〜史実無根の物語〜 

〜其の一〜



その日は、蒼天に雲が高くたなびき、差し込む陽の光は穏やかで…よく晴れた一日だった。
平穏が形作られた日常は、午睡の一時を楽しむ者も多く――――本城の一角で、動物達と共に昼寝をしている少女も、その一人であった。
赤みがかった髪に、あどけない姿で眠る姿は子供のように無防備である。ただ、彼女を知るものにとって、そのような姿を見る事はまれであったが。

「………ん」

チチチ…と、頭にとまった小鳥が髪の毛をついばむ様に引っ張ると、眠りを妨げられたのか、少女はむくりと身を起こす。
寝起きのせいか、それとも素でそうなのか、ぼうっとした表情で周囲を見渡す少女。彼女の周囲には、彼女と同じように午睡をまどろんでいる動物たちの姿がある。
少女は、周りの動物達を起こさないように、辺りをキョロキョロと見渡していたが、ふと、何か足りないという事に気がついようである。

「…………セキト?」

いつも、昼寝をするときは胸に抱きかかえている、彼女の友達がいなくなっていた。どうやら、彼女が寝ている間に腕を抜け出し、どこかへ行ってしまったらしい。
相棒が居なくなってしまった事に気づいたのか…少女は、ほんの少し困ったような顔。普段、彼女を見慣れていない相手からすれば、大差ないようにも見えるが。
探しに行くか、ここで待つべきか――――しばしの間、彼女は自問自答していたようだが、答えが出たのか、彼女は腰を上げる。

「…………」

どうやら、探しに行くつもりらしい。他の寝ている動物達を起こさぬように、抜き足差し足。そうして、木陰を抜けた後、彼女は周囲を見渡した。
どこから探すべきか――――あてもない状況で、彼女のとった判断は…………、

「…ご主人様」

協力してくれそうな、彼女にとって一番に、信頼できる相手に相談しに行く事だった。
彼女の名は、呂布奉先――――恋という真名の女の子は、今のところ、けっこう困っていたのであった。



「………暇だわ、桂花」

場内の一角――――主に休憩をしたりお茶をしたりする為に用意された場所で、つまらなそうに呟いた少女がいた。
金色の巻き毛、どこか気品と高尚さを併せ持った小柄な少女で、傍には獣の耳のような形のフードを被った少女が控えていた。
少女の名は、曹操孟徳――――真名は華琳。お供の少女の方は、荀ケ文若――――真名は桂花であった。

「孫子の編纂も一通り終わったし、特にやる事も思い当たらないのも困り者よね」
「華琳様――――でしたら、街に出るのはいかがです? 市の方に、何かしら興味がひくものがあるかもしれませんし」
「やよ。春蘭達が所用で街に出ているし、興味を引くものがあれば、報告してくるでしょ。それに、街に出るのなら、もっと早い時間に出ているわ」

今から街に出ても、見回る時間は多く取れないでしょうし――――と、効率重視の意見で、桂花の申し出を却下する華琳。
とはいえ、いつもの事なのか、桂花の顔に不満はない。むしろ、主である少女に満足な意見を出来なかったのを悔やむような顔をした。

「う………もうしわけありません。では、対局はいかがですか? 僭越ながら、私が相手を勤めさせていただきますが」
「対局ね――――やってもいいけど、あなたの打ち筋は知り尽くしてるから、つまらなそうね………どうせなら、朱里をよんできなさい」
「さ、さすがにそれは………彼女も多忙のようですから」

朱里――――諸葛孔明を名指しで呼びつけるように言う華琳に、さすがの桂花も困ったような表情になる。
どうも、華琳は桂花を困らせるために、無理難題を言っているような気がする。まぁ………半分は、そのとおりなのであるが。

「そう、残念ね………となると、対局というのも気が乗らないし――――あぁ、もうっ。何か刺激のあることはないのかしら」
「刺激、ですか」

華琳の言葉に桂花の顔が赤くなる。どうやら、苛められる自分の姿を思い出して、悦に入ってしまったようだ。
犬のように這いつくばって、主人である華琳の責めに身を委ねるのは、桂花にとって、嗜好の――――もとい、至高の喜びだったりする。
と、そんな事を考えていたせいだろうか、ふいに、わふっ、という鳴き声が聞こえてきたのである。

「…あら?」
「………どうかなされましたか、華琳様?」

怪訝そうに、下方を見る華琳。その視線を桂花が追うと――――高台に位置した休憩場の傍に………茶色の毛並みの小柄な犬がいた。
階段の下で、所在なげにウロウロしている小犬に、桂花は眉をひそめた。ここは一応、城内である。
一般人の立ち入りはもとより、犬猫の類などが易々と入り込んでよい場所ではない。もしこれが、魏の城内だったら、警備主任の首が飛んでいるところである。

「どこから迷い込んだのかしら? 本当にのどかな城ね」
「無用心にもほどがありますよ。北郷に苦情を申し立てる必要がありますね………? 華琳様?」

怪訝そうな表情を桂花が見せたのは、先ほどまで無気力そうだった華琳が、ひょいっと小柄な身体を立ち上がらせたからである。
そうして、すたすたと休憩場の階段を下りていってしまった。一瞬、置いてけぼりをくらった桂花だが、彼女も慌てて席を立ち、華琳の後を追う。
桂花が階段を半ば下りる頃――――華琳はというと、小犬の間近へと移動して、興味深そうに茶色の毛並みを見下ろしていた。

「お前、どこから来たの?」
「ウ〜・・・」

屈みながら手を伸ばす華琳に、身を低くした小犬は、どこか警戒したように喉の奥から唸り声を上げた。
傍から見ても、懐かれているとは到底思えず、下手をすれば手を噛まれかねない。桂花にも同じように見えたようだった。

「ま、待ってください、華琳様! お手を噛まれでもしたら、悪い病気を移されるかもしれません!」

この時代には、予防接種という概念もなく、桂花の心配も、もっともといえる。ただし、華琳はというと、さして頓着する様子も無かった。

「大丈夫よ。安心しなさいな、桂花」

思いっきり自信満々で、華琳は小犬の頭に手をやると――――、

「ほら、よしよし」
「きゅぅぅ〜〜〜ん………」

途端に、華琳に頭を撫でられた小犬は、気持ちよさそうに鳴き声を洩らした。いささかホッとして、桂花は足早だった歩調を緩めて階段を下りる。
残りの十段を降り終える頃には、小犬はすっかり華琳に懐いてしまっていた。その様子に安堵しながらも、何気に面白くは無い桂花。
そんな桂花の心情はさておき、華琳はというと、小犬の喉を撫で回して、満足そうな表情になっていたりする。

「首輪もしてないし、野良犬かしら? そうだ、次の暇つぶしは…これにすることにしましょう」
「あ、あの…華琳様? これ、というのは…?」
「わふ?」

思いっきり不安そうな表情の桂花と、よく分かってないのか、キラキラとした目で華琳を見上げる小犬。
そんな両者の視線を受けた華琳は、それはもう嬉しそうに、満足気な微笑みを浮かべたのであった――――。



「ふぅ、今日もいい天気だなぁ」
「ええ、昨今は暖かいだけでなく、空気がこう…清々しく感じられますね」

愛紗と肩を並べて歩きながら、俺は一つ大きく伸びをした。清々しく感じられるのは、何も気候のせいだけではない。
ここ最近――――魏を併呑してから、俺達の組織もいっそうの肥大化を見せた。最近では、部下達をまとめるのに一苦労である。
しかし、その忙しさも一区切りを付き、今は僅かの間ではあるが、自由な時間を満喫する事が出来る。
ちょうど、非番である愛紗を伴って、俺達はこれからどうするか、開放感を感じる悩みに頭を捻っていた所であった。

「しかし、今日はどうしようか? 愛紗は、どこか行きたい所とかはある?」
「そうですね………警邏がてらに、市の様子を見に行きたいと思っていますが――――」

生真面目に、そんな事をいう愛紗。さすがに、休暇とはいえその辺の気配りを忘れないのが彼女らしい。
さて、俺はどうするかな――――どうせやる事もないし、このまま愛紗に付き合うのも悪くないのかもしれない。

「そうだな。それじゃあ俺も一緒に行くよ」
「え、よ、よろしいのですか?」
「ああ、どうせする事もないし………ひょっとして、愛紗は一人で廻りたかったとか?」
「い、いえっ、そんなことはありません! むしろ、願ったり叶ったりというか………その………」

照れたように口ごもる愛紗。う………そういう表情をされると非常に困る。昼間だというのに、押し倒したくなりそうだ。
考えるより先に、俺の手は愛紗の肩へと伸ばされて――――、

「………ご主人様」
「ぬはっ!?」
「れ、恋!?」

ひょっこりと現れた恋に、手首を捕まれて硬直した。気配を感じさせずに近寄ってきた恋に、愛紗も驚いた顔をする。
で、その恋はというと………俺の手首を握ったまま、だんまり。放っておいたら、このままずっと黙っていそうである。

「ど、どうしたんだ? 何かご主人様に用事でも?」

気を取り直したのか、愛紗がそう訪ねると、恋は愛紗の方に顔を向ける。ここ最近、恋は俺以外にも関心を向けるようになった。
その兆候は良い事だと思うが、一抹の寂しさを感じない事も無い。それは兎も角、恋は愛紗のほうをじっと見やって、ポツリと呟いたのだった。

「………いなくなった」
「いなくなったって、何が?」

俺の問いに、恋はこちらに視線を戻す。その表情は、途方にくれたような顔――――よく見ないと、分からないのだが。

「…セキト」
「セキト………?」
「………(こくん)」

……………うぅ、相変わらず断片的過ぎて、分かりづらいコミュニケーションだ。だけど、これを理解してやらないといけないんだよな。
俺は、居なくなった、とセキトという単語から、恋の言いたい事を解読しようとして――――、

「…なるほど。昼寝をしていたら、セキトの姿が無い。それで慌てて、ご主人様に助けを求めに来たのだな」
「――――へ?」

愛紗に、あっさりと先を越されてしまったのであった。恋が頷くのを見ると、愛紗の見解で間違いないのだろう。

「愛紗………今のでよく分かったな?」
「何、造作もありませんよ。セキトという犬の事は、しばらく前に紹介されましたし、恋の頭に――――…ほら、まだ葉っぱが付いているぞ」
「………ん」

そう言って、恋の頭をポンポンと払う愛紗。恋はというと、おとなしく頭を動かさずにいる。それにしても、随分と仲良くなったもんだな。

「ところで、恋が昼寝をしていたのは怒らないのか?」
「う………ま、まぁ――――恋とて今までほどは、警邏を蔑ろにしているわけではないですし、多少は大目に見ておこうかと」

………なるほど、休日だというのに警邏云々というのはそのためか。きっと見えないところで、こうして恋の助けをしているんだろう。
そう思うと、心が暖かくなるよな。愛紗の気配りも、そうしたくなる恋の無邪気な部分もひっくるめて――――。

くいくい。

「っと、悪い。セキトのことだったな」

いつもは袖口だが、今日は俺の手首を握っているので、くいくいというか、ぐいぐいであったが………そうして催促をする恋に、俺は向き直る。
相変わらず、感情が読みづらい恋だけど、その目がちょっぴり不安そうにしている。どうやら、セキトが居ない事は彼女にとって、かなりの一大事なんだろう。

「セキトのいる場所に心当たりはないのか?」
「………(ふるふる)」
「しばらくしたら、戻ってくるんじゃないか」
「……………………」

俺の言葉に、恋はというと途方にくれたような顔。うーん、こんな顔で、じっとセキトが帰ってくるのを待つ、恋の姿というのは…いかん、可哀想過ぎる。
さすがに放置するというのも寝覚めが悪そうだし――――ここは、恋に協力してセキトを探す事にしよう。

「分かったよ。俺も一緒に探してやるから、頑張ろうな」
「………(こくん)」

無表情に頷く恋。とはいえ、口の端がほんの少しだけ…緩んでいるのが見えたのは、内緒だ。

「…では、私も手伝う事にします。茶色の毛並みで…赤い布を首に巻いた小犬でしたよね、セキトは」
「ああ。でも…いいのか、愛紗? どれだけ時間が掛かるかも、分からないんだけど」
「何を仰いますか。恋は私の友人です。友を助けるのですから、多少の労苦などに構ってはいられません」
「………」

愛紗の言葉に、つ、と視線を逸らす恋。ひょっとして、照れているのかもしれない。
そんな恋の態度に気を良くしたのか、愛紗は笑顔で、「それでは」と歩き去っていってしまった。

「それじゃあ、俺達も探すとしようか」
「………(こくん)」

相変わらず、俺の手首をつかんだままで、恋は一つ、大きく首を縦に動かした。そうして、俺と愛紗はセキトの捜索に力を貸す事になったのである。



「それで、どこから探すんだ?」
「………こっち」
「ここは――――曹操達の離れか」

恋に手を引かれて連れてこられたのは、城内の一角にある、魏の主要人物が滞在している場所であった。
確かに、街に行くよりも比較的近い場所いあるし、セキトがいる可能性もある。とりあえず、曹操達に話を聞いてみることにしようか。
それにしても――――それなりに広い城内で子犬一匹を探すというのは、少々骨が折れそうだな。

「それじゃあ探すとするか………俺は向こうを探すけど、恋もいっしょに行くか?」
「………手分けしたほうが、いい」

俺の問いに恋はそっけなく答えると、別方向に歩き去ってしまった。恋のことだし、しばらくしたら…この場に戻ってくるだろう。
とりあえず、曹操に挨拶をしようと、俺は彼女らの姿を探し、庭園の奥へと歩き出す。そうして奥へと足を進めた俺の耳に、楽しそうな笑い声が聞こえてきた。

「そら、取ってきなさい!」
「わんっ!」

放られる焼き菓子――――曹操の手から放たれた菓子を追って、子犬がちょこまかと走っては、無心に菓子を頬張っている。
城内にしつらえた休憩所………そこに満足そうに座しながら、曹操――――華琳は子犬と戯れている。その傍らには桂花の姿もあった。

焼き菓子を食べ終わった後、曹操の足元に戻りながら、もっとちょうだいと言うかのように子犬は足元をぐるぐる回る。
その様子に気を良くしたのか、曹操が再び焼き菓子を放ると、その子犬――――セキトは焼き菓子を追って、向こうのほうに駆け去っていってしまった。

「あら、北郷じゃないの」
「よう、華琳。桂花も元気そうだな」
「そういう貴方は暇そうですね。一国の太守が、こんなところで油を売っていていいのかしら?」

曹操の傍らに控えていた桂花が、辛辣そうな口調でそんなことを言ってくる。どうやら、機嫌がよろしくない様子である。
華琳はというと、昨今にない上機嫌で俺と桂花のやり取りを眺めている。そんな華琳の視線を横顔に受けながら、俺は桂花に言葉を返した。

「あのなぁ…人がいつも暇を持て余してるみたいに言うなよ。今日はちょっと、捜し物があって来たんだよ」
「探し物? いったい何を探してるっていうの? 貴方の事だから、たいしたものじゃあないんでしょうけど」
「…………」

なんというか、ナチュラルに喧嘩を売られてるような気がしないでもないけど………多分、悪気はないんだろうな。
桂花の言葉に溜息をしつつ、庭先に視線を移すと…投げ放たれた菓子を食べ終わったのか、ちょこまかした歩調でセキトがこっちに駆けて来るのが見えた。
と、上機嫌な華琳は兎も角、桂花はあからさまに不機嫌な表情になった。なるほど…曹操に構ってもらえなくなったのが不機嫌の原因だな。

「まったく………華琳様の御手から、お菓子を直々に分け与えられるなんて――――羨ましいわ」
「そうか? 大したことじゃないだろ。というか、犬に嫉妬するなよ」

桂花の呟きに思わずツッコンでしまった俺だが、どうやら桂花にとっては、聞き捨てならなかったらしい。彼女は険しい表情で、俺を睨みつけてきた。
その目は、何気に据わっていて――――どうやら、かなりのご立腹であるようだった。

「貴方………華琳様の寵愛を何だと思ってるのっ!? まったく、何でこんな男が………ひゃっ!?」
「ん、どうした?」

ビクン! と唐突に身体を震わせて、悲鳴を上げる桂花。何ごとかと様子を見ると、桂花の足元に、じゃれ付く小犬が一匹。
焼き菓子をせがんでいるのか、セキトは桂花の足首に鼻をこすりつけている。その様子に、桂花の表情が硬くなった。

「ちょ、ちょっと………北郷一刀、何とかしなさい!」

慌てたように、桂花は俺の背中に回りこんでセキトから逃げ出した。当のセキトはというと…別段、桂花の行動を気にした風もなく、今度は華琳の足元にじゃれ付いている。
桂花は、おっかなびっくり、俺の背中に隠れながらセキトの様子を窺っている。うーん、こうしていると、桂花もなかなか可愛いんだけどなぁ。

「随分と、仲がいいみたいね、二人とも」
「な………ご、誤解ですっ! 華琳様!」
「うぉ」

と、呆れたような表情の華琳の言葉で我に返ったのか、桂花は俺を突き飛ばしながら曹操のもとに駆け寄っていった。
とっさに踏みとどまったから良かったものの、下手したら階段から転げ落ちたてぞ、今………。
憮然とする俺だが、桂花はというと、そんな俺の表情など気にもせず、華琳に弁明を申し立てているようだ………ま、いいけどな。

(しかし、桂花って、どう考えても忠犬だよなぁ…セキト嫌いも、同属嫌悪のような気もするけど)

そんな事を考えていると、ふいに、聞き覚えのある声が耳朶を打ってきた。凛々しくも美しい、聞き間違えの無い声。

「………ご主人様? こんなところにいらしたのですか」
「愛紗」
「あら、愛紗じゃないの。わたしに会いに来てくれたのかしら」

憩いの場所に姿を現したのは、先程、分かれたばかりの愛紗であった。華琳はというと、セキトの背中を撫でながら、嬉しそうに愛紗に微笑みかける。
愛紗はというと、俺を見て、桂花を見て、セキトの背中を撫でる華琳を見て――――そうして、なんとも形容しがたい表情になった。
さすがに、この状況は想定の範囲外だろう。俺自身、まさか華琳がセキトと戯れている構図なんて、数分前までは想像できなかったわけだし。

「いえ、私は、セキトを追って………つかぬ事を聞くが、その犬は貴方の飼い犬だろうか?」

愛紗にしてみれば、確認のつもりだったんだろう。そもそも、セキトは恋の飼い犬みたいなものだし、華琳にしてみても、気まぐれに戯れていると俺も思っていた。
しかし、それは甘い考えだったらしく――――華琳の返答は、俺の予測の三段階ほど上をいったものになったのだが。

「ええ、そうよ。もう名前も決めてあるもの。ねぇ、カ・ズ・ト」
「「な――――!?」」
「ちょ、ちょっとまてぇ!?」

絶句する愛紗&桂花。いきなりの問題発言に、俺は慌てて華琳に待ったを掛けた。華琳はというと、ご満悦といった表情である。

「…何かしら、北郷?」
「お前、ワザとやってるだろ………じゃなくてな、そいつにはセキトって名前があって――――」
「よしよし、カズトは賢いわね〜、さすが、私の飼い犬だわ」
「聞けよ、人の話………」

馬耳東風という感じで、俺の言葉をスルーする華琳。とはいえ…聞き捨てならなかったのは、俺だけではなかったらしい。
硬直から開放された桂花も愛紗も、それぞれ思うことがあってか、華琳に詰め寄らんばかりの勢いだった。

「華琳様、早まらないで下さい! 犬の名をつけるにしても、もう少し気の効いた名がありますでしょう!」
「そ、曹操! いくら魏の国主であった身とはいえ、犬にご主人様の名をつけるなど、不敬だと思わないのか!」
「――――何よ、二人して。別にどんな名前だろうと、構わないじゃないの。カズトも気に入ってるみたいだし」
「わんっ」

と、華琳の言葉に賛同するかのように、セキトが吠える。その様子を見て…どうしたものかと、愛紗と華琳は顔を見合わせた。
しかし、どうしたもんかな………華琳は、すっかりセキトを自分のもの扱いしているし、渡してくれといっても聞いてくれるかどうか。

「…………」

それに、この場面を恋が見たら、どんな反応をするか――――下手をすれば、曹操に襲い掛かりかねないぞ。

「………セキト?」
「そうそう、こんな風に――――って、恋!」
「………お前っ!」

さっきから、視界の隅に映っていたのは、どうやら幻覚ではなく、本物の恋だったようだ。俺が止める暇も無く、恋は地を蹴り、華琳へと肉薄する!
こぶしは硬く握られていて、手加減をしている様子は無い………! その瞬間、立ち尽くす皆の前で、恋の拳がうなりを上げて曹操に突き出される!

「っ――――! 落ち着け、恋!」
「………!」

その刹那、恋の拳を弾いたのは、とっさに二人の間に身体を割り込ませた、愛紗の手の平だった。一撃を防がれた恋は、険しい表情で愛紗を見返す。
普段、温厚というか、無反応に近い表情が、今や戦場にいる時のように険しいものになっている。いや、こうまで険しい表情になった恋を、俺は見た事が無い。

「邪魔するな…!」
「そういうわけにもいかん! 私が乱暴狼藉を看過できる性格ではないと、知っているだろう?」
「………っ!」

ぎり、と歯軋りをして、埒が明かないと思ったのか、恋は愛紗に向かって拳を振るう。怒りで気が削がれているのか、その攻撃は単調だった。
しかし、それでも尋常ではない速さで、恋の拳は愛紗へと迫る! 愛紗はその攻撃一つ一つを、何とか防ぎ、凌いでいた――――。



「へぇ………なかなかやるじゃないの。あの関羽と互角に戦ってるなんて」

と、そんな切迫した場面であるのに、まるで蚊帳の外に居ますと言わんばかりに、のんびりとした表情で演舞めいた戦闘を眺める曹操が一人。
華琳はセキトを傍らに、鑑賞をするかのように二人の戦いに見入っているが…さっきの場面は肝を冷やしたぞ…下手をすれば、殴り倒されていたところだ。
他の皆は…ごく一部の例外を除いて、俺より強いのは間違いない。しかし、中でも恋の強さは飛びぬけているのだ。徒手空拳では、曹操に勝ち目は無いだろう。

さすがに、事の剣呑さに気づいたのか、桂花が慌てたように俺に詰め寄ってくる。こういう荒事は、春蘭達の方が向いてそうだしな。

「ちょっと、北郷一刀! いったい何なのです、あの無礼者は!」
「ああ、すまない。彼女に悪気があったわけじゃないんだ。恋にしてみれば、友達を助けようとしているだけだと思うんだが」
「…友達?」

怪訝そうな桂花に、俺は華琳の手元を指し示す。華琳の手の先には、きょとんとした表情で恋と愛紗の戦闘を見つめている小犬が一匹。

「へぇ…天下に名高い呂布奉先に、まさかそんな一面があったとはね」
「って、華琳は知っていたのか? 恋の事…」
「あたりまえでしょ。文官に武官、優秀な人材は、国内外に関わらず把握しておくのが王者の務めというものでしょう」

………ぅ、俺、この城で働いてる人の半分も把握できてないような気がするんだが――――。
俺の考えている事を察したのか、呆れたような表情で華琳は俺を見る。そうして、その目を愛紗と、恋に向けなおした。

「なるほどね…経緯は、おおよそ把握できたわ。要するに、このおチビちゃんが大切だから、彼女は私に向かってきたのでしょう?」
「あ、ああ………そうだと思うけど」
「だったら、こうするまでよ」

そう言って、華琳はセキトを抱え上げると、それをポーンと放り投げ――――、

「だぁっ! 何やってるんだ! 愛紗、恋!」
「ぇ――――」
「!」

一瞬、背を向けていたため反応が遅れた愛紗。恋はというと、俺の声にこちらを見やり、飛んでくる小犬が地面に落ちる直前、身を挺して拾い上げた。
唐突に、戦闘は中断され、地面に倒れた恋の腕の中で、セキトが心配そうに彼女の頬を舐めた。

「………大丈夫、セキト?」
「曹操、これはどういうつもりか?」

ホッとした表情で、セキトに語りかける恋を心配そうに見やってから、愛紗は険しい表情で曹操を睨みつける。
恋が間に合ったから良いものの、下手をすればセキトが怪我をしていたかも………いや、愛紗としては、セキトを助けるために恋が怪我をしたことが問題なのかもしれない。

「どうも何も、私がそのコを捕まえていたから、襲ってきたんでしょ? だから、返してあげただけよ」
「しかし、返すにしても、もう少し穏やかな方法があったのではないですか? 恋とて話せば分かって――――」
「………!」

と、愛紗は言葉を途中で止める。地面に倒れ付していた恋が、セキトを小脇に抱えて身を起こしたのだ。その表情は、変わらず剣呑に曹操に向けられている。
そうして、再び地を蹴ろうとした恋の両肩を、愛紗は両手で押しとどめた。小脇に抱えたセキトを気遣ってか、恋も愛紗を振り払おうとはしなかった。

「見る限り、そのコの方は聞く耳を持ってなさそうだけど」
「落ち着け、恋! セキトは戻ってきたし、もう充分だろう!」
「お前…!」

恋は、愛紗の肩ごしに曹操を睨む。視線に込められているのは、尋常ならざる怒気のようだった。
そうして、口数の少ない彼女の中で、もっとも適したであろう激情の言葉を、恋は口から吐き出したのだった。

「お前…嫌いだ!」
「あら、そうなの。奇遇ね――――私も、貴方は好きになれそうにないわ」

言われた曹操のほうは、眉一つ動かしていない。しかし、俺の目には明らかに、曹操も怒っているように見えたのだった。
よく考えれば、華琳と恋――――曹操と呂布という史実を考えると、仲が良いはずも無い。

「――――愛紗、恋を連れて戻っていてくれ。俺も後から行くから」
「分かりました。ほら、行くぞ、恋」
「……………………………」

このままにして置いたらまずい――――そう判断したのは愛紗も一緒だったのか、俺の言葉に頷くと、恋を引きずるようにその場を後にしたのだった。
後に残ったのは、仏頂面の俺と、平然とした表情の曹操と、事の成り行きについていけず、卒倒しそうになっている桂花であった。



「…どうやら、行ったみたいね」
「華琳………なんであんなことしたんだよ」
「何よ? まるで私が悪い事をしたかのような言い様ね」
「それは――――」

あらためて考えると、華琳は悪意をもって行動したわけじゃない。セキトを可愛がっていたし、荒っぽいとはいえ、彼女なりの方法で諍いを止めようとしたのだろう。
ここで彼女を責めるのは、何だかお門違いのような気がする。とはいえ、恋と華琳の中が険悪になった事だけは、見逃せない事だったけれど。

「…できれば、喧嘩はして欲しくないんだけどな、俺は」
「そんなつもりは無いんだけどね………私と彼女じゃ、相性が悪いんでしょ。それも絶望的に」

どこか達観した様子で、曹操はそんな事をいう。聡明すぎる分、彼女は敵が多かったらしいから、こういう状況は慣れっこなのかもしれない。
そもそも、唯我独尊の気質を持つ華琳と恋である。似たもの同士という事もあり、同じ磁石の極のように、反発する部分も多いんだろう。
片や、完全無欠であり、他人を支配するを良しとするお嬢様。もう片方は天真爛漫なうえ、他人に無関心な女の子――――まるで鏡のように正対称な二人である。

「華琳は、恋と仲良くしたいとは思わないか? 俺としては、二人が仲良くしてくれた方が嬉しいが」
「ええ、貴方にとっては、その方が都合が良いでしょうね。でも、さすがに無謀だとは思うわ。さっきの一幕を見れば、想像がつくと思うけど?」
「――――」

さすがに返す言葉も無く、沈黙をする俺。結局、解決策を何も見出す事も出来ないまま、その場を離れる事しか出来ないのであった。



「恋は?」
「………ご主人様の寝床で眠っています」

部屋に戻ると、愛紗が浮かない顔で俺を出迎えた。彼女の足元にはつぶらな瞳で俺を見上げるセキトがいる。
ベッドの方を見ると、こんもりと盛り上がった布団から、見覚えのある後頭部だけが見えていた。どうやら愛紗の言葉どおり、眠っているようである。

「先ほどまで、何度も部屋を飛び出していこうとしてましたので――――少々手荒ですが、気を失わせました」
「…そっか」

ため息をついて、眠っている恋の頭をなでる。無意識なのか、恋はむずがゆそうに身じろぎをするが、起きる気配は感じられなかった。

「いったい、恋はどうしたのでしょうか? あのような激発…彼女らしくないと思えたのですが」
「………」

曹操と呂布の関係を説明しても、理解はされないだろう。それでも愛紗も、あのときの恋の様子に、いつもと違った面を感じたらしかった。
なんにせよ、今後の激発の芽を、どうやって抑えるかが問題だ。そもそも、華琳も恋も、城内という目と鼻の先にすんでいるのだ。
今後も城の中で鉢合わせをすることもあるだろうし、そのたびに衝突が起こるのではたまったもんじゃない。
そうそう都合よく、俺や愛紗がそばにいるなんて事もないだろうし――――いや、実際に俺がいても、実力行使を止められはしないんだけどな。

「とにかく、今後のことを考えないとな――――多分、華琳の方は大丈夫だと思う。積極的に、ちょっかいをかけるような性格じゃないし」
「ええ、ですが…問題は恋の方です。これまでの経緯を考えると、曹操を前にして平静でいられるかどうか」
「そうだな――――華琳にしたって、先に手を出されたら、徹底的に反撃するのは間違いないだろうし」

華琳の矜持(プライド)からして、一度は見逃した相手が、また拳を振り上げて襲ってきたとなると、容赦をする気も無くなるんじゃないだろうか?
今回の件は、多少なりとも自分にも責任はあると…華琳が判断したため、事なきを得た結果であり、次はおそらく無いだろう。
となると、何とか恋を説得する必要があるんだが――――これまた難しい難題であることは、想像に難くなかった。

「なんにせよ、恋が眠っていてくれて助かったよ。これ以上、大変なことにはなりそうにないからな」

ほっと息を吐いて、俺は愛紗にそんな風に冗談めかした口調で言った。愛紗も苦笑し、何やら言いかけたその時である。
何の前触れも無く、ドアを蹴破らんかの勢いで、室内に誰かが飛び込んできたのは、その時であった。

「北郷一刀はいるかっ!」
「!?」
「――――何用か、夏候惇」

いきなりの闖入者に、驚き硬直した俺とは違い、愛紗は落ち着き払った様子で俺を護る盾となるかのように、俺の前に立った。
室内に乱入してきたのは、春蘭だけではなかった。静かな足取りで、秋蘭も室内に入ってきたのだった。態度こそ違えど…二人の表情は、剣呑なものであった。

「何用もあるかっ! いったい、貴様達は何をしていたのだ! 華琳様の身辺に曲者を近づけるなど――――」
「くせもの? 何の事だ?」
「とぼける気か!? さぁ吐け! 事の次第によっては、貴様とてただでは済まさんぞ!」
「!」

俺の返答がまずかったのか、怒りの表情で俺に詰め寄る春蘭。それを止めようと、愛紗が彼女に腕を伸ばし――――、

「落ち着け、姉者」

その寸前、春蘭の肩を掴んで留めたのは、背後で事の成り行きを見守っていた秋蘭であった。
肩を掴まれた収攬はムッとした表情で、それでも振り払う事をせず、怒りの表情のままで秋蘭に向き直った。

「だが、秋蘭!」
「落ち着けといっているだろう。ここは私に任せてくれ。姉者の剣幕では、関羽が過敏になってしまう」
「――――分かった。私は華琳様のもとに戻る。季衣を残しているとはいえ、安心は出来ないからな」

そう言うと、春蘭は駆け足で部屋を飛び出していってしまった。後には粉々に粉砕された扉が一つ――――後で修理しなきゃいけないな。
嵐のような一幕が過ぎ――――あらためて、秋蘭が俺を見つめてきた。真摯な眼差しに、何やら背筋に冷や汗が流れたような錯覚に陥る。

「一つ、お聞きしたい事があって参った。北郷殿には、嘘偽り無く答えてくれるとありがたいのだが」
「な、何だ? いったい」
「先程、買い物を終えて帰ったときに、桂花から華琳様が曲者に襲われたと聞かされた。その場には、北郷殿も居たということだが…事実か?」
「あ、ああ………そういうことか。桂花も大げさだな。別に曲者とか、そういう事じゃないんだよ。ただ、ちょっとした行き違いがあって、なぁ」

傍らの愛紗に振ると、彼女も同意するかのようにコクリと頷いた。愛紗もいたことは、桂花から聞かされていたのだろう…秋蘭は探るように愛紗をじっと見つめる。
そうして、秒針の針が半周するほどの間、愛紗の見つめた後、秋蘭は俺に向き直った。その表情からは、僅かながら剣呑さが薄れているように見えた。

「詳しく、話を聞かせていただこう――――姉者や季衣を説得するには、いささか事情が分からないのでな」
「分かった、座ってくれ」

ほんの少し安堵をして、俺は秋蘭に椅子を勧めた。少なくとも、秋蘭が敵に回るような事態にならなくて良かった。
春蘭達の抑え役である彼女まで敵に回ったら、華琳と恋…両者間の修繕は絶望的なものになると分かりきっていたからだ。
そうして俺は、事の次第を秋蘭に説明した。なるべく私情を挟まないようにしたのは、この時点で俺が、どちらの味方をするわけにも行かなかったからである。



「………なるほど、話はおおよそ理解した。桂花がこの手の事で嘘を言うことはないが――――華琳様が不問にするというのであれば、私達はそれに従うだろう」
「ああ、そうしてくれると助かる。恋にしても、悪気があったわけじゃないから…」
「それで、その御仁はどこに――――いや、聞くまでも無いか。北郷殿も関羽殿も、存外隠し事の苦手なようだな」

からかうように言うと、秋蘭はベッドに視線を移す。俺も愛紗も、恋を気遣ってか無意識に視線がそちらに行っていたらしい。
と、身を起こす気配がしたので振り向いてみると、寝起きのせいか、見ての通り眠そうな表情で、恋がベッドから身を起こしたのだった。

「………?」

周囲を見渡して、俺や愛紗を視線に捉えた時は、さしたる反応も示さなかった恋だが、秋蘭の姿を見て怪訝そうに眉をひそめた。
ああ…こうして見ると、恋も成長してるんだな――――最初に会った時は、傍らに誰がいたとしても、完全な無反応であった。
でも、今は親しい人と、そうでない人の区別が出来るくらいは、彼女も情緒が芽生え始めている…出来る事なら、このまま伸びていってほしいんだが。

「失礼、私は夏候淵と申す。曹操孟徳の配下にして、かつて魏の武将でした」
「………」
「昨今、諍いから我が主君との争いになったとの事ですが、願わくばその矛を収めていただきたい。その方が、互いの為になるでしょう」
「………………………………(こくん)」

秋蘭の言葉に、かなりの間を空けて、頷いた恋。ちょっと、今の間は――――、

「分かっていただけるとは幸いです。それでは、私は今から姉者たちを説得に行ってまいりましょう。なに、さほどの手間でもありませんので」
「ぁ――――」
「ちょ、ちょっと待――――」

愛紗や俺が止めるよりも早く、秋蘭は足早に部屋を出て行ってしまった。春蘭達を早めに説得しないと、激発しかねないのを理解しているからだろうけど………。
出来れば、部屋に留まってほしかったな――――長い付き合いの俺や愛紗には、恋の行動の意味するところを正確に理解していた。

「――――まいったな」
「…どうしましょう、ご主人様? おそらく恋は…」
「ああ、聞いて無かったよな、秋蘭の話の後半…それか、聞いていて聞き流したか」

途方にくれたような表情で、顔を見合わせる俺と愛紗。恋とのコミュニケーションは、長く付き合っていないと全てを把握する事は困難だ。
だから、今回のような行き違いがあることも危惧していたのだが――――まさか、こんな場面でトラブルになろうとは。

「まぁ、春蘭達を秋蘭が抑えてくれる事になったし、悩んでてもしょうがないだろ。後は、華琳と恋を仲良くするだけさ」
「それは、そうかも知れませんが――――できるのでしょうか?」
「大丈夫だって。愛紗だって、今は恋と仲良しだろ? だったら今回も、俺が華琳と恋を仲良くしてやるさ。もちろん…愛紗にも協力してもらうけどな」
「くすっ――――ええ、そういうことでしたら、喜んで尽力いたしましょう」

冗談めかした俺の物言いに、愛紗は安堵したように微笑んだ。そんなに深刻になる事もないよな――――俺はそう自分に言い聞かせて、恋の様子を見る。
ベッドで上半身を起こした格好の恋は、床をちょろちょろと走り回るセキトを、温かい目で見守っていた。

俺に出来る事は、何だってしよう。出会うまで、色々な事を知らずにいた…恋という少女の為に。
国を無くしても、毅然と生きている、華琳という少女の為に………二人が仲良くなれるように、駆け回るとしよう。

ささやかな願いが実を結ぶまで、幾つかの騒動があるのだが――――それはまた、後日の話である。


戻る