〜アルイエット戦記〜 

〜動き出したもの〜



ヴィスト王国より、領土を奪還したエルト王国。奪還計画の立役者であるジン=アーバレストの名が、国の内外に囁かれはじめるのは、この時期が最初であった。
領土を取り戻し…エルト王国の国家基盤が、ある程度の安定を取り戻したと判断したジンは、王宮内、軍部内に自らの干渉力を浸透させようと活動を始めたのである。
貴族の娘、リンデルロット嬢の凋落を手始めに、軍事演習や模擬戦、また、自らの人脈を使っての新規司令官の登用など、その行動は多岐にわたった。

今までは、ひたすらに目立たぬようにし、自身の存在を隠蔽していたジンが、積極的に行動をするようになったのは、いくつかの要因が挙げられる。
第一に、エルト王国の政治、経済が復調し、国家としての命脈を保てるようになったことが大きかった。まぁ、それも今後どうなるかは保障できない所ではあったのだが。
もっとも、ジンが雇用された当時の、滅亡寸前といった状況に比べれば、ずいぶんとマシになったと言えるだろう。

第二に、今後のヴィスト軍との戦闘において、若干の布石を置くために、ジンはあえて自分の名を撒くことにしたのだった。
ジン=アーバレストといえば、ヴィスト王国にとっては幾度も苦渋を舐めさせられた相手であり、敵の司令官のなかには、ジンの名を聞いただけで萎縮するものも多々居る。
ジンが居る――――となれば、相手も本腰を入れて攻めてくるだろうが、いるかも………という噂だけならば、相手としても判断に迷い、行軍にも慎重になるだろう。
そのような狙いで、自分の存在を周囲にばら撒いてみたのだが――――後日、それは思いもよらぬ形で実を結ぶことになる。

そして、ジンが積極的に行動を始めた最たる理由は――――…王宮内、また軍内部においての自分の立場を確立し、人心を掌握することが狙いであった。
政務はムストに、軍務はアルイエットに概ねは任せているとはいえ、緊急時に部下達を操れるくらいの実績と、信頼がほしいところであったのだ。
端的に言うと、いざという時に…部下がジンの命令を迷わず実行できるようにならなければ、今後のヴィストとの戦に勝ち目など見込めなかったのである。
今までのような、方針を決めて見ているだけの戦争とは異なり、とっさの判断、数秒を争う決断を余儀なくされる戦いが待ち構えていることは明白であった。



そんなこんなで、国内問題をあらかた片付け終わった頃――――周辺国である奈宮皇国から、援軍の要請の使者が到来した。
ヴィスト軍との戦が終わった直後の事でもあり、慎重論を唱える者も居たが、軍の最高司令官であるアルイエットの鶴の一声により、援軍の派遣が決まる。
その裏では、ジンが糸を引いていたことは、想像に難くないだろう。かくして、キューベル公爵に留守居役を任せ、ジンとアルイエットは軍を率いて出立した。
目的地は、奈宮皇国領内・ヌワタ地方を守護する要塞都市”荒鷲”――――精鋭部隊を率いての奈宮皇国軍への後詰めであった。

要塞都市・荒鷲は、ヌワタ地方において奈宮皇国の西の備えとして重要視されている。山間に設えられた城砦は、堅牢さを持って他国の侵入を許すことはない。
だが、難攻不落と称えられたその城塞都市に今、陥落の危機が迫りつつあった…。西方の砦に続々とヴィスト軍が集結し、侵攻の機会を窺いだしたのである。
ヴィスト軍が、この時期に活発な動きを見せたのには訳がある。現在、荒鷲に駐留している軍の総数は、通常の半数に満たない状況であった。

「敵の様子はどうだ?」
「今のところ、動く様子はありません………しかし、すごい数ですね」
「それだけ、向こうも本腰を入れてきているということだろう。まったく、こんな状況になると知れていれば、要請を突っぱねることも出来たのだがな」

城塞都市の城壁の上から、西方のヴィスト軍を睥睨しつつ…荒鷲の守備隊長は深い溜め息をつく。ことの始まりは、荒鷲に一人の使者が訪れたことがきっかけであった。
使者の持ってきた命令書には、荒鷲の守備兵の半数を、他の激戦が続く地方へと輸送するように明記されていた。その命令書を読み、守備隊長は首をかしげる。
わざわざこのような前線から兵を引き抜かなくとも、近衛軍をはじめ、王都には充分なほどの兵が配備されているのである。なのに何故、兵の移動を命じたのだろう。
疑問は尽きぬままに、それでも守備隊長は軍を編成しなおし、砦に駐留していた兵の半数を、充分な物資とともに送り出した。

………ヴィスト軍の侵攻が始まったのは、それから数週間後のことである。敵の第一波は、何とか防いだものの、半減した兵の損害は激しく、被害は甚大であった。
次の第二波、第三波の攻撃は防ぎ切れるかどうか――――暗澹たる気分のまま、守備隊長は川向こうの敵軍に視線を向ける。
一応、王都に救援の要請は出したものの、援軍が来る保証も無く………いつ敵が動き出すか、そう遠くない時期の苦難を思い、守備隊長は再び溜め息をついた。

「だいたい…お偉方は俺達の苦労を、ちっとも分かってないんですよ。ヴィスト軍が攻めてきてるってのに、お家騒動まっしぐらで――――」
「………口を慎め。気持ちは分かるがな」

王家に対し、不平不満を口に出す部下をやんわりと窘めながら、それでもその部下の言葉を、守備隊長は否定する気にもなれないでいた。
現在の奈宮皇国は、表向きにはヴィスト軍に対する敵愾心で一つにまとまっているように見える。しかし、その内部はドロドロの内紛状態であるのは子供でも知っていた。
現在の皇帝は、ヴィスト軍に属国である神楽家領国を滅ぼされていたとはいえ、平時でも乱世でも、それなりに優秀な治世者として皆の尊厳を集めていた。

………ただ、奈宮皇帝に問題があるとすれば、それは自らの後継ぎを明言していないことにあるといえよう。
皇帝には複数の寵妃がおり、そのどれもが自らの子を次代の皇帝にしようと躍起になっていたのである。皇帝自身が後継ぎを決定してしまえばよいのだが、その気配はない。
実のところ、皇帝自身には後継ぎを決める気は毛頭無かった。老齢とはいえ、まだ十年、二十年は皇帝を続ける気であったのである。
そんなわけで、現在は皇帝を中心とし、皇子、皇女とその取り巻きによる複数の派閥によって奈宮皇国の政治は運営されていた。
まとめ役である現皇帝が健在ならば問題ないが――――いずれ遠くない未来、溜まりに溜まった欲望がマグマのように噴出すのは目に見えていた。

「俺たちが政治のことを心配したってどうにもならんだろう。それよりも今は、ヴィスト軍からどうやって、この荒鷲を守り抜くかを考える時ではないか?」
「はぁ………ま、確かにそうですよね。愚痴を言ったってやる事は一つですし」

守備隊長の言葉に、部下も気を取り直したかのように西の砦へと視線を向ける。複数の森と、川に隔てられたヴィスト軍の3つの砦は活気に満ち溢れているようだった。
兵が半減した荒鷲とは対照的に、次々と援軍が馳せ参じているようだ。さすがに、大陸に覇を唱えようという一大軍事国家である。

「しかし、どうしましょうかね………機先を制して打って出ようとしても、今の兵力じゃ砦を守るのに精一杯でしょう。まさに手も足も出ない状態じゃないですか」
「うむ………」

部下の言葉に、守備隊長はじっと瞑目するように考え込んでいたが、ややあって開き直ったように顔を上げた。

「援軍を…信じるしかあるまい。この荒鷲はヴィスト軍に対する西の備えだ。ここをやすやすと陥とさせるほど、王家の連中も耄碌はしていないだろう」
「はぁ、そういうもんですかね…?」

守備隊長の言葉に、半信半疑といった風に部下達は顔を見合わせる。兵力の半減に、ヴィスト軍の猛攻と散々な目にあっている昨今、彼らが悲観的になるのも無理はない。
だが、そんな部下達とは裏腹に、守備隊長はある核心を持って、援軍の到来を予見したのである。その脳裏には、うら若き一人の皇女の姿が思い浮かべられていた。



「将軍、援軍がやってまいりました! エルト王国軍です」
「なるほど、我々の援軍要請を、他国に押し付けたわけか――――それにしても、早い到着だな」

援軍の到来が告げられたのはその数日後………荒鷲の南方にある村々を巡り、完全武装の一段が荒鷲にたどり着いた。仰ぐ旗はエルト国旗…エルト王国軍の来援であった。
正直な所、この援軍は守備隊長にとっては予想外なものではあった。彼自身、自らの国の援軍は予想していたものの、同盟国の一足早い到着には驚きを隠せないでいた。
基本的に、他の国に援軍を向ける場合、どうしてもその行軍は遅くなりがちである。当然といえば当然で――――わざわざ他国のために命を張るほうが珍しいだろう。
無論、エルト王国軍にもそれなりの打算はあるだろうが――――嬉しい誤算に守備隊等は諸手をあげてエルト王国軍を迎え入れたのである。

「おお、援軍か。よく来てくれた!」
「同盟国として、当然の義務です。敵軍の撃退は、我らにお任せください」

援軍を率いてきた女騎士は、守備隊長の歓迎の言葉に微笑をかえす。こうして、エルト王国軍と合流した奈宮皇国軍はヴィスト軍を迎え撃つための準備に取り掛かった。
といっても、悠長に準備をする余裕も無かったのであるが…エルト王国軍の到着はヴィスト王国軍にも知られたらしく、川向こうの動きも慌しくなってきたのである。



エルト王国軍の来援の翌日――――川向こうにある…ダゴス砦、ドーガ砦、ギレンチェ砦、3つの砦から、荒鷲に向かいヴィスト軍が侵攻を開始した。
前衛の部隊だけでも、エルト王国と奈宮皇国の総数に匹敵する。これに中軍・本陣・さらには各砦に後備えを残してなお、兵員に余裕さえあった。
地方での戦いで、ヴィスト軍がこれほどに大兵力を投入してきた例はほとんどない。それほどに、城塞都市・荒鷲は、敵味方にとって重要な拠点であった。
荒鷲が抜かれれば、その先には小さな寒村が点在しているだけで、防衛拠点となるようなものは存在しない。奈宮皇国としても、決して負けられぬ戦であった。

エルト王国と奈宮皇国――――かつて、侵攻を続けるヴィスト王国を包囲するために、各国が組み交わしたオルトリア条約に参入していた両国。
ヴィスト軍の侵攻により、弱体化に陥ったとはいえ、その盟約は破棄されることなく、オルトリア連合軍として、ヴィスト王国軍の鋭鋒に備えることになった。
連合軍といえば聞こえは良いが、実のところは単なる混成部隊である。その状況で、どのようにしてヴィスト王国軍の大軍を迎え撃つか――――。
方針を決める会議の席上――――援軍の将であるアルイエットの放った一言が、場の空気をざわめかせた。

「砦を出て、戦う――――私にはそう言ったように聞こえましたが…聞き違いですかな、アルイエット殿?」
「いいえ、確かにそう言いました。現在の状況を判断して、それがもっとも得策な手でしょうから」

疑念の視線を向ける奈宮皇国側に対し、堂々たる態度で言い放ったのは、エルト王国軍の指揮を取る将軍、アルイエットであった。
内心ではどうあれ、表面上は自らの言葉に絶対の自信を持つかのようなその態度に、奈宮皇国の将軍達も、耳を傾ける気になったらしい。
誰もが押し黙り、アルイエットの次の言葉を待つ。彼女は一拍の間を置いてから、居並ぶ諸将を見渡し、よく通る声で説明を始める。

「川向こうのヴィスト軍の砦から、先発隊が出ているのは皆も知っての通りです。まずはこの先陣を叩き、相手の出鼻を挫きます」
「だが、その先発部隊でさえ、こちらの総数と匹敵するのだぞ? もし敗れることがあったら…それでなくとも、こちらの後退にあわせ、砦に肉迫されたらどうするのだ」

アルイエットの言葉に、控えめに疑問を唱えたのは、彼女達を迎え入れた守備隊長である。荒鷲の重要性を知っている彼にとって、途方もない賭け試合に思えたのだろう。
しかし、その意見を一蹴するかのように、アルイエットはニッコリと微笑むと――――。

「その心配は無用です。敵の先陣には、エルト王国軍のみで迎撃に向かいますので」

場の一同がぎょっと驚愕するようなことを、平然とした様子で言い放ったのであった。ちなみに、驚いたのは奈宮皇国側だけでなく、エルト王国軍の将軍達もである。
アルイエット以外で顔色を変えなかったのは、彼女の隣につきしたがっている青年だけであったが…誰も、そのことに気づかないほどに狼狽した空気が周囲を流れていた。
その空気を落ち着かせるかのように、アルイエットは無言………そうして、時計の秒針が数周するほどの間をおいて、再び口を開いた。

「先だって、奈宮皇国からの援軍の要請に応じたのは、物見遊山に来たのではなく、連合の参加国としての義務を果たすためです。我々が先陣を切るのをお許しいただきたい」
「それは、構わないのだが………だからといって、敵の只中に進軍するなど………この荒鷲で、我々とともに戦えばよいではないか」

守備隊長の言葉に、周囲から賛同の声が上がる。その声の半数は、エルト王国郡の将軍達の声でもあったのだが………アルイエットは静かに頭を振った。

「無論、戦が激しくなれば、荒鷲にこもって戦うことになるでしょう。しかし、今はまだ前哨戦です。本格的な侵攻の始まる前に、少しでも敵の勢いを止めるべきです」
「………たしかに、それはそうだが」
「援軍の要請文には、奈宮皇国の援軍が来るまで、砦を守るようにと明記されていました。つまりは、我々の他にも荒鷲に向かっている援軍がいるということです」

アルイエットの言葉に、居並ぶ将たちから、おお………という歓声がもれた。孤立無援で戦っていた彼らにとって、自国の援軍はこれ以上ない朗報であったのだろう。
そんな彼らを鼓舞するように、アルイエットは胸を張り、重ねて出陣を主張したのであった。

「我々のすべきことは、奈宮皇国の援軍の到着まで、荒鷲を守り抜くことです。その為には、敵の勢いを削ぐことが肝要でしょう」
「…承知した。そういうことならば、我々も協力を惜しまない。使いたい設備、兵装、部隊があれば言ってくれ。出来る限り力になろう」

結局、アルイエットの方針が受け入れられることになり………エルト王国軍は荒鷲を出て、都市の西に広がる森で、ヴィスト軍の先遣隊を迎え撃つことになった。
協力を申し出てきた守備隊長の言葉に、アルイエットは微笑を浮かべると…傍らの青年に一度視線を向けてから、あらためて守備隊長に向き直り、口を開いたのであった。

「そうですね………では、斥候を借り受けさせていただきます。地理に詳しい者を何名か…他国の領内ですから、どうしても道案内が必要になりますので」



会議の終わった後、出陣の準備をするため、アルイエットは配下の将軍達を連れ、荒鷲内の駐屯施設へと戻った。さっそく、出立の用意をするように命じる。

「ヴィスト軍が砦に迫る前に、我々は砦を出立………森の中で敵軍を迎え撃ちます。出立予定は今日の夕刻…それまでに準備を整えるように皆に伝えてください」
「はっ、了解いたしました!」

敬礼する将軍達を残し、アルイエットはきびすを返す。その後を音も無く軍師の青年が続いた。
荒鷲の中に用意された宿泊施設に向かい――――自分用にあてがわれた部屋にアルイエットが戻ると、そこには割烹着を着たメイドの姿があった。

「おかえりなさいませ。会議のほうはいかがでしたか?」
「まぁ、予想通りといったところだな」

メイドの質問に答えたのは、今までアルイエットのそばにいながら、会議の場では一言も発しなかった青年――――ジンであった。
その言葉に、もの言いたげな表情でアルイエットはジンを見つめる。その視線に気づいたのか、ジンはアルイエットの肩を労うように一つ叩くと、メイドに声をかけた。

「奈宮皇国の用意した斥候が来るまでに、軍の編成を済ませておくように。それと、第二陣として控えてある部隊に、俺達と入れ違いに荒鷲に入るように指示をしておけ」
「はい、かしこまりました」

ジンの言葉に、メイドは一つ頷くと部屋を出て行った。二人っきりとなった部屋の中で、あらためてジンはアルイエットに向き直る。

「さて、何か言いたそうだが………いったいどうしたんだ?」
「なにか…って、言わないと分からないの? 貴方が私にあんな無茶を言わせたんじゃないの!」

飄々とした風情のジンに食って掛かるアルイエット。どうも、先程の会議でのアルイエットの発言は、ジンが彼女に言わせていたようである。

「無茶というのは、荒鷲を出て戦うことか? それとも、エルト王国軍だけで戦うというところか?」
「………両方よ。用意された台詞をそのまま言ってただけだから、いまひとつ良くは分からないんだけど………かなり、無茶な作戦なんでしょ」
「――――あれだけ会議の中心で発言をしながら、良く分からないというのはどうかと思うんだが………まぁ、確かに普通はやらない作戦だな」
「じゃあ、どうして?」

アルイエットとジンの交わす会話の中で、おそらくは連日使われているであろう言葉を、アルイエットはジンに向かって放つ。
ジンも、アルイエットの「どうして」攻勢には慣れたのか、特に嫌そうなそぶりも見せず、彼女の質問に応じるのであった。

「まぁ、理由は色々あるが………簡潔にいえば、勝算があるからだ。荒鷲の西にいくつかの森が点在しているのは分かっているな?」
「ええ、敵は3つの砦から出て、それぞれ森を通ってこっちに向かって来ているんでしょ?」

要塞都市である荒鷲の西には、うっそうと茂る広大な森が、南北に広がっている。川向こうの砦から出立した場合、徒歩ではどうあっても森の中を通ることになる。
屈強を誇るヴィスト軍の中には、空から敵陣を強襲する飛竜部隊も存在している。幸いなことに、今回の攻防戦には、その姿は確認されていなかった。
もし、飛竜部隊が参戦するとなれば、この戦いにおけるジンの戦略も、大幅な変更を余儀なくされたであろう。
今回の場合は、敵は確実に森を通って進撃してくるため、策を練るのは比較的たやすかったと、ジンは後の回想録にて語っている。

「敵の各部隊は、時間差を置いて出撃し、この砦に攻撃を仕掛けてくる。こちらを休ませずに攻めたれる波状攻撃のようにも見えるが…」
「見えるが………?」
「結局のところは、戦力分散の愚を犯している状況だ。相互の連携が取れず、結果、各部隊は孤立状態にならざるを得ない…まぁ、大部隊の通れない森だから無理も無いが」

説明を聞くアルイエットには…ジンの言葉には、どこか愁いを帯びているようにも思えた。稚拙な策に従わなければいけない、敵方の兵士達を憂いているのだろうか?
そんな事を考えながら、アルイエットはジンに気になった質問をぶつけてみることにした。

「でも、いくら大部隊が通れないといっても、そんなにバラバラにする必要はないんじゃないの? 敵の奇襲のことを考えれば、まとまって行動したほうがいいだろうし」
「まとまって行動しないんじゃない、まとまって行動したくないのさ」
「――――え?」

また、奇妙な違和感を持つ発言がジンの口から飛び出て、アルイエットはきょとんと目を見張った。まとまって行動したくないとは、どういうことだろう?

「八重に調べさせたんだが、今回の荒鷲攻略戦の指揮を取っているのは、とある女の指揮官らしい。彼女は、この戦いの前は神楽領国地方で指揮を取っていた」
「神楽領国…」
「ああ。そしてその地方での戦いで、大部隊を森ごと焼き討ちにあった過去がある。その時のトラウマが、根強く残っているんだろうな」

その焼き討ちの指揮を取った張本人が誰なのか、何となくアルイエットには分かってしまった。そして、ジンが微妙な表情をしているのも。
周辺諸国に彼の名を響き渡らせた戦は、ジンにとっても無視できない過去なのだろう。若い頃の苦い思い出でも、思い出しているんだろうか?
そんな疑問を持ったアルイエットだったが、その質問をジンにぶつける気にはならなかった。誰だって聞かれたくない過去はあるだろう。

「――――説明を続けるぞ。まず俺達は、敵の目に付かない北方の森から出撃………その後、森に潜伏しつつ、ヴィスト軍との交戦に入る」
「ヴィスト軍と戦うのは分かったけど、どの森で戦うの? 地図だと、いくつかの地名に分かれているんだけど…」

ジンの言葉を聴き、アルイエットは広げられた地図に目を落とす。荒鷲の西方――――森の木々と山々を縫うようにいくつかの街道が延び、主だった地名が描かれている。
大まかに分けられた地名は、それぞれ『桜風の森』『沼竜の森』『草壁の森』『香林の森』『桂木の森』となっている。
砦の真西にある沼竜の森付近で戦うのかしら…? そんな事を考えたアルイエットだが、ジンは肩をすくめながら、平然と彼女の予想とは違う方針を口から飛び出させた。

「どこの森、というのは定かではないな。あくまでも敵に感づかれないように行動し、必要とあれば獣道にも踏み入るつもりだからな」

広げられた地図は、大部隊が移動するための街路であり、少人数ならばもっと細い………言うなれば、裏道のようなものも使えるのであった。
敵への奇襲、かく乱を目的とするため、人の通らぬような獣道も徹底的に利用しようと、ジンは計画していた。
それは、かつて神楽領国にて、少人数ながらヴィスト軍を苦しめた時の戦法と似通っており…まさにジン=アーバレストの真骨頂ともいえる戦法であった。

「ともかく、いま俺達がすべきことは時間稼ぎだ。奈宮皇国の援軍が来るまで砦を守ることが最重要であり、敵を打ち破ることじゃない」
「…よく言っている、勝ちすぎないって事?」
「――――分かってきたじゃないか」

アルイエットの言葉に、ジンは微笑を浮かべると、アルイエットの頭を優しく撫でる。どうにも年下扱いされている態度に、アルイエットは複雑そうな表情を見せる。
実際のところ――――ジンはアルイエットよりはるかに年上であり、アルイエットを子ども扱いするのも無理からぬことであった。
ただ、無類の女好きであるジンが、彼女に関してだけは、手を出さずにいる…それは僥倖な事であるはずなのだが、女の魅力がないのではと不安にもなるのであった。



そうして、その日の夕刻…ジンとアルイエット率いるエルト王国軍は荒鷲から出陣――――入れ替わるように、トール率いる第二陣が荒鷲に後詰として入った。
エルト王国軍が部隊を二つに分けたのは、荒鷲の収容能力を考えてのことでもあったが、万一、荒鷲がジン達の部隊を締め出したとき、内外から呼応する為でもあった。
表面的には友好的とも見れる、エルト王国軍と奈宮皇国軍ではあるが、実際に危急の時に本当に信頼できるかは、別の話であった。

荒鷲攻略のための第一陣――――ヴィスト南方軍の一隊に、エルト王国軍の攻撃が行われたのは、その日の夜のことである。
深い森の中、夜営のために陣を作っている兵士達――――そこかしこに篝火が炊かれ、夕飯の炊煙も各所より上がっている………活気とざわめきと喧騒がそこにあった。
侵略者、征服者として、歴史には記されていることの多いヴィスト王国軍――――しかし、その日常を覗いてみれば、そこには人の営みがあり生活があった。

「ふぅ、いよいよ明日は荒鷲攻略か――――…思えば、随分遠くまで来たもんだよな」
「そうだな…ヴィスト軍に組み込まれたときはどうなるかと思ったけどよ、給料の払いは良いし、これはこれで悪くないよな」

夜の森に顔を向けて歩哨に立つ兵士達…彼らは、もとはヴィスト軍の人間ではない。彼らだけでなく、荒鷲攻略の部隊の大半は、滅亡した国家の者が多数を占めていた。
大陸中に戦局が拡大し、人的資源の増強が声高に叫ばれるヴィスト軍では…他国よりもいち早く、実力主義の編成へと軍部の方針が変わりつつある。
身分や血筋などに頼ることなかれ…戦場で功さえ上げれば、獣人だろうと森の民だろうと昇格させ、軍の指揮を任せる方策は、軍の内外に好評をもって迎えられた。

強化された軍は更なる戦果を生み出し、戦果から得た土地から新たなる人員を吸収する――――この良的循環をもって、ヴィスト軍は常に勢力を拡大させ続けていた。
しかし、そうした軍備拡大の背景には、侵略者としての増長や、勝利への慢心といった二面性が含まれることとなるのも避けられない事実であった。
先日のエルト王国での敗走然り、ここ、荒鷲攻略のための先陣の地でも、まるで既に勝利が確実視されているような、浮ついた空気が流れ始めていたのであった。

………そんな彼らにとって、ジンの采配した奇襲作戦は、まるで春先に冷水を頭から浴びせられたかのような、驚愕の出来事になったのである。

最初に兵士達の耳に届いたのは、甲高い、まるで鳥の鳴き声のような音であった。それが何であるか判別するより早く、陣地の中に、一本の矢が落下したのである。
鏑矢(かぶらや)と呼ばれるそれは、奈宮皇国で使われている、鏃の先に風を切って音を発する玉をつけたもので、攻撃の合図、目標となる場所へと打ち込む用途がある。
音の正体がその矢であることは兵士達は知らなかったが、打ち込まれた矢がどんなものかを連想するのには、数秒の間で事足りた。

「て、敵襲――――痛っ!?」

鏑矢を合図に飛んできた第二撃…数百本の矢によって、警護の兵には死者が出ることはなかった。なぜならば、飛んできた矢の先には陶器の瓶が付いていたからだ。
飛翔した矢の先に付いていた瓶は、硬い地面に落ち、あるいは何かしらの物に当たり、砕け――――その中身を周囲にばら撒いた。
とたん、周囲に立ち込める独特な臭い――――その臭いをかいだ兵士が顔をしかめた。

「こ、これは………油の臭い――――まさか!?」
「ひ、火だ――――! 火が飛んでくるぞ!」

その言葉通り、周囲の空気を新たな矢の雨が切り裂く――――その先端が、ことごとく赤く燃えているのが遠目にも見て取れた。
初撃で油を撒いたその一帯を狙っての、火矢の集中砲火――――防ぐすべなどあるはずも無く、兵士達にできることは慌ててその場から逃げ出すことだけであった。
この時代………弓矢の射程はそれほど長くはない。騎乗しても使える短弓が主体の時代………弓矢の射程はせいぜい長くても50〜60m程である。
森の中より放たれた攻撃は、ヴィスト軍の陣地の一角を火の海にした程度であった。とても、陣地壊滅という事態には至っていない。
しかし、火の海になった地点が問題であったのだ。そこは物資の集積点――――山と詰まれた穀物にも、火の手が及んだのである。

「火を消せ、早くせんか!」
「だ、駄目です! 燃えている大半が油で、水をかけても消えないどころか…燃え広がっていきます!」
「ぬうっ、おのれっ…!」

消火の命令を下す者も居たが、さしたる効果をあげることも出来ず…結局、物資のほとんどが炎上、消し炭になるまで、なすすべなく見守ることしか出来なかったのである。

「敵は見つかったか?」
「それが、周囲を探したのですが、影も形も――――どうやら引き上げたようです」

燃えるものがなくなり、火がおさまってから、ヴィスト軍は周囲に探索の網を広げた。しかし、急襲を仕掛けた相手は見つからず、徒労に終わったのであった。
既に陽は暮れ、周囲には夜の帳が落ちている。一方的な敵襲を受けて、不機嫌そうな隊長に、部下はおずおずといった風に質問をする。

「あの、隊長………敵は、また仕掛けてくるでしょうか?」
「さあな、分からん。だが、これに味を占めて今夜にでも、また攻めてくる可能性もある………警備は強化せねばならないか」

苦い表情で呟く隊長。物資を燃やされ、敵の夜襲を気に掛けてと、気苦労の絶えない状況に陥り、溜め息の一つもつきたくなる状況である。
ひとまず、事の次第を川向こうの本営に報告すると、夜の警備を強化するように命令を発した。荒鷲の攻略前夜…前途の不安を胸に抱いたのは、彼だけではないだろう。
翌日、荒鷲へのヴィスト軍の攻撃が開始される。荒鷲へ到る道は西方と北方。二方向から攻城を開始したヴィスト軍だが、敵の数は予想以上に多く攻城戦は難航した。
また、ヴィスト軍は森に潜んでいる敵兵にも頭を悩まされる。昼夜問わずの襲撃に、兵士達の疲労は溜まっていった。

そして、一週間が経過した。

「…以上が、現在の状況です。荒鷲の城壁は未だに健在で、敵の指揮も高く、苦戦は免れません。さらに…」
「敵の伏勢か………随分と手を焼かされているようだな」

部下の報告を聞き、女指揮官は苦々しげに顔をゆがめる。ヴィスト軍の橋頭堡となる3つの砦…そこには未だに兵も備蓄もあり、戦況が悪化しようと、問題はない筈である。
しかし、女指揮官の表情は晴れなかった。その原因は、森の中に潜伏している、エルト王国の伏兵部隊の存在にあった。

最初の襲撃を皮切りに、昼夜問わず、機会があればヴィスト軍に対し攻撃を仕掛けてくる。さらに、その攻撃の方法がえげつなかった。
遠目から矢を射掛けるのはもとより、風上で火をおこし、行軍の部隊を煙に巻く、軍の通行路に木を倒して行く手を塞ぐなど、方法は千差万別であった。
何より恐ろしいのは、それだけのことをしておいて、ヴィスト軍の前にその姿を見せておらず、一度も攻撃を受けていなかったことにある。

「姿の見えない相手に対し、手の打ちようはないのは分かるが………ここまで徹底されると、むしろ感服するな」
「御意。ですが、感服してばかりもいられないのも事実でして」
「分かっている」

部下の言葉に、女指揮官は苦々しげに顔をゆがめた。荒鷲へ攻撃を開始して一週間。奈宮皇国も事の異常を察知し、援軍を差し向ける頃合である。
現状、ヴィスト軍が圧倒的に優位に立っているが、援軍が到着すれば、戦力差は逆転する。その前に、荒鷲を落として戦局を確固とする必要があった。
この時期、どちらの軍にも勝機というものが存在した。エルト王国軍と奈宮皇国軍は荒鷲を護ること、ヴィスト軍は荒鷲を陥すことが勝利への絶対条件である。
援軍という切り札がオルトリア連合にある以上、時間が過ぎるごとに、状況はヴィスト軍に不利になる…女指揮官は決断し、予備兵力の前線投入を決意したのであった。

「各砦の予備兵力も出撃させろ………臆するな、我々はまだ、負けてはいない」



「諸君、困難な任務の完遂、ご苦労だった。しかし、気を緩めるな………我々はまだ、勝ったわけではない」

奇しくも、同じ時刻――――居並ぶ兵士達を前にアルイエットがそのような事を言ったのは、運命の奇異というものであっただろうか。
ヴィスト軍の攻撃の合間を縫い、アルイエット達が荒鷲に帰還したのは、先程のことである。皆、疲れきってはいるものの、一人の脱落もなく、帰還を果たしたのであった。

「正直、長い話はうんざりだろうから手短に用件だけ伝えておく。今より二日間、休息期間を与える。麓の村でくつろぐのも、砦内で身を休めるのも自由だ」

ジンが前に進み出てそう言うと、兵士達から喝采の声があがった。森に潜伏してのゲリラ活動…泥にまみれた身体を休ませたいというのが、兵士達の本音である。
兵士達を運用するにあたり、飴と鞭を上手に使い分けるのは、実のところなかなかに難しい。しかし、人心掌握を得意とするジンにとっては、それほど困難ではなかった。

「二日後の夕刻、この場所に集合。時間に遅れるなよ――――では、解散!」

ジンの声を合図に、兵士達は三々五々に散っていく。それを見届けた後で、アルイエットとジンも、自らにあてがわれた部屋に戻ることにしたのだった。
指揮官用の個室が、荒鷲内でのアルイエットとジンの部屋である。二人では少々手狭ではあったが、ジンはもとより、アルイエットが不満を口にすることはなかった。
どちらかと言えば貴族よりも平民に近い気質を持つアルイエットは、豪奢な物品には、さほど興味を示すこともなかったのである。
無論、女性らしく綺麗に着飾ったり、可愛らしいものを愛でたいと言う欲求が無いわけではなかったが、将軍という重責をこなしている彼女に、それほどの余裕はなかった。

「ふぅ、やっと休めるのね………ああ、ベッドが恋しい」

部屋に着くなり、疲労した様子を隠そうともせず、肩を落としたのは、将軍職を務めるにあたっての余裕のなさを示していたのかもしれない。
ふらふらとベッドに向かって歩くアルイエット。そのままベッドに倒れこんだら、一も二もなく眠りこけてしまいそうであった。と、彼女の襟首をジンがつかんで止める。

「こら、そのままの格好で寝ようとするんじゃない。せめて鎧は脱げ」
「えぇ――――…脱ぐのが面倒くさい。このまま眠らせてほしいんだけど…」

ジンの言葉に、不満そうな声を上げるアルイエット。他人の目があるうちは優等生で通している分、ジンと二人っきりになると、その反動がでるようであった。
とはいえ、そういった我侭はジンにとっては充分に許容範囲であった。それは、常に一緒に行動し、アルイエットの頑張りを見届けていたからかもしれない。

「ふぅ、分かった分かった。お前はそこでじっとしていろ。俺が鎧を脱がせてやるから」
「うん…よろしくね」

マントをはずし、アルイエットの鎧に手をかけるジン。特に抵抗することも無く、アルイエットはジンになすがままに着替えを任せている。
命を護るための武具である騎士鎧は、ちょっとやそっとでは外せないようにいくつもの留め金が付いている。普段の着替えでは女官に手伝ってもらうのが常であった。

「…ふぅっ」

留め金を外して鎧を脱ぐと、押さえつけられていた双丘が開放され、アルイエットは気持ちよさそうな吐息を漏らす………無論、性的ではない意味での気持ちよさであるが。
そんなアルイエットの反応を意に介さず、ジンは彼女のそばにかかみこむと、脛(すね)あてを外しにかかる。そうして、鎧を脱がし終わると、ジンは彼女から離れた。
身にまとった鎧から開放され、アルイエットは大きく伸びをした。決して大柄ではない彼女の身体には、騎士の鎧はやはり負担だったのだろう。

「んっ………あー、やっと身が軽くなったわ。ありがとう、着替えさせてくれて」
「礼を言うほどのものじゃない。それはそうと、せっかく鎧を脱いだんだ。ついでに寝る前に、身を清めておいたらどうだ?」

そういうと、ジンは部屋の奥を指し示す。さすがに指揮官用の部屋と言うこともあり、部屋の隅には小さいながらも浴室がある。
戦いの疲れを取るためにも、風呂に入っておくべきだ。そんなこと言うジンに対し、アルイエットはどことなく探るような表情を見せた。
最近では、ジンに信頼を置いているとはいえ、それでジンの女好きが治るという分けでもなかった。年頃の娘としては警戒するなというのが無理な話だろう。

「…覗いたりは、しないでしょうね?」
「緊急の事態の場合は、その限りではないが…とりあえず俺を信じろ。飲み物を用意して待っててやるから、早く入ってこい」
「………うん、分かったわ」

エルト王国軍を率いる将軍という立場から、アルイエットはいつ命の危険にさらされるか知れたものではない。特に今は、戦争の真っ最中である。
さすがにその状況で、風呂に入りたいから、ジンに部屋を出て行けとは言いづらかった。結局、隣の部屋にジンを残し、アルイエットは浴室に入ることにしたのだった。
シャツやズボンを脱ぎ、下着姿になりながら、アルイエットは知らず鼻歌を歌い始めていた。暖かい寝床も良いが、暖かい風呂も、嬉しいことに違いはなかったのである。

「〜♪ 〜〜♪」
「随分と楽しそうだな………」

浴室から聞こえてくる鼻歌に、ジンは呆れたようにつぶやくと、肩をすくめる。自分という存在が隣の部屋にいるというのに、無防備なものだなと呆れているようだった。
こういう状況の場合、好機とばかりに覗くなり、風呂に乱入するなりの反応が年頃の男の考えそうな妄想ではあるが、この時、ジンはそういう気分にはならなかった。
無論、同じ状況になれば、かなりの確率で女性をものにする算段を考えるのは、ジンも同じである。ただ、アルイエットが相手の場合、そのような考えに到らなかったのだ。

「まぁ、これから先も苦労が絶えないからな、こういう時くらいは、くつろぐのも良いだろう」

ジンがアルイエットに対して思いを馳せるのは、今後の彼女が負う責務についてである。エルト王国の軍事権を一手に掌握する責任は、いかほどのものか………。
軍人としては、ひよこといって良いほどに未熟なアルイエットに対し、ジンは女性として気にかけるより、軍人として気にかけることのほうが多かったのだ。
これは、内務大臣であるムストにも言えることで――――有り体に言えば、ジンはアルイエットとムストに対しては、特別視しているといってもよい状況であった。
もっとも、その特別視という状況は、彼女らの「女性」を無視しているといっても過言ではなく…それを不満に思うかどうかは、本人次第ではあるのだが。

「しかし、前にも淹れた事があるが、こちらの地方の茶は独特なものだな………それに、この菓子――――米を使ったものか?」

部屋に設えてあった急須と緑茶を玩びながら、お茶を淹れるジン。お茶請けに用意されていた「おこし」を手に取り、怪訝そうな表情を見せる。
かつて、神楽家領国で戦っていたときも、慣れない食生活などに辟易したこともあるジンであったが、米を使った菓子は初めて見たらしい。
しばしの間、米の塊である菓子をしげしげと眺めていたジンであったが、つまみ食いのつもりか、一つ口に放りこみ、租借して飲み込んでから口を開いた。

「………まぁ、小麦粉をもとにした菓子があるくらいだからな。米の菓子があっても不思議じゃないだろう」

などと、自分を納得させるように呟くと、ジンは改めてお茶を淹れる。おりよく、風呂から上がったアルイエットが、タオルで頭を拭きながら姿を見せたところであった。



ジンとアルイエット達がくつろいでいるその頃――――…荒鷲の城門下では依然、エルト王国軍と奈宮皇国軍が、迫り来るヴィスト王国軍を迎撃している最中であった。
荒鷲の西側にある門を突破しようとするヴィスト軍に対し、護るよりもむしろ果敢に打って出たのは、防御する部隊の大半が騎士や兵士、侍の部隊であったためである。
巨大な門を一時開け放ち、砦内から打って出た騎士達は、矛先を揃えてヴィスト軍に果敢に突っ込む。

「全軍突撃!」
「よし、我々も続くぞ」

女騎士であるルカが率いる騎士達の突進に続き、トール率いる兵士達が騎士達の後背を守るように突き進む。
そして、攻めの波が収まり、反撃に転じたヴィスト軍の猛攻を受け止めたのは、エルト王国軍と入れ替わりに前衛に出た、奈宮皇国軍の侍達であった。
奈宮皇国をはじめとするコドール大陸の東方には、国家を護るための身分として、騎士の代わりに侍という職が存在する。
彼らは王家に忠義を誓い、その為ならば命を惜しむことなく尽力する者達である。無論、中には例外もいるが…高い武力と士気をもつ戦闘集団と言って過言ではないだろう。

鎧で身を護り、刀で敵に抗する侍達は、エルト王国軍の盾となるかのように、ヴィスト軍の攻勢を一身に受け止めた。
荒鷲を陥とされれば、後方には寒村が広がるばかりの荒野である。奈宮皇国にとって、まさに正念場といえる状況であった。

「ひるむな! たとえ敵に斬られようと、一兵でも多く敵を倒せば我々の勝ちぞ!」
「はっ!」

死を恐れない侍達の戦いぶりに、門を攻めているはずのヴィスト軍の方が、じりじりと後退する有り様であった。
そうして、荒鷲の門を巡る戦いは、連合側の優位なままに、数日、また数日と過ぎ去っていく。堅固な城砦である荒鷲は、その実力を遺憾なく発揮したのであった。



二週間ほど後――――その日。ジンは荒鷲の城門の上で、迎撃の任にあたっていた。さすがに息切れをしたのか、ヴィスト軍の攻撃も、ここ数日は沈静化している。
散発的な攻撃をしのぐ合い間――――ジンは同じく城門の警護をしていた奈宮皇国の部隊長と、世間話に興じていたのであった。

「しかし、エルト王国軍が来てくれて助かりましたよ。我々だけでは、荒鷲を護りきることはできなかったでしょうから」
「すべては、アルイエット将軍の英断によるものです。我々は、それに従ったに過ぎませんよ」

笑顔で、ジンはそんな風に応対する。今回の遠征をアルイエットの手柄にするようにと、常からそのように吹聴して回っているジンだが、それが好ましく映ったらしい。
ジンと共に城門警備につく隊長は、感心したような表情でうんうんと頷いた。ジンよりも十歳ほど年長な男性は、現場指揮官というのが相応しい武士である。

「いやいや、おかげさまで助かりましたよ。まったく、本来なら自国の援軍をあてにしなきゃならんところでしょうが、そうも言ってられない事情がありましてね」
「ほぅ………というと?」

ジンの目がわずかに細まる。情報収集は戦争において重視される事柄であり、常にその手のことに気を配る必要がジンにはあった。
多くの情報は、副官である八重からもたらされるが、それに頼ってばかりでは、実のある情報を手にしたとは言いづらい。
こうした、何の気も無い世間話から、思わぬ情報が手に入る事もあると、ジンは長い傭兵生活から学んでいた。そんなジンの態度を意に介さず、隊長はつらつらと口を開く。

「自分の国を悪く言うのはどうかとも思いますがね、やはり今の王家は問題がありますよ。今回の援軍の遅れも、そのせいですから」
「はぁ――――つまり、王様に問題があると?」
「いやいや、陛下には悪いところはありません、むしろ問題なのは、御子息達の方でしてね。御者が多い馬車は、道に迷うという格言もあるのですが」
「…ああ、船頭多くして船山に登る、ということですか」
「おや、ご存知でしたか。他国の方にも分かるように、言い回しを変えてみたのですが」

ジンの返事に感心したような様子を見せる隊長。かえって分かりにくいのでは、と、ジンは思ったのだが、口に出すことはなかった。

「それにしても、我が国の諺(ことわざ)をくわしく知っておられますな。以前、この国にお住まいでも?」
「いえ、神楽家領国に滞在していたことがありましてね。それで、先程の話の続きなのですが」
「おお、そうでした。つまるところ、陛下の後継ぎを巡って、皇子様や皇女様を担ぎ上げる者がおり、色々と内輪もめを起こしているようなのですよ」

現在はヴィスト王国との戦争の真っ只中であり、さすがに表立っての露骨な争いこそないものの、手柄争いや失点探しなどは日常茶飯事らしい。
今回、荒鷲を駐屯する兵が少ないのも、援軍が遅れているのも、上層部のほうでの内輪もめが原因らしい。

「まったく、困ったものですよ。この様子では、戦争に勝ったところで、後々遺恨を残すでしょうな」
「ふむ………では、今後もこのような事が頻繁に起こると?」

隊長の言葉に、ジンの表情がわずかに険しくなる。今回の出兵も、エルト王国にしてみればかなりの負担なのだ。頻繁に援軍を求められるのは実のところ困る。
ただ、その心配は杞憂だったらしい。ジンの言葉に、隊長は苦笑しながら首を振った。

「いえいえ…さすがに、このような事は、そうは起きないでしょう。今回の件も、既に調査が行われているようですし、これを機に軍部の乱れも修正されるでしょうから」

隊長が、その言葉をいい終えるとほぼ同時に、周囲を歓声が包んだ。何事かと耳を澄ますと、兵士達の歓喜の声が聞こえてくる。

「おお、お待ちかねの援軍が着いたようですな。これで、荒鷲も安泰でしょう」
「そのようですね………ん?」

歓声を聞いていたジンが、怪訝そうな表情をする。兵士達があげる歓喜の声の中に、聞きなれない響きが混じっていたからであった。

「おや、どうかなさいましたかな?」
「いえ、兵士達がしきりに誰かの名を呼んでいるようなので………一葉様とは?」

続々と、砦内に援軍が入り、歓声が大きくなるなか、特に兵士達の声の比率が多いその言葉は、信頼と畏敬に満ちていた声であった。
ジンの質問に、ああ、と隊長は頷き、誇らしげな表情で兵士達の声に耳を傾けつつ、一葉と呼ばれる者についての説明を始めた。

「一葉様は、お世継ぎ様達のお一人で、第三皇女であらせられます。他の方たちと違い、自ら先陣に立たれることが多く、兵達も信頼を寄せているのですよ」
「なるほど…他のかしこまった皇族より、親しみやすいということですか」
「ええ。うら若く、聡明で、若い兵士達には憧れの存在のようですな。私も一人息子の嫁になら、是非あのようなできた女性を――――と、これは不敬でしたかな」

そう言いつつ、はは………と笑う隊長に愛想笑いで応じつつ、ジンは一葉という名の女性に関心を抱いたようであった。
荒鷲を囲むヴィスト軍は、徐々に戦端を後退させて、やがて緩やかに後退を始めた。撤退の意思を示したヴィスト軍にあえて追撃をしようという案は出ることはなかった。
援軍が来ることで優位に立ったとはいえ、度重なる激戦で兵士達の間に疲弊の色が見え隠れしていたのと、森での追撃戦は攻めるほうに危険が伴うというのが理由であった。

何にせよ、当面の荒鷲の危機は去り、ジン達の今回の遠征は成功したといえる。奈宮皇国に恩を売ることができ、今後の戦いも優位に立ち回ることができるだろう。
その日の午後…エルト王国の諸将は、奈宮皇国の使いの者達に案内され、砦内の一つの部屋に通された。第三皇女から、直々の労いの言葉を与えられるとのことである。
部屋に招かれた将達は、一様に緊張した様子を見せている。大国である奈宮皇国の皇族から声を掛けてもらえるということは、それほどに名誉なことなのであった。
将達の最前列に立つアルイエットも、緊張した面持ちを迎えている。唯一、落ち着き払った様子でいるのは、彼女の傍に控えるジンくらいなものであった。

その緊張が伝わったのか、部屋にはピリピリと切迫した空気が満ち始めていた。警護役である奈宮皇国側の将達も、微妙に緊張した表情になっている。
何しろ、嫡男ではないとはいえ、れっきとした皇族である。もし何かがあれば、自分達の首が危ういとあっては緊張するなというのが無理な話であった。
そんな、友好的とは言えない部屋の空気がわずかに揺れた。何者かが、部屋の外から扉をノックしたのである。皆の視線が開き始めた扉に向けられた。
不意に、緩やかな風が居合わせた者達の頬を撫でる――――それは錯覚であったが、そう感じさせるほど、姿を現した少女は涼しげで、聡明な気配をまとっていたのだった。
護衛の兵士を引き連れ、部屋の中央に進み出た少女は、立ち並ぶ諸将を一瞥すると、緩やかに礼の仕草をとる。

「奈宮皇国、第三皇女、一葉と申します。此度の遠征、エルト王国の方々の並々ならぬ苦労、陛下に代わり御礼を申させていただきます」
「………」

一葉の言葉に、諸将は無言…というより、言葉を発する権限はなかった。唯一答礼できるのは、総大将であるアルイエットなのだが…どうやら、一葉に見とれているらしい。
ぼうっとした表情のアルイエットの腕に、ジンはさりげなく触れた。それでようやく、アルイエットは我に返ったようである。顔を引き締め、一葉に向き合って答礼した。

「エルト王国軍、総大将、アルイエットと申します。一葉様よりの労いの御言葉、謹んで受け取らせていただきます。この事を伝えれば、兵士達も喜ぶでしょう」

優雅に礼をしながら、アルイエットは一葉に笑顔を見せる。ジンとの練習で幾度か繰り返された挨拶の練習だが、そうとは見えないほどに自然な立ち振る舞いであった。
それはおそらく、彼女の心底に、目の前の王族の少女である一葉に対する畏敬の念が宿っていたからであろう。それを感じてか、一葉の顔にも微笑が浮かぶ。

「そうであれば、何よりと思っています。今後も、両国の未来のために、ともに頑張って戦っていきましょう」
「はっ!」

アルイエットの言葉とともに、居並ぶエルト軍の将帥達は、一斉に敬礼する。その後も、二言、三言の社交辞令を交わして、面談は終わりという流れになった。
そんな風に、何の問題もなく進んでいた会談だが…滞りなく会話を行っていた一葉は、アルイエットとの会話の最中、自分に向けられるある一つの視線が気になっていた。
普段、自らに向けられる敬意を持った視線とはまるで別種の、無遠慮な視線である。さりげなく視線をめぐらすと、自分を見つめていたエルト王国の軍師と目が合った。

「………」

一葉と目が合っても、青年は目をそらすことも無く、品定めをするかのように、彼女を一瞥している。そしてその視線は、彼女が退出するまで、すっと変わらなかった。
そんなこともあって、一葉は否が応にも、その青年のことを意識してしまったのだが…当の本人は、別段そんなつもりがあって、一葉を注視していたわけではなかった。
ただ、アルイエットにも、この十分の一でいいから威厳がほしいところだとか、そんな取り留めの無いことを考えながら、一葉を見つめていただけである。
ジンとしては、エルト王国でも手一杯なのに、これ以上厄介ごとを持ち込まないでほしいというのが本音であったのだが…逆に厄介ごとの火種を巻いてしまっていた。
もっとも、その事をジンが知ることになるのは、一葉との枕事の最中の寝物語で、一葉の口から聞かされることになるのであるが…それはまだ、先の話である。



何はともあれ、こうして奈宮皇国への遠征は無事に終了し、エルト王国軍は荒鷲を発って凱旋の途に付くことになった。
この戦は地方での小競り合いとして、歴史の片隅に埋没することになるが………後のヴィスト軍への、大規模な反抗の足がかりとなる一戦であったのは間違いない。
無事に本国に帰還したエルト王国軍は、ヴィスト王国軍の南方方面軍との小競り合いを行いつつ、次の遠征の準備に取り掛かった。
次の遠征目標は、ヴィスト王国・ビルド地方――――かつて、ビルド王国と呼ばれる国家が存在した地方で、ヴィスト王国に反抗する勢力を救援することが目的であった。