〜グリンスヴァールの森の竜〜 

〜グリンスヴァールの森の竜〜



『誤解から、心のすれ違いをする二人――――…一途な青年、トールのことを愛しているステラ。しかし、彼女はとんでもない意地っ張りなのでした。
 互いに仲良くできることが分かっているのに、どうしても彼に対して素直になれません。それどころか、彼を突っぱねるような態度をとってしまうのでした。
 今日も憂鬱な表情でアンニュイな気分に浸るステラに、幸せはやってくるのでしょうか――――』(深き森の物語・冒頭より抜粋)

「ふむ………なるほど、あんにゅいー…か」

呟いて、俺は手に持った本を閉じる。ここ最近、どうにも気分が落ち込んでいる原因を調べようと、普段は通うことのない図書館などに足を向けてみたのであった。
それにしても、たいした量の蔵書だな。ここにある本を読みきるだけでも、十年かそこらは掛かりそうである。本好きには堪らない環境だろう。

「あれ? ブラッド先生だー」
「ん?」

俺のことを呼ぶ声が聞こえ、周囲を見渡すと、本を抱えてこちらを見る獣の耳の少女――――確か、ニキという名の少女だったか。
うろ覚えであるが、確かユメの縁者であったはずだ。おそらくあちらも、ユメの関係者ということで、俺の顔を覚えていたんだろう。

「ブラッド先生も、お勉強ですか?」
「ああ、少し調べたいことがあってな………そちらも、かなりの量の本を持っているみたいだが」

そういうと、俺はニキに近づいて彼女の持っている本を覗き込んだ。抱えている本の内容を見てみるが、統一性はなく、バラバラのようであった。
『コドール大陸年表』『西園寺家刀剣術』『野外でできる、簡単料理百選』『洋菓子の作り方』『衣服の裁縫』………ここまで統一性がないと、いっそ感心できるな。

「…いったい、なんの勉強をするんだ?」
「あはは、気に入った本を見つけると、ついつい手に取っちゃうんですよ。もちろん、ちゃんと全部読みますけど」

俺の疑問に、朗らかに笑いながらニキは返答する。どうやら、ベルとは違う意味で、真面目な部類の少女らしい。
ベルの場合は、一つの物事に真面目に取りくむが、ニキの場合は…気になったもの全部に真面目に取り組めるようである。

「ブラッド先生は、どんな本を――――あれ、それって『深き森の物語』ですよね? なんか、意外だなぁ」
「何だ、この本を知っているのか?」

俺の手に持った本のタイトルを見て、驚きの声をあげるニキ。どうやら、この本を読んだことがあるようだが………意外というのはどういうことだろう?

「だって、有名な純愛小説だし…学園の課題図書にもなってるから、内容を知っている子も多いですから」
「…そうだったのか」

純愛小説か………そんなものを参考にしようとしていたとは、なんとも言えない気分である。
とりあえず、この本を読むのは止めにして、後で本棚に返しておくとしよう――――そんな事を考えていると、ニキが興味深げな表情で質問をしてきた。

「ところで、ブラッド先生………ユメ様に聞いたんですけど、ブラッド先生ってドラゴンの巣の主人なんですよね」
「ん、ああ、そうだが」

別に隠し立てするつもりもないため、俺は素直に頷く。そもそも、ユメが情報源だとすれば、誤魔化しは通用しないだろう。
と、返答をした俺の周りを、ニキは興味深げな表情をしながらぐるぐると回る。まるで、対象に興味を持った猫のようなしぐさである。

「こうしてぱっと見だと、どう見てもフツーの人に見えますよね」
「それはそうだろう、姿は魔術で変えているんだ。自らが望んで解かない限りは元に戻ることはない…いや、生命活動が停止、有り体に言えば殺された時も元に戻るんだが」
「………もどるんだが?」
「死ぬほど痛いから、お奨めは出来ないな」

ちなみに、人として死ぬのは俺も経験済みで――――相手は当然ながらリュミスである。さらに、死んで…竜の姿に戻った後で半殺しの目にあうという悲惨さであった。

「…なんか、ブラッド先生も苦労してるみたいですね」
「察してくれると、助かる。それはそうと――――竜の巣に興味があるみたいだが、ユメの縁者なら招待しても構わないぞ。最近では、観光地のようにもなっているしな」

エルブワード山中から大陸のそこかしこにまでトンネルが開通されている俺の巣は、コドール大陸においても一、二を争う規模に発展している。
広大なダンジョンのそこかしこには、地下空洞を利用した街が建設され、地底湖を利用したプールや、モンスターの餌付けツアーなども流行っているらしい。
無論、ダンジョンの奥深くにある竜の間付近は、関係者各位以外は立ち入り困難であるが――――関係者の縁者を招待することも時々はあったのである。
そんなわけで、ニキを誘ってみたのだが…俺の問いに、ニキはニコニコと笑いながらパタパタと手を振った。

「いえ、やっぱりダンジョンといえば、自分達で攻略したいですし――――気持ちだけ受け取っておきます」
「む、それもそうか――――ダンジョン探検が好きな知り合いがいるから、確かにそのあたりのことは分からないでもないな」

………ライアネは、いまも何処かのダンジョンに潜っているのだろうか? ひょっとしたら、ひょっこりと俺の巣に姿を見せているのかもしれないな、神出鬼没な女だし。
そんな風に、ここに居ない知り合いに思いを馳せる俺であったが、ニキはそんな俺の様子を怪訝に思うわけでもなく、俺の言葉のほうに反応したようであった。

「ええ。今年こそは行けると思うんですよ! 新入生の人たちの中にも、冒険家の素質のある人がたくさんいますし、メルエさんや歌焔さんも手伝ってくれてますから!」
「ほう、自信満々だな」

メルエ、歌焔という名には聞き覚えがある。ここ、グリンスヴァール学園には変わり者が多いが…その中でも、特に知名度が高い女生徒である。
事あるごとに意地の張り合いをしており、その喧嘩の余波で施設のいくつかを半壊させた――――などという逸話があるが、かなりの武闘派ということだろうか?
まぁ、いくら凶暴な女生徒といっても、竜の女達に比べれば可愛いものだろうが………洞窟探検の同行者としては心強いのだろう。

「ええ、目指すは全国――――…じゃなかった、全階層制覇! ですね」
「…まぁ、ほどほどにな」

クーには一応、学園の生徒達に対して気を遣うように命じてある。だが、洞窟探検ともなると、怪我をするものは間違いなく出てくるだろうし、死人が出る可能性もある。
そういう深刻な事態にならないうちに、早々に引きあげてほしいというのが、今の俺の本音であったが………随分と甘くなったものだな、俺も。



それからしばらく本を探したが、たいした本も見つからなかったので、俺はニキに別れを告げると、学園の食堂に戻ってきた。
昼も半ばを過ぎた時分――――次の授業のために、食堂から出て行く生徒達もいたため、それなりに混んではいたが、労せずして席に座ることが出来た。
午後からは受け持ちの授業もあるし、その前に軽い腹ごしらえをすることにしよう。俺はテーブルに置いてあったメニューを手に取り、ざっと品目を眺めてみる。

「さて、何のメニューにしようか………妥当なのも良いが、たまには意外性のある食事も良いかもしれないな」

たまに自炊するとはいえ、基本的には外食の俺である。いつも同じメニューというのも飽きるため、意図的に注文を変えることも時々はある。
もっとも、それが良い結果になるかどうかは食べて見なければ分からないが…そういえば、この前のウナギとスイカを使った料理には酷い目にあった。
見た目は綺麗でも、味が悪かったら意味がないだろうという料理の見本だったな………実験的な料理だったらしく、数日後にはメニューから消えていたが。

「………そういえば、ラキの姿が見えないが――――…ああ、今日は面接に行ったんだったな」

働く場所が見つかるまで、学園の食堂でアルバイトをするつもりだったラキであったが、さすがに働きながら次の職を見つけるというのは大変である。
春が来て、夏が過ぎてもいっこうに成果が上がらない就職活動であったが、ラキ本人はあせるそぶりを見せていなかった。
しかし、このまま食堂でバイトを続けさせるのもどうかと思い、俺は就職の斡旋をと、クーに話を通したのである。
今頃は、この学園のどこかで面接が行われているはずである。クーには、わざわざ巣から足を運んでもらったんだし、ラキには巣での仕事についてほしいんだが………。

「しかし、俺の巣に就職するとなると、ラキとはこの学園では会えなくなるのか…」

大きな休日があれば、巣に戻ることもあるが、俺の生活の大半は学園中心になってきている。学食でラキと会うのも日常茶飯事となっていたのであるが…。
よくよく考えれば、いま俺の受け持っている生徒達も、あと半年も経たないうちに学園を巣立っていってしまうんだよな………あまり考えないようにしていたが。
いままで一緒に居た者たちが、何かのきっかけで離れていく――――時間の感覚が緩やかであった巣の時には感じたことのない…寂寥感というべきだろうか?

「この間隔が、センチメンタルというやつか………おや?」
「随分と、たそがれてるみたいね…背中がすすけてるわよ」

視界の端に、こちらに歩いてくる人影が映ったので、そちらのほうを向くと――――学園の教師長ことヴィヴィが、歩み寄ってきて…呆れた様子でそんな事を言ってきた。
どうも、他人から見るに…俺の様子は、かなり落ち込んだように見えていたようだ。実際、色々なことがあって、気落ちしていたことは確かだったが。

「…気鬱なら、保険の先生に診てもらったら? この時期、そういう症状になる教師も多いし」
「いや、けっこうだ。あいにく病人ではないのでな………ところで、何かようなのか?」

基本的に、ヴィヴィが俺のもとに来るときは、何かしらの用事がある時が常であった。まぁ、学園長という恋人もいることだし、他の男にかまけてる暇はないだろう。
その予想はあたりだったらしく、俺の質問にヴィヴィは首肯すると…食堂の出入り口を指差した。

「貴方に面会よ。公的なものか、私的なものかは分からないけどね」
「ん? ………ああ、なるほど」

ヴィヴィの指差したほうを見て、俺は納得する。そこに居たのは、旅装束に身を包んだ妙齢の美女――――リ・ルクル・エルブワードであった。
この前、学園を訪れたときは、大層な使節団を伴っていたからな――――ヴィヴィが覚えているのも当然だろう。

「わざわざ案内してくれたのか、すまないな」
「いいわよ、別に。それよりも、早く行ってあげたら?」
「…そうだな」

ヴィヴィに急かされ、俺は食堂の入り口に向かう。俺がゆっくりと歩み寄ると、ルクルは相変わらずの飄々とした雰囲気で、気さくに俺に挨拶をしてきたのだった。

「――――久しいな、ブラッド」
「ああ、久しぶりだな、ルクル。元気にしていたか?」
「まぁ、それなりにな。しかし、驚いたぞ。お前が私宛に手紙を出すとはな…しかも、そちらから会いたいと書かれていたが…何があった?」

笑顔の中にも、真剣な光を目に湛え、ルクルは静かに俺に聞いてくる。彼女なりに、俺の事を心配してくれていたんだろう。
その心遣いは、いまの落ち込んだ俺にとっては、ありがたくもあり――――なんとなく、こそばゆい気分にもなったのであった。

「まぁ、それほど大したことじゃない。ともかく、立ち話をつづけるのも疲れるだろうし………食事を取りながら話をしないか?」
「――――そうだな…それでは同伴に預かるとしよう。実のところ、私も空腹を覚えていたのでな」

俺の誘いに、ルクルは肩の力を抜くかのように、華の咲くような笑顔を見せた。凛とした表情も良いが、こんな風に優しく笑うルクルも、魅力的だと思う。
俺はルクルの手を取り、学食の中に戻ることにした。先程の席に戻るか――――いや、この時期は紅葉も美しいし、外のオープンテラスの方に行くとしよう。
日を追うごとに、冬へと一歩一歩近づいていく秋の空――――この時期、吹く風に寒風も混ざるため、オープンテラスを利用するものは少ない。
幸いな事に、俺達が外に出た時は特に風もなく…落ち葉の絨毯(じゅうたん)が敷き詰められたテラスを占有できた。先にルクルを座らせて、俺は手早く注文を済ませる。

「さて、後は注文した料理が来るのを待つとして――――そういえば、ここには一人で来たのか? 護衛らしきものは見当たらないんだが」
「そのほうが気楽なのだが………王族という身分がそれを許してくれないからな。優秀な術士が一人、護衛をしている。姿は見えないが………」
『はい、こちらに控えております』

と、椅子に腰掛けた、ルクルの言葉に続くように、彼女の隣あたりから人の声が聞こえてきた。どうやら、魔法か何かで姿を隠しているらしい。
声から察するに、このあたりだと思うが――――俺は、適当に見当をつけて、声のしたあたりに手を伸ばしてみる………と、手のひらに何やら柔らかい感触があった。

『きゃぁ!? な、なにをするんですかっ!』
「ん? ああ、驚かせてしまったようだな………しかし、その口調といい、狼狽っぷりといい――――ひょっとしなくても、女なのか?」
「そうだ。ちなみに、かなりの美人でもあるぞ」

と、愉しげに笑みを浮かべながら、ルクルはそんな事を口にした。さすがに長年の付き合いだけあって、俺が最も聞きたい事を熟知しているようである。
しかし、美人というなら姿を見せれば良いと思うんだが――――いや、美人だから姿を見せないのか。お忍びの旅なのだし、下手に目立つのを避けたいのだろう。

「今後も、ここを訪れる時は随行させるつもりだ。まぁ、仲良くやってくれ」
『よ…、よろしくおねがいします』

ルクルの言葉に、ぺこりと頭を下げる気配――――別に害があるわけじゃなさそうだし、それなりに仲良くすることにしよう。

「ああ、よろしくな」

見る事が出来ないとはいえ、相手は女性である。俺は愛想よく笑みを浮かべると、気さくに挨拶をする。さて、このまま突っ立っているのも何だし、俺も座席に座るとしようか。
俺は、テーブルを挟んで、ルクルの真向かいの席に座ることにした。位置的に、会話をするには最良の場所だろう。

「さて、注文した料理が運ばれてくるまで、まだ時間もあるだろう。それで…わざわざ手紙まで出して、私を呼んだのは如何なる用件なのだ?」
「ああ、それなんだが………この学園の生徒を一人、雇用してもらいたいんだが」
「………ふむ、詳しく話してもらおうか」

話の先を促すルクルに、俺はざっと事の次第を説明する。俺が複数の生徒を受け持っていること、外交の仕事に興味を持っている女生徒がいるということなどである。
俺が一通り話を終えるまで、ルクルは沈黙をしており、何やら考え込んでいるようである。そして、俺が話を終えると、納得したように頷いたのであった。

「なるほど………つまり、その娘を私の部下として雇えと、そういうことだな?」
「ああ。そうしてくれると助かるんだが………」
「そうだな…人手は確かに欲しいが、ともかくその娘と話をしてからだな。いくらブラッドの申し出とはいえ、国家の大事を任される身としては、安請け合いは出来ない」

それは、確かにそうか…いくら俺の紹介とはいえ、何の苦労もなしに就職というのは色々と問題だろう。ベルの場合…俺がそんな手回しをしたと知ったら間違いなく怒るな。
実力は充分にあるだろうし、後はベルを信じるだけだろうな………彼女なら、きっと大丈夫だろう。

「まぁ、お手柔らかに頼むぞ。俺にとっては可愛い教え子なんだからな」
「………そう言われると、手厳しくしたくなるのが女心というやつだが――――冗談だ、そんなに睨むな」

知らず、顔が険しくなっていたのだろう。ルクルは苦笑し、肩をすくめる。どうも、我ながら余裕がないのが情けないな…もう少し落ち着きが必要なんだろう。

「それにしても、苦労しているようだな。巣に居た時とはまるで別人だぞ」
「やっぱり、ルクルにも、そう見えるか………実際、色々と悩み事が多くてな」
「だが、それで良いのかもしれないな。満ち足りた環境よりも、苛酷な環境でこそ成長というのは著しくなる…今のお前は充分に魅力的だぞ」

ルクルはそう言うと、愉しそうに微笑んだ。褒められているのか、からかわれているのか、正直なところ判別が付けづらい態度である。

「それで、いったい何を悩んでいるのだ? 私が、相談に乗れることなら良いのだが…」
「…そうだな、少しは相談に乗ってもらうのも良いか。これは、たとえ話なんだが…それなりに親しい間柄だった関係が、些細なことで悪化した場合、お前ならどうする?」

ベルとの一件を、全部話すのは何となく気が引けたので、俺はルクルにそんな風に回りくどく質問をしてみる…それに対し、ルクルはしばし考え、逆に俺に聞き返してきた。

「それは、国家規模での問題なのか? それとも、個人規模での問題を言っているのか?」
「いや、国家問題みたいな大げさなことじゃなくて…ちょっとした喧嘩で――――後者なんだが…何か違いでもあるというのか?」
「前者なら一大事だが、後者なら些細な問題だ………と思うぞ」
「………」

さすがは、外交一つで自国を滅亡の危機から何度も救っただけはある。規格外な受け答え方に、思わず言葉を失ってしまった俺であった。

「まぁ、そうは言ってみたが、国家がどうこうより、身近な人間関係のほうが重要だという者の方が多いだろうな…今のは極論として受け取ってくれ」
「確かに極論だな…ある意味、的を射ていると思うが」
「そう言ってくれると助かる。ともあれ、人間関係で私が助言できるのは唯一つだ。『悪いと思ったらとりあえず謝っておけ』ほとんどの問題はそれで解決するはずだ」
「………王族としての矜持(プライド)はないのか、お前は」

実も蓋もない助言とやらに、さすがに呆れた俺だったが…そんな俺の態度など、どこ吹く風という風に、ルクルは傲然と胸を張りながら、口の端を吊り上げる。

「矜持と面子に拘るわけにも行かない立場なのでな。その代わり、譲れぬ所は何があろうと譲らぬ。優先順位を決めておけば、最終的にはそういう判断が出来るようになる」
「………優先順位、か」

何を優先するべきか、それを決めるのはお前だ――――言外に、そう告げられたような気がして、俺は頭を悩ませる。今の状況で俺が優先すべきこと………。

「で、どうだ? その喧嘩相手とやらに詫びを入れる気にはなっただろうか? 竜であるお前のことだ、謝るということに慣れていないかもしれないが」
「いや、そんなことはないぞ。何しろ、リュミスを始め、女の竜は皆、気性が荒かったからな…謝るというのは男の竜にとって日常事だったぞ」
「…ほう、それはなかなか興味深いな。つまりは男性の竜に最も有効な手札は女性の竜だということか」

キラーン☆と、ルクルの目が鋭く光った。まずいな、厄介な相手に外交の選択肢を与えてしまったかもしれない。その手腕が、俺に対して発揮されないように祈っておこう。
まかり間違っても、俺と喧嘩したから『リュミスに讒言する』ようなことはしないでもらいたいものだ…いや、本当に。

「それはともかく、色々考えたんだが――――やはり、謝らないことにする」
「…何故だ? 謝っておけば表面上は平穏になるし、お前の心的負担も軽減されるだろうに」
「だが、それでは教え子への示しが付かない。俺は教師だしな…相手が間違っていることに口を出しておいて、それを撤回するわけにはいかないんだよ」

そう、俺が間違っていたと謝るのは、ベルに対して色々と言っていたことを否定することになる。それでは教師としての俺の立場上、問題なのだ。
いくら嫌われようと、どれだけ疎まれようと――――彼女がより良い方向に育つというのなら、嫌われ続けるのが最良の方法なんだろう。
優先順位を考えろ――――そう、ルクルに言われて考えた結果、俺が出した結論は…謝らないこと。謝るだけが、解決方法じゃないということだった。

「…本当に変わったな、ブラッド。それにしても羨ましい。私も、お前のような師に教えを請えれば良かったのだが」

俺の返答に、まるで眩しいものでも見たかのように瞳を細めるルクル。その声の響きにはどこか昔を懐かしむような響きが聞こえた。
その後………運ばれてきた料理を早々に平らげた俺とルクル(+護衛1)は、ヴィヴィに頼み、校内放送でベルを呼び出すことにした。
自らの足で探すのも考えたのだが………広い校内のどこにベルがいるかも分からず、また、ルクルの所要時間もそう多くない事から、非常の手段をとることにしたのである。



それからしばらくして、呼び出しのあった進路指導室の扉を規則正しいノックする音が響く。返答のないのを了承と受け取ってか、静かに扉が開いた。

「失礼します」

静かな口調で、室内に入ってきたのはベルであった。彼女は伏せていた顔を上げると――――室内にいた人物を見て、怪訝そうな表情を浮かべた。
そんな彼女の様子を意に介さず、鷹揚な表情で彼女に微笑んだのはルクルである。既にソファに腰掛けていた彼女は、値踏みするようにベルを一瞥した。

「うむ。君がブラッドの自慢の教え子か? なるほど、確かに可憐さは自慢したくもなるようだな」
「あ、あの………ブラッド先生は?」

そう言うと、ベルはきょろきょろと周囲を見渡す。その視線が一瞬、俺の上を通過したが、何も見咎めなかったようで、そのまま周囲に目を向けている。

「うむ。本人は同席したかったようだが、私のほうから断ったのだ。教師が一緒では、本音を言う機会も減ると思ってな」

などと、笑顔でぬけぬけと言うルクル。そんなルクルの言葉を、俺は彼女の隣で聞いていた。
察しのよい者なら分かるだろうが、今、俺は姿を消している。どうも、屈折率を歪める魔術と言うものがあり、ルクルの護衛が使っているのもその魔術だった。
その、不可視の覆いの中に、俺はすっぽりと身を隠している。なぜかというと、ベルの面接を始める前に、ルクルが示した条件がそれだったのだ。

「教え子の様子が心配なのだろう? 盗み聞きするよりは確実で、迷惑の掛からない方法だと思うがな」

だったら、面接に同席すれば良いんじゃないか、と言う俺の反論は、一蹴された。理由は、さきほどルクルがベルに対して言った言葉、そのままである。
まぁ、俺としても、ベルと顔を合わせるのは気まずいし、かといって様子は気になる状況だったので、しぶしぶ提案を呑んだわけだが――――。

(その、もう少し近くに来てください………あまり離れると、姿が見えてしまいますから)
(ああ、すまないな)

姿を隠すのに問題があったのは、ルクルの術者が、俺の予想とは違った意味で美人だったことにある。
確かに、見た目は可憐で、道行く人が振り返りそうな美貌を顔に秘めていた。ただ、それが開花するのは、あと十年は先のことであろうが。
単純にいうと、ルクルの護衛の術者は年端も行かない少女だったのである。どうやら、さっき俺が誤って触れたのは、胸とかではなく、彼女の頬だったらしい。

無論、ルクルの護衛を単身任されているのだから、実力的には確かだろうし、そもそも、年齢が見た目に比例しない例は俺も嫌と言うほど見てきた。
顕著な例で言うと、ライアネとリュミスがそうだ。見た目では明らかにライアネの方が上なのだが、実際の年齢は、リュミスのほうが上なのだ。
………別に、どちらかが老けているとか、どちらかが落ち着きがないとか言うつもりはない。命の危険もあるしな。

まぁ、それはともかく………護衛の少女は俺に警戒を抱いているのか、終始、怯えたような様子で俺を見ているのであった。
これが、年相応の娘なら、むしろその反応を楽しむところなのだが――――さすがに、子供相手では罪悪感のほうが先にたつ。
早いところ、こんな状況から開放されたいものだ………俺は、内心で溜め息をつくと、ルクルとベルのやり取りに注意を向けた。



「ともかく、席に着いたらどうだ? 立ち話では疲れるだろう」
「はい、失礼します」

ルクルに促され、ベルは緊張した面持ちで対面に座る。進路指導質には、来賓用の豪奢なテーブルとソファ、生徒に指導をするための、テーブルと椅子が用意されている。
普段は、生徒用の椅子に腰掛けているせいか、柔らかすぎるソファに少々すわりが悪いようだ。そんなベルを面白そうに眺めながら、ルクルは自己紹介をする。

「さて、自己紹介がまだであったな。私の名はリ・ルクル・エルブワード。通称はルクルで通している」
「よろしくお願いします。私の名前は――――…」

ルクルの言葉に、自己紹介を返すベル。緊張した様子のベルを落ち着かせるかのように、ルクルは気さくな様子で穏やかな笑みを浮かべた。

「ベルといったな。そんなに緊張することはないぞ。仕事上、このような堅苦しい話し方をしているが、私とて、そなた達と年端はそれほど変わらぬのだからな」
「そうなんですか…でも、やっぱり尊敬しますよ。仕事が出来る大人の人って………」

憧れるような目をルクルに向けるベル。そういえば、ヴィヴィに対しても似たようなまなざしを向けていたな………そういった大人の女性に憧れるような年頃なんだろう。
ベルの尊敬のまなざしに、ルクルも気を良くしたのか、その後の面接は滞りもなく、順調に進んでいった。そうして、外交官の志望動機や学園での生活等を聞いた後である。

「そういえば、ベルはブラッドの教え子だったな。ブラッドの学園での生活は、どうなのだ? 相変わらず、華に囲まれた生活をしているよだが」

さりげなく、ルクルがベルに、そんな話題を振ったのであった。ルクルの質問に、ベルは言葉の意味が分からず、きょとんとした表情をしている。

「…華、ですか?」
「そうだ。老若問わず、女に随分と縁があるからな。ベルはどうなのだ? ブラッドに対して、思うところもあるだろう?」

ルクルの言葉に、ベルの表情が僅かに険しくなった。ルクルのやつ…俺が聞いていることを分かってて、ベルに話を振ったな。
俺の姿が見えないこの状況なら、ベルも確かに本音で話すかもしれないが………意地の悪いことをするな、ルクルのやつも。

「――――ブラッド先生のことは………嫌いです」

僅かな逡巡の後、険しい顔を崩さないままにベルの言った一言は、俺の予想通りではあった。予想していたとはいえ、少々、ショックではあったが。
言うなれば、苦いとわかっていたコーヒーを口に含んだとき、やっぱり苦かったというような、結果の分かっていたことだが、それて気が軽くなると言うこともなかった。
憮然とした表情をした俺だったが、姿を消していた俺のことに、当然ながらベルは気づくこともなく、先を促すルクルに従うままに、話を続けたのだった。

「ブラッド先生は、女の人に節操がないですから………私の知っているだけでも、何人かの女の人と付き合ってるみたいですし」
「………ほう、それは聞き捨てならないな。詳しい話を聞かせてもらおうか」

ベルの言葉に、ルクルの声が僅かに険しくなったようだ。促すルクルに、ベルはここ最近の俺の行状を、事細かに伝え始めたのだった。
やれ、朝はラキと話していた、昼はオリエをからかっていた、夜はフェイを部屋に呼んでいた――――と、俺以上に詳しくここ最近の出来事を話していくベル。
最初こそ、大人しくベルの話に耳を傾けていたルクルだったが、しばらくすると、相槌をうつこともしなくなった。その身体から、剣呑な気配が漂っている。

(…どうやら、怒っているようだな。冷静な性格のベルにしては珍しい)
(そ、そんなこと言っている場合じゃないんですか…? ルクル様、ひどくご立腹のようですけど…)

俺達はルクルの横に立っている。俺からはルクルの表情は見えなかったが、背の低い護衛の少女にはその表情がしっかりと見えていたらしい。
しかし、姿を消している今はどうしようもないからな………とりあえず今は、ベルがこれ以上余計な事を言わないように願うばかりである。と、

「まったく、多少は覚悟していたが、聞きしに勝る放蕩ぶりだな………しょうがない奴め」
「…でも、悪いところばかりじゃないんですよ。ブラッド先生には、尊敬できる部分もありますから」
「――――ほう?」

そんな俺の心の声が届いたのか、いらただしげに言葉を口にしたルクルに、ベルが俺への擁護の言葉を口にしたのは、まさにその時であった。
興味深そうな表情のルクル。そんな彼女に、ベルは懇々とした口調で、俺のことを再び口にし始めた。

「授業を真面目に行ってくれますし、分からない事は親身になって相談に乗ってくれますから。そのせいで、皆から好かれすぎているのかもしれませんけど」
「………」
「でも、女にだらしないわけじゃないって、ヴィヴィ先生は言っていましたし、その事は、私もよく知っていますから………」

ベルはそう言うと、何かを思い返すかのように目を伏せる。ひょっとしたら、あの日…女生徒達からベルを助けたときのことを思い出しているのかもしれない。と、

「――――なるほどな、つまりはそういうことか」
「え?」

黙ってベルの話に耳を傾けていたルクルが、ぽつりとそんな事を言ったのだった。怪訝そうな表情で顔を上げたベルに、先程とは打って変わって、笑顔を向けるルクル。
ひょっとしたら、先程の怒りの表情も、ベルの反応を引き出すための、ルクルの演技だったのかもしれない。喰えない女だからな、ルクルは。

「ブラッドのことを嫌いだと言っていたが、その割には随分と、口が回るようだな。まるで、好いているかのように」
「………それはありません」

ルクルの言葉に、キッパリと首を振るベル。しかし、その反応は予期していたことだったのか、ルクルは頷くと、いっそう笑顔を深めたのだった。

「…さて、どうだろうな。何にせよ、関心を持っていることは確かだろう。そこに込められる感情が、嫌悪か畏怖か好意かの違いだけだな」
「………………仰っている意味が、分からないのですが」
「つまりは、お前もブラッドの事を、十分以上に意識しているという事なんだが――――はは、そう嫌そうな顔をするな」

思わず眉を寄せたベルの表情を見て、ルクルは面白そうに笑う。どうも奔放な性格のルクルは、生真面目な性格のベルをからかうことに、楽しみを見出してしまったようだ。
明らかに不機嫌そうなベルだったが、目上の相手であることを気遣ってか、怒りを顔に出さないようにとしている。それが逆に、ルクルを愉しませているようにも思えたが。

「私は、ブラッド先生のことが嫌いなんです。本当に…」
「ふむ………まぁ、本人がそう言うのなら、そうなんだろうな………ところで、話は変わるんだが」

ベルの怒りの沸点が上がっているのを感じてか、ルクルはさりげなく話題を変えた。こういうバランス感覚のよさが、外交で活かされているのかもしれない。
面接と言うよりは、他愛もない世間話といった風な、ベルとルクルの会話は、姿を消した俺と護衛の娘が見守るなか、それからもしばらく続いたのであった。



面接を終えての夕刻――――…既に短い夕暮れ時は過ぎ、学園の空も赤から黒へと変化している。この時間は食堂も込み合い始めるが、それでも座る場所に困るほどではない。
ベルとの面接を終えたルクルは、満足そうな表情で紅茶をすすっている。晴れ晴れとして表情は、面接をやってよかったという感情の表れであれば良いんだが…。

「で…結局の所、どうなんだ? ベルの採用の件は」
「ああ、その事なら心配するな。学園を卒業次第、私の元で働いてもらう。正直、経験不足は否めないが…ああいう実直な性格なら大丈夫だろう」
「そうか」

ルクルの返答に、俺はホッと安堵の息を吐いた。何にせよ、これでベルの就職の件は解決だ。他の教え子も、ほとんどは勤め先が決まっているし、一息つけそうであった。
ここ最近、ベルにばかり感けていると思われがちだが、実際のところはベルに避けられているせいで、他の生徒の就職活動に専念できていたのである。
なお、例の不良3人娘も、きちんと就職先が決まっている。授業が不真面目だった分、自分の好きなことに関しては熱心であり、それぞれ自発的に働き場所を見つけていた。
こうして考えてみると、卒業後の進路をはっきりとしていないのは、オリエくらいか。学園に残りたいとは聞いていたが、それ以上のことは訊ねていなかったからな。

「………さて、一息ついたことだし、帰るとしよう」

考え事をしていた俺に、空になったカップをテーブルに置いて、ルクルが口を開いたのは、その時であった。行動的なルクルは既に席から立ち上がっている。
こういう性格だから、引きとめは効果が薄いのは分かっているが、社交辞令的な意味合いもあって、俺はルクルを引き止めるために口を開いた。

「もう帰るのか? もう少しゆっくりしていけばいいだろうに。夕食の時間も近いだろう」
「その申し出は魅力的だし、そうしたいのは、やぶさかなんだが………あいにく、時間がないからな。それに、迎えの者も来たようだし」
「迎えの者?」

ルクルの視線の先を見ると、食堂の入り口に、執事服姿の少女が一人――――そういえば、今日はラキの面接のために、クーを呼んでいたな。
なるほど、ルクルがどうやって単身に近い形で学園に来たのか疑問だったが、クーに同伴して付いてきたのか。おそらく、転移用の魔術を使ったんだろう。

「あくまでも、近場での散策と配下の者には伝えているからな…そろそろ城に戻らないと、色々と面倒になる。あの娘には無理をさせてしまって、申し訳ない気分だが」
「気にするな。クーも用事があったからな。今回の件も、自分に負担がないように取り計らうことくらいはしていると思うぞ」
「そうか………ならばよい」

俺の言葉に安心したのか、ルクルは笑顔を見せる。そうして、改めて俺に目礼してきた。

「では、私は城へ戻る。しばしの別れだが、いずれまた会うこともあるだろう」
「ああ。くれぐれも無理はするなよ」
「そうだな………出来ることなら何事も、理のあるようにしたいものなのだがな」

最後の台詞は、俺に言ったものか自分に言い聞かせたものか――――ルクルは食堂の出入り口に向かい、クーと合流した。
クーは俺にペコリと頭を下げると、歩き去るルクルの後に付き従い、視界から消えた。おそらく、ルクルを城まで送るつもりなのだろう。
ラキとの面接に関しては、よほどのことがない限り報告しなくて良いといっておいてあるから、おそらく向こうも、たいした問題もなく面接を終わらせたのだろう。

「ブラッド先生、ご休憩中ですか?」

と、そんな事を考えていると、ウェイトレス姿となったラキが、俺に話しかけてきた。どうやら、クーとの面接が終わり、今からアルバイトのようである。

「ああ、夕食前に一休みしようと思ってな。ラキは、今日は面接だったな………成果はあったのか?」
「そうですね………悪くはなかったと思います。後は、結果待ちですね」

俺の質問に、微笑を返してくるラキ。その様子を見る限り、どうやら彼女なりに手ごたえはあったようだ。普段は物静かな部類に入るラキの表情が今日は特に明るく見えた。

「随分と上機嫌のようだが、何か良いことでもあったのか?」
「………秘密です」

ラキはそういうと、顔をほころばせながら小首をかしげた。何があったか聞きたいところではあったが、昔、似たような状況で質問して、半殺しの目にあったことがある。
相手はリュミスだったし、人間のラキとでは全然状況が違うが、何となくトラウマが脳裏をよぎり、俺はラキに重ねて問う機会を逃してしまった。

ラキの言う秘密がどんなものなのか………それを俺が知るのは、もう少し後のことになる。

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