〜それは、日々のどうでもいいような小話〜
〜おまけ・それは冗談のような、四月一日の日〜
そうして、長いようで短かった冬の季節も終わりをつげ、季節は春へと移行する時期になった。
それなりに感慨深い卒業式を終え、高校3年間の生活にピリオドを打った俺や茜は、この春より晴れて、社会人としての生活を始める。
といっても、俺は爺さんの助手として、見習いの卵からのスタートだし、一人立ちには程遠い状況ではあった。
さて、何はともあれ、4月の最初の日――――俺は朝早くから港に向かう事になった。
今日から、南栄生島に越してくる面々を、迎えに行くためである。休日ともあって、港付近にも人影は多数あった。
港についてしばらく待っていると、夜通しで本州から海を越えてやってきた、本州との往復船が港の桟橋に着いた。
里帰りのため、本州から仕事を終えての帰り…その他、様々な理由で船に乗った人々が、十数時間の長い船旅を終えて、次々と桟橋に降り立った。
そこそこの数がいたとはいえ、そこはそれ、見知った顔である彼女等を見つけることは、そう難しいことではなかった。
「おーい、海己、宮、静――――と、あ、あれ? 何で凛奈と会長がいるんだ!?」
ただ、その集団に意外なおまけがくっついてきたのは、俺の予想とは少し違ったものだったのだが。
今日、島に着く予定だった海己、宮、静の3人はいいとして…どういう風の吹き回しか、凛奈や会長まで一緒の船に乗っていたのだった。
「やっほー、航。遊びに来ちゃった!」
女性だけの集団の中で一番フットワークの軽い凛奈が、笑顔で俺に駆け寄ってきた。今年、大学生になる予定の凛奈は前にあった頃とさほど背は変わってない。
もっとも、一部分のボリュームは飛躍的にアップしており、スプリンターである彼女にとって、それは悩みの種らしいのだが。
「私も凛奈も、もともと海己達と一緒に遊びに来る予定だったのよ? さえちゃんから聞いてなかったの?」
「聞いてないぞ、そんなこと………」
相変わらず、飄々とした佇まいの会長の言葉に、俺は溜息交じりに言葉を返す。
多分に、さえちゃんの事だから………俺を驚かすために秘密にしておいたのか、それとも本気で伝え忘れたのか…半々といったところだろう。
なんにせよ、予想外の仲間の訪問は、確かに驚きもあったが………嬉しいことも確かなのだった。久々に、つぐみ寮組が勢ぞろいという事になるのだから。
「わたる〜」
「あ、こら、ちょっと静、ずるいぞ〜! はなれろ〜!」
と、凛奈に対抗意識でも燃やしたのか、成長著しい――――というよりも、ここ数年で見違えるような美少女になった静が、俺に駆け寄ってきて、抱きついてきた。
慌てた凛奈が、静を俺から引き剥がそうと試みるが、逆に意固地になって、ますます抱きつく力を強めるという、悪循環を招いている。
「や、りんなうるさい」
「ほらほら、静も子供じゃないんだから、そういったスキンシップは、人目につかないところでしなさいね」
「って、会長さん! それぜんぜん解決案になってないからっ! 航も、嬉しそうにしてないで離れなさいよっ」
このままだと、凛奈が際限なくキレそうだったので、俺は静の両腕をつかんで、身体に回されていたロックを解除した。
腕をほどかれた静は、凛奈に抱きかかえられるように、俺から引き離される。さすがに少々不満だったのか、静は拗ねたように俺を見返してきた。
「〜〜〜…」
「そんな目で見るなよ、静。あとで遊んでやるから」
「ん………わかった」
まぁ、見た目が変わったとはいえ、基本的に中身の方はさほど変わっていないようで…猫のように気まぐれに、俺の約束にあっさり機嫌を直したのだったが。
そうして、静の抱きつきから解放された俺だったが、一息つく俺を、面白そうに見つめている相手がいる事に、遅ればせながら気づく。
「先輩先輩っ、お久しぶりですっ。なんというか、ぜんぜん変わってないんですね。いろんな意味で」
「それは誉めてるのか? 誉め言葉と受け取っていいんだな?」
「もちろんですよぉ。いつまでも、やんちゃな苛めっ子とでいてほしいというのが、私の先輩への望みというか、願望――――あいたた! 頭、頭をつかまないでくださいっ!」
「はっはっはっ、何を言ってるんだ。宮が望んだことだろう? うりうり」
俺が行う久しぶりのスキンシップに、悲鳴を上げて助けを求める宮。当然、そんな言葉など聞く耳持たないで、俺は宮の頭をつかんだ手に力を込める。
「うああああああ………縮んじゃいますっ。せっかく伸びた背が、背が〜!」
「っと、まぁ、この位にしとくとするか」
だんだん悲鳴が切実なものになってきたので、俺はころあいを見計らって、宮を解放する。
あまりに宮を苛めすぎると…保護者である、さえちゃんとか会長に説教されるので、いつもほどほどにしておくのだった。
「はふぅ………ひどいですよぉ、せんぱい………」
「とか何とか言いつつ、その満足そうな溜息は何だ」
どうやら、いじられ好きな性格は…数年の時が経っても治っていないようだ。一応、見た目はお嬢様として成長してるんだがなぁ。
あらためて宮の姿を見ると…背も、低めとはいえ以前よりも伸びていた。静が著しい分目立たないが…実は密かに成長しているのは、宮も一緒なのであった。
「さて、まだ挨拶をしていないやつがいるな」
くしゃくしゃになった、宮の髪をポンポンと撫で付けて、俺はあらためて視線を転じた。
つぐみ寮のなかで、もっとも目立つことのない少女であるそいつは、他の皆のようにでしゃばる事はなく、おずおずとこちらの様子を窺っていた。
放っておいたら、いつまでもウジウジしていそうだったので、俺はそいつ――――海己のほうに歩み寄った。
「ぁ………航ぅ」
「よう、海己。なんでそんな隅っこにいるんだよ? ったく、いつでも日陰にいるやつだな」
春先の私服に身を包み、おずおずと上目使いで俺を見上げる海己は………しばらく黙っていたと思うと、目元にじんわりと涙を浮かべ始めた。
「航、航ぅ………私、帰ってきた、帰ってきたんだよぉ」
「こら、泣くな、すがりつくな、まったく、いつになったら泣き虫が治るんだかなぁ」
昔と変わらず、泣きながら俺に抱きついてくる海己の背中をポンポンと叩いて、俺は苦笑いを浮かべる。
周囲を見渡すと、会長、凛奈、静、宮と…揃いも揃って、呆れたように微笑んでいた。どことなく、懐かしいよなぁ…などと思ってると――――、
「こぉらぁ〜、星野ぉ〜! いつまで待たせるのよぉ〜」
と、そんな声とともに、波止場にかけてくる人影一つ。海己を抱きかかえたまま振り向くと、そこには自称…島一番の美人女教師の姿があった。
ああ、そういえば――――皆を送るタクシーを手配するために、ちょっと別行動してたんだっけか。
「……………………………わり、すっかり忘れてたわ」
「なぁっ! ひ、ひどいじゃない、星野ぉ………星野に頼まれたから、わざわざ早起きして手配してたのにぃ」
拗ねたように言うと、俺の背中にしなだれかかり、指でのの字を書く、さえちゃん。いい年して、そういう甘えた仕草はどうかと思うんだが。
さえちゃんの行動に、少々驚いたような表情をしたのは、主に会長であった。他の皆はというと、海己の泣き癖と同じように、いつものことだと思っているらしい。
「ちょっと、さえちゃん。航にちょっと、ベタベタしすぎなんじゃないの? あんたの教え子でしょうが」
「おあいにくさま。星野はもう学園を卒業したから、そういった問題は適用されないの〜」
「――――ちっ、考えることは一緒かぁ。こりゃ、うかうかしてらんないわね」
などといいつつ、俺を間に挟んでバチバチと火花を散らす、会長とさえちゃん。
どうやら年上同士、なにやらシンパシィなるものを感じたのかもしれない。俺には全然これっぽっちも、理解不能であったのだけれど。
「あ、沙衣里先生、おひさしぶりです〜! わざわざ、お出迎えに来てくれたんですか?」
「さえり、ひさしぶり」
「お〜、二人ともひっさしぶりだね〜。時々、送られてきた写真は見てたけど、本当に見違えたよね、あんたたち」
と、静&宮の年少組から声を掛けられ、さえちゃんは俺から身を離すと、二人の方に近づいていった。
板ばさみのプレッシャーから開放され、俺はホッと一息つく。そんな俺を見て、凛奈が呆れたような一言。
「で…あんたはいつまで、海己を抱きしめてるつもりなわけ?」
「わ、航ぅ………」
無意識に抱きしめていた俺の腕の中で、海己は息苦しかったのか、顔を真っ赤にしてうなだれていた。
「さて、長々とした話は後に取っておくとして――――それじゃあ皆の再会を祝って、乾杯!」
やはりというか何と言うか、年月が過ぎても実力者のカーストは変わっていないのか、乾杯の音頭を取ったのは会長である。
俺をはじめ、皆が各々にグラスを掲げ、乾杯の声に唱和する。今は夕食時――――俺達はサザンフィッシュに集っていた。
再会の後…会長達とは別行動を取り、俺は海己とともに、実家に戻ると………あらためて、じいちゃんとばあちゃんに海己を引き合わせたのである。
いろいろと、思うところはあっただろうけど、二人とも海己を快く受け入れてくれたので、その点はホッとした俺であった。
その後………自分にあてがわれた部屋の、片づけを始めた海己と分かれ、俺は何となく島のあちこちを見て回る事にしたのだった。
ここ数ヶ月の間、島のあちこちで測量をする建設会社の社員を見かけている。しかし、幸いな事に島全体の開発にまで、工事の手は及んでいなかった。
丘の上に立てられる予定のリゾートホテルが、未だ完成をしていないので、そっち方面まで工事の手を広げる余裕はなかったようだ。
いずれ、目の前の風景は…工事という名目で違うものへと様変わりするかもしれない。そんな予感を感じたのかは知らないが、つぐみ寮の仲間とは、いろんな場所で行き会った。
古びた石段で、サトウキビ畑の真ん中で、潮騒の音が奏でられる海岸で、小さな灯台の遊歩道で、それぞれが、懐かしい出来事を思い返すかのように佇んでいたのだった。
そんなこんなで時間が過ぎ――――ころあいを見計らって、俺はサザンフィッシュに足を向ける。サザンフィッシュに到着すると、他の皆はもう既に、店の中に集っていた。
隆史さん特製の料理がテーブルに並べられ、早急に準備が進む――――予約を前もって入れていたおかげもあり、今日の夕時は貸しきり状態にしてくれるとのことだった。
まぁ、リゾートシーズンの時期でもないため、そういった無茶が出来るのであったが………何はともあれ、そういう状況で現在に至る。
「航君航くんわったるく〜ん、追加オーダーのフルーツサラダにポテトフライ、あと、ジョッキの用意も出来たよ〜!」
「おう、分かった。これ、洗い物類な。隆史さんに渡してきてくれ」
「りょ〜かい、そんじゃよろしくね〜!」
………さて、時間もある程度過ぎて、宴もたけなわといった感じであった。そんな中、俺はボーイよろしくフロアを駆け回っていたりした。
最初の方こそ、食べたり飲んだりしていたんだが、まぁ、なんというか………ウェイトレスの役目をこなしていた茜を放っておけなかったのである。
茜は、顔見知りの海己や凛奈はもとより、他の皆とも仲よさそうに振舞ってはいたのだったが、それでも微妙な遠慮のようなものが双方には存在していた。
隆史さんいわく、時間が解決するものだから、しょうがないらしく、そんなわけで、今日の宴会では、茜は率先してウェイトレスの仕事を引き受けていたのだった。
まぁ、物怖じしない性格だから、宮や静にも積極的に話しかけていたし、馴染むのにそう時間は掛からないだろう。
とはいえ、せっかくの機会である。皆ともっと仲良くしても良いではないか。そう思った俺は、茜の手伝いをしつつ、会長達との間を取り持とうと考えたのだった。
「お〜い、茜。そろそろ食事をしろよ。人手は、俺と隆史さんで充分に足りてるしさ」
「えー、でもでも、茜ちゃんとしては航くんと一緒に働ける時間って言うのは、何物にも代えがたい貴重な時間なんだけど。ほら、初めての共同作業って大切だし」
「――――なにが言いたいのか、よく分からんが…とにかく休んどけ。ほら、俺の座ってた席が空いてるからさ」
そういって、皆の座っているテーブルを指し示す。ちなみに、空いている席は、両隣に凛奈と海己が座っていて、茜としても座りやすい場所だろう。
別段、意図してのものではないが、こういった席順になったのは幸いといえた。
「そうだね。そんじゃちょっとだけ、休ませてもらうよ。…ありがとね、航くんっ」
最後のありがとうには、なんとなく…いつもと違う意味合いが込められているようにも思える。ともかく、エプロンを外すと、茜は皆との輪に加わっていった。
黄色い嬌声が店内を席巻する――――随分と盛り上がっているな。どこか暖かい安心感を感じながら、俺は遠目に、その光景を見つめていた。
茜を加えた、七人の嫁…全員が心ゆくまで笑いあい、楽しんでいる光景は、何ごとにも代え難い貴重なもののように、俺には思えたのだった。
「随分と、盛り上がってるみたいだな」
「隆史さん。悪いね、色々と騒がしくしちゃってさ」
「気にするな。お前達のため――――さらには茜のためだ。断る方がどうにかしてるよ」
そういって快活に笑うと、隆史さんは温かい目で談笑する茜を見つめる。まるで父親みたいだよな…などと、俺はそんな事を考えた。
本当に小さい頃――――父親というものが居なくなった俺は、そういったものに幻想を抱いているのかもしれない。
だけど、茜を思いやる隆史さんの心情は、やっぱり、子供を思いやる親のようなものじゃないかなぁと、そんな風に感じたのも確かだったのである。
「お前には、感謝してるよ。お前のおかげで…ここ最近のあいつは、すごく生き生きしているんだ。これからも茜のこと、よろしく頼むな」
「ああ、分かってるよ、隆史さん。時に、一つだけ頼みたいことがあるんだけど」
「何だ? 金と女の事以外なら、相談に乗るぞ」
実際、隆史さんに相談事というと、九分九厘はそういった事に関してというのを察してか、機先を制するように隆史さんは言う。
まぁ、今回に限りはそういうわけじゃないんだけど――――俺は、隆史さんの目をじっと見据えて、静かに問いかける。
「お父さんって呼んでいい?」
「………どういう意味合いだ、それは」
問いかけたのだったが――――物凄い目でにらみ返されたので、結局、視線をそらす事になってしまったのだった。
「あははははは〜! い〜い気分だねぇ〜、航ぅぅ」
「こら、暴れるなっ! じゃあ、隆史さん、そろそろお暇しますんで」
「おう、車には気をつけて帰るんだぞ」
時は流れて――――といっても、まだまだ宵の口にもなっていない夜の8時頃――――完全に酔っ払った凛奈を背負い、俺はサザンフィッシュを出る羽目になった。
さすがに、ずうっと騒ぎ通しで迷惑を掛けるのも気がひけるので、ひとまず一時お開きにして、帰るなり二次会の会場を探すなりする事になったのだった。
「そんじゃ、海己ちゃんも気をつけて帰ってね。こんど、そっちにも遊びにいくよっ」
「うん、待ってるね」
向こうでは、茜が海己に何かしら話しかけている。と、俺が見ている事に気づいたのか、茜はこちらを見ると、嬉しそうにウインクをしてきた。
その様子を見て、海己がもの言いたげな表情をしているけど――――まぁ、気にすることはないだろう。
「ほら、さえちゃん。しっかり歩きなさい。足元がふらついてるわよ」
「ぅ〜、何であんたはそんなに平然としてるのよぉ、浅倉ぁ」
凛奈と同様にへべれけに酔っ払い、足元がおぼつかない様子のさえちゃんを、なんだかんだ言って、支えてあげているのは会長であった。
向こうでは、アルコールを摂取していない年少二人組が、談笑しつつ先を歩き始めている。
さて、これからどうするべきか――――二次会をするなら、スナックカトレアとかに行くのもいいかもしれないが…とりあえず、歩きながら考える事にしよう。
凛奈を背負いながら、俺は夜道を歩き出す。日が沈んだ海沿いの道――――道行く人を見かけることもなく、俺達はぶらぶらと道沿いを歩いていた。と、
「航ぅ〜〜〜」
酒くさい息を吐きながら、耳元で凛奈がささやいてきたのは、サザンフィッシュから出立して、しばらく道なりに歩いてのことだった。
ぎゅっと、俺の身体に回した腕に力を込め、身体を密着させてくる。凛奈をおぶっている状況であり、回避することは不可能な状態であった。
まったく遠慮なしにもたれかかって来るが、油断してると一瞬でスリーパーホールドに移行する場合もあるので、警戒しつつ、俺は凛奈に応対した。
「なんだ? 気持ちが悪くなったんなら、もう少し我慢しとけ。繁華街まで、もうちょっとかかるから」
「ん〜〜〜、そうじゃなくてさ〜」
「じゃあ、なんだよ」
酔っ払いにまともな会話を期待する方が間違ってるか…と、そんな感想を脳裏に感じていたその時、まったく予想だにしなかった言葉が、耳朶に届いた。
「………好きだよ」
「な」
「え、ええっ!? り、凛奈ちゃん?」
俺の耳元に口を寄せていたが、別段、囁くような小さな声でもなかったため、俺の隣を歩いていた、海己の耳にも凛奈の言葉は届いた。
硬直する海己。俺はというと、どういうリアクションをしたら良いのか見当も付かず、思わず足を止めていた。
俺達の雰囲気の異常さを察したのか、眼前を歩いていた宮と静が、後方でさえちゃんを引っ張りつつ歩いていた会長も、怪訝そうな顔でこちらを見つめていた。
そんな、春先なのに、妙に蒸し暑いような息苦しい感覚は――――、
「あははははっ、やだなぁ、本気にしちゃった? 今日が何の日か、分かってるの? 航」
「今日って…ああ、四月馬鹿か」
俗に言う、エイプリルフール。冗談が許される日だが………たちの悪い冗談はやめて欲しいものである。
「お前なぁ…あんまりふざけたことは言うなよな。まぁ、言われて悪い気はしないのは確かだけど」
「ゴメンゴメン。わかったからさ」
肺に溜まった空気を吐き出すように、溜息交じりの俺の言葉に、凛奈は笑って返答する。って、ちっとも分かっているようには見えないんだが。
「凛奈ちゃん…」
「はぁ………酒の力を借りなきゃ、告白も出来ないなんて、案外小心者なのね、凛奈も」
「ん〜、何のこと?」
「おっと、さえちゃんは知らなくていいことよ。とりあえず酔っ払ってなさいな」
と、足を止めたのがいけなかったのか、いつの間にか、さえちゃんを抱きかかえるように歩いてきた会長に、追いつかれてしまった。
春先とはいえ、夜はまだ冷える。酔っ払い二人を、この寒空の下に居させるのも色々まずいだろう。風邪をひかれたりしたら、大変である。
そんな事を考えていると、俺達が止まったのを察してか…前を歩いていた、宮と静も引き返してきた。
「あれ、どうしたんですか? 先輩?」
「いや、これからどこに行こうかって考えてな。どこか、行きたい店のリクエストとかあるか?」
「わたるんち〜」
まぁ、行ける店となると、カラオケ常備の居酒屋くらいかと思っていたのだが――――俺の問いに静が何の躊躇もなく、挙手をして提案をしたのであった。
「あ、それさんせ〜! 朝まで飲み明かそうよ〜!」
「静ちゃん、ナイスアイディアです! 色々と手間も省けますし………私も賛成ですっ」
と、全面的に賛同の意を即座に示したのは、凛奈と宮である。というか、まだ飲むつもりか、この酔っ払いは。
「おまえらなぁ………まぁ、べつにいいけどさ。じいちゃんもばあちゃんも、反対はしないだろうし」
問題は、あまりに騒ぎすぎた場合、翌朝の朝食の席で…俺がこっぴどく怒られるのだが――――それは言わぬが花というやつだろう。
振り返ると、海己も会長も反対の意志はないようであった。さえちゃんは酔いが回っているから、聞くだけ無駄だろうな。
「それはいいけど、お前ら、泊まる場所は大丈夫なのか? ホテルとか、チェックインの時間とかがあるだろ」
この島にいくつかある、宿泊施設を思い起こしながら、俺は皆に問いかける。
今日から俺の家に住み込む海己と…寝泊りする場所のある、さえちゃんは別として、他の者は旅館なり、ホテルなりに帰らなければならないのだ。
しかし、俺の心配など歯牙にもかけない様子で、会長をはじめ、各々が自信満々に微笑を浮かべたのであった。
「だいじょうぶよ。べつに一泊ぐらい、どうとでもなるしさ」
「そ〜そ〜、いざとなったら…航のとこに止めてもらえばいいんだもんね〜」
「まぁ、私達は最初からそのつもりですけど。ね〜、静ちゃん」
「わたる、いっしょにおふろはいろ〜ね」
口々にそんな事を言う面々。最後の静の提案だけは、承認できるものではないんだが…どうやら皆、俺の家に泊まる気満々のようだった。
まぁ、ひたすらに広い家だし、一人が四人、五人になったって、どうこうなるもんじゃないことも確かだから、別にいいんだが。
「あんたらぁ…教師の前で悪巧みをするんじゃないっ。監督役として、あたしも一緒にとまるからねっ」
酔っ払ってるせいか…真面目教師を自称する、さえちゃんまでそんな事を言い出した。海己は我が家に寝泊りすることは確定してるし、今夜は騒がしくなりそうだな。
結局、二次会は我が家でやる事になったので、俺達は途中の繁華街でビールや食材、未成年用のジュースなどをしこたま買い込んで、帰路に着いたのだった。
「………さて、それじゃあ場所を改めまして、今から二次会を始めたいと思いま〜す。かんぱーい!」
「ってこら、なにを仕切ろうとしてるのよ、宮」
「そ〜だ、少しは年上を敬え〜!」
本家の座敷の間――――、時には親戚一同の会合の場となるそこを借り切って、俺達は宴会を再開する運びとなった。
テーブルの上にはおつまみと酒の缶、ジュースのペットボトルと紙コップが散乱している。
さりげなく、乾杯の号令を挙げようとした宮だったが、さすがにそこはそれ、年長組の面々が許すはずもなかった。
「まぁまぁ、たまにはいいじゃないですか。私としては、世代交代の時のための練習のつもりだったんですけど」
「だぁれが世代交代するって言った? まったく、宮のくせに〜。さえちゃん、こらしめるのを手伝って」
「おぉ〜、まかせなさいっ」
「え、あ、ちょっと………きゃぁぁぁぁぁぁ」
会長とさえちゃん、二人がかりで押し倒される宮。まぁ、とって食われるわけじゃなかろうし、放っておくことにしよう。
「はい、航」
「ああ」
いつの間にか、俺の隣をキープした海己が、酒瓶を差し出してくるので、俺は紙コップを持って海己に注がせるに任せた。
麦芽の香りが立ち上り、泡を含んだ液体が手に持った紙コップに満たされる。幾度となく飲んだことあるそれを…俺は一気にグイッと呷った
「ぁ〜、うめ〜」
「ふふっ」
なにやら幸せそうな顔で、俺を見つめてくる海己。俺はそれに言及せず、空になった紙コップを突き出した。
そして海己は、さきほどと変わらぬ仕草で、酒瓶を傾けて、中身を俺のコップに注いでくるのだった。ある意味、幸せなやつだな、こいつも。
そんな事を考えながら、酒をふたたび呷る視界の隅――――へべれけに酔った凛奈が、静に絡みまくっているのが見て取れた。
「し〜ず、ちょっと見ない間に、随分大きくなったよねぇ。昔はこぉ〜んな、ちいちゃかったのにさ」
「………りんな、おさけくさい、はなれろ〜」
「お、いったな〜、もっとちかづいてやる〜、ほーれ、すりすり〜」
抱き枕と勘違いでもしているのか、嫌がる静に抱きつくと、頬ずりをし始める凛奈。静はというと、心底迷惑そうだ。
と、静の身体をまさぐっていた凛奈の手が、一部分で止まる。そこは、女性の身体で最も脂肪が付いていそうな部分――――胸であった。
「わ〜、静のおっぱいも大きくなったねぇ。前はさ、あたしのを羨ましがって毎回触ってたのに〜」
「やめろ〜、さ〜わ〜る〜な〜」
ドスン、バタンとプロレスごっこでもするかのように、絡む凛奈と、振りほどこうとする静。
割と、あられもない姿になっているのだが、目を逸らすことが出来ないのは、悲しい男のさがというやつだろうか。
「航ぅ、その………あまり見ないほうがいいと思うよ」
まぁ、やんわりと悲しそうに、海がそんな事を言って来たので、俺は視線を逸らして、酒と料理に専念する事になったのだが。
海己の酌で、やんわりと時間を過ごしていると、騒がしかった周囲は潮の引くように静かになっていった。
視線を周囲に向けてみると、先ほど静に絡んでいた凛奈は、酔いが回ったのか、畳に突っ伏して寝入っている。
会長達が、押し倒していた宮はというと…酔っ払ったさえちゃんに、ポニーテールに頭を改造されつつあるところだった。
「のんびりとくつろいでいるみたいね、航」
制裁のつもりらしいその行為を、さえちゃんに任せて、会長が俺の隣に座ってきたのは、そんな周囲の光景を確認した直後である。
俺を挟んで、海己と真向かいに腰をすえた会長は、手に持った発泡酒の缶を一気飲みし、酒精に頬を赤く染めて、俺に笑いかけてきた。
「こうして改めて見ると、航も随分と立派になったものよね…なんて言うのかしら、立ち振る舞いに余裕が出来た感じがするわ」
「そうかな………? 自分じゃ、そんな変わったようにも思えないんだが」
会長の言葉に、首をひねってみる。こうも手放しに誉められると、何か裏があるんじゃないかと勘ぐってしまうのは、副会長時代からの名残である。
しかし、そんな俺の考えは的外れだったようで………会長はただ素直に、思ったことを口にしているだけのようであった。
「ううん、確かに変わったのよ。まぁ、本人とか、いつもずっと一緒に居た人じゃ、分からなかったかもしれないわね」
「あの、奈緒子さん………変わったって、どんな風に、ですか?」
と、俺の隣で言葉を聞いていた海己が、おずおずと会長に向かって質問を発した。どうやら海己にしてみれば、俺は変わったように見えていないらしい。
会長は、考えを纏めるように、額に手を当ててしばし考え込んだ後――――どこか得心したように頷いて、答えを口にしたのだった。
「視野が広くなった…って言えばいいかしら? 今までよりも、周りをよく見ることが出来ているのよ」
今までは、何かをする時は、それしか見えてないことが多かったんだけど、ね。と、会長は繋げる。
要するに、今まで一つのことしか出来てなかったのが、一度に二つや三つ、仕事が出来るようになったと、会長は言いたいらしい。
「まぁ、そう思ったのは、サザンフィッシュでの宴会の時なんだけど………多分、それって茜のおかげなのよね」
「茜ちゃんの――――おかげ?」
この場に居ない、七人目の嫁こと、茜のことを名指しで言う会長に、海己はよく分からないといった風に、小首をかしげた。
「ええ。今の航は…つぐみ寮のことだけじゃなくて、この島のことを思って行動しているわ。それって、昔じゃありえなかったことよね」
「………まぁ、昔はあの寮が、我が家みたいなもんだったしな。実際、無くなったときは凄いショックだったし」
「でも、今は吹っ切れてるでしょ? それって、つぐみ寮とは関係なしの娘が………茜が航を励ましたからに他ならないのよ。言わば、茜は通風口の役目を果たしたのね」
寮という、内に内に籠もる空間から、俺を引っ張り出したのが、茜だと、会長は言った。
「おかげで、随分と成長したのは嬉しいけど、心配事の種が増えたのも確かなのよね。もともと、とっつきやすい雰囲気はあっただろうけど、ますます親しみやすくなっちゃったし」
これからが大変だわ〜。などと、俺にとっては意味不明ことを言う会長。海己は理解しているのか、神妙な顔で何度も頷いていた。
しかし、その事を問いただそうとした矢先――――、突っ伏して眠っていたはずの凛奈が、がばっと身を起こしたのだった。
「あ〜、よく寝た。さ、もう一回のむぞ〜! 航〜、あんたも当然、飲むんでしょうね?」
「おいおい、大丈夫なのかよ………言っとくが、急性アル中になって、救急車を呼ぶのは勘弁してくれよ」
町議員の家で、アル中の患者が出たなんて噂が出た日には、それこそ失脚の原因になりかねない。
とはいえ、それを気にするあまりに酒を断つだなんて強靭な精神の持ち主は、この場には居なかったのであるが。
「だ〜いじょうぶだって。限界くらいは、わきまえているからさっ。あ、ひょっとして、もう限界なの? 航ってば、弱っちいなぁ」
「まて、誰がもう限界って言った!? 見てろよ――――」
俺は、そこいらに転がっていたビール瓶の栓を引っこ抜くと、中身を一気にあおった。苦味のある喉越しの液体が、嚥下されていく。
「お〜、そ〜れ、一気一気!」
「―――――――――っく、ぷはぁっ。 のんだぞっ、次はお前の番だからなっ」
「おーけー、わかってる。見てなさいよ――――んっ、ぐっ、んぐっ………」
俺の挑戦を受けて、こちらも一気飲みをはじめる凛奈。他の皆はというと、俺達の行動に呆れている者達と、喜んでいる者達とで半々であった。
その後の記憶は、酷く曖昧である。なんだか、なし崩し的に始まった一気勝負は、どっちが勝ったかも分からぬままに、いつの間にか記憶が飛んでしまったのだった。
まぶしい光に、目を細める。窓から差し込んできる朝の光の眩しさに、知らず知らず顔をしかめていた。
いつの間にか横になっていたようで、目線は見上げた天井に向いていた――――どうやらここは、俺の部屋のようだ。あの後、どうにかして部屋までは帰ってこれたらしい。
何となく、寝ころがったまま首を動かしてみると――――俺の隣で、下着姿で眠る凛奈の姿があった。こいつは…寝るときは下着になる癖でもあるのか?
「よっ………と?」
とりあえず、眠気ざましい顔でも洗おうかと思い、四肢に力を入れて起き上がろうとしたが――――何故か、起き上がれない。
いったい、どうしたのだろうか? ひょっとして、自縛霊とか何かに乗っかられてるのか………? そんな疑問は、あらためて周囲を見渡すことで、氷解した。
「航〜、起きてる? 朝ごはんのしたく、出来たんだけど」
と、ふすま越しに海己の声が聞こえてきた。寮の時は、いつも俺を起こしに来たのは海己である。
また一緒に暮らすようになったので、朝からさっそく、俺の顔を見に来たらしい。その行為自体は、それなりに微笑ましいが………この状況は少々まずい。
しかし、俺が静止の声を上げるより早く、海己はドア代わりのふすまを開けて、部屋に入ってきたのだった。こういう時、自室が和室なのが恨めしい。
「今日は、いい天気だよ。小春日和って、こういうことを言うのか………な………」
海己の語尾がとたんにしぼむ。まぁ、この状況を見て、平静を保てるなら、それは余程の大物だろう。
しかし、そのまま海己を硬直させたままでは、状況は改善されないので、俺は寝っ転がった状況のまま、海己を見上げて真摯に語りかけた。
「海己、お前の目にこの状況がどう映ってるのかは大体分かる。だけど、これだけは言わせてくれ」
「な、何………?」
「いくら俺が、節操なしといっても、ここまで馬鹿なことはしないぞ。大体、やるなら海己も引っ張り込む」
「そ、そうだよねぇ………あ、はは」
さすがに、あまりにも状況が突き抜けていると、人は怒ったり悲しむより、笑うしか出来なくなるようだ。
………今の海己の状況はまさにそれで――――正直、俺も苦笑いを浮かべているんだろうなぁと、見えない自分の顔を想像した。
「そういうわけだから、こいつらを剥がすの、手伝ってくれ」
「え、で、でも………いいのかなぁ」
そういうと、海己は困ったように俺と………その周りで寝入っている面子を見つめた。
ベッドがあるというのに、何故か床に寝転がった俺。その右腕に抱きつくように凛奈が、左腕には会長が俺の腕を枕代わりに眠っている。
両足には…それぞれ、さえちゃんと宮が、俺の太ももの部分を枕代わりに、のんきに寝息を立てて爆睡中である。
で、静はというと、ちゃっかり俺の腹部で猫のように身を丸めて眠りに付いていた。
幸いな事に、下着姿なのは凛奈だけであり………私服姿の会長とさえちゃん、寝巻き姿の宮と静と、それぞれがそんな格好をしていた。
まぁ、どんな経緯でこうなったかは分からないが――――身体中を拘束されてる今の状況では、身動き一つとれない。というか、よく眠れてたな、俺。
「ずっと、このままって訳にもいかんだろ。朝食の時間も迫ってるしさ。とりあえず、両腕を自由にしてくれりゃ、自分で何とかするから」
「う、うん、ゴメンね、凛奈ちゃん」
海己は口中で謝罪の言葉を呟きながら、俺の腕に抱きついたまま、眠る凛奈を引き剥がそうとする。しかし、簡単にはいかなかった。
というか、寝入って意識のないはずの凛奈が、海己が引っ張ろうとしたとたん、俺の腕に抱きつく力を強めたようだった。
「あ、あれ? あれぇ?」
「海己………お前、非力すぎ」
筋力差というものがあるせいか、海己がいくら引っ張っても、凛奈を俺から引き離すことは出来ないようであった。
もともと、陸上部で徹底的に鍛えている凛奈と………運動神経というものに関して、これっぽっちも適性がない海己とでは勝負にならなかった。
しかし、どうするかな………凛奈が駄目となると、あとは会長の方なんだが――――こっちはこっちで、無理に起こしたら後が怖い気がする。そんな事を考えてると――――、
「おはよ、おはよう、おっはよ〜! わったるく〜ん!」
朝の静寂を吹き飛ばすような、やたら元気な声が、朝一のニワトリの鳴き声のように、家の外から聞こえてきたのだった。
「ん………なに?」
「ふぇ?」
「も〜、なんですかぁ、こんなに朝早くからぁ…」
と、その声が目覚まし代わりにでもなったのか、会長、静、宮と寝ぼけ眼で起きだしたのである。幸い、これで左手が使えるようになった。
ころん、と俺の腹部から静が転がり落ちたので、左手を支えに上半身を起こす。右腕には未だに、抱っこちゃん人形のように、眠っている凛奈が抱きついてはいたが。
「航君、航くん、わったくるんてば〜! うぉ〜い、朝、朝、あっさだよ〜! 毎日恒例の、突撃・星野家の朝ごはんに茜ちゃんが参上したよっ!」
「毎日恒例………って、航、いつも朝はこうなの?」
「ああ、最近はずっとな。おかげで目覚ましはいらないんだが――――」
海己が発した疑問に、俺は苦笑交じりに言葉を濁す。本当に、よく近所から苦情が来ないものだ。普通は、ここまで騒がしいのなら、隣近所から悪評が立つのが普通なのだが。
人徳というか何と言うか――――ご近所づきあいが上手な茜は、すでに朝のモーニングコールを、いつもの事として定着させつつあった。
「ん〜、返事がないな〜 寝てるの、航くん? なんだったら、私が今すぐにでも航くんの寝室に行って優しく起こして――――」
「ちゃんと起きてるぞ! 余計な心配はしないで、早く家に入れっ!」
さすがに、見方によっては酒池肉林に見えなくないこの部屋に…恋人である茜を踏み入れさせる勇気はなかったので、俺は慌てて窓の外の茜に声を掛けたのだった。
「りょ〜か〜い、それじゃあ、おっじゃましま〜す!」
言葉とともに、軽快な足音が聞こえてきた。どうやら、俺の言葉に従って、さっさと屋敷の中に入る事にしたようだ。
さて、それじゃあ早いとこ着替えて朝飯にしないとな。茜が来る時分ということは、じいちゃんや、ばあちゃんも待っているんだろうし――――、
と、そんな事を考えている俺の横顔に、なにやら視線がチクチクと刺さった。見ると、何故か海己がもの言いたげな顔で、俺を見つめている。
「海己、何か言いたいことがあるのか? お前がそういう顔してる時って、決まって不満があるときだよな」
「え――――、あ、な、なんでもないよっ。気にしないでいいからっ」
取り繕うように、そんな事を言う海己。しかし、そんな風に誤魔化しても、バレバレなのだが。
まぁ、問い詰めれば口を割るだろうが、そこまでして追求しなくても構わないだろう。第一、そんな時間はない。
とりあえず俺は、未だ俺の腕に絡みついたまま…暢気に寝息を立てている凛奈を、引き剥がしに掛かったのだった。
「ほら、凛奈………離れろって」
「ん〜〜〜」
不満げな声を上げる凛奈を引き剥がし、俺は何となく開放感を感じて、大きく息をついた。
さて、朝飯を食いに行かないとな――――と、その前に………酒瓶を抱きかかえるようにして、幸せそうに眠る女教師を起こすことにしよう。
他の皆が目を覚まし、茜の声が大きく響くなかで…さえちゃんは驚いた事に、熟睡したままであったのだった。
「朝ごはんだ、朝ごはんだ、朝ごはんだ〜! う〜ん、海己ちゃんが作ったご飯を食べるのも、ひっさしぶりだよね〜!」
「いや、茜は食べたことないでしょ。まぁ、何かの機会で食べたことがあるのかもしれないけどさ」
「ぅ〜〜〜、どうでもいいけど、もうちょっと静かにしてよ〜。頭に響く〜」
全員が起きて、寝巻きから着替えてから、客間に集合する。普段は居間で食事をとるが、今朝は大所帯なので…急遽、宴会用の客間を使う事になったのだった。
並べられた朝食を前に、喝采をあげる茜に、さっそくツッコミを入れる会長。その隣では、二日酔いで苦しんでいる、さえちゃんの姿がある。
ただ一人、早起きしていた海己は、朝食の手伝いをしていたらしく…食卓には、ばあちゃんの作ったものに混じって海己の作ったであろう料理も並んでいた。
「んと、わたるのとなりは…?」
「静ちゃん静ちゃん、こっちに一緒に座りましょうよ。私と一緒じゃ、駄目ですか?」
「ん〜ん、みやのとなりでも、いいよ」
向こうでは、年下の二人が、仲良く座布団に座っている。宮はことのほか上機嫌で、静にあれこれと世話を焼いているつもりのようだ。
………まぁ、それが本当に世話を焼いているのかは疑問であったが――――わざわざ人の卵を割る必要は無いように思えるし。
「う――――あたま痛い…海己ぃ、お水ちょうだい」
「はい、凛奈ちゃん。ゆっくり飲んでね」
まだ酒が抜け足らないのか、鈍痛に顔をしかめる凛奈に、海己が優しく笑って、水を入れたコップを手渡していた。
それは、いつかの懐かしい情景の再現――――つぐみ寮で、毎日行われていた朝の風景は、しばしの空白を経て、ここに甦ったのである。ただ………、
「あらあら、みんな元気ねぇ。こんなに賑やかなのは、久しぶりだわ」
「………」
「ほんと、すいません。朝から騒がしくて――――」
和気藹々とした風景に、喜んでいる婆ちゃんはいいとして、穏やかな食卓を好む爺ちゃんに、俺は平謝りに謝らなければならなかったのである。
そんなこんなで、俺達は朝御飯を食べる事になった。海己が当然のように、俺の世話をあれこれ焼くが、爺ちゃんも婆ちゃんも、何も言わなかった。
まあ、何も言わなかったのは、皆の目もあることだし、いずれ、海己のことに付いて注意されるのは目に見えていたのだが――――それは後の事になるだろう。
「ところでさ、航。今日の予定って、もう決めてあるの?」
さて、食事もひと段落した後、爺ちゃんは近所の寄り合いがあるといって席を外し、婆ちゃんは後片付けのため台所に行った。
ちなみに、婆ちゃんの洗い物を手伝おうと海己が腰を浮かしかけたが、やんわりと断られて俺の隣に座って居る。普段は押しの強い海己だが…今は少々、遠慮をしているようだ。
他の皆はというと――――トイレで席を立つ以外は、誰かが席を外すこともなく、しばしの間…団欒の時間を過ごしていた。
そんな折り、話の合間に俺に質問をしてきたのは――――身体を動かしてないと退屈なのか、手持ち無沙汰にお茶をすすっていた、凛奈であった。
凛奈の質問に興味をそそられたのか、周囲の視線が俺に集中してきた。なにやら、期待のこもった視線を向けられているようで、俺は困惑しつつ、頬をかいた。
「いや………別に今日は、これといった予定は入ってないんだが――――」
そういいつつ、俺は茜に視線を向けた。久しぶりに、こうして皆と会えたんだし…遊びに行くのも悪くないとは思う。
ただ、せっかくの休みなんだし………恋人である茜と、一緒に居るのもありかなー、などと考えてもいたのだった。そんな俺の視線をどう受け取ったのか、茜はというと………、
「あ、そだそだ、そんじゃあさ、今日も皆でどっか遊びに行こうよ〜! おべんと持って、ピクニックなんて楽しいかもしれないよ〜!」
――――と、自ら率先して、そんな事を言い出したのであった。お祭り好きの茜らしい、と思ったが、そう考えたのは、どうやら俺だけだったようである。
他の女性陣はというと、互いに困惑した様子で、目配せをしている。そうして、皆を代表するかのように、おずおずと茜に質問を投げかけたのは、海己だった。
「あの………茜ちゃん。本当に、それでいいの? 皆で行く事になったら、私達が迷惑にならない?」
「ううん、別に。どうしてそんなこと言うの、海己ちゃんてばさ。何をするにしても、大勢でやったほうが、楽しいに決まってるっしょ」
しかし、海己の質問の意図が分かってないのか、ケロリとした表情で、茜はそんな返答を口にしたのである。
これには海己も、ほとほと困ったのか………助けを求めるような視線を、会長に向けたのだった。会長は海己のバトンを継ぐように、茜に対して再度、疑問を投げかける。
「あ〜、そうじゃなくてさ、茜。あんた、航を独り占めしたいとは思わないわけ? 恋人なんでしょ、今は」
「だってだってだって、みんな、航くんと一緒に遊びたいんでしょ? 皆に大人気なのが航くんの魅力だし、そこまで理解のない恋人になるつもりはないわけで〜」
「ほぅ、つまり………私達が航にちょっかい出しても、それはそれで良いってことかしら?」
「う………そ〜言われると、決心が揺らぎそうだけど――――ま、三田村隆史を兄にもつ身としては…多少のことでは、動じないつもりなわけですよ〜」
にやり、と不敵に微笑む会長に、少々引きつりながらも、何とかそう返す茜。う〜ん、ここは傍観するのが得策かな?
下手に茜に助け舟を出すと、やぶ蛇に成りかねない様な気がする………と、そんな事を考えていた俺だったが、そんな俺の考えはつゆ知らず、茜は照れたように言葉を続けた。
「それに変に焦ることもなくても、これからもずうっと一緒に居られるわけだし。私としては航くんと一緒に入れるだけで満足と言うかお腹一杯と言うか」
「………」
「………」
「……………………なんか、すっごい惚気(のろけ)られたような気がするんだけど」
茜の言葉に、非難の視線を向けてくる海己&凛奈と、呆れたように俺に視線を注ぐ会長。って、何で俺に?
「正直な話、付け入る隙があるのか、無いのか分からない組み合わせですよね〜」
「ん? なんのこと?」
「いえいえ、静ちゃんは分からなくて良いんですよ。何も知らな――――純粋なのが静ちゃんの魅力なんですから」
「…あんた、何気に酷いこと言ってない、宮?」
………そんなこんなで、今日皆で遊びに良く事になり――――どこに行くかの押し問答の末、三塚山にピクニックに行く事になった。
いちおう次点として、自転車を借りての南栄生島一周というのも挙げられたが――――体力的に差が出過ぎそうなので、却下される運びとなったのである。
提案した凛奈はしきりに残念がってたが――――まぁ、あと数日は滞在するらしいし、楽しみは今度ということにしよう。
「さて、行く所は決まったな………そういえば、昨日は家に泊まったけど、旅館とかに連絡を入れたりしないのか?」
なし崩し的に…酔いつぶれたせいで外泊扱いになった凛奈たち。まぁ、物騒な島でもないし、ビジネスホテルの人とかも、心配はして無いと思うけど――――、
さっき起きたばかりだし、連絡を入れる暇はなかったのは知ってるが――――確認しておいた方が良いだろう。そんな俺の質問に、凛奈は平然とした表情で答えた。
「ああ、それならだいじょうぶ。あたしの宿泊先、隆史さんのとこだから」
「サザンフィッシュか――――ま、なら大丈夫だな。戻ってこないなら、俺の家に泊まっているだろうって、隆史さんなら考え付くだろうし」
そうなると、あとは会長と静と宮だが――――そういえば、静と宮は、どこに下宿するんだろうか?
俺にとっては可愛い妹ぶんな二人なわけだし、彼女達を預ける相手を見定めるのも、義務と言うものだろう。
………ま、そんな風に俺が気を揉まないでも、滝村さんが気を回してくれてるだろうけどなぁ。
「凛奈はいいとして、静と宮は大丈夫なのか? 下宿先の人が、心配してないか?」
「ん〜、だいじょうぶだよ」
「はい………というか、先輩、まだ気がついてないんですか?」
「?」
何か、宮が気になる事を言ったような気がする。何か、含むところがあるのに、隠しているようなその笑みは――――悪巧みを考えているいたずらっ子の笑みだった。
ふと、朝方の光景を思い出す。俺の身体に纏わり付くように眠るなか…宮と静だけが寝巻きを着ていた。しかし、何かおかしくないか?
サザンフィッシュからこっちに来る時、二人とも間違いなく手ぶらだったはずだ。なのに、何故か二人は寝巻きを着ていたのは、つまり――――、
「えへん。ご挨拶が遅れましたが、昨日よりこの家に下宿させていただく事になりました、六条宮穂と申します。先輩、不束者ですが、これからもよろしくお願いします」
「しずもいっしょだよ〜」
三つ指立てて、まるでお姫様のように頭を下げる宮と、対照的に適当な挨拶をしてくる静。で、一瞬の沈黙の後――――、
「え、ええ〜〜〜〜っ!?」
誰のものか判別しづらい、複数の叫び声が、周囲に響き渡った。ちなみに、叫び声の中には、当然俺も含まれていたりする。
「ちょっ…待て、宮。てっきり俺は、あの別荘を宮が使うんだと思ってたんだが………?」
あの別荘とは、六条家の管理する森の中の別荘――――通常、六条屋敷である。しっかりしたつくりの別荘で、住むには何の問題も無いと思うんだが。
しかし、六条家の一人娘である宮はというと、不満そうに眉根を寄せて俺の言葉に反論してきた。
「はぁ………最初はそのつもりだったのですけど――――なにぶん古いこともあり、看過できない問題が発生したと、滝村さんが言ってましたので」
「看過できない問題って、何だよ」
「さぁ………? なにぶん、専門的なことは分かりませんので。そういうことは、滝村さんに一任してありますし」
嘘だな………直感で俺は、そう感じていた。全面的に宮の味方である滝村さんなら、多少の無茶は聞き入れるだろうし、別荘に問題があるというのは、でまかせだろう。
そんな俺の内心を知ってか知らずか…宮は満面の笑みで、のんびりと言葉を続ける。
「そういうわけでして、早急に別の下宿先を探す事にしたのです。滝村さんの手配してくれた先が、先輩の家だと知ったときは、少々驚きましたけど」
「いきさつは分かった。けど、何で今まで黙ってたんだ? 島に来た時に、いの一番に教えてくれりゃ良かったのに」
「それはほら、黙っていた方が、なにかと面白いと言うか、皆さんも驚いて――――うわわわわ、いた、痛いっ、頭をつかまないでくださいよぉっ!」
さりげなく、宮のほうに身を乗り出した俺に対し――――警戒心ゼロの宮。なので、遠慮なくその頭にアイアンクローをかけた。
情けなさそうに悲鳴を上げる宮だったが、さすがに呆れたのか、誰も助けに入ろうとはしなかった。と、宮の隣で様子を見ていた静が、口を開く。
「わたる〜。しずにも、それやって〜」
………止めに入るかと思ったんだが、いつも見慣れた光景なので、俺と宮がじゃれ付いてると思っているらしい。まぁ、俺にしても軽いスキンシップのつもりではあるが。
とりあえず、どうしようかと数秒悩んだが、なにやら期待するように瞳を輝かせている静を無視するのも悪いので、要請通りにする事にした。
「わかったよ。ほれほれ」
「おぉぉ〜〜〜〜………」
空いてる方の手で頭をつかみ、左右に揺さぶると、何が楽しいのか、静は嬉しそうに声を上げ、俺のなすがままにされている。と、捕獲している宮から抗議の声が上がった。
「あのっ、先輩っ。静ちゃんは、ぜんぜん痛がってないみたいなんですけどっ!?」
「それはな――――愛情表現の差異というやつだ、気にするな」
「うわ〜ん、なんだかすっごい理不尽な気がしますぅっ…!」
情けない声で、嘆く宮。とりあえず、制裁の意味合いを込めて、さらに握力を強めてみた。
「い、た…痛ぁっ! 入ってきちゃう、先輩の指が、入ってきちゃいますっ………!」
「誤解を招きそうな発言はよせ! ったく…最初っから、余計なことをしなきゃいいのに」
「ま、それが宮ってもんでしょ。ほら、茜が驚いてるし、そのくらいにしといたら?」
会長に言われ、俺は二人の頭をつかんでいた両手を離した。宮はホッとした表情で、静は物足りなさげに、頭に手をやっている。
と、一連の出来事をつぶさに見つめていた茜が、興味津々と言った風情に、俺に質問を投げかけてきた。
「ね、ね、ひょっとして、もしかして、やっぱり………航くんってば、Sの人なの?」
「断じて違う」
「や、でもさ、基本的に強引だし、攻めか受けかって言えば、私の脳内でも攻めに分類されるだろうし、ほら、あの時も航くんってば強引に私のこと――――もが」
それ以上放っていくと、とんでもない事まで暴露されそうだったので、俺は慌てて茜の口をふさいだ。
しかし、それが口止めになるかは疑わしい。現に、何人かは茜の発言を気にした表情をしている。
茜は見ての通り口が軽いし、口止めしても無駄なんだろうなぁ――――内心で溜息をついた俺だが、さいわい、年少組もいるので、この場で追求されることはなさそうだった。
「しかし、海己だけじゃなくて、静も宮も寝泊りするのかよ………こりゃ、今日中に部屋を片付けとかないとな」
「え? 別に、航の部屋って散らかってなかったと思うけど…」
「ほら、そこはそれ、えっちな本とか隠してるから、見られて困るのを隠そうとしてるんじゃないの?」
余計なことを海己に吹き込んでいる凛奈であったが、そこはそれ、事実なのでしょうがない。俺とて、健康的な一般男子である。
特に、別の意味で見られて恥ずかしいアルバム類とかは、速攻で物置に放りこんでおくことにしよう。
「しかし、急に寝泊りする人が増えて、大丈夫なのかしら? そりゃ、こんな大きい家なんだけど」
「大丈夫なんじゃないの? それぞれ下宿代とかも支払うだろうし、下宿人が四人くらい増えても大丈夫でしょ。」
さえちゃんの疑念に会長が、あっけらかんとそんな答えを返している。しかし、なんでもない会話だが、ふと引っかかることがあった。
違和感と言っても、大したものではなかったが、聞き逃すわけにもいかず、俺は会長の言葉に口を挟んだ。
「会長、下宿人は四人じゃなくて、三人だけど。海己と、宮と静――――」
「と、あたしね。あ、荷物は今日中に届く事になってるから。あとで運び込むの手伝ってよね」
……………………。
「は?」
あまりにも、さりげない重大発言に、その場にいた皆は、呆れたような声を出すだけだった。先ほど、同じようなことがあったので、それでも驚きは少なかったが。
「ちょ、ちょっとちょっと、浅倉! あんた、大学はどうしたのよ!」
「あ、それなら休学届けを出してきた。ちょっと、忙しくなりそうだったからね」
さえちゃんの慌てっぷりとは対照的に、本人は実にあっけらかんと、そう返答をしたのである。しかし、休学って――――、
まさか、俺の家に遊びに来るためだけに、一年を浪費するようなことはしないだろうけど――――じゃあ、どんな理由なんだ?
「航、あんたが何を考えてるか、当ててみようか? 自惚れるな、あたしがここに下宿するのは、あんたのためだけじゃない。この島のために動くためよ」
「この島の――――ため?」
「そう、リゾート開発ってのは、投資する時間を短くしたいってのが開発側の都合よ。やるんだったら、ここ一年――――…一気にこの島を別のものに変えていくわ」
既に水面下では、次の開発計画が持ち上がっているだろう。それを実行させるか、それとも無謀な投機として断念させるかは、GOサインの出る前が勝負どころだそうだ。
「そういうわけで、星野一誠氏の秘書役として、あたしを売り込んだわけ。もちろん、大学生の小娘ってだけじゃ、説得力ないけど…ゼミの教授のお墨付きも貰ってるから」
爺ちゃんも、この島に愛着はあるものの、開発計画の静止は難航するであろうと踏んでいたのか…会長の参謀役の申し出は、渡りに船だったようで二つ返事で了解したらしい。
会長のことだし、様々な手段をつかって、林中不動産相手に立ち回っていくだろう。
「そういうわけだから、これからよろしくね。いろいろと航にも、手伝ってもらわなきゃいけない事もあるだろうし」
「………また、あんたの補佐役に回されるのか」
「ほらほら、拗ねた顔しない。適材適所ってものがあるんだしね」
思わず顔をしかめていた俺に、会長は笑って応じる。別れから数年を経て、あらためてその笑顔の魅力を垣間見たような気がする。
こうして間近で、会長の笑顔を見せられると――――よっぽどのことでもない限りは、許してしまいそうな自分がいる。
昔惚れた弱みと言うか、いつまで経ってもこの力関係は変わらないもののようで――――それを心地よく感じている自分がいるのも、確かだった。
「はぁ………にしても、浅倉まで休学するなんて――――結局、真面目に大学に通うのは沢城だけなのね………教師としては、勿体無いと思うんだけど」
「あ、ははは………ごめんなさい、先生」
「あ”〜…別に、海己は悪くないのよ。悪いのは、海己をそそのかした星野なんだから」
そういって、俺にじとりとした目を向ける、さえちゃん。どうやら、会長の一件で、かなりの機嫌を損ねているらしい。と、
「何か、あたしも大学辞めて、こっちに帰りたいなぁ…」
などと、凛奈がポツリとそんな事を言い出したのだった。見た目以上に寂しがりやな凛奈は、どうやら疎外感を感じてしまったらしい。
確かに、つぐみ寮組のほぼ全員が南栄生島に戻るとあれば、凛奈が戻りたいなぁと思ってしまうのも、無理からぬことではあった。
「え? りんりんも戻ってくるの? うわ〜、一気に南栄生島の人口が、爆発、増量、特盛りだねっ」
などと、茜は無邪気に喜んでいるが、さすがに喜んでばかりもいられない。何せ、スポーツ特待生である凛奈は、俺と同様に島の有名人なのだ。
いきなり、大学辞めて、島に戻りますって言っても、周囲は納得しないだろう。そういうわけで、帰りたがる凛奈を説得する羽目になってしまったのだった。
「なに言ってんの、あんたには期待してんのよ、凛奈。世論を動かせるくらいに有名になれる才能があるんだもの。それを活かさなきゃ勿体無いじゃないの」
「そうだな。やっぱ、せっかくのチャンスなんだし、大学にいくべきだ――――って、お、おい!?」
「ぅっ、っ………なんで、航までそんなこと言うのよ………」
会長の言葉に賛同した俺だったが、まさか、凛奈が泣くとは思わなかった。どうやら、俺の発言のせいらしい。
しかし、なんで泣くんだよ。別に俺は、凛奈を罵ったり、馬鹿にしたりしたわけじゃないのに………いったいなにが、凛奈の逆鱗に触れたんだろうか?
「わたる、りんなをなかした〜」
「いや、泣かすつもりはなかったんだが………皆も、そんな目で俺を見ないでくれ」
責めるように静が、俺に言葉を投げかけ…他の皆も、物言いたげに俺を見ている。どうやら、俺が泣かしたから、俺が何とかしろということらしい。
「凛奈も、どうしたんだよ。俺が、何か悪い事したのかよ」
「悪いことなんて、言って、ないっ………でも、みんな帰ってくるのに、私は、一人でいなきゃいけないって…」
しゃくりあげるように、凛奈はそう切れ切れに言葉を漏らす。なるほど、やっぱり寂しかったのか。
他の皆も、そういう思いはあっただろうけど、凛奈は格別に、そういう思いが強かったんだろう。何せ、前科もあるし。
「航にとっては、もう、あたしなんて、どうでもいいんだなって…」
「――――なめんな」
「ひっく………ぅぇっ?」
ただ、どうもこういう凛奈は好きじゃない。そういうわけで、俺は慰めることを放棄して、自分の思ったことをぶつける事にした。
「お前なぁ、その程度のことで壊れるような仲じゃないだろ、俺達の間柄は。それに、深刻に考えすぎだっての。ちょっと離れて暮らすくらい、大したことじゃないだろ」
「でも、みんな、島に戻って、一緒に………」
「近くにいるからって、それだけが重要じゃないだろ。少なくとも俺は、凛奈の事をどうでもいいだなんて、一瞬たりとも思ったことはないぞ」
「ぁ………」
そう、かつて一つの共同体――――つぐみ寮で過ごした凛奈は、俺のかけがえのない仲間である。
だから、いくら遠くに離れていても、互いに連絡を取り合って、些細なことで笑いあって、色々なものを共有し続けてきたんだ。
それは…距離だけじゃ、決して引き離すことの出来ない、俺達の造りあげた、絆に他ならない。
「別に、戻ってくるななんて、誰も言うわけないだろ。気が向いたら、いつでも島に来ればいいんだよ。そん時は、全力で歓迎するぜ」
「――――は、あはは………そうなんだよね。それだけのことなんだぁ」
まだ、涙を湛えた瞳で、それでも何かを吹っ切ったように、凛奈は笑う。孤独だったのは、昔の話――――今は、凛奈が嫌がっても、俺達が孤独にはさせない。
「ま、そんなわけだから、安心して大学に行ってこい。凛奈の席は、ずっと空けといてやるからさ」
「うん――――ありがと、航」
数日後には、また別れが待っている。それでも、凛奈は自分の意志で、笑ってくれた。
きっと、ずっと未来の再会の時も…似たような笑顔を見せてくれるだろうと確信できるような、晴れ晴れとした笑みだった。
もっとも、そこで綺麗に締めくくれないのが、つぐみ寮組+αの救いようのないところなのかもしれないが――――。
「う〜、ひょっとして、ひょっとして、ひょっとして、りんりんがライバルになりそうな予感!?」
「航………凛奈ちゃんのこと、やっぱり………」
「うまく説得したのはいいけど………無自覚にたらしこんでるのよね、星野って」
「〜〜〜〜っ」
「ああっ、静ちゃん、おちついてっ。いずれは私達にも、チャンスは回ってきますからっ! 多分…」
「本当に、この旦那様は………こうまで周りを、やきもきさせるなんて…ある意味才能だわね」
「って、綺麗にまとめてるのに、茶化すなよ!」
せっかく、まとまりかけた穏やかな空気は、やいのやいのという周囲の喚声で、ぶちこわしになってしまった。
ただ、凛奈は機嫌を直したようだし、結果オーライ、といえるだろう。そうして再び、客間に穏やかな喧騒が戻ってきたのだった。
そうして、朝の一時を終えた俺達は、一時解散となった。生活用具を運び込んである静や宮、それに海己はともかく、凛奈や会長は、宿に戻るとのことだ。
荷物も預けっぱなしだし、一度着替えてさっぱりしたいのよ――――とは、会長の言である。
同様に、さえちゃんも自分の住処に戻り――――茜は、ピクニックの用意をすると言って、ふらりと何処かに出かけていってしまった。
俺は一人、自分の部屋に戻ると、何をするでもなく、自室の窓を開けた。
ゆったりと空気が動き、温かい風が部屋の中に吹き込んで来る――――冬の季節は完全に過ぎ、南栄生島には早い春の足音が訪れようとしていた。
「それじゃあ、静ちゃん、そっちをもってくださいね」
「わかった。ん………」
「よいょ、っと。わ、わ、きゃぁ〜〜〜!」
わずかだが、ドスン、バタンの言う音と、宮の悲鳴が聞こえてきた。どうやら、部屋の模様替えをしようとして、大変な事になっているらしい。
その光景が目に浮かぶようで、俺が笑いをこらえていると、不意に、ふすまの向こうから声が聞こえてきた。
「航…ちょっと、いいかな?」
「ああ、海己か。別に鍵はかかってないから、入ってこいよ」
俺の言葉に、わずかな間をおいて、ふすまが開く。寮にいたときよりも、住み心地のいい部屋ではあるが、和室で鍵が掛けられない所が難点だった。
部屋に入ってきた海己は、おずおずと、しかし、物珍しそうに俺の部屋を見渡している。俺の部屋の見学に来たんだろうか………観光スポットじゃないんだがなぁ。
「で、どうしたんだ? わざわざ俺のところに来たんだから、何か用事があるんだろ?」
「…うん。お弁当を作ろうとしたけど、よくよく考えたら、材料があんまりない事に気がついたから…一緒に買い物についてきてほしいんだけど――――」
先ほどの席で、ピクニックに行くという話の流れから、海己がお弁当を作る役を任せて欲しいと申し出たのだった。
海己の料理の腕はみんな知っているし、満場一致で可決されることとなり、海己本人も、かなり張り切っていたように見えたんだが………。
やはり、この家の台所を使い慣れていない分、そういった所で細かい見落としがあるようだ。まだ、この家に居ついたばかりということもあり、無理からぬことだろうが。
「あ…忙しいんだったら、別にいいんだよ。でも、できれば一緒にいきたいなぁ、って………」
どこかオドオドとした上目遣いで、懇願するように俺を見つめる海己。ったく、別にいいとか言いながら、目は来て欲しいって訴えているんだから始末に終えないよな。
苦笑をして、俺は開けたばかりの窓を閉める。断る理由も特に思い浮かばなかったし、荷物持ちくらいなら、付き合ってやるとするか。
「別に、構わないぜ。そんなに大量に買い込むわけじゃないんだろ?」
「うん。あ、航は荷物を持たなくても大丈夫だよ。ただ、送り迎えに自転車に乗せてくれれば」
「………そういう事か。スーパー付近は、別に高低差があるわけじゃなし、いいんだけどな」
いちおう、一時解散といっても、三塚山のふもとに集合する時間は決まっている。海己が俺を誘ったのは、手早く買い物に行くために、自転車に乗せてもらうためのようだった。
そうと決まれば、善は急げというやつである。俺と海己はそのまま出かけるために、玄関へと向かう事にしたのだった。
「あら、航ちゃん。海己ちゃんと一緒に、出かけるの?」
と、玄関へと続く廊下で、婆ちゃんに出くわした。同じ家に住んでいるんだから、遭遇しても不思議じゃないんだが、海己は気まずそうな表情をしている。
「あ、あの………みんなでピクニックに出かける事になって、それで、必要なものを買いに、航に連れてってもらうところだったんです」
「ああ、そうなの。車通りはそんなに多くはないだろうけど、気をつけて行ってらっしゃいね」
「――――…」
婆ちゃんの言葉に、海己は無言――――というか、どこか呆然とした表情をしている。
その呆然っぷりは、魂がどこかに抜け出ちゃってんじゃないか…? と、隣にいた俺が思わず心配してしまったほどであった。
無論、海己の異常に婆ちゃんが気づかないはずもなく、どこか戸惑った様子を海己に見せていた。
「あの、どうかしたのかしら…?」
「あ、い、いえっ、なんでもないんです。それじゃあ、その………いって、きます」
「はい、いってらっしゃい」
慌てて答える海己が、微笑ましかったのか…婆ちゃんは微笑を海己に向けると、居間の方へと歩いていってしまった。
そんな婆ちゃんの背中を、海己は今までの付き合いでも、あまり見せたことのない表情で、見送っていた。それは、泣いているような、笑顔。
「なに変な顔してんだよ、お前」
「航………私、行ってらっしゃいって言われちゃった。ちゃんと、返事…してくれたんだよ………」
「ああ、そうだな。って、泣くな。相変わらず、変なやつめ」
そんな変な顔のまま――――その場で、さめざめと泣く海己が泣き止むまで、俺は仕方なしに頭を撫でてやらなければならなかった。
そうして、玄関から出ると、俺は使い慣らした自転車を引っ張り出してきて、それに跨る。海己は、荷台の部分におずおずと腰掛けて、腕を俺の腰に回してきた。
「そんじゃ出かけるからな、しっかりつかまってろよ」
「うん。離さないから…絶対」
「――――? 何を気張ってるんだか…さ、いくぞっ」
言い捨てて、俺はペダルを漕ぎ出す。急な制動に、海己が慌てたように俺にしがみついてきた。
降り注ぐ日の光はまだまだ強くはないが、肌に触れる空気は暖かく、流れる風は春の匂いが混じりだしていた。
桜の香る風を吸いながら、俺はいっそうに、ペダルを漕ぐ力を強めたのだった――――。
あの別れから、二巡り目の春――――色々な出会いと別れ、変化を受けながら、俺達は今も、この南栄生島にいる。
ふたたび集った仲間と、これから出会う人々との第二幕が、そうして始まろうとしていた――――。
この青空に約束を――――茜編・終幕
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