2:訳の判らぬ午後、意味の判らぬ夜半
定説にのっとり、俺達は自己紹介から始めた。
ちなみに寒かったから彼女の病室に戻ってきた。それに薄い上着では病躯にこたえるだろうと思ったからだ。
俺は窓際の壁に背中を預けている。彼女は自分のベッドの上に腰掛けている。
ジャンケンで決めた先攻後攻は、彼女が先だった。
「わたしの名前は新宮キイ。キイ、ってのはカタカナね。ついこの前の誕生日で十七歳になりました、とさ」
昔話風に、彼女は自己紹介を終えた。
俺は気になることを質問してみた。
「ふむ……いつからここに入院してるの?」
彼女は人差し指をあごに当てて、
「んー、七年前くらいかな」
「……なるほど。そりゃ長いな。じゃあその間に外に出たことは?」
「一度も。抜け出そうとした時はあるけど、あの壁を登る方法が思いつかなくて止めたんだー」
彼女は窓の外の隔壁を指している。東棟の3階である彼女の病室からでも、隔壁と同じくらいの高さだった。あそ
こを登るにはそれなりの道具と技術が不可欠だろう。しかし、そんなものが病院内にあるはずがない。更にいうな
ら彼女ではいささか筋力不足だろう。
「ほらっ、次はそっちの番だよ」
このままだと質問攻めにされるだろうと悟ったのか、彼女は俺の紹介を促している。
「ああ分かった。俺の名前は泡沫式人。今年で……えーと、二十歳は超えてると思う」
いつからか数えるのを止めてしまったため、正確な自分の年齢は知らない。響さんに聞けば判るかもしれないけど。
「……うかたた?」
彼女は俺の名字―――多分、うまく発音できないのだろう―――を口にした。
「違う。うたかただって」
「うだかた?」
「違うって。何で濁音が混じるんだよ」
「うだたた?」
「……わざとやってない?」
そこで彼女は「ああっ、もうっ!」といきり立った。
「そうよシキト、って下の名前で呼べばよかったのよっ」
「なっ―――」
おいおい、初対面の相手をいきなり下で呼ぶか普通っ。つうかそんなことより、俺はシキト、じゃなくてシキヒト
だし!
しかもあろうことか彼女はこう言った。
「こっちだけ下の名前、っていうのは不公平だからそっちもキイって呼んでね。わたしのことは」
……さっきの中庭での光景が幻に見えてきた。
新宮キイ、実は結構な性格である。
「そいじゃよろしくね、シキト」
彼女はベッドから立ち上がり、俺に手を差し出してきた。
訂正するのも面倒だし、シキトっていうのも良い響きだからよしとしよう。
俺はその手に自らの手を重ねた。
「よろしくな、キイ」
俺の言葉に満足がいった彼女は、にっこりと笑った。
その後はおしゃべりの時間となった。
主に喋るのはキイの役割で、俺はひたすら聞き手にまわっていた。たまに質問されたら答えを返す、といったキャ
ッチボールが何度か繰り広げられた。
ふとキイは時計を見遣った。時計の針は正午をとうに過ぎている。
「もうお昼だね。シキトはご飯、どうするの?」
「天乃淵先生、って分かるよな。その人に頼もうかなと」
「ふーん」
神妙な面持ちで、彼女は頷いた。
ふと、その時に院内電話が鳴り始めた。俺が取るわけにもいかないので、キイが電話に出た。
「はい何でしょうか……えっ、音を大きくですか? あ、いますけど……」
キイはちらっとこちらを見てから、受話音量を上げた。
電話の相手は響さんだった。
『式人君、聞こえてるよね? お昼ご飯についてなんだけど、外で食べてきて。五年振りの街は、まだ見てないでし
ょ? あ、キイちゃんも連れてってあげてね。分かったかな? そいじゃーね』
ぷつっ、と電話は切れた。
「……まったく。用件だけ言って一方的に切るなんて―――」
なぁ、と同意を求めようと、キイのほうを見た。
だが、
「どうした? 目の焦点が合ってないけど」
俺の声でキイは我を取り戻したように、ゆっくり話し始めた。
「……外で食べる、って」
「だから外は外だろう。下の街まで行くんだろ?」
当たり前のことを、俺は口にした。
「ホントに? 嘘つかないホントのホント?」
「嘘ついてどうするんだよ」
一瞬の沈黙。
突然だったので俺は戸惑ってしまった。何か、カンに触るようなことでも言っただろうか、俺は。
しかし次の瞬間には、途端にキイが飛び跳ね回った。
「わーいやったやった〜っ! 外だ外だ〜っ!」
キイは遊園地に行くかのように、はしゃいでいる。
……ああ、そうだ。彼女は七年間、外に出ていなかったのだ。いきなり出られる、なんて言われても実感がなかっ
たのだろう。
その喜びは、俺には想像もつかない。
おっと、そういえば聞き忘れるトコだった。
「どうしてキイを護る、なんてことになったんだ? キイは何かから狙われてるのか?」
うん? とキイは首を傾げた。
「何かって何?」
「いや、例えば……その、悪い奴等とか」
……二十歳を過ぎてなぜに悪い奴等、なんてセリフを吐かなきゃならんのか。自分の人生に一抹の疑問を抱いた。
「ううん、そういうのじゃないけど……いいじゃん、別に。それより早く外に行こうよっ!」
キイは俺の片腕を掴んで上下左右に振り回している。
もはや待ち切れない、といったようである。
……まあそんなものは追々分かるのだろうし、知りたいなら後でもう一回、聞けばいいだろう。
今は何より、キイの笑顔に応えたかった。
門番の言う話では、どうやら病院の右手には全天候型のエスカレーターがあるらしい。どうしてそれを響さんは俺
に教えなかったかについては、後で追求しよう。
さて、街に行って昼飯にする、と目的は定まっているが、俺自身5年間も日本から離れていたので、記憶が心もと
ない。
しかも、わずかな記憶を辿ると街中にはそういう店は少なかったし、あったとしても法律に触れるくらい不味い。
五年間も記憶に残るくらい。つうか、美味しく作ろうという気持ちが欠如している。絶対。
なので少し遠出することにした。
正式な依頼なのだから、電車賃くらいは必要経費で落とせるだろうし。出し渋るヒトではなかったし、響さんは。
キイは隣でスキップなんぞをしながら歩いている。病院用の服から着替えたのだが、着替えた後の服の色も白色な
ので、代わり映えはしない。寒そうに見えるが、当人が寒さに強いので大丈夫なようだ。鍛えたらしい。寒さに負
けない体を。
「あっ、もしかしてあれが駅なのっ?」
大通りに沿って進んでいると、キイは前方の建物を示した。
「そうだな、うん。あれが駅だ」
看板に燈火駅、と書いてある。俺の目は比較的、いいほうに分類されるからまず間違いない。
「ほらほらぁ、早く早くっ!」
いつの間にかキイは俺の前を行っている。くるくる回転しながら歩くその様は見ていて危なっかしいが、同時に可
憐でもあった。
苦笑しながら、俺は小走りにキイの近くへと駆け寄った。
そこまで来ると、駅はもう目の前だった。
駅は閑散としていて、田舎の駅の代名詞だった。ちらほらと降りてくる人や乗る人がいるくらいで、活気なんて微
塵もない。あえて活動的だというなら、駅の階段の下、無許可で居住して商売してるホームレスがそれだろう。
キイは階段を一段抜かしで駆け上がっていく。病院に長いこと入院したはずじゃないのか、と言いたくなるくらい
だ。
急かされるのは目に見えているので、一段抜かしはしないがなるだけ速く上った。
「それでどうするの、シキト?」
「どうするもこうするも……切符を買って電車に乗るんだが」
「キップ? デンシャ?」
……まさか。
「もしかしてキイ、電車のこと知らないのか?」
「むっ。そうよ知らないよ、デンシャなんて」
そこまで箱入りだったとは。七年間閉じ込められていたとはいえ、単純計算で十歳までは病院にいなかったはずだ。
それなのに電車を知らない、と。
俺は手短に電車とこれからについて説明した。
「つまりこれから電車っていう乗り物に乗って、隣町に行ってご飯を食べるの?」
「そういうことだ。ほら、そこのボタンを押して」
言われるがままに、キイは130円のボタンを押した。
「おおっ、何か出てきたよシキトっ」
「それが切符だ」
キイは二枚の切符を取り出して、一方を俺に渡した。改札口で―――予想はしていたが―――キイは混乱していた。
俺が手本を見せてやると、キイは真似をして、改札口の通り方を理解したようだ。
降りたホームにはまったく人がいなかった。駅員くらいはいてもいいと思うのだが、気配は一厘もない。
電車はそこまで待たなかった。運良くすぐに来た。
「あれが電車?」
キイは俺に尋ねてきた。
「そうだ。あれに乗って行くんだ」
へぇー、と感心するキイ。
……今思ったのだが、これは幼児期の子供と交わす会話ではないだろうか。
何となく気恥ずかしさで、キイから顔を逸らした。
「いよっと」
掛け声と共にキイはホームから飛び降りて、
…………………………………………へ。
……飛び降りた、だと?
空間が停止して見えた。
その中で線路に向かっていく影が―――
(んな、何考えてんだっ!)
無我夢中でホームを蹴った。幸い、キイは難なく線路に着地している。電車のけたたましいブレーキ音。だが、そ
れでは間に合わない。
俺はキイの服の体を掴んで、線路に下りると並行にして地面をあらん限りの力で、腓腹筋と大腿二・四頭筋を収縮
させて跳躍する。キイを抱え込んだまま転げる。
受身なんて二の次でキイの安全を最優先させた。それは契約であったからでもあるし、彼女の洋服を汚したくなか
ったからでもある。
どうにか三回転半で止まった。
俺は心の中で安堵のため息をついた。
次いでキイのほうは……気絶もしていないし、汚れも少ない。良かったことは良かったが、言及することは山ほど
ある。
しかしこのまま留まっていれば、いずれ駅員が駆けつける。
一悶着起こる前に俺はキイの手を引いて、その場から逃げた。
「ちょっ、ちょっとシキト、電車に乗るんじゃ―――?」
何だか文句を言っているようだが無視。今は一刻も早く、この場を離れるのが最善だ。
走りながら、俺は叱る内容を考えていた。
(これじゃ本当に親と子供じゃないかっ)
俺の思考も、中々にズレ始めている。
だから今の俺には雪が止んだなんて、知覚の範疇外だった。
―――どうにかこうにか、両方とも生還した。
キイを病室に送り届けて、真っ先に響さんの部屋に向かった。
「あら、式人君。どうだった、五年振りの町並みは?」
響さんは週刊誌を読みながらスナック菓子をつまんでいた。
勤務時間だろうが休み時間だろうが、お菓子を食べ続けているように見えるのは気のせいだろうか……?
……って、違う。今はそんな話をしにきたんじゃない。
俺は「時間、空いてますか?」と一応の承諾をとった。返事がくる前に、ソファに腰掛ける。
「そんで、どったの?」
響さんはイスを動かして、俺の前へやってきた。
ぱりぱり。
「あのですね、あの子のことなんですが」
ぱりぱり。
「あいつ、何かやけに常識がないんですよ」
ぱりぱり。
「だって聞いて―――」
ぱりぱり。
「…………」
ぱりぱり。
「人が話をしている時は食べないでくださいっっっ!」
俺は大声で怒鳴った。
えー、と不満の声を上げる恩師。
「えー、じゃないですっ。ちゃんと聞いてくださいよっ」
「あーもう、分かったわよ。キイちゃんがどうかしたの?」
気だるそうに、響さんは髪の毛を掻いた。
俺は一息大きく息を吸って、
「だからあいつですよあいつ。何だってあんなに常識がないのか問い詰めたくなるんですよ。だって今日だけで死に
そうな事故未遂が十回ですよ? 駅のホームから一回飛び降りて車道に四回出て歩道橋から三回身を乗り出して自転
車の前に二回立ちふさがって……一回なんか、八歳くらいの子供の前に飛び出したんです。下手をすればあっちが死
んでますよ、まったく」
そこまで語り終えて、一段落がついた。
響さんは考え込むようにして、口元に手を当てている。
「ふむふむ……じゃあこの依頼、降りる?」
冗談を。一度受けたからには、最後までやり遂げる。
俺は首を振った。
「だけど何だって、あんな」
あんなことをするのだろう、と皆まで言う前に響さんは疑問に答えた。
「彼女はね、要するに好奇心の塊なのよ」
「好奇心……ですか」
ありえない話だが、納得はいく。終始、キイからは邪気めいたものは感じられなかったし、滅茶な可能性ではある
が、俺もそれは考えていた。……そういう奴は、確かにいた。
「そう、純粋な好奇心なのよ。純心無垢だからからこそ、彼女は外に出せなかった。外に出したら、たちまち事故を
起こして死んでしまうと思ったから、ね。でも、今は貴方がいるから大丈夫だろうって」
……つまりは、あれか。さっき響さんが言い渋っていたのは、『口で言うより身をもって』ということだったのか。
「……まあ、それが依頼の一つですからね」
今できるのは、精一杯の虚勢を張ることだけだった。
響さんは今度こそお菓子を置いて、俺に話しかけてきた。
「そいでどうだったの? 色々とあったんでしょ?」
「ええ、だから色々あったって―――」
「違うわよ。キイちゃんと、よ」
「は……キイと、ですか」
そこで響さんは面白い動物を見つけたように目を細めて、「はは〜ん、なるほどね」と、嫌な笑いを浮かべた。
「もうお互い呼び捨てなのね。いや〜さすがアメリカ帰りは格が一味二味違うね〜」
「なっ、なに言ってんですかっ。そんな別に……」
「否定しないトコを見ると、本当なのかな〜?」
ずい、と響さんは身を乗り出してきた。
瞬時に俺は悟った。これは泥沼だ。もがけばもがいた分だけ深みにはまっていく。逃げ道はどこにもない。
なら、いっそのこと、自分から落ちてやる。
「ええはいそうですよっ。悪いですかっ?」
俺はプライドを捨てて開き直った。
響さんはそんな俺を見て、腹を抱えて吹き出した。
「あははっははっ! 式人君、耳まで真っ赤にすることないでしょうにっ!」
その後もしばらく、笑い声は収まらなかった。
……いっそ殺してくれ。
「ああ笑った笑った面白かった……それで、キイちゃんとは仲良くなったのね?」
「それなりには」
俺はそっぽを向いて返答した。
「じゃあファースト・コンタクトにしては上出来じゃない。お互いを呼び捨てなん、だから、」
後半部分は笑い声が入っていて、本人自体、なにを言っているか分からなかったと思う。
「まあその話は置いといて。貴方、今夜はどこかに泊まる予定とかある? 事前に民宿をとっといた、とか」
「いえ特にありません。何しろ急な話でしたし」
「そっか。んじゃ、決定ね。ここに泊まりなさい」
響さんは床を指差した。キイの護衛という名目上、ここに宿泊することには特筆して異存無かった。
「病室は余るほどあるし……あ、でも一応、キイちゃんとは別室ね。不本意かもしれないけど」
「そんなわけないでしょうがっ!」
…………。
今日の自分は、どうも振り回されている気がしてならない。
部屋についてはキイの部屋のすぐ隣、という形で決定した。
「夕ご飯は食堂で食べてきてね」
響さんは本来の職務に戻って、薬の調合を始めた。長々と居座るのもアレなので、俺は退室することにした。
「分かりました。では、失礼しま―――」
「あ、病院の中、見といたほうがいいよ。広いから迷うと大変だし」
一理ある話だ。こうも広いと、万が一にも迷ってしまったら自分の部屋にたどり着けないやもしれない。
「そうですね……でもいいんですか? 病院内を勝手に散策してしまっても」
「いいのいいの、気にしないで。『天乃淵先生がいいって言ってました』って言えば一発だから」
「そうですか。じゃあ、そうさせてもらいます」
〜〜〜 † 〜〜〜
バタン、とドアが閉まった。
彼は忠告に従って、院内を巡るようだ。広いことは広いが、彼女の助言には別の意味も含まれている。どうやらそ
れには気付かなかったようだが、いつかは判るだろう。
「純粋な好奇心、ね。我ながらよく言ったものだわ」
彼女は肩をすくめた。
「それだけが敵ならどんなに楽なんでしょうね。ただ単純に、護り続ければいいんだから」
先ほどの彼女とは打って変わり、暗い影が付きまとっている。それは自責であり、後悔でもあった。
彼女は机の隅に伏せておいた写真たてをひっくり返した。
若い男と女、それに少女二人が仲良く手をつないで写っている。ありふれた、日常的な、一枚のスナップ写真だっ
た。
「……これで終わりにしないと」
その写真を見据えて彼女は今一度、自らの決意を表明した。
〜〜〜 † 〜〜〜
時刻は回りに回って午後9時。
最終消灯時間は10時とか言われたので、今は暇といえば、暇である。この病院の施設は退屈しのぎとは完全に無
縁であると夕方の探索で判明している。やることは特にない。だったら寝ればいいだろう、とは尤もな意見だが、
目が冴えてしまっているためその内なる提案は黙殺した。
ところで、キイはさっき俺に謝ってきた。
ともすれば言っている内容を聞き取れないくらいの小さな声だったが、どうやら昼間のことで、俺が怒っているよ
うに見えたらしい。
俺が「怒ってないって。だから心配するな」と頭を撫でてやったら、いきなり飛びついてきた。こんなところを誰
かに見られたら厄介……って思ったら申し合わせたように周囲は静まり返っていた。
ふむ、今日の教訓は『不用意な行動、言動は避けるが吉』に決まりだ。
「……今日は仏滅、かな」
自室のベッドの上に寝転がって、一人独白した。
今日という日はなぜもこんなに波乱万丈だったのか。帰国してからすぐに死と隣り合わせ、みたいな日常に遭うと
は、考えてもみなかった。
そのハプニングの最たるは、やはりキイだった。彼女がいると俺の周りの運勢は得体の知れない力に動かされてい
る。
さっきの食堂でもそうだった。
一緒に食べようと誘われて行った食堂、ラーメンを頼んで、頼みもしないのにキイがコショウをかけようとして中
蓋が外れてて……その先は思い出したくない。思い出しただけで、のどの奥がヒリヒリしてくる。
―――今日の反省会を兼ねたモノローグ。
一まとめにして一言でいうと、だ。
「……普通な場所に帰ってきたんだな」
そう、もう肉と肉で争い合い、血で血を洗い流す剣林弾雨とは無関係な土地に帰ってきたのだ。
そこでは開眼した聖人君子の倫理もお告げも、横暴と欲望にまみれた権力も無意味だった。あるのは純粋な力のみ。
そこに存在を許される事象は戦のみ。
大を助けるためには仕方なく、小を切り捨てた。小を助けるためには言い訳をせず、大を蹴散らした。
戦いの果てに失っていくモノがあっても、前進以外は死へとつながる一方通行。たとえ前進に前進を重ねても、虚
無という陳腐な一文字につながっていく仲間がいた敵がいた人間がいた。
……いや、人間なんて既にいなかった。
食料がないなら食料を作るしかない。なるほど、霊長類の頂点に立つ人類、論理的な思考だった。
だから、道徳をことごとく破壊した。
彼等は戦闘で傷ついた人間の中で、傷の非道い人間を下から何名かを殺して、その肉を焼いて食った。塩コショウ
をまぶして中火で焼いてお好みで他の調味料をかけたりして、食べた。中にはそんな行為を否定する者もいた。お
前達は人という種に存在を許せるモノではない、と熱弁していた。彼は次の日、凶刃に倒れ、今日の晩御飯リスト
に選ばれて殺された。
あの時の彼は、もしかしたら自分からリストに選ばれようとしたのかも判らない。せめて人間である間に、日常を
断ち、地獄で人類の咎を清算しようと、自ら先陣に立ったのだろうか。
「あー、もう止め止めっ。せっかく帰ってきたんだから」
そんな自分の後ろ向きな思考にケリをつけた。カンマではなくピリオドで、回想の終わりとした。
時計は10時近かった。正確に言うと、9時52分だ。
そろそろ寝よう。明日は今度こそ隣町に行こう、と我がお姫様が申されたので、今のうちに体力を回復させておこ
う。
電気を消すために布団から起き上がり、スイッチを切る。やけに暗かったが、まだ雲が上空で留まっているのだろ
う。一応は雨のときの予定も立てておこう、と思った。
ベッドに入り、布団を被った。
刹那、
体中を駆け回る、悪寒を感じた。
しかも悪い予感程度の問題じゃない。さっきの記憶の再生もあって、この感覚が何であるか、はっきりと分かった。
(これは戦場の殺気だ―――)
生きるか死ぬか。
その領域だけで語られる、現実外の汚濁した思念。
一瞬でそれを察知して、俺もその領域へと自らを拡張した。
相手が出てくる気配はない。
持久戦になりそうだったが、有難くもここは病院の中だ。
こちらの殺気を感じ取れるくらいのレベルだろうから向こうは迂闊に手を出せないし、かといってこのまま時間が
流れれば見回りにきた誰かが―――
……無差別に襲うとしたら?
その可能性に思い当たり、自分の生易しい考えに腹が立った。
相手の正体が分からぬ以上、こちらも迂闊に手は出せない。
そして病院内の人間を無差別に襲うのが目的だとしたら、こちらは手を出さざるを得ない。
ここで分が悪いのは、相手ではなく俺だった。
時計の秒針が動く音がやけに大きく聞こえる。さながら心拍の音のように、規則正しく。
体感時間は10分を越えている。
いつまでたってもラチが開かないんなら―――
(無理矢理にでも開けてやる……っ!)
俺は一足飛びにドアへと飛び、ノブを捻る。思いっきりドアを開いてその反動で後ろに下がった。
そして五年間、ずっと肌身離さず持ち歩いていた相方、
右を『新月』
左を『望月』
二つで一つ、左右対称の三日月形の双剣を腰から引き抜いた。
―――そこで殺気が霧散した。
ドアの前に立っていたのは……月明かりを後ろに受けていて、顔がよく見えなかった。だが、少なくとも男ではあ
った。
段々と光に目が慣れてきて、
「……警告する。明日にでもこの地を去れ。さもなくば災禍が巻き起こる」
高慢な口調で、彼はそう言った。
「これは予言であり、預言である」
それだけ告げてから男は後ろの窓から逃げた。
ようやく回りの病室も騒ぎ始めたが、もう全て終わっている。
後に取り残された俺は双剣をしまってから、つぶやいた。
「……なんだったんだ、今の」
そう思うほかはなかった。
最後に見た横顔は男ではなく男の子のそれで、ここは3階。まず普通に考えて、助からない。にも拘らず、
ただ、脳裏を嫌な予感が横切ったのだった。