3:到達地点と開始地点
〜〜〜 † 〜〜〜
―――幾度にも連なる屍を乗り越えて、之の身は不滅。
―――十重二十重にも及ぶ罵倒を受けようが、之の魂は不朽。
敵が愚劣な手段を取ろうとも、仲間が裏切ろうとも、一切の例外を作らず叩き伏せた。
逃げようとは思わなかった。敵前逃亡は死よりも重い枷だからだ。一生、それは己に問いかけをする。汝の行いは
正しいのか、汝の選択は真なのか……と。
我は戦う。
富も権力も名誉も笑止千万、戦略的撤退を逃亡として蔑む声など気にも留めない。
すべては勝利のために。
之の身は、戦うためだけに作られた方程式。内包する感覚は最大の結果をもたらす因数の一部分。蓄えられた戦闘
技術は、一定の確率を弾き出す比例定数。
―――それ、違うと思うな―――
十八歳の若さ、女性にして戦場に赴いた兵士は言う。あどけなさを残した少女の顔立ちは衆生に恵みを与える為、
常に微笑みを貼り付けていた。
だがいざ戦いとなれば、微笑みは無表情へと変わり、憐れみを口にして躊躇うことなく命を刈り取る。
仮面を被り、狂ったように死屍累々の丘の上で、舞い踊る。
我が身と彼の身は、尽き果てることはなかった。
少女は言う。
―――……わっわっ、虫、虫がっ!―――
―――戦意のない人は殺さないでっ―――
―――世界人類が平和でありますように、って願い事は……駄目か。ちょっと欲張りだね―――
……その時に、俺は決めた。
この少女だけは、死なせてはならない。
この少女はきっと将来、大勢の人間を助けるだろう。こんな価値のない場所で終わらせるのは、あまりにも悔しか
った。
それが最初の誓い。
俺達はよきパートナーとして、お互いを助け合った。
走って、走って、走り続けた。
気付けば俺の目的は、勝つことではなくなっていた。
勝敗など二の次だった。
結果的に勝てればそれは喜ばしい。
負けてしまっても、少女が生きているなら十分だった。
涙を流さぬよう、哀しみに覆われぬよう、希望を持てるよう、
優しく掬いあげるような笑顔を絶やさせぬように。
俺は生まれて初めて、神頼みをした。
―――だが、その必要は無かった。
戦局は一気にこちら側に傾き、相手は防戦一方を強いられるばかりとなった。
最後の出陣となるであろう曇りの日。
俺はもしもの時のための防衛戦力として宿営地に残った。
少女は異例の抜擢を受けて、部隊長に任命された。
当然だ、彼女は誰よりも勝利に貢献した人なのだから。
―――だから、深く考えようなんて思わなかった。
その時点で、俺には彼女と一緒にいる資格を、失ったような気がする―――
〜〜〜 † 〜〜〜
深い眠りの余波から、俺はまだ覚められずにいた。布団の中で数回寝返りを打つ。
……足元が重い。
昨日の一件もろもろで筋肉痛でも起こしているのだろうか。最近は体を動かしてなかったから、軽いストレッチで
もやっておこうか。
そう思って、寝惚けた頭を覚醒させると、
「やっほーっ。やっと起きたかぁ」
足元にキイが座っていた。
ただでさえ朝は弱いのに、こうも不測の事態が発生すると、脳内がぐるぐる混乱してくる。
「あれ、ここは何処だったけ……?」
「ここはシキトの部屋でしょ」
「で、なんでキイがそこにいるんだ……?」
するとキイは呆れ果てた顔でベッドから降りた。
「あのねぇ、俺は寝起きが悪いから起こしにきて欲しい、って言ってたでしょ、昨日の夜に」
言われてみれば、そんな気もする。記憶は不鮮明だが、誰かにそういう頼み事をした覚えはあった。
「ありがとな、キイ」
俺は寝惚け眼で、お礼を述べた。
「いえいえ、どういたしまして」
キイは口元を緩めて、昨日と同じ笑顔を見せた。
―――それが何かと重なったように見えた。
「どうしたのシキト?」
気付くとキイが俺の顔を覗き込んでいた。そこには二重の影などはなく、やはり幻だったようだ。
「―――ん、まだ起きてないみたいだ」
自分の頬を両手でぴしゃりと打って、頭に喝を入れた。周りの光景も、どことなく明るくなっていった。
外は晴天。
すずめのさえずりが耳に心地よい。
「さて、シキトも起きたことだし、朝ご飯食べに行こうかっ」
「そうだな。行くとするか」
俺はベッドから降りて、スリッパを履いた。寝る時には寝巻きに着替える、なんて風習は俺の中でいつの間にか廃
れていたため、昨日の服のままだ。
キイは「うわっ、その服昨日のまんまじゃん。一日一日洗って取り替えてよね、ここ、病院なんだから」などと言
いつつ、ドアを開けた。……忠告を聞き入れ、コートを羽織っといた。
食堂は中心棟にある。
そこまでの道すがら、色々な人が廊下を歩いていた。
山の上の病院という性格上、ここには外的な損傷よりも内的な損傷、つまりは精神病患者が多い。だからこそ看護
婦、看護士はほぼマンツーマンの状態である。とはいっても、人数にはさすがに限界がある。それは病院側の方で、
朝方なのに行き交う白衣はとても多い。
響さんに聞いた話によると、重度の精神病患者は西棟にいるとか。西棟への連絡橋は厳重な警護体制で、扉口には
セキュリティロックが敷かれていた。
「わたしも一時期、向こう側に行きそうだったんだよね」
中心棟には直接行かず、外を少し散歩してから行こう、というキイの提案で外に出た時、ふとそんなことをキイは
口にした。
「向こう側って……西棟のことか?」
俺は隣を歩くキイに尋ねた。
キイは西棟をじっと見詰めている。
「うん、そう……あれは二、三年前だったかな。いつまでこの病院にいればいいんだ、って思って情緒不安定になっ
てたの。それで拒食症になっちゃって、挙句の果てには暴れだしたりしたみたい」
そんな辛そうな思い出を、懐かしむように「でも、今となっては覚えてないんだよね」と申し訳なさそうに話した。
―――キイの横顔は遥か遠く、ともすれば現実と離反してしまいそうだった。存在感が薄すぎるのではなく、そこ
にいることを忘れてしまいそうなくらい、
「……どうして、キイはここにいるんだ?」
俺はようやく思い当たった疑問を訊ねた。
彼女がこうやって、この場所に留まる理由はどこにもない。体は平均と比べて細いが、その他はいたって健康体だ。
頭の中では彼女が同級生と仲良くお喋りをする姿だって、容易に想像できる。
だっていうのに、彼女はここにいる。
「う〜ん……それは秘密。大人には大人の事情があるように、子供には子供の事情があるんだよ〜っだ」
ふざけた調子でキイは中心棟へと走り出した。
俺は呆然と、その姿を眺めていた。
「むう、早くしてよシキトっ、早くしないとお腹と背中がくっついちゃうんだからっ」
キイは中心棟の入り口で憤慨していた。
「あ、ああ、今すぐ行く」
腹が空いているのはこっちもだ。
俺は急いでキイのもとへと駆け寄った。
……ふう。
朝、足元が重かったのは気のせいだったが、このところ体を動かしていないのもまた事実。それに気になることも
ある。
俺の足は一路、中庭へ向かっていた。
窓の外はもう暗い。
一番星がそろそろ出るくらいの時間帯である。
結論から言えば、前日に負けず劣らず嵐のように3月17日の時間は過ぎ去っていった。
それもこれも、奴のせいだった。
昨日のことは理解したのか、危ないことはやらなかったが、それだけだった。店頭に飾ってある装飾品を綺麗だっ
たからという理由で持ってきたり、犬に吠え返し(まあ、これはこれであるべき姿なのかも)たり、自分ひとり、
街頭で配っている風船を全部もらう、もとい奪ってきたり……
主語がなくても、こんなことをする奴は一人しかいない。
中庭への扉を開けて、外へ出る。
いくつもの照明の下、キイは夜空を見上げていた。
「あっ、シキト。どうしたの?」
キイは俺が来たことに気付き、視線をこちらに向けた。
「いやちょっと体を動かしに、ね」
嘘だ。体は昼間に嫌というほど動かした。
運動をする、というのは半分口実で、実際には聞きたいことがあって、キイがいるだろう中庭に来た。響さんに聞
こうと最初は思ったが、仕事中かもしれないので、止めておいた。
「わたしも一緒にやっていい?」
キイは右肩を回しながら言った。袖からのぞく二の腕は、誰が見たって華奢、と言うだろうくらい細かった。
妙なノイズが頭を揺らした。
おいちょっと待て自分。自らの矜持を忘れたのかしかも相手は年端もいかない女の子だぞ―――
「い、いいや、止せ。明日動けなくなるぞ」
……危ない。免疫力が低下してるな、俺。修行が足りん。
俺は「離れとけ」と諫めてから自己流の鍛錬を始めた。
―――古今東西、強さを手に入れるには肉体の鍛錬よりも、精神の鍛錬のほうが重要視される。筋力がいくらあろ
うが、知力で勝ろうが、何度でも立ち向かう姿勢がなければ自分よりも強い相手には勝てない。
よく言われる精神鍛錬、イメージトレーニングとは要するに『自分の中にいる、相手が自分よりも強いと思ってい
る自分』を打ち負かすための方法なのである。負の精神を倒してこそ、これから戦う相手にも勝てる。更に言うと
精神を研ぎ澄ませば自然と感覚も鋭くなっていくのだ。
戦闘は常に魂と魂の激突。
筋力、知力、武器、援護は確率を上げるためのもの。
こと実力伯仲の勝負には心の持ちようですべてが決まる。
とまあ、ここまでが一般論だ。
現実にはその範囲外の規格外がたまにいる。
それは例えば俺とかだ。
―――目を閉じ、己を拡張。キイの姿が遠のく。
イメージする相手は決まっている。
昨日の夜、俺の部屋の前に現れて予言とかいうけったいでしょうがない土産を残して去った男。あれから考えたの
だが、男の子、と呼ぶのは止めた。侮りは捨てなければならない。
続いて圧縮部分の開放、そこに求める情報を書き込む。
数ヶ月のブランクを経て、待ってましたと唸りを上げる。
起動させるための動力は己が血潮。
意識が、何乗にも拡大していく。
絶対的な不可侵領域を築き、展開する。
飛び火する炎のように、止まることを知らない。
―――違和感がよぎった。
無視しようと思えば、無視できるくらいの小さな気配。
目を開いてみる。
「ん、終わったの?」
キイが近づいてきた瞬間、
一瞬にして気配は殺気へと変貌した!
「ふっ―――」
身を屈めて、風の抵抗を受けないように疾走する。
自分の不覚を呪った。彼女を護ってくれ、と昨日言われたばかりではないか。ならば近くにいるべきであったし、
目を離すなんて言語道断―――っ!
……過ぎたことを悔やんでも意味はない。
今は彼女の身を安全な場所へと移動させるためだけに意識を集中させる。
突然こちらに向かってきた俺に、戸惑うキイ。
だが……間に合わない。
「はっ!」
腰から新月を抜き、最高出力で投擲する。それは俺が走るスピードの何倍もの速さで空間を切り裂き、
ガキャンッッ!
高音を轟かせて、新月はキイの目の前で弾けた。
何かが転がるような金属音が二つ。
自分の判断、そして戦闘の際の感覚はまだ衰えていなかった。でなければキイの頭には今頃、一本の投げナイフが
刺さっていただろうから。
ナイフが飛んできた方向を目測しつつ、彼女の盾になるよう対角線上にこの身を置いた。
目標がいる西棟屋上を見上げた。
そこには満月を背景に、黒い影が佇んでいた。
手には一振りの中華刀。
それだけで、俺はそいつがどんな奴か、理解できた。
「どうやら腕は立つようだな」
直線距離にして二十メートルは優に越えているのに、そいつの声は、月下の庭に響き渡った。
「…………」
襲撃者の容貌を見極める。得物はあの二メートルにも及ぶ中華刀。防具の類は一切身につけていない。強いてあげ
るなら暗闇の中でも分かる赤い外套だけだった。ついでだが、髪は短い。
年齢は俺と同い年か少し下くらい。
昨日の予言者とは似ても似つかなかった。
足元に落ちている新月を、相手からは目を離さず拾い、もう一度正対する。
「……何用だ。このような無粋なモノを投げたからには、それなりの用件があるのだろうな?」
俺は思考を戦闘用に切り替えて、問い掛けた。
「用件だと? ハッ、愚問だな」
言うまでもないし、貴様と喋るために来たわけではないと、男の眼光が物語っていた。
「そうだな、失礼した」
俺は双剣を正眼に構えた。
男はふぅ、とため息をつき、屋上から飛び降りた。常人なら大怪我は免れない高さ。だが男は足腰のバネを利用
し、着地。
取り付く島もなく、にじみ寄ってくる。
後ろではキイが震えている。寒い、ということもあり、歯はガチガチと音を立てていた。
「お前は護ってみせる。だから安心して、離れてろ」
俺はそう言ってから歩み始めた。
男の足取りには迷いがない。ここで戦うことに、一欠片も心配を抱いていなかった。男は歩きながら語りかけて
きた。
「ああ、そうだそうだ。調べた所、この病院の窓ガラスは全て防音・防弾性らしいぞ? 加えて今は病院にとっては
真夜中に近い。これなら気兼ねなく死活を味わえる―――」
俺は奥歯を噛んだ。
この戦いにおける俺の勝利条件は相手か俺の『逃走』だ。後ろにキイがいる以上、条件は変わらない。
今の男の一言で、『逃走』可能性の一つが消えた。
つまり―――戦って勝つか、逃げるか。以外に道はない。
男との間合いを考えながら、五間辺りで足を止めた。
さて、と男は中華刀を構えた。
「吾等の狙いはその女のみ。おとなしくしておけば危害は与えない。どうする、双剣士よ」
俺は男を見据え、ふぅ、と、
「どうするだと? 愚問だな」
皮肉をたっぷり凝縮した、ため息を吐き出した。
「……宣戦布告とみていいな?」
男の声音が変わる。
瞬間、世界のあらゆる色が変化した。勿論、錯覚だと判っているが、どうしてもこの感覚からは逃れられない。
先程と同じ手順で自我意識を戦闘領域へと持っていく。
(フィーリングアース、ドライブ・オン)
二つの月を、自分の一部として融合。脳の使用範囲を拡大、第六感を半覚醒。
「一々、俺に問うな」
ポケットから五百円硬貨を取り出して、親指で中空に弾く。それは見事に軽やかに回転し、上弦の月と重なった。
男は夜空を見上げて、呟いた。
「これはまた、随分と豪勢なコイントスだ」
合図は最高頂点へと達し、重力に従い、落下してくる。
「……黙れ」
そして―――
硬貨は、地面に接触した。
―――赤き怒号と、黒き疾風が、闇夜を貫いた。
一際高い剣戟。
二桁を超える交錯を繰り返して、まだ互いに精魂は尽き果てていなかった。むしろ煮え滾っている。
男の力量は見掛けだけでなく、凄まじかった。
柔と豪。
その両方を使い分けて、中華刀を自分の手の延長線上として振るっている。獰猛なその一撃は死神の鎌を思わせ
るほどに、静かで的確に急所を狙ってくる。相手の力は強靭な上に速さまでもが人外領域。
だが、こちらも圧倒されてばかりはいられない。
感覚・手腕・経験を活かして最善の一手を打つ。
考えて、というより本能行動に近かった。
基本的には相手の攻撃を受け流して、隙を見つけてはそこに付け入る。勝てる余地はその僅かな隙間に存在する。
「ハッ、どうしたっ! 逃げ腰になってるぞっ!」
男の怒声が鼓膜を直撃した。
中華刀から振り下ろされる死の強迫観念を、辛うじて双剣の腹で捉え、真横に弾く。
そのまま流れていった体を利用して、回し蹴りを繰り出す。男は頭を屈めて一撃を回避して、そこから移行して
の足払い。
残った片方の足だけで垂直に飛び、宙返りから、遠心力をつけての二本の回転斬撃『虎爪咆哮』は、しかし男の
中華刀に阻まれた。
俺の着地を待たずに、切り替えしての袈裟斬り。男は余程の豪腕なのか、その柄はしなっていた。
破壊力は最初の三倍。
切っ先から火花を散らしながらも、どうにか防ぎきった。
二撃目まで防ぎきる自信は五分五分だった。なので、完全に着地したと同時に間合いを開けた。
「まだまだぁっ!」
男が猛進してくる。
中華刀の重さなど意にも介さず、こちらに迫り来る。
迅さと、その力は底無しなのか。
走りざまになぎ払われる一撃。
この位置では……自ら打って出るしかない。
「ふっ!」
ともすれば吹き飛ばされそうな一撃を、何とか食い止めた。
だが次はないだろう。
さすがに筋力が持続しない。元から短期決戦型の身なので、戦闘時間が長引けば長引いた分だけ、勝率は削られる。
ならば次の、一撃に総てを込める。否、次で決める。
中華刀を蹴り上げて、相手の体制を崩させた拍子に後退した。再び間合いが離れる。
時間の流れは止まっている。最早、一秒は一秒でない。
一際長い間隙。
その末に、男は憤ったように話し始めた。
「……何故、本気を出さない?」
俺は答えない。余計な会話は禁物だ。
男は後ろに視線を移した。
「―――そこの女か。やはり」
キイが後ろで竦んだような気がした。
男の目が細められる。
男は女が目的、と言った。どうするか、については一言も言っていない。……まさか目標を変更する気じゃ―――
と、思ったら男は後ろにあった西棟の外壁を登り始めた。突然のことだったので、思考と行動が停止してしまっ
た。
男は屋上から俺達を見下して、言い放った。
「今日はこれでお暇する。貴様も本気を出せぬまま殺されるのは心外だろう。しかし覚えておけ。貴様等の命は吾等
の手中にあることを」
させるかっ!
俺は余すところ無く筋力を使い感覚を行使し、力が伝導する最高頂点で新月を再び投げた。
手応えは完璧。
見えない月は男の胸へと吸い込まれ―――
あまりにも簡単に突き抜けた。もとい、貫通した。
中庭に静寂が戻ってくる。
「……逃げられたか」
貫いたのはもぬけの殻、赤い外套だけだった。あの一瞬の内に後ろっ飛びに離脱したようだ。
新月は多分、西棟の向こう側か屋上に落ちているだろう。
後で回収しに行こう。それよりも今は―――
後ろを振り向くと、キイが茫然自失と、震えていた。
「今のは……」
いったい何なの、と続く前に彼女は気絶した。地面に倒れ付しそうになったところを、どうにか抱えることができ
た。
当然の反応だろう。俺の額からは血が出ていたし。
キイは眠るように気絶していた。
きっと、顔面流血、なんて生まれて初めて見たのだろう。
……明日、どんな顔をして会えばいいんだ、俺。
それにキイにしようと思っていた質問事項は一つ足りとて、消化されていない。しかも男の襲撃によって質問量が
増えてしまった。
けれど、まあいいさ、と思う。
今はこうして、彼女が生きている。
勝ってこそいないが、充分過ぎる引き分けだった。
気絶したままのキイを病室に送り届けると、時刻はすでに今日と明日の境目まで来ていた。
あれだけ派手な戦いをやらかしたというのに、病院内は静まり返っている。完全防音・防弾性という男の台詞は、
あながち嘘ではなかったようだ。
男との会話を思い出しながら、質問を絞り込む。
聞くべきことはたくさんある。その中から重要だと思われるモノを拾い上げ、要約する。
ある程度はもうまとまっていた。元より、こういう情報を集約するような仕事は好きな部類であったし。
あとは、聞くだけだ。
日本の遺伝子工学の権威にして、命を救ってくれた恩師、
そして、俺の第二の母でもある―――
「……響さん、説明してくれますよね?」
俺は台所に立って、背を向けている後姿に、問い掛けた。
彼女に聞くより他はない。
この場で、依頼内容を再確認しなければ、きっと俺はキイを護り切れないと思った。
「今さっき、中庭で正体不明の男から襲撃を受けました」
響さんの背中がビクンと震えた。
構わず、俺は話を続けた。
「男は病院の構造を熟知していました。……こう言うのも何ですが、ここは辺境の更に辺境にある病院でしょう。ち
ょっとやそっとの調査ごときでは、内部構造の把握なんて不可能です。そして……男は最初からキイが目的のようで
した。響さん、何か知っていますよね? 教えてくれませんか?キイは一体、何に狙われているんですか?」
そこまで言い切って、俺はまた奥歯を噛んでいた。
護衛の対象となる人の詳細を、俺は何故深くまで聞かなかったのか。彼女がどんな人であり、どんな生活をしてき
たのか。
一日目の事で気を抜いていただろう、と言われれば否定はできない。あまりの破天荒さに気を奪われていたのは事
実。
そして……確かに、この目も奪われていた。
響さんがカップを持って戻ってきた。今日は夜なので、コーヒーだった。
カップを机の上に置き、響さんは自分の仕事机に行った。
イスにゆっくり座って、疲れを吐き出すように、
「―――その男について、聞かなくてもいいの?」
と、当たり前のことを言った。
「ええ、大方の予想はついています」
俺は湯気を割って、黒い液体に口をつけた。口の中を切っていたらしく、少し染みるような痛みがあった。
「あいつは刀剣類を使っていました。俺と同じように。
つまり銃の存在など脅威ではない、ということです。飛び道具を、一切信用していない戦い方でした。今思えば、
最初に投げたナイフは俺へのテストだったのかもしれません。相手の満点を確信した上での試験です。そう……
この世の中で銃を持たない、一撃必殺の人間は―――」
罪状を叩き付けるように。
けれども俺にとっては、救いだった。
それがなければ生きていなかった。生きて来れなかった。
出会うこともなかっただろう……
だから怨みも憎しみも殺意も沸かない。
あるのはきれいな感情。
天乃淵響女史への感謝は、計り知れない。
「―――3C・ハイエンド・プログラム=v
それだけ言って、天井を眺めた響さんの目には、果たして天井が写っているのだろうか。その瞳で人間が償うこと
の出来ない罪を増やしてしまったことでも、悔いているのだろうか。
―――3C・ハイエンド・プログラム。
端的に言えば、それはヒトの能力を強化するためのシステムである。
人には二対二十三本、計四十六本の染色体がある。染色体とは末代から続く遺伝情報を内包した、いわば『記録を
しまっておく箱』みたいなものといった感じだ。
髪・肌・目の色、顔立ち、性別など。
様々な遺伝情報が蓄えられており、染色体の如何によって、その人物の人格及び容貌の土台が作られる。
天乃淵響女史はこの染色体についての研究を行っていた。
そして長年に渡る研究の集大成、それが3C・ハイエンド・プログラム≠ナある。
その概要は染色体の誤認識、というもの。
いくつかの希少金属で出来た合金と、0と1で構成される工程式を過学合成して(過学、とは科学を超えた学問の
ことだ)金属に、受動的に思考を可能とさせる意思金属、通称『フィーリングアース』を作り出し、それを人体に
埋め込む。
この『フィーリングアース』は行使されたその時に、染色体を読み取り、染色体と似た擬似染色体を複製する。こ
の染色体は本来のものと外見は変わらないのだが、収められる情報の容量が桁違いなのだ。キロと、メガの違いく
らいはあるだろうか。
その中に、自らの金属に命令して様々な情報を作り、入れておいて、必要な時に応じて、それを取り出す。取り出
すということは情報、つまり人が持つ筋力・知力・感覚―――そういったプログラムを暫定的に書き換えることを
示す。
暫定的というのは、絶対定義である。常時の発動は不可能。何故なら人の肉体が情報量の負荷に耐え切れないから
だ。常に使っていたりしたら神経回路が焼き切れてしまう。
だが、一時的であってもその力は人の手に余るほどだ。
その気になれば―――出来るだろう、というだけであって実際にはやっていないが―――全身を変換すれば0.1r
ほどの反物質も精製可能だとか。
それが3C・ハイエンド・プログラム
人類の最高結晶にして、最後の境地。
―――だが、道程は予想以上に困難だった。
莫大な金額に引き寄せられ実験体となった者達はほとんどが数秒と持たずに死滅。持ち応えたとしても数日が限界
だった。
その時になって彼女はようやく気付く。
これは―――間違いであった、と。
目先に吊るされた名声やら成果やらに釣られて、判断を誤ってしまった。何故なら、失敗に終わった動物実験を無
視して、人体実験を始めたのだから。
言うまでもないが、人体実験は平成の世において御法度。
数日も追われながら、途方にくれながらこの地へと辿り着いたらしい。
そこで彼女は行き倒れとなった俺を発見した。顔色はひどく生気も何もあったもんじゃなかったとか。
彼女が出した提案を、俺は二つ返事で飲み込んだ。
彼女の実験体は、そうして俺となった。
実験結果は―――成功。
あるプロセスを一節添加して、ついにようやく彼女の研究は成果を挙げた。
だが、彼女はこの事を政府には届けなかった。
真意のほどは定かではない。
「あの後、この病院の施設のデータベースがハックされたの」
あの後、とは俺がここを出て行った時のことだろう。些細な理由から世界中を渡り歩くことになったあの日。「世界
を見に行ってきます」とだけ書いて、文字通り家出した、あの日。
「貴方に関するデータは、どうやら全て持っていかれた。無論、証拠を残さずクラックされたわ。バックアップはあ
ったからよかったけど……で、ここからが本題。そのハックしてきた連中も同じように、実験をしたらしいの。そう
したら実験結果とは違い、何人か死んでしまった。けど、残った奴もいたみたい。それがきっと、その男ね」
―――腕は立つようだな。
あの男の言葉の中には同類という事を揶揄していたのだろう。
貴様も吾達と同じだ、と。
人ではないものだ、と。
「そして彼等は研究を進めていくうちに、一つの結論に至った。曰く『他の遺伝情報に適合因子があるのでは』って。
わたしの唯一の成功例の貴方は海外。それで他を当たってた彼等はこの病院の新宮キイ、って女の子に目をつけた。
遺伝情報は、他人だけれど酷似している分野がいくつかあって、他より可能性のある配列だった。だから―――彼
女は狙われることとなった」
胸の奥が痛くなった。
何の因果もなく、狙われることとなった少女。
好奇心の塊、悪意も善意も右も左も判らない彼女。
そんな理不尽な理由を、今すぐ壊してやりたかった。
「……二つ聞きます」
俺は言う。
「一つ目。そいつらは何ですか?」
間髪いれず、抽象的な問いに響さんは答える。
「彼等は数人の上部メンバーと大勢の下部メンバーから構成されているらしいけど……詳しいことはわたしにも分か
らない。ただ、組織とだけ名乗っているわ」
日本の裏組織についてはあまり知らない。敵の本性がまったく分からないというのは不利ではある。
しかし目的が明確になった分、俄然気合が入ってきた。
「二つ目。何故、すぐ俺に言わなかったんですか、それを」
怒ってなどいない。
ただ……疑問に思っただけだ。
響さんは言いづらそうに、口を閉じたり開いたりしている。まるで金魚みたいだ、と普段なら吹き出している所だ。
カチカチ、と時計の動く音。
コーヒーはもう、ぬるい。
響さんはようやく一言、声帯から声を引っ張り上げた。
「……お願い。それだけは聞かないで」
「響さん、それはナシ―――」
「お願いだからっっ!」
突然の大声と、境界線を示す鐘が鳴り響いた。
俺は思わず響さんの顔を凝視してしまった。彼女が大声を出したところなんて、一度も見たことがなかった。いつ
も能天気であり、けれどどこか落ち着いた雰囲気があって、
そんな響さんは今、目頭に涙をたたえている。
今にも零れ落ちそうなくらいの大粒の涙。
俺は―――
「……分かりました。二つ目については、気が向いたら話してください」
不問、ということにした。
「……ごめんね」
「いいえ、謝らないでください。響さんが悪いわけじゃない。響さんは響さんなりに、思う所があるのでしょう?
なら、そこに深入りはしません。俺が為すべき事は、決まっていますから」
依頼内容は三つ。
彼女に世界を教えること。
彼女を護り抜くこと。
彼女を……三つ目は、まあ無理……だろうな。
目標は見えた。倒す相手もいる。護る奴もいる。そして……
うん、判りやすい。
判りやすいのは、とても良いことだ。
「それじゃ俺、もう寝ますね」
コーヒーを飲み干してから、俺は立ち上がった。
「……おやすみなさい」
響さんはうつむき加減に、そう言った。何か暗い影が落ちているが、それも深入りは、いけない。
俺は「おやすみなさい」といって、ドアを閉めた。
パタン、と控えめな音がした。
〜〜〜 † 〜〜〜
少年は焦った。
これほどまで運命が決まったとは、思いもよらなかった。
時間はまだある。そう考えていたからこそ、彼は強行しなかったし、強制もしなかった。
ただ、警告をしただけ。
彼は自分の甘さに憤りを感じていた。
可能性は全て否定してこそ、可能性でなくなる。
99.99999999999%の確率は絶対などではなく、それは0.00000000001%の可能性があ
る、ということを示唆している、という事。
たとえ期待値が微塵であったとしても、想定される値は確かなものとして、そこに存在する。
ならば、自分は失敗だった。
常軌を逸した分岐は―――ここで最悪の形が決定された。
彼は膝をついて、変わることの無い夜空を虚ろに見上げた。
「―――戻れないのかな」
口が機械的に動いている。
窓枠を通して入り込む僅かな明かりが、目に痛い。
そんなはずはないのに、そう感じてしまう。
ただの、感傷。
「もう、戻れないのかな。カードは引いてしまったし、チップは勢い余ってダブルダウン。払い戻しは効かない、利
かない。保険なんて石橋は調べつくした。どこにも異常は…………そうであっても、もう戻れないのかな」
理解を恐れる。曲解を欲する。嘲笑うかのように解は唯一。
判っている。もう、打つ手がなくなってしまったことを。
それでも、変えたかった。
「あ……」
少年はそこで気付く。
自分が全てを過去形で語っていることに。
既に自分は、受け入れてしまったということに。
未来が揺ぎ無い事実を作ってしまったことに。
それから少し、彼は泣いた。
彼自身にはあまり関係のない未来だろうが何だろうが。
悲しみは誰であっても変わりはない。
悲しかったから泣いた。
見ていられなかったから泣いた。
ただ、それだけの行為だった。