彼から、その連絡が届いたのは、当座の住処になる部屋に辿り付いた時。しつこいくらいに、休みを取れとせっつかれ、根負けして仕方なくイギリスに戻ると連絡を入れた翌日のこと。
用意された安アパートに着いて、一週間も大人しくしていれば、満足してくれるのなら、そんな場所で十分だった。トランクから荷物を取り出す暇もなく届けられた連絡は、どこかで期待していたものだから。おかげで、ささやかな荷物は、今だにトランクの中にある。
あまつさえ、彼が訪ねてくるからと、ドアに鍵すらかけていない。きっと、おじさんに知られたら、怒られるだろう。だけど、彼を前にして冷静に鍵を開けられる自信はない。仕事を離れた自分が、どれほど信用の置けない生物か、嫌というほど自覚はある。
じれるように待つ間、何時からかついたクセで、左指を撫でて続けていた。
「せんせいっ」
ノックの後に飛び込んできたのは、別れたのが昨日のように思える、元教え子であり、親友の忘れ形見。
「やぁ、いらっしゃい。元気だったかい」
顔を紅潮させて、飛び込んできてくれて、まだ彼に必要とされているのを知って喜ぶ自分がいる。
カードを送っても、訪ねてくれるとは思ってなかった。
ハリーには、シリウスが、名付け親がついてるから、ただの通りすがりの教師の自分を、ハリーが思い出してくれるとは限らないと、そう自分に言い聞かせてた。
「先生、今、僕。シリウスと暮らしているんです」
本当に、嬉しそうに、あの一年でも見たことのない笑顔での報告に、やっと幸福になったのだと、僕の方も嬉しくなる。
「ダンブルドア先生から、お聞きしたよ。
あの家から解放されて、名付け親と暮らせるようになって、良かったね」
以前のように、逃げるのではなく、明確な意思で、あれからの1年を過ごした。それが、この結果に結びついたとはいえ、誇らしげに告げられない。
その代わりに、幼い子供を相手にするように、ハリーの頭をなで、彼の父親には流石にしたことがなかったが、そっくりの納まりの悪い髪を梳き削った。
「それで、僕、どうしても先生とも、一緒に暮らしたいんです」
いかないでくれと、昔、自分を引きとめてくれた眼差しで、ハリーは、今度も、僕を引き止めようとしてくれる。
それだけで充分だろう?ハリーが望んでくれただけで、まだ、存在していけるだろう?ハリーといたがる自分自身に、問い掛けた。
「あの、駄目、なんですか」
ハリーの不安な目に、つい、頷いてしまいそうになるけれど、ハリーの為にも、それは出来ない。どうあっても、結局、人狼でしかない。僕ではない誰かの人生の側にはいられない。
ならば、カードを送らなければ、良かったじゃないかと、自分の中の誰かが囁く。
この子に、自分の存在を覚えていて欲しい。あさましい望みを押さえることが出来なかったんだ、と。もう一人の自分が正当化しようしている。
訪ねて来ると知ったときに、これを予測していなかったと言えば、嘘になる。だけど、ハリーを納得させるだけの答えを用意しておけなかった自分の為に、時間を望んで何が悪い。
だから、ここにはいない、ハリーの保護者を持ち出した。
「シリウスの考えでは、ないよね」
今まで、一度の連絡も、ダンブルドア先生に伝言のひとつもしてくれなかった、薄情な、――なんだろう、自分と、シリウスの今の関係は、どう表現したら、いいんだろう。
恋人?親友?友人?
どれも、違うように感じる。
答えが見つからなくって、ダンブルドア先生に最初の伝言を頼んでから、もう一度頼む勇気がなかった。かわりに、シリウスからの伝言も一度もなかった。
「あの、僕、です。
なんか、シリウスは、消極的だったって言うか」
今だって、と続けるハリーの声は、もう聞こえない。
ショックを感じる自分が、滑稽すぎる。
そりゃ、連絡を取らなかったのは、僕もだけど。でも、シリウスが一言もなかったのは、僕に会いたくなかったってこと、だったのか。
忌々しく光る指が、目に入る。
――――ああ、そうかい。そういうこと、かい。
「きみの愚父は、何処、かな?」
愛想笑いの僕に、一歩引いたハリーを、どう解釈すれば、いいのだろう。
のっそりと、渋々と、いやいや、入ってくる姿に、僕の忍耐もキレかかっている。
それでも、今後のハリーとの生活を思いやって、名付け子を修羅場から遠ざけようという、この僕の配慮に感謝してもらいたいねっ。
「ハリー、少しの間、席を外していてくれるかな?」
それは、リリーお得意の、お願いの形を取った命令で、とっておきの笑顔を付けられれば、誰もリリーに逆らえなかった。
それを1度も見た事がない息子も、無言で頷き、物分りもよく、僕たちを2人きりにしてくれる。
2人きりになった部屋で、無言で向かい合う。視線を合わす事さえ嫌なのか。何かを探すように落ち着かない視線。自慢にもならないけど、この部屋に探るような価値のある何かがあるもんか。
冷ややかに今を見ている僕の中の僕は、完全に終わりだと告げてる。僕の記憶の中にあるシリウスは、こんな態度はしない。見たことがない。
何時まで向かい合っていても、シリウスはずっとこのままだ。
それに付き合うほど、今の僕に、人を思いやる親切心の持ち合わせはない。
「生憎とね、きみと暮す気は、ないよ」
僕の言葉を予測していたように、項垂れていくシリウスには見覚えがある。
昔、まだ、僕らの親友が生きていた頃にも、よく同じ問答をして、いつも同じ答えを返す僕に、親友達は呆れていた。しかし、もっと呆れるのは、3日も経てば、懲りることなく同じ問答を繰り返してくるシリウスだった。
「・・・だよな」
諦めたようなその物言いに、なんで、僕が責められてるような気がしてこなくちゃ、いけないんだい。
「どう、しても、駄目、か。・・・・・・だろう、な。
だけど、ほんの少しで、この夏だけでも、いいんだ。
ハリーの為に、来てくれないか?」
捨てられた犬のような目を向けていうことは、シリウスの、自分の事ではなく、ハリーのこと。
「ハリー、のため?」
「ああ、せめて、ハリーが、望んでいるなら、叶えてやりたいんだ」
それが、名付け親の責任を、結果的に放棄した男の出来る、最大の償いだという。
ハリーが生まれる前から、確かに、名付け親馬鹿、とでもいう親バカっぷりを晒してた。そのハリーと、もう一度会えたら、諦めていた分、親バカっぷりの炸裂は想像はつくけれどね。
客観的にいえば、そのシリウスに負けず劣らずで、溺愛してた僕だから、そう、名付け親の責任、それは果たすべきだね。なんて、笑って、僕が同意すると思ってるのか。こぉのぉ馬鹿は。
「・・・・・・・・・れ、よ」
なんか、自分ひとりが、ばかみたいだ。
はぁ、なんて、首を傾げたシリウスに、余計に腹が立つ。
「帰れって、いってんだよ。
ハリー、ハリー、ハリー。さっきから、聞いてれば、ハリーのことばっかり、きみは、どうしたいんだよ」
顔を合わしたくもない相手でも、ハリーが望めば、耐えられる。
今のきみは、ハリーが望めば、セブルスとだって、暮らせるんだよ。
思いつく限りの罵声を投げつけてみても、セブルスの名前が出てきてさえ、シリウスは何の反応も見せずにいる。
きみに、そんな大人な態度ができるとは、思わなかったよ。
「・・・・・・・・・・いる、のか」
なに、をいってる。
何かを恐れるシリウスは、あたりを見回す。
何かを探しているのは、判るんだけど、肝心の何を、が判らない。
「いま、ここにあいつがいるのかって、聞いてるんだっ」
何かを捜し求めるシリウスを、眺めているだけの僕。逆ギレして苛立つシリウスを見てしまって、なんでだか、先にキレた筈のこっちが冷静になるっていうのは、よくある事だよね?
おかげで空回りしていた頭が、まともに回転を始め、シリウスの探すモノに、やっと思い至れる。
あいつとは、つまり、セブルスのこと、なんだろう。けれど、この部屋には、誰かが隠れるような場所はない。
「いる、わけ、ないだろう」
「本当に、いないのか」
「どこに、隠れてるって、いうんだ。
ベッドの下?
クローゼットの中?、それとも、トランクの中?」
あの、プライドの高いセブルスが、何のためにそんなところに隠れなくっちゃいけないんだろうか。
もし、仮に、ここにいたとしても、彼の事、堂々とここにいると思うのだけど。
そして、入ってきたシリウスと真っ向からぶつかり合う。先にいたのは自分だと、嫌なら貴様が出て行けと。
何を間違えても、シリウスから隠れるような真似はしない、と、やっと、昔馴染みの行動を思い出したのか。今度は、勝手に項垂れ、落ち込んでいく。
「そう、だよな」
「さっきから、きみは、何、1人で納得してるんだよ」
それが、気に食わない。僕を前にして、彼は1人で会話をしている。考えてみれば、この部屋に入ってきてから、僕を見ていない。目の前にいる僕を無視している。
「その、そう願っていたのは、俺のほうだけど。
だけど、その、駄目なのか?」
挙げ句、話を戻すって、どういうことさ。
「シリウス。そこの窓から叩き出されたくなかったら、きみが、何を『そう』願っていたのか、今ここで、さっさと、白状するんだね」
「誰か、いるんだろ?」
意固地に、それしかいわない。
「だから、さっきも言ったけど、ここに誰がいれるんだか」
アズカバンって、人を馬鹿にもするのか?
呆れる僕に、言い辛そうに何度も躊躇い、言葉にもしたくないから、態度で現すことにしたらしい。それと、僕の左側を顎で指し示した。
左、と言われて、後ろを見ても何もない。
「違う、指、だ」
はぁ?
指って、これ?
これが、なんで?
僕の頭は、疑問符だらけ。シリウスの怯えたような顔にも、疑問符の追加。
かみ合ってない会話。らしくない躊躇い。左指と怯え。
これは、一度、仕切り直した方が、いいのかも。
「あのさ、とりあえず。落ち着こうか」
本当なら、お茶のひとつも出したいところだけど、生憎、この部屋には、そんなものさえなかった。
長くもない、シリウスの弁解を聞き終わった時、正直、僕は笑い出したかった。結局、ふたりして、同じような落とし穴におちて、這い上がれなかった、だけだったのか。
「つまり、きみは、これを見て、決定打だって、思いこんだってこと。
見覚えは、ない?」
日焼けあとがつくほど、嵌めていた指輪を、ふたつ抜いた。
手前に嵌めてあったものと、するりと抜け落ちる奥の指輪。掌にのせて、シリウスの目の前に突きつける。
迷わず、ひとつ――奥の指輪を手に取り。
「これって・・・」
そのひとつには、見覚えが、記憶に残っていたらしい。
「そう、きみがくれた指輪だよ」
視線が、僕の掌に残るもうひとつを、じゃあ、これは?と聞いていた。
それをみて、勘違いに拍車をかけたんだから、知る権利はあるだろう。
「只のストッパー。
ほら、サイズが合わなくなって、これで止めてたんだよ」
もう一度、シリウスから受け取って、ためしに嵌めてみても、斜めにするだけで滑り外れる。そんなものは怖くてつけていられない。
「なんで、サイズを変えなかったんだ。おまえ、得意だったろ?」
ごもっともな指摘。指輪自体のサイズを変えることは、確かに簡単だったけど。
「僕は、きみのくれた指輪が良かったんだよ。サイズを変えたら、違うものになっちゃうだろ?」
ただの指輪じゃあないんだよ、これは。きみが、僕と一緒にいたいと望んでくれた気持ちを形にしたのが、これだったんだよ?
結婚指輪だったから、もうひとつ同じ物が存在している。
昔、その指にいつもきちんと嵌められていた、最後に会った時とは違う、人間らしくなった手を取った。もし、今でもこの指に嵌めてあったら、・・・・・・思わず、逃げ出したかも。
結局、どちらに転んでも、こう、なっていたんだろうと思えば、僕たち、らしいかなと、諦めも居直りもできる。
改めて、近くで見れば、もう、嵌めていた形跡の欠片も残っていない。当たり前のことが、寂しい。
「きみのは?」
アズカバンに収監される時か、その前の逮捕の時にでも、没収されたかしたんだろう。無罪を認められたかといって、それまでにアズカバンの囚人の所有物なんて、保管しておく筈もないか。あそこは、生きては出られないが売りの監獄だったから。
「――――うん、ああ。
どこかで無くした」
「え?無くしたって、没収されたんじゃないかい?」
「いや、思い出をもっている方が、早くくたばるから、無害なものは大抵そのままだ」
エサ代も馬鹿にならないからなと、自嘲気味の笑い話は、素直に笑っていいものなのか?
「今のおまえじゃないが、抜け落ちた。
正気のつもりでいても、やっぱり、どこか狂ってたんだろうな。気付いたのは、禁じられた森についた後だったしな。取り戻しようがないだろ」
まだ落ちている可能性はあるけれど、僕は、もう二度と、シリウスをあそこに近づける気はない。
それくらいなら、これを捨てる方がまし。
「じゃあ、仕方がないね。
今度は、ふたりで、買いに行こうか」
一方的な押し付けではなく、双方の意思でお互いに約束しようと持ちかければ、暫らく考え込んだけど。
「・・・・・・だ、な」
新しくすると決めたのに、シリウスは、もう一度、僕の指に嵌め直す。・・・・・・なんか、すごく、恥ずかしいことをしている、ような気がする、のは、どうして?
悩む僕の耳に注ぎ込まれるシリウスの声、リーマスと、久しく呼ばれなかった名前に、心臓が跳ね上がる。
驚いて、視線を上げた先には。
・・・・・・シリウスの、視線に、声に、熱が帯び、てる・・・・・・
―――シリウスは、空振りした腕と、そこにいるはずの、でも違う場所、きっちりと腕ひとつ分離れている僕を当分に眺め。
「・・・・・・リ、ーマスさん?」
「あ、は、ははは」
シリウスが説明を求めているのは、よく判る。
けど、きみ、説明したら、落ち込むよ。
「いや、ほら。いつ、ハリーが入ってくるかもしれない場所で、保護者たるきみが何をするのかなぁ、と」
そう、ハリーと僕は、教師と教え子という関係でもあるのだから、守るべき一線と言うものが存在して、云々。
できるだけ真面目な、他意なんか一欠けらもないと、語りかけても。
「誤魔化すな」
返ってきたのは、冷たいシリウスの一言だった。
なんでだか、昔から、ジェームズはまだしも、シリウスにだって、ウソがばれる。
「ごめんっ。
自分から、触るのは、まだマシなんだ。覚悟して、触るからさ。
でも、触られるのは、ダメ、なんだ。とにかく、もう、本能的に、逃げたくなるんだ」
独りで生きてきた時間の弊害だってことは判ってる。でも、どうしようもないんだ。他人の体温が近づくだけでも鬱陶しいし、疲れてくる。相手が、シリウスだって、例外じゃあない。体が嫌がるんだ。
シリウスの方にも、心当たりが残っている、らしい。
「つまり、俺は、あの1年をもう一度やり直さなきゃならないって、ことなのか?」
「・・・・・・どちらかって、いうと。7年?」
予想通り、ずむりと落ち込む姿は、哀愁まで漂わせ、原因たる僕が同情したくなった。
座り込んだまま、恨みがましく見上げて。
「いや、一度は、出来たんだったな」
いたくプライベートな事柄の確認をしてくるけれど、それに答える事ができるのは、実は、シリウスの方だったりする。こっちには、シリウスが『恋人』としての対応に満足していたか、自信は全くない。
「出来てたんだ。体が覚えたものは、そう簡単には忘れない、そのはずだ」
「その自信は・・・どこから、きてるのかな」
跳ね上がった心臓は、つまり、シリウスの主張の肯定に違いないけれど、なにか、それがばれたら、取り返しのつかない、危機的状況に陥る気がするんで、絶対に隠しとおしてやる。
「額と、頬と、指先。好きなところに負けといてやる。何処がいい」
いくら、なんでも、この状況で、ナニヲ?と聞くほど、僕も野暮じゃあない。
それに、どうやら喜ばしい事に、再会した恋人と、触れ合わないでいられるほど、僕の感性は死んでないらしい。
「あー・・・・・・指先」
それでも、一番遠くを選ぶのが、シリウスの道行きの険しさ。―――かな? |