ますます上機嫌に、郭嘉のことをぎゅ―と抱きしめていた。
と、さすがに我慢の限界だったのか、郭嘉の眉がキリリとつりあがったかと思うと――――華琳の両肩に手を置いて、ぐいっと押し戻した。
「主、いささか日和過ぎではないのですか? それと、私は主の愛玩動物ではありません。智謀と知略を用いて仕えることこそが私の本懐であって――――!」
「な………稟! 華琳様に対して、そのような物言いは許されないことよ!」
「桂花、貴方は黙ってなさい! そもそも、魏一国を興すだけでもかなりの労苦を伴ったというのに、それを惜しげもなく捨てるとは――――」
止めに入った桂花も巻き込んで、郭嘉の説教はますますヒートアップする………というか、ここは図書室で、一応静かにしなきゃいけないんだが。
周りから注目されていることにも気づかず、立て板に水のように言葉を紡ぎ続ける郭嘉。しかし、このままじゃさすがになぁ………。
どうしたものかと視線をめぐらせた俺は、ちょうど同じように目を向けてきた秋蘭と目が合った。以下、心での会話である。
(秋蘭、郭嘉を何とかしてくれ。これじゃ、体のいいさらし者だ)
(私が、ですか。正直なところ、あまり気が進まないのですが。華琳様は、愉しんでおられるようですし)
(そこを何とか頼む! 秋蘭を見込んでのお願いだ!)
(ふぅ………やれやれ)
実際に言葉を交わしたわけではないので、実際のところは伝わっていたかは疑問だが…目での会話を終えると、秋蘭は音を立てずに郭嘉の背後に回りこんだ。
そうして、華琳と桂花に説教を続ける郭嘉の身体を、軽々と抱き上げたのである。いきなりの事に、面食らった様子を見せる郭嘉。
「なっ………何をするのです、秋蘭!」
「少し落ち着きなさい、稟。今の貴方は、少々冷静さを欠いている」
「私は充分に冷静です! それよりも降ろしなさい! まだ主への諫言が――――」
「………」
「って、無言で私をどこに連れて行こうとしているのです! 離しなさいといってるでしょう――――………」
会話では埒が明かないと思ったのか、秋蘭は郭嘉を抱えたままで、部屋の外に出て行ってしまった。先ほどの喧騒がうそのように、図書室に静けさが戻ってきた。
まぁ、静けさの大半は、郭嘉の大声に驚いて、こちらの様子を伺っている他の利用者のものだったわけだけれど。
「――――さて、必要な本も見つけたことだし、私達も行くことにしましょうか。桂花、本を持ちなさい」
「は、はい」
一騒動を起こしたことなど毛ほども感じていないのか、華琳は桂花を連れて、図書室を出て行ってしまった。
しかし、秋蘭が持っていた本も一緒に抱えて持っていったけど………華奢な桂花には重労働だよな。追いかけて、手伝うべきか――――。
「………おほん!」
「っ!? あ、愛紗!?」
考え事をしていた俺の耳元に、わざとらしい咳払いが聞こえてきたのはその時だった。声のしたほうを見ると、そこには怒ったような表情の愛紗が居た。
先ほどの騒ぎを見咎めていたのか、あからさまに怒りの表情を見せている。あ〜………これは、ちょっとまずい、かな?
「い、いつからいたんだ? そこに…」
「来たのは今しがたです。しかし、遠くからでも騒ぎは耳に届きますから。まったく、このような公共の場で…ご主人様、しばらくお時間をいただきたいのですが」
「あ、ああ。時間なら充分にあるけど――――」
「それは良かった。話したいことは沢山ありますので………まずは、ご主人様の部屋に行きましょう」
…げ。これはもしかしなくても、鈴々達が恐れおののく、説教の前振りじゃなかろうか………正直、逃げ出したいけど、目の前の愛紗には隙の一つもない。
愛紗にがっちりと手をつかまれて、俺は図書室から退去させられた。こうなったら仕方がない、なるべくお説教が、早く終わることを祈るとしよう。
それから数日後………仕事の合間に暇な時間が出来たので、俺は再び、図書室に足を運ぶことにした。出来たばかりの図書室は、相変わらず多くの利用者が居る。
とりあえず、暇をつぶせる本でも探してみよう。あっちの本棚あたりはどうかな――――っと、あそこに居るのは朱里か?
「はわっ、はわわ…」
朱里は本棚の高い場所にある本をとるために、椅子の上に立って背伸びをしている。だけど、それでも背の小さい朱里には、なかなか届かないようであった。
それでも何とか目当ての本をとろうと、必死に背伸びをする様が可愛らしいけど――――…あれじゃあそのうち、バランスを崩して倒れるかもしれないな。
とりあえず、手伝うのは良いとして………声をかけたら、それだけで驚いて倒れるかもしれないな。目の前の本に集中しきってるみたいだし、だったら………、
「う〜…あとちょっとなのに………きゃっ!?」
「よっ、と。大変そうだな、朱里」
とりあえず、実力行使である――――朱里の腰の部分に両腕をそえ、椅子の上から地面におろす。小柄で華奢な朱里だから出来る芸当だった。
朱里はといえば、急に自分の身体を持ち上げられたので、目を白黒させていたのだが…相手が俺であることに気づいてか、ちょっと恥ずかしそうな表情になった。
やっぱり、朱里も年頃の女の子なんだし、こうした抱っこに近い方法は、さすがに今後は控えたほうがいいのかもしれないな。
「ご主人様………そうなんです。見たい本があったんですけど、どうしても届かなくって」
「ん――――そうだよな。本棚の上の本って、取るのに面倒なんだよなぁ」
小さい頃、図書室で似たような経験をしたことを思い返し、朱里の言葉にしみじみと同意をする。見たい本に限って、取りにくい所にあるんだよな。
ともかく、ここであったのも何かの縁だ。ここは一つ、朱里のために手伝うことにしよう。俺は靴を脱ぐと、木製の椅子の上に立って、朱里に聞いてみることにした。
「それで、どの本が必要なんだ? 俺なら充分に手が届くし、遠慮なく言ってくれよ」
「………ありがとうございます、ご主人様。ええと、一番上の棚の、緑の装丁の本です。もう少し右の――――…そう、その本です!」
「っと、これか」
朱里のナビよろしく、俺が手に取ったのは古ぼけた装丁の書物であった。あちこちがボロボロになっている、かなり年季の古い本である。
書物の名前を見ると、「平蛮指掌図」という題名が書かれていた。題名だけじゃ、どんな内容なのか良く分からないな………。
「ほら、これでいいのか?」
「はい、ありがとうございます、ご主人様」
俺から本を受け取ると、嬉しそうに微笑みを浮かべる朱里。その顔を見ていると、手伝ってよかったなぁとしみじみと思う。
どうせ暇なんだし、他にも何か手伝えることがないか、聞いてみようかな………さっきみたいに、本が取れなくて困るようなこともあるだろうし。
「必要な本はこれだけなのか? なんだったら、一緒に探すのを手伝うけど」
「え………でも、ご迷惑じゃありませんか?」
「別に構わないって。どうせやることもないし、他ならぬ朱里のためだしな」
重ねて言うと、朱里はどうしようかと考え込んでしまった。基本的に遠慮がちな朱里だから、引け目を感じてるんだろうけど、こういう時くらいは頼ってほしいよな…。
「そうですね………それじゃあ、お願いできますか?」
「ああ。で、どんな本を探せば良いんだ?」
「ええと、国外の地図を探しているんです。南方の地図が必要なんですけど、それ以外のものでも、見つけたら教えてください」
「南方――――ああ、南蛮の国の地図が必要なのか」
孔明が南蛮国の孟獲を討伐したのは有名な話だ。今までは魏や呉と戦っていたけど、その戦いも一段落ついた今、朱里は新たな戦いを見越しての準備に入っているらしい。
だとすると、さっきの書物も南蛮の地図の類だったんだろうか? まぁ、一目見ただけじゃ俺にはわからないし、色々な本を見て、朱里に聞いてみることにしよう。
そうして、朱里と一緒にあちこちの本棚を行ったり来たりし、様々な本を手にとって――――十冊ほどの書物を選りすぐる頃には、小一時間ほどが経過していた。
「本当に有難うございます、ご主人様。おかげでたくさんの本を見つけることが出来ました」
「俺に手伝えることは、これ位だからな。そんなに気にする事は無いよ。…ところで、集めた本はどうするんだ? 借りていって部屋で読むとか」
「いえ、これから一通り目を通して、資料として編纂することにしています。あまりたくさんの本を借りると、他の人に迷惑が掛かっちゃいますし」
俺にだけ書物を持たせるのも悪いと思ったのか、朱里は数冊の本を大事そうに抱えながら、そんな事を言う。本当に、勉強熱心だよなぁ………。
そんな健気な様子を見ていると、手伝ってあげたくなるのが人情だけど………あいにく、俺の頭じゃ朱里の手伝いはおろか、邪魔をする結果になってしまうだろう。
とりあえず、俺は俺の出来ること――――朱里には不向きな肉体労働の面を手伝うことにしよう。
「そうか。熱心なのはいいけど、あんまり根をつめないようにな」
「はい、気をつけることにしますね。………あ、こっちの席ですよ」
朱里に先導されるままに、俺は机の立ち並ぶ区域に足を踏み入れた。簡素ながら、それぞれの机に華を活け、リラックスした環境で本を楽しめるように気配りがされている。
何名かの先客がいる中で、朱里は迷うことなく窓際の席に歩いていく。日の照らすその机には、先客が――――………あれ?
「稟さん、お待たせしました。お探しの本、見つけることが出来ましたよ」
「そうですか、ありがとうございます」
朱里に声をかけられ、俯いていた顔を上げたのは、つい先日に出会った少女………郭嘉であった。手元には、半ば読みかけの古書が何冊か置いてある。
朱里の方を向いた郭嘉は、彼女の背後に居た俺にも気づいたようで、こちらを見て幾度か瞬きをした。端正な顔は相変わらずの鉄面皮で、表情が読みづらい。
「――――貴方は、北郷殿」
「ああ、こんにちは、郭嘉」
「………………こんにちは」
笑顔で挨拶する俺に対し、郭嘉は淡々とした表情で会釈をする。うーむ、この前の出会いが好印象じゃなかったから、警戒されているのかもしれない。
――――…それはそうと、まさか今日も華琳達と一緒じゃないだろうな? あんな大騒動は、あれっきりにしてほしいぞ。
「はぇ? ご主人様、稟さんとお知り合いなんですか?」
俺と郭嘉が知り合いだったのに驚いたのか、朱里はキョトンとした顔で俺と郭嘉を交互に見る。まぁ、確かに接点らしい接点が無い間柄だけど。
「ああ。何日か前にこの場所で知り合ってね………ところで今日は、華琳達は一緒じゃないのか?」
「主は、別件で多忙を極めておられます。本日中はおそらく、この場所に顔を出すことは無いと思われますが」
「そうか、それならいいんだ」
郭嘉の言葉に、俺はホッと安堵の溜め息をついた。華琳のことは嫌いではないけど、出会うたびに、いつも騒動に巻き込まれているような気がする。
本人に悪気は無いだろうけど――――…ありとあらゆる意味で、規格外な女の子だからな、華琳は。
「それはそうと、朱里は郭嘉と一緒に勉強していたのか? なんか、待たせていたみたいなことを言ってたけど」
「あ、言ってませんでしたっけ? ちょうど稟さんも、国外のことを調べていたらしくって、せっかくだから一緒に勉強しようって誘ってみたんです」
なるほど。だから国外の本の中でも南方の書物だけでなく、北方の書を厳選していたわけだ。
「郭嘉の調べているのって、ひょっとして北方――――烏丸族についてのことなのか?」
「………はい、おっしゃるとおりです。北征の為には綿密な資料が必要不可欠なものですので………もっとも、案を練ったところで、遠征をすることは無いのでしょうが」
淡々と言う郭嘉の言葉に、なんとなくいたたまれない気持ちになる。曹操――――華琳の国が健在ならば、郭嘉は軍師として辣腕を振るっていただろう。
しかし、すでに魏という国は無く、郭嘉も重要人物の一人として監視付きの身である。その心中はどのようなものなんだろうか。
ただ――――北伐が無くなった為に、その命を病気で失うことがなくなったのは、幸運といえるんだろう。もっとも、その事を彼女が知ることは無いんだろうけど。
「まぁ、その………気を落とさないようにな」
「分かっています。捕虜の身でありながら過分な待遇を受けている身………これ以上は望むべきでないことも理解しています。ただ………」
「ただ…?」
「この件だけは、全身全霊を持って取り組みたいと思っているのです。華琳様の臣として、最後に受けた御命令ですから」
静かに語る郭嘉の顔は、どこまでも誇らしげで………華琳を想ってか、口元にわずかな笑みを浮かべるその顔に、俺は思わず見とれてしまっていた。
人形のように無表情な時でも、人目を惹きつけて止まない端正な顔に、誇り高く凛とした微笑みは、反則的なまでに似合っていて…可愛らしかったのである。
「もうっ、何を見とれているんですか、ご主人様っ」
「あ、いや、別に………って、何で朱里が怒ってるんだ?」
「そ、それは………知りませんっ」
郭嘉に見とれてしまった俺をどう思ったのか、朱里がちょっと怒ったような表情を見せる。基本的に何事にも寛容な朱里にしては珍しいな。
まぁ、こういう時、男はひたすら謝るしかないわけで――――情けないとは思いつつも、朱里に許しを請うしかないわけであった。
「悪かったよ、朱里。頼むから機嫌を直してくれないか?」
「むー………ご主人様、何が悪かったのか、ちゃんと分かってるんですか?」
小柄な朱里よりもさらに低く頭を下げる俺を見て、朱里はどこか呆れたようにそう聞いてきた。
なんとなく、郭嘉に見とれていたのが良くないことは分かっていたが、それを言うとなんとなく墓穴を掘りそうな気もする。
「あ〜、いや、それは………ごめん、よく分かんないんだけど」
「はぁ…もういいです。ご主人様が綺麗な女の人に弱いのは分かりきってましたから」
とぼけた言い回しをする俺に、どこか悟ったような様子でそんな事を言う朱里。正直、ゴメン。きっといつか、この償いはするからな。
「――――ずいぶんと、仲の良い関係のようですね、北郷殿と朱里殿は」
と、そんな俺たちの様子をじっと見ていた郭嘉が、ポツリと口を開いたのはその時である。気がつくと、もう微笑みは消えてしまっていた…正直、もったいないと思う。
そんな郭嘉に声をかけられ、誰よりも慌てたのは――――さっきまでぷんぷんと怒っていた朱里であった。
「はぇっ!? そそそ………そんなことは無いんですよ、稟さんっ」
「言葉の呂律が回っていないようですが――――私の言ったことは、よほど正鵠を射ていたのでしょうか?」
「そ、それは――――はぅぅ………」
朱里は救いを求めるように俺を見て――――よけいに真っ赤になって、うつむいてしまった。………なんだか、非常に気まずい空気になっているような気がする。
このままでは、ますます肩身が狭くなりそうなので、早々に退散するとしよう。気まずい雰囲気を振り払うように、俺はことさら明るい声をだす。
「あ〜………それじゃあ、俺は行くから。朱里も郭嘉も、勉強、がんばってな」
「は、はいっ! がんばりますっ」
「………」(ぺこり)
声をかけられ、あわてて返事をする朱里と、無言のまま会釈をし、すぐに視線を本に落とす郭嘉。とことん対称的な二人だよな――――小さい所は似通ってるんだけど。
そうして俺は、足早にその場から離れることにした。図書館から出るとき、ふと心づいて、俺は朱里達の居た場所に視線を向けた。
俺が離れて気を取り直したのか、朱里は郭嘉と机を並べ、仲良く調べ物をしている。遠くで声は聞こえないが、時折、歓談も交えているようだ。
「それにしても………二人して勉強熱心だよな」
後世――――歴史家に様々な書物に書き記され、様々な叙事詩に詠われるであろう、諸葛亮に郭嘉………そんな二人が書物を読む姿を、俺は遠くからじっと見つめる。
仮想と偶想と空想と史実――――様々な因果が交錯した、この一瞬の光景を…俺は当分の間、忘れることが出来そうもなかった。
劇終
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