〜それは、日々のどうでもいいような小話〜 

〜私のために、あなたのために〜



「えっと…『元気でやってるか? 気がつけば、あの学園祭から1ヶ月…今も、俺は頑張って……」

部屋にしつらえたノートパソコンに文字を入力する途中で、疲れを感じ、目頭を抑えた。
ここ最近は、インターネットでの情報の交換をすることも多く、ついつい夜更かしをすることもあった。
受験勉強をする必要はなくなったが、代わりに知らなければいけないことが、増えたのも確かだった。

「ふぅ………そろそろ寝るかな、あまり夜更かしすると、婆ちゃんが心配するし」

この前は、ついついテレビ電話で会長と話していたら、いつの間にか朝日が昇っていたこともある。
基本的に暇を持て余す大学生とは違い、高校3年生の俺は翌日も授業で…爆睡していたら、さえちゃんに引っ叩かれてしまった。

「ま、その前に………この書き込みを終わらせなきゃいけないんだけどな。返事がないと、拗ねるだろうし」

会長をはじめ、海己や凛奈、静や宮とも、ここ最近はよく連絡を取り合って、互いの近況を報告することにしていた。
もっとも、性格的にマメな者、ずぼらな者、また、パソコンが得意か苦手かで、連絡方法は各々、違っていたりするのだったが。
海己なんて、未だに律儀に手紙を出してくる。チャットや掲示板でもいいと言ってるのに、手紙のほうが良いと言い張って聞かないのだ。

「………っ、よし。書き込み終わりっ。さて、明日も早いし、寝るとしようか」

明日も朝一は、さえちゃんの授業である。あまり頻繁に居眠りをするわけにも行かないので、今のうちにしっかり寝ることにしよう。
冷える空気に辟易しながら、布団にもぐりこむ。季節は巡り、十二月――――南栄生島にも、冬の季節が訪れようとしていた。



「朝ご飯だ朝ごはんだ朝ごはんだ〜! さぁ、今日も一日元気でいこ〜、お婆ちゃん、お味噌汁はつゆだく大盛りねっ」
「はいはい、あ、航ちゃん、朝ごはんの用意、出来てるわよ」
「………」

朝起きて、居間に行くと、そこにはいつもの風景。すっかり我が家に馴染んだ茜が、ちゃっかり朝食を御馳走になり、爺ちゃんは仏頂面。
で、二階から降りてきた俺の姿に、婆ちゃんが笑顔で、ご飯をよそうのが日課になっていた。

「あ、おっはよ〜航くん。12月3日、月初め平日の挨拶を兼ねての、朝のおはようをおとどけしま〜す」
「元気だな…ともかく、おはようございます――――茜も、おはよう」
「うわ、二段階に分けての挨拶? ひょっとして、ひょっとしてひょっとして〜、茜ちゃんだけ特別扱い?」
「………」

まぁ、あらゆる意味で特別扱いだろう。少なくとも、うちの祖父母に対する恐縮という念がまるっきり無いのだ。
その人懐っこさというか、ポジティブさはある意味賞賛に値する。もっとも、真似しようとは到底思えないが。

「な〜めこ、な〜めこ、た〜っぷり、なめ〜こ♪」
「少しは黙って食えないのかよ、お前は………」

基本的に息継ぎしてる時以外は、喋ってるんじゃないかと思うほどに、茜は良く喋る。それでも、その騒がしさが…煩わしいと感じないのは、人徳といえるのかもしれない。
昔の、朝の静かな食卓も嫌いではなかったが、今ではこの朝の騒々しさの方が、いつもの風景になってしまってるのも確かだった。

「あ、ほらほらほら、航くん茶柱だよ〜朝から縁起がいいよね、やっぱりお茶は淹れたてに限るよね〜」
「あらあら、良かったわね茜ちゃん。今日も何か、良いことがあるかもしれないわね」

ここ一年ですっかり打ち解けたのか、もはや和気藹々という表現しかとれない婆ちゃんと茜のやり取り。
俺と爺ちゃんはというと、女二人のパワーに口数も少なくなるというものだった。といっても、俺はもとより爺ちゃんも、茜に話題を振られては返答するので、疎外感は感じなかったが。

「いや〜朝はやっぱりお米とお味噌汁だよね〜、日本人の和の心ってのは〜古き良き時代も息づいてるってもんだよね、お爺ちゃん」
「………うむ」

そんなこんなで、すっかり我が家に慣れ親しんだ茜……昔に比べて、随分賑やかになった星野家の食卓は、また来年、もうちょっと賑やかになる予定だ。
幼馴染の女の子が家に住み込むということが、我が家の家族会議で決められたからである。もっとも、その件に関しては、またまた茜の活躍があったのだが。

海己の、我が家に住み込んでのお手伝いをするという案は、爺ちゃんはもとより、婆ちゃんからの反対もあった。
もともと、星野と羽山の確執は根強いもので、それに海己が耐えれるとは思えないというのが、婆ちゃんからの言葉だった。
言葉を失う、俺と海己。二人だけだったら、そのまま折れていたかもしれない。ただ、その時ちゃっかりと、その席に出席していた茜が、普段どおりのテンションで言葉を挟んだのだ。

「お婆ちゃん、それってないよ〜!航くんが言ってるのは、海己ちゃんを家族として扱うって言ってるんだよ。可愛い孫娘になるコにそんなこと言うのは無いと思うな〜」
「いえ、でもね、茜ちゃん………私達はともかく、分家の方には色々と、思うところがあるでしょうし」
「大丈夫、何とかなるよ〜。お爺ちゃんやお婆ちゃんが海己ちゃんの良さを分かれば、きっと海己ちゃんの味方になると思うし、航くんや私も海己ちゃんの味方なんだから〜」
「………」

星野と羽山の件では、部外者であるはずの茜の言葉だが、かといって、最近ではすっかり仲良くなり、無碍に扱うわけにも行かず、黙り込む婆ちゃん。
で、茜はというと、いつも通り、自分の決めたことをトコトンまで突っ走るやつであり――――、

「そうやって、味方をどんどん増やして〜この島全員を味方にすれば、もう怖いものなんかないでしょ? おっけーだね、問題ないよね、パーフェクトだよねっ」
「だけどね、そう簡単には………」
「――――なるほど、簡単、か」

なおも、反論しようとする婆ちゃんだったが、爺ちゃんが口を開いたことで、言葉を止めた。
星野の家長である爺ちゃんは、茜の言葉が痛快だったのか、珍しく口元をほころばせ、楽しそうに笑みを浮かべた。

「そうだな、いつまでも昔のことを引きずるのも、いかんだろうな………いつかは、終わらせなければならないことだ」
「あなた………でも、それでは分家の方々が――――」
「どのみち、町議選では向こうもこちらの弱点をついてくるだろう。伸次郎とて、むざむざ我が家の不始末を放っては置くまい」

どのみち、町議選に爺ちゃんが参加するのであれば、相手としても、弱点を探るくらいはするだろうし、すぐにそこに行き着くだろう。
星野と羽山………過去に起こった、駆け落ち事件での爺ちゃんの失脚は、相手にとっても格好の攻撃材料となるからだ。

「だがな、不始末は隠しておくからこそ攻撃材料になるのだ。昔のことは関係ないといっても、隠していたこと自体が後ろめたいことなのだからな」
「あなた、まさか………」
「うむ、町議選に立候補する折に、過去のことも洗いざらい言うことにしよう。なに、分家の方からは苦情が来ようが、その程度のこと、些細なものだ」
「おお〜、攻撃は最大の防御だね、専攻逃げ切り、ラン&ガンだねっ!」

顔を曇らせる婆ちゃんとは対称的に、やる気満々の爺ちゃんと、表情を輝かせる茜。

「………島を憂いての老骨の出馬なのだ。こちらには後ろ暗いところなど何も無いと、相手にも分からせてやらんといけないしな。それで……羽山海己さんだったか」
「は、はいっ」

事の成り行きを、呆然と見ていた海己に声をかける爺ちゃん。といっても、呆然としていたのは俺も一緒だったんだが。

「我が家としては、受け入れることに異論はない。しかしな、今回の選挙で羽山の名が完全に浮き上がれば、島に居辛くなることも事実だ」
「はぃ……」
「いずれは、ほとぼりが冷めるかもしれんが、それがいつになるかは分からん。どの道、航も大学へ行くことになるだろうし、島の外ならば、いくらでも会える」
「………」

爺ちゃんの言葉を、神妙な表情で聴く海己。しんと静まった場の空気で………茜が何か、言いたそうに口を開こうとしたので、手で口をふさいでおいた。
ここは、海己が話すべき場所だ。きっかけは茜が作ってくれた。後は、決めるのは――――海己がすること。

「それでも…来年、この島に戻ってくるつもりはあるのかね?」
「はいっ……! 私は、私は…この島に戻って来たい…っ、大好きなこの島で、航の役に立ちたいんです!」
「…………」

何の躊躇も迷いもなく、爺ちゃんの言葉に、瞳に涙を浮かべながら、それでもきっぱりと言い切る海己。
婆ちゃんは、海己のそんな様子を見て、どこか驚いたように言葉を失っていた。ただ、海己にはそれは見えていなかった。
海己は、爺ちゃんから目を逸らさず、この十年間、思い続けていた感情をあらわにするように、言葉を続ける――――。

「航は、もし大学に通っても、いつかはこの島に戻ってしまう。ずっと、ずうっと航と一緒にいたいっ…! この島で、航と、みんなと一緒に生きたいんです!」
「………そうか、ならば、星野家は………いや、我が家はいつでも歓迎しよう。それでいいな?」
「はい、そうですね」

呆れたのか観念したのか…爺ちゃんの確認の言葉に、婆ちゃんはいつもの温和な表情で頷いた。

「良かったな、海己。これで海己も、我が家の一員だ」
「………う………航ぅっ…………ぅ………ぅうっ」
「っ、ぷはっ。も〜、ひどいよ航くん。ま、終わりよければすべて良し、めでたしめでたし、ハッピーエンドだねっ。ほら海己ちゃんも笑って笑って〜」
「あ、茜ちゃんも、ありがとう…私っ、うれしいよぉ…」

海己は感極まったのか、茜に縋りついて、ぐずりだした。茜はというと、嫌な顔一つせず、その背中をぽんぽんと叩いてあげている。
そうして、海己も晴れて、我が家の一員となったのであった――――。



「………そういえば、町議選の手ごたえは、どうなんです?」

朝食後…そこそこ早い時間に、食事が終わったので、物のついでに爺ちゃんに状況を聞いてみることにした。
基本的に、11月の高見塚祭以降、俺は実際には、爺ちゃんの選挙活動の手助けはしていない。
もとより、島で有名人とはいえ、一介の高校生である俺に、出来るようなものではなかったこともあるが。

「至って順調、といっておこうか。何、赤子の手をひねるようなものよ」
「おお〜、勝利発言っ!? 戦う前から既に勝敗は決まっていたも同然ってやつ?」
「星野一族を舐めてもらっては困る。もっとも、勝因はそれだけではないがな」

茜の言葉に、気分良く応じる爺ちゃん。しかし、それだけではないって、どういうことだ?

「聞いたところによると、航………繁華街で弾き流しをやっているそうだな」
「あ、路上コンサートのこと? うわ〜、うわ〜、うわ〜、やっぱり話題に上ってるよ、航くんっ」
「………知ってたんですか?」

ここ最近、学校が終わってからは、繁華街に出かけていって、例の約束の歌を広めようと、広場でプチコンサートを行っている。
もっとも、ピアノのような大掛かりなものは持ち込めないので、ギターでやってるが……ちなみに、ちゃんと学校や繁華街の許可はもらっている。

そういえば、例のピアノだが………お礼を言って『水栄亭』に返してきた。なんでも…取り壊しの寸前に、業者と学園長側で、処分方法をどうするかの話が持ち上がっていたらしい。
調律もしっかりされているし、処分するにも金がかかるし勿体無いのでは、という話を、たまたま料亭の女将さんが聞きつけ、興味本位に引き取ったのだった。
10月頃…爺ちゃんの復活をアピールするため…あちこちに顔を出していた俺が、つぐみ寮出身ということを知り、女将さんが教えてくれたのは、最高の幸運だっただろう。

「ああ…おかげで最近では、島のこれからをどうするかで、皆一様に考えているようでな。これなら町議委員になってからも、色々とやりやすくなるだろう」
「う〜ん、地味な草の根活動がやっと芽を出してきたって所? このまま島を飛び越えて、本土進出?ミリオンヒット?メジャーデビュー?」
「いや、最後のは違うだろ………何にせよ、役に立ててるようで、良かったですよ」

自分のやってきたことにも、意味はある。そのことを感じ、嬉しくなった。
町議会選挙――――もつれるであろうとの予想だった選挙は、爺ちゃんの一人舞台にと移行しつつあった。
町長側が用意した対立候補は、爺ちゃんが、いきなり星野家の例の話を暴露したので肩透かしをくらい、勢いを出すことが出来ない。
目下、大半の予想では、星野一誠氏の当選が、ほぼ確実視されているのが現状だった。

まぁ、そのことに対しての不満は、これっぽっちもない。ただ――――、

「なんにせよ、油断は禁物だが…な。それはそうと、選挙もいいが、勉学を疎かにしてはいかんぞ」
「はい、分かっています」
「………それに、言うまでもないことだが、男女の付き合いも、ほどほどにな」
「は〜い、航くんとは、常に清く明るく優しい交際を心がけていきたいと思いまーすっ」

不満があるとすれば、最近の俺と茜の付き合いに関しては、けっこうあったりするんだが――――。
あの学園祭の日からおおよそ一月、皆の前で茜が彼女だと宣言した日………あの日以来、俺と茜は、まともにキスすらしていないのであった。



昼休みのチャイムが鳴り、教室内がほっと気の抜けた空気に包まれる。受験が近づいているといっても、差ほどには切羽詰まった感じのしないのが実情だ。
そんなのんびりとした昼下がりの教室――――今日も変わらず、茜は弁当を持って俺の席へと駆け寄ってきた。

「航君航くんわったるく〜ん! 今日も一緒におべんと食べよ。サザンフィッシュ特製の、ランチメニュ〜!」
「いや、どっからどう見ても、まっとうな弁当だろ、それ」

一抱えもありそうな大きさの、バスケットを両手に抱えた茜に呆れたように返答する。
………あの日以降、俺はサザンフィッシュには寄っていない。多忙ということもあったが、茜との関係を隆史さんへ説明する自信がなかったのもあるが。
それはそれとして、相変わらず茜は、昼用に俺の分まで弁当を持ってきている――――隆史さん特製の。

「…しっかし、思い切ったことするよな、茜も」
「まぁ、普段の行動からすれば、別に大したことじゃないんじゃない?」

いつもの昼食を食べる面子、雅文と紀子もふまえての4人での食事の場で…机一つ分はあろうかという大きさのバスケットは、異様に目だってしょうがなかった。

「だってだってだって、お兄ちゃんてばさ、航くんに食べさせるご飯はないって言うんだもん。でも、わたしの分を航くんにあげるなら何の問題もないっしょ」
「…それでまかり通るってのが問題なんだけどな」

バスケットに詰め込まれたサンドイッチにポテトサラダ、フライにナゲット、ご丁寧にゼリーまで二つ分用意しているということは、隆史さんも承知の上なんだろう。
さすがに、一つのバスケットに全部詰め込んでいるということは、何かを仕込んだりした場合、茜がその被害を受けることになりかねない。
もっとも、隆史さんの性格上、そんな回りくどいことはしないだろう。ただ、それなりにプレッシャーを感じることも確かだ。
早く顔を出しに来い、と、昼食をつまむたびに隆史さんの声が聞こえてきそうなくらい、昼食に力が入っていることは間違いないのだった。

「あ、航くん口あけて。わたしが食べさせてあげるからっ。遠慮呵責躊躇なく、三田村隆史特製サンドイッチを食べちゃって〜」
「いや、俺は自分で――――っ」

断ろうと口を開いた瞬間、茜が俺の口にサンドイッチをねじ込んでくる。ってか、苦しいって…息が、気管に詰まって――――

「ほら、ほら、ほら〜、噛んで噛んで、良く噛んで………よしっ、飲み込む〜!」
「んぐっ…何しやがる、俺を窒息させる気かっ!?」
「あははは〜、ごめんごめん、ごめんってば〜。お詫びに私にも同じことしていいからさ、あ〜ん」

そういって、口を大きく開ける茜。どうせ断っても、ずうっと絡んでくるのは目に見えていたので、俺は仕方なしに茜の口にナゲットを放り込む。

「ん〜、航くんの味がするよ〜、美味しいな、美味しいな、しあわせだな〜!」
「いや、それ俺の味違う。隆史さんの作ったものだろ。事実を捏造するなっての」

喜びながら小躍りしそうな茜に、呆れたように釘をさす俺。と、対面でその様子を見ていた二人が、呆れたように互いに顔を見合わせたのが見えた。

「…すっかり所帯じみてるよな、こいつら」
「なんか、往年の海己を思い出すわね。この場に海己がいたら、どんな修羅場になるかしら?」
「うーん、あんまり想像つかないな………なんか、居ても居なくても茜が独走しそうだけど」

雅文の言葉は正しい。場の空気を読めないとはいえ、基本はどんくさい海己と、行動力の塊である茜では、勝負にならないだろう。
まぁ、来年には海己もこっちに来るだろうし、そういった光景が、展開される可能性は大なのだが。

「じゃあ、次はわたしの番だね、どれにしようかな、なんにしようかな、これにしようかな〜?」
「こら、俺に食わせるんじゃなく、自分で食え。俺も自分で適当につまむからさ」
「え〜、つまんないって、そんなの。よし、これにしようかな? 航くん、プチトマトと、ポテトサラダと、ニンジンのどれがいい?」
「どこぞの菜食主義者か、俺は!? 肉を食わせろ、肉をっ」

昼休みの一時………お弁当の食べさせあいなどという、あからさまにベタな行為も、最近は慣れっこになってしまっていた。
まぁ、周囲の目はともかく、俺も茜も楽しんでいるので、問題はないんだろう……………………多分。



学校が終わり、大半の生徒は家路に着く準備を始める。過半数が帰宅部という学園の放課後は、開放的な空気に満ちており――――

「航君航くんわったるく〜ん! 準備できた? 今日も繁華街に寄ってくんでしょ?」

それとは関係なしに、常に開放的なふいんきを身にまとう茜が、いつも通り俺の席に駆け寄ってきた。
手には既に通学鞄。どうやら茜の方は、既に下校する用意が出来ているようである。鞄に詰める量が、少ないせいもあるかもしれないが。

「ああ、家に帰るより、直接行った方が早いしな。それに最近、日の入りが早くなってるし」
「うんうんっ、そうだね、時間は有限、時は金なり、歳月人を待たずだよねっ」
「まぁ、おおむねそんなとこだ。とりあえず、生徒会室に寄ってくぞ」

生徒会室には、備品のほかに、最近、繁華街で配るビラをおいてある。かさばるものなので、保管場所があるというのはありがたかった。
学園祭の時のビラとは違い、こちらは島のリゾート化に反対、という内容ではなく、リゾート化について、真剣に考えようという内容だった。
もう既に、犀は投げられたのだ。後は、この島に住む一人一人を信じるべきだろう。この島のこれからを、どうするか――――それは、島に住むみんなで決めることだろうから。



学園から、繁華街まで歩いて小休止………茜にジュースを買いに行かせている間に、ギターの調子を見る。
試しに爪弾かせてみると、道行く通行人が、興味をそそられたかのように、こちらに視線を向けてきた。
中には、足を止めてこちらの演奏を待ってくれている通行人も居た。ここ数週間で、どうやら俺の…というか俺と茜のプチコンサートも、繁華街に定着してきたようだった。

「おまたせ〜、航くん。ホットミルクと、ブラックコーヒーと、おしるこ買って来たよ!」
「ああ、さんきゅ…って、最後のは何だ」

見ると、茜の手には普通の缶のほかに、おしるこの写真のついたラベルの缶があった。こういうの、売ってたんだな…。

「いや〜、ときおり無性に甘いものが食べたくなるときってあるよね〜、ほら、乙女の身体の半分は、砂糖菓子で出来てるって言うし」
「言わねえって………さて、始めるとするかな。とりあえず、無難なところから――――」

南栄生島は、離れ小島だが…空港を通じて、東京とのラインが繋がっているため、最新のオリコン曲などは繁華街のCDショップにも売っている。

「ん? あ、この曲なら知ってる知ってる知ってるよ〜『暖かい、空気に包まれて、薫り立つ秋の日 陽だまりのお茶会、紅茶を一杯、差し上げましょう』〜」

と、おしるこの缶を開けようとしていた茜は、俺の弾き始めた曲に反応して、前奏が終わるとすぐに歌いだした。
別段、茜の技量とかは専門家を唸らせるとか、そんな大したものじゃない。どこにでもいる、歌好きの…カラオケ好きの普通の女の子だ。
ただ、その身にまとう、周りを巻き込んで、楽しさとか…そういったものを分け与える才能は、確かに茜にはあった。

「『ゆったりと、日がな日々、お日様の光を浴びて 窓辺であなたと二人、のんびりと過ごす日常』〜」

茜の声に誘われるかのように、学校帰りの生徒や、繁華街に買い物に来ていた人が、徐々にだが集まってくる。
わらわらと増えていくギャラリー。普通なら萎縮したり緊張したり…僅かながら意識するものだが、茜はそういったものとは無縁の存在だった。
むしろ、観衆が増えれば増えるほど、茜の声は活き活きと、活力を増してくる。こいつって、根っからのお祭り好きだよな。

「『わたしの手には、古い絵本 思い出と、夢を綴った、手書きの物語』〜」

そうして、星野航演奏の茜リサイタルは、なし崩し的に今日も始まったのだ。
もちろん、ずっと聞いている人ばかりではない。歌を聴いて、満足に家路に付く人も居る。
ただ………帰る人よりも、茜の歌声を聞いて、興味深げに寄ってくる人の方が、明らかに多かった。

「は〜い、どうぞどうぞどうぞっ! 興味がある人は、もって帰っちゃってね。あ、でも、無い人は道端には捨てないで欲しいな〜、茜ちゃんのお願いっ!」

歌の合間、手際よくリゾート問題について配りながら周囲に語る茜に、周りから笑い声が漏れる。
すっかりこのあたり、茜も手馴れたものだった。最初は、ビラを配るのも四苦八苦――――は、してなかったか。人懐っこいやつだし。
ただ、手際の方はかなり良くなっている。このあたりは、慣れの部分があるのかもしれない。

「さて、次の曲は――――これにするか」

次の曲をどうするか考えた後、俺は皆が知っていそうな曲をチョイスして、ギターで弾き始めた。
時にはバラードに、時にはラブソングを。もちろん盛り上がりやすいアップテンポの曲を中心だが…そうして、小一時間が経過し、周囲はゆっくりと、夜へと切り替わろうとしていた。

「ん〜、航君航くんわったるくん〜、そろそろ時間かな〜もうちょっといいかな〜?」
「そうだな、そろそろお開きにするか。時間も時間だし」

時計を見ると、既に時刻は6時を回っている。まだまだ宵の口が始まったばかりだが、俺も茜も、帰宅しなければならない。
俺は、爺ちゃん婆ちゃんを心配させるわけには行かないし、茜には――――、

「うん、それじゃ、最後の曲にいっちゃおうか〜、もちろん最後は『約束の歌』、だよねっ、だよねっ、だよねっ!」
「ああ、それじゃ、やるとするかっ…!」

ギターの弦を爪弾かせる――――ピアノのような清涼な響きは無い。しかし、鈍くどこか心に響く音色は別の趣がある。
前奏を聴いて、周囲の人垣でも、互いに目配せをするのが見える。既に諳んじているのか、茜のように、曲の始めを待つ生徒。
まだ歌詞を覚え切れてないのか、中学生くらいの男子が、同い年くらいの女の子と共に、配ったビラに目を通し…、
唯一、曲の原型を知っている高見塚学園の女教師が、どこか嬉しそうに、人垣の中から俺を見ているのが見えた。

そして、前奏が終わる――――、

「「ひとつずつ思い出す 瞳に映った たくさんの夢たち」」

周囲から、さざめきのような歌声が漏れ始める。こうやって皆で歌いだすといっても、やはり恥ずかしいのか、出足の声は小さい。
だが、相変わらずの茜の声に惹かれるように、徐々に声は大きくなる。

「「さよならの向こう側に 大切なものを 置いてきたんだ」」

皆が歌う。そして…俺も歌詞を口ずさむ。さすがに、ピアノを演奏しながらでは歌うのは困難だったが、ギターなら弾き語りの経験がものをいう。
流れるように指でギターを演奏し、今ここにある思いのたけを、謳い上げる。

「「傷つくこと恐れても 逃げる事じゃ変わらない」」

歌は、どんどん大きくなっていく。最初は躊躇していた者たちも、周囲にあわせ、ぽつぽつと歌いだす。
中には、状況が良く分かっていない者に、親切にもビラを見せて教えている者も居た。

「「誰でもそう 弱い心 だからお願い 傍にいて」」

茜が、満面の笑みを浮かべて、俺を見てくる。俺も笑顔で返し、伴奏を続ける。
最初は、数人しか居なかった…最後に歌う、約束の日の合唱者――――それが日を追うごとに、僅かではあるが、増えていく。

「「揺れる季節とキミに さよなら どうしても言えないから 濡れた瞳、隠してる」」

もちろん、中には歌を気に入って、歌うだけものもいるだろう。だけど、今はそれでも良い。
こうやって、島の皆で奏でる歌が、皆の間に受け入れられるということ………それが、今の俺にとって励みになるのだから。

「「あのとき描いた 約束の場所で きっと いつまでも 待ってるよ 笑顔で抱きしめるから」」

そうして、歌は続く。島の片隅…古びた寮の住人が作った歌は、島中に響くかのように大勢の人に歌われる。
ひとりをふたりに、ふたりをみんなに繋げるかのように、音は混じり、溶け合っていく。

「「いくつもの涙の意味 忘れてた気持ち 教えてくれたね」」

茜と俺の声が、俺とさえちゃんの声が、皆の声が混じり、一つの方向へと導かれていく。
色々な感情の交じり合い。皆が一体になったような錯覚――――冬だというのに、内側から暖かくなるのは、身体なのか、心なのか。

「「移りゆく景色の中で 同じ道を歩いてきた」」

誰に強制されるわけでもなく、自らの意志で旋律を口から謳い上げる。
人垣の中には、見知った者もたくさん居る。さえちゃんはもとより、商店街の人や、学校の後輩………歌を続けるたび、皆と心が通う気がするのは、間違いじゃないだろう。

「「差し出した手に 思い出と ボクらの選んだ(大切な) これからが」」

誰が決めたわけでなく、歌詞が分かたれる部分では自然に別れ、そしてまた収束する。
額に汗が浮かぶ。身体も心も精一杯使い、そうして、在りし日を思い出すかのように、感情をそのまま声にする。

「「最後にくれた笑顔で さよなら 「またここで逢えるかな」 未来を今、見つめてる」」

喜びも悲しみも、他のすべての感情も混ぜ込んで、夜空に朗々と、みんなの歌が響く。
老若男女、この島の全ての人々に、この、約束の歌が届けとばかりに――――茜が、俺が、さえちゃんが、その場に居る全ての者が…歌いきる。

「「あの日交わした 青空の下で きっと いつまでも 変わらないよ さよならのかわりに 誓うから」」

最後の歌詞が終わり、あたりは静まり返る――――皆が余韻に浸る中、俺は最後の一小節を弾き………、そうして、今日の最後の演奏は終わった。
拍手も、歓声も無い。ただ、皆でやり遂げたような充実感が、不思議と周囲に漂い、それが万の歓声よりも嬉しかったのは確かだった。



今日の演奏も終わり、観客達は三々五々散っていく。楽器を片付けながら、俺は傍らに居る茜に声を掛けた。

「茜、ちょっと待ってろ。片づけが終わったら、サザンフィッシュまで送ってくから…といっても、ペンションの前までなんだけどな」

さすがに、茜を伴ってサザンフィッシュ入り――――などという暴挙は行えない。
茜に近づく男連中には、誰であれ構わず容赦ない隆史さんの手前、こちらとしても慎重にならざるを得ない。
といっても、最近めっきり暗くなった夜道…痴漢など出たことも無いといっても、茜を一人で帰らすわけにはいかないのだが………、

「あ〜、気持ちは嬉しいんだけどさ航くん。ウチの近くまで来た場合、まず間違いなくお兄ちゃんに捕まるとおもうんだけどな〜」
「………近くまで、って、どのくらいだよ」
「そうだね〜、多分、見渡せる範囲内全部かな〜。最近じゃ、ウチが見えてくるくらいになると、お兄ちゃんが出入り口から飛び出してくるから」
「――――じゃあ、繁華街を抜けるくらいまでか」
「ぅ〜ん、でもでもでも、航くんちとまるっきり正反対だし、大丈夫、大丈夫、問題ないよ〜一人で帰れるって」
「………」

最近は、この調子である。朝早く家に来て、一緒に登校するのは良いんだが、帰る時は、茜は何故か、何かと理由をつけて俺と一緒に帰るのを渋っていた。
最初の頃は、たまたま都合がつかなかったり、用事があったりするんだろうかと思っていたが、さすがに毎日こんな調子では、さすがに気づく。
苦笑じみた表情の茜………隠し事をするようなタイプではないのだが、最近、何となく釈然としないものを感じてしまうのだった。

「星野〜、おつかれ! 頑張ってるみたいじゃない」
「………ああ、さえちゃんか」
「あ、ほんとだ。さえちゃんだ、さえちゃんだ、さえちゃんだ〜!」
「…あんたら、本っ当に、教師を敬う気なさそうよねぇ…今に始まったことじゃないけどさ」

愛称を連呼する俺達に不満そうながらも、もはや慣れっこになっているのか、笑みをこぼしながら、さえちゃんが近づいてきたのは、その時だった。
たまたま所用か何かがあったんだろう。教師姿で手にはコンビニの袋をぶら下げている。これから帰って晩酌でもするつもりだろうか?
そうだ、さえちゃんに頼んでみるかな…? 頼りになるかどうかは別として、一人歩きよりかは幾分ましだろうし。

「ちょうど良かった。さえちゃん、茜をサザンフィッシュまで送ってってくれないか? 俺が送ると、色々と問題があるし…教師としての仕事だと思ってさ」
「仕事って…こういう時だけ、教師って部分を持ち上げるのは問題だと思うけど」
「だったら、サザンフィッシュで好きなだけ飲み食いしてくれ。俺の名前でつけといてくれて良いから」
「やった、星野って、話せるぅ♪」

そういうと、わーい、と俺に引っ付いてくる、さえちゃん。最近、何となく教師としての自覚が薄れてると思うのですが。
と、さえちゃんの腕がぐいっと引っ張られて、俺から離れていく。さえちゃんを引っつかんで、引っ張っていたのは茜だった。

「んじゃ、そうと決まれば善は急げだよねっ。航くん、さよなら、バイバイ、また明日っ。朝7時30分にズーム…っと、そうじゃなかった。ともかく明日もよろしくね〜!」
「え、あ、ちょっと………きゃぁぁぁぁぁ〜〜〜」

悲鳴を残し、さえちゃんを引っ張ったまま、茜の姿はあっという間に見えなくなった。相変わらず、ぶっ飛んでるなぁ………。
そんな事を考えていると、頬を冷たい風が吹き抜けて、俺はわずかに身震いをした。冬のこの時期、既にあたりの寒さは、けっこうなものになっている。

「さて、俺も帰るとするか」

呟き、帰り支度を再開する。こうして、今日も俺と茜が一緒にいる時間が終わりを告げる。
手をつないだり、スキンシップしたりすることは数知れず――――それでも、今日も、キスをしたり…それ以上をするきっかけは、つかめなかったのであった。



「ふぅ…」

夕食が終わり………部屋に戻ってきて、しつらえたパソコンの電源を入れてから、俺は一つため息をついた。
ここ最近は、なんとなく不完全燃焼といった状態だった。茜と一緒にいるのは楽しいし、不満ということは、それほどない。
ただ、まともにキスもしてないし、それ以上のことも――――まぁ、治外法権っぽかった、つぐみ寮ならともかく、互いに自宅暮らしの男女なら、これが普通なのだろうけど。

「って、落ち込んでいても仕方ないか………メールは、静と宮からか。相変わらず、写真とか送ってくるあたり、まめだよな」

気分を切り替えて、パソコンに向かう。最近では、つぐみ寮組の連絡手段となりつつあったパソコンは、今日も互いの通信手段として使われている。
ちなみに、使用頻度が高いのは、会長と、下級生コンビで…その他はずぼらだったり、パソコンが苦手だったり、手紙の方を重用したりと、差が出ている。
といっても、返事を出す頻度が違うだけで、全員がほぼ毎日、掲示板やメールに目を通してはいるようであったが。

「お、会長のホームページに書き込みしてある。『りんりん』って、これ凛奈の書き込みじゃないだろうな………?」

ちなみに、最も精力的にこれらを利用しているのは会長だろう。大学の研究と称して、環境問題の一環で南栄生島の紹介ページを作っている。
もちろん、会長のことだから、色々と裏で画策して、世論を動かそうとしているのかもしれない。まぁ、そのあたりは本人しか分からないのであったが。

「っと、そうだ。会長はどうしてるかな…?」

ここ最近は、ほぼ毎日テレビ電話で話すのだが、もっぱら、会長から掛かってくることが大半である。内容は、特に重いものではなく、世間話の類が常だったが。
考えていると、常駐ソフトから、着信を告げるメッセージが表示された。俺は、通話ボタンを起動する………しばしの後、

『お、今日はすぐに出たじゃないの、えらいえらい』

通話画面にいつも通り、見知った会長の顔が表示される。良い事でもあったのか、会長は上機嫌に俺に笑いかけてきた。

「こっちにだって、都合ってのがあるんだよ。一昨日は、俺が風呂入ってる時に、家にまで電話をかけてきやがって」
『ああ、あれね…悪かったって思ってるわよ。あの後、お爺さんに叱られたんだっけ?』
「まぁ、そんなに長いものじゃなかったけどな…会長、あんた爺さんに何を吹き込んだんだ?」
『ん? 一般的な模範解答をしたまでよ? そういうのが好きそうなタイプだと思ったからだけど』

相変わらず鋭い。そして、即座に裏表を使えるところは、何一つ変わっちゃいないようだった。
一昨日、風呂から出ると、居間に居た爺ちゃんに「男女の交際云々」と、何故か30分ほど文句を言われ…部屋に戻ったら、携帯とテレビ電話の着信履歴が凄い事になっていた。
あの時は、会長の機嫌を治すことに躍起になっていて、そのあたりまで気が回っていなかったのであるが…。

「そもそも、繋がらない時は、しばらく経ってから掛けなおすっていう取り決めだったろ?」
『だって、航の声が聞きたかったのよ。あたしだって、人恋しいって思うときもあるんだし』

そういうと、可愛らしく上目遣いで拗ねたように言う会長。普段はしないそういう仕草が、似合っていたりするんだから厄介ではある。

「…甘えるな、暇人大学生。遊んだり、暇つぶししたりする所は、そっちには幾らでもあるんだろ」
『つれないこと言うのね、航。それとも、機嫌が悪くて、そういう受け答えしか出来ないのかしら?』

図星を突かれ、俺は沈黙する。会長には、隠し事は通用しない。それは分かっちゃいたんだが――――弱点を適度に見抜かれるのも、困りものである。
黙り込む俺を面白そうに見やりながら、会長は優しい口調で、それ相応に年上らしい威厳を持って尋ねて来た。

『何か心配事があるなら、話してみなさい、航。直接的には力になれないけど、愚痴を聞くくらいはしてあげるからさ』
「そっか…悪いな、会長。じゃあ、少しだけ――――」

会長の優しさにほだされて、俺は昨今の不満を聞いてもらうことにした。俺と茜の、最近の関係を――――、



「…つーわけで、最近じゃ、まともにキスも出来なくてさ…生徒会室は、後輩に明け渡したから、自由に使える場所は無くなったようなもんだし」
『なるほど。要するに、余りある性欲を、どう扱ったら良いか分からなくなってるわけか、航は』
「いや、おおむねその通りなんだが…あんた、本当に自分が女って自覚があるのか?」

さすがに、あっけらかんというか、さばさばとしているというか――――少しは恥じらいを見せろって思うときがある。
しかし、俺の言葉に会長はというと、これっぽっちも痛くありませーんといった風に、切りかえしてくるのだった。

『あら、もちろんあるわよ? 自分が、男を魅惑できるくらいの良い女であるってくらいの自覚は、ね』

どこまでも自信満々な会長に、さすがに憮然とした俺は、呆れたように、考えなしに口を動かしていた。

「…俺としか、経験が無いくせに」
『なっ………ちょっと、第2条違反っ!』

慌てた口調でそういう反面、今の俺の言葉に反論しないところは、嬉しいと思っていいのかどうなのか。
そういえば、ここ最近は忘れていたが、この誓約って、まだ続いてたんだな。少なくとも、会長はそう思っているようだ。

「わり。しかし、相変わらずこういうとこは真面目だな、会長は」
『それは…当たり前でしょ。こんなこと、他人に吹聴できる話じゃないし』
「ま、俺も秘密は墓まで持ってってもいいけどな。そうすれば、会長との約束事は一生有効になるってことだし」
『……………………そうね、それはそれで良いかも。なんていうと思ったか』

明らかに怒った『ふり』で、お茶を濁す会長。しかし、それからすぐに…怒りの表情を消して彼女は小さく呟いた。

『………でも、潮時かな。航も立派になってきちゃったし、卒業したら、あたしよりも先に社会人かぁ………立場、並ばれちゃうなぁ』
「は?」
『正直、あたしのほうから折れるのは、性に合わないけど…航の方から迫るように仕向ければ――――』
「ちょっと、よく聞こえないんだけど」
『聞こえないように言ってるのよ。それくらい察しなさい』

会長に怒られてしまい、それ以上の追求が出来なくなってしまった俺。
そんな俺を見据え、会長は話題を元に戻してくる。俺と、茜のことについて。

『ま、それはそれとして…航が注意しなきゃいけないことは、あせって動かないことね。じっくりと考えて行動すれば、出来るコなんだから』
「それって、出来ない子に言う親のセリフじゃないのか…?」
『真面目に聞きなさい。もし、そういう事をやるにしても、ばれない様にやれっていってるの。今月、何があるかは分かってるんでしょ?』
「爺ちゃんの、町議会選挙、か」

会長の言葉に、自然、姿勢を正す。その結果が、この島の行く末を決める――――とは、言い過ぎではないだろう。
少なくとも、現町長に対抗できる相手として、爺ちゃん以上の適任がこの島にいるとは思えなかった。
そして、爺ちゃんのアキレス腱………かつて、息子の不祥事で町議長を辞したこと………それを繰り返すなと、暗に会長は言っていたのだ。

『まぁ、自分の家なら人目につかないでしょうけど………行き帰りの道を含め、外じゃいつ誰に見られるか分かったものじゃないわ』
「確かに、島のどこ歩いていても、何となく人目を感じるからな、最近」

無論、家の中までその視線はついてこない。最も、ただの気のせいという可能性もあるのだが。

『案外、隆史さんの妹さんも、そのことを気にしてるんじゃない? 航に迷惑をかけないように…あるいは、隆史さんの入れ知恵かもしれないけど』
「なるほど、それは考えられるな」

今の爺ちゃんを追い落とすのは、並大抵のことではない。方法として一番簡単なのは、先ほど例に挙げたとおり。
俺が不祥事を起こす前に、予防してくれた………というよりも、茜の身を護るためにという動機の方が、納得はいくのであったが。

「でもなぁ………いや、なんでもない」
『?』

ただ、そこで腑に落ちない点がある。俺は、茜にキスできなくて寂しい。というか、それ以上のことも出来なくて欲求不満だ。
俺以上に直情的な茜が、きっちりと一線を引いて、真面目なお付き合いをしているのは、どういうことなのだろうか?
ただ単に、俺がガツガツしているだけ、というのもあるのかもしれないが――――どうなんだろ?

『ま、あくまであたしの予想なんだけどね………さて、ちょっとシャワーでも浴びてきますか』
「あ、ああ………それじゃあまた後で――――って、おいっ!?」

通話を打ち切ろうと、マウスに手を伸ばした俺は、唖然とした表情で声を上げていた。
画面の向こう側に見える、会長の部屋――――そこで、部屋の主は、シャワーを浴びるために服を脱ぎ始めた。
スカートを下ろし、シャツをはだけ、ブラやショーツをゆっくりと外すと、バスタオルを手にとって――――、

『それじゃあ、また後でね』
「って、なにかんがえてんだ、あんたはっ!?」

バスタオルで前を隠した、ほぼ全裸の会長に、俺は思わず大声で怒鳴っていた。いや、何故に怒鳴ったかは分からなかったが。
しかし、俺の怒鳴り声に、会長は怒ることも無くむしろ笑顔で――――、

『リビドーの溜まってる後輩に、ちょっとしたプレゼントよ。だいたい、見たくなかったら、通話を切ればよかったじゃない』
「ぅ………」

言葉も無く、まじまじと見ていた俺には、返す言葉も無かった。きっと向こうにも、俺の様子は筒抜けだっただろう。
黙り込む俺に、会長は特徴的な投げキッスをして、

『じゃ、今のを見て、一度は発散させておきなさい。 グツグツ煮えたぎった頭じゃ、ろくでもない事しか思いつかないんだしさ』
「………」

向こうの方から、通信はそれっきり切られてしまった。俺は、内心で頭を下げる。
会長、すんません。すぐに有効活用させてもらいます………それからしばらく後、会長ともう一度テレビ電話でたわいもない世間話をした。
お互いに、先ほどのことには触れず、いつも通りに会話をするのは、実に俺と会長らしいといえた。

そうして、夜も更ける。色々あった今日の一日を振り返りながら、俺は布団にもぐりこんだ。
まどろみと共に、俺はすぐに眠りにおちていく………十二月の初めの平日は、こうしてしめやかに幕を閉じたのであった。



追記――――夜、サザンフィッシュでの一幕

夜のサザンフィッシュ。夕食を求めるお客が来るには、まだ幾分かかかる時間帯――――カランカラン………という音と共に、ドアをくぐって、店内に入ってくる人影二つあった。
カウンターに立ち、のんびりとしていた店のマスターは、入ってきた相手を見て、相好を崩す。

「お帰り、茜。さえちゃんも、よく来たね」
「たっだいま〜、お兄ちゃん。ささ、さえちゃんも席について、座って、くつろいじゃって〜」
「あ〜………はいはい、隆史くん、私、ビールねっ。あと、ナポリタンと揚げじゃがで」

和洋折衷――――というには、雑な料理の頼みかたではあるが、いつものことなのか、了解、といって、店の奥に行くマスター。

「そんじゃ、茜ちゃんも荷物を置いちゃってくるから、しっつれ〜しま〜す!」
「うん、それじゃあね…………………………ふぅ」

茜が二階に引っ込み、さえちゃんは大きく息をついて、カウンターに突っ伏した。
繁華街からここに来る間に、一緒に歩いていた茜に、『今日の航くん』についてつらつらと惚気(のろけ)られたのだった。
べつに、彼女は人の話を聞くのは嫌いではない。嫌いではないのだが――――教え子とはいえ、ちょっと気になる男の子の事を嬉しそうに話す茜に、気疲れを感じたのである。

「なによぉ…私のほうが、星野のこと、もっと知ってるんだからぁ」

ぶちぶちとぶーたれるが、マスターは厨房に、茜は二階に引っ込んでいるので、そのことを聞きとがめるものは居なかった。
仕方なしに、最初に出された水を、ちびちびと飲みながら時間を潰す、さえちゃん。しばらくして、マスターが厨房から料理を乗せたトレーを持って出てきた。
と、さえちゃんが怪訝そうな表情をする。さえちゃんの頼んだ料理の他に、トレーには誰かの夕食とおぼしき物が、乗っていたからであった。

「あれ? 頼んだ覚えはないけど………それって隆史くんの夕食?」
「いや、これは茜の分だよ。そろそろ降りてくる頃だと思ってね」

そう言うマスターの言葉を裏付けるかのように、二階のロフトから、軽い足音が聞こえてくる。
さえちゃんが階段のほうに目を向けると、軽やかな足取りで、普段着に着替えた茜が一階に降りてくるのが見えた。

「あ〜、おなかすいたおなかすいた、もうぺこぺこだよ〜! お兄ちゃん、今日の夕ご飯は何なのかなぁ〜? お刺身? エビフライ? それとも満願全席?」
「いや、最後のは、さすがに手間がかかるからな……忙しい夕飯時には作れないよ。ほら、ご飯なら用意できてるぞ」
「――――それでも、作れないとは言わないのね、この駄目兄貴は」
「わ〜い、そっれじゃあ、いっただっきまーすっ!」

呆れたような表情で、マスターを見るさえちゃんの隣で、茜は席に着くと猛然と夕飯をかっ込み始める。
まぁ、見た目は美少女であるのに、そういう姿が妙にしっくり来るのが茜らしい。そんな茜を緩みきった表情で見つめるのは隆史である。
呆れたように横目で様子を見ながら、自分の分の夕食をつつく、さえちゃん。

「う〜ん、やっぱりお兄ちゃんの作るご飯は最高だねっ、究極の夕ごはんだねっ、うまいぞーって、口から光線がほとばしりそうだよっ」
「そ、そうか?」

妙な比喩を使われたのも意に介さず、茜の誉め言葉にデレデレになるマスター。しかし、その笑顔もそう長くは続かなかったが。

「これで、航くんが隣にいれば、完璧、100パーセント、余すところなく…言うことないんだけどな〜」
「………」

茜の言葉に、笑顔を消す隆史、といっても、その表情に怒りが浮かんだわけでもない。
どことなく、真面目な表情――――そこにあったのは、妹にうつつを抜かす馬鹿兄ではなく、航という少年の兄貴分である青年の顔だった。

「なぁ、茜………航のヤツは、あれからどうしてるんだ?」
「ん? どしたのどしたの急に改まっちゃって? 月並みに『茜を俺にください』って航くんがこないから、ひょっとして寂しいとか?」
「そんなわけないだろ。だいたい、そんな事は許さんっ! 俺の目が黒いうちは、茜を嫁には出さないからなっ! って、そうじゃなくて」

思わずいつものノリで、声を荒げかけたのを自制し、表情を引き締めて茜に問いを重ねる隆史。

「別に、あいつを………ここに出入り禁止にした覚えはないからな。お前からも、たまには顔を出すように伝えてくれ」
「それで、のこのこ出てきた航くんをパックリ食べちゃうつもりなんだ。さながらアリ地獄にはまった女学生のごとく〜」
「いや、航は喰えたものじゃないだろ。だいたい女の子と違って楽しくもなんとも………あ」

そこまで言って、茜の隣で呆れた視線を向ける、さえちゃんに気づくマスター。
さすがに、学校の先生の前で、妹とはいえ年頃の女子とする会話ではないのは確かだろう。咳払いを一つし、それた話を元に戻す。

「まぁ、ともかく航に伝えておいてくれよ。何なら…学校帰りに、お前がサザンフィッシュに引っ張ってきても良いんだしな」
「………」
「茜、どうした?」

航をサザンフィッシュにつれてくる――――少なくとも、茜にとっては悪い話ではないはずだ。
だが、隆史の言葉に、茜の反応は芳しくない。怪訝に思った隆史がカウンターから身を乗り出そうとした時、茜が動いた。

「ぅ〜ん、その件については、いつか、後ほど、また明日って事で………あ、そろそろ勉強をしなきゃいけないから、そんじゃっ」
「お、おい、茜っ!?」

一気にまくし立てると、呆然とする隆史とさえちゃんを置き去りに、茜は小走りに二階へとあがっていってしまった。
後には、場の流れについていけず、唖然とした表情の男女が一組――――。

「いったいどうしたんだ、茜のやつ」
「あたしに聞かれても困るんだけど………あ、隆史くん、ビールお代わりねっ」

兄弟の会話を小耳に挟みつつ、ちゃんと食事を続けていたのか、さえちゃんの頼んだ料理はあらかた片付けられていた。
お腹も膨れたことだし、後は思う存分、晩酌に酔うだけである――――教え子のツケなので遠慮もいらないのだった。

「はいはい」

苦笑して、カウンターの奥へと引っ込む隆史。それを見送った後、さえちゃんは二階に続く階段を見やった。
先ほど、軽やかな足取りで茜が二階に上がった後、当然そこには何もない。さえちゃんは、その何もない空間に向かって、ポツリと一人ごちた。

「にしても、隆史くんじゃあないけど、なんか、引っかかるのよねぇ………」

さすがに、完全に酔ったというわけではないけど、はや酒精が回ってきたのか、とろんとした目で、さえちゃんは呟く。
それは、女の勘と呼ぶべきものなのかもしれないが、そういったことに、ほとんど免疫のない彼女は、そこに行き着きはしないのだった。


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