〜史実無根の物語〜 

〜其の二〜



セキト絡みでの一騒動から、しばらくして――――その日、俺は恋と一緒に街中の警邏に出る事になった。
幸いな事に、あれから華琳達と恋との間での衝突が起こることは無かった。とはいえ、それは幸運の結果なのではなく、愛紗や俺の涙ぐましい努力の結果でもあったのだが。
愛紗と俺は、日替わりでなるたけ恋の傍を離れないようにして、恋が華琳達と出会わないように注意を払っていた。
事に愛紗は、魏の併合に伴う様々な案件をこなしながらであり、とんでもないオーバーワークを押し付けてしまっていて、俺としては気が重いものもある。

(とはいっても、嬉々として恋の世話をやく愛紗を見ると、心配する必要も無いのかもしれないけどなぁ)

「――――どうかした、ご主人様?」
「あ、いや、なんでもないよ」

通りを並んで歩く恋が、小首を傾げて俺に聞いてきた。ここ最近、恋は警邏の仕事をさぼる事もせず、真面目に見回りに参加している。
もっとも…それは俺か愛紗が常に傍に居て、恋がねだるごとに食べ物を買い与えてあげているからなのだけれど。
今も彼女の手には焼き串の皿がある。それはつい先程、通りに面した焼き串の店で買ってきたものなのだが――――食欲無双の恋にしてみれば、ものの数ではないだろう。

「そう」

俺が曖昧に笑って返答すると…興味が無くなったという風に、そっぽを向いて、焼き串をモグモグと頬張る恋。
その様子はいつも通りであり、微笑ましい気持ちになると同時に、何となくホッとした気分にになるから不思議だ。
さて、ここいらの見回りはこの辺りで良いだろう。とりあえず、次は北門の辺りまで出張ってみるか――――食べ続ける恋を横目に、後を付いてきた兵士達に声を掛けようとした。
と、そのとき、道の向こうから駆けてくる、小柄な影が二つ見えた。あれは――――

「こらーっ、まつのだー!」
「へへーん、待てといわれて、待つやつはいないよーだ!」

どどど…と道行く人が慌てて道を譲るほどの勢いで、こっちに向かって走ってくるのは、季衣と鈴々だ。
鈴々を小ばかにするように、背後をちらちらと振り向きながら走っていた季衣だったが、佇んでいる俺を見て、思わず足を止めた。

「あ、兄ちゃんだ」
「にゃーっ!?」

今まさに、季衣の背中に手が届こうかとしていた鈴々は、急に止まった季衣の背中に、体当たりをするような感じでぶつかったのだった。
二人揃って、地面に倒れ込む季衣と鈴々。ラグビーのタックルみたいに、季衣の腰にしがみついた鈴々は良いとして、季衣の方は目を回してしまったようである。

「おいおい、大丈夫か、二人とも」
「にゃー…、酷い目にあったのだ。あ、お兄ちゃん!」

声をかけると、身を起き上がらせた鈴々は、俺の顔を見て嬉しそうに微笑んだ。鈴々の服に埃が付いていたので払っていると、鈴々が何かに気づいたのか声を上げた。

「あーっ、お兄ちゃん、ずっこいのだ! 恋と一緒に買い食いしてる!」
「いや、これは恋には必要不可欠なものだからな…決して、警邏をサボっているわけじゃないぞ」

お供の皆さんには申し訳ないが、恋と一緒の警邏の時は、寄り道に掛かる時間の方が長くなるのは覚悟してもらっている。
とはいえ、後ろめたい事は確かなので、旗色が悪いのを誤魔化すように、少々強引に話題を変える事にした。

「それにしても、一体どうしたんだ? こんな街中で、追いかけっこをしてるなんて…鈴々も仕事中のはずだろ?」
「にゃ? 鈴々は仕事してるよ? 華琳達の警護と監視なのだ!」
「なに!?」

思いっきり嫌な予感――――得てして、そんな予感というのはあたるものであり、周囲を見渡すと、通りの向こうから歩いてくる一団があった。
曹操孟徳…華琳を先頭に、春蘭、秋蘭、それに桂花までいる。その桂花だが、俺の傍らにいる恋を見て、表情を硬化させた。
華琳はというと、恋を見てもさしたる反応はせず、相変わらずの尊大そうな態度で、俺に声を掛けてきたのだったが。

「北郷じゃない。こんなところで出会うなんて、奇遇ね」
「あ、ああ」
「何よ、その表情は。わたしと出会ったのが、そんなにお気に召さないのかしら?」
「別に、そういうわけじゃないんだが――――」

言葉を濁して、俺は隣にいた恋を見る。恋はというと、食べる事に夢中で周囲の事を気にしていないのか、華琳の事を気に止めてもいない。
と、最後の一本を食べ終えると、恋は物欲しそうな目で俺を見つめて、くいくいと俺の袖を引っ張る。普段では微笑ましいその仕草だが、今はさすがにまずい。

「………随分と、仲が良さそうね、貴方達」
「………」

案の定、華琳の表情が僅かながらに険しくなる。その不機嫌そうな声が気になったのか、恋は華琳の方を怪訝そうに見た。
双方に漂う険悪な雰囲気を察してか、春蘭が僅かながら前に出て、いつでも飛び出せる体勢をとる。
このままじゃ、まずい――――取っ組み合いの大喧嘩になる前に、俺はさりげなく恋の手を袖から離して、華琳達に質問をした。

「そ、それはそうと、今日は一体どうしたんだ? 全員総出で外出なんて、珍しいじゃないか」

くいくいと、恋が再び俺を袖を引っ張り始めるが、とりあえずはスルーしておく。俺の質問に答えたのは、華琳ではなく、彼女の後方に控えた秋蘭であった。

「この前、北郷殿も一緒に、食事に出かけた事があっただろう? 予約を忘れたので、件の店にはいけなかったが…取り直した予約の日が今日というわけだ」
「そういうことよ。まぁ、桂花を連れてきたのは…こういう機会でないと、このコは城の中に篭もりっきりになるからだけど」
「か、華琳様………それじゃあ私がまるで、引き篭もりが好きなように聞こえるんですけど…」
「あら、違うの?」

ガーン! という効果音が聞こえそうなほどにショックな表情で、地面に両手両膝を付く桂花。華琳に言われたという事が、よりいっそうショックだったらしい。

「まあ、そんなに気にするなよ。華琳は、インドア派がいけないって言っているわけじゃないんだしさ」
「あなたに慰められても、嬉しくないわ! …ところで、『いんどあは』とはどういう意味なの?」

フォローに回ったのが俺だったのが気に食わなかったのか、途端に元気を取り戻して、身を起こして俺を睨みつけてくる桂花。
華琳達も怪訝そうな顔をしていたので、どういったら良いものかと、頭をひねりながら返答する。

「んー…ようは、身体を動かすよりも書物を編纂したり、歌を詠んだりするほうが性に合っていそうって事だよ。春蘭とかは、その逆のアウトドア派だな」
「ああ………なるほど、そういう意味ね」
「『いんどあは』に『あうとどあは』………時々、妙な言葉遣いをするのよね、北郷は。今度、貴方の語録を編纂してみようかしら?」

納得したように頷く桂花の横で、華琳が興味を持ったようにそんな事を言っているが――――正直、勘弁してほしい。
孫子と違って、編纂されるほど立派な事を行ったわけでもないし、そんな後世に恥を残すような真似は、全力で阻止したいところだが………無理だろうな、華琳だし。

「…何か、凄く失礼な感想を抱いたような顔ね」
「いや、別に――――うわっ!?」

そんなことないぞー、と言おうとした所で、急に強い力で袖を引っ張られ、俺は思いっきりよろめいた。
ちなみに、先ほどから何度も、恋が俺の袖を引っ張っていたのだが………どうやらここに来て、恋の忍耐も限界だったらしい。
何だか物凄い不機嫌そうな表情で、上目づかいに俺を見上げてくる――――まずい、殺られる!?

「……………………ごはん」
「ああっ、ごめんな、恋! ごめん、そこのキミ、大至急、饅頭を山盛りに大量で!」
「はっ! 少々、お待ちを!」

俺の命令に敬礼一つ、すぐそこの店舗に走って行く部下の人――――こき使って、ゴメン。
どうやら、幸いな事に作り置きの物があったのか、店に入ってすぐに、山盛りの饅頭の皿を両手で持って、部下の人は戻ってきてくれた。
ふところが多少は痛むけど、それはしょうがないだろう。俺は財布から取り出したお金と引き換えに、饅頭の皿を受け取る。

「ほら、お待たせ、恋」
「………」

と、いつもなら、無言でも嬉しそうに饅頭の皿を受け取る恋だが、何故か受け取ろうとはしなかった。
何やら物言いたげな表情で、俺を見つめてくる――――俺に一体、どうしろと?

「あのー、恋?」
「………ご主人様、食べさせて」
「な!?」

どうしたんだ? と思っていると、恋がいきなり、とんでもない事を言い出したのだった。普段なら、二つ返事でオーケーするところだけど、華琳達の前だし………。
その華琳達はというと、さすがに一様に、驚いた様子で事の顛末を見守っている。鈴々だけは、うらやましそうな表情をしていたが。

「あー…」

そうこう考えているうちに、恋が急かすように口を開けた。まるで餌を待つ雛のように愛くるしいんだけど――――ハァ、しょうがない、覚悟を決めるか。
こぼさないように、慎重に饅頭の大皿を片手に持ち直すと、俺は饅頭を一つ掴んで、恋の口に運ぶ………もむもむと、口に入れた饅頭を咀嚼する恋。

「こ、これで良いのか?」
「ん」

恐る恐る聞くと、ようやく機嫌を直したのか、コクコクと頷く恋。俺はホッと息を吐き、華琳達に向き直った。
恋に御飯をあげる様子がそんなに珍しかったのか、呆けた様子の華琳達。と、羨ましそうにしていた鈴々が、ふくれた顔で俺に詰め寄ってきた。

「うー…いいなぁ。恋だけ、お兄ちゃんに買ってもらってずっこいのだ」
「ごめんな………けど、鈴々はこれから華琳達と一緒に御飯だろ? ここで食べたら、せっかくのご馳走が美味しくないんじゃないか?」
「それはそうだけど――――やっぱり羨ましいのだ」

と、不満そうにしていた鈴々を見てどう思ったのか、恋は俺の持つ大皿から饅頭を一つ、鷲づかみにすると――――ずい、と鈴々に差し出す。

「………」
「にゃ? くれるの?」
「少しくらいなら…食べても、お腹一杯にならない」
「わーい、ありがとうなのだ!」

ずいぶんと、楽観的な意見ではあるが――――確かに、恋や鈴々なら、饅頭の一つや二つなら別腹で処理できそう気もするな。
恋の手から、ウキウキとした表情で、饅頭を受け取る鈴々………何となく微笑ましい光景に、眩しいものを見るように目を細めて見入っていると――――、

「…こほんっ」

話の途中で腰を折られた華琳が、咳払いをしたのを見て、慌ててそちらに向き直る。そこには、ものの見事に不機嫌そうな華琳がいた。
呆れたような表情の春蘭、どうでも良いと言わんばかりの桂花。ちなみに、秋蘭は目を回した季衣を介抱している。そんな彼女達を背後に従えて、華琳は凄みのある笑みを浮かべた。

「ほんっ〜〜〜〜〜とうに、仲が良い様ね、貴方達は」
「な、何で怒ってるんだ? 華琳」
「私が? 怒っている? 全然、まったく、完膚なきまでに、そんなことないわよっ!」

そういって、俺に詰め寄ってくる華琳。その顔は、やっぱり怒っているようにしか見えない…何気に、こめかみがピクピクと痙攣している。
思わず一歩下がると、それでますます気分を害したのか、小柄ながら迫力満点の顔で俺を見上げてくる華琳。さすが、曹操孟徳と言える…のか?

「貴方が部下の女の子と、公衆の面前で筆舌にしがたいような様子を晒しても、わたしには関係の無いことだもの」
「…………」

関係ない、と言ってはいるものの………ぶすっとした表情は、明らかに機嫌を悪くしているようだ。
俺は苦笑をすると、手を伸ばして華琳の頭に手を置いた。びくっ、と身体をすくませる華琳。より過敏に反応していたのは、華琳の傍らにいた春蘭ではあったが。

「き、貴様ぁっ、いったい何をしているかっ! その無粋な手をどけろっ!」
「落ち着け、姉者。ここは北郷殿の邪魔をするべきではないだろう」

と、春蘭を止めたのは、妹の秋蘭である。ちなみに、季衣の介抱は、桂花が代わりに行っているようだ。
とりあえず、問答無用で斬られないことに内心で安堵しつつ、俺は華琳の頭をポンポンと優しく叩いた。

「ごめんな、ないがしろにする気は無かったけど…知らずにそうさせてたみたいだな」
「べ、別に謝る事なんか――――…」

言い返そうとした華琳だったが、語尾はもにゃもにゃと縮んでしまい、俺の耳には入らなかった。代わりに、もっとしろと、上目遣いに俺を見上げてくる。
俺は笑いながら、華琳の頭を撫でる。ひとしきり撫でると機嫌を直したのか、華琳は照れたような表情で俺から身を離した。

「華琳様…そろそろ料亭に向かいましょう――――先方も、華琳様を待っておられると思いますので」
「…そうね、せっかく予約をしたのに、なかった事にされるのも癪だしね。それはそうと…いいかげん、季衣は目を覚まさないのかしら?」

ころあいを見計らって、華琳に提言する秋蘭。その言葉に頷いた華琳は、呆れたような表情で、地面にのびている季衣を見る。
鈴々ともども、派手にすっ転んだ季衣だが、どうやら気絶をしているだけのようである………幸い、頭を打ったりはしていないようだ。

「はっ、ただちに! おい、季衣! 起きろ!」
「………ぅわ」

――――ただ、華琳の言葉に反応した春蘭が、気絶している季衣の襟首を掴んで、がくがくと揺さぶりだしたのだけど………大丈夫か、あれ?
しかし、俺の心配は杞憂に終わったようだ。剛勇では鈴々に負けず劣らずの季衣である。ちょうど良い目覚まし代わりだったのか、うめき声を上げて目を開いた。

「うぅ〜ん、何ですか春蘭さまぁ…まだ、朝の修練の時間じゃないと思いますけどぉ?」
「何を寝ぼけているんだ、お前は! いいから起きろ!」
「あぃたっ!? うぅ〜…あれ?」

ごんっ! と、岩をも粉砕しかねない春蘭の拳を脳天に受けて、どうやら眠気と一緒に記憶も吹っ飛んだようである。季衣は、困惑したように周囲をキョロキョロと見渡し――――、

「にゃ?」

のんびりと、恋と一緒に饅頭を食べていた鈴々と目が合った。途端、季衣の表情が怒りに変化する――――どうやら、先ほどの事を思い出したらしい。

「思い出したぁ――――! よくもボクを突き飛ばしてくれたな、チビっこ――――!」
「にゃあっ!? 何をするのだー!」

どすん、ばたん、と店先のものが吹っ飛ぶ音、何かが壊れる音――――ごめん、店のおじちゃん。
止める間もなく、取っ組み合いの喧嘩を始めた鈴々と季衣。さすがにすぐには誰も反応できず…呆れたような華琳の言葉で、俺は我に返った。

「毎度々々、よく飽きないわよねぇ…似たもの同士、思うところもあるのでしょうけど」
「まぁ、あれも喧嘩するほど仲が良い――――のかな?」

思わず自問自答する俺。と、何者かが俺の袖をくいくいと引っ張っている………そちらを見ると、鈴々と一緒にいたはずが、ちゃっかりと安全圏に非難した恋の姿があった。
その手には、大量の饅頭が乗っかっていたはずの大皿が一枚――――どうやら、既に饅頭は胃袋の中に消えたようである。

「………」
「ど、どうしたんだ? さすがに、もうおなか一杯に………なっただろ?」
「――――鈴々と一緒だったから」

く、足りないと申されますかっ。上目遣いで俺を見上げてくる恋――――その物欲しそうな表情が、反則的に可愛らしいのが問題だ。
そんな俺の様子を、華琳は呆れたように見ていた。と、その眼前を何かが通過する――――物凄い音を立てて、それは向こう側の民家の壁にぶつかった。

「このチビチビチビ!」
「にゃー! チビって言うな、春巻きー!」

素手では埒が明かないと思ったのか、鈴々も季衣も二人して、手で掴んだものを手当たり次第に、相手に向かって投げつけだしたのである。
皿が飛ぶ、壺が飛ぶ、机や椅子やらまで飛び交いだした。あまりの事に、周囲から悲鳴が上がる――――通行人達も危険を察したのか、三々五々にその場から逃げ出した。

「こ、こらっ、お前達、やめ………うわっ!?」

そんな中、勇敢にも春蘭が二人を止めようとしたのだが――――激しく飛び交う流れ弾に、近づけないでいるようだ。
しかし、どうしたもんかな………一応、俺の後ろには警邏の部下達もいるけど――――あの二人を止めるのは不可能のように思える。
恋に頼んでみようか――――そう思ったとき、再び悲鳴が上がった。見ると、華琳とは数歩離れた場所に、男の人がうずくまっている。
どこにでもいるような…そんな身なりのおじさんは、どうやら飛んできた物に当たったのか、手首を押さえていた。

「あのー、大丈夫ですか?」

さすがに心配になったので、俺は華琳の方に足を踏み出しながら、聞いてみる。そのとき、おじさんの足元に転がっているものに目がいった。
それは、白銀の光を放つ短剣だった………もちろん、装飾品じゃなく、実用性のある鈍い光沢の物――――それが、抜き身のまま地面に落ちていたのである。

「………え?」
「ちぃっ!」

一瞬、呆然とする間に、状況は変転した。地に伏したままで、短剣を手に取ると、男は身を起こす――――間近には、華琳が…まずいっ!

「華琳様っ!?」

異常に気がついたのか、悲鳴を上げる桂花。それを聞いて、春蘭と秋蘭もこちらに目を向けるが――――間に合わない!
いきなりの事に、動く事も出来ない華琳に、憎々しげな表情のまま、男は短剣を振りかぶる――――その刹那、俺は無我夢中で華琳を庇うように抱きとめていた。

「っ! ぐぅっ!!」

鈍い痛み…二の腕に男の突き出した短剣が刺さった。だが、間に合ってよかった………もし遅れたら、男の短剣は、華琳の頭上に振り下ろされていただろう。

「邪魔をするな!」

苛立ちと共に、再び短剣を振りかぶる――――次の瞬間、目の前を赤い風が過ぎた………それが、恋の姿だと確認するより早く、短剣を持ったままで、男は宙に舞っていたのだった。
男を殴り飛ばしたのは、むろん恋の拳である………巨大な武器を軽々と振り回す事の出来る、恋に殴られたのだ。正直な話、ただではすまないだろう。

「…ご主人様、大丈夫?」

吹き飛ばした男には目もくれず、恋は俺のもとに駆け寄ってきた。普段と変わらないように見えるが、ほんの少しだけ目が潤んでいるのが、俺にはわかった。
その頃になると、事の異常さにようやく気づいたのか、警邏中の部下達や、喧嘩をしていた鈴々と季衣も何事かとこっちに駆け寄ってくる。

「俺は大丈夫だよ、かすり傷だし………そうだ、華琳は平気か?」
「え、ええ………」

腕の中の華琳に聞くと、さすがに驚いたのか、いつもの憎まれ口も無く、コクコクと頷いた。と、その様子を見ていた恋が、急に俺の腕を掴んだ。

「う、うわ、どうしたんだよ、恋?」
「ご主人様、傷口を見せて」
「い、いいって、かすり傷みたいなものだし」
「………」

断ると、恋は何やら言いたそうな顔――――…一体、何なんだ? 結局、断る理由も見つけ出せなかったので、俺は抱きとめていた華琳を離し、上着を脱いだ。
恋は、むき出しになった俺の腕に手を添えると――――その傷口に口をつけた。一瞬、心臓が跳ね上がったが…次の瞬間、そんな事を考える暇もなくなった。

「ん…」
「――――い!? 痛てててててっ、痛いって、恋!」

まるで、噛み切られるような痛みが、俺を襲った。恋はというと、俺の懇願を聞いていないのか、数秒間そのままだった。そうして、口を離して、何かを吐き捨てる。
びしゃり、と地面に落ちたのは、黒ずんだ………俺の血?

「毒があったら、大変だから」
「な――――ど、毒って、さっきの短剣にか?」
「ん………そんな臭いはしなかったけど、念のため」
「そ、それは分かったが、もうちょっと手加減しても………アッー!」

後日考えると、それはちょっとした、恋の意地悪だったのかも? 結局その時は、都合3回、恋に傷口を吸われるという…貴重な経験をしたのであった。



「はい、治療は終わりました、太守様」
「ああ、迷惑掛けてすまないね」
「うー…お兄ちゃん、大丈夫なのか?」

それからすぐ…周囲を警戒する中で、俺は簡易的な治療を受けた。といっても、受けた傷が短剣によるものだったので、傷口を洗い、包帯を巻くだけの簡単な処置だったが。
俺の周りには、恋と鈴々、それに華琳と桂花がいて、治療のさまを見守っていた。春蘭と秋蘭、季衣は、短剣を持っていた男を見張っている。
男は、恋に殴られた後で、春蘭達にもこっぴどく小突かれたのか、ボロボロの様子で縛られている――――当然、短剣は取り上げられているようだった。

「ああ、大丈夫だよ、鈴々。それにしても、驚いたな…まさか、警邏の最中にこんな目にあうなんてな」
「笑い事じゃないのだ! 本当に心配したんだからねっ!」
「それにしても、華琳様のお命を狙うなんて………なんて愚かなんでしょう。百万回八つ裂きにしても、足りないわ」

怒りの声を上げる鈴々に賛同するかのように、ポツリと呟きを洩らす桂花。彼女の怒りの原因は、華琳に危害が加えられえそうになった点にあるだろうけど。
確かに、こんな大事になったんじゃ、なかった事にするって訳にもいかないよな…どうしたものかな。

「太守様…ひとまず男の身柄は拘束しておりますが――――いかに取り計らいましょうか?」
「決まっている、この場で首を刎ねるべきだ!」

治療が終わったのを見計らってか、部下の一人が俺に聞いてくる。その質問が耳に入ったのか、男の傍に居た春蘭が、大きな声でそんな事を言ってきた。
傍に居る秋蘭も、さすがに反対の意見を述べようとはしない。華琳が危害を加えられそうになったという時点で、彼女らとしては、許しがたい気持ちだろう。

「待ってくれよ。確かに短剣を振り回したのは問題があるけど、何もそこまで――――」
「そこまですることはない、か? 甘い、甘いぞ北郷一刀! この場で殺らなければ、いつかは殺られる…それが世のならいというものだろう!?」

俺の言葉を粉砕するかのように、大きな声で断言する春蘭――――いや、猛将・夏候惇。その剣幕に周囲はしんと、静まり返った。
遠巻きに見守る住人達も、警邏に同行中の部下達も、皆、一様に黙り果てたその場で――――。

「…そうやって、貴様達は生き残ってきたのだ」

氷よりもなお冷たく、炎をも焦がすかのような怨嗟の声が、縛られていた男の口から漏れた。
その言葉を聞き…俺の横に座っていた華琳が、男に視線を向ける。そこには、絶対的な王者の威厳――――鋼の意思があった。
その視線に気がついたのだろう。縛られ、自由を奪われていた男だが、剣呑なまでの憤怒を顔に表しながら、華琳に向かって憤怒の声を上げる。

「曹操孟徳! 貴様が…我が主、馬騰様を殺したのだ! 卑怯な騙まし討ちをかけ、一族を根絶やしにした、外道めっ!」
「馬騰…だって?」

その名は、確か聞いたことがある。確か、翠の父親が――――そうだった。翠と出会ったときに言っていたじゃないか。
思わず口を挟んでしまった俺とは対照的に、華琳は何も言わず、ただ淡々と、男の口上を聞いていた。

「勝者である貴様らは忘れても、我らは忘れぬ! 魂魄幾千回甦っても、この恨みは忘れぬ!」
「それで、私を殺そうとしたわけね。残念だったじゃないの、あと少しで達成できたのにね」
「お、おい、華琳…?」

華琳の態度は、あくまでも素っ気無い。それが気に障ったのか、口角から泡を飛ばし男はなおも言いつのる。
――――しかし、悲しいことだ。いかに言葉を連ねようと、復讐に狂った言葉では、彼女の心に幾ばくの傷をつけることもない。

「勝ち誇るが良い! たとえ私がここで果てようと、この大陸には我らの血族は無数にいる! その刃が胸元に届くまで、傲慢不遜に振舞うが良いわ!」
「別に、言われなくたってそうするわ。過去の所業についても、根拠のない誹謗中傷でないし、否定する気もないわ。でもね――――」

ふいに、華琳の眼光が鋭くなる。その横顔を見て、ふいに俺は納得した…彼女は――――曹操は、皆が考える以上に覇者なのだと。

「何事かを成すなら、全てを賭けて行う事ね。残念だけど、貴方に次はないわ。たとえ北郷が許しても、私は…貴方を許さない」
「ひっ………う、ぅ」

このときになって、ようやく――――男は自分が刃を向けていた相手が、どれほどの傑物かを理解したのだろう。
その身体が、瘧にあったかのようにぶるぶると振るえ――――曹操の視線から逃れようとするかのように、身体を縮こまらせた。
その様子を見て、俺は溜息をつく。もう、いいだろう…これ以上は見ていられない。

「ともかく、城に連れて行ってくれ――――裁きは、朱里達と相談して決める。それで良いだろ…華琳」
「…何で、わたしに伺いを立てるのよ。ここは貴方の城なんだから、好きにすれば良いのに」
「――――いや、何となく、聞いてみたくて」
「あっそ――――好きにしなさい」

それだけ言うと、華琳はそっぽを向く。それだけで、場の緊張感は、あっという間に雲散した。ホッとする俺の眼前を、両脇を部下に固められた男が歩いていく。
最初は、中年のおじさんに見えたはずなのに………歩き去っていく背中は、まるで齢を重ねすぎた、老人のようにも見えたのである。



「さて…俺達は城に戻るけど――――華琳達はどうするんだ?」

それからしばらく後………事後処理(鈴々と季衣の壊した物の片付けが主だったが)を終えた後で、俺は華琳達に聞いてみた。
俺の部下達と一緒に、春蘭と季衣は周囲を警戒しており………俺の傍に居た華琳は、秋蘭と桂花を侍らしながら、考え込むように首を傾げ…しばらくしてから口を開いた。

「そうね…わたし達も一緒に行くわ。さすがに刺客に襲われたばかりで、外で食事を取るというわけにもいかないでしょう」
「華琳様の御身の安全が保障されるまでは、北郷と一緒にいるのが最良の選択でしょう…不本意ですが」
「ああ…それに、事情が事情なだけに、我々の説明も必要になるだろうしな」

華琳の言葉に賛同するように、桂花と秋蘭が頷く。何はともあれ、華琳達も同行する事に決まり…俺達は、ひとまず城に戻る事にした。
腕に包帯を巻いた俺に、気遣うような視線を向けてくる恋。鈴々は心配そうに俺の傍を離れようとしない。

「お兄ちゃん、大丈夫なの? 鈴々が肩を貸そうか?」
「大丈夫だよ。それよりも、俺は良いから華琳に付いていてやってくれ。恋、頼めるか?」
「………………(コクッ)」

了解したのか、それとも聞き流したのか、どことなく不満げにも見える表情を見せ、微妙な間を空けて恋は頷くと、踵を返す。
華琳達から付かず離れずの位置に移動した恋は、彼女達と歩調をあわせるようにゆっくりと城への道を歩いた。
恋について、華琳は何も言う事はなかった。ただ、彼女よりもむしろ、春蘭や桂花が、恋を気にするかのように何度か彼女へと視線を送っていた。

犯人は捕まったとはいえ、単独犯であるとは限らない。城へと戻る道のりは、さすがに皆、緊張した面持ちを見せていた。それにしても………

「それにしても、城に帰ったら愛紗に何て言われるかな………」
「う………きっとすっごく怒ると思うのだ」

俺の傍に引っ付いて離れない鈴々は、思わず呟いた俺の声に、物凄く気まずそうに呟いたのだった。
今まで、警邏でこんな事件が起こったことは、そうそうなかったし――――何より、俺が怪我を負ったという事実を、愛紗が軽く受け止めるとは思わなかったからだ。
俺を大切に思ってくれているからこそであり、その事は素直に嬉しいのだが………この場合は、少々困った事になるのは、目に見えていた。



「まったく………ご主人様に怪我をさせるなど、貴様達は一体、何をしていたのだ!」

案の定、城に帰ると――――報告が届いていたのか、血相を変えた愛紗が俺のもとに駆け寄ってきて………今は、城の大広間でお説教の真っ最中だった。
俺は怪我をしているから、実際には説教を受けることはなかったが…それでも愛紗の声の鋭さに身の竦む思いである。

「特に鈴々! 喧嘩をしていて任務をないがしろにするなど、本末転倒はなはだしいではないか!」
「うう………ごめんなさいなのだ」

ちなみに、愛紗のお説教が集中しているのは、鈴々にである。警邏についてきていた部下の大半は、事後処理を理由に広間を退出した…ようは、逃げ出したのである。
名目上…警邏の責任者は恋なのだが、彼女に説教しても、馬の耳に念仏というのは分かっている為、必然的に怒られ役は鈴々に回ってきたのであった。

「それにしても、よく続くものだ………かれこれ半刻は喋りっぱなしだぞ?」
「それだけ、愛紗ちゃんにとって重要なことなのよ。大切なご主人様の事ですもの」

俺の隣で、呆れたように目を細める星と、苦笑する紫苑。華琳達は一度、離れの方に戻ってもらっているため、ここに居るのはいつもの面子であった。
事の次第を聞いてから、考え込むように黙っている朱里と、自分の父親がらみということもあり、気まずそうな表情の翠が俺の近くに居る。

「………いいかげん、そのくらいにしておいたらどうだ? 説教を延々と続けても、見ているこちらが気まずくなるだけだ」
「だが、鈴々達のしでかした失敗を、そのまま不問に付すというわけには――――」
「失敗なぞ、これから挽回の機会はいくらでもあるだろうに。それよりも、今は捕らえた刺客の処遇について、考えをめぐらせるべきではないか?」
「む………確かに、それはそうだ」

星に諭された愛紗は、もとより矛を収める機会を考えていたのか、あっさりと鈴々達に向けていた説教を止めた。
ピリピリした緊迫感から開放されて、俺はほっと息をつく。それを見計らって、話題を変えるように口を開いたのは、紫苑であった。

「その刺客の事なんですけど………一応、牢に入れてはいますが――――どうやら、逃げる様子も無く、おとなしくしているみたいですね」
「まぁ、曹操の覇気にあてられたんだから、それも無理はないか。今頃は、牢の中で縮こまってるんじゃないか?」

刺客を前にしての、華琳の威風堂々とした振る舞いは、傍で見ていた俺が感銘を受けるほどに、凄みのあるものであった。
格の違い――――というより、位の違いを、刺客もあの瞬間、感じ取ったんじゃないだろうか。どうあっても、届かない領域に住まう者の気概を見て、心が折れたのだろう。
それは、純然たる覇王の瞳――――普段、俺が接している華琳という少女が持つ、曹操孟徳としての一面であった。

「ふむ、逃げないというのなら、それは重畳な事ではないか。日取りを決めて、刑を執行する段取りをつける事にしよう」
「日取り? いったい何の事だ? それに刑って――――」
「何を言っておられるか。処刑の日取りに決まっておろう。天下の往来での刃傷沙汰…おまけに、貴人に怪我を負わせたとあれば、弁解の余地はないでしょう」

さらりと、当然のことのように星は俺の質問に応じた。しかし、さすがにそれは――――、

「待ってくれ、いくらなんでも処刑って、そこまでは――――」
「ご主人様…申し訳ありませんが、私も星の意見に賛成です。殺一傾百という言葉が示す通り、ここで断罪せねば、後々の禍根を残す事になるでしょう」

殺一傾百――――…一人を殺し、百人の敵に警告するという意味の故事である。星に呼応するような愛紗の言葉に、俺は押し黙った。
他の皆はどう思っているのか、周囲を見渡すが、少なくとも、愛紗の言葉に反対を示すようなものはいなかった。

「…ご主人様の優しさは、わたくし達の誇りですけど、それは万人に向けられるべきです。一つの命を助ける為に、万人を危機に晒すのは、本末転倒というものでしょう」
「それでも、俺は両方助けたいと思ってるんだけどなぁ………」
「ええ、分かっております。それでも、ここは自重してください。ご主人様の真意を汲み取ってなお、わたくし達はこうすべきだと判断したのですから」

苦味を込めた微笑みを、紫苑が俺に向ける。きっと、俺が知らぬ間にも…こういった理不尽な問題を抱えては、処理をしてきたのだろう。
そう思うと、さすがにこれ以上、無理を通す事は俺にもできなかった。とはいえ、一人の人間の命を絶つという事実に、忸怩たる思いがするのは避けられなかったのだが。

「それじゃあ、刑の執行は――――翠さんにお願いします。刺客の人の出自を考えると、気が引けるんですけど…」
「…ああ、わかったよ」

朱里の言葉に、翠は硬い表情で頷いた。翠にしてみれば、複雑な心境だろう。父親を曹操に殺された彼女にしてみれば、刺客の行動自体には賛同する気持ちもある。
だが、身柄を預かっている華琳達に危害が及ぶとなれば、それは国の権威を失墜させ、信頼を貶める。それを防ぎ、再犯防止の為に、あえて朱里は翠を指名したんだろうな。

「翠、大丈夫か? 別に、他の誰かが代わっても構わないんだぞ?」
「あ、ありがとう、ご主人様。でも、良いんだ………これは、あたし自身がけりをつけなきゃならない問題だから」

翠は、気丈に微笑んではいたけれど、その笑みに僅かに影が差していたのは、その場にいる全員が、おそらく気づいただろう。
しかし、本人が納得しているのでは、誰も口を出せるはずもなく…何ともいえない空気の中、会議は終わる事となったのだった。



「ふぅ………なんだか、やるせないな」

部屋に戻るなり、俺はベッドに寝転がった。腕に怪我を負ったこともあり、大事をとって、今日はゆっくり休んでくれと、愛紗に言われたのである。
本来なら…机仕事から解放されてラッキー、と内心で小躍りするところだが――――先ほどの出来事が頭の隅に引っかかり、気分は優れなかった。

「………何が?」
「翠のことだけど………あの刺客の男の人、たぶん翠の知人なんじゃないかな。そう思うと、なんとなく、な」

わざわざ、敵討ちを決意するほどに忠誠を誓う部下というのなら、主君の娘である翠とも面識があるんじゃないだろうか?
かつての同胞を処刑する役割なんて、想像するだけでも嫌だというのに、翠は唯々諾々とそれに従おうとする。その辺りが何となく、やるせないと感じたのだ。

「……………………?」
「まぁ、口じゃうまく説明できないけど――――それはそれとして、どうして一緒についてきたんだ、恋?」

寝転がりながら、ベッドの傍らに立つ恋を見上げる。いつも通り、何を考えてるのか、ちょっとやそっとじゃ分からないような表情で…恋は、ぼうっと立っている。
俺の質問に、ひたすら無言――――ただ、何かをしたいのか、そわそわとした目線でベッドにゴロゴロと寝っ転がる俺を、じぃっと見つめてくる恋。
不意に、恋が何をしたいのか分かった気がして、寝転んだまま、ちょいちょいと手招きしてみる。

「……………………♪」

果たして、予想通りだったのかは分からないが――――俺の手招きに、かすかに嬉しそうな表情になると、恋は俺に添い寝するように、ベッドに横になる。
まるで、無邪気にじゃれ付いてくる子犬のように、ころりと寝転がりながら…恋は俺に身を寄せてくる。その髪からは、太陽ような暖かな香りがした。

「おっ、と。はは、甘えん坊だな、恋は」
「愛紗に、ご主人様から離れるなって言われた」

俺が頭を撫でると、うれしそうに俺の胸に額を当てながら、恋はそんなことを言った。なるほど…愛紗自身は事後処理で忙しいから、恋を代役に立てたのだろう。
確かに、実力的には何者にも勝る恋だ。護衛にはうってつけだろう――――とはいえ、本人に護衛としての自覚があるかというと………多分ないだろうな。

「俺に心労をかけないようにって配慮で、恋に声をかけたのなら、愛紗も策士なんだろうけど………それはないだろうな。多分」
「………?」

おそらくは、恋が暇そうにしているから声を掛けただけであって、本当なら、よほどのことが起きない限り、彼女自身が俺の護衛役をかって出ただろう。
ただ…今回の事件が事件なだけに、ことの顛末を見届けることを、愛紗は優先したんだろう。曹操という存在は、それほどに重要であるといえる。
もしも、彼女達を狙う輩がいるとすれば、今回の件を傍観するはずもない。この事件に便乗して、動く可能性はかなり高いんじゃないんだろうか。

「後の処理は朱里たちに任せてるといっても、さすがに全部を押し付けれるような性格じゃないからな――――責任感の塊みたいな愛紗の性格からすると」
「……………………………ふぁ」
「ああ、ごめんな、恋。難しい話ばかりで、眠たくなっちゃったか」

うつらうつらと、横になった恋の口から、あくびが漏れた。そういえば…今日は警邏の日で、昼寝をする暇も無かったな。
眠そうに目をこする恋の様子を見ていると、うららかな午後の時間ということもあり、一眠りをしたくなってくる。せっかくの休みだし、このまま昼寝をするのも良いか。

「このまま、一緒に眠ろう、恋。ずっと、傍にいるからさ」
「………ん」

既に眠りの淵に足を浸からせてながら、それでも俺の言葉に頷く恋と一緒に、そのまま俺も、暖かな眠りへと引き込まれていった――――。



ドンドン。ドンドン。がちゃ。

「………華琳様、どうやら鍵は掛かってないようです」
「あら、そうなの。相変わらず無用心なのね、北郷は。それで、部屋の中にはいないの?」
「少々、お待ちを………どうやら、眠っているようですね。心労の類ではなさそうですが」

………んん? 何だか、騒がしいな。月か詠が掃除にでも来たんだろうか?

「あら、そうなの。じゃあ、しょうがないわね………また、折を見て――――ぇ?」
「すぅ…ご主人様………んんっ」

ん〜? 何かくすぐったいな。誰だ、頬を舐めてるのは? セキトが寝床に入り込んできたんだろうか?

「これは………いかがいたしましょうか、華琳様。なにやら幸せそうですし、起こすのも気が引けますが」
「いえ――――構わないわ、秋蘭…叩き起こしなさい」
「御意」

と、うつらうつらとした、まどろみに浸っていると――――不意に、目を閉じているはずなのに、視界がぐるんと一回転したのを感じた。
一瞬後――――どさっという音と一緒に、石畳の上に背中を打ち付けられて、思いっきり息が詰まった。

「ぐは………な、なんだ?」
「お目覚めかしら、北郷一刀?」

痛みに顔をしかめて薄目を開けると、轟然とした態度で、寝転がる俺を見下ろしている、金髪&巻き毛の少女と目が合った。
…どうでもいいが、このアングルだとスカートの中身が見えてしまうから困ったもんだ。一々、言うべきことでもないだろうけど。

「――――ああ、ばっちり目が覚めたよ。もう少し、温厚な起こしかたをしてくれれば嬉しかったんだけどな」

眠気が一発で覚めるような光景に苦笑しながら、俺は身を起こす。華琳の傍らには、ベッドのシーツを手に持った秋蘭の姿があった。
どうやら、バラエティなどでよくある、食器を乗せたテーブルのシーツを引き抜くパフォーマンスと同じ方法で、シーツを引き抜いたらしい。
………もっとも、この場合、食器役の俺は見事に床に落ちてしまったわけなのだが――――って、そういえば、一緒に寝ていた恋はどこに?

「すーすー」

部屋を見渡すと………ベッドの上に、こんもりと小さな塊がある。見ようによっては、餃子の皮か、ロールキャベツに見えなくもない。
どうやら、ベッドから転がり落ちた俺とは別に、シーツを被ったままで、ベッドの上を転がってそのまま丸まったようだ…器用だな。

「何よ、寝ていたそっちが悪いんじゃないの。わざわざ、わたしの方から出向いたというのに、安穏と昼寝を続けさせると思うの?」
「…………」

自分が出向いたのだから、起きるのが当然とばかりに、胸を張って平然と言う華琳。どうやらこの性格は、ちょっとやそっとじゃ直りそうにもないようだ。
まぁ…それはともかく、元気そうで良かった。つい先程、刺客に襲われたというのに、そのことを引きずっていないのは、彼女の芯の強さなのだろう。

「それで………いったい何のようなんだ? さすがに、この状況じゃ、外出の許可とかは出せないと思うけど」
「ああ、安心しなさい。今回の訪問は、そういう意図はないから。ただ、ひとこと言いたいことがあったから来たのよ」
「言いたい事?」

いったい、何を言うつもりなんだろうか。また、とんでもない無茶難題じゃなきゃ良いんだけど。

「昼間の件だけど、もう二度と、あんな真似をしないでちょうだい」
「あんな真似………って、何のことだ?」
「――――覚えてないわけじゃないでしょう? 刺客から、私を庇おうとして抱きついてきた事よ」

いわれて、あの時の事を思い出す。振り上げられた剣の切っ先が、華琳に向いていることが分かった瞬間、無我夢中で動いていたんだが――――。

「ああ、あの時は悪かったよ。でも、抱きつかれた事を気にしてるなんて………意外と恥ずかしがりやなんだな」
「ちがう! そっちじゃないわよっ! わたしが言いたいのは、無茶をして、北郷が怪我をした事を言ってるのっ!」

俺の答えが見当違いだったのか、華琳は顔を真っ赤にして怒る。傍に控えた秋蘭も呆れ顔だ。そんなに変なことを言ったつもりは無いんだけどなぁ。

「あなたは私より弱いんだから、無理をしてまでかばう必要はなかったのよ。あれくらいの刺客…私ひとりでも、対処は出来たんだから」
「そりゃ、そうかもしれないけど………」

わざわざ、怪我をしてまで華琳を助けた、俺の立つ瀬が無いというか………思わずしかめっ面をした俺に、華琳は諭すように言葉を続ける。

「別に、行為そのものを否定してるわけじゃないのよ。助けてもらったのは、その………う、嬉しかったんだし」
「そっか、感謝はされてるんだな、よかった…」
「だけど、それで北郷が怪我をするのは、問題なのよ。もしあなたに何かがあったら、この国が瓦解するのよ。その点は、心に留めておきなさい」

ホッとしたのも束の間、説教口調で華琳に言われ………俺は大いに戸惑ってしまった。正直、過大評価にもほどがあると思うんだけど。

「その顔、納得していないみたいね。でもね…もしあなたが死んだとしたら、愛紗は躊躇わず追い腹を切るわよ」
「な………」
「趙雲を筆頭に、北郷が居るという理由で留まっている者達も出て行くだろうし、あとを誰が継ぐかで、内乱が起こるのは間違いないでしょうね」

淡々とした口調で、とんでもない予想を口に出す華琳。なまじっか、淡白な口調なだけに――――その言葉にはどこか、真実味があった。

「単純な話、あなたの価値は、あなたが思っている以上なのよ。それを考えて、今後は自重することね」
「…っ けどさ、それで誰かの危機を、黙って見過ごしていいのか?」
「それも、しょうがないんじゃないの…? 命の価値は、平等じゃないんだから」
「――――」

華琳の言っていることは、おそらくは正しいんだろう。聡明な君主が死に、その後、国が荒廃するさまは、歴史書で幾例も述べられている。
ただ、だからといって…華琳の言葉を全面的に、俺は賛同できないでいた。それを認めることは、何かを失うような気がしたからである。

「忠告は、ありがたく受けておくけど――――多分、同じ場面に出くわしたら、俺は迷わず助けに入ると思う………もちろん、怪我をしないように、心がけるつもりだけど」
「ふぅ――――…そういうと思ったわ。肝心な所では、自分の意見を曲げないものね、あなたは。甘い考えだって思うけど」

呆れたのか、あからさまに肩をすくめて、華琳はそう言い放つ――――ひょっとして、彼女を失望させてしまったかもしれないけど…性分だし、しょうがないよな。

「好きになさいな。言いたい事は言ったし、わたしは部屋に戻るわ」
「ああ、悪いな、心配かけたみたいで」
「は? 何でわたしが北郷の心配なんてしなくちゃいけないのよ………馬鹿馬鹿しい、帰るわ」

ふんっ、と鼻を一つ鳴らすと、華琳は部屋を出て行ってしまった。やれやれ、随分と機嫌を損ねちゃったみたいだな。

「はぁ………華琳のやつ、かなり怒ってたな。呆れさせちゃったんだろうか」
「いえ、そのような事は無いと思います。北郷殿の行動を、誰よりも評価されているのは他ならぬ華琳様でしょうから」

肩を落とした俺をいたわるように、声をかけてきたのは部屋に残った秋蘭である。
いつも、華琳の傍に付き従っている彼女だが、思うところがあったのか、部屋を出て行った華琳の後を追わず、俺に語りかけてきたのである。

「この部屋に来たのも、本来なら北郷殿に頭を下げて、礼を言う為に足を運ばれたのですよ。姉者が部屋に入らず外に待機していたのも、その様を見たくなかったからでしょうし」
「――――そうなのか?」

そういえば、春蘭の姿が見えなかったけど――――忠義心の塊である彼女にしてみれば、形式だけとはいえ、華琳が俺に頭を下げるのが耐えられなかったんだろうな。

「もっとも、そのような感謝の念も、部屋に入った途端に雲散霧消したようですが」
「…へ?」
「いくらお盛んとはいえ、昼間から女性を部屋に連れ込んで、添い寝している様はどうかと」

呆れた視線をベッドの方――――恋がくるまった毛布へと向ける秋蘭。どうやら、二人して昼寝をしているところをばっちり見られていたらしい。

「恥ずかしいな、寝顔を見られてたのか」
「………子供のような顔をしておられましたね。華琳様に言わせれば、北郷はいつでも子供よ、と言われるでしょうが」

なんとなく、ヤキモチ? なのか、言葉にほんの少し棘のようなものを感じて秋蘭を見るが、基本的に鉄面皮の彼女は、平然と俺を見返してきた。
思わず苦笑いをすると、それをどう受け取ったのか…秋蘭は、ついと視線を外して話題を打ち切るように肩をすくめた。

「あまり長く逗留するのも、何かと都合が悪いでしょう。私はこれで失礼します」
「そんなに、気を使わなくても良いのに………秋蘭さえよければ、もうちょっと話をしたいな」
「………申し訳ありませんが、華琳様のお傍を離れるわけには行きませんので。特に今は、時期が時期ですし」
「そうだな――――刺客騒ぎがあったばかりだし、華琳の傍には味方が必要だよな。俺が言うまでもないけど、華琳のこと、頼むな」
「はい、命に代えましても――――それでは」

俺の言葉に、秋蘭は微笑すると、いかにも軍人らしい敬礼を一つして、部屋を出て行った。
その凛々しい姿に、思わず見とれてしまい、呆けた様子で部屋の出口を見ていると――――背後から、小さな声が聞こえてきた。

「ご主人様、嬉しそう」
「ん………? ああ、起きてたのか、恋」

掛けられた声に、振り返ってベッドの上の恋を見ると――――まるでミノムシみたいに、毛布から顔だけ出して、横になりながらこっちを見ていた。
なぜか、その表情は、ちょっとだけ不機嫌? お腹が空いた時にたまに見せるような、微妙な表情をしている。
俺は、ベッドの端に腰をおろすと、恋の頭を撫でる。寝起きで眠気が残っているのか、俺に撫でられるままに、恋は子猫のように目を細めた。

「ん…もっと」
「はは、甘えん坊だな、恋は。それにしても、起きたんなら声をかけてくれればよかったのに

俺がそういうと、閉じかかっていた目を開けて、恋がこちらを見る。その目は、ちょっと不満そうである。

「なんだか、楽しそうに話してたから」
「ん、ひょっとして、さっきの話を聞いてたのか?」
「………………………………………ちょっとだけ」

長い沈黙の後、目をそらして言ったのは、明らかに嘘を言っている様子。どうやら、かなり前から聞き耳を立てていたらしい。
それにしても、恋がそういった面で遠慮するなんて、珍しいな――――基本的に、周囲の事を気に掛けない彼女にしては珍しい。

「…ご主人様、華琳と仲良さそうだったから」
「いや、それは――――って、普通に恋も、華琳のことを真名で呼んでるんだな」
「…?」

俺の言葉に、恋は怪訝そうな顔。多分、恋にとって呼び名はどうでも良いんだろう。そういう事に、頓着するような性格じゃないし。

「まぁ、それは良いんだが――――別に、俺と華琳が話しているからって、遠慮する必要は無いんじゃないか?」
「華琳は、嫌い」

即答である。あまりにストレートな物言いに、返す言葉がなく、沈黙する俺。ただ………、

「恋がご主人様に近づくといじわるするのが、昔の愛紗みたい」

その嫌う理由が、なんというか…子供のような理由だったから、思わず苦笑してしまったわけなのだが。

「そうか。でも、今は愛紗と仲良しだろ? だったら、いつかは華琳とも仲良くなれるさ」
「………」
「今度、華琳を誘って遊びに行ってみようか? 美味しい店で一緒にご飯を食べたりするのは、楽しいと思うけど」
「………いい」

華琳の事を話す俺に呆れたのか、それとも拗ねてしまったのか、シーツにくるまったまま、ころんと寝返りを打って、俺に背を向ける恋。
ただ、頭を撫でると…またこっちに向き直るあたり、心底怒っている訳ではない様であったが。

「ご主人様、華琳の事が好き?」
「ああ、好きだぞ………もちろん、恋のことも同じ位にな」
「ん」

果たして、俺の回答が正しかったのかは兎も角――――恋は俺の言葉に満足したように顔を綻ばせると、ウトウトと目蓋を閉じ始めた。
それにしても、今日は色々とあったけど………恋が華琳に興味を持ち始めた事が、今日一番の、「よいこと」だったのかもしれない。
そんな事を考えつつ、俺も恋にならって横になると、暖かいまどろみに身をゆだねたのであった――――…。


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