〜それは、日々のどうでもいいような小話〜 

〜Smile for you〜



「ほ〜ら、こうだ、こう」
「………むぃ」

洗面所の鏡、そこに静を向かい合わせに立たせ、俺はその背後に立って、ほっぺたをむにぃ〜と引っ張る。
お風呂上り、すべすべの肌になった静は、パジャマ姿で俺の行動を、ちょっと迷惑そうに受け入れていた。

いよいよ始まった、静の学校生活。宮からの情報では、静はとりあえずさしたる問題もなく、一年のクラスに受け入れられているようであった。
とはいえ、それは一時期だけのことかもしれないし、このままずっと、クラスに溶け込めていけるのかもしれない。
要するに、先のことに対する保証などないため、俺はこうやって、静を日々、教育しているのであった。

「わたる〜、もういいでしょ」
「何を言うかこの不精娘。愛想の一つくらい、軽く振りまけるようになれ」
「なおこみたいに?」
「…せめて対象を宮にしておけ」

会長レベルでの愛想を振りまく静…ある意味見たくもないような、それでいて興味があるような。

「ほら、話をそらすな。もう一回、笑顔の練習」
「う〜…」

不満げに喉を鳴らす静。相手がネコっぽい雰囲気のせいか、何となく、のどに手を当てて、ごろごろと、くすぐってやりたい気分。
それはさておき――――このままじゃ埒が明かないので、静に教えつつも、俺が笑顔の実践を見せることになった。

「――――ふっ、と、これが星野航式笑顔百選だ」

隆史さん直伝となる、女の子に見せる笑顔のレクチャーを、もののためしに静にしてみる。しかし、返ってきたのは冷たい反応。

「わたる、もうねようよぉ」
「お前…わざわざ顔の筋肉総動員した、俺のひたむきな努力は!?」
「ふぁぁ〜」

きいちゃいねぇし。まったく、こっちの心配なんか、どこ吹く風なんだな、静は。もともと、そういうやつだけど。
しょうがない、今日はこの辺にしておこう。せっかく風呂に入って暖まったのに、静が湯冷めでもしたら目も当てられない。

「しょうがないなぁ…今日はここまでな」
「…ん」

俺の言葉に、こくりと頷く静。なんだかんだ言って、俺がやめようといわない限り、逃げ出したりしないのは、心底嫌がってはいないからだろう。
だから、俺は出来る限りの事を静に教える。残された時間はどれほどか分からないけど、それが俺の責任であるし、したいことでもあるからだ。



「よ〜し、それじゃ、風呂の換気」
「よし」
「風呂釜のスイッチ」
「よし」
「寝る前の歯磨き」
「…よし」

指差し確認は、うっかりな失敗を回避するための必要事項であり、これをするとしないとでは、行動成功率が二割ほど違うのである。
とはいえ、普段はそんなことをする俺でもない。静の前のときだけ、二人そろって、こうして確認をする。

最初に俺が言って、静が合いの手を打つ。この作業が意外に心地よく、一人でやるのは何となくつまんなく思える今日この頃であった。
ともあれ、風呂場から出て、電気を消して、後は眠るだけである。

「それじゃあ、おやすみ、静」
「………」

洗面所前で静に別れを告げ、階段を登る。自分の部屋に入っておもむろに布団を敷くと。

「おやすみ、わたる」
「ああ、おやすみ、静…って、何で俺の部屋に入ってるんだ」
「いっしょに、ねるから」

うわ、言い切ったよ。何の躊躇もためらいもなさそうだし…こいつ、自分が女の子って自覚――――ないんだろうな、静だし。
とはいえ、このまま一緒に寝られると、俺としても非常に体裁が悪い。なにせ、最近同様の不祥事が起こったばかりだからだ。
とりあえず、布団に入らないと冷えてしまいそうなので、俺も布団にもぐりこむ。静は身体を離すことも出来るのに、わざわざ引っ付いてきやがった。

「おまえねぇ、一緒に寝るんだったら他のやつにしとけよ」
「なんで?」

静が、分からなそうに俺に聞き返してくる。そう面と向かって聞かれると、どう答えていいか分からなかったので、俺は他のやつらを引き合いに出すことにした。

「俺と一緒に寝たって聞いたら、さえちゃんがまた泣くぞ」
「いいもん」

「会長に、からかわれるぞ」
「へいき」

「宮に、いろいろと根掘り葉掘り聞かれるぞ」
「きかれたらいうよ」

「海がまた落ち込んで、朝飯が変になるぞ」
「……だいじょうぶ」

一瞬、間があったように聞こえたが、それがためらいのせいか――――、

「すぅ…すぅ…」

まどろみのせいで反応が遅れたのか、判別がつかなかった。俺の言葉がいい子守唄になったのか、狸寝入りでもなんでもなく、静は寝入ってしまった。
やれやれ…こうなると、起こすのが可哀想だしな。ま、俺の寝床に静が侵入することは、日常茶飯事とまでは行かないけど、時々はある。
さえちゃんも、事情が事情なだけに、渋々ながら黙認することもよくあるし、今日はこのまま寝てしまうことにしよう。

「おやすみ、静」
「んぅぃ…」

頭をなでると、気持ちよかったのか、寝入った静が気持ちよさそうな声を上げる。
俺は抱き枕のように静を抱えて寝転がりながら、深い眠りにゆったりと落ちていった。

………。



「あ、あああ〜〜〜〜〜〜〜っ!?」

「うぉっ!?」

なにやらでっかい叫び声に驚き、俺は身を起こした。春先の明け方――――すでに部屋の中は明るく、電気をつけなくても室内は一望できる。
いつもと同じ自分の部屋、いい加減に見飽きたその光景のなか――――戸口に、凛奈の姿があった。

「凛奈…?」
「………(ぱくぱく)」

声をかけても、凛奈に反応はない。まるで酸欠の金魚みたいに、口をパクパクさせながら、俺の方を見ている。
しかし、一体どういうつもりだ? 端で見ていると面白いが、かといって、ずっとお互い向き合っているというのも問題だ。

「よう、おはよう」
「っ、こ、こ、こ………」

なので、とりあえず挨拶をしてみたんだが、なにやら不穏な状況のような………心なしか、凛奈の顔が怒りにゆがんでるようにも見える。

「こ…んにちは? 朝はおはようだぞ、凛奈」
「〜〜〜!」(ぶちっ)

あ、いまなにか、妙なものが切れたような音が――――

「こ、この変態ロリコン無修正男〜!」



「な、なに?」
「ふぇっ?」
「………なによぉ、朝っぱらから、また痴話げんか?」
「こりゃ、航がなんかやらかしたみたいだね」



「う………大声で叫ぶな、凛奈。朝からお前の声、頭に響く………」
「うるさいっ! 何ちゃっかり、自分の部屋に女の子連れ込んでんのよぉっ!」
「女…?」

言われて、傍らを見ると、俺の腰にしがみついて寝る小柄なのが一つ。

「いや、だって………静だぞ?」
「分けわかんない、それってどういう弁解の仕方? 罪悪感もないってわけ?」
「俺としては、何でお前が怒っているのかよく分かんないだが」

なんというか、愛人と寝ていたら寝室に踏み込まれた駄目亭主の心境…? いや、6人の妻って言ってもその表現はまずいか。

「はぁ………ちょっとは、ほんのちょっとは話を聞いてやってもいいと思ってたのに」
「え、なんだって?」

聞き返したら、凛奈の表情がまた険しくなった。そりゃもう、夜叉や般若がかくというかの如しに…可愛いけど。

「なんでもないわよっ! まったく、こんなのと仲直りしようかと思った私が馬鹿だったわ!」
「って、仲直りするつもりだったのか?」
「はぁ!? 馬っ鹿じゃないの? 何で私が、あんたと仲直りしなきゃならないわけ!?」
「どっちやっちゅ〜ねん!」
「すぅ…すぅ…」

支離滅裂なことを言う凛奈に、思わず突っ込みを入れる俺。で、もう一人はというと、この騒ぎの中でも相変わらず熟睡していたのであった。



「なるほど、で、交渉の結果がその頬の手形ってわけね」
「ああ…凛奈のやつ、思いっきり引っぱたきやがって」

呆れたような、さえちゃんの声に、俺は頬をさする。あの後、わめく凛奈をなだめようと、俺は立ち上がり、凛奈に近づいた。
凛奈は頬を赤らめ、困ったように視線を泳がせ始め…俺はいけると確信し、凛奈に詰め寄ったんだが――――、

「いいかげん、しまいなさいよ! この、馬鹿ぁっ!」

と、腰の入った平手で俺を張り倒すと、逃げ去ってしまったのだった。よくよく考えると、なぜかその時、下半身がスースーしていたような。
で、次に気がつくと、俺のパンツとズボンを手に掴んで眠る静と、下半身真っ裸の俺がいたわけで……。
どうりで立ち上がった途中から、静の重さを感じなかったわけだ。眠った子猫は、俺のパジャマのズボンをロックしながら、そのまま俺の腰からずり落ちたのだろう。

「ほんとうに、朝っぱらから大騒ぎしてくれちゃって。騒ぎ、下のほうまで聞こえてきたわよ」
「そりゃ、安普請だからな」
「はい、航。ごはん、よそったよ」
「ああ、さんきゅ、海己」

からかうような…実際にからかってくる会長に受け答えしつつ、俺は海己からお椀を受け取ると、ご飯をかっこむ。
一応、皆には、俺が凛奈を部屋に呼び出して、大喧嘩の末、今に至ると説明している。
まぁ、俺が凛奈の部屋に怒鳴り込んだって言うよりも、穏便だし、実際に場所は俺の部屋だったから、さほどに問題はなかった。

「それにしても、どうして失敗しちゃったんですか? 呼び出しに応じてくれたということは、それなりに脈があったということですよね?」
「ん、まぁ、色々と不幸な偶然の積み重ねでな」
「…(ずず〜)」

宮のまっとうな質問に、俺はあいまいに答えながら、さりげなく静を見る。静は聞いているのかいないのか、いつもの通り淡々と、食事を続けている。
結局あの後、眠っていた静を起こし…制服に着替え、静を部屋まで送って着替えさせて、食堂に一緒に足を運んだ。
食堂に先に来ていた皆はというと、俺と静が一緒に来たことよりも、先ほどの凛奈の大声のことが気になったらしく、俺に質問を集中してきた。

そのおかげで、俺と静が一緒に寝たことを勘ぐられなかったのは、不幸中の幸いであるといえたかもしれない…まぁ、別にばれても、どうってことないわけではあるが。

「うみ、おつけものとって」
「あ、うん、どうぞ、静ちゃん」

そんなこんなで、朝食の席は進んでいく。慎ましやかな、6人だけの朝食…ここにもう一人加わるまで、もう少し時間が必要だった。



「さ、それじゃあ行くとしますか、遅れたやつはいないな〜?」
「はいよ、みんな揃ってる。海己は施錠の方、頼むな」
「うん、まかせて」

玄関前に6人が勢ぞろいし、学校に向かう。いつもはバラバラに登校するが、皆の都合が合わさると、6人そろっての登校になる。
会長が点呼を取り、俺が確認し、海が施錠。そして寮の庭を抜け、階段を下りるのが正式な登校コースであった。

「は〜、今日もいい登校日よりね〜、そういえば二人とも、ちゃんと友達できた?」

今日は急ぎの用事もないのか、のんびりと俺達との歩調に合わせて階段を下りながら、さえちゃんは新入生コンビに声をかける。
それは先生というよりも、寮長の…というか、母親が聞くような優しさがこもっていて、だからこそ、適当に答えることを二人ともしなかった。

「はい、ぼちぼちですが、ちゃんと増えてますよ」
「うん、ぼちぼち」
「え〜、なによ、景気が悪いなぁ、『友達百人でっきるかなっ♪』くらい実践してみなさいよぉ」
「…いや、それは物理的に無理だろ」

なにせ、全校生徒数合わせても、定員割れを起こしているのが現状だ。それでも、少しずつ友達は増えているようで、何よりだと思ったが。

「あ、そうだ。静、今日の夜も特訓するんだから、ちゃんと練習しとけよ」
「えぇ〜、めんどいよ、わたる」
「めんどい、じゃないだろ。笑顔の練習くらいしとかないと、笑いたいときに笑えないぞ」

そう、愛想笑いが出来ないってだけで、トラブルが起こる時だってあるんだ。静には、その辺りの機微は分かんないだろうし、今から教えておいたほうがいいと思う。
でも、俺のそんな考えは、静の次の一言で、あっさり雲散霧消したのだったが。

「笑いたいときは、ちゃんと笑うよ。泣きたいときは、ちゃんと泣くし、怒りたいときは怒るし、知りたいときは、わたるに聞く」
「…そっか」

なんて、素直なやつ。そうだな、静の愛想笑いなんて、俺も見たいとは思わない。俺は静の頭に手を置くと、ぽんぽんと叩いた。

「…ん」

ほんの少しの、はにかみ。それが今の静の精一杯。無理はしない、ゆっくり育てていこう。



「お〜い、早く来い、変態ロリコン無修正男〜! 遅刻するぞ〜!」
「って、声かけるんなら、もうちょっと穏便な声の掛け方をしろ〜!」

随分と先に行ってしまった会長と海己。会長の声に怒鳴り返しながら、俺は慌てて後を追うことにした。
立ち止まって話していたせいで、さえちゃんと宮には十段くらい、会長と海には三十段位の差が出来ていた。

「遅れちゃまずいな、静、行くぞ」
「わたる〜」
「…なんだよ?」
「かたぐるま」

そう言いつつ、五段くらい上から、静が俺に向かって地を蹴ってって、えぇぇぇぇ!

「うわ、ちょ、おま、バランスのとれ…うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

百五十段近い全力疾走。肩に乗せた静を落とさないでよく走りきれたなと、後々思い起こしても、そのときの自分は神がかっていたと思う。
………海己をはじめ、皆にたいそう笑われるくらい、そのときの俺の顔は、愉快なものだったらしいがな。
そういえばもう一つ、登りの階段では、わざわざ凛奈が待ち構えており、俺のこっけいな様の感想を、指差して爆笑で表しやがったのだった。

そうして、皆、笑顔で今日が始まる。俺の尊い犠牲と引き換えに…泣いてなんかないからなっ!


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