ある春の日の昼下がり。

 

 駅に隣接、小・中・高校生の通学路、そしてこの街で一番品揃えも豊富、とここまで好条件が揃っていれば、

賑わっていることがむしろ必然であるはずの商店街の一端を成す八百屋には、

「…これはこれは、いらっしゃいませ。しかし客分を望むのなら、商品の一つでもご購入していただけるとありがたいんですけれど?」

 店番を務める、触れれば潰えてしまいそうな不安定さを孕んだ雰囲気をかもし出す、蒼眼蒼髪の男子

――伊賀奇創兵(いがき そうへい)と、

「グリーンティーは結構。稟々花じゃないんだから」

 手渡された湯飲みを簡潔に断り、店の真ん中、奥の部屋へと繋がる通路のへりに堂々と陣取っている、

鈴城紗央(すずしろ さお)しかいなかった。

 

「それにしても…。本来街を守るべき公僕とあろう者が、こんな所で油を売っていていいものか、疑問に感じますね」

 創兵は、『八百屋のいがき』と書かれたエプロンを外し、彼女の隣にすとん、と自然に座った。

「あら、店番はいいの?」

「貴女のお陰でこちらは商売あがったりです、問題ないでしょう。

別に、店番をする際には必ずこれを着けろと義務付けられている訳でもありませんし――」

 第一、警察に踏み込まれているような店に入る勇気がある人間はそうそういませんからね、と創兵は皮肉を込めて苦々しく微笑む。

 対して、紗央はあまり気にしていない様子で、

「あ、そ。…大丈夫よ、この町で起きた悪いことなんて自転車泥棒が3件くらいで、

それだって実はお隣さんが黙って借りちゃっただけでその日のうちにちゃーんと戻ってきたし」

 てんこもりに積まれている春キャベツを一つ持ち上げ、バレーボールのトスのように真上に放った。

重力に逆らえずに落下する玉をキャッチし、膝の上に置く。

「…それ、買い取ってくれるんでしょうね?」

「え、なんで?」

「…ここまで常識の乏しい人間に会ったのは久しぶりです。或いは、白昼夢であれば愉しめるかも知れませんね…」

「君に常識なんて言われたくないわね。アニメ君」

「あなたこそ、その格好は些か扇情的、いや、非日常的過ぎると思いますけれど?」

 ちらり、と臆面もなく春キャベツを――その下の見えそうで見えない絶妙な不可侵領域を覗こうとする創兵を、

「あら、あなたでも意外と気にするのね? そういうコト」

 大げさな仕草で足を組んでやることで、紗央はたしなめる。春キャベツは、元あった場所に放り投げられた。

 創兵は、意図を汲み取った意思表示として、諸手を上げて降参のポーズをとった後、

「おや、これは心外ですね。これでも、人並みのココロは残っているはずだ、と自負しているつもりですけれど」

 通り過ぎていく人々をぼんやりと眺めながら、おどけた口調でそう言った。

 紗央は、あからさまに興味なさそうにふーん、と応じた。

 

 しばらく、会話は特に交わさず外界のざわめきをのんびりと聞き入る。

 創兵は、何を言うでもなく静かに緑茶をすすり、

 紗央は、何をするでもなく時々退屈そうに欠伸を漏らす。

 

 と、閑古鳥すら近寄らない八百屋に、とてとてと足音が迷い込んできた。

「おや、ノワールかい。珍しいね」

 創兵は、来客に向かって白磁のような細腕を伸ばす。

来客は、それに触れたかと思うと一気に駆け上がり、彼の頭上に到達した。

「へぇ、なついてるのね」

 突然の来客――黒猫は、彼の深い藍色の髪の中で、毬(まり)のように小さく丸まった。

「いえ、彼は単に高いところが好きなだけです。とりわけ、揺りかごのように動いていると…ほら」

 創兵は、黒猫の爪が髪に絡まないよう注意しながら、

すっかり大人しく寝息を立て始めた黒猫を、「キャベツの代わりです」、と悪戯っぽく微笑んでから紗央の膝に乗せた。

「猫ちゃんか…丸々太ってて、食べ応えありそうね」

「…そこまでストレートで原始的な反応は、初めてです」

 創兵は、苦笑しながらゆらりと立ち上がり、音もなく歩を進める。

「そういえば…君って、他の人にもそんな敬語を使ってるわけじゃないんでしょ?」

「ええ、勿論です。いつもこの口調では、面白味に欠けますからね」

「ふぅん。…それじゃ、なんで今だけ敬語なの?」

 店を一歩出ると、さんさんと輝く新春の太陽が、にわかに活気付き始めた商店街をまんべんなく照らしていた。

 

「――成る程、サイコロは観察する角度によって数が変わるらしい」

 

「この前の話?」

 ずっしりと重い黒猫を撫でてやりながら、紗央は僅かに首を傾ける。

 創兵は、「おや、聞こえましたか」と小さく呟き、再び彼女の隣に座る。

「…そうです。サイコロが六面であることを知った人間は、ようやくサイコロを降る楽しみを知ることが出来る。

一つの面でしか捉えられない人間は、いつまでたっても一つの面と睨めっこ、と」

 「滑稽でしょう?」、と小さく笑った創兵は、遠くを見ているような澄んだ蒼い瞳で彼女の目を、その奥にあるものを捉えようとする。

「そう? 一つの面にだって、色々な楽しみがあるのかもしれないじゃない」

 紗央は、その視線を真っ直ぐ受け止める。

 

深い静謐が、さらりと吹く風になびいて穏やかに流れていく。

 

 やがて、創兵は観念したように天井を見上げた。

「ふむ…僕としたことが、少々急ぎすぎたようです」

 自嘲の笑みを漏らして、彼は掛け声と共に再び立ち上がる。

「そうね…。春なんだから、もう少しのんびりしてもいいと思うわ」  

「いえ、ヤボ用を思い出しました。レディを置いていく非常識、どうかお許しを」

 芝居がかった口調で言い、店を出た創兵は呟くように一言、

 

「――尤も、六面であることを知った人間でさえ、中身を覗くことは不可能ですけれど、ね」

 

 そして、雑踏の中に紛れて消えていった。

「…ホント、素直じゃないなあ…」

 率直な感想を述べた紗央は、黒猫の頭をふわりと撫でてやる。

 

 

 黒猫は、気持ち良さそうにうにゃぁ、と鳴いた。

 

 

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 ※後書きというか自己弁護※

 

 まぁあれですよ、敬語の創兵君、君は一体誰なんだい? という結論に落ち着きました。

 書いてる分には結構楽しかったりしましたけどね…とりあえず、自分的には満足です、はい。ビバ自己完結。