寺だより

はすのはな第36号

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新年明けましておめでとうございます 本年も宜しく御願い致します

昨年アメリカ合衆国の大統領が代わりましたが、我が国においても、天皇陛下の退位に関する議論が重ねられ、「皇室会議」の結果、平成三十一年四月三十日に退位日が決定しました。翌日の五月一日、新天皇即位、改元という日本史の大きな節目を迎えることになりました。従って平成の元号も本年を含め後十六ケ月という事になります。誠に喜ばしい皇室の慶事だと思います。天皇皇后両陛下の数知れない今迄のご公務に対して、心よりお疲れ様でございましたと敬意を申し上げたい気持ちになります。

此の御祝いに際し、旅行会社に於いては十連休が予定される為に、今年は活気づきそうです。来年の話ではございますが、二度と無い様な十連休計画、今年から家族揃ってしてみてはいかがでしょうか。
『犬も歩けば棒に当たる』
きっと思わぬ幸運に当たるかもしれませんよ。
檀信徒皆様の本年のご多幸衷心より、ご祈念申し上げます。

(住職)

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干支だるま

二人の娘が未だ幼い頃、年末になるとお酉さまによく出かけていました。

熊手を買うわけでもなく、大鳥神社を参拝する目的でもなく、単に出店見物が楽しかったからだと思いますが、その時『干支だるま』を売ってる店があり、買ってみました。

その『干支だるま』は、毎年テレビや新聞などでも紹介されるようになりました。お陰様で今では、十二支全て揃いました。写真のごとく今年の干支だるまの『犬』です。


干支だるまは平塚市の「荒井だるま屋」さんにて製作されています。

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冬報恩講に出仕して

私は、平成二十七年三月に得度し、僧侶資格を得るために研修中です。平成二十九年十二月、京都にある総本山智積院にて、第三期研修を修了してきました。その中で、私は冬報恩講に出仕する許可を得る為の新加と呼ばれる試験の様なものを受け、無事合格し、冬報恩講に出仕してきました。

冬報恩講とは、興教大師覚鑁(こうぎょうだいしかくばん)の功績に感謝し、その恩を報いる為の法要の事です。毎年『大日経疏(だいにちきょうしょう)』を元に論題が出され、その問答で論議が行われる「出仕論議」を十一日に行い、昔は一晩中唱えられていた「陀羅尼会」を十一日から十二日にかけて唱え、興教大師が入滅した十二日には「御法事」が行われています。この三つを合わせて冬報恩講と呼ばれています。

今回登嶺してからは、新加に向けて一日中新しく習ったお経を練習しました。練習では上手くいっても、本番の人前で一人で発表となると緊張してしまい、どんな状況であれ、出来る様にする大切さを改めて知りました。

「陀羅尼会」では夕方二時間と早朝に灯明の明かりのみの真っ暗闇の中、寒さと正座と闘いつつ尊勝陀羅尼をひたすら唱え続けました。すると、一種のトランス状態になったのか、周りの人の声が全く聞こえなくなり、遠くで一人の声が聞こえている様な不思議な感覚に陥りました。

一年に一度本山で行われる冬報恩講に初出仕出来た喜びと、貴重な経験が出来た事に対する感謝の気持ちと同時に、今後の出仕が許されたものの、京都の星が綺麗に輝く早朝の寒さと長時間の正座は、まだまだ努力と忍耐が足りない私にとって、次の出仕は勇気がいるものだと感じました。しかしながら、研修に行く度、新しいことが学べて、周りの人達に支えられ、本当に感謝しています。次の登嶺は二月なので一段と寒くなりそうですが、頑張りたいと思います。

蓮花寺住職子弟 盛花

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人生百年

私(住職)の母は、今年九十六歳に成ります。昨年迄は、自分の身の回りの事はある程度しておりましたが、ここのところ趣味としていた「絵手紙」も余り描かなくなりました。しかし、銀杏などが落ち始めると、杖を突きながらでも拾い集めながら多少散歩も楽しんでいる様なので、微笑ましく思うことが有ります。母が親しくしている友人で九十八歳になる方がいます。其の方は、今でも自宅に友だちを呼んで麻雀を楽しんでいる様です。

或る晩、友達と居酒屋へ入リ、お料理を注文していると、八十代なかば位に見れるきれいな白髪の老婆が二人入ってきました。隣の席に座られ、お茶かソフトドリンクでも注文されるのかなと思っていたら、赤ワインをボトルで注文され、粋でおしゃれな老婦人にビックリしました。と言うより、羨ましさを感じました。

人生百年時代と云われる現代、私も今年からは、ポジティブに生きて行く何かを見出さないとと思い起こさせられた光景でした。

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お大師様のことば

【此の菩提心は能く一切諸仏の功徳の法を包蔵するが故に、
若し修証し出現すれば則ち一切の導師となる。】

訳 仏前に香華を供え、短時間なりと経文を読誦し、合掌し礼拝するときそこには、利益をえようとか、名声を博そうとか、の雑念は働かない。心配事があっても、お拝りしている間は忘れることができ、心が安まり、その後では清々しい満足感をうる。この満足感は、日常生活の中での宝である。僅かな時間をさき、ささやかな努力を惜しまなければ、毎日この宝を手にすることが出来るのである。

シリーズ⑯生きる力(お大師様のことばより)