〜Fate Silver Knight〜
〜幕間・或る世界の結末〜
夕闇に、世界が没していく。もはや魂とも呼べる自らの身体には、残照の余光は、痛覚すら感じられる。
それは、遠い過去の記憶――――年端も行かない子供の頃を覚えている事など、そうそう或ることではない。
大概は、日常の平凡な記憶の中に没していく。それでも、それを覚えているのは、己が自らに、そうと課したからだろう。
思い出すのは、胸を焼く空気、茜色とも、くすんだ黄金色ともとれる、焦げた空。
空には、漆黒の太陽を思わせる、黒い球体――――そして、傷ついた身体を抱き上げてくれた、その人。
かつてそこには、人の営みがあった。人が集い、泣き笑い……様々な人間模様を描いていた町。
一瞬で、地獄と化す前の、そんな町並みを、俺は覚えていない。そう、自分の記憶は、地獄の底より始まったのかも知れなかった。
「未練、だな――――」
そう呟くと、赤い外套に身を包んだ長身の青年は、暮れ行く町並みが遠くに見える、公園の中で唇を歪めた。
今、彼が立っているのは、かつての物語の終末点――――衛宮切嗣が、様々な苦悩の果てに、選び取ってしまったその地。
それがあるからこそ、今の自分がいると自覚している。しかし、それは同時に、彼に対する尊敬の念には成り立たなかった。
(もし、切嗣が心変わりなど起こさなければ、こんな苦労をしなくてすんだのかもな)
そうすれば、衛宮士郎は路上に打ち据えられた獣の死骸の様にそこで逝き絶え、聖杯は多大な犠牲の上にも、誰ぞの手に入る事になった。
もし、聖杯がこの世に存在すれば、十年後に訪れた災厄――――聖杯戦争の繰り返しは、回避されることになる。
過去、現在、そして未来……多くの人の犠牲を生んで、生きているたった一つの命――――それは、衛宮士郎そのものであった。
だからこそ、許せないものがあった。正義を語りつつ、その実、多くの存在を犠牲にして、生きてきた自らの過去……。
選ばれてしまった、ちっぽけな一つの命。それは未だに、強い罪悪感と、妙な使命感を伴って、胸に刻まれていた。
永い刻時の果てに、自らの悟った唯一つの現実。それは、自らの手で、因果に決着をつけること。
自らを殺すなどたやすい。それよりもすべき事は、これからの悲劇の可能性の削除……衛宮士郎という少年の、抹消であった。
「……来たか」
夏場の長い夕刻――――見つめるその先には、夕日に照らされながら、こちらに向かい来る人影。
自らを呼び出した少年と、かつて、彼のマスターであった少女、そして、その少女の英霊だろう、騎士の姿をした小柄な少女がこちらへと歩いてきていた。
西に沈む夕日を背に、アーチャーは鷹の目をもって凛の表情をうかがう。
目が、合った。思わず、身じろぎをする。彼女の瞳では未だ遠く、夕日を背に立っているこちらの様子は分からないだろう。
それでも、その視線はまっすぐ前を向き、アーチャーを見つめていた。
「変わっていないな……少しは淑女らしさが、付いてくれていれば嬉しかったが」
聞こえないのをいい事に、辛らつに、しかし、少々の親しみと嬉しさを込め、アーチャーはそう呟いた。
折れず、曲がらす、歪がらず、ただ自らを推して生きる少女。畏敬の対象であった彼女……遠坂凛。
これから話す事を、彼女は受け入れてくれるだろうか……不安は無い。拒絶されれば、戦うだけである。
しかし、心のどこかで、彼女にだけは理解してほしいという思いがあることも、アーチャーは自覚していた。
「や、お待たせ、アーチャー」
「意外に手間取ったようだな……だが、それも無理は無いだろう。凛の意固地さは承知しているからな」
アーチャーのその言葉に、少年は苦笑を浮かべ、凛の方はぐ、と言葉につまり、代わりにアーチャーを黙って見つめた。
物言いたげなその視線に、アーチャーも凛を見返す。そこには妙な緊張感と、幾文かの懐かしさがあった。
「それじゃあ、僕は席を外すから、ごゆっくり」
少年は、ヒラヒラと手を振ると、背を向けてどこかへ歩きさってしまった。
その場に残るのは、アーチャーと、凛。そして、剣の柄に手をかけ、アーチャーの様子を伺っているジャネットであった。
夕褐色を失った空。人の本能か、周囲には誰もいない、中央公園の中――――凛が口を開く。
「久しぶりね、アーチャー。言葉、分かる?」
いきなり、妙な物言いをする凛。それは、言葉どおりの意味でなく、遠まわしな確認。
会話を成立させる気はあるのか、昨日のように、突っぱねたりしないのか、そう判断し、アーチャーは薄く笑みを浮かべる。
「――――ああ、無論だとも、もっとも、場合が場合だけに、あの場で悠長に話しこむ気は無かっただけだがな」
「あのね、言葉はコミュニケーションの手段なんだから。言わなきゃ伝えたいことも伝わらないわよ」
まったく、と緊張がほぐれたように、凛は肩を落とした。
つられて、アーチャーも僅かながら笑みを浮かべる。その様子を、ジャネットは不審な眼差しでじっと見つめていた。
数奇な出会いより幾星霜……こうして、魔術師の少女と赤い外套の騎士は、久方ぶりに互いの存在を認識したのだった。
二人の間に流れる、穏やかな空気に気を悪くしたのか、ジャネットが僅かながら身じろぎをした。
アーチャーは、毛を逆立てた猫のように敵意満々のジャネットを興味深そうに横目で見て、凛に問いかける。
「先日刃を合わせたが……彼女が、今回の聖杯戦争の――――君の使役する英霊なのだな」
「ええ、そうよ。名前はジャネット……多分、あなたの事だから、言わなくても正体くらいは察しているんでしょう」
過分な信頼は、時に判断を狂わせる。名前を聞くまで、アーチャーはその少女の正体をつかめずにいた。
だが、凛の言葉と、騎士の佇まい、女性であるという点で、正体は看破することができた。
(なるほど、聖乙女か……ある意味、凛にはお似合いなのかもしれないな)
「それで、一体どういうつもりなのよ。桜の誘拐に手を貸すなんて。令呪で命令されたから? それとも……」
「令呪は使われていない。だが、あの少年は私を呼び出した恩人だ。受けた借りは返さないといけない」
「そう……」
どこか、ホッとしたような、そんな表情。アーチャーを、なんだかんだ口では言っても……敵に回したくはないだろう。
その様子に、アーチャーは内心で思案を重ねる……いかにして、凋落するか。
(おそらく、その為には全てを話さなければならないだろうな……)
気が、重くなる。これから先の顛末、未来――――そこには、彼女を絶望させるものしか存在しない。
ともすれば、彼女の心を粉砕してしまいかねない、自分や彼女の未来の結末。
だが、それでも……言わなくてはならないだろう。衛宮士郎を殺す場合、確実に障害となりえるのは、彼女なのだから。
罪深い存在――――数多の人を殺し、今また、最も親しい少女を傷つけようとしている。
それは、一体いつからなのだろう。あの、世界が一度終わった日なのか、それとも……自らはどうやっても、そういった『物』にしかなれなかったのか。
後悔は尽きない、だが帰り道もない。最果てまで、自らの信念を貫くより他、無かったのであった。
アーチャーは、今まで凛に対した中で、もっとも痛烈であろう、鋭い口調で静かに言葉を投げかけた。
「凛、君は聖杯を手に入れるのではなかったのか?」
驚きに呆けた表情を見せる少女。それは始まり、その少女を律する為の、理によった言葉の断片。
戸惑う凛に、赤い外套の青年は、順序をおって話す……過去、現在、そして、未来に待つであろう、或る日の結末を――――。
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