〜アルイエット戦記〜 

〜大陸南方の攻防戦〜



ビルド地方の反抗勢力を救援するという名目で、ハイマイル砦を発ったエルト王国軍は、反乱勢力を吸収しつつ、ヴィスト王国軍を駆逐し、ルトの街を占領した。
軍隊として、ようやく機能し始め、士気も高いエルト王国軍。対して、ヴィスト王国軍は、未だ、エルト王国軍に対し、弱小国の軍だと、たかをくくっていた。
進行上にあるベイルラン砦を陥落し、エルト王国軍はビルド平原を北上、南進してきたヴィスト王国軍との正面決戦に移行した。
兵数的には少数である、エルト王国軍はじりじりと後退を続け、ベイルラン砦に立てこもった。それを追撃しようとしたヴィスト王国軍だが、堅牢な砦に攻めあぐねていた。
そうこうしているうちに、北東のレイテスタの森を抜けたエルト王国軍の一部隊が、ルトの街を占拠してしまったのである。

「やれやれ、毎回、楽に勝たせてもらえればいいんだがな」
「楽に、っていっても、苦労はしたんだけどね…」
「…ああ、悪かったな。今のは言い方が悪かった。苦労をねぎらう意味で、頭を撫でてやろう」
「………もう、調子が良いんだから」

ジン=アーバレストの得意とする戦術の一つとして、無駄な戦いを避け、一気に敵本拠を落す戦法がある。
敵が守りを固めている場合は、敵中に孤立し、各個撃破の的となってしまうが、敵が油断をしている場合は、もっとも有効な戦法の一つであった。
本拠を失ったヴィスト軍は、指揮系統を混乱させて逃走し、ビルド地方の南部は、エルト王国軍の支配下に入った。



その後、勢いに乗ったエルト王国軍は、都市クルガ、都市クングールを奪取――――ビルド地方の最重要拠点、マックラーを目指すこととなった。
この間、奈宮皇国、ノイル王国へ援軍に行き、多大な戦果をあげ、エルト王国軍は、まさに向かうところ敵無しといった様相である。

エルト王国軍としては、順調に事が運んでいるのだが………大将軍であるアルイエットにとっては、この時期、少々、鬱屈した気持ちを抱いていた。
その理由は………言わずもがな、ジンの女ぐせの悪さにあった。もともと、多数の女性と関係を持っていたジンであったが、ここの所、さらにその数が増えていたのである。

「申し訳ございません、ご主人様は女性と同衾なさっており、火急の事態以外は取り次ぐなと命じられております」
「………そう、いいわ、分かりました」

軍務についての質問をしようと、夕刻にジンの部屋を訪れたアルイエットだが、彼の部屋の扉の前で、門前払いを食らっていたのであった。
アルイエットに事情を説明しているミゼという名前の少女は、つい最近になってジンの世話役となったメイドの少女である。
彼女をはじめ、多くの女性がジンの世話役として、傍に控えていた。彼女達のほとんどが、ジンの寵愛を受けており、それもまた、アルイエットには面白くない。

ジンが女性を籠絡するのは、政治的、軍事的な理由があることもあったが、その大半は、わざわざ篭絡する必要もない事情であった。
それでも、事あるごとに様々な女性と関係を持つのは、女好きという以外に表現しようが無い。加えて本人も、その事を否定しないのが、たちの悪い話であった。

「その、ご主人様には言伝を伝えておきますので………」
「ええ、お願いね。それじゃあ………」

ミゼの言葉に頷くと、アルイエットは踵を返した。一度、無理を言って通してもらった事があるが、その時は、気まずい想いをする羽目になった。
ジンは女性を抱くことを止めず、平然とアルイエットの問いに答えたからである。なんというか、勉強の最中に、隣で性行為をされているといえば、分かるだろう。
無論、そんな状況では、ジンの説明など頭に入る事も無く、同衾していた女性からは恨みがましい目を向けられたりと、散々な目にあったのである。

以来…ジンが女性と睦みあっている場に、アルイエットが乱入することはなかった。ジンに気を使ってという事もあるが、その場を見たくないという気持ちもあった。
正直なところ、アルイエットにとっては、ジンはもっとも親しい男性であり、教師であり、憧れに近い感情を抱いていることは間違いなかった。
とはいえ、それが愛情に発展するには、今しばらくの時間が必要になるのだが――――今のところは、そんな気持ちをもてあまして鬱屈しているだけである。

「しょうがないわね…とりあえず、今日の仕事を終わらせてから、また来ることにしよう」

溜め息交じりに呟いて、アルイエットはその場を離れた。ジンが女性関係で忙しい時期は、アルイエットは、こうして独りで仕事をすることが多くなっている。
実のところ、こうした状況が、個人としてのアルイエットの成長には、良い状況であった。ジンという支えがなくても、いまの彼女なら自分で考え、行動できるだろう。
ジンが、そこまで考えていたかは不明だが………この時期に限り、アルイエットとジンの間には、奇妙な距離感があったのは明白な事実であった。
奈宮皇国の一葉皇女や、ノイル王国のルティモネ王女、さらにエルト王国内ではエルネア女王と、女性関係に忙しかっただけかもしれないが…言わぬが華というものである。



「突撃、突撃ぃ! 何があっても突撃だー!」
「ひぃ、ひぃ………も、もう、勘弁してくださぁい」

練兵場に、悲鳴じみた掛け声が響く。アルイエットが兵を鍛えるために、部隊を引き連れて平原に赴くと、そこには既に先客がいた。
しばらく前に、ヴィスト王国軍から転向し、一部隊を任せられる事となった獣人の少女…その実力は折り紙つきだが、いかんせん、与えられた兵は新兵ばかりであった。
その為、戦場で功を立てるよりもまず先に、部隊の生存率を上げるために、日夜過酷な訓練を施している最中であった。

「も、もう立てません………隊長、休ませてください」
「何を言うんだ! まだまだ限界じゃないはずだ! 復唱しろ! お帰りなさいませ、ご主人様!」
「お、おかえりなさいませ、ご主人様」
「おかえりなさいませ、ご主人様」
「おかえりなさいませ、ご主人様!」
「………何を言ってるのかしら、あれ」

大声で復唱する兵士達の叫びを聞いて、アルイエットは呆れた風に眉をひそめる。活気付けのための掛け声なのだろうが、台詞が場違いのような気がしないでもない。
ちなみに、この復唱は、新兵としての訓練事項のうちに含まれていたりする。エルト王国の古参の兵は、この復唱を習わなくてホッとしたとか何とか。

「よし、一時休憩する! 今のうちにしっかり身体を休ませておけよ!」
「おつかれさま、頑張っているみたいね、ネイ将軍」
「ん………ああ、アルイエット将軍か。まだまだだな。実戦で使うには、もう二回りは経験を積ませないと」

訓練が一段落ついたのを見計らい、アルイエットは、獣人の少女に声を掛ける。肩先まで伸びた黒髪、小柄な身体で、可憐とさえ呼べる容姿をしている。
しかし、その比類なき戦闘力は、他者の追随を許さないほどであり、ヴィスト軍の突撃部隊を任されるほどであった。
基本的に、他者に対して物怖じしない性格のようであり、大将軍であるアルイエットに対しても、さばさばした態度を変えることはしなかった。

「まぁ、経験不足の新兵ばかりだからしょうがないんだけど。ともかく今は、特訓あるのみだな」
「そう………ところで、気になっていたんだけど、さっきの掛け声は?」
「ああ、兵士を預かる時に、連れてきたヤツに教えてもらったんだ。なんでも、兵士が奮起する魔法の言葉とか何とか………元気が出るみたいだから、使っている」

流れた汗をタオルで拭きながら、アルイエットの質問にネイはそう答える。ネイの言葉に、アルイエットは、そうなんだ………と呆れたような声を出した。

「言っておくが、私だって好きで言っているわけではないんだぞ。あいつに、そうしろと言われたから仕方なくやっているんだ」
「あいつ、って………?」
「将軍も知っているだろう。あの色ボケ軍師のことだ」

ムッとした表情で、ネイは犬が威嚇するように犬歯をむき出しに唸る。どうやら、思い起こして腹を立てているらしい。

「軍の掛け声だけならともかく、普段の挨拶まで、おかえりなさいませ、ご主人様を強要しようとして来たからな。迷わず蹴ってやったが」
「そ、そんなことがあったんだ………大変だったのね」
「まったくだ。だいたい、私にそんな挨拶を期待する方が間違っている。それだと言うのに、あいつは………」

などと、ぶつぶつ言いながら、手に持ったタオルでゴシゴシと顔を拭くネイ。よほど腹を立てているらしい。
捕縛されてジンの傘下として得ると王国軍に参加する意向を示すまでは、ネイは虜囚として、しばらくの間、ジンの手元に鎖でつながれていた事がある。
個人的な戦闘能力も並々ならないネイは、放っておけば縛を解いて逃げ出す可能性も充分にあり、そのことを憂慮して、ジンは常に目の届く所に彼女を置いていた。
戦略や戦術の方針を決めるための重要な会議は、八重にネイの監視をさせていたが、それ以外は、食事時や寝るときも、常に一緒であったのである、

「まぁ、猫を飼っているようなものだ。お前が気にすることは無い」

ネイの扱いは、少々酷なのでは……と言うアルイエットに、ジンは笑って、そんな風に返答したことがある。ただ、その返答がアルイエットの心を軽くする事は無かったが。
ジンは女好きであるが、ネイに対しては女として接するよりも、愛玩相手として接している部分が大きかった。
頭を撫でたり、尻尾を撫でたり、意味もなく抱きしめたりと、その可愛がりっぷりは、かなりのものであり、八重を呆れさせていた。
……また、口では何のかんのと言いながら、ネイもまんざらでは無いようで、ジンと二人きりの時は、甘えるような仕草を見せることもあった。

「あいつの女ぐせの悪さも、相当なものだからな。将軍も苦労しているだろう」

さて、あいも変わらず不機嫌そうにジンの事をこき下ろすネイと、話をしていたアルイエットだったが、ふと気になることがあって、アルイエットは彼女の腰に目を向けた。
獣人であるネイの尻部には、獣の尻尾がついており、先ほどから右に左にと、ゆらゆらと揺れていたのである。

「まったく、誰かれ構わず手を出す上に、場所もわきまえないからな。この前なんて、演習中に襲われたし……人のことを何だと思ってるんだか」
「そ、そんな事があったんだ………大変だったのね」
「ああ。おかげで軍議に遅刻はするし、翌日もまた襲い掛かってくるし………これから先も思いやられるよ、まったく」

不満そうに愚痴を零すネイであったが、その尻尾はというと、ジンのことを話すたびにパタパタと動いている。
なんと言うか………嬉しいと尻尾を振る、わんこのような仕草に、アルイエットは何とも言えない表情をしてから、ネイに向かって聞いてみた。

「ええと、ネイ将軍は………ジンのことは好きじゃないの?」
「冗談じゃない! 何で私が、あんなヤツに――――って、なんだ? 呆れたような顔をしているが」
「あ、ううん。なんでもないのよ。別に」

怪訝そうな顔をするネイに、アルイエットは慌てたように手を振って誤魔化した。
それにしても、ジンの女ぐせの悪さは困ったものだと、内心で不満を漏らしながら、アルイエットも兵の調練を始めたのだった。
その日の調練は、いつになく苛烈なものであったが、それはジンのせいではなかっただろう………多分。



旧ビルド地方の都市、マックラーは、複数の河川と広大な森が周囲に点在し、護りやすく、攻めがたい地形である。
三ヶ所に点在している砦には、それぞれエルト王国軍と同程度の兵力が駐留しており、マックラーの部隊を含めると彼我の兵力差は4倍以上に達する。
攻めづらい地形に、兵の数は向こうの方が多い。しかし、エルト王国軍の兵士達の顔に不安はなかった。
橋頭堡となる、ルトの町に駐留した兵達は、圧倒的な信頼を持ちながら、あるいは期待を持ちながら、出陣の命令を待っていたのであった。
期待する方は気楽で良いが………期待される方にしてみれば、たまったものではない現状なのだったが。

「さて、どう攻めたものかな」
「どうするの? こうして地図を見る限り、攻めやすそうな所もないみたいだけど」

ルトの街の郊外に布陣したエルト王国軍。作戦会議と称し、陣幕の中に入ったジンとアルイエットは、いかにしてマックラーを攻め落とそうかと頭を悩ませていた。
もっとも、悩むのは二人であっても、打開策を考えるのはジンの領分であり、アルイエットはジンの方針を部下に代弁するのが常であった。
それは、エルト王国に雇われた時からの契約であり、そのことに対してはジンに不満はない。不満はないが、アルイエットが成長をしないのは、いささか不安だった。
勝つことを考えるのは自分だとしても、何も考えず、他人任せにするようになっては、将として先が知れでしまう。
別に、そこまで他人を気に掛ける義理はない。だが、何となくアルイエットを放っておけないジンは、事あるごとに自分の知識を彼女に教え込もうとすることがあった。

「こういう時は、発想を変えてみるのも良いかも知れないな。逆に考えてみろ。お前がマックラーに駐屯する指揮官として、敵を攻めるのにどういった戦法を取ると思う?」
「………そうね。人数は相手の方が少ないんだし、一気に兵を動かして、決着を付けるのが一番じゃないかしら」
「そういうことだ。相手としては数の優位を活かした戦法をとって、こちらを包囲殲滅しに掛かるだろう。各個撃破の危険があるとはいえ、それが最も適した戦法だからな」

ジンが正解だと頷くと、アルイエットは嬉しそうな表情で顔をほころばせる。ジンに認められるたび、アルイエットの心は、言いようの無い喜びに満ち溢れるのだった。
もっとも、そんな彼女の心情など知らぬふりで、ジンは厳しい表情で話を続ける。実際、状況は楽観できるものではなかった。
手をこまねいていれば…三倍以上の兵力差に、ルトの街は陥落を余儀なくされるだろう。いくら天才的な策があろうと、数の暴力がそれに勝ることをジンは知っていた。

「こちらの戦略目的は3つ。一つは包囲網を完成させないこと、一つは数的不利を補うために固まって行動すること。あと一つは、何だと思う?」
「………」

ジンの言葉に、アルイエットは考え込む。分からないと言えば、ジンは嫌な顔一つせずに教えてくれるだろう。だけど、ジンは自分の意見を聞いているのだった。
たとえ間違ったとしても、ジンは怒らないだろうし、正解を言えば、きっと褒めてくれるだろう。アルイエットは…ジンなら、どうするだろうと頭をひねる。
アルイエットがジンとともに戦場に立った回数は、決して短くはない。だから彼女は、比較的容易に、その答えを口に出すことが出来たのだった。

「本拠地であるマックラーを陥落させる事かしら? ルトの街とマックラー………交易の要所を二箇所押さえれば、砦への補給も制限できるわよね」
「………その通りだ。よく分かったな」
「ずっと一緒にいて、何も学んでいないのも癪だしね。相手に包囲させず、固まって行動し、マックラーを陥落させる………目標は分かったけど、具体的にはどうするの?」
「何、単純な事だ。こちらには、優秀な諜報員が揃っているからな。相手の動きは手に取るように分かる。あとは、集めた情報の使い方次第だ」

ジンがそう言うと、まるでタイミングを計っていたかのように、八重が陣幕の中に入ってきた。

「ただいま戻りました。予想通り、各砦は防衛の部隊を残し、このルトの街に向けて進撃を開始しています。特に綿密な連携は行っていないみたいですね」
「そうか。まあ、こちらとしても出てくる敵にいちいち部隊を裂いていては、ジリ貧になるだろうし………相手が楽観するのも当然と言えるか」
「ええ。そちらの方は問題ないかと。ただ………」
「――――どうした?」

珍しく言葉を濁す八重に、ジンは眉をひそめて聞く。八重がこういった反応を示すときは、何かしら不測の事態が起こった時であると、長い付き合いで知っていたのである。

「………エネの街にヴィスト軍旗を携えた飛竜の一隊が入ったのが報告されています。おそらくは、後詰めとして送られてきたのでしょう」
「飛竜部隊か………それは少し面倒な相手だな」
「――――飛竜って、あの空を飛ぶ竜のこと?」

ジンの呟きを聞いて、アルイエットが怪訝そうな表情で聞く。エルト王国には飛竜部隊などなかったし、彼女が首を傾げるのも無理はなかった。
そんな彼女の問いに、ジンは重々しく頷く。実際に戦った事もある彼は、飛竜部隊の特性も、その厄介な点も知り尽くしていた。

「ああ。飛竜を飼いならして使役する部隊だ。その火力も問題だが、何より特筆すべきは、その機動性にあるだろう」

空を飛ぶ竜には、深く生い茂った森も、幅広な河川も障害物にならない。空を飛んで目標に接近し、一撃必殺が可能なのが飛竜部隊であった。

「…まぁ、逆に言えば機動力が突出している分、どうしても他の部隊との連携が取りにくいという欠点があるんだがな。火力が強すぎて、味方を巻き込む危険性もあるし」
「なるほど、扱いにくい部隊なんだ………」
「敵にとっても、手に余る存在ではあるな。とりあえず、飛竜部隊の事は任せておけ。ようは、敵の特性を封じる戦い方をすれば良いだけの事だからな」
「…分かった。頼りにしているわ」

ジンの言葉に、生真面目な表情でアルイエットは彼を見つめる。全面的な信頼を見せられて、ジンは薄く笑みを浮かべると、アルイエットの肩に手を置いた。
それが、彼なりの照れ隠しだと察した八重は、笑顔を見せながらも、どことなく面白くなさそうな様子であった。

(これは、どうやら情が移ったのかもしれませんね。それならそれで、ご主人様から手を出す可能性は下がるんですけど………ほんの少し、寂しいものがありますね)

そんな事を考えながらも、終始、八重は笑顔を浮かべていた。長い間に培われた仮面は、どんな事があっても外れる事はなく、彼女の心情を巧妙に隠していたのであった。



「これより、進軍する! 全部隊、私に続けっ!」

ジンとの打ち合わせを終えたアルイエットは、各部隊に出陣の命令を下す。ルトの街に駐留していたエルト王国軍は一路、北に進軍を始める。
途中にある、ダーリアモング村を経由したエルト王国軍は………その矛先を、北方のボスクラン砦に向けることになったのであった。

この戦いにおいて、エルト王国軍と真っ先に矛を交える事になったのは、ビルド地方領第三四、三五軍団であった。
騎兵、歩兵、弓兵からなる部隊は、ルトの街に南進するために、ボスクラン砦を出ると、河川を渡河し――――北進してきたエルト王国軍と鉢合わせをする事になった。
この戦い、偶発的な戦闘に見られるものの、エルト王国軍としては予期していた事であり、反面、ヴィスト王国軍にとっては予想外すぎた遭遇であった。

「どういうことだ!? 何故こんな所に、エルト王国軍が……ええい、戦闘準備……!」
「予想通り、こちらの進撃は考えていなかったようだな。敵は浮き足立っているぞ! 川を後背に抱え、部隊の展開もままならないようだ、包囲殲滅する!」

エルト王国群が矛先を揃えて突進すると、ヴィスト王国軍は傍目から見ても明らかに浮き足立った。
戦術の一つに、背水の陣というものがある。退路を断ち、兵士達を奮起させるという目的の戦法だが……今回の場合は、川に橋が掛かっており、退路もあった。
そんなわけで、不利を悟った兵士達は、我先に橋を渡り、ボスクラン砦に逃げ込もうとしたのである。エルト王国軍は、その後背を容赦なく襲った。
血しぶきが舞い、悲鳴が上がり……結局、砦内に逃げ込めたのは部隊の半数程度である。エルト王国軍には殆ど被害は無く、完全勝利といって差し支えない内容だった。

「くそ、まさかエルト王国軍があんな大部隊で進撃してくるとは………どうやら、敵の兵力は予想以上に多いらしいな。止むを得ん、守りを固めて援軍を待つぞ」

まさか、エルト王国軍が、ほぼ全兵力を持って進撃をしてきたなどと、考えもつかない司令官は、再度の進撃を断念し、砦内に篭り、守りを固める事にしたのだった。
用兵の常道としては、敵陣地を攻めるとしても、本陣にある程度の余力を残すものである。そうでもなければ、不慮の事態に対処が出来ないからだ。
そういう道理で考えると、進撃してきた三つの部隊と同数の、三部隊以上が、ルトの街に駐留していると考えるのが常道であった。
実際のところは、エルト王国軍の兵力はボスクラン砦と同等程度であるのだが……背後に控える、いるはずのない部隊に恐れをなし、再出兵を取りやめたのであった。
ボスクラン砦から、再度の出兵の様子が無いことを確認すると、ジンは部隊を南に進ませる。今回、連戦になるのは確実であり、一度の勝利で浮かれてはいられなかった。

ルトの街の西には、うっそうと生い茂るトワー、チルワーの森がある。森林と河川が入り乱れ、迷路のようになっている森林内は、進撃には不向きな地形であった。
西方のディモス砦、北西のアレス砦より出立したヴィスト軍は、森の中に入るなり、エルト王国軍の猛威にさらされる事になった。
それは、広大な森林内を使った、大規模なゲリラ戦の始まりだったのである。エルト王国軍は小部隊ながら、木々の迷路を駆使し、ヴィスト軍を翻弄し、圧倒した。

少数の兵が、木々の木陰から矢を射掛け、大木を倒して道をふさぎ、選び抜かれた精鋭が、敵本陣に奇襲を仕掛ける。
執拗な攻撃に、ヴィスト軍は森の中で全身を止め、その対応に追われることになったのである。ヴィスト軍は、その多くが、現地の兵を吸収した複合部隊である。
その為、戦況が悪くなると、指揮が急激に低下するのが弱みであった。ゲリラ戦は、その弱点を的確についた戦法だったのである。
戦意が衰えたヴィスト軍は、多くの兵士が脱走し、野に下った。この当時、戦で部隊が壊滅する時の大半は、大量の兵の戦死ではなく、兵士達の脱走によるものであった。

西方からのヴィスト軍の進撃を、ジンとアルイエットを中核としたエルト王国軍は、よく防いだ。
森の中での戦いは実質的に、兵力差は、ヴィスト軍が倍近い兵力を有していたものの、数に劣るエルト王国軍が、地の利を生かして圧倒している状況であった。
ヴィスト軍は日に日にやせ細り、その兵力は遠からず瓦解するかに見えた。そんな風に、森の中の戦いが一応の顛末を見せ始めた頃であった。

「ご主人様、密偵から情報が……エネの街より飛竜部隊がでたそうです。高度を高く取り、森の上空を通ってルトの街に向かっています」

八重が緊張した面持ちで、ジンに告げる。現状、飛竜部隊を迎撃するには、高度を下げた所に白兵戦を仕掛けるしか方法が無い。
弓兵の放つ矢や、魔術師の唱える呪文でも、超高度の飛竜を狙うのは難しい。無論、例外として、本物の竜など、飛竜を撃ち落せる存在は居る。
ただ、現在のエルト王国軍には、飛竜部隊に対する効果的な手段は持ちえていなかったのであった。八重の報告に、ジンはしばしの間、思案顔になる。

「……そうか。では、ここの守りはトールとネイの部隊に任せ、他の部隊は、ルトの街に後退する。敵に感づかれないように、急がせろよ」
「はい、かしこまりました。ですが、よろしいのですか?」
「――――ネイのことか? 安心しろ。旗色が悪くなった途端、裏切るような小物ではない。むしろ、そういう状況では、信頼できる相手だろう」

先日、加入したばかりであるヴィスト王国の元将軍であるネイには、エルト王国軍の古参の将からは、裏切るのではないかと、疑いの目を向けるものも居た。
そんな状況下で、あえてネイを重要地の守りにつけたのは、これを機に、ネイの立場を良くしようという、ジンの心配りであったのかもしれない。
無論、ただそれだけの理由と言うわけでもなく――――単純な話、拠点の守りに仕える人材が少なく、やむを得ず選んだという事情もあったのだが。

「それより、撤収を急がせろよ。ルトの街には、ろくな戦力を残していないんだ。帰る場所がなくなっては、しゃれにもならん」

戦火が拡大するにつれ、物量や人材の点において、エルト王国軍は徐々に苦しい立場に陥り始めていた。
捕らえた敵の懐柔や、新たな人材の登用などに奔走しているものの、それだけでは補えないほどに、総合的な戦力差が、ヴィスト王国とエルト王国の間に存在していた。
ジンの戦略、戦術構想があって、ようやく五分の戦いに持ち込めているものの、後々の戦いの困難を考えると、頭の痛くなる状況ではあった。
ともあれ、嘆いてばかりも居られない。エルト王国軍は部隊を再編すると、急ぎ、ルトの街に向かったのであった


取り急ぎ兵をまとめ、足の速い騎馬を中心としたエルト王国軍がルトの街に到着した頃には、街のあちこちから火の手が上がり始めていた。
ケーニスクフェアを先頭とした、飛竜の部隊が、ルトの街に襲来し、周囲の建物に炎を浴びせかけ始めていたのである。
僅かに残っていた、守備兵を蹴散らして、我が物顔で街を飛び回る飛竜兵。
だが、エルト王国軍にとって行幸な事に、その数は決して多くなく、街はまだ、失陥におちいってはいなかったのである。

「間に合った、か。いいか、各自、分散して飛竜にあたれ! 空を翔けるといっても、建物の密集する街中なら、機動力は半減するはずだ!」
「はい、軍師様! 各自、弓矢を構え! 竜の翼を狙い撃ちしてから、接近戦を仕掛ける!」

ジンに付き従い、戦場に到着したルカが、自らも弓矢を手に取ると、馬を走らせる。ルトの街中を舞台に、激しくも短い合間、激烈な戦闘が展開された。
少数とはいえ、飛竜部隊の戦闘力は、流石に大したものであった。飛竜の吐くブレスは、広範囲に被害をもたらし、また、それを操るものたちも、一騎当千の兵ぞろいであった。
しかし、エルト王国軍は狭い街中という利点を生かし、建物や遮蔽物越しに、弓矢や、遅ればせながら合流した魔法部隊の魔法により、じりじりと敵の戦力を削いでいったのである。

「ここまでね……各自散開! 生き残ることを優先しなさい!」

情勢が不利と見たケーニスクフェアが、そう命じたのは、戦いの帰趨が定まろうとする直前であった。
彼女の命令により、残った飛竜の使い手は、いっせいに高高度に飛び立ち、四方八方に飛び去っていく。

もうあと数分、命令が遅れていれば、エルト王国軍の包囲が完成し、高度を上げて逃げる前に、飛竜部隊は壊滅していただろう。
そうならなかったのは、指揮官である彼女が、非凡な才覚を持ち合わせていたからであろう。
ルトの街こそ奪われなかったものの、飛竜部隊を壊滅できなかった点を考えれば、この戦いは痛みわけといったところであった。

「逃がしたか………出来ればこの場で、壊滅させておきたかったんだがな」
「……? なんだか、珍しい台詞ね。勝ちすぎるのは良くないんじゃなかったの?」
「いささか、情勢も変わりつつあるからな。ルウツウル小国連合の降伏の話は、先日聞いただろう」
「ええ、北の情勢が悪化して、ヴィスト王国軍が、南にも力を入れてくるって事よね」
「そうだ。だからこそ、今のうちにこの周辺の敵の力を削いでおくべきなんだ。今後の戦いを、出来るだけ楽にするためにもな」

ヴィスト王国軍と、南方のオルトリア連合、その人的、質的な差異を考えれば、この周辺の部隊を仮に全滅させたとしても、焼け石に水というほどの格差があった。
とはいえ、まったく何もしないよりは、今のうちに敵戦力を減らしておくほうが、僅かであれヴィスト王国軍に勝つ可能性は増えるというものである。

「ヴィスト王国軍が、いよいよ主力を南方に向けてくる。そろそろ、こちらとしても腹をくくって戦わなければならない時期ということだ」
「…………」

ジンの言葉の節々から、今後の戦いの過酷さを感じ取ったのか、アルイエットは無意識のうちに、無言で喉を鳴らしていた。
だが、その顔には恐れは少なく、気丈な顔を崩しはしなかった。ビルド王国、奈宮皇国、ノイル王国と転戦する合間に、彼女も一人の将として、成長をしていたのだろう。
そんな彼女の様子を見て、ジンは過酷な戦局になりつつある現状だというのに、その顔には嬉しそうな笑みを浮かべていた。

(もう少しすれば、一人前の将になるかも知れんな)

アルイエットを見つめ、ジンは内心でそう思う……そうなるのが先か、ヴィスト王国軍が攻めてくるのが先かは、予断を許さないところであったが。
そんな自らの内心はおくびにも出さず、ジンは殊更に軽い口調で、アルイエットに話しかけるのだった。

「まあ、いつになるか分からん主食より、まずは今日の前菜をどうにかするべきだろう。これまでの戦いで、ボスクラン砦、デイモス砦の戦力は無効化出来たといっていい」
「……じゃあ、残るはアレス砦ね」
「ああ、そして、都市マックラーだ。アレス砦に立てこもる戦力を突破し、マックラーを陥落させる………まだまだ、油断できる状況じゃないぞ」
「ええ、分かったわ」

ジンの言葉に、アルイエットは真剣な表情で頷く。そんな彼女の生真面目な様子に、ジンは僅かに相好を緩ませた。無論、それを気取られるようなことはなかったのだが。
トールやネイの部隊を統合し、北西のエネの街に部隊を移動させたエルト王国軍。
ジンの予想通り、北東のボスクラン砦、南西のデイモス砦には、もはや兵を出す余裕はなく、アレス砦と、マックラーに駐留する軍のみが、未だ抗戦の意思を見せていた。
しかし、包囲網は崩れ、援軍に参陣した飛竜部隊も散開し、戦いの趨勢はエルト王国軍にあった。

「全軍、突撃!」

一進一退の攻防を繰り返したものの、エルト王国軍はアレス砦を抜け、マックラーを制圧した。
こうして、旧ビルド王国領は、エルト王国の手により奪取され、大陸南方の統治図は、大幅な変化の様相を見せることになった。
しかし、それを喜ぶべき時間は、実のところ、エルト王国には与えられていなかったのである。

ヴィスト王国軍の北方と東方に向けられていた軍が、矛先を変えて南下を始めたことが、間もなくエルト王国の陣中に報告されることとなるからである。
それを予測していた者は、エルト王国軍でも、ジンと八重の主従とアルイエットだけであろう。
だが、今まで、その知略でヴィスト王国軍を手玉に取り続けていたジンにとっても、ヴィスト王国軍の南下の規模とその速度は規格外すぎた。

津波の波頭のような、ヴィスト王国軍の進撃――――大陸南方における、一大決戦の幕は、降りたのではなく、まさにこれから、切って落とされようとしたのであった。