1:護衛対象

 

久し振りに帰ってきたこの国は、やはり薄汚い空気が似合いすぎていた。

「……ふぅ」

空港から出て、バスのターミナルに座り、一息つく。空港内の天気予報では正午から雨、となっていたので

なるべく早くしたいのだが、時刻表は変えられない。

そうこうしている間にも数時間前まではそこにいただろう、青い空と白い雲が灰色に塗り替えられていく。

俺は特に何の感慨もなく、その様を見続けていた。

(本当に久し振りだな……)

単身で外国に渡り、はや十年。

歩いた地面は数知れず、見てきた国々は記憶可能な量を遥かに超えている。

慕われたり、親しまれたり、憎まれたり、恨まれたり。

そうやって生きてきて、結局はここに戻ってきた。

思い起こせば、単なる確認だったのかもしれない。自分の場所はここしかない、というやけに途中式の長い証明。

にしても展開していく上で何度も死を示す符号が入っているとは、なんともまたギリギリな問題だ。

しかも得た解答が原点回帰とは。

分不相応、とでも言っておこう。

やがてバスが到着した。中からわらわらと、人並みがあふれ返る。全部通り過ぎてから俺は乗車した。カードを

機械に通して、一番奥の一番広い席に陣取る。

発車します、という業務文句を一言吐いてから、バスは空港をあとにした。

やけに荒いエンジン音がしたが、そこまで税金が回らないのだろうから無視しておく。

俺はバッグパックを下ろして、中から一枚の紙切れを取り出した。四つ折にしたその便箋用の上質紙を開く。

 

『や、こんちはだね。元気にしてた? 日本語忘れてない?

  まあ貴方に限ってそんなことはないだろうという前提の下、書かせてもらうから、そこら辺はご愛嬌。

本来ならこっちの最近のことでも書くべきなんだろうけど、時間がないから却下していきなり本題ね。

実はお願いなんだけど、日本に帰ってきてくれない?

ちょっと頼みたいことがあるのよ。

詳しくは貴方がこっち来たら話すから。地図も入れといたし大丈夫よね、うん。

そんなわけでよろしく〜〜〜』

 

日本語忘れてるのはそっちだろ、とツッコみたくなるくらいの突飛な文章。おまけに俺が日本に絶対来る、という

第二前提が加わっている。

これを読む限りは、どこぞの阿呆のたわ言に聞こえるのだが、この人の名前は知る人ぞ知る偉大なる名前だ。

遺伝子工学の権威にして、総理大臣と同じレベルの政治的権力を持てるはずなのに、辺鄙な病院で研究を続ける酔

狂な変人。

彼女の名前は天乃淵響。

今にも天に召されそうな名前だが、本人曰く「う〜ん、楽しそうだからもう少し生きてたいわね」だそうだ。こん

調子だから放っといても大丈夫だろう。

で、そんなお偉いさんとどんな因果があって俺が知り合いになったか、というと簡単である。

俺は彼女の実験体だったのだ。

とはいっても自分から志願したわけではない。選択肢が他になかったからそうしたに過ぎない。

だがあの時、俺が首を横に振っていたら、どうなっていたか。

(ちょっと考えたくないな)

多分、絶望の果てに、自らの身を果てさせていっただろう。

だから選んだ道は正しかった。

ちょうどその運命を分けた場所の近くを通った。窓の外を流れる風景の一部分に、人ひとりが入るには狭い山道入

り口が、変わらずに、そこにあった。

「化粧坂前〜、化粧坂前でございます」

車内アナウンスが響く。

危うく聞き逃しそうになったが、手紙に同封されていた地図によるとこのバス停で降りるようだ。

バッグパックを背負いなおし、乗った時と同じようにしてカードを機械に入れた。

「はい、ありがとうございました」

形式上の挨拶を背に受けて、俺はアスファルトに降り立った。

すぐそばには急な山道がある。紅葉の季節になると、風に吹かれて落ちてきた葉がこの坂道に集まるため化粧坂、

という名前がついたらしい。

残念ながら、今は季節上、冬以上、春未満なので彩りはまったくもって皆無だった。

道なりに10分ほど歩けば病院につくようだ。地図の隅に書いてある『ここ試験に出るよチェック』を信じれば、

だ。

もちろん、試験なんて言葉に意味はない。

あの人の享楽だろう。

そろそろその筋の病院に行ったほうがいいと思うのは、悲しいことに俺だけのようだ。大多数は諦めているか、呆

れ返って物も言えないのだ。

……べつに俺を騙したって得するワケでもあるまいし、ここは信じていいはずだ。

信じていいはずだが、おいそれと信じきれない辺り、俺の彼女に対する人格認識が固定されていることが分かる。

というより、疑わざるをえない。

何故なら彼女のおかげで俺は十年間の放浪生活と張り合えるくらい、九死に一生得た回数が多い。もしかしたら完

全に勝っているというケースも考えられる。

だが贅沢は言っていられない。早くしないと昨日から一口も食べ物を通していない胃袋が収縮しそうだ。

脳内で論理的な思考を始める。

背に腹は変えられない……@

腹が減って今にも死にそう……A

病院には食事くらいある……B

@、A、Bより当然、山道を登り始めた。

 

……今日は4月1日じゃないはずだ。

いつから日本はいつ何時でも嘘をついていい、なんてなったんだろうか。

予定到着時刻より20分ばかりは長い道のりを歩き、ようやく病院に辿り着いた。病院自体はバリケードみたいな

隔壁に覆われていて、中の様子はうかがい知ることはできない。

入り口のゲートには関所みたいなものがあった。警備の人が扉を守護する兵士よろしく立っている。

俺が近寄ると、

「待て、名前と用件を言え」

と、腰から引き抜いた警棒をのど元に突きつけてきた。

俺は問われたことだけを簡潔に答えた。

「名前は泡沫式人。天乃淵響女史に呼ばれて来た」

門番は一瞬目を丸くすると、警棒を下げて、一礼した。

「ようこそおいでくださいました。響様もお待ちになられております」

……うん。

さすがは彼女の警備にあたる者だ。完全にジキルとハイドを演じきっている。

「先ほどの無礼、お許しください。一目見ただけでは……その、写真とあまりに違っていましたので」

ああ、十年前に比べると結構違うかも。

本人もこうやって自覚するくらいだし。

「いえ、気にしていません。それより響さんはどこにいるか分かりますか?」

「この時間帯でしたら、自室の方に。東棟の二階、一番奥の部屋がそうです」

「分かりました。どうもありがとうございます」

俺が行こうとすると「あ、少々お待ちください。扉を開けますので」と言われ、引き止められた。

数分もしない内に観音開きに、扉が開いた。

その中に入ってまず感じたのは、大きい、ということだった。

噂には聞いていたがまさかこれ程とは。東京ドーム1、2個では飽き足らないだろうし、多分、3個くらいでちょ

うど等号関係が出来上がるくらいだった。高さは国営の病院とあまり変わらない。

門番も言っていたように、右に東棟があって、それ以外には左に西棟、真ん中に中心棟がある。直感的に例えるな

ら、細長い豆腐が横になって3つ並んでたっているかのようだ。真ん中だけは縦になっている。それぞれは渡り廊

下が各階に設けられていて、そこを使って他棟への連絡を取り持っているようだ。

とりあえず、今用事があるのは東棟だ。

東棟に入って、『来客用』と書かれた下駄箱に靴を入れた。近くにあった青いカゴからスリッパを一組、拝借。

さして方向音痴でもないので、道に迷う、なんてことは起こらず、さっさと一番奥の部屋までやって来た。

……が、いざとなると緊張してしまうわけで。

(お久し振りです……ちょっと固いなぁ。やあ、元気だったかな……違う、これはキャラと違う。……………沈黙な

んて一番駄目だし……)

色々とシミュレーションしていると、

がつん。

と、鼻頭にドアがクリーンヒットした。

瞬間、世界が反転して、俺の視界には一面に白い天井でいっぱいになった。

その領域の端に、彼女はいた。

「……貴方、何してるのよ?」

齢三十を超えながらにその顔立ちは二十そこそこ。

肌のつやも、下降期はまだまだの模様。

髪の毛は後ろで一まとめにしている。

着飾る、なんて言葉とは無縁なまでに白衣が馴染みすぎていて、人生の残り大半が決まっているように見えてくる。

命の恩人であり、恩師であり、何度も死に追いやった張本人でもある―――天乃淵響は少しも変わっていなかった。

 

 

「……なるほどね。大まかな流れでいうと中国行ってロシア行ってイギリスに飛ばされて、そんで何、アメリカと。

ほとんど主要な国は行ってるんじゃないの、貴方」

響さんはティーカップに紅茶を注いでいる。朝食後のリクエストで言ってみたら快諾してくれた。何事も言ってみ

るもんだ。俺の方はソファに座って待っているだけだった。手伝おうとしたが、紅茶を作る、なんてのに二人がか

りでやったら、余計に時間がかかりそうなのでやめておいた。

「ええ、まあ。そんな感じです」

俺は曖昧にうなずいた。

「ふーん。んで、この度無事に日本に帰ってきた、と。………はい、帰国のお祝い」

彼女は湯気が立ち上るカップを俺に手渡した。

「どうもです」

受け取って一口、飲んでみた。紅茶は入れる人によって美味しくなるし、逆もまた然り、と言うが、彼女は前者だ

った。

二口目へと続けては飲まず、一旦、机の上にカップを置いた。

「それでは、本題にいきましょう」

手のひらをひざの上で組んで、俺は切り出した。

「ん、本題って?」

真剣な口調は、しかしせんべいを噛み砕く音でかき消された。……ムードを壊すことにかけて、この人の右に出る

者はいないだろうな、と思う。

「ですから、本題は本題ですよ。説明してくれるんでしょう、俺を帰国させた理由を」

若干、怒りのこもった語調になった。

「分かってるわよ。分かってるから、そんなに怒らないでー」

「怒ってなんかいませんっ」

……ああ、俺はどうやら遊ばれているようだ。感情をうまい具合にコントロールされている。

そんな俺に満足したのか、ようやく彼女は話し始めた。

「あー、おっほん。そいじゃ説明するね。頼みたい事ってのはねー、貴方の腕前を見込んで依頼があるのよ」

彼女は回転式のイスから腰を上げて、窓際にある診察机に歩み寄った。

「依頼……というと?」

ううんとね、ええっとねー、と言いながら彼女は自分の机を漁り始めた。遺伝子工学の研究者なのだが、何故か薬

剤師の免許も持っていたりして、見たこともない薬が何錠か、彼女の腕に弾き飛ばされて俺の足元まで転がってき

ている。

探し物は見つかったらしく、彼女はイスを引っ張ってきて、机を挟んで俺の前に座った。

「この子なんだけどね」

そう言って、彼女はカルテらしきものを見せてきた。右上の写真には髪が長く、滑らかな頬のラインをした整った

顔立ちの女の子の顔が写っていた。

「この子を守って欲しいの」

「はぁ……この子を、ですか」

見たところ影もなく、明るい印象を与える顔つきなのだが、何かの事情があるのだろうか。それについて尋ねると

彼女は、

「それについては本人から聞いて。説明すると、長くなるし………あ、でも……まあいいや。その内に判るだろうし」

質問する暇を与えず、彼女は次の依頼内容にいっていた。

「あとね、この子に外の世界を教えてあげて」

「は、外の世界、といいますと?」

「うん、この子はちょっとした病弊でここに隔離されてた子なのよ。それで外の世界―――自分が今こうやって住ん

でいる街のことも分からないの。でも、そろそろ大丈夫かなぁ、って。そういう話」

彼女はそこでカルテを閉じた。

「でも、何でよりによって俺なんですか? 近くに依頼できる人間だっているだろうし―――」

「私は貴方の腕前を見込んで、って言ったはずよ?」

彼女は妖艶な笑みを浮かべた。気を許したら吸い込まれそうなくらいの、質量を伴った嗤い型。その顔が近づいて

くる。

「そうでしょう? あの『カムランの再現』戦争を乗り越えた勝利への先導者、『二本の絶対離反』さん?」

―――それは。

それは国境を越えて日本まで届いていたというのか。

「……っ。買い被りはよしてください」

「別に過大評価なんてしてないわよ。どうしたの、いつもの貴方らしくない発言ね」

そりゃあ、こうも近寄られては、さすがに、

「ちょ、ちょっと離れてくださいよ響さん」

「あらあら、どうして? どうして離れなきゃいけないの?」

このままだと理性的な人格が危うい。

なら取るべき行動は一つ―――

「ああもう、分かりましたよ。その依頼、受諾します」

一瞬にして彼女の顔は光り輝いた。

「うん、そうこなくっちゃね」

彼女は俺の前から離れた。

ふぅ……どうにか危険は免れたようである。

「……それで、その子の名前は何ていうんですか?」

「うーん、まあ、自分で聞いてみなよ。これもコミュニケーションの一貫だろうし……あ、」

何を思いついたのか、彼女は手と手を合わせた。

「今のうちに会ってきなさいよ。あの子ならこの時間帯には中庭にいるだろうし」

ほらほらと彼女は無理矢理、俺を立たせた。脇腹はどう鍛えても直らなかった弱点なので、そこをつかれるとイタ

い。

「中庭にはどうやって行けばいいんですか?」

簡単に道を教えてもらった。どうやら一階の奥、つまりはこの部屋の下に中庭に通じるドアがあるらしい。

「じゃ、行ってきます」

そうして出て行こうとした時、

「……ちょっと待って」

「はあぁ。まだ何かあるんですか?」

突き放すような態度を取ってしまった。けど十分振り回されたから、これくらいは当然の報い―――

「―――てあげて」

……え?

今、我が恩師は何と言った……?

 

「あの子を、愛してあげて」

 

―――それは悲壮な決意にも似た瞳だった。今にも泣き出しそうな目は、ただ直線的に俺を射る。

果たして、如何なる言葉でその中核を表せようか。

言葉に出来ない何かが、渦を巻いている。

その場で固まること数分、ようやく俺はいつもの軽口で、

「善処はしてみますよ。なるべくは。それじゃ」

とだけ言い残して、退室した。

 

さすがに表向きな名前では病院、とついているだけあって清潔面には文句の出しようがない。廊下はほとんど汚れ

がなく、空気も一定の湿度と温度が保たれている。

階段に差し掛かった所で、俺はさっきの言葉を思い出した。

―――あの子を、愛してあげて―――

「何の話だよ、まったく」

意味が分からなかった。恋愛感情とは本人が決めるものだし、第一、会ってもいない女の子を好きになれ、なんて

いうのは無理がある。

「……いや、命令なんかじゃないか」

そう、あれは乞い願う、といった感じだった。あくまで願い事なのだ。天乃淵響という、一人の人間としての。

それでも素直に受け入れられないモノがあった。

あの氷雨の約束を思い出す。

「誰も嫌いにはならない、そして誰も好きにはならない――」

俺の唯一無二、一つきりの矜持。

俺に課せられた、否、科した宿業と呼ぶべきロザリオ。

今までも守ってきたし、これからも守り通してみせるだろう。

でなければ泡沫式人が存在する意義は、消える。

……とまあ、気付いたら中庭への扉に着いていた。

ドアノブに手をかけて、開けるべきか否か、一瞬だけ迷ってしまった。

そんな自身に少し苦笑して、まだ緊張なんて大層な情緒を持ち合わせている大脳に一瞥をくれてやった。

ドアノブを回して、外に出た。

降水確率は十割に近い、なんてほのめかしていた天気予報は外れて、春が近いのに雪が深々と降っていた。

白く、白く。

中庭は一方を病院の外壁、もう一方を針葉樹で囲まれた閉鎖空間だった。閉鎖とはいえども、広大な敷地面積を誇

るこの病院、小学校のグラウンドくらいの大きさはあった。

その中心。ぽつん、と。

世界から取り残された影が両手を広げて、空を見上げていた。

俺は磁石に引き寄せられるように、その影がいる場所へ歩き出していた。無意識だった。足だけが動く。

あと数歩という距離で、俺は立ち止まっていた。

それを待っていたかのように―――

両手を下ろして、彼女は振り向いた。

「―――始めまして」

純白の雪に対して、その長き髪は漆黒。

「アナタが、そうですね。先生が言っていた人ですね」

漆黒に対して、その肌は純白。

「えっと、こんなわたしでも、」

その肌と衣服は相乗して真っ白で。

その場所は無色。

赤も青も緑も不必要。

だからこそ―――

「守っていただけたら、光栄です」

―――その微笑みにも、色は無かった。

 

そうして俺は再認識した。

俺が新たに守る女の子。

写真で見たときの面影は消えて、

相反することなく、空気に溶け込みそうな影は。

確かに、俺が護るべき人だった。