5:予言者の再見

 

屋上は25メートル四方くらいの広さがあり、俺が出てきた左下にあるエレベーターの昇降口から見て、対角線上

の端には貯水タンクが直立不動に立っているのが見えた。他には所々に大中小様々なパイプがあり、その隙間を縫

うようにして、ケーブルが走っており、真ん中にあるアンテナへと繋がっている。

俺はアンテナの近くに腰を下ろして、フィーリングアースを起動させた。

もちろん、休ませなければならないのは確かだが、部分的に強化させたりするくらいなら大丈夫であるということ

は経験から得ている。

聴神経を間接的に操作、伝導率を5倍に跳ね上げさせ、更に耳殻を広げ、外耳道の音波の伝わりを高円滑に定義……

……傍目から見ると、どうなってんだろな、この耳。

耳が大きくなっていくのを感覚しながら、俺は思った。

これで半径100メートル圏内の音は全て届く。ある意味、結界というに等しい。

……っ。

音量調整を間違えていたのだろう、木々の擦れあうさえずりがやけに耳障りに、騒音を捲くし立てているように聞

こえる。

俺はすぐさま中核に働きかけ、配分を調整した。今度は耳殻を一回り小さくして、閾値の反応点も下げてみる。

……どうやら、範囲は縮まったが、生態レーダーとしての精度は上がってくれたようだった。

次に、ラジオの周波数を合わせるのと同じ調子で、拾うべき音を絞り込む。空気を切り裂く微細な音を一々聞いて

いたら、こちらとしては参ってしまうからだ。

俺は人の発する声にのみ、反応するよう設定した。

今の俺は、カラスのけたたましい鳴き声なぞ、一分足りとも受諾していない。

絶対的な、不可侵の領域が、ここに敷かれた。

目を瞑り、精神を集中させる。

下地は拵えたのだから、あとは敵が掛かるのを待つばかりだ。……いや、むしろ来なければいいのだが。

自ら閉じた視界、その暗闇の中で、思考は切り離したつもりでいた。切り離さなくは、否が応でも脳内で再現して

しまう。

否……畢竟するに、俺は記憶を呼び起こしていた。

あの、超越感。

あの、双眸に湛えた意思の瞳。

そして、体全体から迸り、覆い尽していた威圧感。

どれをとっても、敵いそうな相手ではない。

理性、本能の云々を抜かしても、俺という一人の人間から、『アレとは戦うな』と、内なる叫びが轟いている。

だとしても、だから、どうしたというのか。

精神が制止を命じるなら、肉体を動かせば事足りる。肉体が停止を訴えるなら、精神を凌駕させれば十全である。

止めようとする声を振り切るのは、慣れていた。渾身に行き渡るほどに、染み渡るほどに。

(……けれど逆は、出来なかった)

感慨はいつも、そこへと至る。堂々巡りといわんや、最初からその場所がゴールであるかのように。

そう、俺には止められなかった。暗中より差し伸べられる、紛うことなき大切な人の手すら、俺は掴んでやれなかった。

代わりに握っていたのは、二本の鋼。

血に塗れ、阿鼻叫喚を生み出す、一対の剣。

捨て去ることは……出来なかった。

それもまた、この身にある罪の一つ。

その償いを―――彼女を護り抜くことに、負わせようとしている自分。

俺は、奥歯を噛み締めた。

二度目を作ってしまった時点で、贖うことなど不可能であるはずなのに、こうして赦しを求めようとする御都合主

義な考え方、その甘さが全ての元凶だった。

……どうして、

俺はこの甘さを捨て切れない―――?

―――あたかも、その時、嫌な気配が脳裏を過ぎった。

俺は目を見開かせ、腰から双剣を引き放つ。

ガキッッ、という鳴弦を立てて、双剣と何かが重なり合った。その何かと、斬りつけてきた誰かは、初撃が仕損じ

たと認識した瞬間に後退した。

俺も腰を浮かせて、戦闘体制を整える。

「……流石に、やりますね」

襲撃してきた相手は苦渋に満ちた表情で、手にした茎造の、3つ叉の矛を構え直した。

「お前は―――」

その風貌には見覚えがあった。10代の、少年と大人への移行する暫時の間だけに許容される、あどけなくとも一

人前の眼光は……

「あの時……けったいな予言を残していった奴だな?」

予言者は矛の尾部を屋上に打ち付けて、

「ご名答、僕はアナタに警告を残していった者です。名前は、常盤恭平です、泡沫式人さん」

彼は警告、という部分を殊更に強調していた。

矛の柄を両手で包み、もう一度、俺に正対した。

 俺は目の前の闖入者に問いかけた。

「その恭平君が、何か俺に用なのか?」

すると彼は「ええ、もちろんありますよ」と構えを解こうとしない、剣呑な体勢のまま続けた。

「アナタは知っているんですか? この争いの意味を、目的を、根底にある、彼女の本質を」

 彼女とはキイのことだろうか? それとも天乃淵女史か?

どちらにせよ―――

「いいや、知らんが―――一つ、ハッキリさせたい事がある」

 俺は双剣を、眼前に仁王立つそいつに向けて、

「お前が、敵かどうかという事を、な」

殺気を内包させた一声を放った。

そいつは大仰に息を吸って、嘆息した。

「……何かと思えば、そんなことですか。いいでしょう、僕は少なくともアナタの敵ではない」

「どうして言い切れる?」

「簡単な話ですよ。自分の入院している病院の危機なのですから、判りやすいでしょう」

……何?

「ここの病院に、入院している―――?」

「ええ、そうです。僕は西棟の入院患者です」

彼は皮肉げに、哄笑をたたえていた。

西棟といえば、重度の精神病患者がいる所、なのに彼は異常を来しているようには感じられない。

(どういうことだ?)

俺の困惑を見抜いたかのように、彼は滔々と喋り始めた。

「ここの病院は国営ですがね、その実、ここはとある共通点を持った人間を隔離するための施設なのですよ」

「共通点?」

キイもここに入院しているが……彼との共通点が、何かあるのだろうか?

―――彼は端的に、真相をさらりと述べた。

「異能―――第六感を持っている、ということです」

寒そうな一陣の木枯らしが、俺たちの短くも長い間合いを、吹き抜けていった。

「第六感だと?」

 俺は思わず眉根を寄せた。

その単語は、現代の科学の壁を示している。

第六感―――サイコキネシス、テレパシーなどに代表される

超常的な力。人類の最も身近なブラックボックス―――脳の不思議を司るモノでもある。

因果の解明には、日本でも利根川進がすでに手を出しているとか。

その第六感を持った人間が、この病院に?

にわかには信じがたかった。

「僕が告げる第六感ではね、泡沫式人さん―――アナタの存在は非常に危険なのです。だから―――」

すぅ、と軽い呼吸の後、彼は得物を振りかざし、その先端部を俺の胸、いや心臓に向けた。

「アナタには、死んでもらいます」

低い声音、貫く鋭い眼光。

「…………」

どうしてこうも、日本は治安が悪くなっているんだろうか、理解がまったく及ばない。

少なくとも敵ではない。

裏を返せば、味方であるとは、奴は一言も言っていない。

常盤恭平、第六感を持っていると自称する予言者が矛を俺に一直線に向け、開始の合図の代わりに、

 

「泡は泡より出でて、泡に帰らん―――犠牲の上に、僕の見た未来を変えるために、散ってください、泡沫式人」

 

―――3つの死点を持った光陰が、矢の如く馳突してくる。

 

俺は寸での所で虚から自分を取り戻し、迫り来る矛の隙間に双剣を叩き込み、その威勢を妨げた。

今度は退かず、矛を捻ることで俺の双剣を弾いて、そこから横一文字の薙ぎ払い。俺は―――プログラムは使わずに

―――力任せに跳躍した。

一旦、間合いを開けてから、俺は思考する。

(どうする、使うべきか……?)

彼の技量はまだ測りきれていない。軽んじては、痛い目を見るのはこちらかも判らない―――

(……フィーリングアース・ドライブオフ)

結論、俺は使わないで、様子を窺うことにした。ヘタに乱用してしまっては後が保たない。

「どうしたんですか? それじゃあ『二本の絶対離反』の名が泣きますよ」

 にじり寄りながら、彼は鼻で笑った。

……一々、俺の名前は新聞を読みそうにない年代にも有名らしい。大規模な戦争だったことは紛れもない事実だが。

「……口は達者なようだな」

新月と望月の感触を確かめながら、間合いを計測する。

距離は約十間、一足刀には少し遠い。

相手の得物は、2メートルはあろうかという長物、単純な攻撃方法からいって、向こうにアドバンテージがあった。

―――唐突過ぎる吐き気と、眩暈に襲われた。

(っく……)

そうだった、アドバンテージはもう一つあったのだ。頭痛に見舞われながらの戦いとは……ハンデにしては大きい。

どう攻略すべきか……

俺の巡らす策略を他所に、彼がまた襲い掛かってきた。

上段から打ち下ろす烈火の如き斬撃、俺は体を右方向へ開くことで難なく回避した。

続きざまに振るわれるは下段からの逆風斬り。開いた体勢から、後ろに飛び退くことで、こちらも回避完了……

「はっ!」

 奴が裂帛の気合と共に、迫り来る。

線ではなく、点で織りを成す連続刺突。迅さはまるで皆無であるが、精密に俺の急所を狙っている。故にその一点一

点が、絶命を穿っても相違ない。

……目には目を、歯には歯を。

「ふっ!」

腹腔から搾り出した声と共に、矛の点を、自らの剣の点で防いだ。

奴が唸るような声を上げた。まさか、こういう返し方をされるとは考えていなかったのだろう。

プログラムを使わないで可能な、俺の曲芸の一つがこれだ。人一倍良い動体視力を活用しての見切り。アイツ―――

竜千時には通用しないだろうが、このくらいなら有効だった。

しかし尚、奴は交戦を挑み続けてきた。

それらをかわしながらも、俺の心は他へ飛んでいた。

……おかしい。

奴の矛の使い方は、どこか素人染みている。

矛のそれは槍と通ずるものがあるのは先刻承知、あれが突くための武器であるのは大成していない未熟者の繰る剣劇

のみであり、熟練者となればリーチを重視した戦い方を操る。

奴の戦い方は突きではなく、長さを使った斬り・払いであるのだが、相手が俺となれば話は別。否、小回りの利く双

剣となれば懐に入られぬよう、用心して臨むのが定説……

なのに、奴はまるで猪突猛進であった。

そう……どこか、焦燥感を思わせるくらいに。

―――円舞が6セット目に突入した時、俺は初めて自分から斬り込んだ。

一太刀を避けた低姿勢から突進、地面を一気呵成に蹴って、相手の胸中に滑り込み、そのまま斬るフェイントを絡ま

せて、遠心力をつけての『虎爪咆哮』

「……っ!」

奴が声にならない叫びを上げて、顔面を防御する。

……思った通り、かかった。

俺は死に至らしめる兇刃を、しかし振り下ろさずに着地した。

「……え?」

奴が間抜けな声を発して、ガードを解いた時には―――既に時遅し、俺は奴の隙だらけの腹部に回し蹴りを見舞って

いた。

悶絶を吹鳴させながら、奴は数メートルほど吹っ飛んだ。

そうして……俺は確信した。

俺のほうが絶対的に、勝っている。

力量でも、経験でも。

奴が、吹き飛ばされた余波で同じく手から離れていった矛を拾うとするのを、俺は奴の頬に剣先を突きつけることで、

留めさせた。

「止せ。勝負はもう決している」

俺は戦闘終了を、宣告した。

奴の目は、命を握られていながらも、じっと俺の瞳を見据えていた。そこには、ありとあらゆる感情が含まれていた。

中でも目立ったのが―――諦観だった。重要な何かを、捨て去るような感慨のある視線。

奴は矛に伸びていた手を、引っ込めた。

「―――そうですね。判りました……僕の負けです」

奴はのそのそとうつ伏せの状態から起き上がった。その間も警戒は張り巡らせ、俺は奴の頬に剣を密着させておいた。

両手を挙げて、奴は降伏の意を示している。

俺はそこで、剣を降ろした。

途端に、奴は声を張り上げて、

「そこが甘いんですよっ!」

隠していた懐刀を俺に向けたが―――その程度は予測の範疇内であったし、精神は集中してある。

俺は奴の手の甲を蹴り上げた。

「つ……っ」

再度の呻きの後、屋上に硬質な、金属の落ちる音が響いた。待ってましたと言わんばかりに、一瞬の静寂が訪れる。

それにしても、俺を再三睨む、こいつは一体……

親の仇であるかのように瞳の奥底は憎悪に燃えて、理不尽な断罪を受けた罪人のように歯を鳴らせて……けれど、ど

こかで寂寥を感じさせる、彼、常和恭平。

―――唐突に、彼が喋り出した。

「やっぱり……僕には、変えられなかった」

その声はとても10代の男とは思えないほどに、深い老衰と疲労感が、溢れんばかりに滲み出ていた。

彼は服の裾の汚れを払って、矛を柄の中に収納してから、俺に言った。

「判りました。アナタは、お強い。ならば、最後まで彼女を、新宮キイを護り通して下さい」

「…………」

俺は沈黙をもって、答えとした。

俺の無言の返答に頷くことなく、常和はエレベーターの戸口まで歩いていった。間隙は左程なく、エレベーターは屋

上に辿り着いた。

そして、エレベーターの中から、

「せめて、幸福を願っていてください、泡沫式人さん」

消え入りそうな声で彼は呟いて、エレベーターのドアは思い切りよく閉まった。

 

―――俺は張り詰めていた空気を吐き出した。

まさか病院の屋上で戦うことがあるなんて思ってもみなかった。際どくはなかったが、命のやり取りには多大な精神

力を行使する。

一息ついて、俺は胸元からケータイ電話を取り出した。手帳の切れ端に書いてある11桁の番号を打ち込んだ。

―――とある共通点を持った人間を隔離するための施設、

―――第六感を持っているということ。

彼の言葉が妙に頭の中に残り、引っかかっていた。

何度かのコール音の後、『おかけになった電話番号は、現在電波の届かない場所か―――』と機械の声がした。

……この非常時に、電源を切っているとは考えにくい。なら響さんは電波の届かない、地下とかトンネルにいるの

か?

俺はケータイを閉じて、エレベーターに乗り込んだ。

門番に聞いてみよう。それが一番、手っ取り早い。

エレベーターのドアは閉じ、上下動を開始した。

 

太陽は既に西の彼方に沈んでおり、外の世界はやがて昼から夜へと役目を交代することだろう。

左右対称に取り付けられた電灯に照らされている、中央棟と入り口を結ぶ道を、俺は足早に歩いていた。警備員質はこ

の時間帯になっても、煌々と光が漏れ出していた。

俺はそこの前まで行くと、窓をノックした。

程なくして、警備員の一人が窓を開けて、

「何か御用でしょうか?」

と、恭しく尋ねてきた。

「響さん、どこ行ったか知りませんか?」

「天乃淵先生ですか? さっき出て行かれましたけど」

「いつくらいでしたか?」

「正確には判りかねますが……そうですねぇ……30分ほど前のことだったと思います」

「ふむ……教えてくれて、どうもありがとうございます」

「いえいえ、当然のことをしたまでですよ」

警備員は親しみのこもった口調で言った。

俺は一礼して、病院内へ戻った。

もはや完全に俺のものとなっている定位置のロッカーに靴を入れて、廊下を歩き出す。

響さんは外出中、となると……聞けそうな相手は一人しかいないんだが……

聞いていいものかどうか。自分から話さなかった、っていうことは何かしら言いたくない事情でもあるのだろう。

それに、この病院の内側は俺にとっては無関係である。詮索する必要など、まったくないはずだが……

考えているうちに、キイの病室前に辿り着いてしまった。

……とりあえず来ちゃったんだし、入るか。

「キイ、入るぞ〜……」

俺は一言断ってから、三〇四号室のドアを開けた。

中から冷たい風が俺の頬を掠めて、ドアから出て行った。それはまるで、逃げ出すかのように。

キイはベッドで眠っていた。健やかで、静かな寝息を立てていた彼女は―――いきなり、

「むにゃむにゃ……もうたへらへないひょ〜」

何事か……少なくとも、人間の知識の内で理解可能な言語を超えた何かを喋っていた。

「わんほほばひゃなひんだから〜」

今のを翻訳するとすれば―――『わんこそばじゃないんだから〜』だろうか?

俺は苦笑しつつ、ベッドの傍に歩み寄って、ベッドの横にあった丸イスに座った。

いつの間にか、外はもう夕暮れを通り過ぎていた。部屋の中まで侵食していた赤色は、そさくさと退陣していった。

「うーん……」

キイが緩慢に寝返りを打った。その様は、とても深い眠りの淵にいるようで、ちょっとやそっとでは起きそうにな

かった。

そんなに今日のお出かけが疲れたのだろうか?

まあ、病院暮らしが長かったのだから、そうなのだろう。帰ってきた途端に、何だか気だるそうな顔をしていたし。

―――俺は改めて、キイの横顔を見た。

気持ちよさそうに閉じている瞳、僅かに動く口元。

冷たい風に当てられながらも、少し上気した頬は、つまり、彼女が生きている証だった。

……俺はこの色を、知っていた。

人が生きていると伝えたくて叫ぶ、最も哀切な色。

絵の具は、どんな色だってたくさんの黒を入れてしまえば、ほとんど真っ黒になるのに、どうして、この色だけは真

っ白に塗り固められる。

綺麗なほどの、純白に。

俺はその色が―――

「……うるさいっ」

声にならない声の奥で、奥歯を噛み締める。

そんな回想とも覚束ない後悔に、意味なんてどこにもない。

もう思い出すな。心に仕舞い込め。現実を凝視しろ。

目の前のものだけを見ろ。

目の前の―――護るべき人を。

「う、ん……」

キイがまた寝返りを打って、俺の手を掴んできた。

「お、おいキイ、寝惚けるなって」

 ……こういう不意打ちには、めっぽう弱いな、俺。

俺はキイの手を引っぺがそうとしたが―――次の一言によって、それは妨げられた。

「ん……シキ……ト」

キイの口が小さく動く。

「行っちゃ……ヤダ……」

―――キイの目からは涙が流れていた。目尻から雫が零れ落ちて、シーツに丸いシミを作った。

俺がどこかへ去っていく夢でも見ているのだろうか?

そして……それは涙を流すくらい、悲しい出来事なのか、彼女にとって。

俺は、任務として請け負っているだけで、今後、キイの傍に居続けようなんて、考えていない。確かにキイといる

とハプニングは耐えない分、目まぐるしいほど楽しげな日常が回る。

けれど……どうなんだろう。

キイは嫌いじゃない。だからといって、好きじゃない。それは俺の矜持であるから。

全てが終わった後、隣で笑い続けている彼女を、俺は……俺はどうしてあげればいいのだろうか?

笑い返すのか、背を向けるのか―――

今はまだ、判らないけれど―――

「俺はここにいるから、な? キイ?」

俺に出来ることは、彼女の悲しみを和らげてあげることだった。ひいては、涙を拭いてあげること。

こうやって、手を、つないであげること。

「ん……」

キイの顔から、悲哀の色が消えていった。

安心すると、俺まで眠たくなってきた。ここにきて、疲労感が一気に押し寄せてきたようだった。

(零時まで……あと5、6時間か)

俺は時間を確認すると、微睡んでいった。

―――大きな手と、小さな手は、離さぬまま。

 

冷たい空気で、俺は叩き起こされた。

「ん……」

目を擦りつつ、壁際に掛けられている時計を見遣る。長針と短針が重なるまでは……あと30分程度だった。

キイはまだすやすやと寝息を立てている。暗くてよく見えないが、多分、いい寝顔でいることだろう。

俺はキイの手からそっと自分の手を離してから、時間違いな伸びをした。

「さて、と……」

腰に手をやって、二本の双剣があることを確認。軽く柔軟を含めた体操をやってから、まだまだ覚醒しきってい

ない自分の頭に喝を入れた。

それだけで、思考は戦闘用に切り替わった。

体調は……普段より長い睡眠のおかげか、概ね良好といえる。

俺は、悪いとは思いながらも電気を点けた。

「ん……」

眩しさに目をしかめながらも、キイはまだ眠っていた。手で顔を覆うようにして、光に対抗している。

愛らしいその仕草、穏やかなその寝顔を撫でてやりたくなったけど、今はそれをすべき時間ではない。

俺がすべきは―――護り抜く為に、戦乱の渦中へ、この身を投じること。

「う……ん……」

キイが苦しそうに呻いていた。これ以上、明かりを点けていたら起きてしまいそうだった。

「ごめんな、キイ」

俺は電気を消して謝って、それから、

「じゃ、行ってくるよ」

―――戦場へ、一路、赴いた。