7:後ろの正面

 

……頭が痛い。体の節々が悲鳴を上げている。

意識を取り戻した俺は、まず自分の体調を確認した。驚いたことに、吐き気はなくなっていた。頭は……きっ

と、木に打ち付けてしまったからだろう。

次に場所の確認。ブナの木が所狭しとはえている。どこだか判らないが、森の中、というのは確かなようだ。

最後に時間。ポケットに入れながらも壊れることのなかったケータイ電話が示す時刻は午前2時47分……

「くそっ……」

辺りはまだ暗い。深い闇に包まれている。

「キイ……あぐっ」

立ち上がろうとした俺は、全身を走った炎のような熱い痛みによって阻まれた。

何度やっても同じことだった。が、その内に全身ではなく、一箇所だということが判った。右足首が物凄く痛

い。

見ると、かなり変な方向に曲がっていた。骨折か骨にヒビが入っている。よくて重い捻挫、といったところだ

ったが……立てないくらいだから、その可能性は切り捨てて考えたほうがよさそうだった。

応急処置……治療。俺は目を閉じて、

(フィーリングアース・ドライブオン)

骨格の一部を改竄、足首の体制神経を不能にしてから、折損部分を結合、神経の活動再開を使役……

……不思議なことに、吐き気はなかった。普通なら終了した辺りで胃の奥から込み上げてくるものがあるのに、

今回は別段これといって異常は見受けられない。

それを吉ととるか、凶ととるか―――

「……いや」

あまり、深く考えないほうが吉だろう。この数日間での戦闘回数並びに使用回数の頻度は、過去のパターンから

してみれば常軌を逸している。

今、考えるべきことは、やるべきことは他にある。

俺はケータイの着信履歴を表示させた。上から下まで、ずらりと一つの電話番号が列をなしていた。

ボタンを押して、発信すると、数秒と経たないうちに受信者が電話に出た。

『式人君っ? 一体何してたのよっ!?』

 電話の向こう側でけたたましく叫ぶ響さん。

響さんは怒っているようでいて、俺の事を、どことなく心配しているかのようでもあった。

「すみません。不覚を取りまして……電車が車庫に突っ込んで爆破炎上―――って、朝のニュースとかでやってま

せんでしたか?」

『そんなもの見ている暇があるわけ―――ああ、もしかして駅近くで事故があったっていうヤツ?』

「ええ、多分それでしょうね……そうだ、あと、燈火駅で変な集団が倒れていた、っていう話は知りませんか?」

『いえ、聞いてないけど?』

……腐っていようが、組織は組織、裏は裏。表面での都合がいいように操作することに関しては抜かりない、と

いった所か。

俺が思考に耽っていると、響さんは怒鳴りだした。

『どうでもいい話は後回しで、それより今はキイちゃんを探すのが先でしょうっ!』

案じてはいたが、やはりキイは見つかっていないようだ。

『あらかたの場所は探したんだけど……まったく見つからないのよ』

響さんの声は度し難い焦燥感に満ちていた。

なおも響さんは続けて、

『どうしよう、この分だと、キイちゃんは―――』

プツッ。

唐突に通話が終了した。驚いて「もしもし、響さんっ?」と問いかけても、返事はなかった。

「どうなってんだ……?」

困惑しつつも、ケータイから耳を離すと、ようやく合点がいった。単なる、電池切れだった。充電もせずに点け

っぱなしにしていたから、当然の帰結だった。

ケータイをポケットに入れて、俺は立ち上がった。

痛みはとうに消えている。怪我など最初からしていなかったかのように足が動いてくれる。

さて……キイが行きそうな場所については、大体見当がついていた。気絶する寸前に思い出した、あの一言、

『行っちゃ……ヤダ……』

ただの寝言にしては、そこには際限ない哀愁が溢れていた。

それだけのこと。

けど、どこか確信めいたものが、俺にはあった。

―――探す場所は決めた。あとはこの森の出口だが、圏外ではなかったからそこまで遠くもないだろう。

俺は一歩を踏み出し、走り出した。

 

水元市に戻ってきた俺は、確信した。

そこは、何も無かった。

いや、あることにはある。理路整然と立ち並んでいるカシの木やらブナの木、レンガで敷き詰められた遊歩道、

水を失ってしまっている噴水……

だが、そこに生きているものはいなかった。静寂のみが、その場所を占めている。

だからこそか、噴水の前に座って、膝の間に顔を埋めている彼女はその雰囲気に呑み込まれていた。

俺は一歩一歩を噛み締めるように、足を進めた。

「キイ」

 俺は女の子の名前を呼んだ。

キイは肩を震わせながら、俺に問う。

「どうして、わたしを置いて行っちゃったの?」

俺はそれに答えずに、彼女の隣に腰を下ろした。石造りの側面の、冷たい感触が直に伝わってくる。

「どうしても―――」

彼女は俺の返答を待たずに、また問いかけてきた。

「どうして、わたしを捨てて行ったの?」

「…………それは」

その後に言葉は続かず、俺は沈黙するしか出来なかった。彼女の真意がまったく判らなかったのだ。

支離滅裂ともいえるエンコード。

彼女は機械のように、ゆっくりと口を動かす。

「どうして、わたしは一人ぼっちなの?」

 寒々しい夜風が吹いた。彼女の漆黒色の髪の毛を、微かに揺らす。

しばしの時は、風の音で満たされていた。俺たちの間には如何なる言葉もなく、無邪気にも残酷な流れが、嘲笑

うかのように存在していた。

 キイは俺に顔を見せないように、急に立ち上がった。そして空を仰いだ。雨雲の隙間からは、わずかに月が見えている。

「―――キイ、ってね、わたしが自分でつけた名前なんだよ」

 俺は純粋に、驚いていた。

「……自分で?」

名前をつけなければならない、要するに、本来名付けるべきの親は―――? 「少し、昔話をしよっか」キイは後ろ

手を組みながら、そういった。

「わたしが生まれたのは、一面が畑のよくある田舎町だった。その町でわたしは育った。歩いて一時間くらいはか

かる学校に行って、一クラス数人っていう中で勉強して、学校のみんなで遊んで、泥だらけになって帰ってきて

……たまに都会を見てみたい、って思うような時もあったけど、お母さんの作ったシチューを前にしたら、そんな

気持ちはどっかに消えてた。美味しそうにシチューを食べるわたしを見て、お父さんは笑っていた。そうやって、

何にも発展はないけれど、穏やかな暮らしを送れるんだって、そう思ってた」

彼女はそこで顔を下げて、目元を擦った。顔を上に向けて、また続ける。

「けど、現実は違った。ううん、もう現実でさえ無かった。悪夢としか言いようがなかった」

 キイが両腕を左右に広げた。

俺から見えているキイの後姿は、無理をしているような、強情さがあった。ともすれば倒れそうなのに、気

丈に振舞って我慢しているかのように思える。

その両手は、いったい何を包むのか?

その身体は、いったい何を背負ってきた?

キイは―――語る。

 

「―――気が付いたら、誰もいなくなってたの」

 

キイは鳥が羽ばたくような格好のまま、顔だけをこちらに向けた。諦観にも似た哀愁を帯びている口元、そし

て目尻。今にも……笑い出しそうなくらいに、吹っ切れた表情でもある。

「町に出ると、ちゃんと建物はあった。毎日行っていた駄菓子屋も、近所の友達の家も、もちろんわたしの家だ

って、消えていなかった。

 でも……変わっていたコトが、二つあった。

わたしはその変化をどちらも受け入れられなかった。だから、大声で叫んだ。覚えてる人の名前から、順番に。

返事は……なかった。

一番知っている名前も、答えられなかった。

 そこで、わたしはようやく判った。この町には、人がいないんだって。わたしは、名前を忘れてしまったんだって」

 キイは両手を下げて、俺のほうに歩き出した。俺は噴水の縁から立ち上がって、彼女の到着を待つ。

まるで、それは必然であるかのようであった。

「理由なんて判らない。意味なんて知らない。わたしが唯一知ったのは、わたしは孤独だ、ってことくらい」

二人の距離は少しずつ縮まっていく。同時に、雨雲が引いていき、月がその姿を見せ始める。目映い光に、しか

し俺は目を閉じようとはしなかった。けれど、キイがどんな表情をしているのかは判らなくなった。

「名前を忘れたわたしは、世界にとって奇怪な存在。……キイは『奇異』の、きい」

それは違う、と俺は否定したかった。でも、どうしてもうまく言葉にすることが出来なかった。

「他にも、わたしは色んなことを忘れた。人の接し方や、喋り方、生き方……すべて、失ってしまった。形あるも

のならまた組み立てればいいけれど、それらに形は無い。だからわたしは自分で自分を作った。感情を、振舞いを、

表情を。……たまにね、自分は作り物なんだー、って思うときがあるの。人それぞれが持っている個性を、わたし

は盗むことでしか表現出来ない。ここにいるのは、誰かの模造品で、擬い物以外の何物でもない。そんなのに、生

きている資格はあるのかな、っていつも思ってた」

 短くあれども長き道の果てに、キイは歩みを終え、

「でも……それでも……」

顔は伏せて、俺の傷ついた手を絡めとり、胸へと寄せる。

「わたしは、作り物でもいいから生きていたい。もう、誰かがいなくなるのは嫌。何かを失うなんて二度としたく

ないから、お願い―――」

その時、手の甲に何かが落ちてきた。

暖かい、何かが。

それには……

それには―――

それには、どんな名前があるのだろう?

「―――お願いします、わたしの傍に、いて欲しいです」

 キイは目を見開いたまま、泣いていた。

流れていく彼女の涙は頬を伝って、顎の先から落ちていき、収められた俺の右手に当たり、弾け、消えていった。

少しだけ赤い汚れを落としながら。

―――決断の時は、今なのだろう。

その手を跳ね除けるのか、握り返すのか。

「俺は……」

俺は―――

 

「お取り込中の所、失礼致します」

 

「……!」

突然降って湧いてきたような声に、俺は公園の入り口へと至る舗道を見遣った。そこには、暗闇に溶け込む黒の

スーツを着て、軽く頭を下げている男がいた。

年の頃は30前後、7:3に分けた髪の下にある顔は、事務的な、絶対零度の冷たさを彷彿させる、そんな感じ

の無表情が張り付いていた。

「新宮キイさんと、泡沫式人さんですね?」

「……だったら、どうする」

俺はキイを背中に回し、身構えた。そして小声で「俺に掴まれ」といった。一瞬間があったが、ややあってキイ

は俺に従い、背中に飛び乗った。首から回されてきた手を、しっかりと右手で固定する。

「申し遅れましたが、私―――」

男を無視して、俺は噴水を飛び越えて、公園の出口へと急いだ。キイは悲鳴も上げずに、黙っている。

だが、出口にはあからさまに武装した集団が固まっていた。向けられた銃口を見て、俺は走駆を止める。

「逃げられては困りますね」

毅然とした態度で歩いてきた男は、責めるようにため息をついた。

「なら、単刀直入に参りましょう。泡沫式人さん、新宮キイを置いて、お帰り下さい」

「それは、単なる礼儀か?」

「ええ。もちろん、貴方が応じるなんて思っていません」

男は右手の指をぱちん、と鳴らした。すると入り口、茂みの陰、木の裏……ありとあらゆる所から、銃器を抱え

た奴らが現れた。その数は、優に五十を超えている。

「力ずくで、いかせてもらいます」

その言葉が終わるか否かで、俺は包囲の薄い場所を狙って突撃した。無論、プログラムは起動済みだ。一瞬で間

合いを詰めて、部隊の一人が持っていた銃を蹴り上げる。照準を狂わせた消音銃は、間抜けな音を立てて、夜空

に飛んでいく。

俺はそのまま、そいつを倒そうと深い追いはせずに最寄りの木の幹に跳躍した。太目の枝に着地して、インター

バルを入れずに真夜中の街中めがけて逃げる。

後ろからの気配は……まだあった。連中、俺同様のルートを辿っているようだ。つまり……

(ちっ……ブーステッドか)

強化人間というのは、現代では割と知られているモノだ。アメリカの特殊部隊も採用しているし、日本も同じである。

3C・プログラムと似てはいるが厳密に言えば違ってくる。プログラムの場合、好きな場所に自分が思った通りの

力配分が出来るが、強化人間にはそれが出来ない。例えるなら、5戦速になったら、それは動かせず、戻れないの

だ。更に言うなら、3C・プログラムは力の源―――筋肉の質、神経伝達速度を根本的に書き換える。しかし、ブ

ーステッドは基底が人間である以上、本人が持つ潜在能力以上は強化不可能なのである。そういった意味では、俺

にとって大した脅威ではない。今を除いて、の話であるが。

後方に注意しながら、ビル街を足音も立てずに走り抜ける。連中も同じことをしている。強化という虚偽に溺れず、

身のこなしを学んでいる証拠であった。

路地裏に入ると、左右に年季の入った壁がそびえていた。

「キイ、ちゃんと掴まってろよ……」

頷く代わりに、キイは俺の右手の中で、両手をぎゅっと握り締めた。

「―――はっ!」

裂帛の気合の一声と共に、俺は壁面を三角飛びの要領で駆け上がっていった。連中も追ってきているのが、静かな

殺気で判った。だが、そこは俺の狙いであった。

空中で身を捻り、回転させて追跡者の方を向く。驚愕が、空気を通して伝わってくるが―――もう遅い。俺の足は

既に力場を得ている。

俺は全力で壁を蹴った。敵との距離がゼロになった其の当座に、空中で回し蹴りを見舞う―――フリをする。

防御せんと腹と心臓を隠したその兵士の肩に、俺は足をそっと置いた。疑問符が浮かんでいるそいつには構わず、

俺はその肩当防具を足掛かりに、若干の軌道修正をして、後方にいたもう一人の背中を取る。そして、今度こそ回し蹴りを放った。

「―――がっ!」

人外領域の一撃に、自らの体を飛ばされる兵士。その先には、俺が踏み台にした奴がいる。

鈍い音を立てて、奴等は激突した。そして、気を失って落ちていき、下にいた数名を巻き込んだ。

と、その時、

「私が、出ましょう」

さっきの男の声が、路地裏に響き―――

「なっ―――」

男はあろうことか、地面から直接、こちらに向かってきた。数十メートルはある地上との差を、奴は瞬きするくらい

の間に埋めていた。その手には―――方天戟が握られている。

新月を引き抜き、馳突してきた一撃をどうにか防ぐ。

鍔迫り合う二つの刃。俺は体を右に開きつつ、鼻先まで迫っていた諸刃を受け流した。

すると次の瞬間、男は刃のない方―――柄の部分を逆手に持ち替えて攻撃してきた。しかし、それは予測の範疇。望月

を高く投げて、繰り出された棒撃を掴んで後方に投げた。遠心力がかかり、物凄い勢いで激突―――しなかった。男は

武器から手を離さず、軽やかに足を躍らせて、見事着地。間断なく、柄を掴んでいる俺もろとも、壁に叩き付けんと

飛翔する。結果、

(策に嵌ったのは俺か……っ)

背中にいるキイが、このままでは壁に打ち付けられてしまう。それだけは、何としてでも避けなければ。

俺は刹那、握っていた得物を離し、下がっていく体を上に向けて力場を蹴り、宵闇の只中を跳梁した。落ちてきた望月

をキャッチして―――屋上に至った。

「絶対に逃すなっ! 行くぞっ!」

男の怒号がビルの合間から伝わってくる。俺は脇目も振らず、隣のビルへ飛び、更に次のビルへ。

(あの動き……同類項かっ)

地上からあそこまで飛べるのは、まさしくプログラムの受容者である証であった。付加された情報により、状況はます

ます悪くなっていく。受け手に回っており、なおかつ護りながらの戦いに勝機は……

「キイっ! 後ろの奴等は何人だっ!?」

俺の張り上げた大声に、キイは答える。

「ええっと……全部で10人っ! あとは後ろから来てるみたい……差は縮まってないけど、開いてもいないよっ!」

さすがに振り切れないか……。楽観的には考えていなかったが、期待していたのは事実。見事に裏切られたのなら

……迎撃するしかない。

(レフトハンド・リミッターオフ)

地面と水平方向に、身を裂かんと唸る『朧月飛燕』

上がった苦悶の声は3つ……残り、7人。その中には確実に方天戟を持ったあの男が含まれているだろう。

舞い戻ってきた望月を収めて、俺は眼前を見据える。漆黒の世界が広がるばかりの、空間を。

 

一人、また一人と、着実に撃破していった俺は、この街で最大のビル、水元タワーの屋上―――ブラインド・ガーデ

ンと名付けられた広場から飛び去ろうとした時、ふと足を止めた。

「他の奴等はどうした?」

俺はスーツ姿の男に正対し、問うた。本来いるべきであった他数十名の武装集団は、跡形もなく消えている。

男は、「全滅させられては面目が立ちませんからね。それに彼等には荷が重いと思ったので、退かせました」といった。

俺はキイを降ろして、物陰に隠れさせた。その上で双剣を引き抜き、心持ち上がっていた息を整える。

「戦うのですか? あなたは、その心身で」

……確かに、男の言っていることは尤もである。度重なる敵との交錯の末、傷は浅いとはいえ、その数が多く、ほぼ

全身に怪我をしているといって過言ではないかもしれない。

だが、弱音は吐かない。依頼は、受諾しているのだから。

「―――答えるまでもない」

俺の一言に、男は「そうですか」と素っ気無く呟いて、

「ならば、始めましょう」

途端、男が消えた。三次元世界から離脱したかのように。

俺はすぐさま動体視力・範囲視力を上げて、奴の姿を捕捉しようとするが……見当たらない。焦りそうになったその時、

どこかに影が出来たような気がした。

「上かっ!」

ご名答、と言わんばかりに、重力のかかった突きが繰り出された。俺は剣の腹で受けつつ、後ろに飛び退く。そこで武器

のリーチを活かして、男は俺を薙ぎ払ってきた。

防御するが、中空で受け止めたため、俺は勢いよく吹き飛ばされた。このままでは、屋上から落ちてしまう―――咄嗟に、

そう判断していた俺は予め捻っておいた体の慣性に身を任せる。その先には光明―――鉄の、アンテナの棒があった。

それを先ほどのように蹴って、今度は縦に回転しながらの斬撃―――『虎爪咆哮』を放つ。

男は刃の部分で威勢を止めるも、忌々しげな呻きを漏らし、剣訣を解き、前転して回避した。突飛で不可解な行動に、俺

の一撃は水に流されたかのようになってしまった。

男は瞬時に立ち回り、得物を手に取った。そして疾走し、逆風から斬り上げてくる。俺はバク宙で回避。地に足が着くの

は暫時、一挙手一投足に俺は相手を猛追する。

射線上に男の頭部が入るように、望月を投擲する。男はもちろん防御、その隙に俺はがら空きになった下腹部を狙って、

横合いから斬り払う。

しかし、男は柄の先端部で切っ先を下に弾いた。俺は体勢を崩して倒れそうになった。そこに追い討ちをかけるようにして、

死神の鎌が降り注ぐ。ならば、と俺は自ら転び、地面を支点にして、柄の部分を両足で止めて死線を逸らした。間髪入れずに、

カポエラのように男の顔面に蹴りを入れる。

初めて、確かな手応え。俺はすぐに起き上がった。飛んでいた望月を掴み取り、適度な間合いを開ける。

怒りもせず、憤りもなく、男はその距離を摺り足で縮めていく。一度の静寂、微かな沈黙。絶対的に無音なる領域。

その緊張が最高潮に達した時、男の目が光った。方天戟の最大刀圏での片手刺突が唸る。

(この間合いは、まだ触発の期ではないはずだが―――?)

俺は内心で疑問を呈しながらも、それを避けた。

……後ろに下がったのが、いけなかった。男は突きが届かないと悟ると、それを投擲してきた。

「くっ……」

苦虫を噛み潰し、鼻先に触れるか触れないかの所で俺は双剣で左方向に受け流す。まるでそれを知っていたかのように、

男は己が武器へと跳躍し、その速さを保ったまま空中で水面蹴りを放ってきた。こちらは即座の判断によって強化された

動体視力のおかげで、静止画像のように見えていた。

男の脛の部分を鷲掴みにして、力任せに投げようとしたが―――身を捻られて、外されてしまった。

「はっ!」

乾坤一擲の叫びを伴い、再度、悪鬼の槍が飛来してくる。寸分違わず心の臓を狙ったその穿孔、今度は前方へ回避した。

男が落ちてきた場所は俺の目の前、後ろに奴の戟。勝負は詰めも同然―――

「ふむ……死に損ないの分際で、よくやりますね」

男は鼻の頭に付着した汚れを、人差し指と中指で軽く払った。

「ですがそれも、いつまで続きますかね」

 

―――男のその言葉は、ある意味でスイッチとなった。

 

突如、視界が欠けた。

「えっ―――?」

いきなりの出来事に、俺は戸惑った。例えるなら、テレビの右上の画像が映らなくなってしまったような感じだ。

プログラムを使おうとするが―――応答が全くない。

プログラムのオーバーロード、そして暴走。俺は悟った。

その後は、雪崩方式で次から次へと異常を来たしていった。平衡感覚の消失、筋力の弱体化、嘔吐感・強い頭痛の発露―――

中でも、握力の低下は剣を握れないほどだった。持ち主の手から離れて双剣はコンクリートとぶつかり、静かな金属音を立てた。

だが、幾度にも渡る経験によって研ぎ澄まされた感覚は死んでいない。奴が突貫してくるのを、俺は本能的に感じた。

体を右に開いて―――

「ぐっ!」

いつものように、紙一重で避けようとした俺の右胸に―――いつの間に後ろに回ったのか―――方天戟の袈裟斬りが

入った。浅かったが、それは問題ではない。問題は一撃を入れられた、という所だ。文句なしの、一撃を。

滑らかなる弦楽の響きの如く、男の剣劇が舞い踊る。その一片が翻る毎に、身は削られていく。

段々と、深くなっていく傷。このままでは、本当に―――

「あっ……がっ」

そう思った矢先、上腕に痛手を受けた。堪えられずに、一歩後退する。見遣った右腕は、表皮を超えて、中身の筋肉繊維

が見えている。俺はそれを左手で抑えつつ、男を睨んだ。

男は飄々と、自らの武器を肩に担いでいる。

「貴方は、どうしてそこまでして彼女を護ろうとするのですか?」

「それが……任務であり、約束だからだ」

息も絶え絶えになってきていた。思考にノイズが走る。疲労はここにきて精神までも限界を訴え始めたようだ。

「すべてを知った上で、ですか?」

男は訝しげに尋ねてきた。

「…………」

俺は、黙り込む以外に道はなかった。

与えられたのは単純な事だった。彼女を護り抜く事。それ以外はほとんど知らないといっても過言ではない。

ただ、俺に出来るのは戦うことだけだ。ならば、それをもって自分の意義を証明する。泡沫式人が持つ選択肢など、

その程度で十分であるのだ。

何も言わない俺に、男は嘆息した。

「……度し難いですね、貴方の罪は。無知であることに罪はありませんが、知ろうともせずにいるとは」

「なら、教えてくれるのか?」

「いいえ、貴方が持っていく冥土の土産など、穢れたその二本の剣のみで十分です」

「……はっ、誰が」

強がってはみせたものの、状況は醜悪に害悪を塗り固めたかのように最悪だった。次にまた同じような斬撃が刻

まれた瞬間に、命運は尽き果てる。

「では―――」

策を思案する暇もなく、男の唐竹割りが疾る。今までで、最も速いかも知れない。

俺はこれを、かわせるのか―――?

―――しかし、次の瞬間に起きたことは、当の本人の俺にとっても、奇怪な現象であった。

俺は先ほどまでの動きとは比べ物にならない速度―――否、平常時であっても出せないほどのスピードでそれを

避けたのだ。

男が驚愕に包まれる。それは、むしろ俺の方であった。満身創痍のこの体躯のどこにそんな力が残っていたとい

うのか……? 

体は虚脱感を主張しており、或いは疲労を訴えている。軽く腕を動かしてみるが、良好などでは決してない。

それでは何故…………

足を踏み込む音が、心なしか、辺りに響いた。

「戯れは終幕にしましょう。いざ―――っ」

男が亜音速で接近してくる。

流れるは、死というイメージ。

―――その間隙、俺は回転していたルーレットが止まるかのような感覚に囚われた。

もう、すべて賭けだった。運命の女神とやらに、願う以外に道はない。

あるだけの力一切をつぎ込んで、俺は飛び立った。

(いなせっ―――!)

その速さは―――

あたかも、音の世界のものであった。

捨て身の体当たりを受けて、男は呻く間もなく、ビルの屋上から落下した。俺は―――俺も勢いが止まらず、

重力が消失した。投げ出された体は、ゆっくりと虚空を舞い―――

突然、その浮遊感は、何かに固定された。

「シキトっ!」聞き覚えのある声。

「キイっ―――」

その声の主―――キイは屋上から顔を覗かせ、あろうことか、俺の手の平を握っていた。

「ん―――っ!」

それどころか、持ち上げようとさえしていた。

「よせっ……このままじゃ、両方……」

俺の体重は重くはない。かといって、軽いわけでもない。多分60キロ後半くらいだろう。特別な運動や訓練

でも受けていない限り、女の子にとっては持ち上げられないほどの重さのはずだ。

なのに、

「待ってて、今助けるから―――っ」

キイはそれを諸共せず、落ちそうなこの体を支えていた。

キイ―――そう呼び掛けようと口を開いた瞬間に、俺の視界は完全に壊れた。流砂のような世界。無機質なスクリーン。

意識は、相乗するかのように、闇に落ちていった―――

 

〜〜〜†〜〜〜

 

視力の強化を終了して、男は今さっきまで見ていた光景を、そして先刻の報告を統合した見解を、背にいる主に述べた。

「これにて機関の半分は壊滅、となったわけだが」

「ということは、ランベルの部隊はやられた、ってわけね」

業務用のデスクの上に置かれ、低い唸りを発しているテラ級のマシンを操作しながら、主は大仰に肩を竦めた。「やれや

れ、使えない奴等ね、まったく」

「して、どうするのだ? 日本国に残っている戦力はあと僅かなものでしかないだろう」

男はこじ開けていたブラインドを閉じた。申し訳程度の採光が途切れ、室内に薄闇が戻ってくる。たった一つの光源で

あったウィンドウを主は消して、

「そうね……」

思案げに呟いて「コート、持ってきてちょうだい」といった。男は命じられた通り、奥の部屋から飾り気のない外套を

持ってきて、自らの主に手渡した。

「……宣戦布告、といきましょうか」

袖に腕を通しながら、語る。それはまるで死刑を宣告する断罪者のようでもあった。

男は、無表情であった。そこにはかつてあった、戦うことへの欲求はまるで感じられない。ただ……

ただ、意思の灯った瞳が闇をも打ち消し、光っていた。

 

〜〜〜†〜〜〜

 

……靄がかかった視界が、やがて晴れていく。

起き上がった俺は、周りの状況をまず確認した。

もう朝になろうかという薄明かり、冷たい空気とコンクリート……どうやら、ここは屋上のようである。

「あ、起きたの」

横から上がった声に、俺はそっちを向いた。隣にいたのは―――

「響、さん……」

天乃淵響女史の、その膝の上には心地よさそうに瞼を閉じている女の子がいた。

「キイちゃん……よっぽど疲れたのね。彼女から連絡をもらって駆けつけたら、すぐに倒れこむように眠っちゃうんだもの」

そういう響さんの顔には、無事であったという安堵でいっぱいになっていた。

だが……

「響さん―――」

俺は、問わなければならない。

あの病院は何のためのものなのか?

異能とは、本当のことなのか?

そして……彼女は、一体、何なのか?

―――俺が言葉を続ける前に、

「帰ったら、すべて話すわ」

疲れたような声音で、ため息と共にそれを吐いた。同時に、その表情はひどく悲しげでもあった。

「今は、とにかく帰り―――」

 

「お久し振りね」

 

どこからか、第三者の声が割り込んできた。ふらつきながらも立ち上がって背後を振り向くと、屋上のドアのところに

二人の人間が立っていた。

うち一人は―――

「無様だな、泡沫式人」

明らかな嘲りをもったその声は、倒すべき敵、竜千次時貞であった。手には既に封を解かれた青竜刀が握られている。

しかし、そんなことより俺の注意はもう一方の人物に向けられていた。果たして、誰なのだろう―――

「あなたには初めましてね、泡沫式人君?」

高く透き通った声。どうやら、女らしい。

「どうして、ここに―――」

響さんの呆然とした呟きが漏れた。

「一部始終、見届けさせてもらったのよ」

そういった後で「ああ、大丈夫よ。不意打ちなんてしないから。そんな身構えてたら体に毒でしょう、あなたは」と

俺に向かって言い放った。

「さて……どうやら結局、無理だったようね、その子」

「そんな―――まだ判らないじゃないっ」

「可能性の話ではね。確かにゼロじゃない。けれどそれは、もう一方の確率を証明していることでもあるでしょう? 

こんなこと、わざわざ語るまでもないことだと思うけど」

 うんざりしたように、女は続ける。

「第一、                どちらにすがる方が効率的……いえ、効率なんて問題じゃなくて世のため人のため、世界のためになるか、初めから判って

いたはずでなくって?」

「違うっ! 人の命は何よりも尊重すべき―――」

「……黙れよ」

 響さんの言葉を、女が遮った。その口調は明らかな侮蔑が込められており、憎悪すら見受けられるほどだった。

「そうやって二言目にその子の命を主張する。だったら、その子の命はこの世界よりも価値があるってコトよね?」

「そ、それは……」

 言いよどんだ響さんに対して、女は嘆息した。

「はあ……まるで話にならないわね。とにかく約束は約束―――」

 そこで女は一旦、考え込むようにしてから、

「……まあ、心の準備も必要でしょうし、半日だけ猶予をあげるわ。それまでに踏ん切りをつけておきなさい―――従うか、

抵抗するか、をね」と断言した。

「………………」

 響さんは無言だった。その下で、唇を噛み締めているのが雰囲気として伝わってきた。

「そうね……自己紹介でもしましょうか―――」

女の声が、夜明ける空気に重なる。

「わたしの名前は、音色。音の色とかいて、ねいろ」

東から昇り行く太陽を感じた。段々と、暗闇が剥がされて……それは舞台を照らすスポットライトのようだった。

あるいは、真実を暴く秤のように。

殊更にゆっくりと。

その姿を―――

鮮明に、

明確に、

確実に、

実際に、

際会ではなく、

会合ではなく、

合意ではなく、

意外ではなく、

その外見を、

見識を疑いたくなるくらいに、

識閾が狂っていると思える程、

閾値がおかしいと感じる程、

今、値遇しているのは、

偶然ではなくて、

やはりこれは必然、

自然でありながら当然、

断然、ありえないと否定しても、

断じて、事実。

その真実を―――映し出す。

「音色は響き、響くは音色―――表と裏。表裏一体の言葉は、されど乖離する。それがわたし達よ、泡沫式人」

推測など必要ない。

憶測など、巡らせなくとも答えは一つ。

彼女の名前は―――

 

「それが―――天乃淵響と、天乃淵音色よ」

 

世界が、明るみに照らし出される。

空気が澄み渡っていく。

風が流れていく。

―――静かな朝だった。

そして、これが、最後の夜明けでもあった。