碁盤師鷺山のこぼれ話


碁盤職人として60年この道しか知らない兄ですが、だからこその話のコーナーです。
 碁盤師 鷺山  名古屋市西区枇杷島4−25−26  電話/Fax (052)524−1789
 2020年  6月16日

  鷺山が生涯をとじました
兄 鷺山が令和2年5月18日に満77歳で生涯をとじました。10年近くの闘病生活を家族3人に見守れ最後は安らかに旅立ちました。

このHPを見ていただいている皆様に義姉からのお礼の言葉をお伝えしたくて読んで頂ければ幸いです。

「本当によく頑張ってくれました」
職人である父親の背中を見て育った夫。やがて同じ道を志すも、父親は猛反対。それでも諦めきれず、職業訓練所に通って1年近く技術を学びました。素質があると思ってもらえたのか、なんとか父親が認めてくれて、いざ物作りの世界へ。以来、その道一筋に励んで参りました。作り上げるのは碁盤や将棋盤です。機械を使うのはわずかな工程のみで、後はほとんどが手仕事でした。とにかく健康な人でしたから、仕事も全力で頑張ることができたのでしょう。
しかし、ある時夫の体に異変が生じました。それまで病院にお世話になることなど数える程度しかありませんでしたが、あちこちの病院をまわり続け、結局病名が分かるまでおよそ1年かかりました。「うちがええ」と言う夫の希望通り、体調が悪い時を除いて、なるべく我が家で過ごすことに。先生や看護師さんなど、本当に多くの方が支えてくださり、なんとか自宅で療養することができました。私が倒れたときには息子が介護休暇を取ってくれて、私達夫婦二人の面倒を見てくれました。皆様や家族の優しさに触れることができたこれまでの日々に感謝しておりますし、きっと夫も同じ気持ちだと思います。もう十分頑張ってくれましたので、後はゆっくり休んでほしい   夫に安住の時が訪れるよう願っております。      妻より

 兄嫁が引き続きお店をやっていきますのでよろしくお願い申し上げます。
 2013年  12月17日
  名古屋に行ってきました
  名古屋に行ってきました。器官切開と胃ろうになりましたので、ほとんど1日ベットでの生活ですが
それでも頑張って椅子に座ったりと今出来ることをしております。でも声が出ないって辛いですね。
姉も介護で忙しい生活ですので、私の出来ることはと、在庫の整理を少ししてきました。
作りだめておりました脚は父の製作しましたものも含めますと50組ほどありました。ほとんどが碁盤
の脚ですが、盤の厚さによっても脚の形がちがいます。
おこしものも数枚しかないものもございますので必要な方は早めのご注文をと願っております。
 2013年 10月1日
 兄 鷺山の病について
 碁盤師鷺山やっと少しはその名が盤師として世間の方に知っていただけるようになったかなと思った矢先に腰の痛みで通院していた兄が何件目かの病院でやっと病名が分かったのは昨年の11月でした。もうその時には兄の身体は 肺 心臓とも半分の機能しかなく延命治療についての説明がありました。病名は筋委縮性側索硬化症 難病中の難病ALSと呼ばれるものです。
延命治療はしないと決めていた兄でしたが、病の速度は速く今年の7月13日に救急車で運ばれた時には延命治療しか生きる道はないとの事でそのまま器官切開が行われました。
兄はまだ入院中ですが、治療後は自宅療養の予定です。
兄が入院中の為昼間は兄嫁も付き添っていますので、お店の方は留守が続いておりご迷惑をおかけしております。
兄が作成しました盤はほとんどHPに記載してありますが、材料と加工した脚があります。
脚は20組程在庫があります。盤の材料と合わせて必要な方があればと載せました。
尚 桂材の脚も在庫がありますのでこちらもお問い合わせ頂ければと願っております。

                                 伊草 節子



 2012年3月10日
鷺山の銘を平成10年から入れる用になった経緯について
鷺山の銘を平成10年から入れる用になった経緯につきまして

初代 鷺山である父は平成10年に他界しました。
生前は8軒の碁盤店の加工を2代目 鷺山の私と共に加工してきましたが、
鷺山の銘の入った碁・将棋盤は一面もありませんでした。

私が若い頃、父は、東海地方一番の老舗であった碁盤・将棋盤の店 ウロコヤ横井商店の専属碁盤師として榧碁・将棋盤の製作をして生活していました。
私が中学を卒業する昭和34年(1959年)に家業を継ぎたいと父に申し出たとき、
父には「継がせる事は出来ない」と断られました。
担任の先生に相談し、私は、愛知県高等職業訓練所木工課に進み、木工業の基礎を学ぶ事になりました。その後、愛知県高等職業訓練所で技術を学んだ私は、卒業と同時に父の許可がおりて「家業を継いで良し」となり、親子でウロコヤさんの専属碁盤師として仕事をするようになりました。
専属の間も他の名古屋の碁盤店 4店に頼まれ 脚のみは作っておりましたが、
昭和42年(1967年) 私が24歳の時に、父の中繰脚を元に機械作りをウロコヤさんが始めました。
機械脚に抵抗があった私は、父の技量ならば何処からでも仕事は入ってくるのでウロコヤさんの専属職人を解消するように勧めました。

数年で7軒の碁盤店の高額品の榧碁・将棋盤を加工する碁盤師になっていました。

昭和の終わり頃には更に1軒が増え8軒(ウロコヤ、三輪碁盤店、中山碁盤店、丸の内黒田碁盤店、岐阜の黒田碁盤店、岐阜の土田碁盤店、大阪の宮崎碁盤店、三重の川北碁盤店)の碁・将棋盤店の中繰脚・上繰脚の付いた盤の加工をするようになっていました。
昭和の時代から平成10年位までは、東海地方で碁・将棋盤のタイトル戦が行われると、ほとんど父と私の製作した盤が使われるようになっていました。

話が少し逸れますが、父の実家は、岐阜県羽島市の黒田碁盤店で、父は次男でした。
長男である父の兄は、子供の敏夫さんが5歳の時に他界されたため、敏夫さんは脚の製作が出来ず、父が実家の仕事を手伝っていました。
昭和62年(1987年)に静岡県の唐木屋碁盤店さんが、父の上繰脚付き碁盤を羽島の黒田碁盤店から購入し、機械メーカーと共同で、父の脚を真似た機械脚を作り始めたと聞いています。

機械メーカーは三輪碁盤店にも同じ機械を販売しました。機械脚は父の作りましたものとそっくりで私は驚きました。でも機械脚ですので首の長さと首のアールは円を半分に切った形で、そこまでは真似できなかったようです。でも微妙なところは碁盤屋さんも直しますので見た目ですと首の長さの差が一番の違いです、
機械脚は八角の木を元にして機械にかけます。八角の内1部には木に逆目がでざらざらします。手彫りですと木質の違いを手が加減しながら彫っていきますのでそうゆうことはおこりませんし当然仕上がりも違ってきます。 平井由松の作った脚は均一に色が付いています。色むらがでないのです。それは手彫りと仕上げの良さです。 50年100年たっても変わらぬ美しさを目指して私は碁盤造りに励んでおります。

安く製作できる機械脚におされて、同年12月から三輪碁盤店の仕事が無くなりました。
丸の内の黒田碁盤店は平成12年(2000年)まで34年間 高額な榧碁・将棋盤のみ加工していました。ウロコヤ碁盤店は、平成12年まで、祖父の代から3代 94年加工しました。中山碁盤店は、平成17年まで加工しました。
不景気の影響もあり、平成10年〜平成13年頃は仕事が昭和時代の2割ほどに減り、生活が苦しくなった事がきっかけで妹の節子がホームページを製作してくれました。
徐々に知られるようになり、全国から仕事が入ってくるようになりました。

8軒の碁盤店用に多くの盤を製作しましたが、鷺山の銘が入っている盤はありませんでした。
平成10年に父が他界した後、2代目である私は上繰脚の形を変更する事にしました。
写真のように、脚の胴の大入れする部分に曲線を付けた脚が現在の形です。
同時に脚に鷺山の銘を入れることを決めました。




父と兄の作りました脚です。
他の碁盤店さんはどんどん発展していきましたが、こつこつと職人の道を
歩き続けておりました父と兄 後世に名前だけでも残ればと
強く願って このホームページを続けようと思っておりますので
よろしくお願い申し上げます。  節子
 
 2012年3月1日
 お客様からの質問
 
 お客様から 次のような質問がありました。メールで返信しましたが、
こぼれ話にというお話があり、皆様の参考になればと載せました。


質問1 
> 卓上盤の継ぎ接ぎ仕様について、
> 某九州での碁盤屋では接合に強力接着剤をつける
> ようですが、腰掛け蟻継ぎなどの方法で繋げたりしないのでしょうか?

返答
@接合部分の鉋(カンナ)がけが正確に削れていれば、
木工用ボンド接着材を使用しても問題は出ません。
2枚〜3枚〜4枚、卓上接合盤を52年間製作してきましたが、
苦情は一度もありません。
接着面には必ず目盛り線がのるように製作します。
接合は、独自の締め付ける道具を製作して使用しています。
腰掛け蟻継にしなくても良いのは、上部から強い圧力が
かかることがないためです。

A目盛り線が接合部分にのるため、少しでも密着部分が欠けて
いると漆の線が切れてしまいますが、木工ボンドでも十分に接着力が
強いため、正確に削れていれば問題はありません。

質問2
> また、一寸未満の卓上盤でも一枚板で売ってるところも
> あるようですが、反り防止の利点を犠牲にしてでの長所が
> あるからでしょうか?

返答
一寸未満の卓上盤板目で製作すると乾燥剤を使用しても
少し反ると思います。日本産の木取りでは、採算が合わないため、
木取りは通常はしません。
外材は、安くて木の直径が太いものがあるため、
商品として売れる厚みの寸法にして製作している場合があります。

日本産の場合、桂材は2寸厚木まで製作しますが、
榧材は卓上盤としては木取りはしません。
ただし、碁盤材乾燥後、割れ、青シミ、キズ等欠点が多々あると、
卓上盤へ加工することはあります。

反りについては、盤材20年〜30年過ぎていても卓上盤に木取ると、
反りが出るので、乾燥後反りが出てから両面を削り、更に、
期間をおいてから製作することで、反りが出ても1mm位に抑えることが出来ます。

一枚盤の利点は、年輪・木目の不自然さのない所です。

皆様の参考になりましたでしょうか。
 2012年2月26日
   父への思い
 

▲【棋具】将棋盤・駒について語ろう23セット目△のまとめ

441 名無し名人:2011/12/20() 12:26:30.15 ID:t5fRWq2l

所蔵盤で言えば

平井芳松>>前澤先代・三輪先代>>>黒田素心・黒田鷺山・三輪・井上>>>>>>>>>>熊須・大久保

ネットで遊んでおりましたら、 上のような文章に行きつきました。どうしょうかと思ったのですが、もう私も若くはありませんので敢えて書くことにしました。私は黒田鷺山の娘です。

この文章は2ちゃんねるのサイトで書かれたものなのですが三輪先代の時代の碁盤、榧の上繰脚は父が作ったものでこの時代上繰脚を作ることが出来ましたのは、父のみと聞いております。当時の名古屋の碁盤店 ウロコヤ 三輪碁盤店 丸の内の黒田碁盤店 中山碁盤店と どこのお店でも父の作った碁盤が飾られておりました。

其の後父の碁盤の脚だけを入手しようとしていると言う話が人づてに父の所に入りましてすぐ位に父の脚によく似た機械脚が出回るようになり、実家の仕事が激減したと聞いております。
機械作りの脚に手を加えて仕上げをしても、始めから手作りで作った脚とは比べものにはなりません、何年かたちましたらその差は歴然とすると思います。

碁盤店の碁盤を製造しておりましたので、黒田鷺山の名前を記しておりません。ただ、ウロコヤの碁盤には符丁がわりに黒田の文字だけですが記してあります。後世に脚の形から 父の作りましたものと分かればと思い記した次第です。頑固に職人一筋に生きてまいりました父と兄、せめて後世にその名が少しでも残ればと願っております。

尚 これは 碁盤師のランク付けに書かれました文章です。
亡くなりました父が碁盤師になってから兄まで80年余
未だに 皆様に知られていない真実です。 


 

 2011年6月25日
大入れについて
 
脚は8角形で出来ています。盤の木口正面中心に八角の内、
一番柾目の良い面を中心に取り付けます。
大入れのしていない盤は製作された時に未乾燥の盤が多々あります。未乾燥の盤に大入れをすると、大入れの部分が割れやすいので、大入れは出来ません。大入れの無い盤は修理の時に歪みが大きく出ます。
又 未乾燥の盤が収縮して ほぞ穴も収縮しますので 脚が抜けなくなるときがありますし、脚の場所によっては 逆に 抜けやすくなります。

大入れがしてある盤は50年〜100年経過しても歪みが少ししかありません。
よく乾燥してから製作されているためです。

盤に大入れをなぜするか材木が収縮する方向にヒントがあります。
材木は円周年輪の方向に収縮します。材料を柾目材、板目材に木取ると15年後、乾燥の時、幅を調べると板目材の方が幅が狭くなっています。
盤に脚を取り付ける時、柾目を正面に取り付けるため、乾燥材を使用していても
年輪の方向に収縮するため、ほぞが少し緩みやすいので、大入れをして固定します。ほぞのゆるみをカバーしているのです。

脚を取り付ける時、ほぞ穴は4面の内、木口の部分2面で少しきつく取り付け、
横になる2面左右の穴の中の幅は1〜1.5mmほど広い穴にします。
横になる2面ほぞが硬いと割れる時があるので、少し緩めに取り付けます。
機械作りの脚を使った多数の盤は木の性質もわからずに脚が取り付けてあります。
4本の内、正面が板目の脚はほぞが緩みませんので、がっしり固定していますが、正面柾の脚はほぞが、がたがたしている事が多々あります。
大入れをする事は50年〜100年後でも盤に取り付けた脚の緩みが小さい事への碁盤師の気遣いです。

2008年6月5日
盤の蝋仕上げについて
盤の白い蝋を磨きあげて欲しいというお客様と、盤面に蝋仕上げして欲しいと蝋についての仕事がありました。
盤の仕上げには昔から和蝋が使われています。盤を保護するために施されるのですが、関東方面ですと盤面には使わないところが多いようで、盤面の蝋仕上げの盤は関東から送られてきました。木も保護しませんと焼けてきますし汚れますので目盛り直しの時等に盤面の削り分が多くなります。
盤の蝋の磨き上げですが、どの盤でも元通りになる訳ではありません、雑な仕上げですと木地の中に蝋が入り込んでしまい白くなった部分が残ってしまいます。特に機械作りの盤の脚、首や肩の部分が多いようです。勿論手作りの脚でも雑な仕上げですと蝋が入ってしまい拭いただけでは白くなった蝋は取れません。
桂材の盤ではもう殆どがニスの仕上げになってしまいました。桂材を蝋仕上げしているのは鷺山だけではないでしょうか、兄 鷺山の脚作りの大半の時間はペーパーがけに費やされます。上繰り脚を作るには4日間かかりますがその内の3日間がペーパーがけなのです。その為脚の表面がつるつるになり蝋を薄く塗ることが出来るのです。蝋は薄いほど艶がでて綺麗に仕上がります。盤が綺麗に変化していくのにはそれだけの労力が必要なのです。
貴重な盤材の脚が機械作りになって行くことは時代の流れで仕方がないことなのかも知れませんが、こつこつと仕事をしている兄には納得のいかない話のようです。
2007年3月4日
NHK出演
3月7日6時から7時のNHKニュースの中で6時半位から東海地方のみ放送の"東海の匠”のコーナーに出演しました。
左は3月2日の取材風景です。
この後NHK全国放送と三重県でも放送されました。
2007年2月5日
漆の話
漆は現代でも完全に解明されていない不思議な塗料です。
漆の成分の中に ラッカーゼ酵素 という物質が含まれていて水分の中に含まれる酸素と結合して乾燥します。ですから梅雨時などの湿度が極端に多い時期には乾燥が速くその為に漆の表面がちぢれたようにもなります。
又漆の中に紛れ込んだ不純物をはじきだしてしまう性質もありますので、漆を柔らかくする溶剤の量が多すぎると漆自体が動いて変化するそうです。
その為でしょうか時がたつにつれ目盛りをした人の技量が目盛り線の上に線の太さの違いとなって表れるのは。
漆の不思議はまだ続きます。表面乾いて見える漆も内部では完全に乾くのに100日近くを要し、そのため漆は2〜3cm動くのだそうです。
碁盤屋さん同士の会話では漆が透けると言う言葉がよく使われますが、私にはどうしても理解できませんでした。兄にしてもどう説明していいのか聞けば聞くほど解らなくなる漆の世界です。碁盤師として50年近くなる兄の研究心と技量と培われてきた勘の世界に改めて驚くばかりです。
2007年2月4日
盤面 星の話
古盤修理の折、目盛り線の太さの違いと、星の大小、星が十文字の中心に盛っていないやドーナツ型、三日月が殆どです。
目盛り線を引くよりも星を正確に盛り付ける作業が難しいのです。
50年後でも星の欠点歪みが出ないようにするには

一に中心に盛り付けること、
二に真円と大きさに不動のないこと、
三に星の高さです。

星の高さが違うと後年星の直径に違いが出ます。又漆が多すぎると漆がだれドーナツ型になります。漆は始めには分からない欠点でも、時が立つにつれ目立ってきます。
平成19年1月に岐阜の銘木店の息子さんが日向榧、岐阜県産の榧と多数お持ちなのですが実際の作業を見てみたいと来店され、実際に体験された時の話です。
作業に入る前に線引きより、星の難しさの話から作業にかかりましたが、星を盛り付けるときは呼吸を止める事とアドバイス。目盛りの線引きは矢来という道具がありますのでそこそこできますが、星を盛り付ける作業は何回挑戦してもすべて失敗でした。目盛り線を引くよりも星を盛り付ける作業が難しいことを実感していただきました。
先代鷺山が碁盤師を引退したのも星が正確に盛り付けできなくなったためでした。
2007年2月4日
盤目盛りの話 2
盤の目盛りは漆を盛ってから50年後でもいかに均一に保てるか、その為に目盛り、星と高さ巾を製作する碁盤師が技術を高め工夫するべきです。
他の職人、たとえば漆器や和紙の世界でも全体の厚みが均一であることが職人の技量ではないでしょうか、盤も盤面に均一に漆を盛るそれが一番大事なことで一番工夫しなければなりません。
蒔絵師の職人さんでも盤の目盛りは出来ませんと言われたそうです。盤の面に細い線を巾、高さを均一に描く事の難しさに加え漆塗り製品は製作後、漆が木の中へ少しづつ均等に浸透していき漆の巾、高さが違う目盛り線では後年線の太さに違いが出る事が分かっているからです。
漆は湿度で乾くという特性があります。目盛りをするときはその日の湿度を考慮し漆の表面が24時間ほどで乾くよう仕事をします。永年の経験が物を言う世界です。
見た目は同じ線の幅でも高さが違うとこれは1年も経たないうちに線の幅の違いとなって現れ、目盛り線が倍以上の違いとなるのです。
昔から盤の目盛り道具は日本中の碁盤師が工夫してきたと思います。東海地方でも明治の頃、鼠の髭、それも生きている鼠の髭でないと目盛りが出来ないと言われていたそうです。関東では箆盛りがあります。
大阪の職人で明治生まれの平井芳松氏は矢来と刀で目盛りをしていますが、製作して80年以上過ぎた今でも平井氏の盤は均一な線と星が保たれています。
父も私も目盛りの道具である、矢来と刀は自分で工夫して作っています。
筆盛り、箆盛り、日本刀目盛りでは全体を同じ高さ巾に目盛るのに無理があるのではと思います。
目盛り前の木地の下地塗りは下地が弱すぎると盛った線の下地の中から空気が出て目盛り線の表面が泡となり滲みになります。泡と滲みにならない境、これは木の固さにより加減します。榧、桂、外材とありますが、榧材が下地を一番薄くして目盛りが出来ます。さらに榧材の一面、一面の硬さにより加減します。
50年経っても線と星が均一に保たれていることを念頭に製作しています。
2006年11月27日
愛知県優秀技能者の表彰

11月8日に愛知県優秀技能者の賞状を頂きました。
昨年の名古屋市技能功労者の表彰と2年連続の表彰です。
これも昨年と同様、伊勢原にお住まいのTさんが愛知県に上申書を出してくださったのがきっかけでした。
このHPを作りまして、一般の人に知られることのなかった兄の技術が皆さんに知っていただけ、応援して頂いてここまでこれたのだと感謝しています。
皆様、本当にありがとうございました。
2006年7月23日
8月に引越しします
諸般の事情により転居することになりました。父の代からですと70年以上
兄はここで生まれ、ここで生を終えるつもりでおりましたが、今店舗兼住宅を建てております。
毎日の公園の花壇の手入れ、消防団長と地域にはなくてはならない人になっておりましたので、出来れば小学校区の中に新居をと回りでも奔走していただきましたが、小学校区からは離れることになりました。
名鉄本線名古屋駅から東枇杷島駅まで4分、駅から徒歩11分と今までよりも分かり易いのではと思っております。8月下旬には建つ予定ですので、お近くにお寄りの節には是非兄の店にもお立ち寄りください。
左の写真は兄が作った看板です。得意のノミで彫り上げました。両面彫ってあり、お店の前にポールで立てられます。

新しい店舗の住所  
名古屋市西区枇杷島4−25−47

 お店が出来ましたら改めて地図を載せる予定です。
2005年11月23日
名古屋市技能功労者受賞


勤労感謝の日に名古屋市技能功労者として表彰されました。
受賞のきっかけは神奈川県の伊勢原市から兄の元に、碁盤修理に来た方が、兄の技術に感動して名古屋市に上申書を出してくださった事でした。
技能功労者を調べてみますと、建築、クリニーグ等組合のできているところから、推薦を受けて受賞となる方がほとんどでした。
碁盤職人はもう数名、組合の登録が出来る程、人数がいない世界です。
個人推薦の枠があることすら知りませんでした。
父の跡を継いで碁盤職人の道に入った兄の受賞ですが、私には同時に父にも頂いたのだと、心の中で思いました。
2005年9月19日
テレビ撮影

中京テレビ
  “人生の応援歌”
 10月29日(土)17:55−
        放送

法要を兼ねて名古屋に行きましたら、テレビ撮影の日程と重なりました。
人生の応援歌 5分間の放送で正味は3分ほどなのでしょうか、朝9時半から夕方6時近くまでスタッフ4名汗びっしょりで撮影していきましたが、長時間の撮影を3分程に短くするのに又苦労するのだそうです。
テレビの現場の苦労を垣間見て、テレビ放送を見る目が少し変わりました。
スタッフの皆さん お疲れ様でした。 放送されるのを楽しみにしています。
2005年9月19日

脚を見れば職人の名が分かる


碁盤の脚を見れば作者が分かるとよく聞きますが、このHPを作っています私にしても,父と兄の作った碁盤の脚を見て育ってきましたので,脚の違いがこれほどあるとは思いませんでした。
左が兄鷺山の作ったもので、右が日向の碁盤店で作られたもの将棋盤を総直しして取り替えられました。
機械作りが盛んになる前は職人の数だけ作られる脚の形にも特徴があったのでしょうが、今では殆どの脚が機械作り、右の脚も首の部分が長く(機械は首の部分が長くなる傾向があるようです)又機械の摩擦のためか木の内部までがさついてしまうようで磨いても磨ききれないようです。
盤の脚も手作りならば全て良いわけでもなく、脚のかたどりに最高の脚を基にして作られていますので下手な職人の技量を超えています。
盤を御覧になるときには首の部分も御覧になることをお薦めします。
2005年6月5日

矢来の目盛りについて
刀目盛りに矢来を使う方法は、昔からの刀目盛りの伝統技術を御覧の方には、なーんだあんな簡単な方法と思われるかもしれません。
刀の刃を潰して盤面の周りに新聞を置き、鉛筆で線を引いた上に目盛りをする。
それには少し無理があります。両端が上手く下ろせないので薄くなるか又は強く降ろして盤面に傷がつく、その為に考え出されたのが矢来でした。
でもこれも矢来を使うから全て良しと言うわけではないのです。
まず刀、鷺山の場合は手作りしていますが、鋼をペーペーで磨いて作り出して行き蛍光灯にかざし、光が乱反射しないで均一の光になるまで磨いて調整し、何度も目盛りを繰り返しながら、刀を磨くを繰り返し作り上げます。これはT社の最高級車のドアを造る方も同じで、蛍光灯の光にあてて確認しながら作るそうです。
矢来作りも大変な作業です。木は天気にも微妙に変化する物です。1本1本吟味して狂いの無い材と方向を選びながら全てノミと鋸などの手作業で作っています。
そのうえで板の上に桧のへらで均一に漆を伸ばす。漆を均一に伸ばす事が出来ないと目盛りの太さにばらつきがでます。
出来上がりはもう実物を見ていただくよりしょうがないのですが。
2005年4月30日

天明7年(1787年)
尾張なごや

と大入れの中に書いてありました。今から218年前の碁盤です。
脚の形も今とは随分ちがいます。この盤は四方小口になっています。
四方みな口であることから、魔除けの盤として珍重されたようです。
今回、目盛り直しを頼まれましたが、10年に一度ぐらいの割りで江戸の盤の修理がきます。
この盤も218年の時を経てまだまだ続いていく事を考えますと、形の残る物だから手を抜くなと言う、兄の口癖が実感として伝わってきます。
がらくたばかり作っている妹の私には身の引き締まる碁盤です。







うめ木の修理と
   平井芳松氏の事

2005年4月4日
 
正座椅子を載せると兄に話したら、上のうめ木の映像を送ってきました。
へその中のうめ木は三方に渡っていますので非常に難しいです。右の映像は上がうめ木です。いずれも兄の仕事です。
このホームページでよく平井芳松氏を話題に載せますが、兄が碁盤職人になって45年たちますが、その45年間に父と2人で修理した盤が4000面を超えます。その間、平井芳松氏の盤を八面修理しました。作られてから70年〜80年を経ていましたがいずれも品格のある盤でした。榧材としては、1等品の盤はありませんでしたが材は悪くても仕事はいずれの盤も見事な出来ばえでした。
かんな、のみ、ペーパー掛けといずれも手を抜かず、職人の腕が一流ですと、碁盤は綺麗なあめいろに変わります。それが4本の脚と6面どこも綺麗に同じような調子の色に変わっていました。これが手を抜いてますと、どこも同じ調子の色にはならないのです、又雑な作りですと黒く品のない盤になってしまいます。
兄のモットーも、一等品でも三等品でも仕事は一切手抜きはしないと、榧材を最高に活かすが日々の思いです。
鷺山作の碁、将棋盤が40年〜50年後、品格の有る盤だと後世の人たちに認めていただけることを願っています。
木のカンナがけについて

  2005年4月4日

右の画像をクリックすると大きな画像がでます。
兄が榧で作った正座椅子を送ってくれました。
日頃 小口のカンナ掛けの難しさを知って頂きたいので、碁盤の削っている所の写真も送ってと言っているのですが、削れて当たり前の兄には載せてもしょうがないだろうとなかなか取り合ってくれません。でこの正座椅子いろいろな方面から撮ってみました。 塗装は自分でしてと無塗装ですので、そのまま見ていただけるかと、ついでに脚の差し込んでいる箇所を見てください、電動工具を使わない兄の仕事です。 この鉋、ノミ、鋸の技術があるから うめ木 が出来るのです。それもこの正座椅子のように角のうめ木は楽ですが、兄の楳木は丸みのあるうめ木が多いです。それとひびのようなうめ木の時には木柄を合わせ、長いものですと木柄が合わなくなると、何度かに分け、判らないようにうめ木します。
機械と手の仕上げの上手い人では木の表面の密度が違います。その違いは5年10年と年を重ねるほど出てきます。その緻密さが埃などを寄せ付けないのです。
  
碁盤の反り、縮みについて
2005年3月30日
碁盤の反りや縮は未乾燥の場合、特に大きく出ます。


1 木表盤は盤面がへこみ、裏面が山なりになり狭くなります。
2 木裏盤は盤面が山なりに反り、裏面の木表より面の巾が縮み狭くなります。
3 柾盤の場合は面が中心にありますので、縮み方が少しですみます。

乾燥後も材は少しですが反り、歪みがでますので、15年以上乾燥した材を加工しています。
榧材の乾燥方法
 自然乾燥が良いわけ
2005年3月30日
最近は原木を木取り後の盤材の割れ止めとして、ボンドを塗って乾燥させる事が多くなっています。
ボンドに防菌剤を混ぜ、榧材に厚く塗ると、青かび等を防ぐ事が出来る為と、乾燥期間が短くなるため多用されるようになりましたが、大きな欠点があります。
     1  榧本来の色がやや白くなる
     2  油分が抜ける。
昔ながらの蝋を塗っての乾燥方法ですと、かび等が発生しないように乾燥させる管理が難しいため、ボンドを使っての乾燥が多くなったとおもわれます。
榧の碁盤材は6〜7寸で乾燥に約10年ぐらいかかります。ボンドでは約半分の5年ぐらいで乾燥してしまうため、榧の木の油分までぬけでてしまいます。
碁盤に加工していますと、特に人頭(へそ)の部分と脚を入る大入れの箇所がばさばさになっていることが良くわかります。
榧の木は油性分の多い木ですが、その油性分が40〜50年後に品格のある色合いになる元です。ボンドを使って乾燥させた材は油性分が50〜60%ぐらいになっているのではとおもいます。

将棋盤の目盛りのほしの話
2004年12月11日
左側の写真は日向の有名なお店で平成6年に160万で購入、湿っていた為盤に歪が大きく出、修理に出したそうですが、ほしといわれる部分がドーナツ型になり真ん中が白く見えると、直したばかりの将棋盤を持ち込まれ、結局目盛り直しは勿論、脚も取り替えるという総直しをしたものです。
ほしの部分は漆が重なりますので、ドーナツ,楕円、ずれるなどになってしまうという方が職人の世界でも多いようです。
目盛りは50年先を見て欲しいと、兄 鷺山はいいますが、何年も過ぎないうちに、目盛りの漆の太さが違ってくるのが分かります。高さ、幅と均一にそして石の置く場所を考え微妙に調整する。 これはもう長年の勘と職人の知識の深さしかありません。
写真の盤は目盛りの幅も違っていました。盤面の目節を隠す為、目盛りの幅を変えうるしを乗せていましたので、盤面を調整しながら削り、盤面の目節を取ることができました。脚もあまりにバランスが悪いと取り替える事になった次第ですが、160万円と高額にも関わらず。機械で作った脚でした。
盤の材料も機械で切断したりしますと、微妙な木のくせまでは見抜けませんのでこうなるようです。兄がよくもうします「材料の持ち味を最高に活かす」はもう手作りの世界でしかできないのではと思います。
黒田碁盤店は名古屋に
3店ありますが、他の碁盤店
は関係がありません。
鷺山の店はここだけです。

兄が東海テレビのスーパーニュースに出演しました。最近立て続けにマスコミに取り上げられております。父が生きていましたらと思いました。それといいますのも先日 父が新聞の切り抜きを取っていたものが多数でてきました。
他の碁盤屋さんが名盤を作る名人と言ったものでしたが、そのほとんどが父と兄が作った碁盤でした。碁盤屋さんの碁盤を作って生計を立てておりました我が家は父の生きていました間、父の名が出ることはありませんでした。それをほとんど口に出すことのなかった父でしたが、やはり悔しかったのだろうと思います。

祖父の代からですと96年 下積みに甘んじてきた兄も61歳になりました。長年の名古屋の碁盤屋さんについた信用は兄が頑張ってもどうしょうもないところに来ておりました。
兄も今月に入って、やっと職人さんのいない碁盤屋さんをのぞいて、碁盤屋さんからの仕事をお断りすることにしました。
碁盤屋さんの店先には兄の作った碁盤がありますので、時間はかかると思いますし又名古屋には黒田碁盤店が3軒ありますので、いままでもテレビ、新聞と取り上げられるたびに、間違えられた方が多かったようですが他の黒田碁盤店は鷺山とは関係がありません、じょじょに兄と父の仕事だったのだと皆様に分かっていただけるのではと思っております。

道ひと筋
平成2年2月10日の
新聞のコラムから

  2004年3月4日
(新聞記事の抜粋)

古い新聞の記事なのですが
ここ10年ぐらい前から碁盤造りの世界にも機械化の波が・・・手作りのものより20倍前後のスピードで完成する、とあれば、どうしても機械化は進む。そんな中にあって碁盤師・黒田さん親子は全工程を手作り。しかも芸術性、重厚さ、耐久力、使い易さなど、どれ一つ取っても超一流のものを仕上げる。
二代目の正一さんは、全国でも三指に入る腕前と評判。大正14年、父親の後をついで早くも65年。三代目の信さんも父親をしのぐ技術といわれ、この間、父親から碁盤造りの手ほどきは一切伝授されていない、おまけにノミ、小刀、ノコギリ、カンナ、目盛り刀なども親から譲ってもらった物は1つも無い。すべてが三代目独特の道具ばかり。「たとえ親子でも秘密。一切教えない」というのが2代目の信念。こうした厳しさが、プロ好みの素晴らしい碁盤作りの要素になったのです。・・・・・・・
一番難しい点は「38本の上下線の目盛りと上繰り脚作りでしょうね。それに盤の裏のヘソを彫るときにも神経を使います」と三代目。
上繰り脚は くちなしの実 の形をした八角型。豪華で美しく、しかも繊細な模様は、黒田親子独特の物。お二人とも、碁盤つくりの話には目を輝かせ、実に楽しそうに話してくれました。 
    黒田親子の基本姿勢は「自分に厳しく、手抜きをしない」

平成元年78歳の時に父は引退しましたので、この記事の時にはもう兄1人で仕事をしていました。その時代から今では殆ど削るのは勿論、脚、へそ、目盛りと全て機械で出来るようになっております。又それが主流になっています。
父の時代も上繰り脚の出来る碁盤師は殆どおりませんでした。その技術を受け継ぎました兄はもっと貴重な存在なのだと思うのですが、その技術も兄で途絶えます。何年か後には手作りの碁盤事態がなくなるのではと危惧しております
2004年2月29日
もうすぐ
  カウントが20000に
2002年の7月15日に開設したこのホームページがもうすぐ2万カウントに達しようとしています。何も解らず取りあえず走りながら考えようと、まだまだ力不足で兄鷺山の事を知っていただくのには時間がかかりそうなのですが、それでもこのホームページ、昨年はイギリスの囲碁協会から教材用のCDに使用したいとメールが舞い込み、今年はベネズエラのボランティアで子供たちに囲碁を教えている方逹のホームページに使いたいとメールを頂きました。日本でも子供用の囲碁の本に目盛りをしている兄 鷺山の写真が掲載されましたし、毎年小学校2校が産業を調べようと兄の所に見学にきています。
その中の1校のホームページ
http://www.habashita-e.nagoya-c.ed.jp/goban/goban1.htm
に兄 鷺山の写真が掲載されています。子供たちはかんながけ等を実際に体験して帰っていくようです。下の花の写真は消防団の団長をしている兄が公園に設置されているポンプ等の管理に行くのですが、やはり公園の御手洗いを管理している方からこの公園が一番汚れていると指摘され、花を植えたものです。始めは胡散がられた様ですが、今では市も協力してくださるようになったようです。
その公園の前が小学校の校門で、昨年子供たちが兄に感謝状をと、でその時に子供たちからの3つの質問
  どうして花を植えようと思ったのですか
      この公園が1番汚れているといわれたから
  何日ぐらいしているのですか
      1年に300日ぐらい、カラスが鳴くと起きて1時間ぐらい
       (カラスは夜が明ける30分前に鳴くそうです)
  誰の為に
      自分の為に
 感謝状とポインセチアの花を頂いて帰ってきたそうです。
手道具の手入れについての
アドバイスを
(リンクして頂いてる
書龕洞さんからのリクエストに答えて)

2003年12月13日
刃物の研ぎ方こればかりは直ぐには身に付きませんけれど、気をつけることを3点
  1. 両脇を少し身体に密着させる
  2. 刃物を研ぐときに、刃先に気がいっているか。 慣れないと目だけが刃先を追っています。
  3. 砥石にたいして刃先を前後に動かす時、気持ち水平より手前から先へ少し山なりに研ぐように気を持っていくことが大切です。
  砥石の上に少量(味の素を振り掛ける程度)のセラミックの粉末
  粒度 8000〜10000位のを振ってから研ぐと従来の半分の時間
  で研げます。
  ( 不二身研磨材工業(株)のセラミックの粉末を使っています。)

砥石について、気をつけること3点
  1. 刃物の裏面は常に真平らでなければいけません。その為に常に仕上げ砥石の表面をねじれの無い平ら。二枚合わせると離れないくらいにすることが大切です。
  2. 仕上げ砥石を常に真平ら、ねじれの無いようにする工夫
    中研ぎ用砥石、新品(人造砥石で良い)を仕上げ用砥石の表面を平らにする為だけに使用すること、刃物は表面の研ぎが少し悪くても裏面が限りなく真平らであれば切れ味は出る物です。
    刃物を研ぎ終わった後、刃物の裏面を見て刃先が白く見えるようでは、研ぎ負けています。もう一度研ぐようにしてください、(白く見えるのは裏面が刃先まで真平らになっていないと言う事です。)
  3. 中研ぎ用砥石の表面を綺麗にする工夫
    コンクリートブロックに川砂を杯1杯位まいて、ブロックの長さいっぱいに擦って表面を直してください。
刃物は裏が大切です。表が少々へんでも裏さえ真平らになっていれば、切れ味は良いものです。そのためには砥石を常に平らな状態に保つ事、月に2回ほど、砥石の手入れをしていますが、普通の方の砥石の状態はもっと悪いと思いますので、まめに砥石の手入れをすることが大事です。

上の文に対しての補足説明

刃先の裏は使っていると、極端にいえば、表と同じように刃先が斜めになって、それで砥石で研いでも、先だけ研げない状態になり、兄 曰く、研ぎ負けしている状態なのでは、だからさきが白く見えもう一度研ぐようにと言っているのだと思います。
刃物は裏さえ真平らならば、表が少々おかしくても、切れ味がいい、裏が大切だというのが、兄の持論です。今回の研ぎは私のもいい勉強になっています。

硬すぎて刃先がこぼれてしまう時に

油であげて少し戻します。そうすると柔らくなり、切れ味もよく刃こぼれしなくなります。
刃物は注文で作ってもらっていますが、刃物やさんが代々1300度で作っているそうで、小刀には丁度いいのですが、のみには硬すぎて刃先がこぼれてしまうので、余りこぼれる物は油で揚げています。最近は刃物やさんに指摘して1200度に温度を下げてもらいました。
170度〜180度の温度の中にいれ、10分ほどそのままの温度を保ちながら入れ、室温で自然に冷まします。
揚げる場合は柄を取り外します、そうしないとゆるくなり柄から取れてしまいます。柄を取るには刃先の近くの柄の上と下(のみですと裏と表側)を交互に金槌で叩いて出します。脚を彫るときに肩の部分など小口を彫ることになりますので、あま切れといって、やわらかくてよく切れる刃物でないと使えないのです。

 以上が兄 鷺山からのアドバイスです。
掲示板の書き込みの
 ご返事なのですが
2003年12月5日


(兄から肥後の守さんへの掲示板の返信なのですが、是非 職人の生き様を知って頂きたくて)
肥後の守と申します。
碁はわかりませんが、碁盤を作る鷺山さんのものづくりの姿勢に深く感動しました。
技術もさることながら、一徹な心配りは魂を感じます。
私の父は仕立て職人でした。子供の頃、大きな作業台と足踏みミシンで、黙々と洋服を仕立てていた父のことを思い出しました。無口でいつもニコニコしていましたが、25年前に亡くなりました。職人一筋の人生でした。
機械で同じ物をたくさん作る時代に、ひとつひとつ手づくりしてゆく大切さを思い起こすことができました。健康に留意され、これからもお仕事続けてくださるようお祈りしております。
時々、伺わせていただきたいと思います。

肥後の守さん、はじめまして 御便り有難うございます。
私 黒田信、昭和18年2月4日生まれで60歳です。子供の頃から工作などの物つくりが好きでした。
父は私が仕事につくまでは1年間の内、休みは正月3が日ぐらいで、今思い起こしても外に出て気晴らしや遊びもしない仕事一筋の人生でした。
私が父の仕事、碁盤つくりに入るときも反対でした。仕事は教えない、この仕事に入るならどこえでもいって覚えて来い言われ、思案の末 愛知県高等職業訓練校に入り基礎的な道具の使い方を習得しました。中学校卒業後の16歳になるまでの1年間ですが、16歳で自分の好きな物造りの世界に入り、始めて他の人には負けたくないという気持ちが起きました。刃物を持てば自分の思うようになり、他の人より早くこなせる自分が見つかり自信がついてきました。
職業訓練校を卒業したとき、父はだまって碁盤つくりの手伝いをさせてくれました。その日から父は私の碁盤のかんながけを見て、碁盤、将棋盤のかんながけは私の仕事になり、一面の碁盤、将棋盤も削ることなく、78歳で碁盤造りをやめ、10年後の平成10年に亡くなりました。
私が上繰脚を始めて造ったのは、平成元年になってからです。仕事は分業になっていて父が仕事のうちで難しい所、目盛りと上繰脚の製作をしていました。
私が盤を削り、脚も四角材から彫れるまでの下仕事をしていました。父の仕事には私ようの道具もなく手が出せませんでした。
平成元年の正月にいきなり明日から仕事はしない、自分の道具も使わせないと、ヤライという目盛りの時に使う道具も斧で叩き割ってしまいました。ヤライと目盛りに使う刀は末代まで使える物です。中京地区の碁盤店では親の道具を受け継いで使っています。
今思い起こせば、その時父の道具を使わず私自身ヤライ、刀と1ヶ月をかけ造ったのが良かったと思っています。
父は東海地方では碁盤つくりでトップの腕でした。職人の世界では師匠を追い越さないと同等に評価されないので父を追い越すを目標に仕事をしてきました。
30年間の下仕事で平成元年に始めて上繰り脚を造りましたが、形を身体が覚えていて、頭の中のイメージ道理に手が動いてくれました。
私の仕事が、東海地方の他の碁盤店に負けては、仕事は無くなりますので、常に二歩先の技術力を目標に碁盤つくりにたずさわっています。
手作りの盤に
  2003年11月27日
碁盤、将棋盤を作ることが出来る幹周りの太い榧の木は貴重な木です。この先あまり出ないと思っています。今回、東京の碁盤店を見て歩いて、30年程前から高額な碁盤、将棋盤まで機械脚の盤が名盤と言われ多数出回っているのは解っていましたが、改めてほとんどの盤が機械作りの脚に、そして目盛りまでも機械でしているところがある現状を目にして、職人として悔しくもなりました。
出来る事ならば全てを手作りで直してみたいと、手作りの良さを多くの方々に知って頂きたいと強く思いました。

碁盤職人の兄のところには買ったばかりの碁盤を脚も取替え総直しでといらしゃる方もあります。兄にとって自分の技術を認められ、そして榧の木が生かされたと喜んでくださる方がいるのは無常の喜びなのだと思うのですが、これから先も兄の鷺山作の盤が増えていくのが、このホームページを作った、妹の私の願い出もあります。
どうすれば数多くの方々に鷺山を知っていただくことが出来るのか、私にはこのホームページしか皆様に知っていただく手立てはありませんが、少しづつでも知って頂きたいと頑張って作っています。
東京の碁盤店見聞記
  2003年11月13日
私事なのですが、息子が結婚しまして、ほとんど名古屋から出る事も無かった兄が横浜に来る事になりました。結婚式もさることながら、東京の碁盤屋さんをこの目で見てみたいというのが長年の兄の願いでした。
このHPを作って、東京から兄の仕事に惚れ込んで来てくださる方もありますが、それも井の中の蛙で、自分の目で確かめてみたいと、で兄にその感想を見聞記にしてもらいました。以下は兄の話から

関東方面の碁盤、将棋盤には盤面に木蝋を塗らないのが主流でした。木蝋を盤面に塗ると碁石、駒等を汚すからとの理由で盤面蝋仕上げはしないとの話でした。又碁盤全体がピカピカ光るのはニス仕上げの様で品が無いとの意見でした。
それに対して鷺山の物は盤面に木蝋を塗り脚も光沢を出すように仕上げています。木蝋は気温30度以上になると少し柔らかくなる欠点があります。
鷺山の物は最高の木蝋に硬化剤を調合してあり、その為相当高い温度でもべたつくことはなく、また蝋が堅ければ光沢のある仕上がりになるのです。
木蝋の光は奥行きの深い光ですし、それがまた盤面を保護しているのです。木の仕事に携っている方ならお分かりだと思うのですが、長年の間には木も変色します。だから保護してないと相当削らないと本来の色にはならないのです。
それともう1つ、木で出来た製品の中で碁盤ほど高額な商品はないのではと思うのですが、価格に値するだけの技術力が1部の碁盤店を除いて無く、機械作りで高価格の碁盤、将棋盤が出回っている現状でまったくひどい物でした。全部の碁盤屋さんを見たわけではありませんので御叱りを受ける向きもあるかも分かりませんが、これも今のご時世で昔かたぎの私のような職人がいなくなっているのだと淋しくもなった旅でした。

以上が兄からの話なのですが、妹の私から、少し付け加えさせていただきますと、下地が綺麗に仕上がっていないと蝋が抜けやすくなります。下地を綺麗にする為には、かんながけ、足ならばノミの仕上げ、ペーパーと蝋を塗る前に触ってつるつるの状態でないと、仕上げも良くはならないのです。その為に兄の右親指はペーパーがけ等で太くなり変形しています。
50年後の自分の作品をみてほしいと兄はいっておりますが、改めてHPの脚の映像を御覧になってください。
最後に、東京方面の碁盤、将棋盤の価格は土地代、物価と高いこともあるのでしょうが、総じて名古屋方面の倍以上の価格と兄が驚いていました。
碁盤師泣かせの盤
  2003年9月7日
厚さ5,5寸の榧の将棋盤の修理が来ました。大阪の碁盤店作のものだそうです。
この将棋盤は、しみやきずを隠すのに色付にしてありました、鷺山作のものですと、漆にいれる2色の顔料を混合させ着色するのですが、このお店は70年〜80年前から鉛の粉末をいれ塗装の仕上げがしてあります。そうすると綺麗に隠しやすいのですが、後年 鉛が変色して盤の各部分の表面に出てきてしまいます。
又鉛の粉末が入っているため、一削りで鉋の刃先がつぶれてしまい、削る面全体の表面を削り取るのに、鉋が6〜7台位使ってからしか、一般的な削りが出来ないという碁盤師泣かせの、やっかいな仕上がりなのです。
盤面の青かびの話
  2003年8月23日


持ち主の方によると造って8年経っているそうですが、盤面に一面のあおかびが、普通でしたら、8年も経てば乾燥してあおかびなど出るはずは無いのですが、割れ止めに クリアラッカーを塗って、蝋がけしそれも磨き上げると蝋が取れるので、刷毛目も残ったまま、まだ7分がれぐらいの状態でした。
盤にクリアラッカーを塗った為、木が乾燥しなかったのです。でも塗らなければ、割れが入っていたと思われます。普通でしたら この状態ではまだ盤には加工しません木の乾燥は盤を作るのに 大事な条件なのです。
  
上の写真は盤の裏ですが、この碁盤はおお入れがしてありません下に書きました。平井芳松作の銘が入っているところをおお入れといいますが、乾いていない盤におお入れをすると、ほとんどの盤に割れがはいってしまうのです。
取りあえず、目盛り直しだけでもお願いしたいとのことで盤面を9mm削り目盛り直しをしました(右上の写真)が、まだ青かびは少し残っていますが、今度は割れが出てくる可能性がありましたので、又何年か先に盤が落ち着いた状態で修理することになりました。この話 皆さんの参考になれば幸いです。
平井芳松作の碁盤
  2003年8月23日
前回の東からのお客様は 名人と云われる平井芳松作の碁盤をお持ちで、この碁盤の直しをするために、碁盤師を捜しておられ、兄も平井芳松作の碁盤を楽しみにしていました。



昭和11年、12年と先代鷺山が修理をした時に模写したものです。
2代目の兄が平井芳松作の碁盤を修理したのは今から25年前、平成になってから上繰り脚を兄が造るようになりましたので、その当時とは歴代の名人と言われる平井芳松作の碁盤を見る気持ちが違いました。


大阪の碁盤屋さんの注文で造られた脚とおおいれの中の名 右は兄の名2箇所に銘がはいりました。
前回先代の模写したものと比べますと、脚が太めになっています。
碁盤も東西形がちがいます。西は太め、東は細めです。
名古屋は西の形に近く鷺山作は先代の鷺山と比べ、若干細めでデザイン重視の傾向があります。
今回の大阪で作られたこの脚はもともと細めの東の脚の作り手が太めの西の脚に仕立てた為、少し形に無理をしているようです。
又目盛りも注文だったのでしょうか、太めに仕上げてあり、現在の兄の仕事と比べて見て、チョツトがっかりしたようです。
 
 西と東からの
   訪問客の話
    2003年8月12日
前略 碁盤の脚拝見しました。 素晴らしい出来に感服しました。 あれが手彫りとは、とても人間技とは思えません。
 というお手紙をいただき、東京からわざわざ名古屋まできてくださり、碁盤造りの話になると1日話しても話足りないという兄と4時間ほど話して帰られたそうですが、きっかけはこのHPでした。
将棋の駒造りも趣味でなさるというHさんは、おじいさまの代からの囲碁の趣味もお持ちで、大阪、東京の碁盤店はほとんど知っているという事でしたが、何処で聞いても、鷺山という名は聞いたことが無いということで、HPを見て半信半疑 兄の所にお電話くださり、その話から兄が見本に碁盤の脚を送り、冒頭のお手紙を頂き、突然の訪問となったのです。
丁度1年前、リンクしていただいている。ひさの駒日記のひささんが大阪から来て下さっています。
サンドペーパーの話やカンナの話 研ぎの話とそして駒を作るようになって、盤や駒をいっぱい見てきているが、これほどの物は 誰が見ても きれい、、、すごいと 最後に創造の世界に住む人の話は 常に面白い。話を 聞くこと自体が 楽しい。物を作る側に常にいたいと思う自分を 見つけた。と書いてくださっています。
物を造る人は、物を造っている人に誉めていただく、これは最上の喜びではないのかと思うのです。東西のお客様 ありがとうございました。
先代碁盤師鷺山
   2003年7月3日
ヤフーのオークションで父の作った碁盤が出ておりました。教えてくださる方がいて初めてオークションがどういうものなのか、7月2日の終了日時に値段がどんどん変わっていくのを固唾を呑んでみておりました。
それと同時に、はたして碁盤師鷺山の名をどれだけの人がご存知なのかと、やはり質問コーナーにも有名店や展示会を見て30年ぐらいになるが聞いたことが無いという質問が出ていました。
3月にオークションに出品した方が脚の中の黒田の印を見て名古屋の碁盤屋さんに電話して、何軒かで我が家にたどり着かれ修理したのですが、(名古屋には黒田の名前の碁盤店が3軒あります)
昭和49年の父の手で作られた碁盤には父がウロコ屋さんの碁盤にのみ目盛りの持ちがどれだけ持つかの目安に黒田の判をおしていたようなのですが、それも20年ほど前までの話で最近になって、兄が自分の所から売りました数枚の碁盤に鷺山の名前があるのみですので、ご質問の方がご存知ないのも無理の無い話なのですが、碁盤の映像で脚が画面いっぱいに映っているのを見て職人としての父の姿を懐かしく思い出しました。
鷺山の名前を知っていただきたくて、作ったHPですが、東海地方のタイトル戦の碁盤、将棋盤はほとんど父と兄が造っていたのですが、それも他の碁盤屋さんからの仕事でしたので、兄と父の名前も残る事がありませんでした。形の残る物だから手を抜くなが兄の口癖なのですが、いつか正当に鷺山の名前が残せるのかと淋しくもなりました。
鷺山の名の由来 初代は宮大工でしたが、仕事中に怪我をして、明治40年ごろ、碁盤職人に転向しました。二代目は絵が好きで友禅の下書きの職人になったのですが、身体をこわし、初代の仕事を手伝うようになって、碁盤職人の道に入りました。
鷺山の名は二代目がつけたもので、烏鷺の戦い(烏は黒石、鷺は白石)は盤面の戦いを意味しますがその鷺からとって、碁盤師鷺山と名乗るようになりました。そして三代目の兄が二代目鷺山の名を継いでいます。初代から100年の碁盤職人の道も三代目の2人の子供が会社員の道を選びましたので鷺山の名も兄とともに終わりになります。
バットの話
 このバットは巨人軍の川相選手のバットで、ミズノテクニクスのバットの名人、久保田五十一さんが作ったものです。久保田さんと碁の有段者の方との話の中で兄鷺山の話がで、そんなに碁盤造りの技術にこだわる鷺山に是非合いたいとお話がありあって見たら、歳も同じでこれまでの生き方も非常に良く似ていると意気投合して記念にいただいたものです。
 久保田さんも鷺山も59歳になります。ミズノの養老工場に就職したのは16歳の時、鷺山も中学を卒業し16歳の時に職業訓練校に一年通い碁盤職人の道に入っています。
 プロの野球選手が外国産のバットしか使わなかった時代に、苦労なさって久保田さんのバットでないと言われるまでの話や鷺山の機械ではできない脚作りのこだわり等、御互い業種が違っても、仕事にかけるこだわり情熱は同じと一度では話が尽きないと2度にわたりお会いして頂いた。鷺山の宝物のバットです。
三代の碁盤  祖父の造った碁盤の目盛り直しがきました。大正時代の作品です。次の日父の碁盤の目盛り直し、これは昭和30年頃の作品です。兄鷺山の現在の作品と並べました。親子三代の作品が一同に揃ったのはこの道43年になりますが始めてのことです。脚の形も少しづつ違います。
 
綺麗で長持ちする目盛りをモットーにしている目盛りは長持ちしますのでなかなか揃う事がないのです。
 
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