心配しないでいい。全然痛くないよ、指の、こんなにちっちゃい傷だから。


 外を眺めれば、午睡するには厳しい冬の日差し。モノトーンの今すぐ絵画にでもなりそうなありふれた光景。
 僕――安瀬叡一と其の悪友パスカル・フォン・メンツェルの二人は、鳥辺山家の縁側にてのんびりと昼下がりの穏やかな時間を過ごしていた。今日ばかりは冬の乾いた風も吹くのを止めて、幾許かの暖かさを取り戻している。
 見回せば周囲には、調べ物をしている時によくなる読み止し、開きっぱなし、ドッグイヤー、付箋、しおりを施された本やカタログ、辞書の群れ。
 僕は辞書を、パスカルはカタログと真剣な顔でにらめっこだ。次は何を教えれば良いのかと思案する僕に、パスカルはやおら云った。

「…………あのさっ、次はぜひコレを――」

 其のカタログは勿論デザイナー・ブランドの家具のもの。到底、“彼女”に必要な知識とは思えない。

「却下。家具の名前を覚えさせてなんになるのさ。椅子、机、箪笥とかで充分だろ」
「え、デモね、コレね、すっごく――」
「うっさい家具莫迦童顔独逸人。其れじゃ箪笥の角に頭ぶつけて死ね。きっと嬉しくて昇天出来るよ」

 嗚呼、本当は豆腐であったか。しかし豆腐に頭をぶつけても勿体無いだけだ。

「うう……家具に対してなんてヒドイ………しかも童顔は関係ないよッ!」

 自分のこと云うより先に、家具に対する暴言と取るとは相当の莫迦である。家具莫迦も此処まで来たら天災級である――そう、天災なのだ。
 まあ、そんな家具莫迦のくだらない話はさて置き、今僕らは二人して一人の少女の家庭教師をしていた。
 “彼女”の名前はクレメンティナ・カンテルリ・鳥辺山。鳥辺山の主に連れて来られたイタリア人の女の子である。
 世間のことに疎い彼女に、僕らは常識というものを教えなければならない。
 今日で教え始めてからはや三日、正直な感想としては白紙に色を塗る感覚、というのが妥当なところだろうか。
 話してみてわかったが、彼女は日常生活の伊呂波を此れっぽっちも知らない。シェークスピアの悲劇を読んで泣くことが出来ても、難しい格言を諳んじることが出来ても、ナイフとフォークの持ち方すら知らないのだ。
 まさに彼女は真っ白な紙。
 僕とパスカルは彼女に箸の持ち方からドアの開け閉めまで最低限のマナーを教える中、貪欲に知識を吸収していく彼女を眺めていると、水を吸う麻布を想像し、まっさらな紙に色を付けていくような気持ちになったのだ。
 そしてもし一度でも間違ったことでも教えてしまえば――暗い色で染めてしまったら、二度と戻らないような純粋さを感じずにはいられなかった。

「叡一チャン! パスカルチャン!」

 顔を上げて声がするほうを見れば、クレメンティナ其の人が此方へと駆けて来る。見た目は十代半ばぐらいにしか見えない少女だが、しかし彼女からは一般常識の尽くが欠落していた。

「クレミー、どうしたんだい? また森にでも行ってたの? 柏の枝なんて持って」

 こちらを見る大きくて丸い瞳を見つめ返して、僕は彼女に問う。しかしクレメンティナは其れには答えず、いきなりちょっとびっくりしたような顔になって云った。

「叡一チャン、怪我してるの!?」

 見れば、僕の指先からちょっとだけ血が出ている。先ほど本で切ってしまったのだろうか。こういった些細な傷は気付きにくい。気付いてから痛み出すものもあるくらいで、僕も云われるまで気付かなかった。

「嗚呼、大丈夫だよ。今拭うから」

 必要以上に心配してしまっているらしい彼女に僕は微笑んだが、クレメンティナの顔から強張りは取れない。寧ろ、顔を青褪めさせて今にも泣きそうな表情になっている。

「クレメンティナ……?」
「ダメよ!! 早くしないと、叡一チャン、死んじゃうわ! だって、だって、血が……!」
「クレメンティナ、心配しないで。全然痛くないよ、こんなにちっちゃい傷だから」
「………………ダメなのよ、死んじゃうのよ?」

 呆然とした表情になったクレメンティナはまるで、魂だけがいきなり抜け落ちてしまったかのように、其れだけ呟いた。
 其の手から、かさりと柏の枝が落っこちた。


 アタシは血を見るのが怖い。

 其れは当然なのかもしれないけれど、血が流れているのを見るとアタシは異様な怖さを覚えた。何故だかは、わからないのだけれど……。


 ペルケ・ペルケペルケ


 夏は、エネルギーに満ちている。生っていた実があっという間に熟れてグジュグジュになってしまうように。
 色には溢れているけれど、この暑さはキライ。夏の庭に立っていると、生きている実感はあっても、それは決して好ましいものじゃない。
 それは、アタシが冬に生まれたからだと思っていたのだけれど、最近何故だか、ソコから先を思い出すのが酷く怖い。
 近くに置かれた金魚鉢の中では、真っ赤な金魚が泳いでいる。ひらり、ひらり……まるで真っ赤なドレスを着て踊ってるみたいで。
 どうしてだろう、どうしてこんなに怖いのだろう?

「クレミー、どうしたの? なんかボーッとしてるケド……眠イ?」
「あ――ううん、なんでもないのよ、パスカルチャン。暑さの所為かしら? 少し頭がボーッとしちゃったのよ」

 心配そうに、アタシを見つめる二つの目。安心させる為にアタシは彼に微笑んだ。そして自分でも、なんてことのない、意味の無い不安なのだと何度も云い聞かせる。

「ホラ、今日はサイダー買って来たんだ。冷たくて、とっても気分がスッキリするよ」
「Grazie……うん、気持ちがイイわ」
「そう、良かったァ」

 冷たい壜は頬に当てると、心地良い。でもまだ気持ちは不安定で、落ち着かない。
 そうだ、ココはアタシの家だったんだわ。そんなことにも気付いてなかった。
 暑さと日差しの所為で酷い眩暈がする所為で、イヤな気分になっている。
 夏休みで、今日は折角久し振りにパスカルと、叡一が来てくれているというのに。
 頬から離した壜から、ポタポタと水滴が垂れる。水に浸して冷やしていたみたいで、いっぱいいっぱい雫が壜から滴り落ちてく。
 滴り落ちた水滴はやがて大きな水溜まりになって――?
 ああ、どうして、こんなに水溜まりが大きいのだろう?

「………………あ」
「クレミー、中身が零れちゃってるよ?」

 ぼんやりする視線の先で、パスカルが傾いていた壜を直してくれる。でも――零れた中身は戻らない。


心配しないでいい。全然痛くないよ、指の、こんなにちっちゃい傷だから。色をちょっと塗るだけなんだ。


「クレメンティナ、パスカル、消毒液知らないかい――どうしたの? 顔が真っ青だ」

 こちらにやって来たこちらにやってきた叡一が訝しげにアタシに問うた。片手にはカッター、そしてもう片方は――。

「エイイチ、ソッチの手、怪我してるよ!」
「嗚呼、此のカッター扱ってたら結構深くやっちゃってね。だから消毒探しに来たんだが」
「ひゃー、痛そうだねぇ……」

 叡一の指先からぽたりぽたりと血が垂れる。きっと放っておいたら血溜まりになる。

「叡一チャン! 早く、早く血を止めなきゃ!!」
「クレミー、どうしたんだい? 大丈夫だよ、此のくらい。まあ、消毒しないと――」

 血がなくなってしまったらどうなってしまうのかしらね?

「ダメよ!! 血が止まらなくなって、足りなくなったらどうするの!? それでそのまま死んじゃったら……!!」
「クレメンティナ、落ち着いて。僕は――」
「叡一チャンだって人間なのよ!? 血がなくなったら死んでしまう!! だってそれに――それにアタシのパパは」

 自分の血を絵の具にしてしまった。
 最初は、指先だけだったのに。いつの間にか、血が止まらなくなってた。足りなくなってた。


「叡一チャンだって、もしかしたら、もしかしたら」

 死んでしまったらどうしよう。
 ひらりひらりと金魚が踊る。赤いドレスを着た金魚が、何も知らずに。

「クレミー」

 不意にパスカルが後ろからアタシを抱き締めた。そう大きくはない、小柄な身体が、精一杯アタシを繋ぎ止めていてくれているかのように力強い。

「――あのね、去年同じようにエイイチが指先に怪我した時のコト、覚えてる?」

 本で切ってしまったあの傷。それだけで、アタシはとても怖かった。

「ソノ時キミは、カシワの枝を持ってたよね?」

 茶色になってしまった葉と、カサカサの枝。道端に落っこちてただけで、気まぐれに拾ったもの。でもどうしてそんなことを訊くの?

「アレはね、コノテガシワって云うんだ。コノテガシワの枝と葉は――止血のお薬になるんだよ」
「しけつ……?」
「そうだよ。血が止まるんだ。アノカシワ、薬になって残ってるんだよ? ソレを使えば血が足らなくなったりすることはないから、死なないから――」

 ぎゅっと強く抱き締められる。パスカルの心音が聞こえてきそうで。

「だから――もうどうか泣かないで」

 アタシも泣いてるけど、寧ろ涙声なのはパスカルのほう。
 どうして、そっちのほうが泣いてるのよ。
 二人で泣いてる中、叡一が頬を濡らす泪を拭ってくれた。

「ありがとう、クレミー。本当に大丈夫だよ。今、ちゃんと血を止めるから」
「…………うん」

 そのままゆっくりとアタシは、目を閉じた。



「其れにしてもよくあんなこと覚えてたな。薬の知識までお前にあったとはね。僕は知らなかった」

 差し込んでくる夕暮れが眩しい。抱き締めるなんて全く此の暑い日によくやることだ。しかし、今回ばかりは、感謝したいと、僕は思った。

「薬剤師の免許持ってても、知らないよ。アレは民間療法だもの。薬があるっていうのも、実はウソ」
「嘘吐くの苦手なくせに」
「ウン……でも、あんなにクレミーが必死だったから。ボクはアノ子の昔のコトとかは知らないけど、やっぱり、放っておけないよ」
「……お人好しめ」
「エイイチもね」
「僕は巻き込まれ体質なだけだ」
「そうだね! クロウニン臭は取れないってタカヒサが云ってたもんね」
「五月蠅いよ」
「う……」
「「!!!」」

 ぎょっとして、思わず二人揃って振り返る。
 背後ですやすやと寝息を立てるクレメンティナが、少し身動ぎをした。

「……静かにしようか」
「ウン」

 少し幼いクレメンティナの寝顔をちらりと見て、僕らは笑いあった。

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 二周年なのに独り辛気臭くてすいません!!!!!(平謝り) しかも長いかもッ!!
 当初はギャグだったのに、なんかいつの間にか辛気臭いっつーの!!!
 あわわわわ、独り浮いた話でごめんね! そしてつまらないよ!!!
 「ペルケ」というのは、イタリア語で「何故、どうして」という意味の単語です。

 以上、書き逃げ上等・号令点呼でしたっ。