〜グリンスヴァールの森の竜〜
〜グリンスヴァールの森の竜〜
さて、晴れて教師としての生活を始めた俺であったが、急に忙しくなるといったことはなかった。
何でも、カリキュラムという制度のせいで、生徒――――教わる者たちが習う勉強内容は既に決定済みらしい。
一応、途中で変更できることもあり、これから先、竜についての知識を求めるものが現れないとも限らないのだが…今のところ、そういったものは現れなった。
まぁ、だからといって………のんびりと読書と昼寝をしているわけにもいかないと気づかされたのは、しばらくしてのことだったが。
与えられた寮の部屋で、毎日ゴロゴロしているのも暇だったので、ふとした思い付きに、ヴィヴィの授業を見学しようと思ったのだ。
何故、ヴィヴィの授業かというと――――見知った相手であり、多少の融通は利くのではないかと思ったのだが………、
「はい、それでは、教科書の26ページを開いてください」
見学は、許可された。生徒に混じって授業を受けるのは別に構わないらしく、教師でありながら、生徒と同じように勉学に励むものも多く居るらしい。
ただ――――ヴィヴィの受け持つ授業の生徒達が、若い少女ばかりというのは、少々予想外だった………おかげで、あちこちから好奇の視線が集まっているのが分かる。
なんでも、彼女はいくつもの授業を持ち回りで受け持っており…たまたま女性ばかりの授業を見学する羽目になったようだ。運が悪いことこの上ない。
「あ、あの………どうぞ」
「ああ、ありがとう」
ラキと名乗る隣の少女が親切にも、教科書を見せてくれる事になった。肩を寄せ合うようにすわり、教科書というものを覗き込んだが、二重の意味で憮然となった。
どうやら、教科書はヴィヴィが編修したものらしい。他人に物を教えるために、図解入りで、事細かに内容が書き込んである。
複製なりの魔術を使ったにせよ、教科書自体は教師自身が用意するものらしい。口伝では、教えきれるものではないから、当然といえるのだろうが………、
しかし、そうすると、俺自身が授業をするのにも教科書の用意が必要だろう。しかし、そういった類のものは、市場では売っているものではない。
かといって、俺が教科書を作れるかといえば、否である。何せ竜族でも大して優秀ではなかった俺だ。人に教えるような本を作れるはずもなかった。
(マイトを頼る事にするか………クーに言伝の手紙を出しておくことにしよう)
問題ごとは、親友に押し付ける事にして………俺はあらためて、教科書を眺めた。図入りの写本には、果物の絵と調理法が載っている。
どうやら、料理の食材とその調理法を習うのが、この授業らしい。花嫁修業に料理は必須だろうし、女性ばかりというのも頷けたが――――、
(見学なぞ、するんじゃなかったな………)
前列の席で周囲に視線を向けても、あるのは女性の顔ばかり――――正直、肩身の狭いことこの上なかった。授業を受ける前に、男性もいるか、確認を取るべきだっただろう。
思わず溜息が出そうになったが………真横の少女が俺のことをじっと見上げているのに気づき、その溜息をすんでのところで飲み込んだ。
ともかく今は………この時間が早く終わることを願おう――――周囲からの視線をなるたけ無視すると、俺は壇上で教鞭を振るうヴィヴィに、集中する事にしたのだった。
「はい、それでは今日はこれまでにします。次回は三日後になりますから、それまでに予習をしておいてください」
定刻になり、ヴィヴィは授業を切り上げると教室から退出していった。とたん、教室がホッとしたような、開放的な空気に包まれる。
ヴィヴィの授業は分かりやすく、決して退屈ではないのだが――――彼女自身が生真面目なせいか、妙な緊張感があった。
何でも、授業中に悪ふざけをすると、その時点で授業を切り上げて、教室を出て行ってしまうということもあったらしい。
なんというか、とんでもない徹底っぷりだが…教師長という立場もあり、誰も文句と言うことはないのだそうだ。
開放感に包まれた教室を、いち早く出て背伸びをする。初めて授業というものを受けたが、酷く肩が凝るものだな。
こんなことを毎日やっていたら、確実に寿命が縮むと思うんだが――――ひょっとして、人間が短命なのは、その辺りに原因があるのかもしれない。
「あ、あのっ………先生」
そんな事を考えていると、背後から声がした。振り向くとそこには、どこか気弱そうな少女が、俺のことを見上げている。
その小動物のような瞳に、覚えがある。先ほど、教科書を見せてもらっていた少女………名は、ラキといったか。
「ん? ――――ひょっとして、私の事を言っているのか?」
周囲を見渡すが、廊下には人影はない。どうやら少女は、俺に用があるらしい。いったい何のようだろうか?
さして興味はなかったが、このままここで会話をするというわけには行かない。なにせ、俺と少女がいるのは、教室の出入り口だからだ。
そんな場所で立ち話をしていれば、自然…他者の邪魔になるし、人目に触れる。事実、教室内の生徒達が、こちらに注目しているのが見て取れた。
「その、少し、お聞きしたいことがあって――――」
「質問は別に構わないが………少し、場所を変えるとしようか? どこか落ち着けるところ――――食堂にでも行くとしよう」
「え………? ――――あ、は、はいっ」
俺の視線が、自身ではなくその背後に向けられている事に気がついたのか、ラキは怪訝そうに背後を振り向き、硬直した。
自分が晒し者になっている事に、気がついたのだろう。慌ててこっちを向いて返事をするその顔は…首筋まで赤く染まっていた。
俺は少女を連れて、食堂へと場所を移した。昼時を過ぎた時分――――何名かの女生徒が談笑している他は、食堂内に人影はまばらだった。
手近な空いている席を見つけ、俺とラキは向かい合わせになるように座った。少女は、緊張した面持ちでこちらを見ている。
何をそんなに恐縮しているのかといった風な…そんな、おどおどとした様子は――――まるで小動物のようであった。
「さて、それで私に聞きたいこととは、どういったことなのかな?」
「あ、はぃっ。あの、ええと………先生は、どんな内容の個別授業を受け持っているんですか?」
「………私の担当か。一応、竜に関する伝承などの研究・解明などだ。最も、この学園に来たばかりで、準備も出来てはいないのだがな」
ラキに返事をしつつ、俺は苦笑する。大仰に言ってはみたものの、未だ授業を始める段取りすらつかめていないのが実情だ。
それほど焦る必要も無いことだし、とりあえず来年の初めの開始を見越して、用意を進めているのが、現状といえる。
俺の言葉に、ラキはというと………納得したように、つぶらな瞳を何回か瞬かせて俺を見返してきた。
「そうなんですか。ひょっとして、私達と一緒に授業を受けていたのも、授業の進め方を学ぶためだったんですか?」
「ああ、なにぶん、山奥から出てきたものでね。知らない知識もまだまだある。だから、ヴィヴィに無理を言って頼んだんだが」
「――――大変、なんですね」
「やりがいがある…とも言えるだろう。教師など、今までしたことはなかったからな。…それに酷似したプレイはあったが」
俺の言葉に、ラキはキョトンとした表情で、小首を傾げている。まぁ、捕虜相手に色々やったことを言うわけにも行かないので、その話は打ち切る事になったのだが。
「ひょっとして、私の授業に興味があったのか? だとしたら残念だが、来年まで待ってもらう事になるな」
「………そうですか」
俺の言葉に、残念そうに俯くラキ。適当なフォローの言葉も思いつかず、俺も口を閉ざす。
しばらくして、口を開いたのはラキのほうだった。不意に顔を上げた彼女は…気弱ながら、どこか意を決した表情で、俺を見つめてくる。
「あの………差し出がましいようですけど、私に先生の手伝いをさせてもらえませんか?」
「………何?」
「その、力仕事は無理ですけど…研究に必要な資料集めとか、買い物とかの雑用なら手伝えると思うんです、けど…」
どこか自信なさげに、語尾を小さくするラキ。正直、目の前の少女の申し出は意外であった。
俺としては、クーほどに有能ではなくても、普通に扱える助手が欲しいとは思っていた。だが、この展開は少々…きなくさいものを感じなくもない。
「そうしてくれれば、確かに助かるが………一つ、聞かせてくれ。私とキミは、教室で出会ったのが初対面だろう? だというのに、何故、協力を申し出るようなことを言うんだ?」
「それは………興味が、あったんです」
俺の問いに、恥ずかしそうに俯いて、呟くラキ。その様子を見て…俺は先ほどの懸念が、取り越し苦労だと直感した。
そもそも、こんな普通の少女が、何かを企むこともないだろう。そう楽観して、俺は彼女の申し出を、受けることにしたのだった。
「そうか、なら頼む。ラキと言ったな。私のことはブラッドと呼んでくれていい」
「はい、これからよろしくお願いします………ブラッド先生」
照れたように、はにかみながら、ラキはそういって頭を下げた。俺の教え子一号は、こうして決定されたのだった。
戻る