〜それは、日々のどうでもいいような小話〜
〜幸せのかたち(リクエスト)〜
結婚式が終わり、私は晴れて、航の奥さんになる事が出来ました。皆の見守る中での結婚式はちょっと恥ずかしかったけど、一生の思い出になるものでした。
あの後、学園祭の会場に戻った時、他の皆はまだまだ元気に、後夜祭の夜を楽しんでいました。
二人で抜け出した事がばれて、皆にもみくちゃにされる私達――――航の方は、沙衣里先生や会長さんから、きついお説教をされてましたけど。
そうして、夜を徹したお祭騒ぎは…なし崩し的に解散になるまで、ずっと、ずうっと続いていました。
懐かしい人たち、見知った人たち、友達、家族………集まった人たちの笑顔を、私はきっと、忘れないでしょう。
あけて、翌日――――これは、私が『星野海己』になった翌日の………静かな秋の物語。
「………」
秋口のわずかに冷えた朝の空気。身を引き締めるような空気を胸いっぱいに吸い込んで、私は身を起こしました。
見慣れない天井と、見慣れない室内――――ここが、今日から私の住む事になる場所。
荷物の方は、前もって運んであったとはいえ………実際に寝起きすると、また違った感慨が沸きます。
「――――そっか、今日からここが…私の家になるんだ」
呟いて、何故かわくわくする様な気分が胸いっぱいに膨らみました。航と同じ屋根の下で寝起きをする…それは、ずっと昔から願っていた夢の、実現の証でした。
髪を梳かして、寝巻きから普段着に着替えると…私は一階に降りるため、部屋を出ます。私の部屋は二階…航の部屋は、すぐ傍にあります。
「結婚するんだから、一緒の部屋でもいいかもなぁ…」と前に航がそんな事を言った事があります。私は賛成でしたけど、お爺さんが猛反対したので、現在の部屋割りになりました。
「航………もう起きてるかな?」
呟いてはみたけど、多分そんなことはないなぁ、と、内心でそう考えました。何しろ、昨日は飲めや歌えの大騒ぎ――――航も、遅くまで飲んでたみたいだし。
だけど、ちょっと位は…寝顔を見てもいいよね………? ほんの少し、緊張をしながら………私は襖に手をかけると、恐る恐る部屋の中を覗き込みました。
「おはよう、朝だよ航〜…起きてる? ………あれ?」
ベッドの上で、航は穏やかに眠っているみたいです。だけど…床に転がった毛布はいったい何なんだろ? 怪訝に思った私は、床に転がった毛布をはがしてみました。
「すぅすぅ………ん〜、海己ぃ…」
「ぅぅ〜………苦しい、暑い、やめれ〜…」
「……………………え、え?」
そこに何故か、私の名を呼びながら下着姿で静ちゃんに抱きつく凛奈ちゃんと、抱きつかれながら苦悶する静ちゃんの姿がありました。
私の頬を、表現しがたい冷や汗が流れます。どうしたらいいのか、途方にくれる状況――――とりあえず私は、見なかった事にしました。
寝苦しくないように、二人にあらためて毛布を掛けて、私は航の部屋を出て――――そうして、思わず私は吹き出してしまいました。
「ふ、ふふっ………凛奈ちゃんも静ちゃんも、変わってないなぁ」
結婚して、航と暮らす事になっても、皆は変わらずにいてくれる――――それは私にとって、何よりも安心できる事でした。
とはいえ、ちょっと羨ましいかも…私も、航の部屋で寝たかったなぁ………と、そんな事を考えながら、私はあらためて一階に降りる事にしました。
「あら、おはよう。海己ちゃん」
「おはようございます、奈津江さん」
台所に行くと、そこには朝食の準備をするお婆さんの姿がありました。手にはお玉を持って、割烹着にエプロンを付ける様は、とっても似合っています。
どうやら既に、おおよその準備は出来ているようです。もうちょっと、早く起きなきゃいけないかな………そんな事を考えていると、お婆さんの方から私に話しかけてきてくれました。
「夕べはよく眠れたかしら? 枕が変わると、眠れないって言うじゃないの」
「あ、はい、大丈夫です。ぐっすりと眠れました。なんとなく、ここって懐かしい感じがするんです」
「そう、それなら良かったわ」
「あの………何か、お手伝いすることはないでしょうか?」
微笑むお婆さんに、質問をしてみると、温和な顔がもっと優しくなりました。いつも、穏やかな顔をしていると、笑うとこんなに優しそうになるんだ…。
思わず見とれてしまった私に、お婆さんは御味噌汁を煮ていたコンロの火を止めると、戸棚を開けてこっちを向きました。
「そうね、それじゃあまずは、この台所の何がどこにあるか、覚えてもらわないとね。そのほうが、料理をしやすいでしょう?」
「はいっ、お願いします」
「いい返事ね。本当は、一通り料理を済ませてから、海己ちゃんを起こしに行こうと思ったけど、先に起きてこられちゃったわね」
「…え? それじゃあいつもは、こんなに早くに起きていらっしゃらないんですか?」
キョトンとした顔で私が問うと、お婆さんは照れたのか、困ったように微笑みながら、頬に手をあてました。
「いつもはこんなに早くは起きないわ。そうね………海己ちゃんが起きてきたくらいね」
「そうなんですか…」
きっと、お婆さんは私のために、いつもより早く起きてきてくれたんだ…そう思うと、何だか感動で、胸がいっぱいになりました。
私のことを、こんなに気に掛けてくれるなんて、言葉に表せないくらい、私は幸せ物だなって思います。
「奈津江さん…いろいろと御教授をお願いします!」
「ええ、もちろんよ――――それはそうと、海己ちゃん、一ついいかしら?」
「はい、なんですか?」
「その、奈津江って呼ぶのはちょっと………航ちゃんみたいに、婆ちゃんって呼んでくれたほうが嬉しいわ」
「…………はぁ。分かりました、お婆さん」
名前で呼ばれるのが、恥ずかしいのかな? そんな事を考えてみたけど、どうやらそれは正しかったみたい。
私が呼び方を変えると、お婆さんはホッとした表情になりました。そうして、私はお婆さんに、台所のことを一通り教えてもらう事になったのです。
それからしばらくして………朝食の準備が終わった頃に、航や凛奈ちゃん、静ちゃんが二階から降りてきました。
寝起きでボーっとしているのか、今ひとつ眠そうな静ちゃん。いつも通りの航と――――何故か、オドオドとしている凛奈ちゃん。
凛奈ちゃんは緊張しているのか、落ち着かなげにきょろきょろとしています。あ…静ちゃんの頭に寝ぐせが――――ひとふさの髪が、ピョコンッと跳ねちゃってる。
「おはよ、海己。よく眠れたか?」
「うん。ぐっすり。あ、静ちゃん、ちょっとじっとしてて」
「を?」
静ちゃんの頭に手を置くと…ちょっと、くすぐったそうに身じろぎをしました。私は手櫛で静ちゃんの髪を整えます。
艶のある髪は、肩まで伸ばすようになってから、ますます綺麗に見えるようになったみたい。ちょっと羨ましいかも。
「………終わった?」
「うん、これでだいじょうぶだよ。あとで、鏡を見て確認してね」
「ん」
そうして、嬉しそうに頷く静ちゃんとは対照的に、凛奈ちゃんは落ち着かない表情のまま――――いったい、どうしたんだろ?
「………凛奈ちゃん?」
「あ、海己ぃ…どうしよ、何か緊張してきちゃった」
「そんな大げさな………航のお爺さんもお婆さんも、いい人だよ」
「ぅー…でもぉ」
オロオロと、困ったように身じろぎをする凛奈ちゃん。その様子に呆れたのか、航が凛奈ちゃんの肩に手を置いて苦笑しました。
「そんな緊張するなよ。別に不法侵入したとか、そういうわけじゃないんだし…緊張する必要なんて無いだろうが」
「航は緊張しなくても、あたしは緊張するのっ!」
「………やれやれ」
何故か怒ったような表情の凛奈ちゃんに、航は肩をすくめて身を離すと………人数分の用意された、座布団の一つに腰をおろしました。
「爺ちゃんと婆ちゃんもすぐ来るだろうし、座って待ってようぜ」
「ん………静はここ」
「あ、だ、駄目だよ静ちゃん。そこは上座なんだから、航のお爺さんの席って決まってるの」
「――――そなの?」
私の言葉に静ちゃんは小首を傾げると、航の右隣にちょこんと腰をおろします。私は航の左側に――――凛奈ちゃんは、静ちゃんの右隣に座りました。
そうして四人並んで待つうちに、お婆さんを伴って、航のお爺さんが居間に姿を現しました。どこか気難しそうな――――でも、どこか航と同じ、優しい雰囲気を持っています。
お爺さんはジロリと、座っていた私達の顔を順に眺めていきます。隣の凛奈ちゃんは、ガチガチに固まっちゃってます…大丈夫かな?
「おはようございます」
「おはようございます」
「おはよ〜」
「お、おじゃましてますっ!」
航が挨拶をしたのを皮切りに、私、静ちゃん、凛奈ちゃんとお爺さんに挨拶をしました。
「………うむ」
お爺さんは一言だけ答えると、上座に腰を落ち着けました。何となく、張り詰めたような雰囲気が食卓に広がります。
そんな空気をやんわりと和らげたのは、一緒に食卓に現れた、お婆さんの言葉でした。
「みんな、おはよう。さぁ、たくさん作ったから、どんどん食べてちょうだいね。はい、あなた」
「…………ああ」
お婆さんが御飯をよそってお爺さんに渡すと、ホッとしたような暖かさが、食卓に満ちました。こうやって、ずうっと一緒にいたんだなあって、暖かい気持ちを感じます。
「海己、ごはん」
「あ、うん。どうぞ、航」
航に促され、御飯をよそって手渡しながら、私はしみじみと、幸せを感じていました。これからも、こうして航と一緒にいれるんだと、実感できたのです。
静ちゃんや凛奈ちゃんの分の御飯をよそいながら、新しい生活の朝を、私はそうして向かえる事になったのでした――――。
――――朝御飯が終わった後、私は航や凛奈ちゃん、静ちゃんたちと一緒に出かける事になりました。
他の皆は、今日か明日にはこの南栄生島を出て、帰る事になっています。だから、今日は二人でいるより、皆と一緒にいたいと、航と私の意見が一致したのでした。
「ん、そか………それじゃあ先に行ってるからよろしくな」
「あ、航。奈緒子さん達は?」
「さえちゃんを叩き起こしたら合流するってさ。どうも、昨日は二人で飲み明かしてたらしいな」
携帯電話の蓋を閉じながら、航は呆れたように笑っています。高見塚祭の後、沙衣里先生は奈緒子さんと一緒に姿を消していました。
どうやら、島にあるスナックで飲んでいたらしく、起きたばかりだと、返事があったそうです。
「ま、合流場所は決まってるし、先に行って待っていようぜ」
「うん、そうだね。二人とも、準備は出来てる?」
「おっけ。もともと荷物もないし、いつでも出かけれるよ」
「静も、おっけ〜」
凛奈ちゃんも静ちゃんも、荷物を持ってきてなかったので、私の着替えを貸して、昨日着ていた服は、洗濯をして干してあります。
そうして準備万端で、私達は家を出ました。目的地に向かって――――その場所へ帰るために。私も航も、凛奈ちゃんも静ちゃんも、足取りは軽いものでした。
「あ、先輩先輩〜、海己先輩も凛奈先輩も、静ちゃんも一緒なんですね」
道芝神社へ繋がる階段の麓で、一足先に待っていたのは宮ちゃんでした。少し離れたところに大きな車が止まっています。たしか…ベンツだったかな?
ベンツの隣に立っていた、執事の滝村さんが会釈をしたので、私も慌てておじぎをしました。でも、航たちは気づいてないみたい。
航はというと、おはようの挨拶代わりに、宮ちゃんの髪を乱暴にかき回してます。案の定、宮ちゃんは悲鳴を上げました。
「きゃ、きゃ〜! 何するんですか、先輩! せっかくセットした髪が、髪がー!」
「何だ、整えてたのか、その髪? いつも通りだから、遠慮なしでやっちまったけど」
「それはそうですよぉ…今日は記念すべき日なんですから」
ぶつぶつ言いながら、手櫛で何とか髪を整えなおそうとする宮ちゃん。と、その頭を航がわしづかみに…え?
何を思ったのか、航は思いっきり、宮ちゃんの頭を掴んだ手に力を込めてるようです。宮ちゃんも、本気で痛がってるみたい。
「いたたたたたたた! 痛いです、先輩!」
「お前なぁ………身構えすぎなんだよ。不安なのも分かるけどな」
「――――」
航の言葉に、宮ちゃんの動きが止まりました。昨日、何度か足を運んだ私と航は、そこに寮がちゃんとあるのを知ってます。
けど、他の皆は………飛行機の窓から遠目には見たらしいけど、間近には直接見てはいないんじゃないでしょうか?
もし、この階段を登って、見た寮の姿が想像と違っていたら――――宮ちゃんが、ここで私達を待っていたのは、一人じゃ不安だったのかな…?
「いつも通り、普通にいこうぜ。変に気負わなくても良いんだからさ」
「――――そうですね。ありがとうございます、先輩」
航が手を離すと、宮ちゃんは、どこかホッとした表情で顔を綻ばせました。しばらく会ってない間に、随分綺麗になったけど…航の前だと、宮ちゃんは昔に戻るみたいです。
「それじゃ、さっそく行きましょうか………あれ? 凛奈先輩と、静ちゃんは?」
「あ、それなんだけど………航と宮ちゃんが話している間に、階段を駆け上がって行っちゃったよ」
「そ、そんなぁ!? 一番乗りの名誉がぁ…!」
周囲をキョロキョロと見渡す宮ちゃんに、おずおずと言うと――――ガーン、という擬音が出るくらいに驚いた顔をしてます。
航が宮ちゃんとじゃれてる間に、凛奈ちゃんと静ちゃんは、競争だって言って階段を駆け上がっていったんだけど…気づいてなかったみたい。
そんな宮ちゃんに、航は呆れ顔――――私も、鏡はないけど、多分苦笑してるなぁ…と自覚ができました。
「…狙ってるなら、先に寮まで行って、待ってりゃ良かっただろ?」
「それじゃあ、不公平(アンフェア)じゃないですか。私は、正々堂々、戦って一番乗りを…」
「――――勝てると思うか? 陸上界のホープと、相変わらずの天然運動児だぞ? 俺でも無理だ」
「そ、それはそうですけど………先輩なら、勝てそうな気もしますね」
うん。私も宮ちゃんと同じことを思った。でも、会長さんに言わせると、航を買いかぶりすぎだってことだけど………。
――――どうなのかな? 会長さんは、私の知らない航を知ってるみたい。今度…色々と聞いてみようかな――――詳しく。
「ま、俺達は俺達で、のんびり行こうぜ――――ほら、行くぞ、海己」
「あ、うん」
航の言葉に頷いて、私は慌てて頷きました。置いてかれないように、航と宮ちゃんの後を追います。
「それじゃあ、行きましょう〜。い〜ち! に〜ぃ!」
元気よく、段数を数えながら登っていく宮ちゃんの後を追いながら、懐かしさに航も私も、顔を綻ばせていました――――。
「はぁ、はぁ………に、にひゃく、じゅう、はちぃ〜………もう、だめです〜」
「お前なぁ…少しは運動しろよ。普段歩いてないから、へばるんだよ――――ほら、つかまれ」
「あ、ありがとうございます…先輩」
階段を登り終え、地面にへたり込んだ宮ちゃんの手を、航は呆れたように――――でも、嬉しそうに握って引っ張ります。
その横で、私は秋の風に髪をなびかせながら、登ってきた階段を振り向きました。つぐみ寮のある丘の上からは、生い茂る木々と、その隙間から遠く、街並みを一望できます。
私達がここから登校しなくなって、数年の時が過ぎているのに…目に映る景色は変わったように見えず…何となく、そのことがとても貴重で、大切なもののように感じました。
「おっそーい! 何をのんびりしてるのよ、航!」
「おお、悪い――――ふげっ!?」
と、そんな風にしみじみと考えていると…凛奈ちゃんの声がして、それから間を置かずに………隣にいた航の悲鳴が聞こえました。
一瞬、何が起こったのか分からなかった私の足元に、転々と丸いものが転がってきました。あ、これって――――バスケットボール?
「あ、当たっちゃった? ゴメンね〜」
「お、お前、ワザと狙ってやっただろ! 明らかに殺気があったぞ!」
「だ、大丈夫ですか、先輩? お鼻が、真っ赤になっちゃってますけど」
しれっとした表情の凛奈ちゃんに、航がムキになって言い返します。けど、凛奈ちゃんは涼しい顔――――どうやら、凛奈ちゃんの投げたボールが顔に当たったみたい。
幸い、怪我とかはしてないけど………宮ちゃんの言う通り、顔が真っ赤になっちゃってる。痛そうだなぁ………。
「それにしても、バスケットボールなんて、どこから見つけてきたんだよ」
「ああ、それなら静が探し出して来てくれたんだよ。けっこう、昔の物も残ってるみたいだね」
凛奈ちゃん達は一足先に寮に入っていたみたい………静ちゃんの姿が見えないけど、寮の中にいるのかな?
「ね、せっかくボールもあるし………久しぶりにやってみない?」
「お、いいな。なにを賭ける?」
そんな事を考えている私の足元に航が屈みこむと、バスケットボールを手にとって立ち上がりました。
そういえば、航と凛奈ちゃんって昔からこういう事が好きだったっけ。よく寮のグラウンドで遊んでいたよね。
「今日のお昼ご飯、好きなおかずを総取りってのはどう?」
「のった! それじゃあいくぜ。俺の先攻からな!」
「あ、ちょっとずるい! 待ちなさいよー!」
と、ボールを持った航は、バスケットのゴールに向かって一直線。慌てて凛奈ちゃんも、駆け出していきました。
………ああなっちゃうと、私には止められないなぁ。私は、一緒に取り残された宮ちゃんを顔を見合わせて、苦笑をしました。
「…先に、中に入っておこうか?」
「そうですね――――お供させていただきます、海己先輩」
航と凛奈ちゃんは、ひとまずあのままにして置く事にして――――私は宮ちゃんと一緒に玄関に向かう事にしました。
カラカラと、古びた音も懐かしく………どこか郷愁を感じさせる音と共に、玄関の扉を開けて、足を踏み入れた時、私は思わず………
「…ただいま」
と、口にしていました。昨日、訪れた時はそんな事を言うつもりもなかったのに、自然と口に出ていたのは、宮ちゃんが隣にいたからかもしれません。
「不肖、六条宮穂…なつかしの我が家に帰ってまいりましたー!」
私に続いて、宮ちゃんもおどけた口調で言ったけれど――――言葉とは裏腹に、どこか真剣な面持ちが横顔に現れていました。
やっぱりここは、私達の居た場所なんだなぁ………一人でいた時は感じなかった事実を、こうして、みんなで来たことで…私はあらためて実感をしたのでした。
板張りの廊下、規則正しく並んでいるドア…木造の旧校舎を改装して造られたつぐみ寮は、人が住まなくなっても、どこか温かみの残った空気に満ちています。
こうして寮の中にいるだけで、数年前の日々の出来事を鮮明に思い起こすことができるのは………ここにつぐみ寮があるおかげなのかもしれません。
形のある思い出――――…一つのきっかけさえあれば、それは記憶の本棚の中から、取り出して読み返す事ができるんだと思います。
「それにしても、ずいぶんとボロ………もとい、古めかしい建物だったんですね〜。寮に住んでいた時は、それほど感じなかった事ですけど」
「そ、そうかな? まだ充分に、住むことができると思うけど………雨漏りの箇所が増えてそうだから、航に直してもらわないといけないけど」
「………何気に遠まわしに、古いって認めてますね、海己先輩も」
何故か呆れたように、私の言葉に肩をすくめる宮ちゃん。――――? 別に、変な事を言ったつもりはないんだけど。
と、玄関を上がった先の廊下で話しこんでいると、二階から、軽めの足音が聞こえてきます。二階に続く階段を見上げると、そこから静ちゃんが降りてくるところでした。
「海己も宮も、遅いよ」
「あ、静ちゃん。どうでしたか? 何か面白いものでも見つかりましたか?」
足取りも軽く、階段を下りてくる静ちゃんを、宮ちゃんは笑顔で迎えます。待ちぼうけだったのか、少し不機嫌そうだった静ちゃんだけど、宮ちゃんの言葉にまた、笑顔になりました。
「ん〜…みんなの部屋を見てた。航の部屋は、まだだけど」
「おお! それはぜひとも、ご同伴に預かりたいですね。静ちゃん、一緒に行きましょうか」
「ん」
「…海己先輩は、どうしますか?」
宮ちゃんに話を振られて、私は少し考えました。航の部屋を見てみたいというのもあるけれど…それよりも、まず一足先に行きたい所があったのです。
「私は、ちょっと見ておきたい場所があるから。二人で行ってきていいよ」
「そうですか。それじゃあ私と静ちゃんは一緒にいますから、何かあったら声をかけてくださいね」
「うん。それじゃあね」
宮ちゃんの言葉に頷くと、私は板張りの廊下を歩きます。昨日を抜かせば、何年ぶりかの来訪だけど…その場所を間違えるはずもありませんでした。
「んっ………よかった、水は出るみたい。だけど――――しばらくは、このままかな?」
蛇口をひねると、少し濁った水が出ます。昔は色々なものが置いてあって、雑然としていたリビングは、今は物がなくて、がらんどうに感じられました。
テーブルクロスとか、椅子も拭かないと………ガスが使えるかどうか、航に調べてもらおうかな?
色々と考えつつ、私は持ってきた荷物を出しながら、準備に掛かります。昼食はつぐみ寮で――――ささやかな願いをかなえるために、色々と下準備が必要なようでした。
「お、やってるやってる。おはよう、海己」
「あ、おはようございます、奈緒子さん………と、沙衣里先生も――――だ、大丈夫ですか?」
「う”〜…頭痛ぃ〜」
リビングの掃除を始めてしばらくして…奈緒子さんが沙衣里先生を連れて、ひょっこりとリビングに顔を覗かせました。
飄々とした立ち振る舞いの奈緒子さんとは対照的に、沙衣里先生の顔色はよくありません。どうしたんだろ?
「ああ…昨日も夜遅くまで飲んでたからね。まだ酒が抜けきってないんでしょ」
「うう、うるさぁ〜い。そういうあんたは、なんでピンピンしてるのよ、浅倉ぁ」
「何でって、そりゃあ鍛え方が違いますから。酒は飲んでも飲まれるな。酒につぶれるようじゃ、さえちゃんもまだまだ、子供だわね」
「こ、子供っていうな…! あ、あいたたたた………」
「あ、あはは…沙衣里先生、お水をどうぞ」
頭に響くのか、奈緒子さんの言葉に声を荒げそうになった沙衣里先生だったけど、自重するように額を押さえて黙り込みました。
痛みを和らげるかどうかは分からないけど、私は持参した紙コップに水を注いで、沙衣里先生に渡す事にしました。
「ありがと………んっ、んっ、ぷはぁっ! あ〜、生き返るわぁ」
「その酒飲みがするようなリアクションを、いいかげん改善しなさいって」
コップに入った水を一気飲みする沙衣里先生を見て、奈緒子さんは呆れたように溜息をつきます。なんだかんだ言って、沙衣里先生の事を気にかけてるんだなぁ。
空気を埃っぽく感じたのか、グラウンドに面した窓を開け放つ奈緒子先輩――――外では相変わらず、航と凛奈ちゃんの一進一退の攻防が続いています。
「――――それにしても、航も凛奈も、相変わらずよね。負けず嫌いなのは、どっちも変わってないって事か」
「そういう性格面じゃ、ちっとも成長してなさそうだしね。あんた達は」
「…その複数形の中には、当然自分も含まれてるんでしょうね、さえちゃん?」
なんだか、背筋が寒くなるような笑顔で、奈緒子さんは沙衣里先生に向き直りました。しばらく会わない間に、なんだか凄みが増したみたいです。
案の定…その笑顔を向けられた沙衣里先生は、ひえっ、と悲鳴を上げて、私の後ろに隠れてしまいました。困ったなぁ………。
「――――ふぅん、そんな顔ができるようになったんだ。一番に成長したのは、どうやら海己なのかもね」
「え? 何のことですか、奈緒子さん?」
「いや、なんでもないわ。単なる独り言よ」
「?」
何のことだろう、と思っていると、奈緒子さんはくるりと半回転して、再びグラウンドに向き直ります。初秋の風が長い黒髪を揺らして、私は思わず見とれてしまいました。
「…いい風が吹いてきたわね」
何かを懐かしむかのように、ポツリとつぶやく奈緒子先輩。その姿はまるで、一枚の完成された絵画のように、私の目には映ったのでした。
コトコトと、お鍋が煮える音――――お味噌のにおいがリビングを満たして、料理を続ける私の鼻にも届いてきます。
一通り、リビングの掃除を終えた後で、早速、私は昼食の準備に取り掛かりました。一通りの材料は持って来たけど、足りない分は航に取りに行ってもらってます。
「ね〜、海己、ご飯まだ〜?」
「………」(チンチンと箸で茶碗をたたく音)
「ごめんね、今、航にお塩と醤油を取りに行ってもらってるから」
苦笑をしながら、私は凛奈ちゃんと静ちゃんに返事をします。ついうっかり、調味料の類を持ってこなかったから、味付けをすることが出来なかったのです。
退寮する時…調理用具一式は、そのまま置いておいたけど――――調味料は捨ててしまったのを、今の今まですっかり忘れていたからです。
「それにしても、まな板や包丁は残ってるのに、調味料がないとはね――――さすがに、食べ物を残しておくわけにもいかなかったのね」
テーブルに頬杖をつきながら、あきれた様子で奈緒子さんが微笑んでいます。さっき起きたばかりだから、朝は食べてないと思うけど…お腹が空かないのかな?
「うぅ〜〜〜〜、星野はまだ帰ってこないの〜? もう、待ちきれないわよぉ〜」
その横で、テーブルに突っ伏しながら、うめく様に言ったのは沙衣里先生………こっちは、ずいぶん参ってるみたいです。
「先生…もうちょっと待ってくださいね。航が来たら、すぐにご飯にしますから」
「沙衣里先生の場合、お腹が空いているというより、別の理由で待ち遠しいみたいですけどね」
「…? 宮ちゃん、それって、どういうこと?」
横合いから、言葉を挟んだ宮ちゃんに声をかけると、宮ちゃんは得意そうな表情で、人差し指をピッと立てます。
「それはですね、先ほど物陰から、沙衣里先生と先輩の密会を目撃いたしまして」
「み、密会?」
宮ちゃんの言葉に、沙衣里先生の肩がピクリと動きました。それにしても、密会って………いったい、何を話してたんだろ?
「はい。 それでですね、沙衣里先生が先輩に袖の下、というか樋口一葉さんを手渡して、なにやら話してるのを聞いたんですよ。何かを買ってこい、と」
「………………えっと、それって」
単に、航に買い物を頼んだだけなんじゃ――――と、そう思っていると、突っ伏した沙衣里先生の頭に、わしっと手が置かれました。置いたのは、奈緒子さんです。
「さ〜え〜ちゃん。航の帰りが遅いのは、あんたのせいかー!」
「うわ、ちょ、痛い、痛いって、浅倉ぁ!」
「ええい、うるさいっ! 買い物ぐらい自分で行ってきなさいよ! おかげで、海己のご飯が食べられないんでしょうがっ」
実は、かなりお腹が空いてるのか、沙衣里先生の頭をつかんで、奈緒子さんは声色荒くそう言い放ちます。こめかみには、青筋が立ってるのがはっきりと見えました。
「う〜、お腹が空きすぎて、気が遠くなってきたかも………航ぅ、早く帰ってきてよぉ」
「〜〜〜〜!」(チンチンと箸で茶碗をたたく音)
「あ、あはは…二人とも、もうちょっとだけ待ってね」
収拾が付かない事になっちゃってるけど…どうしようかな? あ、お鍋が噴きこぼれそう、火を止めなくちゃ。
「これでよし。後は、航が戻ってきたら味付けをするだけかな」
「この状況で何気に落ち着いているあたり、海己先輩って実は大物なのではないでしょうか」
「………そうかな? 多分、こういう賑やかなのに慣れっこになってるんだと思うけど」
奈緒子さんは沙衣里先生とじゃれあっていて、凛奈ちゃんと静ちゃんは空腹でかまってあげれないのか、宮ちゃんが興味深げにコンロの前に歩みよって来ました。
まるで小犬のように、くんくんと鼻を鳴らしながら、宮ちゃんは湯気の立つおなべを覗き込みます。
「それにしても、良い匂いですね〜、何のお味噌汁ですか?」
「アサリのお味噌汁だよ。今日は、朝方に漁師さんがアサリを届けてくれたらしいから、それをお婆さんから分けてもらったの」
「なるほど〜…魚介類が豊富な島ですからね」
「うん、あと、鰹節でだしもとってあるから、コクが出てると思うけど――――」
と、宮ちゃんにそう説明をしていると、ガラガラと戸の鳴る音が玄関のほうから聞こえてきました。
「おーい、帰ったぞ〜」
「あ、航だ」
「やれやれ、だんな様のやっとのご帰宅か〜…待ちくたびれたわよ」
航の声に、静ちゃんは嬉しそうな顔で、奈緒子さんはいくぶん落ち着いた様子でリビングの出入り口に顔を向けます。
がさごそと、靴を脱ぐ気配の後――――リビングの扉を開けて、航が姿を見せます。その両手には、たくさんの荷物がぶらさがっていました。
「お帰りなさい。凄い荷物だね、航………どうしたの、これ?」
「ああ、街中を走ってたら、次々に呼び止められてな。結婚祝いにって皆がくれたんだよ」
さすがに重かったけどな――――と、言葉を続けながら、航は手にした荷物を床の上に置きます。
野菜や干物、それに魚も何匹かあります。今が秋口で良かったかも。夏の季節だと、寮に持ってくる前に痛んじゃうから。
「あ、桃かんみっけ。これ、静のね」
「そんじゃ、あたしはこれね…パイン缶〜♪」
ウキウキとした様子で、静ちゃんと凛奈ちゃんが、航の持ってきた荷物の中から、果物の缶を取り出しています。後で、デザートに使えるものが無いか、探してみよう。
「ほら、海己――――これで良いんだろ?」
「あ、うん………ええと、お塩にコショウに――――うん、ばっちりだよ、航」
航の持ってきてくれた調味料で、やっと料理の味付けができそうです。みんな、お腹が空いていそうだし………
「た〜す〜け〜て〜…星野ぉ」
「黙りなさいっ! まったく、一度は性根を叩きなおさないと駄目ね、このアル中教師はっ!」
「で、なんで会長は怒ってるんだ?」
「あ、あはは」
………会長に小突かれている沙衣里先生の為にも、私は大急ぎで、昼食の続きに取り掛かる事にしました。
「それじゃあ、みんな揃ったわね。じゃ、食べましょっか…いただきます」
奈緒子さんの号令で、いただきますをしてから、ちょっと遅めの昼食が始まりました。
ご飯にお味噌汁…野菜炒めと白菜のお漬物の他に、航が貰って来たお魚を焼いて、あと、即席のフルーツサラダも加えて、昼食はすごく豪華なものになりました。
それでも、まだまだ材料はたくさんあります。これ、後で持って帰るのが大変かも………。
「海己、おかわり」
「あ、うん」
そんな事を考えていると、航がお茶碗を差し出してきました。私は航からお茶碗を受け取ると、ご飯をよそって航に差し出します。
航はご飯を受け取ると、凄い勢いで食事を再開しました。朝もたくさん食べてたのに、どこに入るんだろ…やっぱり、男の人は違うなぁ…。
「ん〜、やっぱり海己のご飯は違うな〜、静もそう思うでしょ?」
「…もむもむ」
「返事をするのが惜しいくらいに、食べることに集中してますね、静ちゃん」
「って…あ〜! それ、あたしが食べようと思ってとって置いた分! この〜…それなら、こっちも負けないからねっ」
おかずの為に、お箸を使ってケンカをする凛奈ちゃんと静ちゃん。そんな光景を暖かく見守っているのは宮ちゃんです。
そんな大騒ぎをしているのとは対照的に、静かにご飯を食べているのは奈緒子さん――――いつ見ても、きれいな姿勢で食事を取るから、思わず見ほれてしまいました。
ただ………奈緒子さんが黙って食事をとっていられる時間は、そう長くはありません………今も、隣の席の沙衣里先生が、幸せそうな顔でお酒を飲んでいますから…。
「っ、ぷは〜! やっぱりお酒のつまみには、海己の料理が一番よね〜!」
「ちょっと、さえちゃん。つまみになるようなものばかりじゃなくて、普通のご飯も食べなさいよ。健康管理もできないようじゃ、教師失格よ?」
「も〜、うるさいなぁ、浅倉はぁ………生徒でもない人に、そんな事を言われたくありませんっての」
「ごあいにくさま…今のは一社会人としての言葉よ。ほら、せっかくの海己の料理なんだし、味わって食べなさい――――これは、没収」
そういうと、奈緒子さんは沙衣里先生の手からお酒の缶を取り上げてしまいました。当然というか…とられた先生は不機嫌そうな顔をしましたけど。
「ちょっと、浅倉ぁ、なにすんのよぅ――――返しなさいよぉ」
「ふーん…別に返してもいいけどさ、さえちゃん、昨日のアノコト、ばらしてもいいの?」
「…え”」
奈緒子さんに食ってかかった沙衣里先生だけど、奈緒子さんの一言に硬直すると、冷や汗をかき始めました。………『アノコト』って、なんだろ?
「な、なんのことかなぁ…あ、はは」
「笑って誤魔化さない。食事が終わったら、いくらでも飲ませてあげるんだから…今は食べることに集中しなさい、わかったわね」
「うぅ………わかったわよ」
奈緒子さんに言われて、沙衣里先生はしぶしぶといった感じで食事を始めました。よかった――――本当は少し、食事をしようとしない沙衣里先生の事が気になっていましたから。
「海己、お茶ちょうだい」
「はいっ」
ホッとしていると、奈緒子さんが湯飲みを差し出してきたので、わたしはそれにお茶を注ぐと、奈緒子さんに手渡しをしました。
そうだ、さっき気になったこと、奈緒子さんに聞いてみようかな………ちょっとくらいなら席を離れても、大丈夫だよね? 私は席から立つと、奈緒子さんの傍により、顔を近づけました。
「あの、奈緒子さん…少し良いですか?」
「ん、どうしたの?」
怪訝そうな表情で、振り向く奈緒子さん。モデルみたいな端正な顔立ちに、思わず見とれてしまったけど…私はすぐに気を取り直して、奈緒子さんに聞いてみる事にしました。
「その…沙衣里先生に言っていた…アノコトってなんですか?」
「ああ、そのことね」
奈緒子さんは、隣でご飯を食べている沙衣里先生を横目で見て、楽しそうに口元に笑顔を浮かべます。でも、何故か目は笑ってなかったみたいですけど。
そうして、クスクスと笑った後で、奈緒子さんは私を手招きすると、寄せた私の耳元で、得意そうにポソポソと囁きを告げたのでした。
「実は………………なのよ」
「えっ、そ、そんな事を言ってたんですか?」
「ちょ、ちょっと浅倉! ね、ねぇ…海己ちゃん、なんて言ってるの」
「そ、それは…いえません」
頬が赤くなっているのが分かります。まさか、そんなことがあったなんて――――…
「おい、会長…海己にあまり妙な事を吹き込むなよ。海己も信じるなよな、大抵は会長のホラ話なんだから」
「え、そ、そうなの…?」
「ちょっと航、ホラ話ってのは無いんじゃないの? そんな事を言うなら、あの事を海己にバラしても良いのよ?」
航の言葉に、奈緒子さんは不機嫌そうに航を睨みます。だけど、睨まれた航はというと、平気そうな顔をしています。
じゃあ、本当に、奈緒子さんの言った事は――――冗談だったのかな? ほんとのところ、どうなんだろ…う〜ん――――。
「あの事って何だよ。どうせ、しょうもない事だろ――――」
「○年前・デート・誓文――――分かるわよね?」
「………全力で訂正させていただきます」
「?」
あれ? 考え事をしているうちに、航が奈緒子さんに謝ってるけど――――どうしたんだろ?
その様子に首を傾げていた私ですが――――おずおずといった感じで、沙衣里先生が声を掛けてきたので…そのことを考える事ができませんでした。
「ね、ねぇ、それで、なんていっていたの、浅倉は」
「――――………」
「うわ〜ん、お願いだから教えてってば!」
顔を赤くする私をどう思ったのか、沙衣里先生は涙声で私に詰め寄ってきました。でも、恥ずかしくて私には到底、口に出す事ができません。
そんな浮ついた気分で食事時を過ごした後で――――私達は、食後にお茶を飲みながら、まったりとした時間を過ごしていました。
「ふぅ………それにしても、皆、今日の便で帰らなくて良かったのか? いちおう明日は、月曜日だけど」
「ああ、その点は大丈夫ですよ。私も静ちゃんも、一日くらい授業を飛ばしても単位を落とすことが無いくらいには、出席してますから」
食後のお茶を飲みながら、皆に聞く航に、真っ先に返答したのは宮ちゃんです。その言葉に、デザートの桃を食べながらコクコクと静ちゃんが頷きます。
「そっか、よく考えたら、二人とも大学生になってたんだよなぁ…全然、そんな風に見えないけど」
「それはつまり、私や静ちゃんが二十代真っ盛りの大学生にも関わらず、若々しい十代後半に見えるという事でしょうか?」
「…自分で言ってりゃ、世話は無いと思うけど」
照れたように、はにかんだ笑みを浮かべる宮ちゃんに、呆れた様子を見せたのは凛奈ちゃん――――彼女の手にも、果物の缶が握られています。
「あたしの場合は、特に急ぐ用事も無いしね………何かあったら、携帯に連絡が入るだろうけど」
「本当に、何を企んでるのかしらね、この根っからの極悪人は」
「ん? 合法的に人生を渡り歩いているだけよ。あくまでも合法に・ね」
渋い表情でビールを飲む、沙衣里先生のおでこを指で突きながら、奈緒子さんは私では到底真似できそうも無い微笑みを浮かべています。
「あたしは…大学の方はどうでも良いというか――――練習の方は遅れるって伝えてあるからね。あはは…」
「お前なぁ…いくら陸上専門って言っても、せっかく大学に通ってるんだから、少しは授業も受けろよな」
「う………航がそう言うなら、少しは受けてみよっかな…まぁ、今年で大学は卒業なんだけどね」
照れたように航に笑う凛奈ちゃんは、来年からも実業団に入って陸上を続けるそうです。そういえば、この前の競技会も凄い記録が出たってニュースで言ってたっけ。
「まぁ………とりあえず、皆、急ぎの用事も無いわけだ。良かったよ、いきなり帰るーとか言い出さなくて」
「「「「「……………」」」」」
無邪気に皆を見渡して言う航に、静ちゃんに宮ちゃん…凛奈ちゃんも奈緒子さんも、沙衣里先生も一様に黙ってしまいました。
私は、そんな皆の様子を見て、何となく胸の奥で理解できた事がありました。皆…本当に航の事が好きなんだなぁって。
理解できた後、胸の奥から湧き出た気持ち――――それは、胸が苦しいとかそういうのじゃなくって、とても誇らしいような、そんな気持ちでした。
「さて、それじゃあ、腹ごしらえも済んだことだし――――もう一戦やろうぜ、凛奈」
「え、い、いいけど………いいのかな、海己?」
「うん、頑張ってきてね、凛奈ちゃん」
おずおずと、聞いてくる凛奈ちゃんに、私は笑顔で頷きました。私の大好きな皆が、私の大好きな人を好いてくれている――――それはとても、幸せな事ですから。
「それじゃあ、私達も探検を続けるとしましょう。静ちゃん、今度は別の場所に行ってみましょうか?」
「ん…」
航の声に促されるように、宮ちゃんが静ちゃんを連れて、台所を掛け出て行きます。見えなくなった後で、どこかで転んだのか、宮ちゃんの悲鳴が聞こえてきたけど、大丈夫かな?
そんな事を考えながら、私は、食器を片付けながら、リビングから見えるグラウンドに目を移しました。そこでは早速、航と凛奈ちゃんがバスケットの続きをしています。
「おーおー、頑張るわね。宮や静もそうだけど…食後だってのに、よく平気よね?」
「ま、航のタフさは折り紙つきだからね。凛奈の方は、陸上部の顧問をやってた、さえちゃんの方が詳しいんじゃないの?」
駆け回る二人の様子を見つつ、沙衣里先生は呆れたように、私の淹れたお茶を口にしています。どうやら、航の買ってきたビールは飲みきっちゃったみたいです。
そんな沙衣里先生に、からかうように言葉を掛けたのは、こちらも同じように寛いでいた奈緒子さんです。その言葉に、沙衣里先生は拗ねたように肩をすくめました。
「そんなこと言ったってさぁ…わたしは大した事はやれてなかったし、よく分かんないわよ。沢城が頑張ってたのは、知ってたけどさ」
「それだけ分かってりゃ、充分だと思うけどね…凛奈にとっちゃ、あんたは良い顧問だったと思うよ」
「な、なによぉ…浅倉のくせに、調子狂うなぁ」
ぶつぶつと言いながらだけど、奈緒子さんに誉められたのが嬉しかったのか、沙衣里先生は、ふにゃふにゃと笑顔になりながら、お茶をすすっています。
沙衣里先生の考えている事はお見通しなのか、沙衣里先生の笑顔を奈緒子さんは話題にすることもなく、こちらものんびりとお茶を飲んでいました。
それは、どこか郷愁を感じるような、暖かくて穏やかな一時で――――そんな緩やかな流れの中で、午後の一時は過ぎて行ったのでした。
「海己先輩、こんな感じで良いんでしょうか?」
「うん。刃物を持つ手の方は変に力まないで、切るほうを動かしていけば良いから………こんなふうに、かな」
それからしばらくの後………寮内の探検を終えてきた静ちゃんと宮ちゃんに、おやつは無いかと聞かれた私は、航が貰って来た梨を切る事にしました。
慣れた手つきで梨を剥くのは静ちゃん。対照的に、危なっかしい手つきで果物ナイフを手に四苦八苦をしているのは宮ちゃんです。
「あ〜、腹減った。海己〜…何か食える物、無いか?」
宮ちゃんに教えている最中で、休憩をする為か、航と凛奈ちゃんがリビングに戻ってきました。私は作業の手を止めて、航に微笑み返します。
「あ、うん。ちょっと待っててね、今、梨を剥いてるから」
「そうか。って………なんだ、静達も一緒にやってるのか」
私の言葉に頷いた航は、隣で一心不乱に皮むきをする静ちゃんと、緊張した様子で梨に向かっている宮ちゃんに興味を持ったみたいでした。
凛奈ちゃんはというと、さすがに疲れた様子でリビングにある椅子に腰掛けています。凛奈ちゃんの隣には、酔いつぶれた沙衣里先生が机に突っ伏していました。
そんな沙衣里先生を、呆れた様子で見ているのは奈緒子さん。寝入ってしまった沙衣里先生をどうするか、考えを巡らせているみたいです。
「航………ほら、れおぱるどん」
「どれどれ…おお、確かにこれは………それっぽく見える。しかし、器用だな、静は」
「………ん」
得意そうに、犬の形に切った梨を航に見せる静ちゃん。航に誉められて、嬉しそうに頬を綻ばせています。ちょっと、羨ましいかな?
そう思ったのは私だけじゃなく、宮ちゃんも同じだったようです。それから程なくして………苦労して、梨を切り終わった宮ちゃんが航に声をかけました。
「先輩、先輩っ。静ちゃんだけじゃなくて、私も頑張ったんですよっ」
「………ああ、そうみたいだな。何だか、食べたらザクロの味がしそうだけど」
「?」
絆創膏だらけの宮ちゃんの手元を見て、航はしみじみと、そんな事を言いました。でも、何で柘榴なんだろ? 梨と柘榴じゃ、味が違うと思うんだけど。
「柘榴は血の味………ね」
「は〜、喉乾いたぁ……………あれ? 会長、いま何か言いました?」
「ううん、別に何も。それより凛奈、喉が渇いたんなら、ちょうど喉越し爽やかな物があるわよ」
「う、お酒はちょっと………身体に良くないですし…それに、しんみりとした気持ちになっちゃうんです、不思議と」
椅子に座った奈緒子さんに、お酒を勧められた凛奈ちゃんは、ちょっと困った顔をしています。お酒に、あんまり良い思い出が無いのかな?
そんなことを考えている私の隣では、宮ちゃんが一生懸命に、航に梨を食べさせようとしています。
「ほらほら、先輩。あ〜ん、してください、あ〜ん」
「いや、自分で食べれるし………というか恥ずかしいと思わないのか、宮」
「ああっ、ひどいですよぉ。せっかくの若奥様気分に浸っていたのに、先輩には小さな優しさというのが欠けていませんか?」
「なんだよ、そりゃ――――んぐっ」
宮ちゃんの言葉に、航は呆れたような顔をしています。と、一瞬、緩んだ航の口に…爪楊枝を刺した梨が差し込まれたのは、その時でした。
梨付きの爪楊枝を手に持った張本人は、静ちゃん。静ちゃんはどこか満足そうな表情で、航の口から爪楊枝だけを抜き取りました。
「どう、航………? おいしい?」
「ああっ、横入りはずるいですよぉ、静ちゃん!」
「………みやが、のんびりしてるんだと思う」
抗議の声を上げる宮ちゃんですが…慣れたもので、静ちゃんは何処吹く風といった表情です。他の皆も、あまり気にしていないみたい。
航はというと、口内に放り込まれた梨を飲み込むと、満足そうな表情をしています。
「けっこういけるな………静、もう一個くれ」
「ん」
「あ、ちょ、ちょっとぉ…私にも先輩に餌付け………じゃなかった。ご奉仕させてくださいよぉ」
航に梨を差し出す静ちゃんと、その様子を見て、楽しそうに混ざろうとする宮ちゃん。楽しそうな光景は、いつかどこかで見た既視風景――――。
わいのわいのと騒ぐその光景が微笑ましくて…胸が温かくて――――懐かしさに浸りながら、私は知らず、微笑んでいました。
「さて、それじゃあ忘れ物は無いな? ガスとか水道の元栓は、ちゃんと締まってるか?」
「うん、大丈夫だよ、航」
それからしばらくして、暮れなずむ秋の黄昏時――――後片付けを終えた私達は、つぐみ寮から出る事にしました。
高校に入ってからの2年間――――…航や皆と一緒に過ごしたつぐみ寮は、改装された中とは違い、今でも懐かしい姿をとどめています。
「これで、しばらくの間は、つぐみ寮ともお別れですね………次に来れるのは、何時になるでしょうか…」
黄昏色に染まったつぐみ寮を見つめ、秋風にさらさらの銀色の髪をなびかせながら、宮ちゃんがポツリと呟きを口に乗せます。
その横顔は、思わず見とれてしまうほどに綺麗で、私の知らない間に、宮ちゃんも成長していたんだなぁと、そんなことを考えました。
「何をしみじみと言ってるんだよ。宮のくせに――――ほれほれ」
「わ、わ、わ………人がせっかく格好良く言ってるのに、頭をくしゃくしゃにしないでくださいよ〜、先輩!」
でも、航に頭をくしゃくしゃと撫でられて、すぐに元の宮ちゃんに戻ってしまいました。さっきのは、気のせいだったのかな………?
「よーし、どっちが先に下まで行くか、競争だよ、静!」
「りんなには、負けないよ〜」
と、そんな事を考えていると、一足先に凛奈ちゃんと静ちゃんが、石段を駆け下りていってしまいました。
あれだけ、航とバスケをしたのに、凛奈ちゃんはまだまだ元気一杯………そんな凛奈ちゃんと付き合える静ちゃんも、すごいと思います。
「さ〜、場所変えて、飲みなおすぞ〜!」
「こら、足がもつれてるわよ、さえちゃんてば! あ〜、もう…航! ちょっと来なさい!」
凛奈ちゃん達に続いて、階段を下りようとしていた沙衣里先生と奈緒子さんだけど、沙衣里先生がちょっと酔っ払っているみたい。
お昼ごはんの時から、たくさんのお酒を飲んでいたけど、大丈夫かな………奈緒子さんに呼ばれた、航の顔もちょっと心配顔のようです。
「なんだ、まだ酔っ払ってんのか、さえちゃんは」
「んあ〜? 酔っ払ってるっていうやつが、よっぱらいなんだぞ〜…うぃ〜」
「わかったわかった………しょうがないな、さえちゃんは――――ほら、おぶされ」
すっかりいい気分で酔っ払っている沙衣里先生を、航は奈緒子さんに手伝ってもらって、背中に乗せました。沙衣里先生は満足そうな表情をしています。
「うっへへ〜、星野の背中〜〜〜…どうだ浅倉ぁ、うらやましいだろお」
「………航、構わないからこの酔っ払いを階段から転がり落としなさい。あたしが許可する」
なんだか、怖いことをいってるけど、奈緒子さんの事だし、きっと冗談だよ………ね?
秋の日は、つるべ落とし――――それは言葉の通りで、つぐみ寮の石段を降りるまでのわずかな時間に、夕闇は宵闇に姿を変えていました。
真紅に染まっていた空は、一番星の輝きだす、真っ黒なキャンバスに姿を変え、白々とした月明かりが、私たちを照らし始めています。
「さて、なんだかんだで、まだ夕飯の時間にもなっちゃいないんだが――――みんなはこれからどうするんだ?」
沙衣里先生を背負った航が、みんなに声をかけます。夕ご飯は、お婆さんが用意してくれるって言っていたから、私と航は、家に戻らないといけないんだけど…。
「あ、それならぜひ、先輩のご自宅に伺ってみたいと思うんですけど………先輩のお爺様にもご挨拶しないといけませんし」
「別に、家に呼ぶのは構わないが――――何かたくらんでないか、宮?」
「いえいえ、別に大したことは。ただ、せっかくだから先輩のお部屋を拝見したり、つぐみ寮での楽しい思い出話でも暴露………花を咲かそうかと――――」
「………まぁ、いいか。他のみんなは?」
宮ちゃんの言葉に、不安そうな表情を見せた航だけど、特に反対する理由もないのか、他のみんなに話を振ります。
航の問いかけに、みんなは笑顔――――…一人が動くと、みんなが一緒に楽しく付き合うのは、今でも変わらないみたいです。
「あ、じゃあ、あたしも行く。場所を変えて、もう一勝負しようよ。今度は海己や宮も入れてさ…トランプとかなら、楽しめそうだし」
「ん…静もいくよ〜」
「ま、酔っ払った保護者を休ませる場所が必要だし、被保護者が同伴するしかないでしょ」
「なんだと〜、浅倉め〜!」
わいわいと話をしながら、私たちは夜の道を歩きます。明かりは月明かりだけだけど、心細くはぜんぜんなくて――――…遠足をするかのように、心は軽いものでした。
私は航と並んで歩きながら、凛奈ちゃんの、静ちゃんの、宮ちゃんの、奈緒子さんの、沙衣里先生の言葉に耳を傾けます。
今、ここにあるかたち――――私と航だけでなく、それはみんなでつくった、しあわせのかたちでした………。
幸せのかたち――――終幕
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