〜それは、日々のどうでもいいような小話〜 

〜翼を持つ者(リクエスト)〜



航が…大切な人が、あたしと同じ大学に晴れて合格し、念願の『二人暮し』を始める事になってから数ヶ月。
最初は、都会の生活に戸惑っていた航も、それなりに暮らしなれてきたようで、あたし達は新しい生活を満喫していた。

朝起きて、一緒に大学に通い――――講義が同じ時や、暇が取れた時間は…お互いに離れることなく、べったりとくっついて過ごして。
昼は、学食で食べたり、自炊したものを分け合ったり………そうそう、昼に休講になった時は、わざわざ駅前のレストランに食べに行ったときもあった。
その日に受ける分の授業が終わってからは、別行動を取る時もあったけど――――結局は、住処である『つぐみ荘』に戻って一緒に過ごす事が大半だった。

そんなわけで、あたしと航の二人っきりの生活は、滞りなく楽しく嬉しい日々を送っていた。
ただ――――ここ最近になって………少々、問題が発生したのであったけれど。そいつは、何の予兆も無く、あたし達の隣の部屋に引っ越してきたのだ。



「んー………良い天気ね。さ、行きましょ、航」
「ああ、今日も暑くなりそうだな」

つぐみ荘の部屋から出て、もう見慣れた二階からの景色に背を伸ばしながら………航と一緒にオンボロアパートを出る。
大学へと向かうため、電車の待つ駅へと向かう道すがら、あたし達の他にも駅へと向かう人がいる。
明青大行きの電車に乗るため、改札をくぐり駅のホームに出ると――――駅のホームにたむろしている人の中で、見知った相手があたし達の方に近づいてきた。

「やぁ、航達もこんな朝早くからでるのか? 大変だね」
「ああ、こんちは、新羅(しらぎ)さん。ちょっと早めの授業があってね――――新羅さんもこれから出勤?」
「そうだよ。まったく、公務員ってのもめんどくさいもんだよ。基本的にいいかげんなくせに、時間だけはうるさくってね」

そいつ――――すらりとした背丈の美丈夫は、航に対して親しげに話しかける。こいつこそが、あたしを悩ませる元凶の青年である。
警察官の中でも、警視の身分を持つそいつは、あたし達のつぐみ荘に引っ越してきた変わり者で、航のことを弟のように気にかけている。
それだけなら、別に何の問題も無い。しかし、困った事にこの新羅という男は、とことんまで独占欲が強いらしく――――、

「浅倉さんも、おはよう。夕べはお楽しみでしたか?」
「ええ、おかげさまで。ぐっすりと眠る事が出来ましたわ」

互いに、毒気など微塵も感じさせない穏やかな表情で、お互いに目だけは笑っていない。
そう、この男はあたしにとってライバルと言えるべき存在だったのだ――――まさか、あたしも男が恋敵になるとは予想の外だったけど。



――――事の発端は、ある日の午後………昼食後の講義を終えて、いつもの待ち合わせ場所で、航の事を手持ち無沙汰に待ちぼうけしていた時の事であった。
天高く、雲は流れ………暖かな木漏れ日の午後は、どことなく気分がウキウキとしてくるものである。どこか弾んだ気分で、あたしは鼻歌などを交えつつ、航の事を待っていた。
今日はどこに行こうかな? そういえば、そろそろ映画館にも新しいのが入るのよね――――などと、今日のこれからの予定を考えながら、航の姿を探して周囲を見渡す。

「………あ、来た来た」

通路の向こうから、遠目でも見間違える事の無い、航の姿を発見した。いつもは、あたしの姿を見ると早足で歩み寄ってくる――――というか、駆け寄ってくる航だったが…、
今日に限って言えば、そんなことは無かった。というか、航の視線は進行方向ではなく、自らの隣………歩調を合わせて歩いている相手に向けられていたのだ。
男友達なんだろうか――――航よりも幾分背の高いその青年は、航と談笑しながら、穏やかな笑みを浮かべていた。と、その瞳がこちらを向きあたしを捉える。

「航…ひょっとして、彼女がその『奈緒子さん』なのか?」
「え? ――――ああ、そうだよ。ごめん奈緒子、ひょっとして…けっこう待ってた?」

青年に言葉を振られ、航はようやく…待ち合わせ場所に、あたしがいる事に気づいたようだ。正直、ちょっと面白くなかったが、人目もあるため、意識して穏やかな表情を取り繕う。

「ううん、それほどは待たなかったわよ。 それはそうと…航、その人は? ひょっとして、新しく出来たお友達?」
「いや、まぁ…友達って言えばそうかもしれないけど。さっきの講習で知り合った人で――――現役の警察官なんだってさ」
「――――へぇ、それはそれは」

航の説明に…切れの良い切り替えしをすることも出来ず、曖昧にそんな風に言葉を濁す。大学生じゃないのは兎も角、警察官って………何で警官がこんなところに?
聞いたところによると、航の今回受けた授業は、外来の訪問者も参加できる講習だったらしい。大学の授業の中には、そうやって、幅広く参加者を募っている授業もあるのだとか。
もっとも、実際に講習を受けに来る人はまばららしいけど…そもそも、一回の授業毎に講習料を取られるというのでは、客足が遠のくのも当然である。

「――――で、新羅さんが消しゴムを忘れて困ってたんで、俺が貸してあげたのが馴れ初めだったって訳さ」
「ああ。あの時は助かったよ。本当に航って、いいやつだね」

航の言葉に、新羅という青年は柔和な微笑みを航に向ける。あれから――――その場で立ち話という雰囲気でもなかったので、あたし達は食堂に場所を移していた。
昼下がりの午後の食堂――――ピーク時を過ぎたせいか、百人以上は軽く入りそうな広い食堂に、人影はまばらである。
そんな食堂の窓際…庭に面した広々としたテーブルに陣取って、あたし達はのんびりと世間話に花を咲かせていたのだった。

新羅と航が楽しそうに話をしているのを眺めつつ…あたしも時折、口を挟みながら穏やかな時間を過ごす。
そうして、話は尽きることなく小一時間ほどが過ぎ――――話が途切れた部分を見計らってか、航が腰を上げた。

「さて………飲み物を取りに、ちょっと離れるけど――――新羅さんも奈緒子も、何か飲みたい物はある? あったら一緒に持ってくるけど」
「そうね…じゃ、烏龍茶で」
「俺は緑茶にするよ。よろしくな、航」
「分かった。ちょっと待っててくれよ」

あたし達の回答を聞いて…それぞれの注文に頷きながら、航は食堂の端っこにある自販機に向かった。
その場に残ったのは、あたしと新羅の二人。どこか、あどけなさの残る青年は、終始にこやかに笑いかけてくる。

「いいコだよね。航って――――背伸びして大人びようとしてるけど、まだまだ子供だって分かるよ」
「ええ。そうですね………でも、本人の前では言わない方が良いと思いますよ。あれでいて、彼って繊細なところがあるから」

話しているうちに、知らず知らずのうちに警戒心が解けている事に…あたしは気づいていなかった。
とっつきやすい雰囲気は、隆史さんに似ている部分があり、似たような雰囲気の相手と知り合っていたせいで、無条件に安心していたのかもしれない。
いつの間にか目の前の青年の笑みが…どこと無く意地の悪そうな、いたずらっ子のような表情に変わっていたのに気づいたのは、次の言葉を投げかけられてからだった。

「――――なるほど。つまるところ年上女房って訳か。航と君の関係は………間違っては無いよね、浅倉奈緒子さん?」
「な」
「ああ、皆まで言わなくていいよ。しかし、聞くと見るとでは大違いだ。やっぱり君も、本気で惚れているんだね」

言葉を失った、あたしをよそに………邪気の無い笑顔で青年は言葉を続ける。しかし、何だか聞き捨てならないフレーズを聞いたような気がするけど。
やっぱり君『も』本気で惚れてるんだね…って、何となく嫌な予感がして、あたしはわずかに身構えながら、青年に剣呑な視線を向ける。

「――――フルネームの自己紹介をした覚えは無いんだけど………ひょっとして、航から聞いたのかしら」
「ん? いや、航はそんなこと言ってないよ。ただ単に、事前調査をしただけ。いちおうツテがあるものでね」

そういえば、警察官だって小耳に挟んだけど――――職権乱用じゃないのよ。憮然とした表情が顔に出たらしく、新羅は楽しそうな笑い声を上げる。
あたしにとって、わずかな救いだったのは、青年の浮かべた笑みが陰険なものでなく、純粋に楽しそうに笑っていることだった。
どうやら、少なくとも今は、その職権を使ってあたしたちに害を及ぼすような事はなさそうだった。あくまでも…今は、であるけれども。

「そう身構えなくてもいいよ。今回は顔合わせに過ぎないから。もっとも、これから度々ちょっかいを出させてもらうけどね」
「ちょっかいって――――航に手出しをする気なの?」
「ん――――…ま、そうとってくれて構わないよ。ほんとは君でもいいんだけど、ややこしくなりそうだし、航の方が気が楽だ」

などと、訳の分からない事をいいながら、新羅は席を立つ。ちょうど、3人分の飲み物をトレーに乗せて、航が戻ってきた所だった。

「あれ? どうしたの、新羅さん」
「ああ、悪い…ちょっと所用を思い出したものだからね。今日のところは、この辺りでお暇させてもらうよ」

そういうと、トレーの上から一つのコップを手に取ると、スタスタと食堂から歩きさって行ってしまった。
後に残されたのは、席に座ったあたしと、ポカンとした表情の航だけである。新羅の姿が見えなくなると、さも残念そうに航が呟いたのが見えた。

「なんだ、急用が出来ちゃったのか…ま、警察官だし、忙しいかもしれないよな」
「…………航」
「ん?」
「随分と、あの男――――新羅さんに懐いているみたいね。ひょっとして、気に入った?」

からかい半分、航が新羅をどう思っているのか、半ば本気で探った質問に返ってきたのは――――…航の溌剌とした笑顔だった。

「そうだな…ちょっと話しただけだけど、けっこう好きだな、ああいうタイプって。警官だって聞いたけど、何かとっつきやすい人だったし………奈緒子はどう思ったんだ?」
「そうね………あたしは、保留」
「何だよ、そりゃ」

あたしの返答が可笑しかったのか、航がぷっと吹き出して笑い声を立てた。もちろん、あたしにとっては笑い事じゃないんだけど。
唐突に現れた、警察官の青年――――…これからも、あたしたちにちょっかいを出してくるといっていた。でも…なんのために?
なにやら、幸せな大学生活に一波乱がありそうな予感を感じ、航に笑顔を返しながらも、胸中では妙な不安が渦巻いていたのだった。



………そして、それは見事に的中する。二度目の再会は、つぐみ荘のある駅へと、電車を乗り継いで帰ってきてからの出来事であった。



大学の講義が終わってから………あたしと航は買い物をしつつ、二人の我が家であるつぐみ荘へと電車を乗り継いでいた。
途中の駅で下車をして、今日の夕食分の食材を買ったり、ブリックモールにあるオープンカフェで寛いだりと、有意義な時間を過ごしていく。
しばらくの間は、大学で会った新羅のことが気になっていたものの…後半には、その事は頭の隅に追いやって、航と楽しく一緒の時間を過ごしていた。
ちょっかいを掛けて来るといっても、今すぐにというわけでもないだろうし…楽しむ部分は、メリハリをつけて楽しまないといけないと思ったからである。

買い物を終えて、電車に再び乗り、しばしの間…揺れに身を任せる。航と並んで席に座り、他愛もないお喋りをするうちに我が家のある駅に付いた。

夏にさしかかり始めた時期――――まだまだ夕暮れに照らされつつも、刻一刻と夜へと近づく夕暮れの街並みを…つぐみ荘へ向かい、航と二人で歩を進める。
お互いの片手には、自分の荷物。そうしてもう片方の空いた手で、お互いの手を握りながら、ゆっくりと駅からの短い道のりを噛み締めるように歩く。
こうして触れていると…言い様の無い幸福感に浸る事が出来るのは、航も同じようだった。あたしも航も、お互いに身体を預けるように、寄り添うように歩いていく。

「あ〜…腹減った。なぁ奈緒子、帰ったら真っ先にメシにしよう。正直、腹ペコで死にそうだ」
「はいはい、料理は全部、あたしに任せなさい。航はのんびりと…思う存分、あたしに甘えてくれればいいから」
「………甘えるってのは、語弊があると思うぞ。適材適所というか、奈緒子の飯が美味いのが、そもそもの原因な訳で」

甘えるという言葉が恥ずかしいのか、航はぶつぶつと、呟きを漏らす。けど、それは照れ隠し以外の何ものでもなく、あたしの顔にも自然に、笑みが浮かんできた。
しかし、そんな上機嫌は長くは続くことはなかった。つぐみ荘へと向かって道を曲がろうとした刹那、曲がり角の場所で、あたしと航は足を止める事になったのである。

「あれ…? 新羅さん?」
「やぁ、航。また会ったね」
「…げ」

三者三様の言葉――――ちなみに、最後の心の底から嫌そうな呟きは…あたしのものであった。曲がり角の向こうから姿を現したのは、昼に大学で出会ったばかりの新羅である。
彼は、どこぞの会社員のように、スーツを身にまとって悠然と立っている。正直、警察官が着るような制服よりも、何倍も似合っているというのは間違いないだろう。
女顔である分、正直ホストにも見えなくも無いけど――――こんなホストが居たら、指名がひっきりなしになるんでしょうね………などと、現実逃避に陥りそうになった。
思わずたじろいでしまったのだが、航はというと、そんなあたしの様子に気づかなかったらしい。目の前にひょっこりと現れた青年に、航は屈託無く笑いかけていた。

「珍しいところで会うもんだね。新羅さんも、ひょっとしてこの辺りに住んでるの?」
「ん………ああ、そうだよ。最近――――というか、つい先日引っ越してきたばかりでね」

新羅はそういうと、視線を航から、一瞬、あたしへと向けた。なにやら、からかうような視線が嫌な予感をかきたてた。

「へぇ………それじゃ、ご近所さんになるのか。いったいどの辺りに越して来たんだ?」
「ああ、すぐそこだよ。築35年のアパートで、日当たりが良いのが救いかな」

………嫌な予感、的中。航はというと、その言葉で理解できなかったのか、呆れたような口調で小首を傾げた。

「へぇ、俺たちが住んでるとこと、似たり寄ったりのとこだな………なんで名前のアパート?」

――――ここまで、仕立てられた展開だと、驚く気も起きないのか、あたしの内心は落ち着いたものだった。
もっとも、それが何の救いにもなってないのが空しいのだけれど。新羅は、ここからでも見える、そのアパートを指差して、にこやかに言ったのだった。

「そこの『つぐみ荘』の204号室だよ。二階の角から二番目の部屋だな」
「………へ?」

困惑したように、声を上げたのは航だけ――――あたしは、じぃっと新羅を睨みつけ…新羅はというと、そんなあたしと航を、楽しそうに交互に見やっていたのだった。



…と言うわけで、あたしと航の二人暮しに、奇妙な横槍が入ってから、一月ほどが経過し、現在に至っている。
幸いというか、何と言うか――――新羅は、あたし達の隣の部屋を借り受けたといっても、実際にはそこに住んでいるわけではないようだった。
新羅が、あたし達の前に姿を現すのは、明青大のキャンパス内が主で、後は、地下鉄の構内で顔を合わせるくらいである。

大学の校内で姿を見かける事はよくあったが、それ以外はめったに姿を見せない。いったい何をしているのか…まぁ、あたしには関係のないことだけど。
それより問題は、昼食時になると決まって、あたしと航の元に新羅が姿を現すことだ。校内外に関わらず出没するその嗅覚は、警察犬顔負けだろう。
今日も今日とて、そこそこ込み合っている食堂の一角を陣取って、あたしと航、そして新羅との3人での食事をとっている真っ最中であった。

「へぇ、じゃあ新羅さんもやってたんだ…バルドフォースエグゼ。なかなか懐かしいけど、今やっても面白いんだよなぁ」
「ああ。俺もちょっと前は暇してたからね――――その時にちょっと遊んだ事があるんだよ」
「そういえばさ、あのゲームって後半になると、かなりヤバくない? 妹とか」
「ああ、妹ね………確かにあれは、けっこう厳しかったかな」

――――いったい、何の話をしているのかしら? どうやら、寮に居た時、航の部屋にあったゲームの事を話しているみたいだけど………、
あたし自身は、そこまでゲームとかに興味があるわけでもないので、航としても、そういった話題は話しづらかったのだろう。
そういう意味では、新羅は航の良い話し相手になってくれている。もっとも、そのせいで航との二人っきりの時間を潰されているのも事実だけど。

「それじゃあ今度、一緒に――――っと、そろそろ時間だな。すまないけど、これで失礼するよ」

仕方ないので、食べる事に集中していると――――それからしばらくして、話の合間に、不意に新羅は腕時計に目をやると、席から腰を上げた。
新羅は昼過ぎの決まった時間帯になると、ふらりと姿を消す事が常であった。理由は分からないが、何か用事があると、いつも口の端に乗せている。

「それじゃあな、航。あと、奈緒子さんもね」
「ああ、じゃあね、新羅さん」
「…ええ、さよなら――――――――――――ふぅ」

にこやかに手を振り、食堂から出て行く新羅を見送ったあと、あたしは航に聞こえないように、軽く溜息をついた。
実のところ、ここ最近は…新羅の視線が、けっこうなプレッシャーになっていた。航と話している合間にも、時折、新羅が私の方に探るような目を向けてくることがある。
今日も、航は気づいていないようだが、何度か観察するように…新羅は、あたしに視線を向けることが多々あったのである。

「――――? あれ、どうかした? 奈緒子」
「え? 別に何でもないわよ。それより、早く食べちゃいましょ、航」

近いうちに…ひょっとしたら、何らかのリアクションがあるのかもしれない――――そんな予感が肌に伝わってくる。
だけど、それは航には知らせる必要の無いものだろう。これは、あたしが解決しなければならない問題だから………。



そうして、数日後――――その予感は現実のものとなる。



蝉の鳴き声が聞こえてきそうな、夏の始まり――――その日は朝の講義が休講になり、あたしは一人、暇な時間を潰すように食堂に入り浸っていた。
航が講義を終えて、一緒に昼食をとる約束をしているが………それまでは、とりわけ何をする予定もない時間であった。

「………塩を加えてから、さらに一煮立ち――――っと」

せっかくの自由時間、あたしは今後の生活に潤いをもたらす為…単純な話、料理の勉強をするために参考書を読み開いていた。
大学の図書館から借りてきた料理の本を何冊か…料理の手順やコツを知るために、繰り返し読みつつ…頭に入れておく。
料理に関しては、多少の自信が付いてきたとはいえ、さすがに付け焼刃ではどうにもならない事もある。腕前では、まだまだ海己に届いていないのも事実だった。

大学に入って良かったと思うのは、こういった類の書籍を無料で読める環境があることだろう。ただ…図書館自体は静かに読書を楽しめる場所ではなかったりするけど。
何を勘違いしているのか、図書館をナンパスポットと勘違いする男がけっこういるらしく、事実、あたしも声を掛けられた事があった。
そういう已む無い事情があるので、航との合流場所である、食堂での読書の時間と相成ったのである。まぁ、場所を変えてもナンパされる時はされるんだけど。
そんな事を考えていたのがいけなかったんだろうか…料理の世界に没頭していると、不意にあたしに対してナンパらしいものを仕掛けてきた男がいたのだった。

「やぁ…時間は空いているかな?」
「………見ての通りよ、勉強中。あいにくですけど、邪魔をしないで下さるかしら?」

ちらりと相手に視線を向けて、あたしは内心で溜息をついて、口からは断りの言葉を吐く。しかし相手は、そんなあたしの態度など、まるっきり気にしていないようだったけど。
ふてぶてしいまでの微笑みに、それ以上に印象的な、強い意志を感じる眼差し――――新羅は、読書を続けるあたしの様子を見て、面白そうに微笑んだ。

「それは失礼。だけど、予定を空けてもらわないといけないんでね。ちょっと、大学から出るとしようか」
「――――あたしは、同意するつもりは無いんですけど」
「まぁ、無理にとは言わないよ。でも、円滑な人間関係を築くなら、多少の譲歩はするべきじゃないかな?」

………その口調に、有無を言わせぬ雰囲気を感じ、あたしは新羅を見返す――――どうやら…どうあっても、この場を退く気は無いようだった。
そもそも――――いつもは航が居る時にしか姿を現さない新羅が、こうして姿を現したのだから、来るべき時が来たといっても良いのかもしれない。直接対決のときが。

「…そうね、読書はどこでも出来るでしょうし、エスコートをお願いできますかしら?」

料理の本を閉じて、あたしは席を立つ。相手がどう出るかは分からないが、出来る限りの抵抗をするつもりはあった。
………もっとも、そんなあたしの考えが無駄だった事を知るのは………それからすぐの事だったのだけれど。



大学を出て、あたしと新羅は最寄のファミレスに席を落ち着ける事にした。航との約束があるので、あまり遠くには行けないという、あたしの申し出を受けての決定である。
『天才ピアニスト、花鳥由飛の行き付けのレストラン』と売り出し中のファミレスは…なんでも、まだ無名だった彼女がよく通っていたという逸話のあるレストランのチェーン店である。
ちなみに、実際に彼女が通っていたのは、このレストランではなく…同じ内装の別店舗なのだそうだ。外食産業も、お客を集めるのに苦労してるみたいね。

「さて、それじゃあ好きなものを注文してくれていいよ。いちおう、社会人として定収入もあるからね――――あ、俺はオムレツで」
「それじゃ…アイスコーヒーをお願いします」
「はい、かしこまりました。少々お待ちくださいませ」

新羅と向かい合わせにテーブル席に着き、それぞれ注文を告げる。まだ昼食には早すぎる時時間帯のせいか、平日のファミレスはあたし達以外の利用者は、まばらであった。
これなら、多少声を上げたところで、誰かに聞きとがめられる事も無いだろう――――店員さんには嫌な顔をされるかもしれないけどね。

「さて、場所を変えたことだし、料理が来るまでの間に…話をつけておくことにしようか」
「………」

来た。

ここ一月の間、航に付いて回っていた新羅がどんな事を言ってくるのか――――航と別れろ、航を諦めろ…どんな酷い言葉を投げかけられても、即座に返す自信はあった。
しかし………新羅の口から飛び出たのは、私の想像とは違った台詞であったのである。

「ここ一月ばかり、航と色々話したんだけどね。あれだね、恋の病に薬なしとは良く言ったものだ。航は完全に、君以外目に入ってないみたいだよ」
「なっ――――」
「傍目から見ても、仲の良いのは分かったけど、ここまでベタベタだと、ある意味感動するよ。お前らもう、さっさと結婚でもしてろ、って感じかな」
「………」

ふぅ、やれやれ、といった風に肩をすくめる新羅。ひょっとして…あたしを、からかっているんだろうか?

「で、航の方は分かったんだけどさ、君はどうなんだい、奈緒子さん? あれだけ纏わりつかれると、ウザいと思わない? 別れたいと思ったりとか」
「――――馬鹿ね、そんなこと、思うわけ無いじゃないの」
「ほぅ」

あたしの返答に新羅は面白そうな表情になる。そんな新羅に向かって、あたしは決意を込めた言葉をぶつけてやった。

「何があろうと、あたしは航と別れるつもりは無いわ。あたしは航の帰る場所…巣になるって決めたんだから」
「………」
「それに、航がどこかへ行こうと、翼を広げて飛び立とうとするのなら、あたしはそれについて行く――――航と一緒に、飛び立ってみせる」
「翼ね………」

あたしの言葉が可笑しかったのか、新羅はそう呟くと、皮肉気に笑った。どことなく、その表情が寂しそうに見えたような気もするが…気のせいだろう。
新羅は、しばらく苦笑めいた笑みを浮かべていたが、不意にその笑みを引っ込めると、ぽんと一つ手を叩いた。

「なるほどね、君の決意はよく分かったよ。それを聞いた上で、君に一つ、頼みたい事があるんだが」
「――――あいにくと、航とお金の事には相談に乗らないわよ」
「いや、その事じゃない。実は、あのアパートの部屋なんだけど………あと何日かしたら、俺の彼女を住まわせる事にするから、面倒を見てやってほしいんだが」
「……………………は?」

……………………は?



「だから、俺の彼女だよ。何だ、俺ってそんなにもてないように見える?」
「いや、そうじゃなくて――――? 貴方、航を狙ってたんじゃなかったの?」
「…何で俺が? あいにくと、男色の気は無いよ。ヒルじゃあるまいし」

緊急停止した頭で、思考をめぐらせる………。どうやらあたしは、途方も無い勘違いをしていたっぽかった。

「じゃあ、最初に会ったときの『やっぱり君も、本気で惚れているんだね』っていうのは?」
「だから、君があまりに航を溺愛してるっぽかったから、『俺が彼女を溺愛してるのと同じだな』…って意味で言ったんだが」
「………まぎらわしすぎるのよ」

そう言って、あたしはがっくりと肩を落とす。ここ一月、心身ともに疲弊したあたしの心配は、まさに取り越し苦労というべきものだったらしい。



さて、航との約束の時間まで多少の猶予があったため、あたしはそれからしばらくの間、新羅と多少の情報交換をすることとなった。
まず、最初にあたしが聞いたのは、どういう意図で航に近づいたかという事だが………新羅は平然とした表情で、とんでもない事を言ったのだった。

「だから、様子見だよ。俺の彼女に手を出す可能性があるなら、早々に始末しとかなきゃいけないからな………もっとも、恋人がいる時点でセーフだったんだけどね」
「始末って………事件沙汰にするつもりだったのかしら?」
「まさか、せいぜい国家権力ちらつかせて、アパートから出てけって言うくらいだよ。俺ってほら、暴力とか嫌いだから」

平然と、権力乱用を公言する警察官――――誰よ、こんなのを採用したのは。

「ま、だからといってすぐ安心するわけにもいかなかったけどね。今の時代…恋人なんて磁石みたいに、引っ付いたり分かれたりするじゃないか」
「――――…一概に、そう言い切るのは問題があるような気がするけど」
「まぁね。だから、航と君の関係を吟味させてもらったよ。そうだね、君たちの場合は、例外に当たるのかもしれないな――――長持ちしそうだ」
「当たり前よ」

あたしがそっぽを向いて言うと、何が可笑しかったのか、新羅は楽しそうに笑顔を見せた。
普段から外面の良い笑顔を振りまいてるけど、こういう笑顔にやられるコも多いんでしょうね。あたしには効かないけど。

「そういうわけで、同居人が安心だって分かったから、彼女をこっちに呼ぼうと思ってね。正直、あまり向こうに彼女を置いておきたくないから」
「さっきから、彼女彼女って連呼してるけど、いったいどんなコなのよ。面倒見ろって言われても、何をどうしろって言うのか、見当も付かないんだけど」

面倒を見るかどうかは別として、新羅の彼女の方に興味が出てきた私は、そう聞いてみた――――数秒後に、物凄く後悔したんだけど。

「ああ、たぶん高校生くらいかな。住んでるところは、ここから駅を幾つか行った先…俗に言う家出少女の一人だよ」
「ぇ――――?」
「任意同行の形はとるけど、強制的に連れてくるから…もちろん、これがばれたら俺の首も危ないな。言っておくけど、君を信用したから言ったって事を忘れないように」

信用なんてしないでほしいんだけど――――つまり、だ。いま流行の拉致○禁に付き合えと、この男は言っているんだろうか。
もしそうだとしたら、手段なんか選んじゃいられない。あたしはもとより、航の身に害の及ばない方法を考えないと………。

「何を考えてるのか予想は付くけどさ。ここまでぶっちゃけてるんだから、信じてくれても良いと思うけど。少なくとも、俺と彼女は相思相愛だよ」
「………本当でしょうね?」
「職業柄、本音と建前は使いこなすけど、彼女の事に付いては本当だよ。で、君に頼みたいのは、彼女の勉強を見てやってほしいんだ」

何でも、彼女は苦学生の類で、日雇い労働の傍ら、一生懸命勉強もしているらしい。ただ、そういう生活では、一般の学生との学力の差は、絶望的なまでに開いているらしいが。
そんなわけで、新羅としては彼女の為に、寝泊りできる環境と、優秀な家庭教師をつけようと考えたらしい。そうして白羽の矢が立ったのが、あたしというわけだ。

「高校時代の、君と航の成績を見せてもらったよ。航の成績を伸ばしたのは、君だろう? 家庭教師として申し分なさそうだからね」
「――――あれは、航だから出来たのよ。誰にでも出きるわけじゃないわ」

少々の皮肉を込めて、あたしは新羅を見やる。ただ、さすがに分かってきたのだが…この手の白眼視は新羅には通じない。
新羅は、相変わらずの飄々とした風情で、それでも瞳にだけは真剣な彩を湛えてあたしを見つめてくる。

「…家庭教師が駄目なら、それでも良い。ただ、あいつと仲良くしてやってほしいんだ」
「随分と、彼女とやらにご執心のようね。そんなに大切な人なのかしら」
「ああ、あいつは――――寿(ことぶき)は、俺の翼だから…」

寿…変わった呼び名だけど、苗字なのか、それとも名前なのかしら? 少し気にはなったけど、しばらくしたら会えるらしいので、その時に本人に聞いてみる事にしよう。
それから――――彼女を連れてくる段取りと、日程、それと計画を話し合って…あたしと新羅は、そのままファミレスから出て別れることとなった。
これから新羅は、彼女の仕事場所に様子を見に行くと言っていた。どうやら、ときおり姿が見えないでいる時は、彼女に会いに行っていたらしい。

「本当は、学生の補導なんてめんどくさいと思ったけど、寿に会えたんだし、今の仕事をやってて良かったと思うよ」

別れ際、新羅はそんな事を言っていた………それにしてもさ、彼女のお尻を追っかけるのも良いけど、たまには仕事もして欲しいものよね。
さて、随分と話し込んでしまったので、時間はお昼を間近に控えている。航を待たせるのも悪いし、急ぎ足で食堂に戻る事にしよう。
新羅の彼女の件も、航に話しておくべきだろうし――――随分と話す事が多い、昼食の時間になりそうだった。



そして、週末――――…。



じゅうじゅうと、野菜を炒める音。手首を返すと、ニンジン、ピーマン、もやしなどが宙を舞う。
お昼を少し過ぎたくらいの時間………つぐみ荘の一室で、あたしは昼食の用意をしていた。ただ、いつもの場所とは少し違ったのだけど。
ここは、つぐみ荘の204号室――――あたし達の住んでいる部屋の一つとなりである。

間取りは、あたし達の部屋と一緒だけど、住んでいる人が違うのか、まったく別の部屋に見えた。
備え付けの家具などは、大して変わらないのだが――――…どこと無く閑散とした印象を受けるのは、この部屋に人の温もりが感じられなかったからだろうか?
まぁ、これから住む、新羅の彼女によって、多少はこの部屋にも温かみが出る事になるだろう。
実際、あたしがこのアパートに引っ越してきた時も、似たり寄ったりな状況だったわけだし。

「奈緒子、買い出し行ってきたけど…これで足りるか?」

と、料理をしていたあたしの背後から、航の声が聞こえてきた。振り向くと、両手一杯に買い物袋を下げた航の姿があった…おつかれさま。

「ちょっと待ってね――――――――ええ、充分よ。一人暮らしに必要なものは、あらかた揃ってると思うわ」
「そか。なら良かったよ………しかし、久しぶりに大きな買い物をしたよなぁ」
「買い物って言っても、自分たちのためじゃないんだけどね…まったく、航をパシリにするなんて、新羅のやつ良い度胸してるわね」

重たい荷物に辟易したのか、肩を回す航の姿を見て、あたしは憮然とした表情で呟きを漏らす。
新羅が、彼女をつぐみ荘に連れてくる日――――その前日になって、やつはぬけぬけと、とんでもない事を言ってきたのだ。

「せっかく彼女を連れて来るんだし、歓迎会をやっても罰は当たらないと思うよな? あ、もちろん費用は全額俺が出すから、心配しなくていいよ」

新羅のその提案に、お祭好きな感がある航は、別に否もなく二言返事で承諾し――――結局、断る理由も見出せないまま、グダグダに準備を手伝わされる羽目になったのである。
もっとも、やるからには料理などには手を抜くつもりはこれっぽっちも無いんだけど。第一印象って大事だしね。

「まぁまぁ、他ならない新羅さんのためだし、いいじゃんか」
「…航が納得してるんなら、それはそれで良いんだけど」

――――どうも最近、航が新羅の弟分になってきているような気がしてならない。実際、頼りがいがあるんだから…しょうがないと言えば、そうなんだけど。
さて、そろそろ時間になる頃だし、噂の彼女とやらを出迎える準備をする事にしましょうか。
航と話しつつ、料理の仕上げを終えたあたしは、買い物ついでに航に頼んでいたクラッカーを取り出した。

やっぱり、出迎えというからには、これは必須でしょう。後々、片付けはめんどくさいけど、それは考えない事にしておく。
航と二人、玄関に移動して、あたしは不意に、どこか郷愁を胸の内に感じた。同様に、わくわくするような感覚も胸にみちる。

「ねえ、航――――懐かしいわよね。つぐみ寮の時も、新入生を出迎える時って、こうやってワクワクした気持ちがあったわ」
「ああ、そうだな…といっても、実際にそういう気分になったのは、宮の時だけだったけど」

当時を思い出したのか、航もどこか懐かしむように笑みを漏らす。
あたしがいて、さえちゃんが来て、航と海己が入り、静が転がり込んで、宮が笑顔で訪れて、そして、凛奈が加わって出来た、あの楽園。
もう、それは無いけど………確かにあった、暖かな日々は、今でもあたしの…ううん、あたし達の中に息づいている。

「仲良くしないとね。あたし達の住むここが、あの寮と同様に、ううん…もっと楽しい場所になるように!」
「だな。気の会うやつだと良いけどな。新羅さんの彼女って人も」

あ、そういえば航には、新羅さんの彼女が年下だって伝えてなかった。きっと驚くだろうな………ちょっと、楽しみが増えたかも。
そんな風に話を交えていると、安普請のアパートを、とんとんと二階に上がってくる二人分の足音がある。
おそらくは、新羅とその彼女で間違いないだろう。あたしと航は、慣れ親しんだアイコンタクトをする。
サプライズパーティなのだから、気取られるのは厳禁である。あたしも航も、ここからは無言――――息を潜めて、主賓の到着を待つ。

待ち時間は、それほど長くは無かった。二階に上がってきた足音は、すぐにこの部屋の前に止まり…ドア越しに、少女の声と、新羅の声が聞こえてきた。

「だから、別にいいよ…そんな、世話になるなんて――――」
「ま、いいから、入った入った………ここまで来て、それは無いデショ。ここが二人の愛の巣なんだから」
「あ、愛の巣って………やっぱ、あたし帰るっ!」
「だーめだって。ほら、寿から先に入ってね」
「あ、ちょ、こ、こらぁ!!」

慌てたような女の子の声と共に、外開きの扉が開かれる――――そのころあいを見計らい、まるで示し合わせたかのように、あたしと航は外に飛び出した。
こういうのは、思い切りが肝心である。二人で前日に考えた…といっても、これ以外思いつかなかった出迎えの言葉を言いながら、クラッカーの紐を思いっきり引っ張る。

「「ようこそ、つぐみ荘へ!」」

ぱん、ぱん! と、パーティ用のクラッカーを鳴らして出迎えるあたしと航に、ちょっと驚いたような表情をする少女。
どことなく、子猫のような雰囲気を持つ小柄な少女の後ろでは、新羅が驚いた様子の少女を見て微笑んでいる。
新たな生活で、再び訪れた夏――――奇妙なお隣さんを加えて、あたしと航の夏の始まりは、こうして幕を上げたのであった。



浅倉奈緒子アフターストーリー〜翼を持つ者〜 Never End にかへて

ここまで読んでいただいて、ありがとうございます。作中の新羅&寿については、自身のオリキャラではございません。
二人は、SSのタイトルと同様の名前の〜翼を持つ者〜という少女漫画から拝借させていただきました。(時代考証など、多少の変更はありますが)

興味が沸きましたら、ぜひとも読んでいただきたい一冊だと思います。



戻る