4:笑えない逢瀬
キイはすごい奴だな、と俺は思った。
「シキト、これ押せばいいの?」
「……呼び出しボタンだろ、それ」
翌朝には昨晩のことなど忘れたかのように、俺を起こしにきてくれたし。俺が色々といっても、キイは「シキトは
わたしを護ってくれたんだよね? だったらいいんじゃない?」と、恐れなどそ知らぬ満面の笑みで返してくれた。
……ただ。
「じゃ〜、これだね。えいっ」
獣の低い唸り声のような音の後に、券売機から二枚の乗車券が排出された。
「あのなぁ……隣町まで行くんだよ、俺達は。どうして一番、高いキップを買うんだ……」
―――学習能力はつけて欲しいものである。
俺達は、隣町に行こうとしている。
何でって聞かれたら、そりゃあお姫様のお達しだからだ。朝方から耳元で外に行きたい外に行きたい、と連発さ
れてしまっては、断る隙がない。朝は弱いし。
そして、響さんから許可をもらって、俺達は電車に乗って一路、隣町へと進路を向けているのだ。
「シキト、これは何?」
キイが訝しげな顔をして、質問してきた。その指先は、鉄の棒から伸びている輪を指差している。
「これは吊り革、っていうんだよ」
「ツリカワ?」
「そう。こうやって手で掴んで、急に揺れた時とかに体がグラつかないようにするんだ」
「ふーん」
キイは得心したように、うんうんと頷いている。
そして、吊り革に掴まろうとするがまったく、届いていない。低い方に掴まればいいのに、キイは高い方に挑戦
していた。
「むうっ、よっ、ほっ」
掛け声を出して飛び上がるも空しく、その手のひらは空を切るばかりであった。
……平和だなぁ。
感慨深く、俺は心中にて呟いた。
飛び上がる度、はためく白い着衣や、懸命な横顔。すべてが穏やかであり、和やかであった。
―――だが、懸念することは、両手に余るほどにある。
まず、昨日襲撃してきた、あの中華刀の男について。
あの男、ひいてはバックにいる組織が、今回の俺の敵。それは判ったのだが、どうにもまだまだ埒の明かない点は
多い。
あの男の真意は何なのか。キイをどうにかすることが目的なのだろうが……それにしては、昨日は俺に構いすぎて
いたフシがある。
可能性としては在り得る。戦闘行為に愉悦を覚える者ならば、そういうこともあるだろう。
だが、本当にその手の奴なのかは、図りかねた。決め付けることは出来ない……
判断は下し難い。
ただ、キイが狙われていることには、相違ない。
なら―――最たる問題は次だ。
俺自身の問題―――『3C・ハイエンド・プログラム』行使時の副作用について、である。
染色体を再生成、再認識させるこのプログラムには、それがそれである故に、切り離せない難問があるのだ。
使用後に、人体は変化後から変化前に戻っていくのだが……その過程は、急激な変貌に対する代償を伴っている。
偏頭痛や脱力感―――主とした症状は、そんな感じだ。
だから、連続使用は避けるべきであり、インターバルは、なくてはならない時間なのである。
……ちなみにこの事を、響さんは知らない。
俺は彼女の前では、プログラムを使っていないからだ。俺は2週間ほどで日本を出て行ったから、見る暇も無か
っただろう。
言っても良かったのだが、何となくそれは憚れた。余計な不安を抱かせてしまっては、何かとやりにくい。
……連中は組織、なのだから数十名は少なくともいるはずだ。
そいつらが畳み掛けるようにして襲ってきたら、果たして、俺はどこまでキイを護りぬけるだろうか?
あまり、考えたくない事柄でもある。
冷静に、いや冷酷に言うなら、1日1回として無理を承知の連続使用は3日間が限度だ。それ以上は―――
「ちょ、シキトっ、降ろしてっ〜」
キイの声に我を取り戻し、俺は、
物凄い光景を、目の当たりにした。
「早く助けてよっ〜」
キイはぶら下がったまま、電車に揺られていた。手を離せばいいというのに、キイは断固として離そうとしなか
った。
「だって怖いもんっ!」
というのが、キイの言い分らしかった。
「はぁ、やれやれ……」
俺はため息がてら、手助けしてやった。そのおかげで何とかキイは下りてこれた。
「怖かったぁ……もう、シキトの嘘つきっ!」
キイは憤慨したように、口元を尖らせていた。
「は? どうしてそうなるんだよ?」
「だって、こんなものに掴まってたら、そっちの方がよっぽど危ないじゃないっ!」
「……そう思うの、多分、お前だけだと思う」
俺がお前、という言葉を口にした途端に、キイは更に怒り始めた。他のことで。
「もーっ! わたしの名前はお前、じゃないよっ!」
キイは名前で呼ばれなかったことに怒っているようだ。目を見開いて……あっ、血走ってる。
俺はそのまま、そっぽを向かれてしまった。
周囲にいる人達は、クスクス笑っている。17歳の女の子に愛想をつかされている男……そう考えると、恥ずかし
くなってきた。
……まあ、落ち度はこちらにあるのだから、
「ごめん、キイ。俺が悪かった」
当然、俺は謝った。
「さあ〜? どうしよっかな〜?」
「ホントごめんっ。この通り謝るから、な?」
「どうしよっかな〜?」
ひたすら謝り続ける俺と、俺を見下しているキイ。
どこが隣町か判らないキイと、頭を下げ続けていた俺。
だから、駅を乗り過ごして、終着駅まで行ったのは……
……まあ、余談かな。
可算の年月は、しかし現代の技術力、経済力をもってすれば圧縮を可能とするらしい。
隣町は、俺が日本を離れてから、大きくなったようで―――昔の記憶を辿ってみると、中途半端に栄えていた町、
程度の認識しかないのに―――今では高層ビル、と呼んで差し支えないような建造物が所狭しと、並んでいた。
俺達二人は、田舎もの丸出しで、駅の北口に、棒立ちに突っ立っている。
俺は正直、呆気にとられていた。
「おっきいねー……」
キイも似たような感想を抱いていた。
さもありなん。
あの町と、この町は、まるで月とスッポンだった。
さて、とキイが切り出した。
「どこに行こうか?」
キイは首を傾げている。
「どこにって……決めてないのか?」
「うん。だってわたしはこの町のこと、知らないし」
「知らないって……」
下調べとか……は無理か。ハプニングが多過ぎたし。
ふーむ、ここは男である俺がエスコートするべき、だよな。
あれから変わっているから、あるかどうかは分からないが、キイが喜びそうな場所なら、どうにか心当たりがある。
ここからも近いし、歩いていける―――ああ、そうしよう。
それが一番、良さそうなトコだ。
「よし、じゃあ俺の後について来い」
俺は隣で思案顔をしているキイに言った。
「えっ、どこ行くの?」
「来れば分かるから。ほら、早く行くぞ」
俺がそさくさと歩き出すと、キイはすぐに追いかけてきた。
再び、キイが俺の隣についた。
「もうっ、先に行かないでよっ」
「んなこと言ったって……俺が先に行かなきゃ、キイは行く場所が判らないだろ?」
「そりゃ、そう、だけど……」
キイは返す言葉に詰まっている。何事かを反論しようと、きっと頭の中では文節が飛び交っているのだろう。
……にしても、今日のキイはやけにわがままに見えるのだが、気のせいだろうか……
推測の域は出ないけれど。
―――道は予想以上に混雑している。人垣が、というレベルではないが、道行く人影は途切れることを知らない。
俺達はそんな中を歩いていった。
今日は何だか、冬なのに暖かい。春先くらいの気温はあるだろう。空も絶好の、洗濯日和だ。
これなら、もしかしたら水が出ているかもしれない。これだけ暖かければ、あるいは―――
案の定、幸運なことに、噴水の水は出ていた。
四季折々に変化する木々の色、開放感のある広場、中央にある大きな噴水と、たくさんのハト。
種ヶ島公園。それが、この公園の名前だ。
この公園は、俺が響さんと出会う前に寝泊りしていた公園である。要するに、ホームレス時代の家だ。
「ねえ、シキトっ、あれは何っ?」
キイは、好奇心を抑えられないように、尋ねてきた。
その指先は噴水と……あと、ハトに向かっている。
さすがにハトは判るだろう、と思って、俺は噴水について説明した。
「あれは噴水。公園の景色をよくするためのもの、かな。あ、言っておくが、中には入るなよ。危ないし、冷たいか
ら」
駆け出そうとしたキイがぴたりと止まった。
「えー、ダメなの?」
……どうやら、俺が言わなかったら飛び込もうとしていたようだ。春先とはいえ、まだ冷たいだろう水の中へ。
「ダメだ。風邪でも引いたら大変だろ」
「……はーい」
渋々頷いて、今度は標的をハトに変えて、走り出した。ハトが驚いて、次々と飛び立っていく。
俺は近場の木に背中を預けて、その光景を見守っていた。
そして―――
「……で、最初から尾行のつもりなどなかったのか?」
駅前から張り付いてきている、昨日知り合ったばかりの気配に尋ねた。返事はあっさりと返ってきた。
「当たり前だ。私用で赴いただけなのでな」
俺がいる木のちょうど後ろから―――昨日、俺と争っていた男の声がした。
「そうか。なら、とっとと済ませて去れ。俺とて、殺る気はないとはいえ、敵方が近くにいてはどうにも意識が向い
てしまう」
男が眉をひそめるのが、気配として伝わってきた。
「ほう? そこまであの女を気遣うのか?」
「命じられた任務は、断固として遂行する」
俺は努めて、事務的な口調で答えた。男はさも面白そうに、声に出して、せせら笑っていた。
「……耳障りだ、帰れ」
「ああ、失敬失敬」
こいつは、いちいち俺の神経を逆撫でして何が楽しいのだろうか。まったく、理解し難い。
「さて、本題に入るとするか。双剣士よ、貴様はどれくらい、今回の一件について知っている?」
「敵からの質問を、俺が答えると思うか?」
「思ってなどはいないが、な」
俺はキイのほうを見てみた。ハトを従えたのか、彼女の周囲には数十匹の大群が押し寄せている。
彼女はその中心で、両手を広げて、回っていた。
―――その光景に既視感を覚えるのは、気のせいだろうか?
遠い遠い日々に、それと同じ景色を見て、俺は穏やかな気分になっ……いや、いやいや。
―――俺の任務は、キイを護り抜くこと。
なら、そのために知っておくことは、多いほうがいい。
「……深くは知らん」
俺は冷静に、かつ簡潔に答えた。
男は満足いったように、
「ふむ。では、こちらが与えられる情報は、貴様に進呈しよう」
……は。
俺は思わず、聞き返した。
「情報、だと?」
「そうだ。ただし、こちらの質問にも答えてもらう。お互い、答えられる範囲での―――いわゆる、ギブアンドテイ
ク、だな」
男は「貴様が乗るか乗らないかは、一存するが」と、そう言って付け足した。それはつまり、乗らなければ臆病者
とみなす、といっているに等しい。
情報は、もちろん欲しい。あっても、ありすぎることはないだろうし……が、相手が相手である。
……乗るか、否か。ここは―――
「……いいだろう」
俺はその提案を受諾した。百害あって一利なし、と思っておけばいいだろう。
男はうんともすんとも言わず、まるで俺がそうすることを知っていたかのように、話し始めた。
「では、今のお互いの状態は……語るまでもないな」
それは情報とは呼べない……か。
どうやら男の口振りからして、男も俺と同じである、という確証は取れた。即ち数日間、戦闘は半不能状態という
ことだ。
「なら、雇い主について―――」
「そんなものはどうでもいい。組織、というのは知っている。語るならお前等の目的にしろ」
俺は投げ遣りに、奴の言葉を遮った。
それは昨日に判っていることだが、この場合、引き出す情報はあえて無難なものから。そんな、抜き足差し足方式
の交渉過程が俺の中で作られていた。
男は呆れ返ったように、はあ、とため息をついた。
「まあ、いいがな……では、こちらの目的について―――昨日言っているとは思うが―――あそこにいる女、新宮キ
イの強奪が指標だ」
キイは、ハトを両手で掴んで、こちらに見せていた。
俺はそれに右手を振って、応えた。
「さて、貴様の質問に答えたのだから、今度はこちらの質問に答えてもらうぞ。双剣士よ、存分に戦えるまで、あと
どれほどかかるのだ?」
体勢が整うまではどのくらいか……
「その質問には、答えられない」
俺は即答した。
その間を狙って強襲された時のアドバンテージ、更に敵味方の戦力を考えると、返答はノーとしか言いようがなか
った。敵は多数、こちらは一人も同然なのだから。
「ふむ……ならば、他を聞こう。その剣技は独学か?」
男の口調は、いたって真摯だった。敬意を払っているようにすら感じる。
俺は少なからず、驚いた。
もっと食って掛かってくるかと思いきや、男が掌を返して、他の質問をしてきたからだ。
……それは別段、答えて不利益が発生する恐れはなさそうだ。それに、ここで答えなかったら、分不相応が生じる。
貸し借りは一切合切、作ってはならない。
それがこの会合における、暗黙の境界線だった。
「ああ、独学だ。単身、欧州に渡った際に護身のために身につけた、見様見真似の模倣だ」
「ふむ、なるほど……」
「今度はこちらの番だ。お前等の組織、というのはどういった構成になっているんだ?」
上部と下部メンバーから成る組織―――男は紛れもなく上部メンバーだろうから、それについては詳しいだろう。
ただ、問題は解答してくるかどうか、だ。
戦いは不明瞭であれば不明瞭なほど、不確定であれば不確定であるほどに、勝率は増す。その殻をわざわざ自分か
ら剥がしてくるかどうか……
男はそんな俺の思考を他所に、こともなげに、
「ああ、そんなことか。下部は総勢500名余り、上部は戦闘不能な肥えた豚どもを除けば、吾を入れて3人程度だ」
そうして、男は「肉厚のない、無意味な質問だな」と言って独りで甲高い笑い声を上げた。
「…………」
俺にはどうにも、男の真意が掴みかねた。どうしてこうも、重要そうな問答に、いとも簡単に答えるのか……男の
欲せんとするモノが、まったく判らない。
「……お前は、何がしたい?」
圧倒的な不快感に、堪らず俺は聞いていた。
「何がしたいとは、何の話だ?」
「何故……お前は内部事情を、そうも口に出せる? 隠すはずのものをどうしてさらけ出す……?」
後半は、呻き喘ぐ声のようになってしまっていた。
男は一瞬考え込んで、それから「ああ、なるほど。そうかそうか……」と、愉快げに語り始めた。
「貴様は、多大なる錯誤を犯している」
「……何?」
「つまり貴様は、どうして吾が雇い主の情報を曝け出すのか、と言いたいわけだろう? 戯けめ、曝け出しているの
は貴様も同じ事、第一、吾がその程度のことに、どうして構わなければならない?」
男は少し間を置いてから、
「吾が求めるのは、戦のみよ」
―――こいつは。
自らの求心のために、奉公をうち捨て、忠義を踏み躙り……その精神は、俺が見てきたどんな人間よりも、戦闘狂
だ。
狂戦士―――そんな名すら、思い浮かびそうなほどに。
「そのためには如何なる不忠義をも、悉く貫いてみせようぞ。雇われの身なれど、本質は変わらぬ。吾が望みは、血
潮のみ。吾が望みは、剣戟のみ―――貴様との、死合のみ」
男の声は、俺の心の奥まで響き渡った。
その言葉には魔力があるのかと疑えるほど、引き寄せられる。
単純に、男の欲望を満たすものは戦火だった。熾火の前兆と言わんばかりに、男の瞳はきっと、光り輝いているこ
とだろう。
俺は確信した。
こいつの享楽は、良識から乖離が過ぎている―――
「……少々、昂ぶってしまったな。さて、そろそろ吾は帰ることにする。午後より雨となるらしいのでな。では」
ばさっ、という音と共に、男が身を翻した。俺は―――
「待てっ!」
気付いたときには、木の裏に回り、呼び止めていた。
男が振り向いて、億劫そうに問いかけてくる。
「まだ何かあるのか、双剣士よ?」
そこで初めて、俺は陽光のもとに晒された男の顔を見た。
端正な中世風の顔立ちに、コートの上からでも判る均整の取れた筋肉、尖った鼻先、眼光……
すべてが、洗練されていた。
俺は気後れしながらも、
「……俺は本気で戦えるまで、最短でも3日ほどは必要だ」
先ほどの質問に答えた。
男は俺の言葉に、驚嘆していた。
「……質問数が不釣合いだったからな」
俺は、負け惜しみのような独白を吐いた。その裏には、俺はアンタとは違う、という思いがこもっている。
―――俺は、忠義の士を貫く、という思いが。
すると、男は破顔一笑した。
「ふっ、平成の世に武士道とは……流石だ。それでこそ、吾が見込んだ男―――おっと、忘れる所だった。貴様、名
は?」
「泡沫式人だ」
「そうか。吾は竜千次時貞。短い縁だろうが、よしなに」
男は慇懃無礼に挨拶してから俺に背を向けて、
「せいぜい、墓穴を掘らぬよう、自らの墓穴でも掘っておくことだ。吾等が本気で戦う以上、貴様も、吾も、な――
―」
男はそのまま、去っていった。
(格が違う、か……)
俺が抱いた感想はそれだった。
俺を武士道と称したが、アイツ―――竜千次も部分的にはそれだった。
武士道とは近世社会において一般に、主君への忠義と死をもって証明する献身の奉公と取られがちだが、これはし
かし表面的な理解に過ぎない。
武士道の、その本質は「個」を基準とする体系であり、「個」としての人格形成を到達点とする「個体」の道徳な
のである。やれ人身御供、やれ滅私滅却と言われるが、基本的にはあくまで武士とは「個」としての存在なのであ
る。
そういった面で、竜千次は完全なる「個」だった。逸脱の加減は過度ではあるが断固たる自立性をもって行動して
いる。
「事によりては主君の仰せ付けをも、諸人の愛相をも尽くして」というやつである。
―――けれど、やはりそれも一面的だ。
『武士道においておくれを取るべからず』とは、確かに第一だが、次には『主君の御用にたつべし』が来ている。
竜千次は完全に私利私欲のために自分の依頼主を利用しているとみて間違いない。
武士とは曲者、故に扱いに厄介な存在だが、ひとたびの危機が訪れるならば、己一人にても御家を救うべく、全身
全霊を賭してあらゆる困難に立ち向かう者だ。
竜千次は決定的に、その部分が欠けている。
自負心もなく、名誉心もなく……あるのは、歪んだ主体性。
闘争という名の、果て無き願望。
……とまあ御託を並べてみたが、結局は言い訳だ。
俺は悟ってしまった。
竜千次時貞と泡沫式人の、絶対的な距離を。離れた二人の間にある如何ともし難い、ベクトルと力量の質の違いを。
あいつに俺は、勝てるのだろうか……
行き場のない疑問に、俺は解答を出すのを躊躇った。
「どうしたの、シキト?」
いつの間にか、キイが傍にいた。
その後ろには何羽ものハトが、刷り込みされたヒヨコよろしく、ついてきている。
「誰かと喋ってたの?」
キイは竜千次が去っていた方向を眺めていた。
先程の会話は……キイには黙っておこう。話したとしても理解できないだろうし。
「いや、昔の友達とね。この近くに住んでるらしい」
俺はその場凌ぎで誤魔化した。
「仲良かった人?」
「いやまあ、そんな感じかな―――で、キイはもういいのか? ハトと遊ぶのは」
「ん、うん」
「よし。じゃー次はどこに行くかな……」
俺は呟いて、空を見上げてみた。
雲一つない快晴が、どうしたら雨になるのだろうか。季節柄、晴天の霹靂など現れる時ではないだろう。
けれど……この胸に突っかかる、不快な塊は何だろう。
俺は知らない……
この時は、まだ。
その後、キイがちょっとした買い物―――現代人のご多分に漏れず、多大な量だった―――をしてから、病院へ戻
った。
ちなみに、響さんの今の状態はというと、
「あー、シキトくん帰り〜。どうだったのよ、手筈のほうは。あ、教えてくれないんなら中年男Aって呼ぶからね。
やーい、年齢不詳、年齢不詳野郎〜」
……輪をかけて元気だった。俺のことを遠回しにロ……年下趣味だと言っているようだ。
「……べつに、何もありませんでしたよ。一人で勝手に話を進めないでください」
俺はそう言って、響さんからもらったせんべいを齧った。
今いるのは中心棟の食堂だ。ちょうど昼時を微妙に通り過ぎた時間帯であったので、中は閑散としている。折り
たたみ式のテーブル4つには人っ子一人の姿もなく、購買のシャッターは閉じており、自販機くらいしか稼動し
ていなかった。
「―――あ、シキトくんって呼んでいいのはキイちゃんだけだもんね〜、ごめんね〜、式人君」
「誰もそんなこと言ってませんっ!」
……どうも、俺に必要以上に絡んでくるのは、常時脳内でアルコールが精製されているからではないだろうか?
疑わしい。非常に、疑わしかった。
いや、そんなことよりも今は……
「で、響さん、何か起きたんですよね? 館内放送で呼び出したからには」
「ええ……」
響さんは飲んでいたほうじ茶を置いて、ポケットを探って、一枚のB5のレポート用紙を俺に差し出してきた。
「これは?」
俺は受け取りつつも、響さんに尋ねてみた。
「見れば判るわ」
対する響さんの返答は、幾分素っ気ないものだった。
俺は響さんの挙動に一抹の疑問を抱きながら、その紙に書いてある文章を見た。
そこには―――
『今晩零時、燈火駅にて』
と、果たし状の全文が綴られていた。
「今日、あなた達が出て行った後、私のメールボックスに入っていたのよ、それが」
俺は何となく天井に掲げて、眺めてみた。
今晩零時、燈火駅にて―――その時刻、その場所で、第二戦が繰り広げられる、ってワケか。
「どうするの、貴方は?」
「どうするって……俺は行きますよ」
「罠かも……知れなくても?」
響さんは、心配そうに俺の顔を覗き込んできた。わが子を思い遣る、母親のように。
「大丈夫です。虎穴に入らずんば虎子を得ず―――ってやつですよ」
響さんは「そう」と短く呟くように言った。
次なる問題は、
「キイは……連れて行ったほうがよろしいでしょうか?」
だった。危ないだろうが、傍にいてもらったほうが俺としては見えないよりは安心できる。
「あー、多分、大丈夫よ。ここのセキュリティ、日本でも十本の指に入るくらいだから。まあ……突破されるとした
ら、貴方くらいね」
「俺ですか? どうして?」
生憎、錠前技術や電子機器関連については、破壊的なまでに俺は疎い。今日だって、キイにパソコンって何、って
聞かれて説明がしどろもどろだったくらいだ。
そしたら響さんは、
「貴方の力を最大限に使って、センサーの届かない場所から、猛スピードで飛び上がればもしかしたら、ってね」
とても肉体的な方法を述べた。
しかし……ならば、他はどうだろうか?
「じゃあ、ヘリとかを使えば……」
「ああ、それについてはね、ここら一帯は上空に乱気流が流れているから、迂闊には近づけないと思う」
「もし連中が爆撃なんかしてきたら?」
「あのねえ、式人君、ここは曲りなりとも国営の病院なのよ?そんな場所にミサイルでも投下した日には、日本国民
全員を敵に回すようなものよ」
俺はぐうの音も出なかった。
「それに貴方が連れて行った方が、余程、危ないと思うわよ。相手の人数は未知数なんだから」
「まあそうですけど……あ、どうやら向こうは総勢500人くらいらしいです」
「はっ? ……ゲホッ、ゴホッ」
響さんは、お茶を逆流させてしまったように、むせ返った。
「どうして判るのよ?」
涙目になり、咳き込み、俺を訝っている響さん。
「今日、隣町に行ったら後をつけられたんですよ。その時に、情報交換をした時に聞いたんです」
それから、俺は経緯を話した。
「ふーん……」
響さんは思案げに眉間に指を当てている。
俺もだが、響さんもあまり信用はしていないようだ。無理もない、敵の言ったことを信じる、なんて愚者のするこ
とだ。
だが……
「石橋は叩いて渡るに越したことはないわね―――とにかく用心はしたほうがいいと思うわ、私は」
「ええ、そうですね……」
信憑性の甲乙は抜きにして、現実的に考えると、やはり結論は『相手は多勢でこちらは無勢』である。何せ、こち
らは俺一人くらいしか、戦闘可能な人間がいないのだから。
「どうするの、式人君? 決断は貴方に任せるけど」
……そのセリフ、今日は二度目だな、
と、心の中で独りごちた。
「……では、キイは任せます」
ここのセキュリティが本当に完全なのかどうかは知らないけれども、俺がキイを連れて行ったときのリスクを天秤
に掛ければ、断然置いていくほうに傾いている。多数を相手に、キイを護りきれる自信はあったが、慢心は止そう
、と思った。
響さんは納得したように頷いた。
「そうね、判ったわ」
「もしものことがあったら、ここに連絡してください」
俺は響さんに、ケータイの電話番号が書いてある紙切れを提示した。
「貴方の番号? これ」
「そうです。今日、隣町に行ったついでに買ってきたんで」
それから俺は「役に立つと思いましたので……必要経費で落とせませんか」と、貧乏性丸出しにして言った。
「いいわよ。じゃあ、こっちのも」
響さんは紙切れを白衣の胸ポケットにしまって、代わりに出した手帳から11桁の番号が書かれた紙を俺に手渡し
た。
俺は軽く会釈をして、それを受け取った。
「私はそろそろ戻るけど、貴方は?」
「どうしましょうかね……キイは遊び疲れて、寝てしまったようですし……見張りでもやっています。中心棟の屋上
には、どうやって行けばいいんですか?」
昨日、この病院を歩いた時、中心棟の屋上には行けなかったのだ。階段で行こうとすると、屋上の1歩手前で途切
れていて壁と柵があるだけで。
「屋上から? まあいいけど……職員専用のエレベーターに乗ってRを押せば行けるわよ」
「その職員専用のエレベーターというのは?」
「ああ、えーとね、そこを出て右に曲がって、突き当たりにある『警備員室』の横にあるわよ」
響さんはほうじ茶が入っていた紙コップをゴミ箱に投げた。大きな弧を描いて、それは見事、燃えるゴミに入った。
「そんなに働き詰めだと、力が出ないわよ。たまには休んだらどう?」
「お心遣いのみ、受け取っておきますよ」
俺がそう言うと、響さんは苦笑して、食堂から出て行った。
(ふぅ……)
俺は内心、不安に感じていることがあった。
それは言わずもがな、自分の体のことについてである。今も軽い風邪のくらいのだるさが全身にある。
この状態で、果たして俺は戦えるのか……
「……戦うしか、ない」
俺は拳を握り締めた。彼女を、キイを護るためには、戦う以外に道はない。通じる先に四面楚歌が待ち受けようと
も、それを乗り越えぬ限り、俺は……
いや、乗り越えたなら、俺は……俺の……
―――この罪は軽くなるだろうか?
〜〜〜 † 〜〜〜
彼女は、深い自責の念に囚われていた。
騙してはいない。
狙われている、という言葉に嘘偽りはない。
しかし……
「……気付かれたら」
彼女は怯えるように、その思いを吐露した。
そう、気付かれたならどうなるのか……
許されることではないだろう。だがしかし、告白の時が刻一刻と迫るのは事実、忌避を望むのも、また事実……
さればこそ、彼女は今日も偽り通した。
―――ふと、渡り廊下を歩いていると、外の光景が目に飛び込んできた。
木枯らしも柊も、この暖かい空気の中で、少しばかりその身を萎縮させているようだった。落ちかけの太陽は、今
の季節を無視するかのように、勢いよく照り付けている。
彼女はゆっくり、息を吸い込んだ。
そして、病院内用のスリッパのまま、外へと出た。数歩歩いたところで振り返り、自らの職場であるこの病院を見た。
3つ並んだ大きな白い建造物。
娘に残したものにしては、大き過ぎる遺産。
大き過ぎる病院だった。
―――数十名が暮らすにしては、いささか。
〜〜〜 † 〜〜〜