〜それは、日々のどうでもいいような小話〜 

〜茜ちゃんの一日〜



南栄生島に、長い夏がやってくる――――終業式を終えた高校生の大半は、暇を持て余す夏休みの日々をすごすことになる時期でもある。
中には、大枚叩いて東京へ旅行に行ったり、ひと夏の思い出作りに奔走するの者もいるが………大概は、暇でのんびりとした日々を過ごすのが常である。
まぁ、中には日々の生活からして、のんびりとか、平凡などとは掛け離れた者も、いるにはいるのであったが――――。

早朝、サザンフィッシュの店内でマスターである隆史は朝食の準備を進めていた。用意する朝食は、自分の家族と、さらに宿泊客の分と大掛かりなものである。
夏とはいえ、まだ外は薄暗い時期――――眠気もあるだろうに、料理をする彼にそんな素振りはいっこうにみられない。慣れているせいもあるだろうが。

「よし、こんなもんかな」

一通り、朝食の準備を終え、隆史は一息つく。満足そうに笑うと、身に付けていたエプロンを外した。
島でも評判の人気者である隆史は、未だ独身である。彼が身を固めないのは、一人の女性に縛られるのが嫌だからと、つい最近までは…そう思われていた。
しかし、半年ほど前から、その評価は若干の修正が加えられるようになる。その原因は、隆史とともに住む、同居人の少女が発端だった。

「さて、茜の様子を見に行くかな………といっても、起こしちゃまずいし、様子を見に行くだけなんだがな」

言い訳めいた口調をしながら、相好が緩んだ顔で隆史はその同居人………彼の実妹の部屋へと足を向けるのだった。
まぁ、島一番の好青年が、実は重度のシスコンだったと言う事実は、関係者各位に衝撃を与えたものの…それで彼の評判が落ちることはなかった。
これもひとえに、三田村隆史の人徳と言える――――のかもしれなかった。

ちなみに、こうやって彼が妹の部屋に様子を見に行くことは、めったにない。
今日はたまたま、アルバイトの少年達が朝5時に来る予定もなかったので、空き時間を利用して決行したのである。彼にも、ささやかながら後輩に対する面子と言うものがあった。
もっとも、面子と実妹どっちを取るかと聞かれたら、迷わず妹を取るのは間違いないのだったが――――。



そんな早朝の一幕が過ぎ、サザンフィッシュの朝の時間が始まった。
ダイビングの客達が、まだ眠い目をこすりながら、朝食を取るためにリビングに行くと…夏の太陽のような眩い笑みで、マスターが出迎えてくれるのは、サザンフィッシュの恒例である。

「おはよう、隆史君」
「おはよう、ノリコちゃん。モーニングコーヒーは必要かい?」

隆史の言葉に照れたように笑いながら、「お願いするわ」と返答し、観光客の女性はテーブルに付く。
モーニングセットと、入れたてのコーヒーをトレーに持って、隆史が彼女のもとへと歩いていくと、カラカラとドアベルの音が鳴った。

「おはようございま〜す」
「おう、おはよう、航」
「あ、航くん、おはよう。ちょっと来て――――」

店内に入ってきたのが航だと知ると、観光客の女性は相好を綻ばせ、航に向かって手招きをする。
隆史は、その様子を見て…苦笑しながら料理のトレーを女性の前に置くと、カウンターに立ち戻った。
サザンフィッシュに来る客のうち、観光目的の者以外には、隆史目当ての女性客も多く居る。ただ、最近は彼の弟子目当ての女性も増えたのだった。

「ああ、おはようノリコさん。なに? 今から朝食なの?」
「そうなのよ。航くんは、もう朝ごはんは食べてきたの? まだなら、お姉さんが奢ってあげるけど――――」
「あ――――…ごめん。朝はもう食べてきた。いちおう寮暮らしだし、朝飯を食べないと、用意したやつが泣いちまうからさ」
「そうなの、航くんって優しいのね。賄いのおばさんの心配までするなんて」

感心したように頷く女性に、航のほうは苦笑をする。まさか、自分よりも年下の少女が賄いとは、この女性は欠片も思っていないようだ。
と、そうやって談笑している間にも、また別のお客が階下に下りてきたのだった。今度も、うら若い女性である。

「あ〜、おっはよ〜、航くん。きてたんだねっ」
「おはよう、マサミさん。マサミさん達は、今日はダイビング?」
「そうだよ。インストラクターは隆史君でしょ? 今から楽しみでさ」

どこか闊達そうな雰囲気をかもし出す女性は、航と二言三言と言葉を交わした後、テーブル席について大きく伸びをした。
そうして、カウンターに居る隆史に親しげに、ひらひらと手を振って挨拶をする。隆史は微笑みながら、用意してあった朝食を、彼女のもとに届けるのだった。



「じゃあ行ってくる。後のことは、よろしくな」
「ああ、隆史さんも、心配ないとは思うけど………気をつけて行ってきなよ」
「もちろんだ。何かトラブルが起こったら、携帯にメールを入れるから、そん時は頼んだぞ」

宿泊客の食事が一通り終わり、今日のダイビングのお客と共に、隆史はサザンフィッシュを出ていった。留守番役は、航である。
夏の忙しい時期とはいえ、雅文は用事があるのか、今日は休みだった。何でも、デートの予定があると言っていたが、それが本当かは、半信半疑だと航は思っている。

「ふぅ…しかし、誰もいないとなると、それはそれで暇なんだよな」

まだ昼にもならない、午前中――――宿泊客は軒並み出かけており、新たにサザンフィッシュを訪れる者も、皆無である。
これが、昼時になると食事を取りに来る地元の人や、暑さに辟易し、涼みに来る学生などでそこそこ賑わうこともあるが、今このペンションには、航一人である。

(誰もいないのか――――いや、そうでもないか)

ふと、何とはなしにフロアでモップがけをしていた航の耳に、二階へと続く階段から、軽やかな足音が聞こえてきた。
視線を転じた航の視線の先――――このペンションの住人であり、彼のクラスメートである少女が、身のこなしも軽やかに一階に降りてきたのだった。

「おっはよ〜! あれ? 航君だ航くんだわったるくんだ〜! 今日はバイトの日だっけ? お兄ちゃんは? 朝ごはんの用意できてるの?」
「とりあえず、どれから答えていいのか分からないんだが――――とりあえず、座れ。朝飯の用意、するからさ」

寝起きだと言うのに、全然眠そうじゃない茜に微苦笑をし、航はキッチンに足を向ける。茜用の朝食を温めながら、航は何とはなしに、茜の様子を見る。
勝手知ったる自分の家とばかりに、茜はコップに水を注ぐと、テーブル席について頬杖を付いてくつろいでいる。
話し相手もいないせいか、口を閉じて物憂げに窓の外を見る茜の姿は――――それなりに様になっており、ほんの一秒ほど、航は見とれてしまった。

まぁ、見とれていたままでも仕方がないので、朝食を手早く用意をすると、航は茜のもとに歩み寄った。
ついでに、照れ隠しなのか、ふざけた感じで執事っぽく茜に声を掛けてみたりする。

「どうぞ、朝食でございますよ、お嬢様」
「わ〜い、ご飯だごはんだ朝ごはんだ〜! やっぱり日本人の朝食としては、朝はご飯が一番だよねっ」
「いや、トーストセットだし………というか、俺のアクションはスルーかよ」

呆れたような航の視線を意に介さず、茜は焼きたてのトーストに、蜂蜜をぺたぺた塗りたくる。甘い物好きな茜は、手加減と言うものを知らないようだ。
その様子を見て、航は呆れたように目を細めた。サザンフィッシュでのバイトは朝早くから夜遅くまで不定期なので、こうやって茜が食事を取るところを見ることもある。
毎回、茜の食事をする様を見て、航はどこかしらに驚いたり、呆れたりするのが常であった…それは反面、茜の行動が、見ていて飽きないことの裏返しなのかもしれなかったが。

「はぐはぐっ………ん〜、おいし〜、おいし〜よっ、最高だよっ、航くんっ」
「はいはい、そういうことは隆史さんに言ってくれ。涙を流して喜ぶだろうからな」
「も〜、航くんったら、つれないなぁ。まぁ、そういう所が航くんのいいとこだけど――――あれ? そういえば、お兄ちゃんは?」

モップがけを再開した航に、茜はトーストをかじりながら、怪訝そうに質問をする。航は手を止めることなく、板張りのフロアにモップをかけながら応じた。

「ダイビングのお客と出かけてるよ。今日は、二つの大学のサークルの掛け持ちで、ちょっと忙しくなるみたいだからさ」
「ふ〜ん。んじゃさ、雅君は? 今日はバイトの日じゃなかったっけ?」
「雅文のやつは急用だよ。何でも、本命とのデートに漕ぎつけたから休ませてほしいって言ってな。本当は今日は、俺が休みのはずだったんだが」
「そなんだ。色々と苦労してるんだね〜、航君ってばさ」

トーストをかじり終えて、二枚目に手を伸ばそうとした茜の眼前で、航の動きがぴたりと止まった。
なにやら恨みがましい目線を航は茜に向けてきて、茜は驚くより先に、航のその視線に困惑したようであった。

「何? 何? 何なのその熱視線ってば!? ひょっとして航くんも、私とそんな風にデートしたいとか思ったりしちゃったりなんかしたりして〜!」
「いや、そうじゃなくてな………茜、今日のバイトのローテーション、覚えてないだろ」
「へ? バイトのローテーションって…お兄ちゃんでしょ、雅君でしょ………で、補欠の航くん」
「補欠って言うな! そもそも、何で俺が朝早くから出張ってきてると思ってるんだよ…」

怒る気も失せたのか、肩を落として溜息をつく航に、茜はしばらく考えると――――不意に、何かを思い出したように気まずそうな表情を見せた。

「ええと、もしかして、ひょっとして――――今日って私のバイトの日だっけ?」
「そういうことだ。ま、いまさら急げとは言わないけど、メシ食ったらちゃんと働けよ」

なんだかんだ言って、女の子に甘いのは隆史だけでなく航も一緒のようで、それだけ言うと、モップがけを再開した。
ここで気弱そうな少女とかだったら、良心の呵責にさいなまれて、食事を中断してバイトに入ったりするのだが…色んな意味で素直な茜は、航の言葉を残面的に承諾したりする。

「は〜い。あ、航くん、お水のお代わりちょうだいっ」
「はいはい」

茜の言葉に苦笑をし、航は飲料水を取りに、キッチンの中に入っていったのだった。



お昼時――――昼食を求めるお客が訪れ、サザンフィッシュが一番に繁盛する時間帯である。
といっても、のんびりとした離れ小島のペンション。某フードコートのアンティーク喫茶のような忙しさは見受けられない。
ぽつぽつと訪れるお客がのんびりと昼食を楽しんでいる――――その大半は、従業員の顔見知りと言っても良かった。
そんなわけで…今日も今日とて、航の顔見知り――――というか、一緒に住んでいる相手がひょっこりと顔を出したのだった。

「航ー、早くこっちに来なさい」
「はいはい、なんでしょうか会長? 注文なら歓迎するけど」

カウンター席に座り、自分を呼ぶ年上の少女に、航はめんどくさそうに歩み寄る。丁寧とは言えない応対に…会長と呼ばれた少女は、特に気を悪くした風もなく笑みを浮かべる。
彼女にとっては、航が変に自分を意識するよりも、ぞんざいに扱ってくれた方が気が楽なところがあるのだった。

「そうねぇ…適当に見繕ってちょうだい。お代はそっち持ちで」
「俺の労働の対価を、さも当然のように使おうとするなよ、あんたは」
「冗談よ。さすがに働く前から労働意欲を失わせるつもりはないわ。収穫時期には程遠い季節だしね」
「………俺に選ばせるんだから、後で文句言ったりするなよな」

どこまでが本気で、どこまでが冗談か分からない会長の言葉――――下手をすれば、全部が本気かもしれないその言葉に、航の背中に冷や汗が流れる。
しかし、口での勝負では分が悪いと分かっていたのか、航は素早く踵を返すと、そそくさとキッチンの中に退散したのだった。
その様子を見て、面白そうに微笑む会長。と、自らに向けられた視線に気づいたのか、表情をわずかに引き締めた。

「あっ、会長さんだ会長さんだ会長さんだ〜! いらっしゃいませ、ようこそサザンフィッシュへ〜! ご注文は何になさいますか〜?」
「ああ…隆史さんの妹さんね。こんにちは。貴方も、ここでバイトをしてるの?」

同性でも見とれるような…優しげな笑みで、会長は茜に応対する。普段なら、その笑みで相手は骨抜きになって、会長としても御し易くなるのだが――――。
茜はというと、見惚れるわけでもなく、恐縮するわけでもなく、いつも通りの友達感覚で、会長に接するのであった。

「は〜いっ! 働かざるもの食うべからずと言うこともあり、私も航くんと一緒にここで働いてま〜すっ! 労働条件は普通だけど、航くんと一緒ってのがポイント高いよねっ」
「そ、そうなの………ええと、三田村さんは星野君のクラスメートだったかしら?」
「はいっ! 三田村茜、XX歳! 航くんや海己ちゃんのクラスメートで、ちょーっと無口で、神秘的な女の子! 会長さんの事は、航くんから毎日聞かされてますよっ」
「…へぇ、そうなんだ」

微妙に、声のトーンが落ちて、わずかに不機嫌そうな表情を見せる会長。と、間の悪い事に、用意した料理を持った、航が顔を覗かせたのだった。

「会長、別に和食でも洋食でもどっちでもいいんだよな? って、何で怒ってるんだ?」
「航、ちょっとこっちに来なさい」

先ほど、店に入ってきたばかりに航にかけた声と比べると、半トーンほど低い音色の言葉を投げかけ、会長は席を立った。
そうして、すたすたと店の外に出て行ってしまう――――航が我に返ったのは、会長の姿が消えて、しばらく経ってのことである。

「え、ちょっと、料理はどうするんだよ――――何なんだ? いったい………茜、悪いけど後は頼むな」
「うんっ、ばっちり任せてよ!」

用意した昼食をカウンターに置き、航は店を出て行った会長を追う――――会長は、店を出てすぐの駐車場で、航を待っていたのだった。

「で…なんだよ? 今はバイト中なんだし、用件は手短にしてくれよな」
「あんた、学校で私の寮でのことを…ペラペラと吹聴してるわけじゃないでしょうね?」
「………は? 何でそんなこと聞くんだ? だいたい、そんなことしても、何のメリットもないだろ?」
「いや、それならいいんだけどね――――何となく、不安になったから」

不機嫌な表情を直そうともせず、会長は航から視線を外しながら、そんな事をのたまった。航はというと、いったいどうしたんだろうかと、内心で小首を傾げるだけである。
会長が不機嫌になった理由は、茜が航のことを親しく話していたせいなのだが――――何も知らない航はもとより、会長自身もその事に思い当たらなかったのだった。
それは、世間一般では嫉妬と呼ばれる部類に値する感情なのだが――――それを認めるには、彼女は少々、理知的でありすぎたのである。



さて、そんなこんなで一悶着はあったものの、おおむね平和に昼下がりの時間帯は過ぎ去っていった。
サザンフィッシュで食事を終えると………また昼過ぎの炎天下、それぞれの用事を済ませるために、一人二人と、お客は店から出て行く。
そうして、3時ごろには店内には、航と茜、あと、さしたる用事もないのか、会長がカウンターでのんびりとくつろいでいるだけであった。

ペンションの外からは、夏の到来を告げ続ける蝉時雨。ときおりそれに、犬の鳴き声や悲鳴も混じっていて――――、

「きゃあっ、な、なんなんですかぁ、このわんちゃんはぁっ!?」
「………みや、だいじょうぶ?」
「だいじょうぶじゃありませんっ! あ…せんぱぁいっ、見てないで、たすけてくださいよぉっ」


「呼んでるみたいだけど、行かなくていいの、航? あれじゃあ、営業妨害になるかもしれないわよ」
「………はぁ、やれやれ。 さえちゃんといい、みやといい――――どうしてこうもドンくさい女性が多いのかねぇ」

会長に促され、溜息混じりに、店の外に視線を向ける航。店の外では、犬とじゃれ付く可愛い少女…というか、犬にのしかかられて獣○寸前といった風情の光景が展望されていた。

「犬は飼い主に似るって言うけど………あれは悪気はないんだろうなぁ」
「ん〜、そだね。レオパルドンったらちょーっとばかし、フレンドリーと言うか、親密と言うか、人見知りしないって言うか――――って、何か航くんの視線が気になるんだけど…?」
「いや、なんでもない。さて、それじゃあ止めに入るとするか」

さすがに、このまま放っておくわけにも行かないので、航は茜から視線を外すと、後輩の危機を助けるために、炎天下の外へと足を踏み出したのだった。

「ぅっ、ぅっ………酷い目にあいましたよぉ」
「ぁ”〜………ぐずるなぐずるな。ほら、払ってやるからもうちょっとこっち来い」

数分にわたる格闘の末、宮を救い出した航は、とりあえず宮を店内にかくまった。ちなみに、レオパルドンは外で寝そべったままである。
割と大型な犬に組み敷かれていたせいか、宮の着ていた夏物の服は、ところどころよれよれで、埃だらけになっていたりする。
ついでに表記すると、一緒にいた静は、時折レオパルドンに絡まれながらも、服には汚れ一つなく、店内で涼んでいる。
運動神経の差が如実に出たと言うか、要領のよしあしがもろに出ているような結果であった。

「ほら、はたけば綺麗になるからもう泣き止め。次は後ろな」
「もう、もう、お嫁にいけませんよぉっ………」

よっぽど、犬に押し倒されたのがショックだったのか、航の言葉に従って後ろの向きながらも、宮は情けなさそうにしゃくりあげる。
六条宮穂――――わりと皆に感化されているとはいえ、もともと箱入りのお嬢様と言うこともあり、こういった事には免疫がなさそうだった。

「はいはい、貰い手がいなかったら俺がもらってやるから。いいかげん泣くのはやめろよな」

そんなわけで、航としても気を使わないわけにも行かず、可愛い後輩に慰めの言葉をかけたのだが――――、

「――――ほんとうですかっ!? 言質をとってもかまいませんよねっ?」
「…社交辞令、と言うものを知らないのかね、君は。と言うか、嘘泣きしてるなよ」
「嘘泣きなんかしてませんよぉ。ただ、先輩の言葉がそれ以上に嬉しかったからで――――あ、先輩、もう少し強めにお願いします」

鳴いたカラスがもう笑った――――そんな表現がぴったりな感じに、機嫌をころりと直した宮は、背中をはたく航に、そう注文をつけた。
はいはい、と生返事をして、パタパタと背中を叩く航。そんな航の行為に、うっとりと目を細める宮。
尻尾や耳があったら、嬉しそうにパタパタと動いているのは間違いないだろう。そんな光景を、他の者たちは、呆れたように見つめていたのだが。

「って、なんなのなんなの? この甘ったるくてちょっとしょっぱいような切なさに満ち満ちたような、そんな空気は〜! 換気しないとっ」
「いや、換気して直るようなものじゃないと思うんだけどね………しかし、航も迂闊だけど、宮もまだまだね。泣き落としするなら、証拠も残すようにしないと」

カウンター席に座って、事の次第を見届けていた会長は、窓際に駆け寄る茜を横目で見ながら、唇の端をわずかに上げた。
どちらも可愛い後輩であり、じゃれ付く様は、まぁ、見ていて不快なものではなかった。もっとも、航の相手が見知らぬ女だったら、それはもう不機嫌になるだろうが。
このあたり――――会長の中では、宮はまだ危険分子として登録されていなかったりする。ただし、状況しだいでどう変わるかは分からないのだったが。

と、そんな余裕の会長とは正反対に、不機嫌そうな表情を見せるのは静である。
静と宮は仲がよい。それはまず間違いのないことだったが――――航が宮に構ってばかりで、自分のことを見てくれないのは、静にとって不満だった。
それで、宮を責める気は静には毛頭ない――――とすれば、不満の感情の向かう先は…当然一人に絞られるわけで………、

「わたる、わたる〜…」
「ああ、ちょっと待ってくれよ。今、宮のことで手が離せな――――痛っ」
「〜〜〜〜」

ぎゅ〜、と航のわき腹を、不満そうに思いっきりつねる静。航の場合、わき腹に贅肉が少ない分、女の子の手とはいえ、けっこう痛い。
とはいえ、衆人環視――――というか、女の子の目が多数あるため、情けなく振舞うわけにも行かないと、悲鳴をこらえる航。
ただ、そんなやせ我慢は、静の心情を逆なでするだけであり――――、ますます握った手に力を込めたりするのだった。

「〜〜〜〜!」
「う”お”…ちょっとまて、さすがに、肝臓に響く、ような…」
「先輩、先輩。手が止まってますよぉ。次は、スカートの中もお願いしますっ。汚れちゃいましたから」

航が、割と大変な事になっているというのに、宮は宮で、のんびりとそんな事をのたまうのだった。
ほっとくと、また泣き出しかねないので、航は静の攻撃を耐えながら、泣く泣く宮の太ももをはたくのだった。

「………あれ?あれあれ?あれあれあれ? なんだか私が駆け回っている間にすんごい事になってない? 修羅場? それとも両手に花? ん〜、どっちなんだろ」

たたたー、と、店内のあちこちの窓を開け放っていた茜は、困惑したように足を止めて首をかしげた。
茜の視線の先で、わあわあと騒ぐ三人。それは傍から見ていて、仲睦まじいと言うにぴったりで、茜のこめかみに、たらりと嫌な汗が流れた。

「ぅ”〜、なんだか今度は無駄に暑くなってきたよ? 冷房入れなきゃ、あ、入ってるんだっけ? とりあえず、涼しくするために締め切らないと」
「あらら、なんだか熱くなったり冷たくなったり、せわしないわね………夏だからかしら?」

再び、店内の開け放った窓を閉めるために駆け出した茜を見ながら、会長は苦笑をする。
昼下がりのサザンフィッシュの店内は、それから後も、暑くなったり涼しくなったりと、落ち着かない空気に包まれたのだった………主に、人為的な意味で。



「さて…二人とも、注文はどうするんだ?」
「クリスタルパフェでお願いしますっ!」
「ん〜………みやとおんなじの」

それから後…テーブル席に着いて、水を運んできた航に対し、意気込んだ顔で注文をするのは――――生粋のお嬢様である六条宮穂である。
対照的に、どこか興味なさげに注文をするのは静であり――――航の持ってきた水を一気飲みして、一息ついたのだった。

「はいよ、ちょっと待ってな」

注文を受けた航がカウンターに姿を消すと、入れ替わりにテーブルに近づいてきた人物がいる。
一人での暇を持て余したのか、可愛い後輩をからかうのが目的なのか、ロングヘアーの美女である会長が、自分の飲み物を持って、テーブル席に歩み寄ってきたのだ。

「ご同席良いかしら? ほら、静、席を詰めてちょうだい」
「や、立つのがめんどいもん」
「あ、可愛くないなぁ。そんなんじゃ…いい女には、なれないわよ?」

いかにも静らしい返答に、呆れたように会長は肩をすくめる。その様子を見て、苦笑を浮かべた宮は…自ら座っていた席を立つと、隣の席に移った。

「あの、奈緒子先輩…よろしければ、こっちの席をお使いください」
「ありがと、宮。宮はいい子ね〜、自慢の後輩だわ」
「えへへ、そんなぁ、誉めないでくださいよぉ」

会長の賞賛の言葉に、てれてれになる宮。どうも、育ちのよさのせいか、宮は誉められることに純粋に喜んでしまう節がある。そのせいで、貧乏くじを引くことも…しばしばあったが。
テーブル席に腰を落ち着けると、会長は宮と静の様子を一瞥する。夏服に身を包んだ二人の少女は、たとえるなら宮が向日葵、静がヒメサユリといったところか。
………少々、違和感を感じるかもしれないが、そこはそれ、花言葉を紐解いていただければ了解してもらえるだろう。

まだまだ夏の盛りとはいえ、日焼けのあとが目立つほどではない時期――――のんびりと両手足を伸ばしながら、静も宮もくつろいでいる。
そんな二人を交互に見やりながら、会長は差しさわりのない質問を二人に投げかけた。

「それで、今日は二人で出かけていたのかしら? 察するに、宮が静を連れ出したみたいだけど」
「はいっ。いつもは自由研究を、先輩に手伝ってもらっているんですけど…あいにく急用が出来たとのことですので、代理に静ちゃんを指名したんです」
「ん………だがしやにいって、おばあちゃんと話したんだよ」

何でも、永森屋商店に住んでいるおばあさんが、宮の祖父について、知っているとのことで――――今日も今日とて、話を聞きに行ったらしい。
アイスバーやラムネなども買いつつ、けっこうな時間を話したらしいが………詳しい内容については、話題に上ることもなかった。
代わりに話題に出てきたのは、駄菓子や訪問を終え、サザンフィッシュに向かう道筋でのことである。

「そうそう、お婆さんのお店からこっちに向かう途中で、クラスの人達と会ったんですよ。何でもこれから、繁華街のほうで遊ぶとか何とか」
「ん、いっしょに遊ぼうってさそってきたよ。内藤とか」
「へぇ………あれ? じゃあ何でこっちに来たのよ。わざわざ誘ってくれたんだし、付き合っても良かったんじゃない?」

会長の疑問はもっともである。もともと、学年に一つしかないクラスのため、みんな仲間意識が強く、静も宮も、クラスメートと仲良しといっても良かった。
だから、予定を変更して繁華街あたりで遊んでも不思議はないのだが――――会長の質問に、のんびりとした様子で宮は微笑んだ。

「ええ、それも良かったんですけど――――どうしても都合がつかないことがあって…」
「みや、ここのパフェをたのしみにしてたもんね」
「ああっ、だめですよぉ静ちゃんたら! そこは乙女の秘密っぽく、はぐらかす所なんですからっ」

ようは、どうしてもクリスタルパフェが食べたいので、誘いを断ってこっちに来たらしい。色気よりも食い気といったところか。

(………まぁ、それだけが理由じゃないんでしょうけど)

慌てながら、静に言葉を投げかける宮。そんな会話を耳に挟みながら、奈緒子は視線を動かしてカウンターの方を見やる。
そこではサザンフィッシュの男子従業員…というか、バイトの少年Aがクリスタルパフェを用意している様子が見て取れた。
彼女達がサザンフィッシュに来たのは、航がいるからという理由もあるだろう。その点は、疑いも持っていない奈緒子であった。

「じゃあさ、そのクラスメートもこっちに誘ってくればよかったのに。お客さんが増えるなら、サザンフィッシュとしても何の問題もないでしょ?」
「いえ、まぁ、その………先輩がここにはいますから」

何とはなしにもらした会長の言葉に、苦笑して返したのは宮である。その目は困ったように、静のほうに向けられていた。

「…? どゆこと?」
「ほら、さっき静ちゃんが言っていた内藤君――――彼が、静ちゃんに興味を持っているみたいなんですよ」

怪訝そうな表情の会長に、宮は苦笑しながら説明をする。その様子で、何となく奈緒子は、その内藤某といった男子が静に向ける『興味』の意味を察したのである。
自分が幾度となく他の男から…航からも向けられたことのある興味――――好意と意味合い付けても構わないだろう。
静とて、年頃の少女である。別段、そういった浮いた話が出ても不思議ではないが………静の保護者である航がどういう反応をするか、会長にも簡単に想像がついた。

「なるほどね。そりゃあ大変だわ。雨が降りそうよね………真っ赤な雨が」
「………? そと、晴れてるよ?」
「いや、そういう意味じゃないのよ、静」

苦笑しながら、まだ静は恋愛をするには程遠いな――――などと、思わず考えてしまった奈緒子である。
そんな事を考えていると、用意が出来たのか、航が両手に大きなトレーを持って、こっちに歩み寄ってきた。その上に載っているものを見て、宮の瞳がきらきらと輝いた。

「はい、おまっとさん。サザンフィッシュ特製のクリスタルパフェだ」
「わあっ、綺麗ですねっ…まるで宝石みたいですよっ」

そういうと、宮はスプーンを手に、さっそくクリスタルパフェの攻略に取り掛かった。色とりどりのシロップの掛けられたパフェは、見た目だけでなく、味も良好である。
心底嬉しそうにパフェを食べる宮とは対照的に、静は何の気なしにパフェをつついている。しかし、見知ったものが見ればその相貌が綻んでいるのが丸分かりであった。
そんな二人の様子が嬉しいのか、航は満足そうに頷きながら、後輩二人の少女の様子を見つめていたのだった。

「うんうん、二人とも喜んでるみたいだな。あ、会長はどうするんだ? 何か注文があるなら、作るけど」
「………そうね、どうしようかしら」

そんな航に話を振られ、どうしたものかと考え込む会長。と、その時、頭上から航を呼ぶ声が響いてきた。

「航君航くんわったるく〜ん! 大変だよ、いちだいじだよ、大事件だよ〜、ちょっとあがってきて〜!」
「ん…? わり、会長。ちょっと待っててくれよ――――なんだ? 今日は何をやらかしたんだ、茜のやつ…」

そういうと、航は二階へと続く階段に歩を進めた。どうやら、茜は二階にいるらしい。先ほどから姿が見えないと思っていたが、ロフトフロアで何かをしていたようであった。



「航君航くんわったるく〜ん! 見て見て、凄いんだよ、ほらっ」
「あ”〜、大声で連呼すんなよ。会長達が下にいるんだからさ………で、何だって?」

二階に上がってきた航が視界に入ると、茜は嬉しそうに開け放った窓際で…ぶんぶんと手を振って航を呼ぶ。
その様子を見て、本当にこいつは同年代なのか? などと内心で考えながら、航は彼女の立つ場所へと歩を進めた。開いた窓から、潮風が流れてくる。
茜の指差すその先には、窓の外――――蒼穹の空と、日の光を浴び、きらめく水面が視界一面に広がっていた。二色の青が生み出す、果て無き水平線。

「ね、凄いでしょ、綺麗でしょ、なんだか、空の色が海に溶け込んだみたいだよねっ。なんとはなしに掃除してたらさ、急に目に入ってきたの!」
「――――確かに、凄いな、こりゃ」

雲一つない青空と、どこまでも続く海原………海岸線に面したペンションだからこそ、見ることのできる光景がそこに広がっていた。
しばしの間、言葉を紡ぐことも忘れてしまったかのように呆けていた航は、一つ大きく息を吐いた後、ポツリとつぶやきを漏らしたのだった。
水平線と空の境目が分からないほどの、青に染まった世界――――よくよく見れば、遠くなればなるほど、海の色は青く、近場の海はわずかに緑がかっていた。
単一ではない、複雑な蒼青藍のグラデーション。自然が気まぐれに生み出した、極彩色の風景画が、二人の眼前に広がっていたのである。

「すっごいなぁ、ここに越してきて、はじめてみたよ、こんな景色!」
「………って、待て。サザンフィッシュに引っ越してきたのは4月だろ? 3ヶ月近くも、この景色に気がつかなかったってのか?」

さすがに呆れたような表情をする航。しかし、そんな航の視線などへっちゃらな様子で、茜は暢気に笑っていた。

「ほら、綺麗なものとか大切なものって、意外と近くにあるって言うじゃないの? だから、目に入らなかったんだと思うよっ」
「そういうもんか?」
「うん、そだよ。ほら、幸せの青い鳥ってあるじゃない? 幸せってのは、意外に身近な所にあるってやつだよっ」
「――――確かに、そうかもしれないな」

茜の言葉に、思い当たる節があったのか………航は、くすぐったそうな笑顔を見せた。何を考えているのかは、想像に任せるとしよう。



「遅いですねぇ、先輩………何を話してるんでしょうか?」

所変わって、こちらは一階のフロア――――あいも変わらずクリスタルパフェをつついていた宮が、少々気になったように、視線を上方に向けて呟いたところである。
宮達の座るテーブルからは、二階のロフトフロアで談笑する航と茜の姿が丸見えである。開け放った窓際で、楽しそうに話す男女のペア。
それはまぁ、お似合いのカップルに見えなくもない。ただ、茜の声が大きいので、別段不穏な会話をしているわけではないのは、聞こえてくる会話の節々から理解できた。

「――――ごちそうさま。あれ…わたるは?」
「あら、気づかなかったの、静? 航はあそこよ」

いち早くクリスタルパフェを食べ終わってから、航の不在に気づいてキョロキョロと辺りを見渡す静。そんな彼女に微笑みかけ、会長は人差し指を上に向けた。
その指先の示す先――――二階に佇む航を見つけて、静は座っていた席から腰を上げると、とび跳ねるように床に足をつける。
そうして、会長や宮が静止する間もなく………階段を登って二階にいってしまったのだった。

「ん…? うわ、何だよ、静?」
「わたる〜、あそぼ」
「って、いきなりの奇襲作戦っ!? すごいよ、航くんを駆け上がったよ! サーカス? 軽業師? 実はマジシャンっ!?」
「そんな事実は存在しないが――――って、こら、静! 引っ張るなって」

二段蹴り肩車――――お得意の技で、航の肩の上に乗っかった静に向かって、茜は眼を輝かせる。
そんな茜に、思わず突っ込みを入れた航だが、相手にしろとでも言わんとばかりに、髪を引っ張り始めた静に悲鳴を上げる。

「あら、なんだか楽しそうね。私も二階にいってみようかしら」
「わ、わ、ちょっと待ってくださいよぉ、奈緒子先輩っ………私はまだ、これを食べ終わってないんですからぁ」

二階の様子に興味を引かれたのか、立ち上がりかけた会長に、宮は慌てたように声を掛ける。
宮のクリスタルパフェは、まだ半分以上残っている。これは宮が食べる速度が遅いのか、静が早いのか――――おそらくは両方であろう。
一人で置いていかれては大変と慌てる宮だったが、会長の態度は素っ気無い。

「ん? 別にいいじゃない。ゆっくり食べていれば。私は向こうで楽しくやってるから」
「そんな………ひどいですよぉ。一人で食べても、美味しくなんかないんですからっ」

くしゃっ、と宮の表情がゆがむ。そのまま泣き出しそうな気配を出し始めた宮に、会長は苦笑いを浮かべて腰を下ろした。

「わかったわよ。食べ終わるまで待っててあげるから、ちゃっちゃと食べちゃいなさい」
「は、はいっ、わかりましたっ! えへへ、やっぱり奈緒子先輩は、なんだかんだ言っても優しいですよね。照れ隠しで、わざとぶっきらぼうになる所とか特に」
「――――いいから、食えって言ってんのよ。何なら、あたしが直々に食べさせてあげようか?」

険しい顔で、じろりと宮を睨む会長。しかし、それは照れ隠し以外の何ものでもなく…結局、宮は終始笑顔で、残りのパフェをつついていたのだった。
そうして、一階でくつろいだ時間を過ごす会長と宮。二階からは、茜の歓声と航の悲鳴………昼下がりの午後の一幕は、そうして過ぎていったのであった。



時は過ぎて日の落ち始めた夕方から、日の暮れて夜の帳が下りる頃――――ダイビングを終えた観光客達が、宿泊先であるペンションに戻ってくる時間帯…。
お客が夕食の席に着く、これからが…今日で最も忙しくなる時間帯といっても良い。そんなこんなで賑わいを見せている食堂で、航はてんてこ舞いに働いていた。

「おーい、航。注文のスパゲティとサラダの盛り合わせ、あと、中ジョッキも出来たぞ!」
「はーい、分かったよ、隆史さん。っと、ガーリックステーキと、カルボナーラです! どうも、お待たせしましたっ!」

元気良く返事をすると、料理を目一杯両手に持って、一階と二階のフロアを駆けずり回る航――――ちなみに、ウェイターは彼一人である。
夕方からしばらくの間は、茜も働いていたのだが………夜も更け、お客達に酒が入ってくるのを見計らって、隆史が自室に戻したのである。
悪気があろうと無かろうと、酒が入れば色々とたがが外れやすくなるのが人というものだ。ましてや、夏のリゾートに来ている観光客ともなれば、その傾向は強いだろう。
そんなわけで、妹思いの隆史としても…そんな危険極まりない場所に、大事な妹を放り込むつもりは毛頭なかった。

「ね〜、航くん、こっちに来て、一緒に飲まない?」
「あ〜、ごめん清美さん。 今、両手がふさがってるからさ…これ終わらせたら、そっちに行くよ」

………まぁ、だったら、男の後輩(航)だったら良いのか? と、疑問の起こるところだが、その点について隆史は何も心配はしていない。
基本的に客のあしらいに長けているし、多少羽目を外しても、今の彼の場合は必要以上に暴走はしないだろうと、隆史は予測していた。

「航、注文はまだまだあるんだぞ〜! 早く持って行けよ」
「ぁ、いけね………そんじゃ、清美さん。また、後でね」
「――――うん、待ってるからね。航くん」

慌てた様子で、カウンターに掛けて行く航の後姿を…上気した表情で相好を崩した大学生の女性が見つめている。
彼女の名前は佐倉清美――――昨年もこの島に観光でやってきた彼女は、今年も観光にやってきたリピーターの一人である。
観光の目的は、ダイビングもあったが…彼女個人に限って言えば、航に会いに来たというのも、理由の一つにはあるだろう。

別段、それは彼女に限ったことではなく――――今日泊まりに来ている宿泊客のうち何人かは、航に対して恋慕に近しい感情を持っている者もいた。
もっとも、ペンションのオーナーである隆史に好意を寄せている宿泊客は、それ以上に多かったのだけれど。
そんなわけで、あっちこっちから呼ばれては、引っ張りだこ状態の航である。清美に声を掛けられた後も、複数の女性に声を掛けられ、絡まれている。

そんな引く手数多の状態ではあるが、航をめぐって宿泊客のいざこざというのは、不思議と起きなかった。
お互いに、何となく不文律――――言うなれば、タレントに対するファンの連帯感に近しい空気すら、その場には流れていたのである。

「ねぇ、航くん、明日はオフなの? だったら、お買い物に付き合ってほしいんだけどな〜」
「ああ、別に用事はないけど………俺で良いの?」
「もっちろん! それに、ただで荷物持ちなんてさせないからさ。楽しみにしててね」

フロアのあちこちを飛び回りながら、仕事をこなし、約束も取り付けていく。そつがなくなってきたな………と、おかしそうに呟いたのは隆史であった。
去年はまだ、どことなく危なっかしい面すらあった航であったが…今では立派に隆史の弟子一号として成長を遂げていたのだった。
もっとも、女性とのつきあいに関しては、まだまだ隆史に一日の長があったわけだが………なにせ、この夏は既に、女性関係のスケジュールがびっしり詰まっている隆史である。
加えて、さらにスケジュールの追加、ダブル・トリプルブッキングくらいならお手の物というのだから開いた口がふさがらない。

さて、そんなこんなで仕事をこなす航ではあったが、去年とは違ったところも少しだけあった。
去年は、無断外泊や朝帰りもざらにあり、バイトが終わってそのまま、宿泊客の女の子と夜をすごすということも、ざらにあったのだが…。
取り付ける約束は、日中に限っており、かつ、今夜のお誘いなどは丁重にお断りしていたのだった。

(………ま、つぐみ寮のことを考えれば、それも当然かな)

カウンターで調理をしつつ、そんな航の様子に気づいていた隆史は、内心でそんな事を思っていた。
少なくとも今の航には、帰るべき場所がある。それが彼に余裕のようなものを与えていたのだが――――宿泊客の女の子達にとっては少々不満なのかもしれない。

「じゃ、隆史さん。俺、そろそろあがるから」
「「え〜〜〜〜、航くん、帰っちゃうの!?」」

案の定、十時を過ぎた頃に航が帰ろうとすると、あちこちから不満の声が上がった。その様子に、驚いたような表情を見せる航。

「まだ夜は長いんだし、もうちょっと一緒にいようよ〜」
「そうだよ、なんだったら泊まりでも良いんだしさ」
「や、そういうわけにもいかなくてさ――――隆史さんも、見てないで助けてほしいんだけど」

何とか航をひきとめようとする彼女達。そんな彼女達をどう扱って良いか困った航は、その道の師匠に助けを求めたのだが――――、
彼の兄貴分であり、その道の師匠である隆史はというと、助けを求める航の要請を一蹴したのであった。

「甘ったれるな、自分の問題くらい、自分で解決しろよ。俺はお前を、そんなひ弱に育てたつもりはないぞ?」
「育てられたわけじゃないけど――――ぁ”〜、まいったな…」

心底困った表情の航。その後、彼がどうしたのかと言うと――――…。



「――――じゃ、帰るから、また明日ね。隆史さん」
「おう。しかしまぁ、何とかしたようだな。随分と、静かになったみたいだけど」

呆れたような笑みを浮かべて、隆史はフロア内を見渡す。夜十時過ぎのペンション内――――先ほどまで、航目当てにいた女性客は、その人数を半減させていた。
なんのことはない。航が帰るのを渋っていた女性客達を、航は言いくるめ、また、酔い潰させては部屋に送り返したのだった。
所要時間は30分足らず――――ホストもかくやという感じの航の暴れっぷりに、さすがの隆史も呆れていた。
しかし、隆史のそんな表情を航は見ていなかった。その視線は自らの手首に注がれている。腕時計の針は十時半過ぎ…予想以上に手間が掛かってしまったらしい。

「うわ…まずっ。俺の分の夕食、海己のやつ、残してくれてるだろうな………?」

からころと…カウベルを鳴らして、航は焦ったように店から出て行った。航を見送ってから、隆史はあらためてペンション内を見渡す。
フロア内では、何名かの男女が…各々テーブル席やカウンターについてくつろいでいる。娯楽の少ない島であるため、島の夜は早い。
島内のスナックで飲んだり、男女が密会したりして夜を過ごす他は、皆、就寝の時間は早い。この食堂も、そろそろラストオーダーにする時間だ。

(さて、こっちはこっちで夜のお相手を見繕うとしようか)

一夜の相手を望んでいるのは、自分も相手も一緒――――そんな、シンプルな感情こそが、夏のアバンチュールなのかもしれない。
オーダーを聞いて回るうち、互いに納得づくで夜を過ごす相手を決めるのが、夏の時期…隆史の夜の過ごし方だった。
そうして、夏の一日が過ぎていく――――騒々しいサザンフィッシュの一日は、そうして日めくりのカレンダーをまた一枚、めくる事になったのだった。



薄暗い部屋に、すやすやとした寝息が聞こえる。無垢な表情で眠る少女――――その顔は、天使のように、あどけない。
普段から、天真爛漫というか、子供っぽいと言われることもあるその表情は…寝ているときはその特徴を際立たせる。
幸せな夢でも見ているのか、茜は緩んだ表情で、その唇から寝言を漏らす。

「ん〜………だめだよレオパルドン、それは航くんのショートケーキなんだから、いっしょに紀ちゃんと雅くんもつけるよ〜…」

……………………夢の内容はさておき、トコトンまでに幸せそうな表情の茜である。
そんな折…茜の部屋の扉がわずかながら開いた。誰かが、ドアの隙間から部屋の中を覗いている。変質者というわけではなく…隆史が茜の様子を身に来ただけのようだった。

「よく、寝ているみたいだな」

眠っている茜の様子を遠目から見て、隆史は幸せそうに頬を緩める。部屋の中に入っていかないのは、茜を起こしてしまわないように配慮をしているからだろう。
茜に気を使う隆史の様子を、彼の知人の女性が見たら――――きっとどこかしら………嫉妬を感じてしまうだろう。
それほどまでに、茜を見る隆史の表情は優しく、まっすぐな愛情に満ち満ちていたのであった――――少々、ベクトルがおかしいような気もする真っ直ぐであったが。

「おやすみ、茜」

茜の寝ている姿を見ていて満足したのか、隆史はドアを閉めるとその場から立ち去る。
それは、日付の変わる寸前――――、一日の最後の瞬間に起こった、ちょっとした小喜劇であった。


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