夏の日差しで目を覚ましたハリーは、ベッドの中でひとつ欠伸をすると、慌てて窓の外を確かめた。
昨夜、寝る前に決めたこと、晴れていたら、今日こそ、絶対に連れて来る。
まさに、今朝は、その賭けに文句ナシに大勝利する、晴天だった。
朝ごはんを作らずにすむ夏の朝。ホグワーツでも作ってはいなかったが、まるで意味が違う。それどころか、機会さえあれば、喜んで作りたいけれど、きっと、朝ごはんを作ってくれた人は、許してくれないだろう。
二人暮しには勿体無い、大きなテーブルの向うにいる、眠そうな目をして、面倒くさそうに朝ごはんを咀嚼している、1週間前からの、ハリーの保護者。
シリウスの無実が証明されて、初めての夏。ハリーは、ダーズリー家へ帰らずに、シリウスに案内されて、直接この家にやって来た。大きな家、大きな庭、ハリーを愛してくれている保護者。と、その共犯者。毎日が夢のようだったけれど、ひとつ、大事なものが足りなかった。何が足りないのか、ハリーは、勿論、きっとシリウスも判っている。
よし、と小さく掛け声をかけ、義務的にフォークを口元に運んでいる保護者に声をかける。
「シリウスおじさん、あれから、ルーピン先生がどうしているか、知ってる?」
シリウスがのそのそと口元に運んでいたスクランブルエッグが、べちゃりと音を立てて、落ちた。
「おじさん?」
こんなに大きなテーブルなのだから、もう一人増えたって平気だと、そう思う。
「あー、知らん」
落ちたスクランブルエッグから視線を反らさずに、ハリーを見ようともしない。そんなに、未練があるのなら、どうでもいいような食べ方は、していないで欲しかった。そうすれば、口に入れてから声をかけるくらいの配慮は見せたのに、とは、思うが、実際に口に出したのは、全く別のことだった。
「先生に会いに行って、いい?」
お願い口調も、ハリーにとって初めての経験なので、果たして、成功しているか、ドキドキものである。
スクランブルエッグに未練たらしい視線を送りつづけたまま、シリウスはフォークを静かにテーブルに置いて。
「何処にいるか、知らないだろ」
そう問われるのは予測済みで、ハリーは隠し持ってきたカードを、勢いよく、シリウスの目の前に突き出した。
「去年、先生から、バースディカードを貰ったんだ。ここに行けば、平気だよ」
シリウスが、疑い深く、そのカードを眺めているが、何を思ってか、深く暗い溜息をついた。
遠路はるばるやってきた屋敷の前で、呆然としていた。住所は、間違いくカードの示す場所である。そこには、当たり前のように、魔法族の家があると信じていた。先生のイメージから、こじんまりとした、童話にでも出てきそうな小さな家で、ハリーが訪ねて来るのを待っていてくれる。カードを送ってくれたのは、そういう思いがあるからだろう。しかし、その屋敷は、どう見ても、マグルのものである。それを言うのなら、シリウスと暮らす家もマグルが建てたものだから、別に、マグルの家でも構わない、問題なのは、その家は、先生に似つかわしくない、いってしまえば、立派すぎることだ。
間違いではないかと躊躇するハリーをしり目に、シリウスは迷うことなく、ベルを鳴らした。
いつかの儀式を経て、やっと会うことの許された屋敷の主は、突然訪れたハリーたちを快く歓迎してくれ、それどころか、訪問を待っていた節がある。
ただ、やはりというか。ここにいるはずの目当ての人はいなかった。
「彼には、ここの住所を貸しているだけなんだよ。ハリー・ポッターくん」
どこか親しみの篭った呼びかけにも、余裕のないハリーには気が付くことは出来ない。
「じゃあ、ここに先生はいないんですか?」
「いや、いや。きみは、本当に運がいい。イギリスに戻って来たと、ついさっき、報告が届いたばかりだよ。いや、本当に、運がいい。流石は、ポッター家の息子さんだよ」
シリウスより、もう少し年上のその人、マグルと結婚した魔法族である彼は、マグルの世界で生活することを生かし、マグルを専門としたダンブルドアの協力者であり、その一環で、先生との連絡係を受け持ってるそうだ。
「あれ以来、休みのひとつも取らずにいるのでね。無理矢理にでもバカンスをとらせることに、やっと成功したんだよ」
まるで悪戯を成功させた子供のように、先生の近況を教えてくれもした。
次なる住所までの道程、ハリーが隣のシリウスを覗き見ること、数回。それ以上にすれ違う何人もの女の人が、シリウスをさり気なく盗み見ていく。のを知っていて、見物される本人は見事に無視を決め込んでいる。いや、もしかして、気付いてない?現に、ハリーの視線にも気付いてないようだった。
ついこの間まで、見つかればその場で殺害される、かもな、悪名高き有名人だった。しかし、いまや、ダイアゴン横丁に投げ込めば、サインを求める人だかりは、いつぞやのハリーをも凌ぐだろう。無実の罪でアズカバンに投獄され、諦めることなく、名付け子の危機を救った英雄としては、他人の視線をいちいち気にしてはいられないのかもしれない。それどころか、徐々に口数が少なくなり、今ではすっかり黙り込んでいる。既に、気に障る域にまで達していても不思議はない。
それに、と、ハリーは、考え始める。
シリウスときたら、禁じられた森に隠れ住んでいた頃はともかく、全てに落ち着いた現在では、本来の姿を取り戻し、すれ違う女性が振り向いても不思議はないかっこよさ。こんなことは慣れているのだと思わせる風格。なら、その隣に歩くハリーは、彼女達にはどう見えているのだろうか。
保護者であっても、父親ではないのだと、最初に言われた。ハリーの父親は、あくまでも、ジェームズ・ポッターだだひとりで、あくまでも、自分は、成人するまでの保護者であり、後見人であると。
並んで歩いても、親子には見えないとしたら、お互いの経験不足の所為ではない。親子になろうとしていないからだ。だから、と考え続ける。
いつか、シリウスが、シリウスだけの子供の父親になる日、ハリーをどうするのか。その時に、シリウスの子供の母親は、ハリーの母親に、保護者になってくれるのだろうか。シリウスが、ハリーの保護者でありつづける事を認めてくれるのだろうか。
今日のこの幸福は、明日もあると保証されてはいないのだと、怯えずにはいられない。
先生の元へ押しかける不安が呼び水になって、シリウスとの生活まで不安に汚染される。
「・・・・・・おい?」
かけられた声に見回せば、既にシリウスは立ち止まり、数歩追い越していた。
「どうした?疲れたか?」
違うと首を振り、ついでに、思いついた何の根拠もない想像を振り落とした。
今のシリウスは、一生懸命にハリーの保護者を務めてくれている。朝が苦手なくせに、ハリーより早く起き、朝ごはんの仕度もこなしている。起こるかもわからない未来の可能性で、シリウスを疑うのは失礼だ。
心の中で、ごめんなさいと謝る。
改めて、シリウスが立ち止まった理由を考えれば、目的地に着いたのだろう。
「ここ?」
先生の住処となる場所を見れば、バカンス?と首を捻りたくなる。ロンドンの、漏れ鍋の近くで、ダイアゴン横丁に用があるのなら便利だ。しかし、ハリーとて、そう経験があるわけではないが、正直に無いといってもいい、ここはバカンスには相応しくないのではないか。
今度は、別の意味で呆然とする。
ここをバカンスの地に選ぶ、先生の感性は、一体・・・・・・。
屋敷の主が、「よいバカンスを」といって送り出したのは、先生とバカンスを送れではなく、先生に正しいバカンスを取らせてくれという依頼だったのだろうか。
次から次へと、悪い予感ばかりよぎるが、不吉なものは都合よく蓋をする事に決めた。何時までも、立ち止まっているわけにも行かず、やっと先生に会えるのだと自らを鼓舞して、隣で一緒にアパートを見上げていたシリウスを促す、が。
「あいつには、ひとりで会いにいけ」
「どうして、きっと、先生だって、シリウスおじさんに会いたがってるよ」
「再会を邪魔するほど、野暮じゃない」
「シリウスおじさんとの方が再会でしょ?」
「おまえとの再会なら、俺の方が邪魔者だ」
アパートの前まで来て、シリウスは頑なにリーマスと会おうとしなかった。
時間はかけたが、言葉数は少ない争いの結果、シリウスを外に残して、ハリーひとりが会うことになった。深呼吸をしてノックのあと、開けたドアの向うに、先生を見た途端、ハリーは駆け出していた。
「せんせいっ」
いらっしゃいと、出迎えてくれた先生。驚かずに、ハリーを迎えてくれた様子に勇気付けられる。
シリウスと暮らしているが、先生とも一緒に暮らしたいと、正直にお願いした。
困ったような態度に、今度も先生を引き止めることが出来ないのかと悩む。きっと、シリウスなら、先生を止められるのに、あの名付け親は、肝心な時になにをしているのか。
「シリウスは、消極的だったっていうか。
今だって、先生にはあえないって、下で・・・・・・」
ぴきりと空気が凍る。驚いて先生を見遣ると。
「きみの愚父は、何処、かな?」
そこにあるのは、笑顔である。紛れもなく、微笑みであるが、本能が、これに近づいてはいけないと警告する。
「いっ、いま、連れてきますっ」
逃げるように、実際に逃げた。ハリーは、部屋を飛び出し、階下で待つシリウスを連れて戻る。とにかく、シリウスを差し出せば、あれから逃げることができると判っている。
だから、先生に、少しの間、席を外していてくれるかな?と聞かれたとき、さっきよりも迫力が増した笑顔がなくとも、一も二もなく逃げ出した。
ルーピン先生に、追い出されて、暫らく時間を潰していたけれど、もうそろそろ、戻ってもいい頃だろうと、ハリーは、思い。再び、部屋の前に立ったが、何かがおかしいと思う。
おかしくないのだが、何かがおかしい。何もおかしくない廊下、それの何処が、おかしいのだろう。
よく、考えると、音が何もしないのだ。
物音1つしない部屋、カタリとも、コトリとも、人のいる気配が何ひとつしない。これは、遮音魔法だと察した。ハリーも、色々大人になったのだ、それ位の想像は出来るようになったのだ。
何が、起こっているのだろう。最悪な光景ばかり、思いついてしまう。それも、仕方がない、ハリーが出て行くときに、決して、友好的な雰囲気ではなかったのだ。
大人の話し合い。一体、どんな話し合いなのだろう。邪魔してはいけない、と同時に、邪魔しなければいけない、とも思う。ハリーとしては、どうしたらいいのだろう。
ドアに耳を押し付けて、室内の様子を伺う。不信人物間違いナシな行動だが、シリウスも先生も、ハリーのこれからの生活に必要不可欠な存在なのだ。出来ることは、どんなことでもしなくてどうする。
じっと様子を伺っていると、何かの音が聞こえる。遮音魔法越しに聞こえる音。考えるだけで、不吉すぎる。そんな存在は聞いたことがなかったけれど。けれど、ここでじっとしている訳には、いかないと、開く筈のないドアノブを回すと、・・・・・・開く?
「先生、シリウスおじさん。大丈夫」
慌てて、飛び込むと。
何故か勝ち誇りつつ、見えない尻尾と耳が垂れ下がる敗北者の姿の名付け親と、怯えつつも、変に突き抜けた笑顔の先生。一見平和な2人の姿に、何故か知らないが、恐怖が沸き起こる。このまま、もう一度、この部屋を出て行くのだと、誰かが告げていた。
「ハリー、これからも、宜しく」
だが、先生の全開の笑顔で、望む答えを貰った日には、不安も恐怖も飛び去った。つまり、ハリーは、いまだ、子供だと言うことだ。
「じゃ、じゃあ、先生。来てくれるんですか。
勿論、一緒に帰ってくれるんですよね」
「ハリーが嫌でなければね」
「嫌だなんて。シリウスおじさんの隣の部屋が空いてるし。あのね、先生、地下室があって、そこって丁度いいと思うんです。今日からでも使えるくらいの、本当に丁度いい地下室で、だから、先生。何の心配もしないで下さい」
何のためにとは、いわないが、きっと判ってくれる。
ハリーなりに考えて、先生が快適に暮らせる環境を整えようと、頑張っていたのだ。先生は、大人だから、そういう理由で、学校を去らなければならなかったから、ハリーがお願いしても、叶えてくれない可能性の方が高かった。だから、全ての逃げ道を塞いで、迎えに来た。去っていく先生をなす術もなく、ただ見送るだけしかできなかった子供とは違う、ハリーもずるがしこくなった。
「きみよりも、余程、前向きだね」
「うるさい。俺も少しは、大人になった証拠だ」
「どーだか」
ハリーを見ていながら、ハリーを見ていない、大人の、というより、友人の会話に、ハリーは嬉しくなる。教師の先生と暮らしたかったわけじゃない、両親の親友の先生と暮らしたかったのだ。
「ハリー」
ルーピン先生に優しく呼ばれて、ぎゅっと、抱きしめられた。
シリウスが慌てるが、ハリーの方が慌てている。一体、何が起こっているのか。どうしたらいいのか。
「ハリー、あの馬鹿を助けて、くれて、ありがとう」
あわあわしているハリーには、何がなんだか。
「きみがあの馬鹿を助けてくれなかったら、今頃はふたつの命が消えていた、からね」
馬鹿って、馬鹿って、誰?
慌てた頭では、ろくな考えは出来ない。
きっと、多分。で、勝手に口から言葉が溢れ出す。
「あの、だって、あれは。
だって、おじさんと、ビーキーは」
一体、何を言っているんだか、と。わたわたとするだけのハリーは、ただのスキンシップの足りない子供だった。
「ああ、違うよ。わたしが言っているのは、ファッジとセブルスのことだよ。
シリウスが、殺されていたら、わたしが、あの2人を殺していたから、ね」
最後に、額に小さくキスをして、ハリーを放してくれた先生は、とんでもないことを、明日の天気を語るようなさり気なさで告げた。もしかしたら、今の告白は聞き流して、聞かなかったことにしておいた方がいいのかもと、シリウスの方を見れば。
シリウスは、どうしていいのか、嗜めるべきか、喜ぶべきか、困った顔をしている。当てに出来そうもない。
だから、ハリーにできることといったら、
「先生、家に帰りましょう」
全部をなかったことに、無理矢理にでもすることだけだ。
でも、思わず、口にして、『家に帰る』の言葉に甘さに、心の中が、はんなりと暖かくなる。
「そうだね、ハリー、家に帰ろう」
先生も、同じ暖かさを感じている、と、何故か本能的に判った。 |