〜アルイエット戦記〜 

〜軍師〜



――――アルイエット・ウルザー。

エルト軍前総大将、アルバーエル・ウルザーの娘である彼女が今の役職についたのは、決して彼女が望んだ事ではなかった。
もともとは、習い事で剣や弓などを教わっているとはいえ、彼女の生活は将軍の娘らしく、貴族というより庶民のような生活を営んでいた。
あと数年もすれば、普通にどこかの家に嫁に行くであろう彼女の運命を変えたのは、父であるアルバーエル将軍の戦死である。

時代は剣と魔法の時代。いつかはそういうこともあると覚悟していたとはいえ、身近な者の死は、彼女に衝撃を与えた。
ただ、幸か不幸か、彼女には悲しむ暇も与えられなかったのだが………父の死と同時期、彼女は城に召喚されると、亡き父の後を継ぐように命じられたのだ。
王であるラルフウッドをはじめ、諸将もさしたる考えがあったわけではない。ただ、失った人物の実力的な後継者が居なかった為、血統をあてにしたのだった。
この件に関して、軍部からは反対者はでなかった。ただ、内務大臣であるムストという少女だけが、アルイエットの仕官に反対をしたのである。

「仕官を勧めるにしても、時期が早すぎるのではないか? 身内を失った者の心を鞭で打つ様な真似は、いささか大人気ないとは思うのじゃがな」

結局、この発言は丁重に無視されたのだが――――ムストとアルイエットの間に友情が育まれるきっかけになったのは、この時だとアルイエットは思っている。
もっとも、そう思っているのはアルイエットだけであり、ムストの方はといえば様々な理由から、前々よりアルイエットを気に掛けていたのだったが。
………さて、それは兎も角、全軍の総大将としてアルイエットを迎えた軍は、慌しく出陣の準備を始めた。アルバーエル将軍の復讐戦である。

猛将であるアルバーエルを失ったとはいえ、練兵、装備、士気も十二分に高いエルト王国軍は、北西のハイマイル砦を通り、ビルド地方へ進軍した。



そして、この遠征軍が完膚なきまでに敗北をするのである。



原因は多々あるが、一つはアルイエットに権限を与えはしたものの、彼女に適切なアドバイスを与えるものが居なかった事。
また、折も悪く、ヴィスト王国が誇る突撃兵団がビルド地方に駐留しており、ベイルラン砦を護るのは、知将ロンゼンその人であった。

「これはまた、随分と大仰な数だね。とはいえ、数よりも気になるのは、統制が取れていないことか………やっぱり、アルバーエル将軍の抜けた穴は大きかったというわけか」

ベイルラン砦は、山間に築かれた要害であり、ロンゼンは少数の兵で砦に籠もると、残りの兵を山上に配置した。
そうして、進軍してくるエルト王国軍の頭上より、矢と岩石の雨を降らせたのである。混乱したエルト王国軍は隊列を整えようとするが、それもままならない。
指揮系統が一本化していないせいもあり、アルイエットの命令が伝えられる途中で別なものに変わってしまうこともあったほどである。

「て、敵の抵抗は激しく、頭上からの攻撃はどうしようもありません。アルイエット様、ここは矢の届かない場所に撤退を………!」
「いえ、ここは攻めるべきでしょう、砦に籠もる敵も、そう多くはなさそうです」
「何を言ってるのだ、ここは防御を固めるべきだろ! いくらなんでも、ずっと撃ち続けるほどは矢の備蓄がされてはいないだろう」

「え、ええと………どうすればいいのかしら?」

アルバーエルの部下達も、個々にバラバラに意見を言うものだから、アルイエットを戸惑わせるだけであり、それが指揮の致命的な遅れを生み出していた。
そうして混乱するエルト王国軍に更なる追い討ちが掛かったのは、それからほどなく――――東方より、煙と火の手が上がったのだ。

「…おい、見ろ! ハイマイル砦が燃えているぞ!」
「じょ、冗談じゃないぞ! 王国への帰路が無くなるじゃないか!」

エルド王国のビルド地方への玄関口――――ハイマイル砦は山伝いにベイルラン砦に通じていた。ロンゼンは、一部隊を山沿いに進ませ、砦に火を掛けさせたのである。
炎自体は小火(ぼや)と呼べる程度のものだったが、遠目にその様子を見ていたエルト王国軍の戦意は、目に見えてくじけたのである。
兵士達は雪崩を打って、我先にと敗走をはじめた。こうなると、もはや統制を取ることも不可能である。

「慌てるな、踏み止まって戦えっ!」

そう激励をする将軍も居るが、その声を聞いた兵士の数は僅かであり、従う者も皆無であった。敗走した軍は、本国に戻る為、ケラン平原に差し掛かった。
そして、そこには北の森を迂回してきたヴィスト王国の突撃部隊が、てぐすねを引いて待ち構えていたのである。

「全軍、突撃いっ!!」

獣人の少女、ネイの号令一過――――突撃部隊は敗走するエルト王国軍の側面をついた。あたかもそれは、獅子が獲物の脇腹に喰らいつくかのようなダイナミックさであった。
散発的な抵抗を、文字通り粉砕し…ヴィスト王国軍は逃げ惑うエルト王国軍に刃を振り下ろし、蹂躙し…短いながらも苛烈な掃討戦の後、ケラン平原は血で染まったかのようであった。
命からがら、ハイマイル砦に逃げ込む事ができたのは、全軍の3割ほど――――エルド王国史上、過去に類を見ないほどの大敗であった………。



アルイエットの初陣は、こうして終わる事となった。本来、ここまでの大敗となると、責任をとって更迭をされてもおかしくはない。
だが、そうはならなかった。この時、王都では一大事件が起こっていたのである。傷ついたエルト軍が王都に戻った時、王都には弔旗が立ち並んでいたのだった。
国王ラルフウッド王、急死――――つい先日まで、健康であった王の、流行病による急死は、人々を呆然とさせた。間の悪い事に、この病でロイア伯爵父子も病没する。

国王ラルフウッドは専制政治家に似つかわしいリーダーシップの持ち主であり、ロイア伯爵は内務大臣ムストと共にその補佐の役目についていた。
そのロイア伯爵を補佐していた息子までも病没した事で、実質、政治を取り仕切る権限を持つ者は内務大臣のムストだけとなってしまったのである。
ムストは実力的には優秀な内務大臣であったが、いくら彼女が優秀であっても、国王の後ろ盾もないままに、勝手に権勢を振るうわけにも行かなかった。

結局、没した国王の妻である、エルネア王妃が女王となり、政治の面は内務大臣ムストを筆頭に、貴族達による合議制で決められる事となったのである。
このどさくさで、先の敗戦の責任もウヤムヤになり、アルイエットはエルト軍総大将を続ける事となったのであった。それが、彼女にとって幸運だったかは分からなかったのだが。
さて、新たに政治に加わった貴族達が最初に何をしたかというと、軍の編成に口を出し、アルイエットの補佐をする将軍達を前線から遠ざけたのである。
アルバーエル子飼いの将軍達を疎んでの行動だが、至極冷静に考えればヴィスト軍の侵攻もありえるこの時期に、軍を弱体化させるなど正気の沙汰ではない。

内務大臣のムストをはじめ、ロンギュスト・キューベル公爵など、良識派の貴族達はこの議決に反対し、女王に告訴を嘆願した。
政務自体は貴族の合議制で決めるとはいえ、最終的な決定権は国主である女王にあったため、女王が反対すれば、この暴挙は止められるはずであった。しかし………、

「ですけど、会議で決められた事でしょう? 多くの者がそう願っているのに、それを覆すのは、よくないことではないのでしょうか?」
「何を仰いますか、戦時下において、有能なものを要職から遠ざけるなど、愚考のきわみでしかありません、女王陛下、どうぞご再考を」
「キューベル公爵の言った通りじゃ、内務大臣という職務上、畑違いである事は承知の上で言わせてもらう。この件を容認すれば、国が廃れるもととなるぞ」

キューベル公爵もムストも、言を左右してエルネア女王に諫言をするものの、最終的に女王を頷かせる事はできなかった。
この事件を発端に、キューベル公爵は新たな政治体制に絶望を感じることとなり、ムストは女王であるエルネアを無能な者として嫌悪するようになったのであった。
無論、エルネア自身に悪気はなく、そもそも数ヶ月前までは、政治の事など何も知らない温室の華であった彼女に、政治家としての手腕を期待するほうが間違いであったのだが…。



こうして、内紛によるゴタゴタから、エルト王国軍は半ば自滅といった感じでの弱体化を余儀なくされたのだった。
もちろん、エルト王国の様子を探っていたヴィスト軍にも察知される事となり――――ロンゼンはこの機を逃さず、一気に進軍を開始したのである。
エルト王国首都・エルスセーナの北西にあるハイマイル砦を一息にもみ潰すと、ヴィスト軍は一気に首都に迫ったのであった。
国境の砦であるハイマイル砦が容易く落とされた事により、篭城の準備もままならないままに、エルト王国はヴィスト軍の鋭鋒を受ける形となった。

「戦況はどうなっているの!? 報告は………」
「だ、駄目です! 敵の軍は縦横無尽に動き、まるで規模がつかめません! これでは戦の指揮など到底無理かと…」
「くっ………」

王都へ続く街道に陣を張り、ヴィスト軍を迎え撃ったエルト王国軍………この戦いで、アルイエットは初めて、自らの采配で戦う事となった。
しかし、優秀な部下も最早おらず、烏合の衆を率いての戦いは、アルイエットにとって勝算なき戦いであった。奮戦空しく彼女は敗退し、部下と共に南東に落ち延びていくのだった。

結局、満足な抵抗もできないままで、王族関係者を始め、貴族の主だったものは首都を捨て、南東方面への逃走を余儀なくされたのである。
女王をはじめ、軍部全体が首都を守る事を放棄して逃げ出した為、首都付近の民心は王家を離れ、ヴィスト軍に寝返るものが続出した。
結局、街道沿いの砦も放棄し、ヴィスト軍の補給が追いつかない南東の都市・エルストーナまで後退したエルト王国の領土は、全盛期の半減となっていた。
街道沿いの砦、ミドルマイル、ローマイルの二つの砦も占拠され、まさに喉もとに剣を突きつけられた形で、かろうじて国家としての体裁を保っている有様だった。



さて…エルト王国の軍を再三破り続け、領土の半数を奪い取ったロンゼンだったが、急いてエルト王国の奥深くに侵攻しようとはしなかった。
彼は、自らの軍を占領した領土内の治安維持に回し、まずは民心の掌握を図ったのである。

「民衆の望むものは、そう難しいものじゃない。自らを護ってくれる、気前の良い相手になら、いくらでも友好的になってくれるものさ」

と、嘯いたロンゼンの言葉通り、民衆は比較的友好的に、ヴィスト軍の支配を受け入れ始めていた。そうして地盤を安定させる傍らで、ロンゼンは凋落工作にも力を入れていた。
もはや、エルト王国に過去の趨勢はない。しかし、手負いの獣ほど厄介な事はないのも確かであった。どうせなら、同士討ちでもしてもらったほうが良い。
適した人材は居ないだろうか? 実力があり、今のエルト王家を見限っていて、ヴィスト軍と手を組む事に躊躇わない人材が――――。

そうして、一人の人物が抜擢された。名はロンギュスト・キューベル公爵………先の戦の後、自らの治める自治領に戻っており、王家に不満を持っている事を隠してもいないらしい。
ロンゼンは、キューベル公爵に遣いの者をやり、両者間では慌しく使者が行き来する事となった。そうして、両者間での密約が交わされたのである。
キューベル公爵は、南方に領地を持つ有力貴族であるレゾー伯爵、クルマド伯爵等に働きかけ、エルト王国を内側から乗っ取ろうと算段したのである。
叛乱が成功した暁には、ヴィスト王国に正式に降伏し、ヴィスト王国の一地方、または属国として国を存続させる腹積もりであった。
今のエルト王国に従うよりは、まだ、ヴィスト王国のほうがマシな政治をするだろうと、キューベル公爵は判断したのである。

他の貴族は兎も角、キューベル公爵自身はヴィスト王国に降伏した後の、自らの保身については何ら目算を立ててはいなかった。
最悪、自らは処刑される事になっても、民衆には危害は及ばないようにしてほしいと、ロンゼンへ宛てた密書にはそう書かれている。
この時代の人間にしては珍しく、キューベルは民の為に権力を振りかざす貴族であり、彼の一生は、常に民の安寧を考えて自らを律していた。

………さて、キューベル公爵達の謀反は当初、水も洩らさぬ厳戒な警戒のもと、綿密に計画が練られていた。
当初の予定がそのまま実行されていれば、ある日の午後、現在の王都・エルストーナはキューベル公爵をはじめ、貴族達の軍に蹂躙され、降伏を余儀なくされているはずであった。
――――その予定が狂ったのは、一部の貴族の裏切りが原因である。

エルト王国の支配する領土は半減したといっても、国の抱える貴族の数は、実は昨年とほとんど変わってはいなかった。
これは、自らの領地を護るより、命の方が大事とばかりに領土を捨てて、南方に落ち延びた貴族が多数居た為である。
そうして、自らの領土を失った貴族達は、何とかかつての領土を取り戻そうと、王家に働きかけていたのである。
………さて、キューベル公爵達の叛乱であるが、あくまでも、現在の半減した土地をヴィスト王国に保障してもらう事「のみ」を念頭においていた。
反乱に加わっていたある貴族が、北方に領土を持つ友人に、叛乱について口外してしまったのだ。友を気遣っての行動であったが…情勢を見る限り、はなはだ不味い行動である。

数日の後、キューベル公爵の謀反の噂が、北方出身の貴族達の間で囁かれる事になったのは、当然の理といえた。
事実を知って、彼らは激怒し、かつ憤慨した。その怒りの大半は、自分の領土だけを護ろうとする南方貴族達の身勝手さを罵るものであった。
とはいえ、もし立場が逆であれば、彼等もまた、自らの領土だけは護ろうとするのだから、同情する余地はないであろう。

ともかく、このまま傍観をしているわけにはいかない。しかし、北方貴族達には領地も兵もなく、キューベル公爵達に対抗する方法を探し出す事はできなかった。
悩んだ末、彼等は内務大臣であるムストを頼る事にしたのだった。前国王の信頼も厚く、国家の知恵袋と称される彼女なら、何とかしてくれると思ったのだった。

「何? キューベル公爵が謀反じゃと………? そうか、是非もなかろうな…」

貴族達に泣きつかれたムストは、溜息混じりにそう呟いたのだった。彼女自身、今の王家の状態には憤りを感じており、キューベル達の心情も、痛いほど理解していたのだった。
しかし、かといって叛乱に賛同できるはずもない立場に彼女は居た。内務大臣という肩書きは、国家の柱石の証であり、早々簡単に捨てられはしなかったのである。
即急に、彼女はキューベル公爵達の動きを調査し、そう遠くない時期、彼等が叛乱を起こす事を予想したのだった。

アルイエットが総大将を務めているとはいえ、現在のエルト王国軍の大半は、南方の貴族達の子飼いの軍である。
叛乱を起こされれば、王都に駐留する3万の軍の大半が、敵となる事は疑いない。正直なところ、正攻法では打つ手のない状況であった。
悩んだ末、ムストはキューベル公爵たちの暗殺と、そのドサクサに紛れた軍の掌握を決意する。正直なところ、これはかなり分の悪い掛けであった。

叛乱の直前という事もあり、キューベル公爵の周囲には、充分な警護がされているだろう。それを掻い潜って暗殺をすることの困難は筆舌にしがたいものだ。
それに、キューベル達をおりよく暗殺出来たとしても、それで軍が行動を沈静化するかは疑問である。下手をすれば、軍部の暴走という事態を招きかねない。
しかし、他に方法もなく………ムストは刺客の選抜と、クーデターの計画を練り始める事にしたのだった。



そんな、一触即発な情勢下………ムストのもとに一報が寄せられたのは、いつものように様々な書類を片付けていた、とある日の事であった。
ムストは最初、その書類を興味なさげに読み飛ばした。しかし、数秒後、慌ててその書類をたぐり寄せると、書かれた内容をみて、大きく目を見開いたのである。
ムストの部下達は常日頃、冷静な彼女しか見ていなかったため…次の瞬間、子供のように歓声をあげたムストを、驚いたように見つめていたのだった。

「ジン=アーバレストを保護する事に成功す」ムストの持つ書類には、そのような言葉を文頭に、詳しい詳細が書かれていたのであった。



傲岸不遜な色男――――対面したことのない時期のジン=アーバレストをそう評したのは、内務大臣ムストである。
コドール大陸にその名を轟かせた名軍師は二十代半ば………ヴィスト王国に敵対する勢力のみに力を貸すその男は、各国が喉から手が出るほど欲しがった人材である。
その身柄を確保した事により、軍事的な負担を彼に任すため、ムストは彼の引き入れ工作に頭を悩ませていた。

諸国からの風聞によれば、彼の軍師はなかなかの変わり者であり…人が驚くような奇策をもって、人的、質的に格上なヴィスト王国軍に幾度もの敗北を強いてきた。
また、かなりの女好きであり、美人を抱く事は自分の趣味であるといった発言もあるほどだった。
美女を用意するというのは、さして問題ではない。城内にはリンデルロット嬢をはじめ、見目麗しい少女や美女が数多く居る。
ただ、自分やアルイエットを欲された時はどうするか――――ムストは、その点が少々気がかりだった。もっとも、悩んでどうにかなるものではなかったが。

ともかく、そんな変わり者にどうやってアプローチをするか………その点が問題であった。下手に出れば付け上がるだろうし、強く出れば反発されるだろう。
悩んだ末、ムストはジンを王宮の地下牢に閉じ込める事にした…十日ほど。変わり者には変わったやり方で――――意表をついた扱いは、確かにジンという人物には効果があった。
牢屋に閉じ込められたジンは、別段、慌てたり逃げ出したりする事もなく、のんびりと時を過ごしているらしい。どうやら、様子を見る腹積もりのようだった。

………さて、ジンの様子はさておいて、ムストはこの時期、真っ先に済ませなければならない用事に奔走していたのだった。
その用事というのは、ヴィスト王国との一時的な休戦を結ぶ為の外交工作である。キューベル公爵達と戦うにしても、ヴィスト軍が同時期に侵攻してきては目も当てられない。
成功するにしても、失敗するにしても………ともかく、一連の騒動が終わるまで、ヴィスト軍には蚊帳の外に居てもらいたいというのが、ムストの本音であった。

「ヴィスト軍、エルト軍ともに疲弊が酷い状態じゃ。恒久的に、とは行かないまでも、一時的な休戦期間を設けたいと思っておる」

ムストのその申し出は、意外にもあっさりと、ヴィスト王国軍にも受け入れられた。あまりに簡単すぎで、何か裏があるのではと、ムストが思わず疑ってしまったほどである。
無論、休戦条約に裏も表もなかった。南方方面軍司令官・ロンゼンの立場からすれば、内紛に介入するよりも、時機を見て軍を動かした方が効率が良いと考えただけのことである。
何にせよ、こうして休戦条約が締結された。双方ともに、この条約がそう長くは続かないのを知って交わした、かりそめの休戦協定であった。

そうやって、ヴィスト軍の脅威を一時的にであるが遮断をした後で、ムストは件の軍師、ジンと会うことにしたのだった。彼の保護(捕獲)から十日後の事である。



その日、アルイエットのもとにムストからの使者が訪れたのは朝早くのことである。執務室に通されたアルイエットに、ムストはジンを仲間に迎え入れる事を告げた。

「ジン? ひょっとして、あのジン=アーバレストの事ですか?」
「ほう、知っておったのか、アルイエット?」
「それは、もちろんですよ! ジン=アーバレストの名は有名ですし、お父様も彼のことは評価してましたから」
「…ああ、そうじゃったな。アルバーエル将軍なら、彼の者のことも注目していたであろうな」

両手を握り締め、嬉しそうな表情をするアルイエット。どうも、有名人に会えるというだけで舞い上がっている彼女に、ムストは内心で溜息をついた。
少なくとも、彼女の父親であるアルバーエル将軍は、ジン=アーバレストの軍事的手腕の事のみ、彼女に伝えていたようだ。
まぁ………年頃の娘――――愛娘相手に男女間の生臭い話をしなかった、アルバーエル将軍の気持ちは分からないでもない。
とはいえ、少しは彼の人間性に関して伝えておいてくれても良かったのではないか。ムストは内心で不満を故人に呟いた。

「それにしても………随分と、嬉しそうじゃな?」
「それは、そうですよ! 高名な軍師様とお会いできるんですから。ああ…どんな人なのかしら?」
「………そんなに期待をされてもな」

(まぁ、百聞は一見に勝てないというからの…本人を目の当たりにさせて、夢見がちな気分を覚まさせるとするか)

何を言っても無駄だと悟ったムストは、少々荒療治をする事にした。直接、アルイエットをジン=アーバレストに会わせる事にしたのである。
本当は、色々と根回しをしてからアルイエットと対面させるつもりだったのだが………当の本人がこの様子では、危なっかしくて二人きりには出来そうにもなかったからである。

「まぁ、そういうわけじゃから、今日の昼にでも会ってみようと思うのじゃが………その前に、顔を合わせてみるかの?」
「え、宜しいんですか?」
「ああ、彼はお主の補佐役になるのじゃし、顔合わせは早い方が良いじゃろ」

(ちょうど、今が良い頃合であろうしな)

先程、ムストの部下の一人が、ジン=アーバレストの牢内に女性の侵入者があったと報告してきたばかりである。
どうも、彼を捕まえた翌日には、既に進入経路を作られてしまったらしく………今では昼夜問わず、機会があったら睦み合っているそうだ。
おそらく、今の時間に牢屋に向かえば、ちょうど行為の真っ最中になるだろうと、ムストは考えていたのである。

「分かりました、それじゃあ行ってきますね。それで、城内のどの部屋にお通ししているんですか?」
「ああ、それなのじゃがな、件の軍師は変わり者でな――――今は城の地下牢におる」
「し、城の地下牢………? 何で、そんな所に?」

ムストの言葉に、アルイエットはギョッとした表情を見せた。確かに、仲間になるであろう高名な軍師が、地下牢に居るなどと聞けば、誰でも驚くだろう。
しかし、ムストは平然とした表情で、アルイエットの疑問をさらりと受け流したのであった。

「まぁ、色々と事情があってな――――ああ、地下牢は他に誰も使ってないからの…間違えることはないはずじゃから、心配ないぞ」
「は、はぁ………ともかく、行ってきますね」
「うむ、気をつけてな」

色々なニュアンスを込めつつ、ムストはアルイエットを送り出した。念のため…気づかれぬように、部下をアルイエットに張り付かせつつ、ムストは事務仕事を再開する事にした。
領土が半減したといっても、それで内政の仕事が簡単になるというわけでもなく、机に積みあがり続ける膨大な書類を片付けつつも、小一時間がたった頃――――。

「ムスト様! 何なんですか、あの男はっ!?」

顔を真っ赤に上気させたアルイエットが、ドスドスと足音も荒く――――執務室に戻ってきたのであった。

「おお、早かったの。もう少し時間が掛かると思っておったが………ところで、何をそんなに怒っておるのだ?」
「何を、じゃありません! 何なんですか、あのジンって男は! 真っ昼間から、地下牢で、その、な、ナニを………」

思い出しでもしたのか、アルイエットは目に見えて真っ赤になって俯いてしまった。気が動転していた先ほどの状況とは違い、多少は頭も冷えて冷静になっている。
基本的に、男女間の恋愛については疎い方であるアルイエットにしてみれば、濃密な睦み合いは刺激が強くて当然であった。
そんな彼女を、多少は気遣ってか………ムストは仕事の手を止めると、諭すようにアルイエットに言葉を投げかけた。

「まぁ…いきなりの事で気が動転するのも、仕方は無いじゃろうな。じゃが、お主の見ての通り――――ジン=アーバレストというのはああいう男なのじゃ」
「!?」

ガーン! と擬音譜が出そうな表情で、アルイエットはよろよろとよろめいた。どうやら、先ほどのは何かの冗談だと、自分に言い聞かせていたらしい。
しかし、現実とはかくも酷なものであり――――アルイエットの期待した稀代の軍師は………同時に稀代の女好きだったのである。
よほどショックだったのか、アルイエットは壁に額をこすりつけながら、何やらぶつぶつと呟き始めた。

「きっと、きっと何かの間違いだわ。お父様も認めた人が、他人の目も憚らずに馬鹿な事をするなんて………きっと、何かの間違いよ…」

何を見たのかは分からないが……………………かなり、よくない兆候である。現実逃避しかけているアルイエットを見かねて、ムストは質問をして現実に引き戻す事にした。

「それで、ジン=アーバレストの様子はどうじゃ? そろそろ、牢屋から出せ。くらいは言ってきそうなものじゃが」
「あ、はい………浴槽と食事の手配をして、客間に待たせてあります。その…あまりにも臭ったものですから」

ムストの問いに気を取り直したのか、アルイエットは壁から額を離した。もっとも、気落ちした表情は治せるはずも無く、顔色も冴えなかったのだが。

「そうか。では、それらが終わるまで、しばし待つとしようとするか」
「あの………本当にジンを仲間に加えるんですか?」

淡々と事務を再開したムストに、少々遠慮がちにではあるが、アルイエットは不満を述べた。明らかに、ジンを仲間に迎えるのを不満がっているようである。
そんなアルイエットの言葉に、ムストは作業の手を止めると、鋭い目で彼女を見つめ返した。

「そうは言うがな………他に適切な人材が居ないのじゃから、仕方がなかろう。それに、仲間に迎え入れようとする時点で、こちらには負い目があるのじゃがな…」
「負い目、ですか?」

ムストの言葉の意味が分からなかったのか、数度瞬きをした後で、アルイエットは首を傾げた。それを見て、ムストは手に持ったペンを机の上に置く。
そうして、噛んで含めるように、アルイエットの疑問に答えるように…ムストは昨今の近状と、ジンに対する負い目の事を説明するのだった。

「うむ。キューベル公爵に対するクーデターの為、色々と根回しをしているのは知っておろう。その一つとして、ヴィスト軍と休戦条約を結んだのは知ってるじゃろう」
「………はい」
「やはり、おぬしも不満なのじゃな。父親を殺した軍と休戦を結ぶなど、本来なら忌避したいところなのじゃろう………ジンも、同じじゃよ」
「――――え?」

ムストの言葉に虚を突かれたように、アルイエットは目を見開いた。ムストは凝った肩をほぐすように身じろぎをしながら言葉を続ける。

「ジン=アーバレストが、ヴィスト軍には決してなびかず、敵対勢力にばかり加担している事は知っているじゃろう。おそらくは、ヴィスト軍に並々ならぬ因縁があるのじゃろうな」
「………」
「そんな彼を引き入れるというのに、我々は先んじてヴィスト軍と休戦を結んだのじゃ。それは裏切り行為と取られても仕方のないことじゃろう」

無論、今の現状を鑑みて見れば…エルト王国は、ヴィスト軍と休戦条約を結ぶより他に選択肢はない。
だが、ジン=アーバレストの立場からすれば、勘弁して欲しいところだろう。本人は何よりも、ヴィスト軍との戦いを望んでいるのだから。

「ヴィスト軍との休戦の件は、ジン=アーバレストの耳には入ってはおらぬ。何しろ、先ほどまで地下牢に居たのじゃからな。仲間になる確約を得るまでは知らせない方が良いじゃろう」
「で、でも………それって詐欺じゃないんですか?」
「――――だから、負い目といったじゃろう」
「……………………」

ムストの言葉に、アルイエットは無言。ただ、先程まで身に纏っていた不満げな気配は、若干ながら和らいでいた。ジンに対し、多少ながら同情を感じているようである。
それから、小一時間ほど時間を潰した後――――アルイエットを伴ったムストはジン=アーバレストの居る城の一室に足を運んだ。
ドアを開けるなり、半裸の男女がいた時は、さすがに内心では少々驚いたムストではあったが、そんな同様もおくびにも出さず、席につく。



………後の世に、秘匿とされ、歴史家達の日々の研究の対象となった会談は、途中までは順調に進んでいた。
だが、ジン=アーバレストが報酬の一つとして、アルイエットとムストの身体を要求したことで、二人の体が硬直した。
もっとも、ムストの方はやっぱりか、といった反応だったが、アルイエットの方は我慢の限界だったらしい。まぁ、色々と幻想がぶち壊された後での発言だったので、無理もないが。

「は、恥をしれっ!」

と言いつつ席を立とうとしたが、それを押し留めたのはムストであった。アルイエットの手を掴みつつ、鋭い目でジンを見つめ、言い切った。

「………良いじゃろう」
「ムスト様。そんな………」

無論、アルイエットは不満そうな表情を見せた。だが、ここまで来て会談を破談にするわけにも行かない事は、彼女にも分かっていた。
困った表情を見せるアルイエットを見つめ、据わった目で言い切ったのは…ムストも内心では納得していなかったからであるが。

「命すら捧げねばならぬ状況じゃ。良いではないか」
「し、しかし………」

なおも言いつのるアルイエットだが、その耳元にムストは口を寄せ、ジン達には聞こえないように、小声で彼女に囁きかけた。

「何も、今すぐ抱かれろと言われているわけではないのじゃ。ここは、ひとまず頷いてくれ………約束を反故にする手立ては、考えておくからの」(小声)
「ぇ………あの、抱かれるって条件を承諾したんじゃないんですか?」(小声)
「承諾はしたが、抱かれる気はさらさ無いわ。あとあと、どうにかする腹積もりじゃからの」(小声)
「………」

ムストの言葉に、アルイエットはジンを見る。正直なところ、初対面から色々と失礼であった彼に抱かれようとは、これっぽっちも思えなかった。
だが………知らぬ間にヴィスト軍と休戦条約を結ばれた上、身体を捧げるという約束を反故にされるというのでは、彼の立つ瀬が無いのではないか…?
そんな事を考えていたアルイエットだったが、ムストに脇腹を指で突かれ、我に返った。今は、なりふり構っていられない状況なのだ。

「………わ、わかったわ。でも、その前にアンタの実力は見せて貰うからね!」

ケンカ腰にそう言い放ったのは、ジンを騙しまくっている自分たちに対する罪悪感が大半である。
そして、もう一つの理由としては、言葉通りの意味合い――――色々と型破りな、目の前の男に対する一抹の期待が、彼女の胸に芽生え始めていたからであった。