〜グリンスヴァールの森の竜〜 

〜グリンスヴァールの森の竜〜



「リュミスベルンさんが、怒っているそうです」
「――――リュミスが…」
「ええ、それはもう。数日前に、また巣に遊びにいらしたんですけど…ブラッドさんがいない事を知って、特に機嫌が悪そうでした」

ユメの発言に、背筋が凍ったような錯覚に陥った。彼女の怒りが怖くて巣から逃げ出したんだが、離れていても苦手なのは治ったわけではないのである。
正直、リュミスの怒りはトラウマの一つだ。彼女の怒りに触れたせいで、過去何度も半死半生の目にあっているのだから、無理も無いが。
そういうわけで、嵐から逃げ出す小動物のように、巣から抜け出したのだが――――俺が逃げ出したのも、彼女の怒りの原因の一つには間違いないだろう。

「ともかく、今のあの人とブラッドさんを会わせたら、命の危機になる事は間違いないでしょうから…その事を伝えるために、こうして来たんですよ」
「――――」

命の危機、ときたか。確かに、リュミス相手となると、冗談では済まされない話だ。俺は渋い顔で沈黙する。
しかし、まいったな…一度、折を見て巣へ戻ろうかとも思っていたが――――この分だと、ほとぼりが冷めるまでは帰れそうにないようだ。
巣の経営自体は軌道に乗っているし、クーにまかせっきりでも問題はこれっぽっちも無いんだが………、



放っておくと、俺の居場所が無くなりそうな気がしてならない昨今でもある。



「そんなに落ち込まないでください。その代わりに…こうやって交代でブラッドさんの所に遊びにこようって、計画を立てているんですから」
「いや、落ち込んでいるわけではないんだが………ちょっと待て、交代で、と言ったか?」
「はい。私と、フェイさんと…ルクルさんと――――他にも、メイドの女の娘の何人かも、ブラッドさんに会いに行きたいっていってましたよ」

にこやかに、そんな事をのたまうユメ。どうやら幸いな事に、巣の住人の、俺に対する人望は変わっていないようである。
クーやユメがこうやって気軽に来れるところを見ると、それほどこの学園に来るのは困難のことではないようだ。
………だからといって、団体で来られると、学園内での俺の立場が無いんだが。ルクルあたりは、使用人を何十人もつれて来そうだしな。

「そういうわけですから、これからも時々遊びに来させていただきますね」
「ああ。別に否はない。ただ、くれぐれも道中は気をつけるんだぞ」

フェイやクーなら問題は無いが………この国の現状の治安は、決して良いと言う訳ではない。どこか抜けたところのあるユメや、ルクルは充分に注意すべきだろう。
そんな事を考えながら、ふと視線を動かすと、所在なげに視線をさまよわせているラキの姿が目に入った。
…しまったな。せっかくの休みの時間だと言うのに、ラキと満足に話をしていない。ついつい、ユメと話し込んでしまった俺が悪いのだが。

「――――休み時間は、まだあるな。すまないな、ユメ。少し場を外すぞ………ラキ、少し良いか?」
「ぇ………は、はいっ!」

声を掛けられるとは思っていなかったのか、驚いた表情で、コクコクと頷くラキ。そんな彼女に、桃色の髪の少女が励ますように声をかけた。

「ラキちゃん、がんばってね!」
「う、うん、ありがとう…シャルちゃん」

そうして、おずおずと俺に付き従うラキを連れて、俺はその場を離れたのだった。さて、ラキを連れ出したのは良いが、これからどうすべきか。
多少は時間が残っているとはいえ、遠出をするわけにもいかない状況だし、散歩がてらに近くのバザーでも回るとしようか。

昼時と言う事もあって、バザーはそれなりに盛況を極めていた。体育祭と言う事もあり…学生に混じって訪問客が買い物をしている姿もちらほらと見受けられる。
しかし、こうも人通りが多いとなると、離れてしまっては厄介だな。一度はぐれたら、見つけ出すのも苦労しそうだ。

「なんだか、凄い人だかりですね」
「ああ、そうだな――――ふむ………ラキ、少しいいか」
「はい…? ぇっ――――?」

俺が手を握ると、ラキは驚いた表情で目を見開いて硬直してしまった。離れないようにと考えてやった事だが、よほどに驚天動地の事だったのだろうか。
驚いているのは兎も角、振りほどこうとするわけでもないので、このままで構わないだろう。俺はラキの手を握ったまま、彼女の歩調に合わせて街路を進む。
ラキは気恥ずかしいのか、真っ赤になって俯いてはいるものの、握った手の平にはわずかに力が込められており、少なくとも嫌がっているわけではなさそうであった。

手を繋ぎながら、あてもなく歩を進める。学園内に建つ市場はそこそこの人で賑わっており、威勢の良い呼び込みの声も聞こえてくる。
特徴的なのは、市場で商売をする者の過半数は生徒であり、黒字に金の縁取りの制服を着ているくらいか。

「市場が開放的なのは、どこでも変わらないな。いささか、こじんまりとしたところがあるが」
「そ、そうなんですか…?」
「ああ、前に足を運んだ市は、一つの都市が丸ごと入るほどの大きさでな、図らずも迷子になりそうになった事がある」

あの時は、クーがいち早く俺を発見してくれたから良いものの、自分の巣の中にある街で、迷子になったと知れたら他の竜からの物笑いになる事は必死であった。
さて、言葉を交わして幾分緊張が緩和されたのか、ラキは俺に寄り添いながら、ポツリと問いらしいものを投げかけてきた。

「前に………というのは、この学園に来る前のことなんですよね」
「ああ、そうだが」
「その、差しさわりが無ければ教えていただけませんか? ブラッド先生の前に住んでいた街や、故郷のことを…」

ラキの言葉に、どうしたものかと俺は考え込んだ。別段、隠すほどの事でもないのだが………なぜ、ラキが知りたがっているのかは疑問であった。
とはいえ、聞かれたからには答えるべきだろう。俺は宙に視線をさまよわせながら、巣の事を思い出すように言葉の端に乗せる。

「そうだな…私の住んでいたところは、山の中をくりぬいて作られた場所だ。竜の住処、というものを知っているか?」
「竜の住処………ですか? いえ、詳しくは…」
「そうだろうな。この近くに竜の住処らしいものはないし、もしあったとしたら、この学園もただではすまないだろうからな」
「?」

半ば独り言ちた俺の呟きに、よく分かっていないという風に、ラキは小首を傾げる。いかんな…話が少々脱線してしまったようだ。
気を取り直し、俺は説明を続ける。俺たちの周囲では、人々が行きかい、市場の喧騒が内緒話を掻き消してくれている。

「竜というのは、巣を作り、その中に財宝を溜め込む習性がある。その財宝を狙って人が集まり、集まった人は町を形成する――――私が住んでいたのは、そういう所だ」
「洞窟の中に………町があるんですか?」
「ああ、それもかなりの規模のものがな。この学園の敷地くらいなら、周囲の森を含めてすっぽりと入るくらいの広さはあったか」
「――――」

感心したのか呆れたのか、ほうっ、と声にならない息を吐くラキ。その様子に何となく微笑ましいものを感じ、俺は説明を続ける。

「私はそこを、さらに大きくする仕事についていた。望んだ仕事ではないが、私にも幾ばくかの責任があったからな」
「じゃあ、先生って…ここに就職する前は、凄く大変な仕事に就かれていたんですか?」
「いや、それほどでもない。雑用はクーがしてくれるし、ユメや他にも――――手伝ってくれるものは大勢いたからな」
「それでも、凄いですよ。私って、そんな凄い先生のもとで、授業を受けていたんですね」

どこか子供のように、はしゃいだ表情でラキが俺を見上げる。興奮のあまりか、頬が上気しているように見えた。
俺が視線を返すと、どこか照れくさそうにラキは視線をそらす。と、何かに気づいたのか、ラキは怪訝そうな表情で、おずおずと俺を見あげてきた。

「あの………それじゃあどうして、先生はこの学校に来たんですか? 話を聞いてると、その仕事も、嫌じゃなかったように聞こえるんですけど」
「…………」

ラキの質問に、俺は沈黙する。確かに、やりがいはあった。日々何もせず過ごすよりも、目標があったほうが生きる事に張り合いが持てる。
そういった意味では、巣の拡張や、侵入者の排除、お宝の物色なども苦労とは思わなかった。ただ――――その先の、結婚という墓穴に納得がいかないだけだったが。

何しろ、結婚なのだ。しかもあのリュミスと……………………………想像がつかん。

「あの………ご、ごめんなさい。嫌な事、聞いちゃいましたか?」
「いや、ラキは悪くない――――悪いのは、多分私だろう。責任を放り出して、婚約者から逃げ出してきたのだからな」
「………っ」

俺の言葉に、ラキは息を呑む。無意識か、俺の手をいっそう強く握りながら、目を見開いて俺を見上げてきた。
俺は、ラキと目を合わせることもなく、賑わいをみせる市場を見ながら、内心では婚約者であるリュミスとの事を思い出していた。
リュミスベルン、俺の婚約者――――だからといって、それが好意に転化することも無く、むしろ望まぬ結婚を押し付けられたせいからか、俺に対して容赦のない竜だった。
鋭き眼光と圧倒的な力を持った、最高の竜――――確かに、俺の中にも畏怖めいた憧れこそあるが、それ以上に命の危険に恐々することが多々である。

「………さて、そろそろ戻るとするか。刻限も迫っているし、約束を違えればヴィヴィが煩いだろうからな」

話を打ち切るように、俺はそういって来た道を引き返そうとした。正直な話、これ以上リュミスの事を思い出すのは心苦しかったし、時間が圧しているのも事実だったからだ。
しかし、歩みを始めようとした俺の足が止まる。俺に寄り添っていたラキは、俺が踵を返すのも無反応なまま、その場で立ち尽くしていた。

「ラキ………? 私は、そろそろ準備に戻らなければいけないんだが――――どうしたんだ?」
「ブラッド先生…その、私は………っ」

何かを乞うように、ラキの唇が開く。だが、その言葉が喉より滑り出るより早く、唐突に、学園内にサイレンの音が鳴り響いた――――。

『学園内にお越しの皆さん…現在、グリンスヴァールに向けて他国の軍が接近しています。来援中のお客様は、最寄の建物への避難をお願いします』

波乱含みの体育祭――――どうやら午後になっても、トラブルには事欠かないようであった。


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