〜グリンスヴァールの森の竜〜 

〜グリンスヴァールの森の竜〜



いよいよ夏も盛りの時節――――緑に包まれた学園では、この時期、木陰に入って涼をとる者が多数にのぼる。木の葉の作る天然の日傘は、それなりに快適のようだ。
見た目はかなり古いつくりである校舎も、内部は冷気に満ちており、外に出る時の温度差に注意さえすれば、くつろいで過ごすことが出来る。
学園に住む者達が、様々な方法で涼をとる中には――――…一風変わった方法で、夏を満喫する者達も居た。オリエの所属する水泳部も、その一つである。

森に包まれたグリンスヴァールには、いくつもの河川、湖畔が存在している。オリエ達は集団であちこちの湖や川に赴き、のんびりと時を過ごしているらしい。
らしい、というのはただ単に、実際にその光景を見たものが皆無であるからだ。水泳部の行く先は秘匿され、教師ですら知る事は不可能なのだとか。
まぁ、俺はといえば、顧問であるフェイから逐一の情報があるため、行き先を知ることは出来ており、優越感に浸れてはいる。とはいえ、実際に同行したことは無いのだが。
部員は全員女性だし、俺に好意的なオリエはともかく、他の女生徒は皆、フェイにぞっこん状態なのだ。いくら俺でも、集団の女性の白眼視は苦手であった。

避暑の方法としては、おおよそ最適であろうオリエ達の水遊びではあるが、ここ最近は、どんどんと森の奥深くに遊びに行くことになったと、フェイから聞かされている。
その点がなんとなく、気がかりではあったのだが――――幸いなことに、今までは、特にこれといった事件は起きなかった。そう、今までは………。
真夏の太陽が最も天に立ち上る日、一年(ひととせ)のうち、長き昼が蒼の衣を天に掛ける日に、事件は起こった。



「ふぅ、たまにはこうして、のんびりと過ごすのも悪くは無いな」

ある日の昼間――――…昼食には、まだ少し早い時間帯に、俺は食堂の席に陣取り、冷たい茶をのんびりとすすっていた。ちなみに、今日は授業はない。
別に、授業をするのをサボったわけではなく、今日は学園全体で、授業をするのを取りやめていたのである。長い夏の時期には、時折、こうした休みの日が設けられている。
「生徒だけでなく、教師もたまには休みたいだろうからね」という学園長の意向らしいが、もっともな話である。誰だって、暑い日に働きたくないだろう。
そんなわけで、せっかくの休みをのんびりと過ごしている俺であったが――――実のところ、これといってすることが無いから、こうして茶を飲んでいるのであった。

「本当なら、フェイで遊ぼうとしたのに………先約があったとは」

いまさら言っても始まらないが、約束を取り付けておくべきだったな――――俺は、溜め息をつきつつ、今朝のことを思い返した。
うだるような暑さの中で目を覚ました俺は、朝になって、今日は授業が無いことを思い出した。基本的に、毎日が授業のため、こういった休日を忘れることは良くある。
決まってそういう時は、何かしら暇をつぶす方法を考えて、一日を過ごすのだが………今日はフェイで遊ぼうかと考えたのである。
ちなみに、フェイ「と」遊ぶのではなく、フェイ「で」遊ぶのだ。人目を気にするタイプのフェイは、人前では礼節を守ろうとするが、二人きりの時は従順である。
教師生活でたまった鬱憤を晴らす意味もこめて、フェイの身体を堪能しようかと、俺は朝も早くからフェイの部屋に、夜這いならぬ朝這いをしに行ったのだが………。

「フェイ、起きているか?」
「あ、はい。少しお待ちください、ブラッド様」

教師達が住んでいる寮――――…その中の一室、フェイのためにあてがわれた部屋のドアをノックすると、予想に反してフェイの返事が返ってきた。
てっきり、のんびりとベッドの中で寝入っているものと思い、ノックも声も小さめにしたのだが、それが聞こえたということは、完全に起きているということだろう。
少々拍子抜けした感があり、俺は深く考えず、ドアを開ける――――。

「お」
「あ………ブラッド様、少し待ってくださいと言ったじゃないですか」

ドアを開けた俺の目に飛び込んできたのは、上半身裸のフェイである。どうやら、着替えの途中だったらしい。
困った様子で、手に持ったシャツで身体の前を隠すフェイ。相手が俺ということもあり、怒るに怒れないようであった。
さすがにこの状況で、誰かが来るとまずいため………俺は部屋の中に入り、後ろ手にドアを閉めた。無論、視線はきっちりとフェイに向けたままである。

「ああ、着替え中だったのか。それはすまなかったな。俺に気にせず、続けると良い」
「――――向こうを向いている、という選択肢は無いんですね………」

フェイは諦めた様子で、着替えを再開した。何気に視姦しているような状況で、けっこう楽しくはある。このまま、押し倒すのも良いかもしれないな。
そんな事を考えている俺の目の前で、フェイは布地の胸当てをつける。どうやら下とおそろいのようだが――――ずいぶんと厚い布地のような気もする。

「その…どうですか、ブラッド様? 似合っていると思います?」
「ああ、悪くはない。しかし、俺に聞かれても、下着の評価なぞできないんだが」
「――――あの、これは下着じゃなくて、水着なんですけど」
「………何?」

フェイに言われて、改めてその姿を見る。そういえば、ここ最近は女子が水浴びをするときは、裸ではなく何かしらの着衣を付けるようになったと聞く。
正直なところ、違いは良く分からないのだが………厚い布地な分、水で透ける事は無いようだ。だから、名前の通りの水着なのかもしれないな。

「『びきに』という名前らしいです。教え子達から贈り物をされた時は、つけるかどうか迷ったのですが………ブラッド様のお気に召していただけたようですね」
「確かに、俺的には気に入ったんだが――――ちょっと待て、水浴びする時にも、その格好で行くつもりか?」

水着に身を包んだフェイの姿は、凛々しさと可憐さが調和した見事なものだった。正直なところ、他の者には見せたくないなという独占欲が沸いて出たのである。

「いえ、水練の時は別の水着がありますから。さすがにこのような過激なものではありませんけど」
「――――本当か? ちょっと着て見せろ」
「は、はぁ………」

困惑した様子のフェイであったが、俺の命令に従うように、タンスから一着の水着を取り出し、それに着替えはじめた。
しかし、贈り物と言っていたが――――そういえば、オリエ達の水泳部の顧問を引き受けさせられていたな。そうすると、送り主は女生徒ということになるが…。
変な下心を持ってフェイに水着を送ったのか、それとも純粋な贈り物なのか、判断に困るところではある。

「あのー、着替え…終わりましたが」

そんな事を考えているうちに、フェイの着替えが終了したようだ――――しまった、さっきのようにじっくりと観察しておけばよかった。
そんな風に悔やんではみたものの、後の祭りであることは明白であったため、俺は気を取り直し、フェイの水着姿を改めて眺めてみることにした。
――――うむ。生徒達が着ているのを見たことがあるが、その色違いの物のようだ。しかし、プロポーションの良いフェイが着ると、それだけで凶器だと思うが。

「………まぁ、良いだろう。どのみち、女生徒しか見る者もいないだろうし。…正直、それでも納得しづらいんだがな」
「――――………♪」
「ん…? どうした、なんだか嬉しそうだが」

複雑な気分で顔をしかめていると、何故かフェイが嬉しそうな表情でニコニコと笑みを浮かべている。何か嬉しいことでもあったんだろうか?

「いえ………そういえば、こんなに朝早くに如何なされたのですか? 何か用事がおありでしょうか?」
「ああ。そういえば言い忘れていたな。水着にばかり気がいっていたから忘れていたぞ………今日は、お前と過ごそうかと思ってな」
「私と、ですか」

俺の言葉に、フェイは俺が朝から部屋に来た理由を察したのだろう。恥ずかしそうに頬を染め、俺の視線から逃れるように下を向いた。
ちょうど、脱がしやすい服を着させていることだし、このまま頂いてしまうことにしよう。

「フェイ」
「っ………ブラッド様」

俺は、フェイの肩に片手を掛けると、もう片方の手をフェイの頬にそえる。口付けの合図を察したフェイが目を閉じたのを確認し、俺は顔を近づけ――――

「やっほー、フェイ先生、迎えに来たよ! ………あれ?」
「ん?」
「…え”」

ものすごく唐突なタイミングで部屋の扉を開け、のんきな声でオリエが部屋に入ってきたのは、まさにその時であった………鍵を掛けておけばよかったな。
いきなりなことに、どうしたものかと考える俺と、生徒に痴態を見られたせいか、硬直してしまったフェイ。オリエは、俺たち二人を交互に見ると…、

「あ〜…ひょっとしなくても、お邪魔だよね」

と、さすがに気まずそうな表情をしながら、たらりと一筋の汗を流しつつ、そんな事をのたまったのであった――――。



「いや〜、けっこう噂にはなってたけど、ブラッド先生とフェイ先生が付き合ってるってホントの事だったんだ」
「いったいどこから出た噂だ、それは」

さすがに生徒の前で痴態を見せるのは恥ずかしかったのか、フェイは上着を引っつかむと、部屋の奥に引っ込んでしまっていた。
そんなフェイの様子を見て、興味津々といった表情でオリエは俺に聞いてくる。しかし、なんてタイミングで現れたんだ、この娘は。
フェイの様子を見る限り…とても続きなど、出来そうもない雰囲気になってしまっていたのである。せめて十分くらい後なら、こんな空気にはならなかっただろうに。
据え膳を引っ込められた俺としては、甚だ不機嫌な気分でオリエを睨み付けたのだが、あまり効果が無かったらしく、オリエは笑顔で小首を傾げた。

「ん〜、誰からだったかな〜。少なくとも、先週だけで十回以上聞いた噂なんだけどね」
「………………」

つまりは、俺とフェイの仲はすでに学園中に知れ渡っているらしい。まぁ、先程のような行為は頻繁に行わないとしても、食事や休息を一緒にとれば、噂にもなるか。
しかし、どうしたものかな。別段、噂が出回るのは構わないが――――あまり余計な尾ひれがつくと、またリュミスが怒鳴り込んでくるような気がする。
何しろ、すでに居場所のばれている身………クーに俺の身辺調査をさせるくらいのことは、していそうである。
まぁ、深刻に考えたところで解決策もないし――――古くからの言い伝えの通り、噂が七十五日で消えてしまうように祈っておくとしよう。

「………ところで、こんな朝早くからフェイの部屋に何のようだ? 迎えに来たと言っていたようだが」
「…あ、そうだった。フェイ先生ー、もうみんな集まってますよ。水着の準備は出来てます?」

俺の問いに部屋の奥に向かって声をかけるオリエ。どうも、例の水泳部の集まりで、フェイを迎えに来たらしい。その声に急かされてか、フェイはすぐに姿を現した。
シャツと長ズボンを身にまとい、男装の麗人に見えなくもないフェイの手には、肩に担ぐタイプのバッグが握られていた。先程の水着はその中にあるようである。

「す、すまない…少し遅れてしまったようだ。その、ブラッドさ………ブラッド先生、今日はこれから、水泳部の付き添いがあって、その――――」
「ああ、大体は察した。用事があるのなら、仕方がないだろう………また夜に来る」

最後の部分だけは、フェイにだけ分かるように声には出さず、口の形だけで伝えたのだが、どうやら伝わったようである。フェイの表情が、わずかに綻んだのが見えた。

「では、私達はこれで………今日の遊泳場所は、東の森にある学園側から数えて3本目の小川にするつもりなので、お暇でしたら見に来てくださいね」
「――――まぁ、気が向いたらな」

フェイの言葉に、俺は肩をすくめる。オリエ以外の水泳部の面々には、さほど好かれていないと知っているし、わざわざ見物に行こうという気は起きなかったのである。



………そんなわけで、回想終了。うだるような暑さとは無縁の食堂で、優雅に茶を嗜んでいるのだが――――さて、これからどうしたものかな。

「ブラッド先生、お茶のお代わりはいかがですか?」

掛けられた声に思考の淵から戻ると、給仕服の少女が隣に立っていた。俺がお代わりするのを見越していたのか、既に盆の上にはカップが用意されている。

「…ああ、もらおうか。ありがとう、ラキ」
「いえ、私が好きでしている事ですから、気にしないでください。ところで…誰かと待ち合わせですか? 朝からずっと、ここにいらっしゃるみたいですけど」

礼を言う俺に笑顔で応じたラキは、余計な事を聞いてはいないかと気遣っているのか、おずおずとした様子で俺に質問をしてくる。
学園を卒業する頃には、気弱だった性格もかなりの改善を見せていたものの…生来の奥ゆかしさは変わっていないようである。

「別に、誰かを待っているわけではない。外の茹だるような暑さに辟易して、ここを避難場所に選んだだけだ」
「そうだったんですか――――確かに、この暑さじゃ外を歩くのも大変そうですしね」

適当に言ってみた俺の言葉に、ラキは感銘を受けたのか感心した様子で、閉め切られた窓の外に視線を向ける。
深い森に囲まれているとはいえ、降り注ぐ陽射しは避けようはずも無く――――地面からは熱気とともに陽炎が立ち上りつつある。
そんな状況で、屋外に居れば間違いなく熱中症となるため、オープンテラスは日が落ち始める夕方までは使用禁止になっていた。

「あの、それじゃあ先生は、午後の予定は空いていらっしゃるんですか?」
「まぁな。最初は同僚でも誘って遊ぼうかと思ったが、先約があってな………何をするか決めかねていたところなんだが」
「そうなんですか……………………あの、ブラッド先生。よろしければ、午後にはバイトも終わりますし、お買い物に付き合ってほしいんですけど」
「………買い物、か」

ラキの言葉に、俺は窓の外を眺める。外はあいかわらずの快晴で…石畳で目玉焼きが焼けそうなくらいに夏真っ盛りのようだ。
こんな状況で外に出たら、焼き鳥ならぬ焼きドラゴンにでもなりそうである。正直、遠慮したいところではあるが――――。

「その………駄目、でしょうか?」

控えめにではあるが、期待をこめた目で見つめられたとなれば、断るわけには行かないだろう。ラキとは並々ならぬ縁があるし…一緒に出かけるのは楽しそうでもある。

「他ならぬラキの願いだしな――――…どうせ暇だし、荷物持ちくらいなら構わないぞ」
「本当ですか? ありがとうございます、先生」

快く承諾した俺に、ラキは嬉しそうに微笑んだ。こうも手放しに喜ばれると…俺としても、もう少しサービスをしてみたくなる。
そうだ、買い物の途中でラキを服屋に引っ張り込むとしようか。服の一着や二着くらいなら安いものだし、着飾ったラキも見れるなら一石二鳥だろう。
そんな計画をひそかにたてつつ………俺は、ラキのバイトが終わるまで、食堂でのんびりと時間を過ごしたのであった。



バイトを終えたラキと連れ添い、学園の商店街に足を向ける――――真夏日ということもあり、通りを歩く人影の数はまばらである。
その分、食堂や喫茶店など、涼を得る事が出来る店は、どこも軒並み満員のようであった。皆、今日の暑さには辟易しているようだな。

「ところで、買い物と言ったな………いったい何を買うつもりなんだ?」

並んで歩く俺の隣――――暑さ避けの為か、日傘を差したラキに、俺は質問をする。買い物に行くとは聞いたが、何を買うかまでは聞いていなかったのである。
純白の傘に、空色のサマードレスを着込んだラキは、買い物が楽しいのか、弾むような口調で返事を口にする。

「ええと、果物やミルク、それに薄力粉とバターと卵と………他にも色々です。お友達に、ケーキを焼いてあげようかと思って」

ケーキか………なるほど。ああいう代物は、見た目以上に材料を必要とするからな――――。かくいう俺も、村に居た頃…材料集めに、こき使われたことがある。
竜の女ならともかく、人間の女の細腕では、多くの材料を抱えて歩くのは大変だろう。同行して良かったというべきか。

「ノーエって名前の娘なんですけど、私と一緒でウエイトレスのバイトをしているんです。ウエイトレスといっても、彼女の場合は王都の酒場なんですけど」
「なるほど、ウエイトレス仲間にか」
「はい。料理を運ぶだけじゃなくて、好きな人に何か作ってあげれたらいいなぁって………お互い、色々と作っては味見をしてもらっているんですよ」

ふむ………今でも時々、ラキに料理を振舞われる事があるのだが――――食べるたびに、料理の味が良くなっているなとは思っていたのだ。
めまぐるしい料理の腕の上達。その影には、人知れない努力があったのか。努力家だということは知っていたが…やはりラキは、俺の自慢の教え子であった。

「ケーキが出来上がったら、ブラッド先生にも召し上がっていただきますね」
「…ああ、期待しているぞ」
「はい♪」

俺の返答に、嬉しそうな笑みを浮かべるラキ。それは………見ているこっちも気分が晴れるような、すがすがしい笑みだった。
さて、そんなこんなで市場で買い物をすませた後、せっかくなので、どこかで一休みしてから帰ることにした。別に、やましい意味での一休みではない。
学園にある市場には、喫茶店やレストランの他にも、いくつかの酒場があった。個人的には暑い昼間に冷えた麦酒でも飲みたい所だが………。

「どこも混んでるみたいですね………ブラッド先生、どのお店にしましょうか?」
「うむ、そうだな………」

清楚な装いのラキが同行者であるため、酒の入る店に連れて行くのは少々気が引ける。まぁ、学園内にある酒場なので、いかがわしい雰囲気はなさそうだが…。
しかし、外から見る限り、どの店も空いている席はなさそうだ。これでは、店を選ぶ以前に休めるかどうかも疑問だな。

「さて、どうしたものか――――ん?」

いくつかの店を回った後、日差し避けの軒下に入り、何とはなしに次の店の様子を伺っていた俺は…その店のガラス越しに、見知った顔を見つけた。
テーブル席を二人で使っている教師と生徒は…二人とも見知った顔である。その組み合わせは少々意外ではあったが、この際、それはどうでも良いだろう。

「ラキ、この店にするとしようか。ちょうど、相席を頼めそうな相手もいるようだからな」
「え、相席ですか…? あ、待ってください、ブラッド先生」

慌てた様子のラキを連れて、俺は店内に入った。店内は、黒い制服を着た学園の生徒達が大半を占めている。学園内であるため、制服でないほうが珍しいかもしれないな。
周囲から、視線を感じるが――――…気にしないことにする。なんのかんので、俺もこの学園に馴染んできたらしい………変な意味での順応の仕方ではあったが。



「すまないが、相席を頼めるか?」
「あら、ブラッド――――どうしたの、その大荷物…?」

テーブルの主に声をかけると、彼女は俺の両手に抱えられた荷物の袋を見て、呆れたような表情になった。席に座っていたのは、言わずもがな、教師長のヴィヴィである。
一人の女生徒とテーブル越しに向かい合わせで座ったヴィヴィは、見慣れたいつもの格好であった。休日くらいは、着飾っても罰は当たらないと思うんだが。
料理が運ばれてきていないのか、テーブルには水以外何も乗っていない。そのテーブルに備え付けられた椅子の一つに、俺は両手に抱えていた荷物を置きつつ返答した。

「買い物の荷物持ちだ。見ての通り大荷物でな、男手が必要だったらしい。どうせすることも無かったから、良い暇つぶしになると思って付き合っていたんだ」
「なるほどね………あら、ラキさんじゃないの」
「こんにちは、ヴィヴィ先生」
「貴方が、ブラッドを誘ったの………ちょっと意外ね」

俺の言葉に納得した様子のヴィヴィであったが、同伴者がラキだということに、少し驚いたようである。ラキはというと…その言葉に対し、控えめに微笑んだだけであった。
それはそうと――――ヴィヴィと一緒に居た女生徒のほうが、俺にとっては驚きであった。それは、誰かというと――――、

「こんにちは、ブラッド先生」
「ああ、こんにちは。何だ、進路の相談でもしていたのか、ベル」

俺の受け持つ生徒の中では、もっとも成績優秀であり――――加えて、もっとも懐かれていない女生徒である。物静かだが、芯の強い性格のベルは、俺の質問に首肯する。

「はい、卒業後の進路のことについて、先生方に意見を伺いたかったものですから」
「そうか、勉強熱心だな…それにしても、それなら俺のところに質問に来ればよかったのに。こう見えては何だが、それなりに人生経験は豊富なんだぞ」
「………………はぁ」

と、俺の言葉にベルは呆れたように溜め息をついた。普段は礼儀正しい彼女がそんな態度を取るということは、俺の言葉が彼女にとって呆れたものだったらしい。

「何だ? なにやら呆れているようだが…言いたい事があるなら、はっきり言ったらどうだ? 俺に対し、含むところがあるようだが――――」
「それでは言わせていただきますけど、確かに最初はブラッド先生に意見を伺いにいったんですよ。今朝方に」

………ちょっとまて、今朝と言ったか? 今朝、今朝は確か――――。

「職員寮の廊下で、ちょうどブラッド先生の姿を見かけたときは、フェイ先生の部屋に入る所でしたので、時間を置いてからにしようと思いましたが…」
「あー、いや、それはだな」

うーむ、フェイの部屋に入るところを見られていたのか………室内での一部始終を知られなかったのは、不幸中の幸いと言えなくもなかったが。
傍らで呆れた視線を送ってくるヴィヴィと、さすがにちょっと拗ねたような表情のラキの視線が痛い。

「しばらく時間を置いてから、食堂でブラッド先生を見かけたときは、別の女の人と楽しそうに話していましたし………声をかける機会がなかったんです」
「――――…」

うーむ、そんな事があったとは………気づかなかったとはいえ、教師としては教え子に対して立つ瀬が無さ過ぎる状況であった。
反論も言い訳も出来ず、黙り込んでしまった俺をジト目で見ながら、ベルは追い討ちとばかりに、突き放すように言葉を続けたのである。

「本当に、ブラッド先生って――――女にだらしないんですね」
「ベルさん。それはちょっと違うわ。ブラッドは、女にだらしないんじゃないの」
「え…?」

と、その時――――助け舟は意外なところから来た。俺とベルとのやり取りを聞いていたヴィヴィが、やんわりと横槍を入れてきたのである。
それにしても………こういう男女間のことでは生真面目そうなヴィヴィが、俺のことをフォローしてくれるのは、どういう風の吹き回しなんだろu――――

「こういうのはね、女に見境(みさかい)が無いって言うのよ」
「………おい」

何のフォローにもなっちゃいなかった。というより、ものの見事な一人時間差である。思わず渋い顔になった俺に、ヴィヴィは呆れたように肩をすくめた。

「だって、事実でしょう? クライスもそうだけど、貴方も相当な八方美人よね………ああ、思い返すだけでも腹が立つわ!」
「ちょっとまて、俺はそこまで八方美人ではないぞ。ただ、綺麗な女性に対して誠意をもって接しているだけで…って、学園長が、どうかしたのか?」

反論が口から出掛かった俺だったが、ヴィヴィの様子を見て、ふと気になったことがあった。あの冷静なヴィヴィが、珍しくも怒ったような表情を浮かべているのだ。
無論、仕事上のことで怒ることはある。ただ、目の前の彼女の怒りは、それとは性質を異ならせているように見えたのであった。
しかし………いったい何をやらかしたんだ、学園長。目の前のヴィヴィは、激怒したリュミスに引けを取らないほどの鬼気を発しているんだが………。

「ここ最近は、一人の生徒に付きっ切りで世話を焼いているのよ。今日だって、その娘にべったりなんだから………」
「………たぶん、エレンさんのことですね。私たちのあいだでも、ちょっとした噂になってますから」

怒りの表情のヴィヴィに気をつかってか、ベルが小さな声で説明をしてくれた。どうやら、女生徒同士でのネットワークのようなものがあるらしい。
女性が口さがないのは、人間も竜も一緒なのだろうか………しかし、そういう噂話のネタにはされたくないものだな。さらし者には誰だって、されたくは無いだろう。
それはともかく――――なるほど。要するに、何かしたんじゃなく、何もされない状態で放置されているから、ヴィヴィは不機嫌なのか。

「いくら生活態度が悪いっていっても、そこまで関与する必要はないと思うのよね………大体、そんな事をしていたら、教員の数を生徒と同じにしなきゃいけないじゃない!」
「あー………少し落ち着いたらどうだ、ヴィヴィ? 生徒達が何事かといった様子でこっちを見ているぞ」
「ぅ」

俺の言葉に、周囲から注目されていることに気づいたのだろう。ヴィヴィは気まずそうに口ごもった。クールな外見とは裏腹に、怒りっぽいんだよな。
とりあえず…これ以上、学園長の話はしないほうが賢明だろう。ヴィヴィが黙ったのを見計らい、俺はやや強引に話題を変えようと、思いついたことを口にすることにした。

「ところで…ベルの進路相談をしていたんだったよな? いったい、どんな事を話していたんだ? 進路指導とやらをする時に、参考になりそうだし…聞いておきたいんだが」
「どんな話をしていたか………? 始めたばかりだし、聞いてもあまり参考にはならないと思うけど――――今は、どんな職業になりたいか、本人の希望を聞いていた所よ」
「ああ、なるほどな――――それで…ベルは、どんな職業につきたいと思っているんだ?」

俺が話を振ると、ベルは少し驚いた様子で、俺を見返してきた。………いったいどうしたんだろうか?
その様子を怪訝に思った俺だったが…それ以上考える前に、ベルが口を開いたため、考えを中断することになった。ベルの進路希望は、以下の通りである。

「………出来れば、政務を司る事のできる職業につきたいと思っています。政務官の仕事なら、王宮で募集していると聞きましたから」

ベルの言葉に、ヴィヴィが頷くのを視界の端にとらえる。そういえば、ヴィヴィはこの学園に来る前に、どこかの国の副宰相をやっていたというのを聞いたことがある。
だとすれば、俺の出る幕は無いか――――…メイドや執事とかの仕事というなら、クーに頼むこともできるが、いかんせん王宮とは無縁なのが竜という存在なのだ。
………………ん? いや、そうでもないか。

「なるほど、王宮で働きたいわけなのか。それも、政治の仕事を――――それは、グリンスヴァールでないといけないのか?」
「いえ、特にそういうわけでは………ただ、戦争をしたいわけではないですし、レグルリア王国みたいな軍事国家は遠慮したいですけど」
「そうか――――だとしたら、私にも一つ、紹介できる国があるぞ」
「………ブラッド先生が、ですか?」

俺の言葉に、一拍の間をおいて疑わしそうに聞き返してくるベル。表情こそ平静を装ってるものの、眉がわずかに動いたのを俺は気づいていた。
まぁ、どうにもベルには不甲斐ない所ばかり見られているようだし、信用が無いのも当然だろう――――自分で言って、悲しくなるが。

「そんな疑わしそうな顔をするな。ただ単に、知己にエルブワード王国で外交の仕事をしている者が居るというだけだ」
「エルブワード………つい最近、新しい女王が即位した国よね。グリンスヴァールとは隣接してないけど、それほど遠くも無い国だったかしら」

俺の言葉を聴き、ヴィヴィが記憶をたぐるかのように、ポツリとそんな呟きをもらした。その手の情報に聡いのは、元政治家だからなのか、几帳面な性格だからか…。
多分、そのどちらでもあるんだろう。なんにせよ、エルブワードのことを詳しく説明する手間が省けたのは幸いだったな。

「ああ、その国だ。ベルさえ良ければ、その知り合いに引き合わせることも出来るんだが――――どうする?」
「それは、ありがたいですけど………離れている国の人らしいですし、ご迷惑じゃありませんか?」
「なに、気にするな。どうせ暇さえあれば…というか、無理やり暇を作っては遊びに来るやつなんだしな」

帰り際にまた来るといっていたし、どうせ近いうちにまた学園に姿を現すだろうな、あの放蕩王女は。その時にでも、ベルを紹介するとしよう。

「それにしても…ブラッドって面倒見がいいのよね。去年も、あれやこれやとラキさんの世話を焼いていたし――――意外に繊細な性格なのかしら?」
「まて、どういう意味だ、それは」

俺とベルとのやり取りを聞いていたヴィヴィが、感心したような顔で、横合いから変なことを言ってきた。まったく…誰が繊細だって?
まぁ、確かに女性に対するときは、機嫌を損ねないように気を使っているのだが…無意識にそうしてしまうのは長年培った処世術というやつである。
別に、普通の人間の女相手に気をつかう必要は全く無いんだが――――習慣というのは実に恐ろしいものであった。

「ともかく、そういうわけだから、俺のほうで話を付けておくぞ。構わないな、ベル」
「………そうですね。せっかくの機会ですし御言葉に甘えることにします………ありがとうございます、ブラッド先生」

やや強引に話を進めたのだが、かえってそれが良かったのか、ベルは俺の提案を了承すると、ほんの少しだが微笑を浮かべてくれた。
――――うむ、やはり教え子の役に立つというのは気分が良いものだ。今後も、こうありたいものである。

「…ふぅん。どうもまんざらじゃないみたいね………まぁ、私には関係の無いことだけど。あ、すみません、注文の追加、頼めるかしら?」
「はい、かしこまりました、ご注文は何になさいますか?」

俺たちのやり取りに、何か言いたいことがありそうなヴィヴィだったが、ちょうど近くをウェイトレスが通ったため、そちらを呼ぶことを優先したようであった。
ヴィヴィに呼ばれたウエイトレスが、注文を書く紙を用意しながら近寄ってきたが………しまった、何を注文するか、決めていなかった。
――――とりあえず、冷えた麦酒でも注文して、後は適当に頼むことにしよう。そう考えて、俺は品書きを探そうとテーブルの上を見渡した。

「………おや? メニューが無いみたいだが――――」
「あ、メニューならここに――――」
「はい、どうぞ。ブラッド先生」

と、向かい側の席からメニューの紙が差し出された。差し出したのはラキである。どうやら、向こうの椅子の上に置いてあったようだな。

「ありがとう、ラキ。少し見せてくれないか」

こちら側からでは、ちょうど死角になっている場所であり、見つからなかったのも当然である。俺はメニューを受け取ると、ざっと眺めてみた。
グリンスヴァールの森は自然の恵みが多い。そのため、食品の鮮度には定評がある。もっとも、季節がら、取れるものと取れないものがあるのも確かであったが。

「ふむ、こうしてみると色々な料理があるが、どれにしたものか…ベルは何を頼ん――――…どうしたんだ? なにやら顔が険しいが」
「いえ、別に」

隣に座ったベルに視線を向けると、何故かムスッとした顔をしている。いったい何事かと思う間に、ベルはメニューを広げ、顔を隠してしまった。
まあ、ベルが不機嫌なのは今に始まったことではないし、注文を決めてしまうとしよう。俺は、麦酒といくつかの料理を注文し、ラキにメニューを返した。
その後、料理と歓談を交え、俺達は緩慢に時を過ごした。勉強があるとベルが席を立ったのをきっかけに、その場はお開きとなったが…なかなかに楽しめた気がする。



その後………商店街から出た俺達は、買い込んだ食品類を届けるため、校舎にある食堂に戻った。食堂の奥にある厨房の一角に、慎重に荷物を置くと、俺は一つ伸びをする。

「ふぅ………なかなかに買い物とは疲れるものだな」

実際のところ、荷物の重量はさしたるものではない。ただ…荷物の中に、卵やら果物やら、乱雑に扱ったら大変なことになる品物もあったため、気苦労は多かったのである。

「お疲れ様でした、ブラッド先生。今、飲み物を用意しますから、少し待っていてくださいね」
「ああ、頼む」

俺に気をつかってか、飲み物を用意すると言ってきたラキに頷きを返すと、俺は食堂に戻り、空いていた席の一つに腰を下ろした。
時刻は――――食堂に備え付けの時計で確認すると、午後3時をまわったくらいの時分である。まだまだ外は炎天下であり、食堂で時を過ごす学生も多数いる。
あちらの席では、食堂のテーブルにボードゲームらしきものを置いて遊んでいるようだ。本来、食事をするための場所なんだが…とやかく言う程のことでもないだろう。

「さて…ラキは、まだだろうか――――ん?」
「ああ、こんなところにいたんですか。探しましたよ、ブラッド先生」
「学園長………何か用事でも?」

ラキの淹れてくれる茶を待っていると、食堂にクライス学園長が姿を現した。どうも急いでいる様子だが………何かあったのか?

「いえ、少しフェイ先生に用事があったんですが、見つからなくて。それで、ブラッド先生なら居場所を知っていると思いまして」
「――――フェイに何か?」

思わず胡散臭げに、俺は学園長に問う。無害そうな彼ではあるが、やはり男として、自分の女に用があると聞けば、疑って掛かるのが筋というものだろう。
そんな俺の杞憂を気づいているのかいないのか…学園長は温厚な彼に似つかわしくない、深刻そうな表情で言葉を発した。

「実は、王都から使いの者が来て………討伐した山賊が、学園付近に潜伏していると伝えてきたんです」
「………何だって?」
「それで、外出届を出している生徒達の安否を確かめたんですが、フェイ先生の担任の、水泳部だけが戻っていないみたいなんですよ」

学園長の言葉に、なんとなく嫌な予感が背筋を駆け上がった。普段なら気にも留めない出来事であったが、確か今朝のフェイは…出かける時、剣を携えてなかったはずだ。
もし山賊に遭遇した場合、徒手空拳では太刀打ちできるかどうか――――くそっ、なぜ一緒に行かなかったんだ、俺は!

「お待たせしました、ブラッド先生――――え………どちらに行かれるんですか?」
「すまん、ラキ。茶は後だ!」

フェイの安否が気になり、俺は食堂を飛び出した。ともかく、一刻も早くフェイ達を見つけなければ………。



学園を飛び出した俺は、広大な敷地を囲むように広がる森の中に足を踏み入れた。この森のどこかにフェイ達がいるはずだが――――…一つ、深刻な問題が発生した。

「確か、東の森の――――どこだ?」

よりにもよって、フェイに聞いていた水泳場所をど忘れしてしまったのである。普段から場所は聴くが、行ったことはなかったせいで、記憶に残らなかったようだ。
確か、森に入っていくつ目かの川………いや、奥から数えていくつ目かだったか………? くそっ、考え込んでいる場合じゃないというのに――――。

「ええいっ、考えている場合ではないか…! ともかく、奥に行こう」

しかし、このだだっ広い森の中を探すのは手間取りそうだ、俺は、木々の合間に僅かにつながる道を駆けつつ、どこから探そうか途方にくれそうになる。

(………そっちじゃないよ)

「ん?…――――これは」

しかし、途方にくれるより先に、俺は周囲の異変に気づくことになった。俺が駆ける道の先――――人の目では見えないほどの道の遠くが、変化しているのがわかる。
一歩進むたびに、彼方の道が一歩分、変化する――――これは、走るにつれて、どこかに誘導されているというのか――――いったい何者が…悪意は感じないが。

「ええい、ままよっ!」

どの道、探すあてもない状況だ。誰が仕込んだかは知らないが、乗ってみることにしよう。
俺は、さらに両脚に力をこめ、森が生み出した細い間道をひた走った。この道がどこに通じているのか………それは俺にも分かりそうになかった。


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