〜グリンスヴァールの森の竜〜 

〜グリンスヴァールの森の竜〜



ブラッドが春先の休暇を満喫している頃――――…巣では、今年初めにグリンスヴァール学園に入学する者たちの、引越しの準備が始まっていた。
クーとユメも、それぞれ各々の荷物を整理し、新しい生活の準備を行っていた。人望の厚い彼女達の引越しということもあり、率先して手伝うメイドが後を絶たなかった。

「ユメ様、この荷物は、こっちの箱に入れればいいですか?」
「ええ、ありがとう。あ、調味料とかは、向こうで買えるみたいだから、こっちに置いていく事にしますね」
「そうですか。それにしても、ユメ様が居なくなっちゃうと、これからのご飯が心配だなぁ」

ユメの部屋で、荷物の整理を手伝いながら、メイドの一人がそんな事を言うと、同じように引越し作業を手伝っていたメイドたちからも、同意の声があがった。

「せっかくこっちの仕事場に来て、おいしいご飯が食べれていたのに、また貧しい食生活になるのは嫌だなぁ」
「そうよね。皆で色々と工夫してたけど、結局、ユメ様と同じくらい美味しい料理なんて、作れなかったし」

昨年から、ユメが巣を離れた時を見越して、何名かのメイドに料理を学ばせてはいた。とはいえ、料理の腕前というよりも、センスの部分でユメに追いつけた者は居なかった。
そんなわけで、今後の食生活に一抹の不安を残した状態であったが………さすがに、昨年のようにストライキを起こしてまでユメを引きとめようという者は出なかった。

「まぁまぁ、きっと大丈夫ですよ。みんなちゃんと努力しているんですから」
「………でもなぁ。ユメ様、やっぱりもう少し、巣に残ったりできませんか?」
「駄目ですよ。私だってブラッドさんに会いたいんですから。あまりわがまま言うと………斬りますよ?」
「ひぃっ! ご、ごめんなさいっ!」

笑顔でそんな事を言うクーに、周囲のメイドたちは怯えたようにガタガタと震えた。人一倍温厚なユメが、怒ると一番怖いことは、巣に住むものなら誰でも知っている。
結局、ユメの逆鱗に触れてまで彼女を引きとめようとする勇敢な――――というか、無謀な者は、この巣の中には一人としていなかったのである。

「…ところで、こっちの手伝いをしてくれるのは嬉しいけど、クーさんの手伝いをしなくてもいいんですか?」

部屋にたむろっているメイドたちを見渡しながら、ユメはふと気がついたように、そんな事を彼女達に聞いた。
荷物整理の手伝いをしてくれるのは嬉しいのだが、彼女達の上官であるクーをないがしろにしてしまっているのであれば、クーとしても気まずいのである。

「あ、連隊長の方なら大丈夫ですよ。もう準備は終わってて、今はなんだか書類とにらめっこしてますから」
「そうですか? そうならいいんですけど」

メイドの言葉に、ユメはホッとしたように息を吐くと、引越しの作業を再開し始めた。
出発を、数日後に控えたある日――――…ブラッドとの新しい生活を内心で喜びながら…その為の準備に、てんてこ舞いのユメであった。



「…破壊行動に対する防止要因の自動発生と、当事者への心理的圧迫――――個人レベルになるほど、その力は強まる………つまりはそういう事ね」

分厚くファイリングされた書類を一枚一枚めくりながら、クーは一人、考えに浸るように独り言を呟いた。ここはクーの自室…いま、彼女は一人で調べ物をしている。
調べているのは、グリンスヴァール学園に関する事――――フェイをはじめ、学園に送り込んだ複数の者達による報告を、纏め上げている最中であった。

「効果は学園と周囲の森…そこから外の世界においては、影響が無くなるという事は、結界の類なのは間違いない、か」

難しい顔で考えているのは、学園で生活する時、その影響を受けてなにかしら不都合が生じないかという懸念があったからである。
クーはブラッドに仕える者であり、その気持ちは揺ぎ無いものであった。だが、何度か所用で学園に行った時、奇妙な違和感を感じた。
巣にいる時は絶対の支配者であったブラッドが、どことなく覇気を失い、温厚な性格になっており、メイド達への影響力も薄まっているように思えたのである。

「行動には結果が生じる………だとすれば、恩恵を受けている者が必ずいるはず――――そうなると、やっぱり怪しいのは学園長、か」

学園に滞在する者達には、定期的に報告書を送るようにしている。それには、学園に対する不満なども書き連ねるように指示してあるのだが、そこに奇妙な点があった。
どれだけ満たされていようと、不満のいうものは出るようで、毎回、様々な不平不満が報告書には書かれていた。
しかし、不平や不満の報告文が、途中から必ずといって良いほど、学園を擁護するような文体になり…最終的には、今の学園生活に満足していますと締めくくられるのである。

「報告書によると、学園長は温和で人当たりの良い人物らしいけど、実際はどうなんでしょうね………何にせよ、交渉をするなら他に取っ掛かりはなさそうだし」

交渉というのは、学園内での束縛からの解放である。別段、生活する分には不自由しなさそうだが、さすがに誰かにコントロールされているというのは良い気はしない。
それに何より、このような状況ではブラッドに可愛がられないのでは………その点がクーには気がかりで、こうして奔走しているのである。

「他国の軍隊を防げないところを見ると…どうやら、規模の大きい災害は防げないみたいだから、そのあたりを取っ掛かりに交渉するとしますか」

クーは、うーん…と考え込むと、ややあって、良い案を思いついたのか、笑みを浮かべる。まるで、いたずらを考えた子供のような微笑だった。

「地震、雷、火事、ドラゴン――――せっかくですし、リュミス様にもお手伝いしてもらうことにしますか」

学園へ行く前の日々――――クーはクーで、何やら企んでいるようであった。



「腕立て100回、腹筋100回………いや、さすがに無茶か? しかし、身体を鍛えるというのなら、最低限このくらいはするべきだろうし」

ぶつぶつと呟きながら、用紙にペンを走らせるフェイ。オリエがフェイに頼んで体育の指導をしてもらうという噂は、ここ最近で風のように学園に広がった。
もともと、女生徒には特に人気の高いフェイであり、オリエと同様にフェイに体育の指導をしてほしいという生徒が急増し、フェイは頭を悩ませている。

「必要以上に筋肉をつける必要がないとはいっても…素手で男とやりあう技術、か………確か、大陸の遠方に合気道という武術があったよな」

一人呟きながら、フェイは考え込む。人にものを教えるのはそれなりに楽しいし、やりがいがあると思うのだが、それでも、時々思うことがある。
何で自分は、こんな事をしているんだろうか――――と。考えても、詮無きことではあるが。

「あぁ………もうっ! なんで私が教師なんだー!」

今の自分の立場を全面否定するフェイの叫びだが、それに応えることのできるものは、誰もいなかったのであった。



「まったく、腹の立つ………」

他国の使者を丁重にもてなし、事後処理を部下であるベルに任せると、ルクルは自室に戻って開口一番、忌々しげに言葉を吐き出した。
普段から、感情はそれなりに表に出す彼女であるが、この怒りようはただ事ではなかった。ルクルの部屋で待機をしていた護衛の少女が驚いた様子を見せる。

「あの…どうかなされたんですか?」

年の端は10代前半か。どちらかといえば気弱そうな少女の眼差しに、ルクルも少しは自制心が働いたのだろう。用意されてあった茶を一息にあおり、一息つく。
もっとも、それで溜飲が下がったというわけでもなく、相変わらず不機嫌そうな表情をしていたのであるが。

「なに、同盟ついでに婚姻を結ばぬかと持ちかけられただけだ。まったく、こっちにはその気がないというのに、しつこい話だ」
「はぁ、婚姻ですか」
「ああ、政略結婚というやつだ。もっとも、今となっては婚姻を結ぶメリットもないのだがな」

しばし前………ライトナとハッサンの両国に挟まれ、滅亡の憂き目に会っていた頃なら、ルクルとて政略結婚には反意を唱えなかっただろう。
しかし、今やエルブワード王国の………というより、王国内に存在する竜の巣の力は、周辺諸国を圧倒するに到る。
何しろ、巨大な巣には巨万の富と人員があり、加えて、巣の出入り口は大陸中のそこかしこにあるのだ。
ほんの少し前………エルブワード国境上にあるライトナ王国の砦が、『背後から』の攻撃で陥落した。竜の巣が張り巡らしたトンネルを利用しての電撃作戦である。
さすがに、触らぬ竜にたたり無しと見てか、周辺の国はエルブワードへの軍事的な侵攻は中止し、外交戦略に路線を変更したのであった。

「私は結婚する気は無いといっても、向こうは向こうで必死でな………まぁ、今の状況を考えれば無理からぬことだが」
「それは…大変なんですね」
「ああ。まったく…ブラッドさえ表に出て来れれば苦労はないものの」
「そういえば、ロベルト様がおっしゃってましたよ。『ルクル様が結婚なされないのは想い人がいるからであり、身分の違いから思いを遂げられぬに違いない!』って」

少女の言葉に、ルクルは顔を引きつらせる。ルクルの配下である騎士達は気心の知れた中であるが…その分、心情を見透かされることも多く、ルクルの悩みの種でもあった。

「中途半端に確信を突いた言葉だな。まったく、手強いのは相変わらずか」

自分に仕えている騎士の中で、古参の騎士でもあるロベルト・カーロンはルクルの苦手とする数少ない相手でもあった。
何しろ、小さい頃から傍仕えしていることもあり、こちらの心情を時折、見透かされているような気がするのである。信頼に値する相手である、とも言えるのだが。

「………まぁ、今後の困難は、今後にとっておくとしよう。今は何より、茶のお代わりがほしいな」
「はい、少々お待ちくださいね」

ルクルの言葉に、護衛の少女は小さな背丈で器用に御茶を淹れる。王族の仕事に奔走する合い間――――ルクルはそれなりに、くつろいだ時間を過ごしていた。



竜の巣の最深部にある竜の間――――…現在は主が出払っているこの場所に、憂鬱そうな表情で居座っている女性がいる。
世話役であるメイド達に紅茶を淹れさせ、そのカップを両手に持ちながら、リュミスは物憂げに溜め息を漏らした。

「はぁ………ブラッドはまだ帰らないのかしら」

普段、ブラッドが愛用しているという紅茶のカップを包むように両手で持ち、リュミスはここに居ない婚約者に思いを馳せる。
その様子は、普段の勝気な彼女とは逆に、恋する少女のような、はかなげな様子を見せていた。

「もし、帰ってきてくれるのなら、このカップみたいに優しく扱ってあげるのに…」

そう言うと、リュミスはじっと、手元のカップに目線を落す。そのカップに込めた両手に力がこもり――――…。


ばきゃという音とともに、手に持ったカップは粉々に粉砕された。なんというか、カップをブラッドと見立てたとすれば、悲惨な話である。

「………」

カップの脆さに憮然となったのか、カップを無意識に握りつぶした自分に憮然となったのか、リュミスは眉をひそめて手元に視線をおとした。
世話係のメイド達は、どういうリアクションをとっていいのか分からず、皆、リュミスとは目を合わせないように一様に目をそらしている。
リュミスも、メイド達の事は空気としか見ていないのか、彼女達に声をかけることもなく、気まずい空気が流れている。と――――

「あらあら………随分とご機嫌斜めみたいね」

誰かが気安い様子で、不機嫌そうなリュミスに声を掛けた。不機嫌な時のリュミスに声を掛けるなど、命知らずな真似であったが、声の主は頓着していないらしい。

「誰よ………って、ぇ――――まさか…ライアネなの!?」
「はぁい。おひさしぶりね、リュミスさん」

驚きに目を見開くリュミス。そんな彼女を興味深そうに見ながら、ライアネはソファに座るリュミスのもとに、ゆっくりとした歩調で歩み寄った。
リュミスの顔がこわばる。怖いもの知らずと思われているリュミスにとって、ライアネは数少ない苦手な相手の一人である。
なにしろ、ブラッドの元の婚約者であり、リュミスにとって、内心で敗北を一度は認めた相手である。
彼女が行方不明になったことで、ブラッドと婚約することになったリュミスにしてみれば、引け目を感じる相手に違いなかった。

「どうして、ここに…?」
「遊びに来たのよ。あ、そんな顔をしなくても大丈夫よ、ブラッドに招かれたお客としてだから。少し残念だったけど…婚約が解消されたのは知っているわ」

不機嫌な感情を顔に出すリュミスに、ライアネはクスクスと笑みを浮かべる。どうにも、リュミスの反応を楽しんでいるふしがあるようだった。
リュミスはキッと目つきを鋭くし、ライアネを睨みつける。気後れしてなるものかと、負けん気が頭をもたげてきたようだった。

「婚約者以外の女性竜が、巣に滞在するのはどうかと思うんだけど?」
「まぁまぁ、固いことは言いっこなしで…ね。リュミスさんとは、知らない仲じゃないんだし。で、いったいどうしたの? ブラッドなら一月ほど前に巣を出て行ったけど」
「分かってるわよ、そのくらい………行き違いになったのは今回だけじゃないんだし」

ちなみに、竜にとっては一月というのは、大した時間ではない。場合によっては数万の年月を生きる竜にとって、わざわざ数えるほどの長さの時ではなかった。
ただ、そのわずかな差でブラッドに会えなかったのは、リュミスにとっては愉快なことではなかった。そんなリュミスの機嫌を察したのか、ライアネは別の話題を振る。

「あ、そうそう。ブラッドと話をしたんだけど、彼、竜の力を上手に使えるようになってきたみたいよ。学園で、教え子を助けることができたって喜んでいたわ」
「へぇ………そうなんだ」
「――――嬉しそうね。やっぱり、婚約者が立派になると、嬉しいものかしら? それとも、ブラッドだからかな?」
「な………なに言ってるのよ!」

ライアネの言葉に、リュミスは声を荒げる。とはいえ、口ごもった挙句、声が上ずっているのだから、ライアネの言葉が図星だったのはバレバレだったのだが。

「照れない照れない。ブラッドが頑張ってるのはリュミスさんの為なんだし、素直に喜んであげればいいと思うわよ」
「――――でも、そうやって頑張ってるのも、私が怖いからなんだろうし…ブラッドは、私のことを避けてるみたいだから、喜んでいいのか分からないし」

そういうと、リュミスは心細そうにうつむく。その姿は同性のライアネから見ても可愛らしいもので…もしここに竜族の男が居たら、唖然となったことだろう。
竜族のみならず、天界に魔界にと、数々の異名を轟かせた立ち姿はなく、ただ、好きな相手のことを考え、不安になっている少女の姿が、そこにあったからである。

「…そういった、しおらしい所を見せれば、ブラッドも認識を改めると思うんだけどね」
「いやよ! だって…恥ずかしいじゃない」

リュミスの言葉に、ライアネは呆れたように肩をすくめる。恋につける薬はないことを、何となく理解したからであった。
ちなみに、こういったやり取りは、リュミスとその弟竜であるマイトの間で何度も交わされたものであったが…その事をライアネが知るはずもなかった。

「…随分と消極的なのね。巣で旦那様の帰りを待つなんて、かいがいしいとも思えるけど」
「だ、旦那って………ブラッドと私は、まだ、そういう関係じゃ――――」
「はいはい、惚気はいいから――――で、どうして巣に留まっているの? ブラッドの居場所は知っているんでしょ? 会いに行けばいいのに」
「………色々あるのよ」

ライアネの質問に、リュミスは言葉を濁す。本当は、今すぐにでもブラッドの元に飛んでいきたい。それは、リュミスの本心である。
だが、会いにいってどうするのか………正直、彼女自身はブラッドが自分のことを好いてくれているとは、あまり思っていなかった。
これ以上、無理に追い掛け回して本当に嫌われたらどうしよう………そんな考えが、リュミスの行動を抑制していたのだった。

………ちなみに、クーに命じていた学園の調査には、リュミスはさして関心を示してはいなかった。
多少は変なところがある場所とはいっても、自分の力が及ばないとは思えなかったし、ブラッドが滞在していなければ、無視しても構わないと考えていたくらいである。

「いろいろ、ね………まぁ、そういうことにしておきましょうか」
「………なんか、あしらわれている気がする。私より年下のくせに」
「達観しているのよ。あちこちを旅していると、男と女の経験をすることも多いからね。リュミスさんの場合は、そういった経験はなさそうだけど」
「経験、って………そ、そんなの知るはずないじゃない!」

ライアネの言葉に何を感じ取ったのか、リュミスは真っ赤になって、そっぽを向いてしまった。その様子を微笑ましそうにライアネは見つめている。
ちなみに、ライアネ自身の男性経験はというと…実のところ、相手はブラッドただ一人なのだから、それほど深いものでもなかったのだが。
もっとも、恋愛初心者であるリュミスにとっては、優位に立てるのは当然といえたのである。

(初心よね………見ていて羨ましいくらいだわ)

真っ赤になったリュミスを見て、今度はどうやってからかおうか――――などと、大胆なことを考えていたライアネだったが、その考えは中断することになる。

「あのー、すみません、ちょっとよろしいでしょうか?」

不意に、竜の間に姿を現した魔族の少女が、リュミスに向かって声を掛けたのである。確か………巣の管理を任されているクーという少女だったか。
リュミスはクーに向き直り、尊大そうな口調で聞く。もっとも、普段の彼女にとっては、これが普通の口調なのだが。

「…何? 急ぎの用かしら?」
「ええ、まぁ。学園の調査結果と、あと、その件で少しお話したいことがあるんですけど………」

リュミスの質問にクーは答えつつ、ライアネの方をちらりと見る。どうやら、内密での話らしかった。空気を呼んだライアネは、小首をかしげてリュミスに聞いてみる。

「…席をはずしましょうか?」
「――――いいわよ、別に。どうせあとで根掘り葉掘り聞かれそうだし、説明の手間を省きたいから、一緒に聞いていきなさい。それで、話というのは何かしら」

リュミスの言葉に促され、クーは、「それでは…」と前置きをしてから、話を始める。しばしの後、リュミスの顔に戸惑いが浮かんだ。
ライアネは、そんなリュミスを面白そうに見つめ、クーは穏やかな笑顔をリュミスに向けている。そうして、波乱含みの学園生活に、また一石が投じられようとしていた。
もっとも、この一石は、関係者全員を津波で飲み込むような、巨大な隕石のようなものであったのだが………それを知る者は、そう多くはなかったのである。



Episode End

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