ガロ系人名・用語辞典
ガロ系の作家、評論家、編集者などのプロフィール、作品の紹介などを掲載しています。
ガロにそれほど関わりが深くない人も紹介してたりします。
ガロ・クロニクルとリンクした内容になっていますので合わせて見ると吉。
池上遼一 【いけがみ・りょういち】
1944年5月29日、福井県生まれ。1961年、『魔像』でデビュー。
圧倒的な画力を持ち、青年誌に進出してからヒットを連発。作品は原作付きのものがほとんど。
人気作家となってからは作画者に徹しているが、1966年から「ガロ」に執筆していた短編群は漫画家・池上遼一の作家性が見えて読み応えのあるものばかりである。
「ガロ」に掲載された『罪の意識』が水木しげるの目に留まり、水木プロでアシスタントを1968年までやっていた。ここでの水木しげる、つげ義春との出会いは、漫画家・池上遼一を形成する上で非常に大きかったようだ。
代表作に『男組』『クライングフリーマン』『サンクチュアリ』など。
石子順造 【いしこ・じゅんぞう】
1929年生まれ。美術評論家であり漫画評論家。「悪趣味」「俗悪の美」と捉えた「キッチュ」の研究でも知られる。
権藤晋らと共に漫画評論のさきがけとなり、つげ義春の作品を「存在論的反マンガ」と評した。1977年死去。
著書に『キッチュ論』 『戦後マンガ史ノート』『劇画の思想』など。
大谷弘行 【おおたに・ひろゆき】
1953年生まれ。別ペンネーム・谷弘兒、谷弘児、陰溝蠅兒。
神経質な線で構成された独特のエログロかつ幻想的世界観を持つ。『薔薇と拳銃』などの探偵・陰溝蠅兒シリーズで根強い人気を得ている。ペンネームは、谷弘児、谷弘兒名義の方が一般的。
代表作に『薔薇と拳銃』『夢幻城殺人事件』など。
大山学 【おおやま・まなぶ】
1947年12月22日、鹿児島県生まれ。
18歳で上京してから貸本漫画を手がけ、「ガロ」には1969年1月号に登場。以後、「ガロ」「COM」「ヤングコミック」などを中心に劇画を発表する。現在は漫画家を廃業し、自由業に。
影丸譲也 【かげまる・じょうや】
本名・久保本稔。別ペンネーム・久保本實。
1940年1月3日、大阪府生まれ。1957年、単行本『怪獣男爵』でデビュー。
1970年に「少年マガジン」で連載した『八つ墓村』(原作・横溝正史、脚色・梶原一騎)で横溝正史ブームの火付け役となり、同年に代表作の1つでもある『ワル』(原作・真樹日佐夫)を連載。一躍、人気劇画家となる。
1972年より、つのだじろうの後を継ぎ『空手バカ一代』(原作・梶原一騎)の作画を連載終了まで5年間担当した。
代表作に『ワル』『空手バカ一代』『ワイルド・タウン 無法の街』など。
梶井純 【かじい・じゅん】
漫画評論家。漫画主義の同人の1人。評論だけに止まらず、優れた貸本漫画の研究を発表。
寺田ヒロオの漫画人生に焦点を当てた著作『トキワ荘の時代』は、映画『トキワ荘の青春』の原案となった。
著書に『トキワ荘の時代』『戦後の貸本文化』など。
勝又進 【かつまた・すすむ】
1943年、東京都生まれ。1966年、『勝又進作品集』で「ガロ」よりデビュー。
「ガロ」入選時は東京教育大学在学中だった。4コマ漫画、1コマ漫画などで優れた作品を発表。
代表作に『マンガ寄席』『たんたん歳時記』『わら草子』など。
カムイ伝 【かむいでん】
「月刊漫画ガロ」に1964年12月号から連載された白土三平の漫画。
非人の子として生まれたカムイが、その境遇から抜け出すため村を飛び出し剣の道へ。やがて忍者として生きることになるが、次第に忍者としての使命に疑問を持ち、抜け忍となって忍者組織に追われることになる。
実際の主人公は、後にカムイの義理の兄になる百姓・正助で、農民を指導して生産を高めて経済を向上させ、身分の差を無くそうとする彼の闘いが話の中心になっている。無数のキャラクターが登場するのも特徴的。
内容がやや社会主義的(マルクス主義)すぎると見ることも出来るが、質の高い物語性、当時の世相を反映したメッセージ性など、それまでの漫画の価値観を変えることになったストーリー漫画の金字塔的作品。
1971年7月号で、第一部完という形により「ガロ」での連載は終了。
また『カムイ伝』連載中の1965年から、「少年サンデー」でカムイにのみスポットを当てた『カムイ外伝』を連載。1967年まで連載。その後、1982年から「ビッグコミック」で『カムイ外伝 第二部』がスタート。1987年まで連載。
1988年には作・構成・白土三平、画・岡本鉄二となり、「ビッグコミック」で『カムイ伝 第二部』を連載。
何度か間を空けながら連載を続けるが、2000年4月10日号を最後に現在休載中。
鬼童譲二 【きどう・じょうじ】
1943年3月30日生まれ。東京都出身。
貸本漫画で三洋社などからアクション劇画を多数発表。その後、筆名を出井州忍にしてエロ劇画で活躍。
現在は谷間夢路のペンネームで、ベテランホラー漫画家となっている。
楠勝平 【くすのき・しょうへい】
本名・酒井勝広。別ペンネーム・酒井まさる。
1944年(昭和19年)1月17日、東京都生まれ。1960年、貸本向け漫画『必殺奥義
』でデビュー。
渡辺美千太郎に師事したのち漫画家となる。その後は赤目プロダクションで白土三平のアシスタントを務めながら作品を発表。1965年に赤目プロを辞めるが、1968年には『サスケ』リライト版のスタッフとして一時復帰した。
幼少の頃から心臓を患っており、病気と闘いながら、江戸の市井を生きる庶民の姿を描いた作品を『ガロ』『COM』などに多数発表。作品は病気の進行と共に、次第に死の影を帯びたものになっていく。とはいっても、職人的技術と才能によって描かれたそれは、清清しさすら感じさせるほどに作品として昇華されている。
白土三平、唯一の弟子でもあった。(他に弟子と認められた者はいない)
1973年から心臓の病気が悪化し、1974年3月15日死去。享年30歳。
代表作に『おせん』『ぼろぼろぼろ』『仙丸』など。
月刊漫画ガロ 【げっかんまんが・がろ】
1962年に長井勝一によって設立され、貸本向け漫画を出版していた青林堂より1964年に創刊された漫画誌。
三洋社時代から白土の貸本向け漫画を出版していた長井が、白土三平より『忍者武芸帳』に次ぐ新しい長編(カムイ伝)の構想を聞き、それを掲載するための雑誌を作ろうと話し合ったことがガロ誕生のきっかけとなる。
白土は、貸本で大ヒットした『サスケ』などの売上を全て「ガロ」創刊の資金のために長井に提供した。
ガロは長井勝一の編集方針により、ベテラン作家が自由に描きたい作品を発表すると同時に、無名の新人が才能を伸ばす場としての色合いを強めていく。その結果、あまたの異才、怪作を世に送り出し、漫画界に多大な影響を与える。もちろん、それらを全て内包する幅を持った編集長・長井勝一の力が大きいことは言うまでも無い。
1966年には『カムイ伝』人気で年末8万部にまで達した売り上げも、1971年の『カムイ伝』終了から徐々に下がり始め、作家への原稿料が出なくなる。とはいえ、自由な場であることが幸いし、ガロに描きたいという作家が絶えることはなかった。
1980年代からは本格的に部数が低迷し、1989年には長井が青林堂を手放すことを考える。そして1990年に松沢呉一の仲介により、『ねじ式』のPCゲームなどを発売していたコンピューターソフト会社「ツァイト」に経営を譲渡。1991年には長井が社長を退き会長に就任。1992年1月号より長井勝一が編集・発行人を退き、「ツァイト」社長・山中潤が編集・発行人となる。また95年には白取千夏雄、手塚能理子の2人が副編集長に就任。山中が打ち出したガロのサブカル色を強めるというリニューアル策は成功。ガロの部数は大幅に回復したが、、放蕩経営による「ツァイト」の経営危機、1994年の映画『オートバイ少女』の失敗『デジタルガロ』の無謀な搬入部数による失敗で経営は悪化。山中と、手塚能理子をはじめとする編集部との間に衝突が起こる。
1996年1月15日に長井勝一が阿佐ヶ谷の自宅で死去。
突如起こった「編集部総辞職騒動」により、1997年8月号を最後に予告なしで1年と1ヶ月の休刊(「編集部総辞職騒動」に関しては白取千夏雄のコラム『「ガロ」と日本のサブカルチャーを考える』に詳しい)。それを引き金にして「ツァイト」も倒産。
1998年1月号より、福井源の尽力によって復刊。編集人・長戸雅之、発行人・福井源。
スタイルの変更や、資金面・人材面の不安が原因となり、僅か9号で2度目の休刊となる。
1999年臨時取締役会にて、ねこぢるグッズなどの販売、ガロへの広告掲載などしていた「大和堂」社長・蟹江幹彦が代表取締役社長に就任。2000年1月号より復刊。編集・発行人は蟹江幹彦。
編集者が次々と入れ替わったり、売り上げも低迷するなどし、編集長交代(是安宏昭に)、隔月刊化を経て、2002年12月発売号よりオンデマンド出版に移行。復刻漫画のみを集めた復刊号を発売。
歴代の編集長は、初代編集長・長井勝一、2代目・山中潤、3代目・長戸雅之、4代目・蟹江幹彦、5代目・是安宏昭。また実質的編集長だった者として、1976年からの南伸坊、1978年からの渡辺和博がいる。
向後つぐお 【こうご・つぐお】
11月19日、東京都生まれ。村岡栄一や三橋乙揶と共に、永島慎二のアシスタントをしていた。
永島慎二の『若者たち』はこの3人をモデルにした漫画。
代表作に『おとこ喰い(原作・伊東恒久)』『すっ飛びの桂馬』など。
小島剛夕 【こじま・ごうせき】
別ペンネーム・諏訪栄(すわ・さかえ)。
1928年(昭和3年)11月3日、三重県生まれ。1957年、単行本『隠密黒妖伝』でデビュー。
紙芝居、貸本漫画を経て漫画家となる。筆を使った流麗な描線が特徴的。
「漫画アクション」で1970年から連載した『子連れ狼』(原作・小池一雄(一夫))が大ヒット。テレビドラマ化、映画化もされ、漫画家として不動の地位を得る。連載は1976年4月まで続いた。
赤目プロダクションに一時在籍。白土漫画のタッチの変化は、小島剛夕の影響が大きいと言われている。
2000年1月5日没。享年71歳。
代表作に『子連れ狼』『宮本武蔵』『首斬り朝』『おぼろ十忍帳』など。
COM 【こむ】
「ガロ」の自由な漫画表現に影響を受けた手塚治虫が、虫プロより分離した虫プロ商事から1967年に創刊した漫画誌。「ガロ」のライバル誌となり、泥臭い表現の「ガロ」、都会派の「COM」として漫画マニアたちの人気を2分した。手塚本人が『火の鳥』を連載したほか、出崎統、石森章太郎、永島慎二などの手塚を慕う漫画家が自由な作品を発表。また、漫画以外の企画も優れたものが多かった。新人作家の登竜門としての役割りも強く、多くの漫画家が巣立っていった。
COMから巣立った作家として、やまだ紫、岡田史子、青柳裕介、坂口尚 、諸星大二郎、長谷川法世、竹宮恵子、あだち充、コンタロウなどがいる。「ぐらこん」という新人漫画家発掘コーナーも人気で、諸星大二郎、安部慎一、大友克弘などが投稿者だったことでも知られる。
1971年12月号を最後に休刊。その後、1973年8月に一度だけ復刊された。
小山春夫 【こやま・はるお】
白土三平のアシスタントとして知られるが、忍者漫画の自作も多数発表し人気を得ていた。
代表作に『甲賀忍法帳』『真田十勇士 猿飛サスケ』『疾風土蜘蛛党』など。
権藤晋 【ごんどう・しん】
本名・高野慎三。1940年、東京都生まれ。1967年から5年のあいだ青林堂で「ガロ」の編集に携わる。
1971年に青林堂を退職。1972年に北冬書房を立ち上げ、漫画誌「夜行」を創刊した。
『つげ義春幻想紀行』『つげ義春を旅する』(高野慎三名)など著作も多数。
佐々木マキ 【ささき・まき】
本名・長谷川俊彦。
1946年10月18日、兵庫県生まれ。1966年、『よくあるはなし』で「ガロ」よりデビュー。
「ガロ」や「朝日ジャーナル」で風刺漫画や、ストーリー性を排除したシュールなイラスト的作品で活躍。
70年代後半からは、絵本作家、イラストレーターに転向。
村上春樹作品のカバー装画を数多く手掛けたことでも有名。現在は絵本作家。
白土三平 【しらと・さんぺい】
1932年(昭和7年)2月15日、東京都生まれ。1957年、貸本向け漫画『こがらし剣士』でデビュー。
『忍者武芸帳』(長井勝一が設立した三洋社から出版)など忍者漫画で人気を博し、1963年には赤目プロダクションを設立。1964年『月刊漫画ガロ』12月号より『カムイ伝』連載開始。『カムイ伝』は当時の学生運動の動きと相まって、学生達に熱狂的な支持を得る。『ガロ』は長井勝一が白土の作品を掲載するために創刊した漫画誌だった。「ガロ」創刊の際の資金も、白土の『サスケ』などを出版した売上を全て運用した。また『ガロ』の誌名の由来は、貸本『忍法秘話』誌上に白土三平が発表した『やませ』に登場する忍者「大摩のガロ」からとったとされている。ゆえに白土三平がいなければ、「ガロ」は存在しなかったと言える。
また、赤目プロ出身の漫画家には楠勝平、小山春夫、小島剛夕などがいる。
代表作に『カムイ伝』『カムイ外伝』『忍者武芸帳』『サスケ』『ワタリ』など。
鈴木翁二 【すずき・おうじ】
別ペンネーム・カルメ・コウチ。
1949年、愛知県生まれ。1969年、『ガロ』に掲載された「庄助あたりで」でデビュー。
高校卒業後の1967年に上京し、「ガロ」を中心に青年期の苦悩や宮沢賢治的な幻想的作品を描く。同時期に活躍した安部慎一、古川益三と共に「ガロ三羽烏」と呼ばれ、70年代「ガロ」の中心メンバーとなった。
独特の作風は影響力が非常に強く、その影響は読者や漫画家だけでなく、友部正人、あがた森魚、シバ、ムーンライダース、森田童子、たま、など翁ニ作品にインスパイアされたミュージシャンも数多い。ちなみに友部正人の代表曲の1つである『一本道』は、翁二の『マッチ一本の話』をイメージしたと友部本人が語っている。
また、鈴木翁二本人もミュージシャンとしてライブ活動などをおこなっている。
『透明通信』他数作はカルメ・コウチ名義で発表。その後、『透明通信』は鈴木翁二名義で青林堂から刊行されている。
1980年代に北海道に移住。1990年に劇団・少年王者舘により「『マッチ一本の話』が舞台化。作・演出は天野天街。1994年には映画『オートバイ少女』がガロシネマ第一回作品として公開。監督はあがた森魚、製作・プロデューサーは当時の「ガロ」編集長であり青林堂社長の山中潤。鈴木翁二は原作だけでなく脚本にも携わった。
現在も漫画家、ミュージシャンとして活動中である。
代表作に『マッチ一本の話』『透明通信』『東京グッドバイ』『オートバイ少女』など。
諏訪栄 【すわ・さかえ】
小島剛夕の初期ペンネーム。出身地である三重県四日市市の地名に由来すると思われる。
詳しくは小島剛夕の項参照。
青林堂 【せいりんどう】
1962年に長井勝一によって設立された出版社。白土三平の『忍法秘話』などを出版。その資金を使って1964年『月刊漫画ガロ』を創刊。1990年に山中潤が代表を務めるコンピュータソフト会社「ツァイト」へ経営譲渡。1997年の「編集部総辞職騒動」による「ツァイト」倒産・『ガロ』休刊後は、復刊・2度目の休刊を挟んで蟹江幹彦が代表を務める「大和堂」が経営を引き継ぐ。その後、「青林堂」、「青林堂ネットコミュニケーションズ」などに分社。2003年にはグループ会社「青林堂ビジュアル」にタカラが出資。子会社化した。
大摩のガロ 【たいまのがろ】
白土三平の『忍法秘話』に登場する相手の心が読める忍者。『ガロ』の誌名の由来となった。
高野慎三 【たかの・しんぞう】
権藤晋の本名。権藤晋の項参照。
高橋高雄 【たかはし・たかお】
矢口高雄の本名。「ガロ」入選時はこの名前だった。詳しくは矢口高雄の項参照。
滝田ゆう 【たきた・ゆう】
本名・滝田祐作。別ペンネーム・滝田裕、滝田ひろし。
1932年3月1日、東京都生まれ。1952年、『クイズ漫画』で「少年クラブ」よりデビュー。
漫画家を志し1951年から田川水泡の書生となる。1967年頃から「ガロ」に作品を発表しはじめ、1968年から連載した東京下町の風景を克明に描いた『寺島町奇譚』が多くの文化人に絶賛され、一躍脚光を浴びる。
以後も、東京下町の風景をモチーフにした良作を多数発表。
「ガロ」登場時は、つげ義春に影響された作風だったが、次第に独自の滝田ワールドを完成させていった。
1990年8月25日、肝不全のため死去。享年58歳。
代表作に『寺島町奇譚』『怨歌劇場』『滝田ゆう落語劇場』など。
田代為寛 【たしろ・ためひろ】
1948年7月22日、東京都生まれ。1966年、『宇宙の出来事』で「ガロ」よりデビュー。
大学卒業後に漫画家となるが、1978年から漫画家を一時廃業。しかし、「ガロ」二十年史『木造モルタルの王国』の発刊に刺激を受け、漫画業を再開。現在も、田代しんたろうのペンネームでファミリー4コマや、エッセイなどで活躍中。
辰巳ヨシヒロ 【たつみ・よしひろ】
1935年6月10日、大阪府生まれ。1952年、鶴書房の単行本『こども島』でデビュー。
「新漫画」という名称だったリアルな作風の名称を、1957年短編誌「街」に描いた作品「幽霊タクシー」にで初めて「劇画」という言葉を用い統一、以後の劇画ブームのさきがけとなる。その後、さいとう・たかを、佐藤まさあき、松本正彦、桜井昌一らと共に劇画工房を設立。しかし、一年後には解散となった。一方の雄・さいとうたかおに比べ泥臭い作風であったが、庶民のささやかな希望と悲しみ、情念のこもったハードボイルド作品など、大人の鑑賞を意識した深い作品を描いた。
1986年、神保町で漫画の古本専門店ドン・コミックを開店。絶版本を中心に現在も営業している。
「劇画」を提唱し、著書『劇画大学』などで劇画論も展開した、名実共に劇画界のドンである。また、劇画家・劇画出版者の桜井昌一は実兄である。
代表作に『男一発』『人喰魚』『地獄の軍団』など。
つげ忠男 【つげ・ただお】
本名・柘植忠男。
1941年7月2日、東京都生まれ。1959年、『回転拳銃』で貸本誌「迷路」よりデビュー。
採血工場に勤務していたが、兄・つげ義春の影響で漫画を描き始め、貸本漫画に作品を発表。1968年に「ガロ」で『丘の上でヴィンセント・ヴァン・ゴッホは』を掲載してから注目を集める。
以後は「夜行」「Comicばく」などに作品を発表。
1995年には、代表作『無頼平野』が石井輝男監督によって映画化された。
1990年頃にジーンズショップを開業して漫画家を廃業していたが、店を息子に譲ってからは漫画家復帰している。
代表作に『無頼平野』『どぶ街』『けもの記』など。
つげ義春 【つげ・よしはる】
本名・柘植義春。
1937年10月31日、東京都生まれ。1954年、『犯人は誰だ!!』で「冒険王」からデビュー。
幼い頃から対人恐怖症だったため、一人で空想したり、好きな絵を書いていられる職業として漫画家を志す。
メッキ工場に勤めながら少年誌に漫画を投稿。その後、メッキ工場を辞め漫画家の道へ。
生活の困窮や、恋人との別れが重なり、25歳のときに睡眠薬自殺をはかるが未遂に終わる。ちなみに、このときの体験は『別離』という作品の中で描かれている。
1965年に「ガロ」に連絡を乞う呼びかけが掲載されたのを知り、「ガロ」に作品を発表するようになる。1966年に『沼』、『チーコ」』等の作品をガロに掲載するも不評に終わる。1966年からは、水木プロに入りアシスタントに。
1968年に、月刊漫画ガロ6月号「つげ義春特集号」発売。巻頭で『ねじ式』が発表され、漫画界だけでなく、文学、演劇、芸術などの幅広いジャンルに衝撃を与え、後につげ義春ブームが起こる。
1981年頃には、漫画家の将来案じ、生活ために中古カメラ売買や古物商に手を出すが失敗。
寡作であったが、1984年に創刊された「Comic ばく」で3年ぶりに作品を発表。毎号新作を発表するが、13号に掲載された『別離(後編)』を最後に漫画作品の発表が途絶える。
実弟のつげ忠男も漫画家。妻の藤原マキ(本名・藤原真喜子)は絵本作家としてデビューしている。
代表作に『ねじ式』『紅い花』『ゲンセンカン主人』『別離』など。
つげ義春・九鬼まこと、両君至急当社に連絡乞う
当時、所在の掴めなかったつげ義春に連絡をとるため、「月刊漫画ガロ」1965年4月号欄外に掲載された。この呼びかけはつげ義春の耳に入り、水木しげるのアシスタントをしながら「ガロ」に作品を発表し始める。ちなみに九鬼まことはイラストの分野に進んでいたためガロには登場しなかった。
つりたくにこ
本名・釣田邦子(つりた・くにこ)。別ペンネーム・はざまくにこ。
1947年10月25日、兵庫県生まれ。1965年、『人々の埋葬/神々の話』で「ガロ」からデビュー。
中学時代から漫画を描き始め、高校生の頃から本格的に漫画家への希望を抱きはじめる。また、この前後には、あすなひろし、手塚治虫、石森章太郎のもとを訪ねている。
デビュー後も「ガロ」を中心に作品を発表。インパクトの強い独特の心理描写の作品で人気を得る。
はざまくにこ名義で少女漫画も執筆。短期間ではあるが、水木プロでアシスタントも経験した。
つぎ宛春の名義で、「ガロ」につげ義春のパロディ『それから(続・李さん一家)』という作品も発表している。
1970年7月には「月刊漫画ガロ つりたくにこ特集号」が発売。
1973年に不治の病・SLE(全身性エリテマトーデス)を発病。病状悪化のため漫画執筆は困難に。1979年に青林堂から作品集『六の宮姫子の悲劇』が発売される運びとなり、「ガロ」に再び漫画を発表しはじめる。また、このころ病室で描いた『フライト』は「ヤングジャンプ」に掲載された。(風木繭名義)
しかし、さらに病状は悪化していき、1982年以降は漫画を描くことが出来なくなった。
1985年6月14日、入院先の病院で死去。享年36歳。
代表作に『六の宮姫子の悲劇』『彼方へ』『北斗七星と海蛇』(絵本)など。
長井勝一 【ながい・かついち】
1921年(大正10年)4月14日、宮城県生まれ。
早稲田工手学校卒業後、満州で職についていたが、1945年に満州脱出。内地で終戦を向かえる。
1948年から赤本漫画出版を始め「大和書店」を開業するが、結核のため休養。休養後、特価本卸「足立文庫」を姉と始めるが、結核が再発。その後、1956年に神田神保町に「日本漫画社」設立。1959年には小出英男、夜久勉と共に「三洋社」を設立し、白土三平の『忍者武芸帳 影丸伝』などを出版。忍者劇画ブームの立役者となる。
またも結核が再発し三洋社は解散するが、療養中の1962年に「青林堂」を設立。白土作品を中心に続々と出版を行い、その資金を使って1964年「月刊漫画ガロ」を創刊。『カムイ伝』のヒットにより部数も伸び、1967年には小学館から「ビッグコミック」への吸収の話があったが熟考のすえ断る。普通の出版社では有り得ないような作品への幅広い理解を持ち、作家の個性を尊重する編集スタイルは、数え切れないほどの『ガロ』ならではの異才を世に送り出した。1982年には著書『「ガロ」編集長』刊行。
1989年より部数の低迷や自身の高齢から青林堂を手放すことを考え、1990年にコンピューターソフト会社「ツァイト」に経営譲渡。青林堂社長から退き、会長に就任。1991年1月から編集・発行人も退く。
1995年、矢口高雄の強い推挙により「日本漫画協会選考委員特別賞」を受賞。受賞式には車椅子で出席。
1996年1月5日、入院先の病院で退院を強固に主張。阿佐ヶ谷の自宅にて肺炎のため死去。享年74歳。
永島慎二 【ながしま・しんじ】
本名・永島慎一。別ペンネーム・永島真一。
1937年7月8日、東京都生まれ。1952年、単行本『さんしょのピリちゃん』でデビュー。
1961年から貸本向け劇画雑誌「刑事」に連載した『漫画家残酷物語』で、私漫画ともいえるジャンルを確立して高い評価を得た。その後、1964年頃まで新宿でフーテン生活を送り、新宿一帯のフーテンの顔役だったことも。
同年の2月に虫プロに入社し、アニメーションの仕事をしながら、「COM」に『フーテン』を連載して漫画家として復活。
1967年から「少年キング」に連載した梶原一騎とのコンビによる『柔道一直線』は幅広い人気を得るが、原作者・梶原一騎と合わなかったことや、商業的な仕事への苛立ちから、連載中にニューヨークに逃亡。
1972年には「週刊少年サンデー」に連載した『花いちもんめ』で小学館漫画賞を受賞し、『若者たち』で再度青春漫画を描き好評を得たが、以後漫画界の第一線から徐々に身を退いていくことになる。
その後は絵本作家に転向。一枚画なども描くようになる。
「ダンさん」の愛称で多くの若者に慕われ、永島慎二のもとを訪れてから漫画家になった者は多数。また、漫画界だけでなく、フォークソング界、演劇界などにも永島を慕うものは多かった。
また『若者たち』は、1974年にNHK銀河テレビ小説で「黄色い涙」というタイトルでドラマ化された。『若者たち』に登場する喫茶店「ぽえむ」は、当時の永島ファン憧れの地であった。
2005年6月10日、慢性心不全のため死去。享年67歳。
代表作に『漫画家残酷物語』『フーテン』『若者たち』『四畳半の物語』など。
南波健二 【なんば・けんじ】
1940年11月18日、東京都生まれ。高校2年の時、単行本『荒鷲の決戦』でデビュー。
デビュー後も貸本劇画を中心に漫画を描き続ける。永島慎二の家に通うも会ってもらえず、さいとうたかをの門を叩く。さいとうたかをの劇画集団に加わり、佐藤まさあきとの競作単行本がヒット。1年半後に独立した。当時のアシスタントには、ながやす巧が在籍。後に漫画家・江波じょうじ氏と大仙プロを設立した。
代表作に『アタックジョー』『キック魂』など。
忍者武芸帳 影丸伝 【にんじゃぶげいちょう・かげまるでん】
織田信長に反抗する一揆を指揮する謎の忍者・影丸、父の仇を追う結城重太郎を中心に描いた白戸三平の忍者劇画。長井勝一の三洋社から1959年に出版された。若者や知識人の絶大な支持を得る一方、残酷描写が問題となり批判の的となる事もあった。当初のタイトルは『影丸伝』だったが、インパクトが弱い事を理由に長井が『忍者武芸帳』に変えた。白土は『影丸伝』というタイトルにこだわりがあったようで、サブタイトルに使っている。
1967年に大島渚監督が映画化。“原画”をそのまま撮影して声をあてるという手法をとり、静止画のみでありながら漫画の1コマ1コマを拡大したり素早く動かすなどして躍動感ある作品となっている。
ねじ式 【ねじしき】
1968年「ガロ」6月号の「つげ義春特集号」の巻頭で発表されたつげ義春の漫画。。
メメクラゲに左腕を刺された少年がイシャを探し回るところから、次々と不条理な展開が続く。水木プロ時代のつげ義春が、ラーメン屋の2階で昼寝した際に見た夢がストーリーの元になっているとされる。
発表されるやいなや、多くの評論家たちに芸術であると批評され、一大センセーションを起こす。
後に多くの漫画家からパロディ化され、長谷邦夫による『アホ式』『バカ式』、赤瀬川原平による『おざ式』などが生まれ、キャラクターやセリフのパロディに至っては数え切れないほどである。
1998年に石井輝男監督によって映画化される。また、1989年には、後の青林堂2代目社長・山中潤が代表をつとめるツァイトより、PC-98用、X68000用のパソコンゲームとしても発売されている。
ちなみに冒頭の「メメクラゲ」は、つげのネームでは「××クラゲ」であったが、写植を打つ際に編集者が間違えたもの。
漫画主義 【まんがしゅぎ】
権藤晋(高野慎三)を中心に、石子順造、梶井純、山根貞男によって、1967年に創刊された漫画批評同人誌。
創刊号でつげ義春特集を掲載。まともな漫画評論誌としては日本初となる。表紙担当は赤瀬川原平。
漫画を芸術として捉え、つげ義春、白土三平、水木しげる、平田弘史などの批評が展開された。
水木しげる 【みずき・しげる】
本名・武良茂(むら・しげる)。別ペンネーム・東新一郎。
1922年(大正11年)3月8日、鳥取県生まれ。1957年、貸本向け漫画『ロケットマン』でデビュー。
陸軍の兵隊としてラバウル出兵の際に爆撃で左手を失ったが、武蔵野美術学校、紙芝居作家を経て漫画家となる。1964年「ガロ」創刊号で雑誌デビュー。1965年には別冊少年マガジンに発表した『テレビくん』で講談社児童漫画賞を受賞。以後も「ガロ」には作品を発表しつづけ、白土三平と並ぶ「ガロ」の看板作家となる。また1966年には白土三平との衝撃的な対面を描いた『カモイ伝』なる異色作も発表した。その後『墓場の鬼太郎』など怪奇・妖怪ものを多数執筆し、1968年にはテレビアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』が放送され人気漫画家に。
手塚治虫と比較されるほど漫画界に与えた影響は大きく、水木プロダクション出身の漫画家であるつげ義春、池上遼一、つりたくにこ、鈴木翁二などは水木の影響を特に色濃く受けている。
また妖怪漫画だけでなく、戦記もの、時代ものなどの作品も非常に評価が高い。
代表作に『墓場の鬼太郎』『悪魔くん』『河童の三平』など。著書に『のんのんばあとオレ』『昭和史』など。
林静一 【はやし・せいいち】
1945年3月7日、中国満州生まれ。1967年、『アグマと息子の食えない魂』で「ガロ」よりデビュー。
東映動画にアニメーターとして入社し、アニメーションに携わる一方、1967年に「ガロ」に『アグマと息子と食えない魂』を掲載。以後も短編を「ガロ」に発表しつづけ、1970年から代表作『赤色エレジー』を連載。感銘を受けた歌手・あがた森魚が歌った同名曲が大ヒットする。また、同棲ブームの火付け役となった上村一夫の『同棲時代』は、『赤色エレジー』に強い影響を受けた作品。コマ割りのデザイン、セリフ運びなど、現在でもそのセンスは目を見張るものがある。
1975年にCM「ロッテ小梅」のアートディレクターを担当。ベニス映画祭銅賞、クリオ映画祭特別賞などのCF映画祭で受賞。林静一がデザインしたキャラクター「小梅ちゃん」は現在も使われている。
現在は主にイラストレーター、画家として活動中。
代表作に『赤色エレジー』『PH4・5グッピーは死なない』など。
日野日出志 【ひの・ひでし】
1946年4月19日、中国満州生まれ。1967年、「COM」から『つめたい汗』でデビュー。
言わずと知れたホラー漫画の巨匠。ギャグマンガからホラーに転向するため、意識的にデッサンを崩した絵は、見るものに写実的な描写以上の恐怖を与える。「ガロ」には1968年に『どろ人形』で入選。以後、1970年に「少年画報」に発表した『蔵六の奇病』をはじめ、『地獄変』、『地獄の子守唄』などホラー漫画の枠を越えた名作を生み出す。創作ペースは加速していき、現在までに400タイトル以上ものホラー作品を発表。
1985年からはホラービデオ制作にも乗りだし、『ギニービック2/血肉の華』などを監督した。また、このビデオは1988年に起きた幼女連続殺害事件の容疑者・宮崎勤の部屋にあったとされ、残酷描写の影響が問題視されたが、実際に部屋にあったのはコメディ調の喰始監督『ギニーピッグ4/悪魔の女医さん』であった。
代表作に『蔵六の奇病』『地獄変』『地獄の子守唄』『毒虫小僧』『赤い蛇』『私の赤ちゃん』など。
古川益三 【ふるかわ・ますぞう】
別ペンネーム・古川ますぞお。
1950年10月21日、滋賀県生まれ。1968年、『登場人物のいない漫画』で「COM」に入選。
1969年に『野風呂』で「ガロ」よりデビューし、1970年からは長編『紫の伝説』を「ガロ」に掲載した。
美しい自然風景や、独特の宗教観が盛り込まれた傑作を発表して、同時代に「ガロ」で活躍した安部慎一、鈴木翁二と共に、「ガロ三羽烏」「一二三トリオ」などと呼ばれた。しかし、金銭面の不安や、親友の漫画家・安部慎一が精神を病んだことなどもあり、漫画家生活に見切りをつけ、1980年に全国初となる漫画専門古書店「まんだらけ」を中野ブロードウェイ内に開業。当時こそ苦労したが、漫画ブーム、古川益三のテレビ番組出演、コスプレ店員などで人気を得て、現在では十数店舗を構えるほどとなった。漫画だけでなく、玩具、アニメグッズ、コスプレ衣装など幅広く扱っている。
2002年頃には、自社の「まんだらけ出版」より、安部慎一、鈴木翁二の作品集を出版した。
代表作に『邪尼曼荼羅』『紫の伝説』『青春風土記』など。
みつはしまこと
本名・三橋誠。別ペンネーム・三橋乙椰。
1949年、東京都生まれ。1965年、「ガロ」から『ある日若者は旅立った』でデビュー。
1967年頃より永島慎二に師事し、『柔道一直線』『フーテン』などの作画を手伝いながら自作も発表。
同じ時期にアシスタントをしていたみつはしまこと、村岡栄一、向後つぐおは、永島慎二の『若者たち』の登場人物。
また「シバ」の名で、フォークシンガーとしても活躍。高田渡、山本コータローらと「武蔵野タンポポ団」を結成した。
代表作に『野辺は無く』など。
矢口高雄 【やぐち・たかお】
本名・高橋高雄。別ペンネーム・橋高雄。
1939年10月28日、秋田生まれ。1969年、『長持唄考』で「ガロ」よりデビュー。
白土三平の『カムイ伝』に触発され、地元の銀行に勤めながら「ガロ」に作品を次々と発表。1970年に12年間勤めていた銀行を退職して、漫画家を志し上京する。上京後、訪ねた長井勝一から「少年サンデー」を紹介され、『鮎』を掲載。
「少年マガジン」に1973年より連載した『釣りキチ三平』が大ヒット。全国に釣りブームを起こし、一躍人気漫画家に。また同年に発表した『幻の怪蛇・バチヘビ』では、世にツチノコブームを巻き起こすきっかけとなった。
1995年に長井勝一に送られた「日本漫画協会選考委員特別賞」は、矢口の強い推挙があったもの。
ペンネームの由来は、矢口渡のアパートに住んでいたことから。命名者は梶原一騎。
代表作に『釣りキチ三平』『マタギ』『幻の怪蛇・バチヘビ』『おらが村』など。
山根貞男 【やまね・さだお】
別ペンネーム・菊池浅次郎。映画評論家であるが漫画評論もする。映画誌「シネマ69」の編集長を務めた。
著書に『現代日本映画論大系』『手塚治虫とつげ義春』など多数。
淀川さんぽ 【よどがわ・さんぽ】
1969年、「ガロ」に入選した『少年』でデビュー。「ガロ」に掲載した一連の作品が石子順造などに高い評価を得て、「美術手帳」などにも作品を執筆する。作品集が刊行される前に筆を折ってしまったが、1998年に幻堂より作品集が刊行。その頃には作家としても「ガロ」に登場するなどした。
代表作に『赤ずきんちゃん』『怪人Mと少年探偵団』など。