〜それは、日々のどうでもいいような小話〜 

〜運命の日〜



ぐっすりと、深い眠りの中にいた。遠くと近く、過去と現実が混ぜこぜになったような認識――――眠りの中で、何かを思い出す。
いつか…どこかであった出来事、泣きじゃくる女の子、手渡した贈り物、そんな符号を認識しているうちに、目が覚めた。

「………随分、前のことだったな、あれは」

何がきっかけで、思い出したのかは察しがつく。昨日のデートの時…茜と合わせ石の話をした時からだ。
そういえば、昔…夢の時のように、女の子にあの石を渡したんだよな――――もっとも、今の今まで忘れていたのだったが。

「――――ま、いいか、寝よ寝よ」

まだ日の昇らない朝方。未だに眠気のとれない脳に逆らうことなく、俺は再び、身体を横たわらせた。
何であの頃の夢を見たのかは知らないが、眠り足りない今は、とにかく寝ることにしよう………そうして、俺は再び、眠りについた。
この島の行く末………それを決めるといっても過言ではない、町議委員選挙の日――――朝はそうして、何事もなく始まったのであった。



目覚めてから身だしなみを整え、朝の食卓につく――――実家に戻ってから身についた習慣は、休日も変わらなかった。
何しろ、島一番の堅物であるじいちゃんは、寝巻きのまま朝食の席に着くことなど許してはくれないのだった。
そんなわけで、冬の冷たい朝にも関わらず…冷たい水で顔を荒い、歯磨きも終えて、眠気を吹き飛ばしてからの朝食となった。

「じいちゃん、おはようございます」
「うむ」

仏頂面のしかめっ面。何がそんなに面白くないのかという風情の表情だが、いつも見慣れているせいで、今日は機嫌が良い方だと、何となく分かった。
既に、三人分の食事が出来ている朝食の席………ちなみに、平日では茜も入れて四人分の食事が並ばれる食卓で、俺はいつもの自分の座る場所に腰を落ち着ける。
と、そのタイミングを計ったかのように、台所から、淹れたてのお茶をお盆に持って…ばあちゃんが姿を現したのだった。

「おはよう、航ちゃん。よく眠れたかしら」
「はい、おはようございます」
「………そう。それは良かったわね」

じいちゃんの手前、ばあちゃんにも丁寧な挨拶を返す俺。婆ちゃんは、俺の表情をつぶさに観察すると、安堵したようにホッと息をついた。
どうやら、昨日の夕食の席、俺が元気のなかった事を気にかけていたらしい。心配させてしまっていたようだ………少し反省。
ともあれ、今日もいつも通り――――のんびりとした風情で食事を開始する運びとなった。

「あ、そうそう航ちゃん。今日のお昼は、分家の人達との会合があるんだけど――――航ちゃんのお昼ご飯は、どうしましょうか?」

食事の途中、ばあちゃんがそんな事を言って、俺に話を振ってきた。
今日は、いよいよ町議選当日――――即日投票と言うこともあり、大人たちは皆、朝から晩まで忙しいらしい。
星野の一族も、こぞって雑務やら何やらの手伝いをすることになり、じいちゃんもばあちゃんも、今日は忙しいとの事だ。

で、俺はというと未成年であり…選挙権もない。普段からすれば、今日とて大したことのない一日になるはずだった。
ただ、俺がたき付けた結果で、じいちゃんの出馬が決まったこともあり、ただ傍観するのも個人的には良しとは思わなかった。

「その事なんですけど、俺も会合に出ていいですか? いずれ、じいちゃんの跡を継ぐんだし、分家とも顔合わせしておいた方がいいと思うんですが」
「ああ、そうね。それもいいかもしれないわね…ねぇ、おじいさん」
「む………まぁ、お前がそういう分には構わんが――――いいのか? せっかくの休日だ。分家の連中と面をつき合わせても、退屈なだけだと思うが」

と、賛成するばあちゃんに対し、じいちゃんはというと、渋い顔をしている。
どうも、俺がその会合とやらに参加するのを渋っているようだった。まぁ、会合といっても、酒も入るだろうし――――分家連中が何を言うか判らないせいもあるだろう。

「だいたい、顔合わせなどしなくても、お前の顔を知らぬものなど、この島では赤ん坊くらいだろう。名前を広める必要ももはや無いくらいにな」
「………」

暗に、ここ最近の俺の活動を揶揄しているのか、それとも誉めてくれるのか…微妙なニュアンスでじいちゃんは言う。
まぁ、俺も思いつきで言ったことだし、じいちゃんがそういうなら、会合に出なくてもいいのかもしれないな。

「なら、お言葉に甘えて止めとくことにします。せっかくの休みだし、昼は茜の家で食べることにしますよ」
「ああ、三田村さんのお店ね。それじゃあ、お昼のご飯代、あとで渡すことにするから…茜ちゃんと仲良くしてきなさい」

茜の家――――ペンション、サザンフィッシュの事は、ばあちゃんも周知のことで、そんな事を言ってきた。
俺はというと、昼飯代が浮くのは嬉しかったが、茜と仲良く、という部分が気恥ずかしかったので、反射的に断りを入れてしまう。

「いや、いいですよ。あそこは馴染みの店だし…ツケが効くから」
「何を言っとるか。子供のうちから借りなんぞ作るものじゃない。いいから、取っておきなさい」

が、言い方が悪かったのか、じいちゃんに怒られてしまった。まぁ、ツケって言ったけど、考えるとけっこうな額になってるよな。
俺が大人になったら、いずれ返さなきゃいけないんだよな――――まぁ、出世払いでいいって、隆史さんは言ってくれているけど。

「………はい、そうすることにします。じゃあ、昼頃は茜の家にいますけど…もし何か連絡することがあったら、サザンフィッシュに電話してください」
「ええ、茜ちゃんにも、よろしく言っておいてね」

ばあちゃんの言葉に、俺はこくりと頷いた。ともかく、朝飯を食ったらサザンフィッシュに行くとしよう。
茜が居てくれりゃいいけど――――ま、行ってみりゃ分かるか。朝飯をかっ込みながら、俺はのんびりとそんな事を考えていた。



一休みをしてから、俺は実家を出て、港経由で茜の家に行くことにした。
用事もないことだし………ゆっくりと散歩をしながら道沿いを歩く。港の近くにあるヨットハーバーで足を止めて、しばし潮騒の音に聞きいっていた。
そんな事をしながら、目を閉じると――――ふと、この場所での俺と茜との思い出がよみがえった。

っといっても…思い出したのは、夏祭りのあの夜のことではなく――――夏の夕暮れ、レオパルドンを連れた茜とのたわいもない会話だった。
あの頃は、互いに互いのことを、友達以上の親友とは思えても、恋人として考えることは出来なかっただろう。
だけど、いつの間にか、俺は茜のことを好きになり、茜も多分、俺の事を好きになっていて――――恋をしてしまっていた。
どちらが先か――――卵か鶏か………なんて、不毛な議論に興味はない。ただ、互いに好き逢えたのは、とても喜ばしいことだろう。

「さて、こうしていても仕方ないな。とっとと行くとしますかね」

自分に言い聞かせるように呟くと、俺はサザンフィッシュへ繋がる道をのんびりと歩き出す。
サザンフィッシュに茜がいれば問題ないが、いなくてもそれはそれで構わない。焦る必要は…多分ないんだから。



のんびりと、アスファルトの道を歩いていると、通りの向こうからは見慣れた軽トラが走ってきた。
トラックの運転席には、人懐っこい笑みで、歯の欠けた笑顔を見せるおっさん――――吾郎さんの姿が見える。

「よ〜、航! 朝っぱらから散歩か?」
「ああ、吾郎さん、おはよう。吾郎さんは、今から銀行に行くのか?」

足を止めた俺の隣に軽トラを横付けする吾郎さんに、俺は問い返す。ちなみに――――吾郎さんに言った『銀行』とは…この島唯一のパチンコ屋のことだ。
いつも預けてばかりであり、いっこうに降ろせないのだが、吾郎さんは懲りずに良く通いつめているのである。

「ああ、今日こそ貯金をおろさねえとな! それはそうと、ついさっき、投票してきたぜ、航んとこのじっさまにな!」
「吾郎さん――――そか、ありがとう」

まずは一票、か――――小さな島なので、住民の一票一票の重みは大切だ。なにより、知り合いがそうして応援してくれているのは、心強いものだよな。
失礼なこと考えて、ごめんよ、吾郎さん。と、内心で頭を下げるが、当然伝わるはずもない………面と向かって感謝するのも気恥ずかしいし、これでいいだろう。
そんな、俺の心情を知ることもなく、吾郎さんは思い浮かべるかのように、首をかしげながら感慨深げに言葉を続ける。

「投票場には、けっこう人がいたぜ。ま、爺さん婆さんの、朝が早いからなのかも知れねぇが――――やっぱ、注目されてんだよな。今回の選挙は」
「………」

吾郎さんの話では、朝一番で会場に行くと、同じように朝一に投票場に来た人が、何人もいるそうだった。
永森屋商店のばあちゃんや、神山工房の淳二さん…他にも様々な人が来ていたらしい。
島の人達が誰に投票するかは分からない。だけど、そうやって真剣に選挙に投票してくれるのは、喜んでいいだろう。
俺や雅文、茜や紀子のやってきたことも、無駄ではなかったんと思う――――結果がどうあれ、思い残す事が無いくらいには頑張ったんだから。

「ま、後は結果が出るまで待つだけなんだ。じたばたしないで、でーんと構えてろよっ!」
「ああ、分かってるよ」
「そんじゃ、俺は行くからな! 寄り道してた分、頑張って稼がないとよっ!」

そういうと、吾郎さんは…ぶろろろ…と軽トラに乗ったまま、道の向こうへと遠ざかっていったのだった。
未成年の俺は、実際に選挙には参加できない。けど、俺の…俺達の想いは、たぶん島の皆に伝わったと期待していいのだろう。
あとは、開票を待つだけ――――この島の大人達の考え、それがどんな結末を迎えるかは………俺には、まだ知る由もなかったのである。



島の外周に沿った道を歩き――――俺は昼前になってようやく、茜の家でもあるペンション、サザンフィッシュに到着したのだった。
青い屋根に、白いペンキで染められた壁…水色の、多分イルカをモチーフにした看板が掛けられた一戸建てのペンションだった。
しかし、随分と久しぶりのように感じるよなぁ――――文化祭の一件以来、ちょうど一ヶ月くらいか。
ほんの少し、腰が引けてしまうが――――わざわざ、ここまで歩いてきたんだし、引き返すのはどうかとも思う。

「………よし」

小さく、気合を入れるように掛け声を付けると…俺は意を決して、ペンションの中に踏み込んだのだった。

「いらっしゃ――――…航!」
「あ〜、ども、お久しぶりです」

昼前のサザンフィッシュ、食事時にはまだ早いのか………店内にはカウンターに一人、ペンションの主である隆史さんが居るだけだった。
最初は、驚いた顔をしていた隆史さんだったが、ふっと相好を崩すと、いつもの俺の知っている飄々とした仕草で、カウンターを指差した。

「久しぶりだな。まぁ、座れ――――雅文や、茜から話だけは聞いていたが………元気そうで何よりだよ」
「それじゃ、失礼します。――――あの、茜は?」
「レオパルドンの散歩。弁当を持って出かけたから………夕方まで、帰ってこないかもしれないな」

レオパルドン――――隆史さん達の飼っている犬であり、だれかれ構わず人懐っこい、グラサン犬である。
飼い主に似たのか、行動力のある犬で、さえちゃんが毎度、絡まれてはあられもない姿を披露するのが、常であったりした。
そっか、茜は出かけてるのか――――出された水を飲みながら、俺は、どうするべきかで頭を悩ませた。
茜を探しに行くべきか? でも、どこに行ったかは分からないし、ここで待ってる方が得策かとも思える。

「それはそうと、お前に聞いておきたいことがある――――分かってるよな?」

そんな事を考えていると、不意に、隆史さんが俺に声を掛けてきた。

「それって、やっぱり茜のことで…?」
「ああ、昨日家に帰ってきてから、妙に様子がおかしいんだ。まぁ、正確に言えば、ここ最近は少し変だなーって思うこともあったんだが」

心配そうに、溜息をつく隆史さん。そうしてすぐに、表情を険しくして…探るように俺に剣呑な視線を注いできた。

「お前、茜に何かしたんじゃないだろうな? 去年の夏、バイトに雇う時約束しただろ? 茜のことはあきらめるって」
「ああ、そう言えば…そんな約束したっけか? けど、あれは去年のバイトの期間中の約束なんじゃ?」
「なに言ってやがる! そんなわけないだろ………まさか、茜に手を出していないだろうな?」
「………」

何となく、違うと嘘をつく気にもなれず、沈黙をする俺。その沈黙をどう受け取ったのか、隆史さんは憮然とした表情で肩をすくめた。

「………ま、さすがにそれはないか。もし、そうだとしたら…雰囲気で分かるだろうしな」
「そんな風に見えないってことか――――」
「そうだ。お前と茜の関係って、他の娘達と似通っている節があるんだよな。ほら、六人の妻――――いや、茜も入れて七人の嫁って言えばいいか」

恋愛の達人である隆史さんからみても、お世辞にも俺や茜の身にまとう空気は、恋人持ちとは言いがたいものだったらしい。
それは、性別を超越した仲間意識というのだろうか――――仲はいいが、それ以上には成り得ないそんな位置づけ。
だけど、俺はあえて、そこから外れようとしているのだ。そのためには、茜の保護者である隆史さんの、了承を取り付けるのが筋だろう。

「隆史さん、俺は、茜と付き合いたいって思ってるんだけど………真剣に」
「――――お前、俺の話を聞いてるのか? 許すわけないだろ、茜の保護者の俺が!」
「ああ、分かってるって。でも、言っておかないと卑怯だと思ってさ。事後承諾じゃ、格好つかないだろ?」

言い出したら聞かない俺の性格を知ってか、隆史さんは眉根を寄せて、深い深い溜息をついた。

「止めても聞かないんだろうなぁ………まぁ、お前一人の気持ちじゃ、どうにもならないだろうけど。恋愛は、一人じゃ出来ないんだし」
「じゃあ、俺が茜に告白するのを、認めてくれるのか?」
「認めるわけない! が、茜のしたいようにさせてやりたいのも事実だ。正直、この島の男の中じゃ、お前さんが一番マシなのも確かだしな」

だから、茜がそう望むなら、遺憾ながら叶えてやりたいのも兄として正直な気持ちだ………などと、口中でぶつぶつと呟く隆史さん。
言葉の内容は兎も角、表情が未練たっぷりなのは、妹思いのせいというべきか、単なるシスコンなのかは判別しづらい。
ともあれ、その様子を見る限り、絶対に駄目というわけではなさそうだった。なんだかんだ言って、俺にも茜にも甘いよな、この人は。

「だが、付き合うにしても清く正しい交際じゃないと駄目だ! 嫁入り前に、破廉恥な噂を広めさせるわけには行かないからな」
「それって、男女のABCも禁止?」
「………古臭い例えだが、そういうことだ。せいぜい、手を繋ぐ位にしてくれ――――俺の精神の安定のためにも」

切実な表情で、そんな事を言う隆史さん。もし、既に俺と茜がキスや…エッチしていたことを知ったら、憤死しかねないだろう。
これは、茜にも口止めするべきだろうか? ただ、口止めをしようとして、ついうっかり茜が口をすべらることもありえそうだ。
今の所は、ばれてないみたいだし………しばらくは放置しておいて大丈夫だろう、多分。

さて、そんな事を考えながら、ふと腕時計に目を通すと、時間は昼を回っていた。
とりあえず、腹ごしらえをしながら、午後の時間をどう潰すか決めることにしよう。

「さて、そんじゃ隆史さん………注文だけど、半熟オムライスを一つね」
「はいよ。ちょっと時間がかかるから、待っていてくれよ」

そういうと、隆史さんは奥にある厨房へと引っ込んでいく。俺は、カウンターの右手にある大窓から、外の様子を眺める事にした。
冬の青空が、窓の外に広がっている。今日も天気は快晴――――降水確率は0%で雨の降ることは無さそうだった。
のんびりと、外の風景を見つめていると、店内にいい香りが漂いだした。卵の柔らかな香りは、オムライスの放つものだろう。
そんな事を考えていると、厨房から隆史さんのさりげない声が、俺の耳に届いてきた。

「そういえば、茜が出る時…言っていたな。ちょっと一人で考えたいことがあるから、遠出するって」
「え、隆史さん、それって――――」
「多分、人の少ない場所に行ったんだろうな。この時期だと、鏡ヶ瀬海岸あたりをぶらついてるんじゃないか?」

注文の品、半熟オムライスを持って、隆史さんが戻ってきた。俺がそんなに驚いた顔をしていたのか、隆史さんはおかしそうに笑いながら言う。

「どういう結果になるかは分からないけど、恋愛は即行動あるのみだからな。やるだけやってこい」
「隆史さん――――」
「距離があるから、自転車かなんかを使って行けよ。あ、もし行き違いで茜がこっちに戻ってきたら、携帯に連絡入れるから、持ってくのを忘れずにな」

優しい言葉を掛けてくれる隆史さんに、返す言葉が見つからず、俺は黙って頭を下げた。
小さい頃から、本当にこの人には頭が上がらない………ありとあらゆる面において、俺がずっと、尊敬する人の一人だった。

「ほら、早く食えって。せっかくの出来立てなんだからな」
「うん…」

久しぶりにサザンフィッシュで食べる昼食は、どこか懐かしくて――――何故か、涙の味もしたのだった。



そうして、実家に一度戻って自転車を調達すると………俺は島の東側にある海岸に向けて、ペダルを漕ぎ出したのだった。
冬とはいえ、日の最も高く上る午後二時――――肌を切るような風も多少はマシに感じる時間――――俺は…遮二無二、自転車を進め続ける。
出水川重工のビルの前を通り、左手にさとうきび畑、右手に空港を見ながら、島の外周へ至る道にさしかかった。

島を取り囲むように、曲がりくねって伸びている道を駆け抜け………途中のつり橋を渡り、島の東端にある鏡ヶ瀬海岸にたどり着いた。
真冬のこの時期、わざわざ海を見にやってくる者も皆無なのか、海岸線に人影は見えなかった。

「茜は、ここには居ないのか………?」

自転車を公道脇に立て掛けて、俺は砂丘へと足を踏み入れた。陽光の煌きが、砂を白く輝かせている。
誰か、可愛い美少女でもいれば、随分と絵になる光景なのだろうが――――あいにく、見渡す範囲には人っ子一人見えないのであった。
ふと、心づいて周囲の砂を見渡す。今日は風も弱く、穏やかな日だ。俺の後ろには、砂を踏みしめて出来た、自身の作った足跡がある。
しかし、それ以外、足跡らしきくぼみは見当たらなかった。つまり、ここしばらくは、この海岸に足を踏み入れたものは居ないという事だろう。

「やれやれ、隆史さんの予想も、当てにはならないよなぁ」

溜息混じりに呟き、俺は空を見上げた。もっとも、非難できる立場でもないので――――溜息を漏らすだけにとどめたのだけれど。
しかし、それじゃあ茜はどこに行ったのだろうか。一人になりたいといっていたのなら、この海岸はうってつけの場所なんだが。
他に、人の目も気にすることなく、一人で物思いに耽れる場所っていうと――――…一つ、思い当たる場所があった。

「ひょっとして、夢見灯台の方か………?」

鏡ヶ瀬海岸と同様に、夏の間は観光スポットとなる場所だが、この時期は人が訪れることもまれな場所だ。
島の南西にある灯台は、この海岸よりも、サザンフィッシュに近い。何か乗り物に乗ってるならまだしも、犬を連れた散歩というのなら、そっちに居る可能性の方が高いだろう。
ひょっとしたら、意表をついて三塚山の山頂辺りにいるかもしれないが――――、そこまで考えたら、それこそきりがないだろう。

「…ま、ここには居なさそうだし、灯台の場所まで行ってみるかな」

俺は、足元に絡む砂に辟易しながら、公道に戻る。そして、立て掛けてあった自転車に跨って、ゆっくりとペダルを漕ぎ出したのだった。
海岸線の道は、島を囲むように長く伸びている。道沿いに行けば、夢見灯台まで迷うことなくたどり着けるはず――――なのだが、途中でちょっとしたトラブルが発生した。



「おや………?」

道を引き返す途中、俺は自転車を漕ぐ足を止めた。島の外周には、切り立った崖の上を通る吊り橋がある。
新しい鉄製の車道用の橋と、古くからある、木造の吊り橋――――主に歩道用となっているその吊り橋の上に、小さな人影があったのである。

「あれ、航君だ航くんだわったるくんだ〜!わ〜、こんなとこで出会っちゃうなんて奇遇?運命?それとも必然なのかな〜?」
「茜………と、レオパルドンも一緒か」

何のことはない、わざわざ灯台に行く必要もなく………途中の道で昨日の夜に分かれた少女と、俺は再開を果たしたのだった。
車道の脇に自転車を置き、俺は木製の橋に足を掛ける。相変わらず、人懐っこいレオパルドンがじゃれ付いて来る一方で、茜もまた、負けず劣らず人懐っこい笑みを浮かべてきた。

「それで、どしたのいったいこんなところで? 私はレオパルドンの散歩でこれから島を一巡りしようかと思ってたんだけど」
「いや、さすがにそれは無謀だろ。サザンフィッシュにつく頃には、日付が変わってるぞ」

実際、この島の北東部は高低差が激しく、正直自転車でもきつい。歩きではそれこそ、何時間かかるか知れたものではなかった。
そんな俺の心配はつゆ知らず、茜はいつも通りのハイテンションで、やたら能天気に楽観論を口にしたのだった。

「あははは、大丈夫だよ。携帯だって持ってるし、まさか遭難なんてしないだろうし。いざとなったら航くんが助けに来てくれるよ」
「お前な、俺を過剰評価しすぎ。大体、俺は茜が思っているほどの超人じゃねぇぞ」
「そんなことないよ。航くんはいつだって茜ちゃんのヒーローなんだから。十年前だって――――とと、いけないいけない」

何かを言い出そうとした茜は、慌てたように口元を押さえた。いったい、何を言おうとしたんだろう?
まぁ、今はそんなことより、昨日のことを聞かないといけない。そうしないと、わざわざ茜に会うように促してくれた隆史さんに申し訳が立たないというものだ。

「とにかく、出会えてよかったよ。正直、昨日の夜のこと…気になってしょうがなくてな」
「ん〜、そか。それで私のこと汗だくで探してくれたんだねっ。感激だなぁ、嬉しいなぁ、愛されてるって思うよっ!」

はしゃいで犬を繋ぐ紐………リードと呼ばれるそれをぶんぶん振り回す茜。その先にあるレオパルドンは特に迷惑そうなそぶりも見せず、橋の上で寝転がっていた。
俺はそんな茜をじっと見つめている。すると、さすがに少しは照れが入ったのか、茜はいつもより少し大人びた笑みで――――、

「それじゃ、少し話そっか? あらためてお話しようって私が言うと、なーんか変な感じがするんだけどね」

そういうと、木で出来た吊り橋の手すり部分に手を沿え、空の彼方を見る茜。それに倣い、俺も茜の隣で、似たように空を見上げた。
ちなみに、ここは入り江に近い、切り立った崖――――大きな川の真上である。揺れるのは何となく我慢できるが…わざわざ下を見る勇気は、さすがになかった。

「お前さ、ここ最近、日が暮れるとすぐに帰るんだよな。最初は気づかなかったけどさ、あれってやっぱり、意味があるのか?」
「あー、やっぱり気づいちゃってたんだ。まぁ、そうだよね…若さ爆発の航くんだもん。たまには二人っきりで夜を過ごしたいとか思ってるんだよねっ」
「いや、俺を発情期の小僧のような扱いにするのは止めてくれ。まぁ、茜と一緒に夜いちゃつきたいなんて――――毎日思っているわけなんだが」
「うわ、大胆発言!? でも、そうやって堂々と恥らうことのなさが男らしいと、茜ちゃんポイントに追加されるわけなんですけど」

照れながらも、嬉しそうに笑う茜。というか、いつ付けてたんだ茜ちゃんポイントって………思い付きの発言のような気もしないでもないが、茜なら本当に付けてそうな気もする。
茜を横目で見る。めっきり冷え込んだ南栄生島で、冬の風を受けてもこれっぽっちも気にしていない風に、活き活きとした表情を見せている。
厚着をしているとはいえ、やっぱり寒いこの時期――――…子供は風の子の例えが、この島で一番似合う女の子であるといっても過言ではないだろう。

「でも、ゴメンね。なんだか最近…時々、妙な気分になっちゃうことがあって、そういう時は航くんから離れてなくちゃ駄目なんだ〜」
「妙な気分、って――――ムラムラってなったり、身体が熱くなったり、心臓がドキドキしたりするのか?」
「おお、凄いね航くん! ずばりその通りなのっ。今日の航くんって冴えてるねっ。エスパー星野って呼んでいい?」
「却下」

一言で茜の申し出を跳ね除けて、俺は昨夜、会長に言われたことを思い出した。
おそらく、会長の予想は正しかったのだろう。茜は…物凄く遅めの思春期にどうしていいのか分からず、戸惑っているようだった。
今はこうして普通に話しているが…些細な事で、俺と茜の距離は近づくか遠ざかるかするだろう。俺としては近づきたいと願っているのだが…茜は、今のままを望んでいるようだった。

「あのな………それくらい誰だってなるんだから、わざわざ離れなくてもいいんだよ。付き合ってんだろうが、俺達」
「う〜………、でもでもでもぉ、やっぱり無理っぽいんだなぁ、これが。私ってば何か最近情緒不安定というか、挙動不審というか、落ち着きが無いというか」
「いや、最後のはいつもだろ。大体、落ち着いた風貌の茜なんぞ想像できん」
「うわ〜ん! それって私が、まるっきり大人じゃない発言っ!?」

俺の言葉に、思いっきり嘆く茜。といっても、泣き顔なんぞ長く続くような性格じゃないのも確かなのだが。

「とにかく、そこまで意識する必要も無いだろ。普通に俺の隣に居りゃいいのに、何でわざわざ距離を置こうとするかな」

海己みたいに………とは、さすがに言わないでおく。茜のそれは、海己みたいに悲壮感に漂った行為ではないし、引き合いに出すのも気が引けたからだ。
俺のそんな言葉に、茜は泣き顔からふと真顔に戻る。そうしてポツリと、何かを持て余すかのように呟いた。

「だってだってだって〜、そういうときの私って、何か変なんだもん。さえちゃんが航くんと話すだけでも、そわそわイライラむかむかしちゃうし、もっと航くんに近づきたいと思うんだもん」
「………お前」
「でもさでもさ、そういうのって、うざいって思われるかもしんないじゃん? 茜ちゃんとしては、航くんにはそう思われたくないんですよぉ」

それは、年頃の少女らしい、控えめな考えで――――茜には似合わなそうな、心情の吐露。

「航くんはさ、なんだかんだいって、いつもの私が好きなんだし…私が私で無くなっちゃ、航くんは好きで居てくれないんじゃないかって思うんだ」
「茜が、茜でなくなる…」
「そ。航くんの私の位置づけは、付かず離れずマブダチで! 多分きっと、それが私のベストポジションだと思うんだよ」

そういって、茜は満足げに笑う。それで充分に、自分は幸せだと。そんな風に茜は笑っていた。
ふと――――昨日の夜…苦しそうに、切なそうに、悲しそうな顔をした茜を思い出した。それで、良いわけないだろうが。

「それは、お前の思い込みだろ。ただ単に、今の場所が気持ち良いから、そこを動きたくないだけだろ」
「でも、航くんだってそう思うでしょ? 私が、今よりもっともっとも〜っと、べたべたに纏わりだしたら、多分退くと思うよ」
「そりゃ分からん。意外に、それはそれでありかも知れんぞ。何事も経験だ。なに、最初は痛いだろうが、すぐに慣れるさ」
「う、何か言い方がエロくなったような気がするんだけど。びっみょ〜に雰囲気が…って、わっ!?」

敏感に雰囲気を察したのか、身を離そうとする茜の手をつかむ。茜は最初、驚いた顔をしたが、俺がそれ以上は動かないことを知ると、ホッとしたように息をついた。

「も〜、びっくりするなぁ。驚かせないでよ、航くん」
「そういうな、俺としては最大限の譲歩だぞ。何しろここ最近、おあずけばっかりだったからな。昼間じゃなきゃ、ひん剥いて色々としたいくらいだ」
「航くんてば、エロすぎだよ…そんなんじゃ、女の子に嫌われちゃうよ?」

口でそう言いつつも、何気に嬉しそうに俺の手をニギニギと握り返してくる茜。こういうスキンシップは、嫌いじゃないらしい。
ああ、何かこいつに触れてると、やっぱり落ち着くよな――――茜と握り合った手の先から…暖かい、落ち着いた気持ちが流れ込んでくるような気がする。
それは、何か欠けたものが補われるような、合わさるような、逢うような………そんな感覚。そんな暖かさを全身に感じながら、俺はあらためて茜を見て…言った。

「俺がエロいのは、茜だって分かってただろ? 大体、キスだけじゃなくて、その先だってやった関係だろうが、俺たち」
「わ〜わ〜わ〜! てぃ〜ぴ〜お〜を考えようよ航くんっ! それに、やったっていっても航君主体で、茜ちゃんは初心な少女のように流されてるだけだし〜…」
「………まぁ、な。改めて考えると、その辺りが問題だったんだな、俺たち」

そう、スキンシップは別として、抱き寄せるのもキスをするのも、俺のほうから行っていた。茜は、そんな俺の行為を受け止めて、それだけで満足していた。
だから、好きって気持ちが大きくなった時、自分に自信がもてなくなったんだろう。相手に対し、なにをして良いのか、いけないのか。
普通の恋人どうしなら、知りえているはずの感覚を、茜は知らずに今に至る。だから、互いの距離が縮む瞬間に、不安に駆られ、離れようとしたのだろう。

「…航くん?」
「茜、お前はもうちょっと、わがまま言ってもいいんだぞ? 海己なんて口でゴメンねって言っても、自分の意見を曲げなかったんだ」

しみじみと、俺は茜に優しく語りかけた。冬の季節は、日の落ちるのが早い。空の色が青から茜の色に変わりつつある中で、俺は言葉を続ける。

「凛奈は、事あるごとに俺に突っかかってきたし、会長は学校じゃ品行方正だったけど、寮に帰ったら、本気でやりたい放題だったんだ」
「………」
「宮と静…茜はあんま面識なかっただろうけど、どっちも俺に懐いててな…いや、あれはどっちかって言うと、俺をだしに楽しんでたな、二人とも」

普段は、常に呼吸するかのように言葉を喋り続ける茜だったが、このときは不思議と、黙ったままで俺の言葉に耳を傾けていた。
正直、俺の言いたいことが伝わっているのか、分からない。時には言葉より、一つの行為が真実を伝えることがある。
だけど、俺のほうから動くことが出来ない以上、俺にできることは、茜に語りかけることだけだった。

「さえちゃんは…ま、見ての通りだよ。明け透けなく、言いたいことを言ってなぁ…お前は本当に教師かと突っ込みたいくらいだ」
「………」
「で、最後に七人目の嫁なんだけど、こいつがなかなか曲者でね。なかなか懐に飛び込んできてくれないわけだ。俺としては、いつでもオッケーなんだがな」

夕日に照らされ、冬の風に髪を揺らしながら、茜は俺をじっと見つめている。果たして、伝わったのだろうか?
茜が恐れていること、怖がっていること、それは誰もが身近に感じていて――――けれど、簡単に克服できること。
もし、それでも恐れているのだったら、俺が茜の手を引こう。ただ、引っ張るのは腕じゃない。そこから繋がっている…茜の心を、だ。

「本当に、好きになっていいの?」
「ああ、何の問題もない」
「今よりもっと、ずっと、たくさん…航くんに甘えちゃうけど、それでもいいのかな?」
「俺としては、大歓迎だが………隆史さんは、程ほどにしてくれって言ってたな」

俺の言葉に、少々不満そうに――――だけど、だんだん嬉しそうに、茜の顔に生気が満ち満ちてくる。
日の暮れはじめた夕暮れ…繋いだ手からは、先日のようなじっとりと汗ばんだ感触はなく、ただ、ポカポカと暖かいような、そんな感覚が流れてくる。

「ねぇ、抱きついちゃっていいかな、ぎゅーってしちゃっていいかな? 頬擦りしちゃっても問題ないかなっ?」
「ああ、どんとこい」
「うん、そうするねっ!!」

そして――――、言葉の通り、茜がどーんと俺に抱きついてきた。あまりの勢いに、吊り橋がぐらぐら揺れて、レオパルドンが走り回って――――って、おい!

「ちょっと、まて、茜! 危ないって、落ちる落ちるっ………!」
「航君航くんわったるく〜ん! えへへ、航くんの心臓、どきどきしてるよ〜」
「身の危険を感じてるからだっ! 吊り橋効果って知ってるのか、お前っ!?」

我慢していた反動か、俺に纏わりつく茜はとても幸せそうで、可愛いなあとも思えないこともなかったが…いかんせん、命の危機のほうが重要だった。
なにせ、古い吊り橋であり、手すりに寄りかかろうものなら、ミシミシと嫌な音がするくらいのボロさである。
茜に抱きつかれる形で、手すりに寄り掛かった俺の背中では、破滅の音が響き始めていた。このままでは、二人揃って転落しかねない。

そんなわけで、せっかくの嬉しいシチュエーションだというのに、俺は涙をこらえ、茜を引き剥がしに掛からねばならなかった。

「いいから離れろっ。お前まで危なくなるぞっ」
「いや〜! せっかく気持ちが通じたんだもん! もう離したくないよっ、離れたくないよっ、手放したくないよっ!」

わいのわいのの大騒ぎ、足元ではレオパルドンが転げまわり、揺れる吊り橋での大騒動は、それからしばらく続いたのだった。



運命の日――――島の命運をかけた町議選挙…下馬評どおり、星野誠一氏の圧倒的な勝利となった日。
その日は………一人の少年と少女が、あらためて彼氏と彼女になった、そんな日でもあった。


戻る