〜三十年の日記帳〜 

〜三十年の日記帳〜



風を切り、蒼空の空に舞う。眼下には、住処としている山裾。高みより見渡すと、丸い地平線の果てまで世界は続いていた。
こうして、昼間に空を飛ぶというのも、何時以来のことだろうか――――。山と海に囲まれた、箱庭のような国を見渡し、俺はため息に似た息を漏らす。
巣作りの拠点を探す竜は、普段は人目につかないように、夜の空を飛んで移動する。
月光に照らされた空といえど、街の明かりは空まで届かず、ゆえに、見つかる可能性が圧倒的に少ないのが理由だ。

俺もそうして、竜の村を抜けて幾星霜――――夜空を飛んで旅を続けてきた。だが、だからこそ、真昼の空を飛びたいという欲求が募っていた事も確かだ。
人の姿を真似て、森の中で時を過ごし……あるいは戯れに人里の市場に紛れ――――大地に足をつけ、蒼穹の空を見上げた事が何度あっただろうか?
こうして実際に空を飛んでみて分かる事……竜に限らず、なぜ空を飛ぶ大半の生き物が夜空でなく、真昼の空を飛ぶのか――――、

「――――――――広いな」

夜空では感じない、空の広さ。それは燦々と降り注ぐ太陽の下、白日の下にさらけ出される、広大なもう一つの世界。
地に住まう者達とは一線を臥した、果て無き世界に一時酔いしれる。そうして、一刻ほどあても無く飛んだ後、俺は住処の山に戻る事にした。



「お帰りなさいませ、ご主人様」

洞窟の外にある広場に降り立つと、俺を出迎えたのはクーではなく、青い髪のメイド……リィルだった。
クーの姿は見えない。俺は人の姿になると、かしこまって一礼する、リィルに声を掛ける。古参のメイドであるリィルは、クーの片腕として、彼女の行動をある程度把握している。

「ああ、いま帰った。クーは、どうしている?」
「連隊長は、麓の村々へ足を運んでいます。ご主人様の雄姿を見た住民に、事の次第を説明するとの事です」

他のメイドに比べ、幾分か引き締まった表情で、リィルは俺に報告する。どことなく軍人肌の彼女は、洞窟内の警備を一任されている。
罠やモンスターの管理の他、非常時には自ら剣を取って、メイド達を護る役目を自らに課している――――と、クーから聞いた事がある。

「そうか、入れ違いになったという事か。それで、俺はこれからどうすれば良いか、クーから何か聞かされているか?」
「はい、ご主人様は洞窟に戻り、くつろいでいてほしいとの事です。 後ほど、ご報告に伺うと連隊長が言伝を残されております」

つまりは、今のところ……俺が、他に役立つ事は無いという事だろう。まぁ、それならそれで仕方が無い。竜の間に戻り、クーが戻るのを待つとしようか。
洞窟に向かって足を踏み出し――――ふと、思い当たる事があって俺は足を止めた。そうだ、飛び立つ前にクーとの会話で出た疑問を、リィルに聞いてみる事にしようか。

「リィル、一つ聞きたい事があるんだが」
「――――? はい、私で答えられるものであれば」
「うむ、竜が誰かを背中に乗せるのは、何か意味があるのか? 先程クーに、背中に乗るかと聞いたら、えらい剣幕で怒ったのだが」

俺の質問に、リィルは沈黙する。知らないのか、知っているけど教えたくないのか、その表情から窺い知ることは出来なかった。
そうして、数分の時間が過ぎる――――うーむ、なにやら気まずいというか、いたたまれないというか。
聞くべきじゃなかったか…………そう考えた時、ポツリと黙っていたリィルが口を開いた。

「連隊長が、どうして怒ったのかは、私には理解できません。ただ、竜の伝承についてなら、お話しすることが出来ると思います」
「竜の、伝承か――――分かった、教えてくれ」
「ここで、ですか? 洞窟に戻った方がよろしいかと」

リィルの言葉に、俺は頭を振る。まだまだ日の高い昼過ぎ――――こんな天気の良い日に、洞窟内に戻るのは……少々、気が進まなかった。

「洞窟に戻っても、どうせする事など無いんだ。だったら今は少しでも、陽に当たっていたい」
「そうですか、承知しました。すぐに休憩場の手配をいたします。ご主人様は備え付けの椅子にお座りになって、お寛ぎください」
「待て待て、そんなに気を使う事は無い。そもそも、そんな大事にする必要は無いんだ」

一礼をして、きびすを返したリィルの腕を、俺は反射的につかむ。リィルは、俺の言葉にキョトンとしたような表情を見せると、首を捻る。

「ですが、主人に使えるメイドたる者、衣食住から主の嗜好の隅々に至るまで、把握をして――――かつ、落ち度の無いように世話をするように。と厳命されておりますので――――」
「――――だったら、主人である俺が、そういうことを望んでいないのも理解してくれ。別に茶なども必要ない」
「…………では、私にどうしろと?」

困ったように、リィルは途方にくれたような表情を見せる。どうも、この娘は真面目過ぎるふしがあるな。
クーなんかは、あれで時折、見た目そのままに茶目っ気を出すときもある。リィルも、クーくらい気さくな態度を取れれば良いのだけどなぁ。

「とりあえず、今は話をしてくれるだけでいい。必要な事はその場でちゃんと指示を出すから」
「はぁ」

森の広場――――芝生の敷いてあるお気に入りの場所に寝転がる。そして俺の横で、直立不動の姿勢でいるリィルを、そのままの姿勢で見上げた。
カチューシャにメイド服、ロングスカートのドレスのため、この体勢で下着を覗いてしまうという事は無いが、見下ろされているというのは、少々気が滅入る。

「リィルも、立っていないで座るように。そうだな……もし良いのなら、膝枕をしてくれると嬉しいが」
「あ――――はいっ、かしこまりました!」

思いつきで言った命令に、リィルは幾分、嬉しそうに声を弾ませたように思えた。
視界から姿が消えたかと思うと、俺の後頭部に優しく手が添えられる。逆らうことをせず頭を上げると、頭の後ろ側に布地の感触とともに、何かが差し込まれる。
俺に膝枕をしながら、相変わらずの生真面目顔で、リィルは小首を傾げて聞いてくる。

「ご主人様、具合はいかがですか? 何分、他のメイドの娘のように、柔らかい代物ではないのですが」
「ふむ――――いや、十分に気持ち良いぞ。膝枕というのは、いやに落ち着くものだな」

話半分に聞いてはいたが、実際に誰かがしているのを見たことはあっても、してもらったのは初めてではあった。
そもそも、村に居た頃は、女性が男性をいびっているか、雑用にこき使っているのがほとんどで、恋人同士の営みということ自体、ピンと来ないものだった。
大体、膝枕からして……男性竜が女性竜の頭を膝枕している光景しか見たことないのだ。幸か不幸か、リュミスに目をつけられていたため、俺が枕代わりにされたことはなかったが。

それはそうと、リィルの膝枕は彼女に言ったとおり、十分以上に気持ちの良いものであった。
鍛えられた太腿は瑞々しい張りがあり、しかし、女性特有の柔らかさも兼ね持っていた。寝転がりながら、森の空気を吸い、気を落ち着かせる。

「さて、それでは聞かせてもらおうか。竜の伝承とやらを」
「はい、私としても、人づてに聞いたことですので、確証はありませんが――――」

俺が促すと、リィルは神妙な顔をする。そうして、一言の前置きをした後、リィルの口より竜の伝承についての話が紡がれる。
深遠の森の広場、どこか落ち着いた気分のまま、俺は彼女の言葉に耳を傾けたのであった。


――――古来より、竜と人とは不可思議な関係を続けてきた。身体的に明らかに脆弱な人が、竜と対等に付き合うというのも、奇妙な話だろう。
だが、現実に竜と人とは互いに交流をし、支配し、殺し合い、愛し合ってきた。それは、双方に他の生き物が持つことの無い、知能というもののせいなのかもしれない。
竜と人との物語は、伝承として人々の間に語り継がれ……竜は長き時に自らの実体験をもって物語をつむぐ。

無論、物語は人と竜の間だけではない。天使長と暗黒竜の悲恋や、魔界の王とうら若き女性竜との大決闘など、華やかさでは負けぬ伝承も数多く存在する。
しかし、語られる物語の数で、圧倒的に多いのが竜と人との物語というのも事実である。

砂漠に捨てられた少年と、それを助けた竜の物語。ただ一人の竜騎士が、周辺七カ国を平定する英雄譚――――物語の中で、竜が人を背に乗せて飛ぶ記述は枚挙に暇が無い。
そして、いつしか竜が背に人を乗せるということに、ひとつの価値が生み出された。竜の背に乗るということは、その竜の命を預かるも同意義の事と捉えられるようになったのだ。

「そもそも、御主人様たちの身体の構造上、頭部から背中にかけては、人間態のときに比べて、常に無防備になります」
「…………言われてみれば、確かにそうだな。もっとも、背中をとられるなんてこと、そうそう有るものじゃないが」
「ええ、宙空を舞う御主人様たちの背後を取れる者は、三界に渡っても居るか居ないかは微妙なところでしょう」

天上界、魔界、人間界と三つの世界でも、竜以上に優れた戦闘力を有したものは居ないと、リィルは自らのことのように、誇らしげに語った。
だからこそ、竜が人を背に乗せるのは、特別なことなのです。とリィルは続ける。

「無防備な箇所を相手にさらすということは、その相手を信頼している証拠。まして、人型になった竜ならともかく、人間を乗せるなど稀なのです」
「なるほど、背中に乗せるのは、信頼の証、か――――しかし、それなら何故クーは怒ったのだろうか? ひょっとして、俺を嫌っているのか……」

無意味に口説いていると思われたのかもしれない――――内心で落ち込んだ俺だったが、そんな俺に、リィルはキッパリと首を振った。

「いえ……そのようなことはありません、絶対に」
「何故、そんなふうに言い切れるんだ? クーだって、迷惑に思っていたかもしれないだろう」

膝枕をされながら、俺はリィルを見上げる。生真面目な雰囲気のメイドの少女は、ほんの少し考え込み、ややあって、ポツリと呟きに似た言葉を漏らした。

「連隊長は……生真面目ですから。あの人は、自分の立場をわきまえて、ご主人様に苦言を呈したのだと思います」
「クーの、立場?」
「はい、竜が他の者を背に乗せる――――その事を風のうわさで奥方様に聞かれるのを危惧したのだと思います」

奥様――――むすっとした顔のリュミスを思い浮かべ、俺は寒くもないのに身震いした。
確かに、そんなうわさが村に届いたら…………下手をすれば、浮気したとなじられて、リュミスに半殺しの目にあってもおかしくない。

「ですから、連隊長の個人的な感情はともかく、連隊長は執事としての最良の判断をしたと思います。あと、連隊長は御主人様の事を、嫌ってはいませんから」
「嫌っていない、か――――まぁ、そう簡単に好かれるはずもないか」

そもそも、クーたちはあくまで仕事で俺に付き従っているのだ。気の合わない相手に命令されるのが嫌なのは、誰であれ一緒だろう。
俺だって、竜の村に居たときは、散々な目にあってきたのだ。もっとも、その散々な目の大半は、今の婚約者に遭わされたというのが、笑えないのだが。

「御主人様は、御自分が好かれてないとでも御思いですか?」
「それは、そうだろう? 皆、仕事でやっていることだ。本心から俺を慕うものなど居ないだろう」

皮肉気に顔をゆがめて吐き捨てるように言うが、リィルは常に無表情な彼女には珍しく……どこか怒ったように眉をしかめていた。
何か、気に障るようなことがあったのだろうか?

「御主人様、私達は主に仕えるメイドの仕事をしていますが、私達とて選り好みする権利はあるのですよ」
「?」
「ギュンギュスカー商会は、確かに仕事を斡旋してくれますが、受けるも断るも、本人の意思で決めれるのです。もちろん、仕える主に嫌気が差せば、暇も願い出れます」

リィルは、回りくどい言い方だと思ったのか、数秒の間考え込んで、再び口を開く。

「つまり、今残っている娘達は、皆、御主人様を主と認めているからこそ残っているのです。そこには、れっきとした好意があると思われますが」
「それは、クーもそうだというのか」
「はい、連隊長は見た目以上に好悪の境が明確ですから。見込みなしと判断すれば、即日撤収もよくありますので」

そう言われ、俺は喉の奥でうなった。ある程度、好かれているのは嬉しいが、クーの機嫌を損ねれば、今の巣が壊滅状態になる事も理解できたのだ。
クーは、この巣とメイド全員を統括している。彼女が本気になれば、俺の命令など聞かず、メイド全員を連れて出て行くことも可能なのだ。
――――なるたけ、クーを怒らせないようにするか……もっとも、そうやって気を遣うのが、問題になるかもしれないし、難しいのだけど。

「兎も角、御主人様は皆に好かれていらっしゃるのです。自信を持ってくださいませ」
「……そうだな。度が過ぎれば嫌味だろうが、好かれているのは嬉しいと思う」

素直な感想を口にすると、怒っていた彼女の顔は、いつもの無表情に戻った。
どうやらこれは、機嫌を直したと考えて良いのだろうか。掛ける言葉を考えて、俺は沈黙する。
リィルも、話すことはもう無いのか、口を開くことも無く……たださらさらと、木々の間を風が抜ける、梢のざわめきが耳に届いた。

「ところで――――リィルは俺の事をどう思っているんだ?」
「――――え」

それは、沈黙に耐え切れなくなったのか、それとも、心地よい沈黙が言わせたのか、俺は知らず知らず、リィルにそう尋ねていた。
見上げる俺の頭上、俺に膝枕をしていたリィルは、戸惑ったように頬に手を当てた。その頬が、赤くなっているように見えたのは、錯覚ではないだろう。

「どうした、主人の問いに答えるのもメイドの義務だろう?」
「あ、ぅ、その……」

からかうように、重ねて問いを投げかけると、リィルは落ちつかなげに、そわそわと身じろぎをした。
うーむ……なかなか楽しいかも。思えば、いつも弱い立場である俺が、優位に立つことなんて……これが初めてじゃないだろうか?
もっと、からかってみようか――――そんな不埒なことを俺が考えたそのときである。

「こほん」
「きゃっ!?」

すぐそばで、咳払いが聞こえると同時に、慌てたようにリィルは立ち上がった。当然、彼女に膝枕をしてもらっていた俺は――――、

ごっ

…………後頭部強打。なかなかに痛かった。とはいえ、痛みに耐性は出来ていたので、俺は頭をさすりながら、上半身を起こした。
周囲を見渡すと、そばには、直立不動で緊張した様子のリィルと、そこから少し離れて――――、

「クー?」
「はい、ただいま戻りました、御主人様」

ニコニコ笑顔で、俺専属の執事の少女は、笑っている。笑っているのだが――――なんとなく、クーが怒っているように見えるのは気のせいではないだろう。
それが誤解ではないのは、俺の隣で緊張したように直立不動で立ち尽くしているリィルの様子を見れば、一目瞭然だった。

「リィル=アィリィ少佐、貴方には、ダンジョンの警備全般と、モンスターの召還手配を命じたはずですが」
「はい、それでしたら準備は終了して、後はご命令を待つばかりですが――――」

よどみなく返答をしたリィルは、そこで言葉を詰まらせる。クーは笑顔のままだが、何気に怒りマークの青筋が立っているのを目ざとく見つけたようだ。
リィルは、まるでどこぞの軍人のように、びしぃっ! と敬礼すると……、

「今一度、再確認をしてまいりますっ!」

そう言うと、律儀に俺に一礼をしてから、洞窟のほうへと小走りに走っていってしまった。後に残ったのは、俺とクー。

「ふぅっ……まったく、何をしてるんですか、御主人様」
「何って、まぁ、普通に昼寝を……そういえば、クーは麓の村に行ったと聞いたが」
「はい、交渉をある程度――――集落のうちいくつかは、定期的に貢物を捧げてくれるそうです。これで、当面の借金地獄からは開放されますよ」

クーは成果を報告するが、言葉の内容に反して、口調のほうはさえない。何か、問題でもあったんだろうか?

「クー、いったいどうした? なにか、悩んでいるみたいだが――――」
「悩みというか……頭痛の種というか――――御主人様、まさかリィルに手を出していませんよね?」

唐突にもほどがある質問を、クーは俺に投げかけてきたのだった。

「いきなり何なんだ、それは。そもそも、リィルが許すわけないだろ? いくら死なないといっても、三枚に下ろされるのは遠慮したいしな」

正確には、死なないというよりも、死んで竜の姿に戻るだけなのだが――――文字通り、シヌホド痛いので、勘弁してほしい。
リィルの剣の腕は、一度見たことがある。実験で呼び出した魔物を、瞬く間になます切りにしてしまうあたり、相当な腕前ではあった。
そんなわけで、リィルを押し倒そうとしても、その前に首を刎ねられるのは確実だし……俺は彼女にそんな欲求を持っていなかった。

「――――そうでもないんですけど」
「?」
「まぁ……ともかく、言っておりませんでしたが、御主人様との契約書の隅っこに、注意事項が書かれてるんです。もっとも、あんな契約書、隅から隅まで読む人もいませんけど」

契約を取り付けた本人が、そういう問題発言をするのはいかがなものかとも思うが、クーは俺の表情を気にせず、話を続ける。

「要は、私達は御主人様に服従しますが、その代わり、御主人様も最低限の節度を持って私達に接してほしいという内容です」
「それは、つまり……どういうことだ?」
「――――単純に言うと、セクハラ、強制の性行為の類は厳禁という事です。ちなみに、性行為については和姦でも禁じられてます」

性行為、という単語をさらりと述べるあたり、クーはこの手の説明に慣れているということだろうか?
どう見ても、身体上(特に胸)は発育途上の少女が言う台詞ではないとは思うのだが、クーの説明は続いている。

「禁止された行為を行った場合、当然ペナルティが科せられます。かなりきつい罰ですから、絶対に守ってくださいね」
「――――話はわかった。しかし、その、和姦でも禁止というのは……?」
「はい、彼女たちはギュンギュスカー照会の所有物ですから。商品価値を下げるのを恐れての規律だと思います」
「……嫌な表現だな、所有物とは」

苦い物でも飲み込んだときのように、嫌な感じとともに、俺は顔をしかめた。
所有物、商品価値――――しばらく一緒に暮らしていて、彼女達のことは多少は分かっているつもりだったが、思った以上に彼女らの立場は厳しいのかもしれなかった。

「あ、そんなに気になさらないでください。確かに言い方は悪かったですけど、それと引き換えに、生活面においては充分以上に補償されているんですから」

が、そんな俺の考えとは裏腹に、クーは微笑みながら、あっさりとそんな事を言ってのけた。

「貞操を守ることもできますし、レディとしての教育も受けれると思えば悪い条件ではありません。炊事、洗濯、料理に護身術……得るものは多いですから」
「…………そういうものか」
「はい。少なくとも、私は……後悔してはいませんから」

巣の外に広がる森のなか、広場の木陰が生み出す、木漏れ日の中で誇らしげに……クーは微笑みながらそう言葉を締めくくった。

「さぁ、そろそろ巣に戻りましょう、ご主人様」
「……ああ」

クーに促され、俺は立ち上がる。さまざまな事を知った昼下がりの時間は、こうして幕を閉じたのであった。


「それでは、料理も出来たことですし――――宴のはじめに、巣の発展と今後の展望を期待して、ご主人様に乾杯の音頭をとってもらいましょう」
「分かった……皆、堅苦しいことは抜きにしてくつろいでくれ。 乾杯!」

「かんぱ〜〜〜〜いっ!」

その日の夜、ささやかながら祝宴が設けられることとなった。
さっそく届けられた貢物のうち、日持ちのしない食物や、家畜類を捌いての贅沢なご馳走がテーブルに並べられる。
メイドの持ち込んだものか、ワインやら醸造酒やらもすでに何本か空けられ、料理の香りに混じり、酒の匂いも漂ってくる。
…………しかし、どう見ても俺を含め、全員未成年なような気もするが、良いんだろうか?



まぁ、登場人物は全員成人以上などと言うお題目は、お約束なのだろうが。



「御主人様、くつろいでます?」
「ああ、クーか。 そこそこ、気楽にやっているぞ」

ワイングラスを手に、さて、どの勝利から手をつけたものかと悩んでいると、ビールのピッチャーを手に、クーがこちらへと歩いてきた。
その顔はほんのり赤いとはいえ、まだまだ酔っているようには見えなかった。
竜の間に、メイド全員が集まって思い思いにくつろいでいる現状――――改めて周囲を見渡すと、そこそこの数のメイドが居るなと感じることが出来る。

そもそも、竜の巣全域を綺麗にするのに、どれだけの数のメイドが必要なのか……それだけでも十人やそこらでは足りないだろう。
加えて、罠やモンスターの設置、己の身の回りの世話なども踏まえれば、これだけの大所帯になるのも当然と言えた。

「そう言えば、さっきの挨拶は、ちょっとそっけなさ過ぎましたよ。もっとビシッ、と威厳を感じるくらいの気迫で話をしてくれないと――――」
「まぁ、そういうな。前置きのクーが長すぎたんだ。俺が少しくらい短くしても、罰は当たらないだろう」

実際、宴会前のクーの「一言」は、メイドの心構えから巣の現状、加えてこれからの方針など、延々と十五分に渡って続けられていた。
料理が出来るまでの、時間つぶしと思えば気は楽だが、部下であるメイド達にしてみれば、クーの言葉を聞き流すわけにもいかず、気が気ではなかっただろう。

「そうですか? そんなに長く話したつもりは、なかったんですけど……」
「そう深刻に、悩むほどのものでもないさ。そら、まずは一杯」
「あ…………どうも」

クーの手からピッチャーを奪い取り、手近に合った空のグラスをクーに押し付けて、黄金色の麦酒を注ぐ。
コポコポと泡立つ液体をこぼさないように、クーは喉を鳴らして一息に飲み込んだ。
ふぅ、と息苦しさから開放されたのか、クーは小さな吐息とともに、リラックスしたように肩を落とした。

「それでは、返杯しますね。さ、御主人様――――」
「っと、分かった分かった」

クーからグラスを手渡され、代わりにピッチャーを持っていかれ、俺は苦笑をしつつ、グラスを差し出した。
ドポドポと溢れんばかりに注がれた酒に口をつける――――むせかえるような麦の香りと、荒い味わいが喉を通り、俺は四苦八苦しながら麦酒を飲み干した。

「――――ふぅ、なかなか慣れないものだな、酒というのも」
「何事も、繰り返しですよ。いずれ御主人様も、お酒の美味しさは分かるように成りますから」

けろっとした表情でクーはそんな事を言う。どうやらクーの方は、かなり酒を飲みなれているようだった。
俺はと言うと、何度かリュミスに無理やり飲まされた他は、さしたる経験もなかったため、未だに酒が旨いとはどうも思えなかった。

「――――酒は大人になってからと習わなかったか?」
「大丈夫です、こう見えても、立派な大人ですから」

酒に不慣れな俺がおかしいのか、得意そうにそう言って笑うクー。……思えば、このとき俺はすでに、少々酔い始めていたのかもしれない。
ここに居付いてから、初めての宴会ということもあり、少々気が大きくもなっていたのだろう。でなければ――――……あんな命知らずな真似をしようとは、思わなかっただろう。

「ここは大して育ってないのにな」

むに

「…………へ?」

何をされたのか、よく分かっていないクーの顔。何と言うか、酔っ払った俺の手が、執事服の上からクーの胸を揉みしだいていたのだった。
ポカンとした表情のクー。無反応なのがつまらなかったので、俺はそのまま、手を動かしてむにむにと揉んでいると……一瞬で、クーの顔が真っ赤になった。

「いぃぃぃぃぃぃぃやぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」


ガス!!


やたら鈍い音とともに、目の前で星が散った。昏倒して床に倒れこむと、俺に馬乗りになってきたのは、クー。両手には、木製のピッチャーを持っている。
どうやら、あれで俺の頭を強打したらしい。いや、らしいというか、これは――――

「ま、まてっ、ピッチャーはそういう風に使うものじゃ……」
「きゃーっ、きゃーっ!!」

ガス!! ガス!! ガス!!


かわいらしい声を上げながら、ピッチャーを振りかぶり、何度も俺の頭部に叩きつけてくるクー。
どうも錯乱しているのか、こっちの言葉など、聴く耳を持たないようだった。

「れ、連隊長――――!? クー、離れなさいっ!」
「いやーっ!! って、あれ……? 私、何を――――ご、御主人様!?」

慌てたようなクーの声が、遠くに聞こえる――――酒のせいか、殴られたせいか……痛みを超える眠気とともに、俺の意識はふっと途切れたのだった。



目を覚ますと、そこには天蓋つきの大きなベッド――――ここは、俺の部屋、か?

「お目覚めですか、御主人様」
「その声…リィル、か」

鈍く痛む頭をさすりながら身を起こすと、ベッドの傍には直立不動で立つ、青い髪のメイドの姿があった。

「俺は何故…………いや、そうだったな」
「はい、連隊長に殴られ、昏倒したところを運ばせていただきました」

淡々と、事実のみを報告するリィル。まったく持ってその通りだったため、俺としては苦笑するしかない。
しかし、あれから宴会はどうなったんだろうか? 一応主賓である俺が倒れて、お開きになったのか、それとも――――、

「御主人様が目覚めるまで、時間にして、小一時間ほどでしょうか。皆には、そのままで待機するように命じてあります」
「そのまま、とは、宴会場にか?」
「はい、お酒も入っているのせいか、伝えた命令が『構わないで盛り上がってろって〜』に変わっていましたが、その方が混乱が少ないと思われますので、看過しました」

そうか、まぁ、日ごろからよく使えてくれるメイド達だ。俺のことを気にせず、盛り上がっているのは良しとしよう。それよりも――――、

「それで……………………………………クーは?」
「…………自室謹慎中です」

先ほどよりも幾分、声の調子を落として、リィルは淡々と報告をする。無表情だが、何となく怒っているようにも見える。

「謹慎とは……俺は、そんなことを命じた覚えはないが」
「これは、連隊長の自己判断です。彼女は、自分には厳しいですから」

ふと、その口調に違和感を覚えた。なんとなく、俺がクーに殴り倒される瞬間、どこかで聞いたような声がしていたと思ったが――――、

「リィルは、クーと知り合い……いや、親友なのか?」
「……何故、そのような事を聞かれますか?」
「理由はない。ただ、クーのことを名前で呼ぶメイドは、見たことなかったからな」
「――――覚えていらしたんですね」

俺の問いに誤魔化すこともせず、リィルは素直に、そのことを認めた。そう、あの時クーを止めに入ったのは、聞き覚えのある声……目の前の彼女だったのだ。

「御察しの通り、私と彼女…連隊長は、昔馴染みの職場仲間です。もっとも、常に彼女の方が上役という関係でしたけれど」
「ふむ……そういう者が多いのか? クーが巣に連れてきた、メイド達…リィルも含め、全員がクーの顔なじみだと?」
「いえ…昔から彼女の部下だったものは、今は各方面に出払っていて、今、巣に居るものは私と、あとはミュアくらいなものでしょうか」

リィルの言葉に、俺は、付き人の一人であるミュアの姿を思い浮かべる。
いいかげん、彼女達のことは空気のように接してください――――と、無茶を言うクーの言葉に反するように、ミュアもまた、印象の強いメイドだった。
無口で物静かなリィルとは正対称に、ミュアは常に間延びした声で、口数多く、俺に話しかけてくる。

「あ〜、ごしゅじんさま〜、お目覚めですか〜」
「今日も〜、いい天気ですよ〜、はい、おきがえしましょ〜」
「きょうは〜、ハッサン国の紅茶を手に入れたんです〜、連隊長には内緒ですよ〜」

…おかげで、リィルと居る時は口数が多く、ミュアと居る時は無口になると、メリハリの利く毎日を送っているのだった。

「…ともかく、長い付き合いですので、連隊長の矜持は理解できています。御主人様に暴力を振るうなど、自身が許せないのでしょう」
「しかしな、あれは完全に俺が悪いのだし…………その程度の失敗を気にしていては、仕事など、出来ないのではないか?」
「いいえ、気にもするでしょう。少なくとも、私は一緒に仕事をしていて…連隊長のミスなど、見たことはありませんでしたから」
「……なに?」

リィルの言葉に、唖然とする俺。失敗をせずに仕事をするのが難しいことは、竜の村に居たときに身にしみて分かっている。
クーとリィルの付き合いが、どれほど長いかは分からないが――――話を聞いた限りでは、かなりの年月、彼女はクーと共に行動しているようにも思える。
その彼女をして、ミスをしたことのないと言い切らせるあたり…クーの仕事への情熱と、精密さはかなりのものになるのだろう。

「無論、書類上の不備など、そういった些細なミスがないとは言い切れません。ただ、雇用主に対しては、トラブルのないように、連隊長は距離を置いていましたから」
「――――話は分かった。俺に怪我をさせたのを、責任を感じていることもな………初めての失敗で、落ち込むのも分かる」
「………」

言いながら、俺はベッドから降りた。別段、眠っていたわけではないので、服はいつもの普段着である。
さすがに、少々酒臭いような気もしたが………何より最優先に、しなければならないことがある。

「ただ、それで勝手に謹慎されるのも困るな。俺は一々、メイドに指図をするような事をしたくはないし、クーでなければ分からないことがありすぎる」
「御主人様、それでは……」

ほんの少し声色を高く、期待をもって俺を見つめるリィルに、せいぜい格好よく見えるように、俺は重々しく頷いた。

「ああ、クーに命じてくる。謹慎などゆるさん。早く出てきてくれ、とな」
「――――連隊長を、お願いします。 連隊長の部屋までは…このリィルが、ご案内いたしますので…」

俺に傅くように、深々と頭を下げるリィル。そうして俺は、リィルの先導で、クーの部屋に向かうのであった………。


竜の間からさらに下層部――――クーやメイドたちの居住区であるその区画は、今まで俺が立ち入ったことはなかった。
生活するには、洞窟内や外の森、竜の間だけでも十分に事足りてはいるし、クーがこの区画への俺の立ち入りを嫌がったこともあったが。

『いちおう、この辺りはメイドである彼女達のプライベートな場所ですし…いえ、御主人様がどうしてもと言われるのでしたら、断る理由はありませんけど』

と、そんな風に言われては、さすがに腰が引けてしまう。しかし、反面、興味が出来たことも確かだったが。
石造りの通路を、リィルを先導に…俺は歩を進める。普段は、この場所で生活するメイド達…宴会に夢中になっており、今は誰も居ないのだが。

「しかし、入り組んでいるな………いったい、どこをどうやって歩いているのか、さっぱり分からないのだが」
「ええ、この区画は特に入り組んでいますね。慣れているものなら兎も角、初見の者では迷子になるのが実情だと思われます」

と、口ではそんな事を言いながらも、リィルの足取りに迷いはない。交差路でも立ち止まることのない仕草から、この辺りに精通している事が窺われた。

「リィルは、この辺りの地理は把握しているのか?」
「はい、幸いにも、割り当てられた部屋は、連隊長と同じ区画でしたので。もし違う区画なら、別の者に頼む必要がありましたが」
「それは、幸いだな………宴会のあの様子では、皆、酔いつぶれているに決まっている」

さすがに、酔っ払いに先導などさせては、本気で遭難しかねない。そんな事を考えていると、くすっ、笑いを漏らした声が聞こえる。

「…確かに、そうですね」

背を向けているが、どうやらリィルは微笑を浮かべているようだ。しかし、ここ最近で随分と印象が変わったように思える。
最初は、ただ無愛想なだけのメイドかと思ったが、話してみると、彼女が友人思いの、優しい女性であることが分かった。
こうして一緒に居ても、気が滅入ることもないし――――正直な話、彼女に興味が沸き始めているようなきがする。

「ともあれ、今はクーの事が気がかりだ。急ぐとしようか」
「はい…御主人様」

しかし、口にした言葉どおり、今はクーを何とかする事が第一だろう。俺が悪いことをしたのは確かだし、それが元で引き篭もられたら、俺の立場がない。
ほんの少し、足早になったリィルの後を追って、俺は石造りの通路を先へと急ぐのだった。



「こちらの部屋です」

俺を案内していた、リィルが立ち止まったのは………入り組んだ洞窟の一角、何の変哲もない木製の扉の前であった。
なんの変哲もない扉。先ほど、同じような扉が開いていた部屋を横目で見たとき、さして広い部屋ではなかったことを覚えている。

「随分と、質素なつくりだな。連隊長というのなら、もう少し豪華な部屋に住んでいるものと思っていたのだが」
「連隊長自身が、華美な装いを好まない性質ですので…………連隊長、よろしいですか?」

そう言って、トントンと規則正しいテンポでリィルがドアを叩く。が、返答はない。
怪訝に思ったリィルが、ドアノブに手を掛け、ガチャガチャとひねるが、それは硬い音を出すだけであった。

「…鍵がかかっているようですね」
「そうか」

リィルの言葉に、俺は渋い顔をする。一筋縄でいくとも思えなかったが、最初の部分で躓いてしまったようである。
しかし、どうするか………時刻は夜半、ひょっとしたら寝ているかもしれないな。などと考えていると、

「誰?」

僅かではあるが、小さな誰何を求める声が、ドアの向こうから聞こえてきた。リィルと俺は、顔を見合わせて…俺は無言で、リィルに話をするように促した。

「連隊長、リィル=アイリィ少佐です。折り入ってお話があるのですが」
「そう、分かったわ。ちょっと待ってて」

クーのその言葉に、俺とリィルはホッとしたように息をついたのだが――――、

「………待って。他に、誰かいるの?」

その僅かな気配を感じたのだろう。ドアの向こうのクーが、どことなく硬い声を出したのが分かった。
何となく、嫌な予感を感じたのは、女性が不機嫌になる瞬間を………竜の村で、何度も見せられたからかもしれない。
しかし、俺が口に出すよりも早く、リィルはいともあっさりと、俺がいることをばらしてしまった。

「御主人様がいらっしゃっております。連隊長にお会いしたいということなので、ここまでお連れしたのですが」
「……………………」

沈黙が、おちる。ドアの向こうで沈黙しているクーの様子がはっきりと見て取れるようで、俺は無言で首を振った。
この場に俺がいるのは、至極まずいと思う。少なくとも、クーにとっては顔をあわせづらいだろう。だが、

「連隊長…? 扉を開けてください」

場の空気を少しも読めていないリィルは、扉の向こうにいるクーに向かって、淡々と話しかけていた。

「――――」
「連隊長…いかがいたしましたか?」
「駄目、開けれない」
「え? ど、どうしてです、連隊長!?」

慌てたように、扉の向こうに声を掛けるリィル。しかし、クーの声は、ますます硬くなるばかり――――、

「そこに、御主人様がいらっしゃるんでしょ? あんなことをした後じゃ、顔を合わせることなんて出来ないわ」
「ですが………」
「いいから、御主人様を連れて帰りなさい、リィル。これは命令です」
「なっ………」

クーの言葉に絶句するリィル。確かに、この場はクーのいうとおり、一度引き下がった方が良いだろう。
しばらく間をおかなければ、確かにクーとしても、顔をあわせづらいだろうしな――――と、俺は思ったんだが………
その時、妙な気配を感じ、俺は視線をそちら………クーの部屋の前に佇むリィルに向く。カタカタと震えていたリィルだが、何故か、その全身から鬼気のようなものが――――、

「連隊長、扉から離れてください。ドアノブを斬り飛ばします」
「え、な………何を考えているの! リィル!」
「いいから、離れなさいっ! クー!」

その言葉と共に、銀光が閃くと――――クーの部屋に続く扉が、コマ切りにされた肉片のようにバラバラと崩れ落ちたのだった。
いくら木の扉とはいえ、一瞬でここまでするとは――――正直、リィルの腕を過小評価していたのかもしれない。
当人はというと、抜いた刀身を鞘に戻しながら、涼しい顔で俺に向きなおった。

「お待たせしました。参りましょう、御主人様」
「あ、ああ」

いささか乱暴ながら、リィルはこうして、道をつくってくれた。あとは、俺の出番というわけか。
既に扉としての役にも立たなくなった、木片の山を踏み越えて、こうして俺は、クーの部屋へと足を踏み入れたのであった。


瓦礫と化した木の扉をまたぎ、俺はクーの部屋へと足を踏み入れた。
他の部屋と同様の、こじんまりとした部屋。一人部屋であろう場所は、持ち主の意向通りの質素なたたずまいで…それでいて、女性特有の香りが部屋に満ちていた。
いきなりな事に驚きながらも、部屋の主であるクーは、いつも通りの燕尾服に身を包んだままで、俺を出迎えた。

「ご主人様…」
「ああ、その、元気なのか、クー?」

我ながら、間の抜けた質問だとは思うが、とっさに気の効いた言葉を言えるような経験もないため、俺の言葉も無難なものになっていた。
クーは、どこか陰のある表情で、それでも愛想笑いを浮かべている。

「私は、特に怪我をするようなことはありませんでしたから…それより、ご主人様の方こそ、お身体のほうは大丈夫ですか?」
「過小評価をするな。竜である私が、あの程度のことで怪我をするわけないだろう」
「そうでしたね…」

そういうと、クーは静かな顔で俯いた。俺は気にしていないというのに、そこまで気落ちする必要もないだろうに。
そのままでは、どこまでも沈黙をしていそうなクーに、俺は静かに言葉をかける。

「だから、あの程度の事件は些細なことだ。お前が気に病むこともないだろう」
「………いいえ、それでも、あれは私の不注意なのです。必要以上に、私の方から接近したから、あんな事になったのですから」

あんな事――――酔っ払った俺のセクハラ行為でクーが俺を殴り倒した事件………どっちが悪いのかと聞かれれば、まず間違いなく俺が悪いと言いきれる。
しかし、クーは自分の行動があのような惨事を招いたと言って聞かないのだった。

「本当に数歩だけ、ご主人様の手の届かないところにいたら、あんな事は起こらなかったんですから。今までは、あんなミスはしなかったのに」
「ということは………今まで仕えてきた相手には、そうして距離を置いてきたのか?」
「はい、私の魅力云々は関係なしに、距離を置くのは当然ですから…でも、今日はちょっとだけ浮かれて、失敗したんです」

だから、悪いのは私です。と、クーは懺悔するようにつぶやいた。その言葉に、俺は憮然とする。
クーとしての理屈はそれで良いのかもしれないが、距離を置いていたほうが良かったといわれるのは、さすがに心外である。

「クー。私としては、今日みたいにクーに近づいてきてくれた方が嬉しい。殴り倒されたのは、私の不注意だったしな」
「いえ、ですが」
「まぁ、聞け。竜の巣作りを始める前に、少なからず竜の生態については調べただろう? 男性竜と女性竜の間柄もクーなら知っているはずだ」
「――――」

俺の問いに沈黙を護っていたクーだが、俺の問いが間違いでなかったのは、その表情が痛切に語っていた。

「そういうわけで、私としては女性に対しては………その、恐怖以外を感じなかった――――クーと出会うまでな」
「それは………どういう意味でしょうか」
「言葉通りだ。別に恋愛感情があるというわけではない。ただ、この一年で少なくとも、私はクーと一緒にいることは嫌ではなかった」

そう、一日で必ず数度は、クーと顔をあわせ、会話を交わす――――それはいつの間にか、日常になっていた。
いまさらながらに思う。俺とクーが出会ったのは、俺にとって生涯最大の幸運だったのかもしれないと。

「だから、あのような一件で、クーが俺と距離を置いてしまうのは、正直寂しい。毎朝、クーの声を聞くのは日課になっているしな」
「………」
「ともかく、俺の言いたいことはそれだけだ。正直…俺が言えた義理ではないというのは分かっているが」

俺は、口を閉じる。クーの表情は俯いていて分かりづらい。それでも、多少は俺の言いたいことを汲んで欲しいと思う。
そうして、深刻ではあるが、長くはない沈黙の後――――黙っていたクーがポツリと口を開いたのだった。

「私のスタンスは変えれません。でも、明日からはまた………いつも通りに朝の挨拶を、させていただきますから」
「そうか」

クーが再度距離を置くのは…少々残念だが、それでも謹慎をとりやめたことに、俺はホッとした。
少なくとも明日からも、俺はクーと共に巣作りを続けることが出来るのであろうから。そんな事を考えていると、クーは俺の背後の方に視線を移した。

「それはそうと、リィル。私の命令に従わなかったんだから、減給一ヶ月ね」
「はい、覚悟しています」

ほんの少し、怒ったような視線を俺の背後に向けていたクーだが、ふっ、と表情を和らげた彼女は、照れ笑いの表情を浮かべる。

「あと、友達としてお礼を言わせてもらうわ。ありがとう」
「ええ」

その表情は、歳相応の少女のものであり、何とはなしに見ほれてしまっていた。ともかく、用件は住んだし部屋から出るとしよう。
そうして、出口を振り返ると、そこには仏頂面のリィル。しまった、彼女の表情を確認するのを忘れていたな。
いつもは無感動の彼女が浮かべていたのは、照れ笑いであろうが…結局その表情を見るのに、俺は今しばらくの歳月を費やすことになる。

「では、私も部屋に戻る。いいかげん、酒臭い服から開放されたいしな」
「はい、お休みなさいませ。リィル、ご主人様のこと、お願いね」
「――――了解しました」

クーに頷きを見せるリィルに先駆けて、俺は部屋を出る。さて、部屋に戻ったら、今夜はさっさと眠るとしよう。
今日は久方ぶりに、心地の良い夢を見られそうであった――――。

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