〜アルイエット戦記〜
〜領土奪還〜
王都より北西の都市・エルゼに陣を敷いたエルト王国軍は、街道を北上し、ローマイル砦の攻略にあたることとなった。
現在のヴィスト王国軍の最前線基地であり、エルスセーナへ至る三本の街道の中心に建つこの砦は、戦略上の要地である。
それ故、ここに集められた兵士はいずれも歴戦の猛者ばかりであり、緊張感にみなぎった顔でエルト王国へ監視の目を向けている――――のではなく…、
「やれやれ、今日も平和だな………ふああぁ〜」
実際には、この砦に駐屯している兵士達は、どこか気の抜けたような表情をしており、緊張感の欠片も無い様子が見てとれた。
なぜ、そのような次第になったのかといえば、砦の立地条件によるところが大きかったのである。街道の中心にあるとはいえ、周囲には村も街も無く、エルスセーナは遠い。
軍上層部の監視の目も届かないような場所にあっては、兵士の緊張感が緩むのも、当然といえた。
加えて、これまでのエルト王国との戦いは常に連戦連勝であり、兵士の中には、エルト王国を完全になめて掛かっている者もいたのである。
そうした状況での、エルト王国軍の最初の一撃は、砦に滞在していたヴィスト王国軍の兵士達にとって、まさに不意打ちとなったのである。
時刻は、黄昏が辺りを支配し、宵闇がうっすらとあたりにたなびく頃合に行われた。エルト王国攻略の最前線の基地となるこの砦では、夜の間はそれなりに監視を強めていた。
しかし、夜半の警備ならともかく、まだ日の出ている夕刻に、砦に侵入する不審者が居るとは、誰も思っていなかったのであった。
「は〜、腹減ったな………今日の夕飯は、なんだろうな?」
「そうだな、匂いからするとシチューとか………ん? おい、何か音がしないか?」
「は? ………お、おい、誰だ、門を開けようとしてる奴は!? 聞いてないぞ!」
「………どうやら、進入は成功のようですね。門が開き始めています」
自らの部下である密偵に命じ、砦の正門を開けさせた八重は、嬉々とした様子でジンに報告する。普段の気の抜けた様子とは裏腹に、その手腕は確かなものであった。
エルト王国軍の眼前に見える砦は騒然となった。門の異常に気づくのとともに、街道を北進してきたエルト王国軍に気づいたのだろう。
「よくやった、八重。あとで可愛がってやろう………さて、いくぞ! 全軍で門に殺到する必要は無い! 一軍は城内に突入、他の軍はそれを補佐しろ!」
「聞いての通りよ! トール将軍の部隊は先鋒を、他の部隊は援護をして!」
アルイエットの号令一過、エルト王国軍はローマイル砦に殺到する――――不意をつかれ、弓矢で応戦する間もなく砦内に侵入され、ヴィスト王国軍は大混乱に陥った。
指揮系統を寸断された兵士達は、組織的な反抗もままならず、次々と倒されていく。一部の兵が北方の門から逃げ出した他は、降伏か討ち死にといった惨状であった。
「うおぉぉぉぉー! 勝ったぞー!」
「俺達の勝利だ!」
闇夜の中、兵士達の歓喜の声が響き渡る――――実に一年ぶりにもなるヴィスト王国に対する勝利に多くの者が色めき立っていた。早くも、酒盛りを始める者もいる。
浮ついた空気が砦を支配しているなかで、ジンは冷静に次の策を考えている最中であった。彼の傍に八重が近寄ると、小さな声で耳打ちをする。
「砦を逃げた兵士達は、北西に向かっているそうです。どうやら、エルスセーナを目指しているみたいですね…それほど数は多くはありませんし、捕らえましょうか?」
「…いや、どのみちこちらの動きは相手に知れるだろう。わざわざ追いかけて捕まえる必要も無い。それよりも………」
「………はい、かしこまりました、それでは」
何事か、ジンに命じられた八重は、微笑みながら数歩あとずさる――――そうして、闇に紛れるように、その姿をすっと掻き消したのだった。
その様子を見送っていたジンの耳に、歩み寄ってくる足音が聞こえた。そちらを向くと、喜色満面といった表情のアルイエットがジンに近づいてきたところであった。
「やったわね、大勝利よ! 見て、皆、凄く喜んでいるわ!」
「…ああ、そうだな。 まぁ、勝って当然の戦だったんだが――――よっぽど勝ちに恵まれてなかったんだな」
「う………わ、悪かったわね、負けっぱなしの将軍で。どうせ、この勝利は私の力じゃないって言いたいんでしょ」
ジンの言葉に、アルイエットは喜びの表情から一転、拗ねた様子でそんな事を言い出した。どうやら、過去の大敗のトラウマを思い出したらしい。
そんなアルイエットの様子をさして気にもしていない風に、ジンは淡々とした言葉で応じるのであった。
「まぁ、そういじけるな。勝ちさえすれば、箔がつくのは確かだ。周囲の評価に実力を追いつかせるのは、後々でも構わないだろう………せっかくの勝利だ、素直に喜んどけ」
「――――…うん、そうね、そうするわ」
ジンの言葉に少々考え込んだあと…アルイエットの顔には笑みが戻った。こうした気持ちの切り替えが早いところは、間違いなくアルイエットの長所だろう。
そんな事を考えていたジンだったが、不意にアルイエットに手を握られ、考えを中断した。何事かと視線で問うジンに、アルイエットは楽しそうな笑みを返したのである。
「それじゃあ、兵士達にねぎらいの言葉を掛けにいきましょう。一緒に来てくれるわよね?」
「やれやれ………まぁ、たまには良いか。付き合うとしよう」
アルイエットに手を引かれ、ジンは苦笑をしつつ、付き従う事にする。その光景は、傍から見れば仲の良い男女であり…なんだかんだで、それなりに打ち解けている二人であった。
エルト王国軍侵攻による、前線の砦の陥落――――ヴィスト軍にとっての凶報がエルスセーナにもたらされたのは、翌日の早朝の事であった。
エルスセーナに駐屯する部隊の長は、エルト王国に対する反攻のため、一堂に会し、方針を決めているところであった。
とはいえ、そこにはヴィスト軍随一ともいわれる智将、ロンゼンの姿は無く、集まった面々も、どこか緊張にかけた表情をしていたのだが。
「いや、しかし驚いたな。まさかエルト王国に、我らヴィスト王国軍と戦う度胸があったとはな」
「なに、どうせ威勢のいいのは最初のうちだけさ。すぐに白旗を揚げて降参してくるだろうよ」
「違いないな。なにしろ、前に戦った時は呆れるような弱さだったからなぁ」
おどけた様子で言う騎士に、賛同するような笑いがあちこちからあがった。もしここに、ヴィスト軍の名だたる将帥が一人でも居たら、間違いなく怒声の雷を落としていただろう。
前線の兵士達と同様に、彼等もまた、自らの優位を信じ、ヴィスト軍の強さを過信――――あるいは妄信している状態であった。
「しかし、ロンゼン閣下が前線から離れている時にこんな問題が起こるとはな――――これでは、閣下がお戻りになられた時に、責任を取らされるかもしれないぞ」
「そうだな、どうせエルト王国軍など、たかが知れているんだ。駐在軍の半数もあれば、壊滅できるだろうし…俺たちだけで何とかしてみるか?」
「…よし、やってみよう。出撃準備だ!」
駐在軍の将軍たちは、半数をエルスセーナに残し、もう半数をローマイル砦に向ける事にしたのであった。
その日の午後…エルスセーナを出立したヴィスト王国南方方面軍は、南に進路をとり、一路、南東にある国境線に向かったのであった――――。
ヴィスト王国軍がエルスセーナを発ってから幾日かは、平穏な日々が続いていた。その平穏が破られたのは、ある日の明け方の事であった。
エルスセーナを囲む城壁の上――――来るはずも無い敵に警戒をする役目をおおせつかった兵士は、のんびりと大きなあくびをした。
「ふぁ………しかし、ひまだねぇ」
「おいおい、少しは真面目にやったらどうだ? 気の抜けた態度をとっていると、隊長にどやされるぞ」
気の抜けた様子の兵士に、同僚は渋い顔をする。今までも何回か、その兵士は上官から注意を受けており――――同僚も辟易していたのである。
しかし、そんな同僚の苦言など、兵士はどこ吹く風といった感じで、大きなあくびを繰り返していたのだった。
「いいんだよ、どうせ敵なんか来ないんだからな――――真面目にやるだけ、損ってもんだろ」
「損得の問題ではないだろう。俺たちは栄えあるヴィスト王国軍の一員で――――おい、聞いてるのか?」
「ん、ああ………なぁ、一つ聞きたいんだが――――敵ってのは、ひょっこり現れるようなもんじゃないよな…?」
呆けた様子で、南方の風景を見つめる兵士。同僚は、怪訝そうにその視線を追いかけると――――唖然とした表情になった。
エルスセーナから南方に延びる街道………そこに、エルト王国の無数の旗がそびえ立っていたのである。その立ち並ぶ旗の下に集うのは、万を越す数のエルト王国軍である。
「………よし、予想通り敵は出払っているようだな。それにしても、相変わらず八重の情報網は大したものだな。誉めてやろう」
「えへへ、ありがとうございます、ご主人様」
街道を北進してきたエルト王国軍――――その陣中でジンは、のんびりと八重と戯れていた。その隣では、アルイエットがどこか感慨深げな表情で、エルスセーナを見つめている。
ローマイル砦に留まっていたエルト王国軍は軍を、三つに分けた。一つはトール隊を中核とした砦を防衛する為の部隊。
二つ目は女騎士ルカを中核とした大部隊で、北方のラクー、サンドラ、ジーの村を巡り、ミドルマイル砦の攻略に向かう部隊である。
この部隊は、各地の治安の回復と、住民のエルト王国への回帰を促すために派遣されるものであり…その行動は出立当初より川向こうのミドルマイル砦にも知られていた。
…さて、ミドルマイル砦の兵士達にしてみれば、エルト王国の大軍が砦を出立したのだから、気にならないわけはない。
堅牢な砦に籠もっているとはいえ、数の差はいかんともしがたいものであった。砦を防衛する部隊の長は、さっそく援軍を求める事にしたのである。
ちょうど折りよく、南方のデロの村にエルスセーナより出立した軍が駐留しており、早馬を飛ばし、援軍を求めたのである。
そうして、エルスセーナをでて、南方に軍を進めていたヴィスト軍の討伐部隊は、ミドルマイル砦の救援の為、北上して砦に入ったのである。
その様子は、八重の部下により、すぐさまジンの元に届けられ………その報告を聞いた後のジンの行動は迅速であった。
彼は残存する予備兵力を統合すると、アルイエットとともに、西の街道を駆け、一息にエルスセーナに到達したのである。
ミドルマイル砦の敵の目は、北東のルカ隊に向けられており、彼等は何の妨害を受ける事もなく、一挙にエルスセーナにたどり着いたのであった。
さて、エルスセーナを包囲したといっても…実のところをいうと、エルスセーナに留まったヴィスト軍の総数は、数の上ではジンの率いる部隊に倍するものがあった。
しかし、どこからともなく現れたエルト軍に、首脳陣は不安に駆られ、出撃命令を躊躇っていたのである――――。
「いったい、出立した軍は何をしているんだ!? ひょっとして、もう全滅したとでもいうのか…?」
「わからん。しかし、困った事になったぞ………南方と東方をエルト軍に押さえられていては、ミドルマイル砦に救援を求める事も出来ないではないか」
「そもそも、砦は無事という保証もないだろう。ローマイル砦を落とすのに、一日もかからなかったというではないか、ミドルマイル砦も、恐らくは…」
情報を遮断された時、人の心を蝕むのは不安や危惧の心である。エルスセーナに立てこもったヴィスト軍は、声を潜め互いの顔色を窺うばかりであった。
そうして、数日にわたる不毛な話し合いの末、軍の上層部が出した結論は――――…、
「ご主人様、エルスセーナの北西の門が開きました。どうやら、北西のハイマイル砦に兵を移すつもりのようです」
「そうか、敵が撤退するなら、戦わずにエルスセーナは落とせるが………敵の力は削いでおくに越した事はないからな…追撃するぞ!」
王都を包囲していたジン・アルイエット連合部隊は、撤退をするヴィスト王国軍の後背に、矛を並べて襲い掛かったのである。
一万余のエルト軍・対・二万強のヴィスト王国軍――――しかし、撤退中のヴィスト兵は戦意に乏しく、ろくな反撃も出来ないままで、次々と打ち倒されていった。
エルスセーナを撤退し、ハイマイル砦に逃げ込むまでに、ヴィスト軍は半ば解体し、ようやく砦に逃げ込めた兵数は、五千に満たなかったのである。
異常に気づいたハイマイル砦からは、すぐさま迎撃の部隊が繰り出されたが、その頃には既に、エルト王国軍はエルスセーナへと引き返しつつあった。
エルスセーナへの帰路、馬を駆って街道を進みつつ、アルイエットは傍らのジンにたずねた。
「それにしても…ヴィスト軍は、随分とあっさりエルスセーナから撤退したわよね。てっきり篭城すると思っていたんだけど」
「ああ、敵もそうしたいところだっただろうが、そうも行かない理由があったのさ」
「理由?」
馬を並べて街道を進む道すがら、ジンはヴィスト軍の撤退に際し、自らの打った手をアルイエットに説明した。
エルスセーナは、もともとエルト王国の支配地であったため、土豪や豪商に支持者も多い。今回ジンは、エルスセーナ内の有力者に蜂起を促したのである。
エルト王国軍の攻撃とともに、市街のあちこちで暴動を起こし、中と外からヴィスト軍を攻め立てるという作戦であった。
さらに…ジンはわざと、その情報をヴィスト側に流れるように仕向けたのである。むろん、内通者を売る様な真似をする訳ではなく、そういう動きがあると知らしめる為であったが。
「内部にも火種があると知れば、敵としては防衛に徹するわけには行かないだろう。実際に暴動が起これば、戦どころではないからな」
「なるほど………でも、ひょっとしたら敵が逃げるんじゃなく、こっちに向かって攻めてくることもあったんじゃないの?」
「ああ、その可能性も考えていた。数の上で言えば、向こうの方が多いからな………もっとも、相手がどのように出てこようと、対応する自信はあったがな」
その心配は杞憂に終わったが。と言って笑みを浮かべるジンに、アルイエットは底知れぬものを感じていた。
仮にヴィスト軍が攻め寄せてきたとしても、ジンは、数を頼みに押し寄せてくるヴィスト軍をあしらい、打ち崩し…エルスセーナを陥落させただろう。
初めての出会いからジンの実力に半信半疑であったアルイエット………彼女のジンへの信頼が本物になったのは、この時だったのかもしれない。
――――かくして、ヴィスト軍によって占拠されていたエルスセーナは、エルト王国軍の手に戻ってきたのである。
長大な城壁の上には、エルト王国の旗が立ち並び、住人達は諸手を上げて、エルト王国軍を歓迎したのであった。
「本当に、ここに戻ってくれるなんて………」
見覚えのある街並みを見渡し、感慨深げに呟くアルイエット。彼女の父であるアルバーエル将軍との思い出がある場所を見つめ…アルイエットは懐かしげな表情を見せた。
その様子を見て、呆れたように、ジンは厳しげな口調でアルイエットに言葉を投げかけた。その表情はいつにも増して険しいものである。
「おい、気持ちは分かるがな…今はまだ戦時中ということを忘れるなよ。思い出に浸る時間はないぞ」
「うん、わかってる………まだ終わってないのよね」
そう、エルスセーナを攻め落としたとはいえ、東のミドルマイル砦にはヴィスト軍があり、また、北西のハイマイル砦も隙あらば、エルスセーナに再侵攻しようと様子をうかがっている。
エルスセーナの奪還という当面の目標を果たしたとはいえ、いまだ戦況は予断を許さない状況であった――――。
それからしばらく後…ジンとアルイエットは、軍の駐留場所に割り当てられた宿舎の一室にいた。今後の方針を決めるための打ち合わせである。
八重によって、テーブルに広げられた地図。それと、彼女の部下達が集めた情報をあわせて、現在の状況を把握したジンは、おもむろに言葉を発する。
「さて、状況は見ての通り――――現在、ミドルマイル砦の外へ続く街道は3本ともエルト軍が占拠しており、相手は袋のネズミの状態だ。とはいえ、その兵数は侮れん」
「エルスセーナに駐留していた軍の半数が、砦に援軍として入りましたから、もともと常駐していた軍と合わせて3万ほどが砦にいると思われます」
「それじゃあ、陥とすのは難しそうよね………それじゃあ、ハイマイル砦の方は? そっちなら、数も少ないでしょう?」
ジンと八重のやり取りを聞き、アルイエットが意見を出してくる。ここ最近は、自分は向いてないと嘆くこともなく、積極的にこうして軍議に参加してくるようになった。
向上心が芽生えたというのは喜ばしいことだが………さすがに直ぐに、及第点を出せるまでに成長するわけではなかった。アルイエットの言葉に、ジンは渋い顔をする。
「それも考えたんだが、そうするとミドルマイル砦の包囲が崩れることになる。せっかくの優位を捨てるのは良策とはいえないしな」
「はい、どうやら遅まきながら、ミドルマイル砦もエルスセーナの異変に気がついたようですね。こちらの様子を伺っているようです」
「となると、ハイマイル砦の方に出撃すると、その隙にエルスセーナを取り返されかねないということか………そちら側には、向かわないほうが懸命だな」
「それじゃあ、ミドルマイル砦を落とすの? いくら相手が3万近くいるとしても、全軍でかかれば落とせないこともないでしょう?」
そう言ってみたものの、それが良い策でないことはアルイエットとて、何となくは分かった。堅固な城砦と、3万もの敵兵――――攻め落とすのに、どれほどの被害が出るだろうか?
なら、どうすればいいか――――…頭を悩ませてみたものの、結局、満足な答えは浮かんでこず、アルイエットはジンの考えを聞くことにしたのである。
「全軍でかかる、か………虚報と偽兵を使えば――――いや、相手が警戒している以上、成功する可能性は低い、か………包囲された城砦に、兵数は3万超――――」
ぶつぶつと呟きながら、人差し指で広げた地図をトントンと叩くジン。その指が、ミドルマイル砦からエルスセーナ、ハイマイル砦に動かされたとき、不意に彼は顔を上げた。
「八重、トール隊とルカ隊にそれぞれ伝令を送れ。それと、ハイマイル砦に勧告の使者を派遣する…人選はそちらで選んでくれ」
「はい、かしこまりました」
「………どうするの?」
ジンの言葉に八重が部屋を出て行くのを見送りながら、アルイエットはジンに問う。彼女の問いに、ジンは不敵な笑みを浮かべた。
「一芝居を打ってみることにした。うまくいけば、二つの砦を一気に手に入れれるだろう………まぁ、まかせておけ」
「――――うん、分かったわ」
ジンの自信満々の表情を見て、アルイエットは不思議と安堵しているのに気がついた。どうやら知らぬうちに、ジンという男に感化されてしまっているようである。
とはいえ、それが不快かといえば、そうでもなく………どちらかといえば、心地よいという風に感じているアルイエットであった。
それから一週間後――――エルスセーナからの使者がミドルマイル砦に到着した。使者の手紙を受け取り、目を通したヴィスト軍の司令官は、怪訝そうな表情を浮かべた。
手紙には、ヴィスト軍のミドルマイル砦からの撤退を促す勧告文が添えられていたのである。その文には、最後に奇妙な一文が添えられていた。
『ヴィスト軍が砦を出て撤退するのであれば、ミドルマイル砦〜エルスセーナ〜ハイマイル砦までの道程の安全を許可する』
そこには、大将軍であるアルイエット直筆の文章が書き加えられていた。これを破ることは、エルト王国軍の権威の失墜を意味する――――と。
無論、そんな文章が戦時中では何の意味もなさないことは分かっている。ただ、このような直筆まで加えてくるということは、エルト軍は本気で追撃する気はないのだろうか?
司令官は、使者に目を向ける。砦に派遣された使者は、エルト王国軍の兵士ではなかった。エルスセーナでの戦いで捕獲された、ヴィスト軍の兵士が手紙を届けに来たのである。
「これを届けるように言われたとき、何か連中におかしな様子はなかったか?」
「は………おかしな様子、ですか? ――――いえ、特には。そもそも、自分が会ったのは、軍師と自称する男だけでしたので」
問われたヴィスト兵はしばらく考え込んだあと、そんな風に答えた。手紙を届けるだけの役目の男に、大将軍などが会うはずもないか…司令官は少々落胆しつつも、問いを続ける。
「では、連中の部隊の数は? 正確にではなくとも、おおよその数くらいはわかるだろう」
「はっ、それでしたら………エルト王国軍の数は一万ほどだと思われます。王都から出る際に確認したので、間違いはないかと」
「わずか、一万――――? ふっ、なるほど………連中の腹は読めたぞ」
司令官は、兵士の言葉を聞き、不敵な笑みを浮かべた。その言葉に、彼の部下たちは驚いたような表情を見せる。
「ど、どういうことでしょうか、司令官?」
「簡単なことだ。連中としては、我々が大人しく撤退してくれるのがもっとも都合が良いのだ。いくら我々を包囲したとはいえ、王都の兵力がその程度では、不安にもなろう」
「なるほど………包囲したのは良いが、戦力分散の危機に陥っているということでしょうか?」
「ああ。だとすれば、我々のとるべき道は一つ。全軍をもって西進…エルスセーナを再奪還する!!」
エルスセーナさえ奪還できれば、ひとまず体制を立て直すことができるだろう。ロンゼン将軍の居ぬ間の失態を帳消しにはできないが、援軍の期待できない現状よりはましである。
北東、南東のエルト王国軍に悟られぬように、ヴィスト王国軍はミドルマイル砦を放棄すると、一路、西の街道を進む。電撃戦で、エルスセーナを落とす算段である。
だが、エルスセーナの城壁が見えてきたところで、異変は起こった。エルスセーナを視認できる距離にヴィスト軍がたどり着いたとき、後方から悲鳴が上がったのである。
「こ、後方に敵影多数!! その数………数え切れません!」
「何っ!? 読まれていたというのか!?」
ヴィスト軍の後方には、ミドルマイル砦を素通りし、彼らの後方を扼したエルト王国軍の大軍が姿を現していた。トール隊、ルカ隊を中核とした、エルト王国の主力である。
エルスセーナにある兵力は少数とはいえ、後輩に大軍を抱えた状態では、とうてい陥としきれないだろう――――殲滅の危険に、司令官は臍をかんだ。
どうする、このまま軍を反転し、エルト王国に決戦を挑むか――――絶望的な状況での戦いを、司令官は覚悟し命令を下そうとする。しかし、物事は意外な状況に発展した。
ヴィスト軍の後方に展開したエルト王国軍は動かず、ただ一騎、馬を駆った騎士が前に出でて、ヴィスト王国軍に言葉をかけてきたのである。
「ヴィスト王国軍に問う! 貴軍のこの行動は、エルスセーナを攻め取るためのものか!? それとも、矛を引き、撤退するための意思によるものか!?」
「………む――――無論! 撤退の意思である!」
騎士の言葉に、とっさに司令官の口から、そのような返答が飛び出た。よくよく考えれば、相手はまだ、こちらが撤退するかどうかも分かっていないのだ。
不利な状況で戦うくらいなら、いっそのこと、このままハイマイル砦に逃げ込むべきであろう――――司令官は直感的にそう判断したのである。
その言葉に満足したのか、騎士は一つ頷くと馬首を返す。その無防備な背中は、撃てるものなら撃ってみろという挑発にも見えた。
「ならば、早々に立ち去ることだ。あまり長く留まるのであれば、エルト王国としても、貴軍らを駆逐せざるを得ぬのだからな」
「――――よせ、撃つな…! それよりも、今は一刻も早く、この場を離れるのだ!」
殺気がみなぎる部下たちを必死に制し、司令官はエルスセーナを素通りし、一路、ハイマイル砦へと進路をとったのである。味方と合流すれば、まだ活路はあると思っていた。
「ねぇ、本当に手を出さないの? 追撃とかをしたほうが良いんじゃ…」
「いや、全軍に徹底させろ。ヴィスト軍への追撃は禁じる。破ったものは誰であれ、厳罰に処す――――トール隊、ルカ隊にも指示を出しておけ」
その頃――――…エルスセーナの城壁の上では、撤退するヴィスト軍の様子を見ながら、ジンとアルイエットが言葉を交わしていた。
追撃を禁じるジンに、アルイエットは不満そうな表情である。明らかに戦意をなくしたヴィスト軍を、どうして追撃しないのか…言葉に出さずとも、そう表情が語っていた。
「ずいぶんと不満そうだな。だがな…今はまだ、勝ちすぎる時じゃない。そのあたりのさじ加減は、しっかりしておかないとな」
「勝ち………すぎる?」
ジンの言葉に、アルイエットはキョトンとした表情。人の言葉の示唆するところが、いま一つ理解できなかったのだ。そんな彼女に、ジンは淡々と説明する。
「ああ、今までは順調すぎるほどに勝ち進んではいるが、エルト王国軍はそこまで強くない。ヴィスト軍が本気を出して攻めてきたら、あっという間に壊滅させられるだろう」
「そ、そうなの…?」
「総兵力で、どれほどの差があると思ってるんだ? 四方八方に敵国を抱えて、それでも優位に戦いを進めるほどの軍事大国だぞ?」
そう、いま戦っている敵軍は、ヴィスト軍の中でもほんの一握りと言ってよい。今ここで躍起になって敵を全滅させれば、それは次の大規模な反撃を生むだけなのである。
「連中にだって面子はある。小さな敗北ならまだしも、完膚なきまでに叩きのめされれば、向こうも本気にならざるをえないだろう」
「だから、今は見逃すっていうの?」
「ああ。何もエルト王国が全面攻勢の矢面に立つ必要はない。ヴィスト王国の注意が他の国に向いている現状で、必要以上に目立つのは避けたいしな」
ジンの言葉に、アルイエットは感心したように相槌を打つ。確かに、そう考えるとジンの命令は適切であるといえる。ただ、なんとなく歯がゆいのも確かであったが。
そんな、奥歯に物が挟まったかのような表情のアルイエットを見て、ジンは愉しそうに笑みを浮かべる。事あるごとに表情を変えるアルイエットが面白いらしい。
「そんな表情をするな…これも布石の一つなんだからな………さて、もう一つの砦を取りに行くぞ。もっとも、戦いにはならないだろうがな」
「………ぇ?」
ジンの言葉に、アルイエットはポカンとした表情を浮かべる。戦わずに砦を落とす――――そのようなことが、出来るのだろうか?
ほうほうの体で、ハイマイル砦に撤退したヴィスト王国軍――――敗残兵を合わせるとその数は5万をゆうに越す。これならば、エルト王国軍との再戦も可能だろう。
そう考えた軍の上層部は部隊の再編と出撃の準備に取り掛かった………しかし、意外なところから反対の声が上がった。ハイマイル砦に駐留した部隊の隊長からである。
「何だと、どういうことだ!?」
「ですから、足りないのですよ。糧食も武器もとても行き渡らない状況です」
出撃を主張する司令官たちに、ハイマイル砦を任された隊長は渋い顔をする。多くの者を受け入れたハイマイル砦では、物資の欠乏が深刻化していた。
兵士達を養うための食料も、敵を倒すための武器の類も、その全てが規定量に届いていなかった。その原因は無論、敗残兵の多さにある。
ハイマイル砦だけでも、それなりの兵が駐留していたが………まさか、通常の十倍を超える食い扶持が現れるとは、予想の範囲外だったのだ。
「いくら兵士たちが居てもですな…それを養うための食料や身を守る武器も無くては、戦わせることはできないでしょう」
「そんなことは分かっている! だから、なぜ物資が無いかと聞いているのだ!」
ハイマイル砦隊長の言葉に、イライラした様子で、司令官たちは詰め寄った。そんな彼らに、隊長は呆れたような口調でそっけなく言ったのである。
「なぜ? 決まっているでしょう。エルスセーナがエルト王国軍の手に落ちたせいで、砦に物資が届かなくなったのですよ」
「………何?」
「驚くことではないでしょう。地理的状況から見ても、この砦に物資を搬入するのに適している都市は、エルスセーナ以外に無いのですから」
ハイマイル砦は、北西方面の侵略からエルスセーナを守るために建てられたものである。近隣にはエルスセーナ以外の集落は無く、補給も頼らざるをえなかった。
エルスセーナは大都市であるため、健在であれば、補給の心配はまるで無い。だが、そこが陥落した以上、補給のあては皆無といってよかった。
「正直…困っているのですよ。いくら多くの兵が居ても、満足に行軍できるだけの条件は整っていないのですから。このうえは、無理をせず引くべきだと愚考しますが」
「貴様、本気で言っているのか?」
「無論、本気ですとも。精神論で戦えというなら、命令には従いますが――――」
隊長がそこまで言ったとき、あわてた様子で伝令兵が彼らのもとに駆け寄ってきた。ただ事では無いその様子に、報告を聞くより前に司令官たちの顔が引きつった。
「た、大変です、敵が、エルト王国軍が………大挙して押し寄せてきます!」
「ふむ………敵も我らの窮乏を見透かしているようですな。で………どうします? 砦にこもるとしても、糧食は二、三日程度しか保ちませんが」
他人事のように言う隊長の言葉に、司令官たちはへたへたとその場にくず折れたのだった。
「ハイマイル砦の北西の門から、次々と兵士たちが逃げ出しています。この様子では、砦が無人になるのも時間の問題でしょう」
「そうか………念の為、半数の部隊はこの場にて待機。あとの部隊はエルスセーナへ帰還させろ」
「了解しました」
ジンの命令に八重が頷き、各所に伝令を飛ばす。こうして、エルト王国はヴィスト王国に奪われていた領土をすべて奪還した。
ヴィスト王国軍は、エルト王国領土より完全撤退し…コドール大陸南方方面の情勢は、よりいっそう混沌となるのである。
この作戦により、アルイエット将軍の王国内での地位は、飛躍的に強化され…ムスト大臣とともに、エルト王国の中核を担うことになった。
…そして同時期、ジン=アーバレストの名が国内外で囁かれはじめるのは、正確には、この戦が終わった後のことであった――――。