法廷はまるで死に絶えてしまった動物のように静かだった。傍聴席は次の瞬間には崩れ落ちてきそうなほどで、

法廷資料か何かの紙が散乱しており、その上に捨てられた木槌が一つ、退廃を示すかのように存在していた。

無理もない。司法取引やら国外逃亡やら電子潜伏やら、逮捕・裁判から逃れる為の様々な方法がある現在、有名無実化

した法律は文字通り機能しなくなってしまっていたのだ。

そんな中、被告席に立つ少女は物寂しげな雰囲気を漂わせていた。正確に言えば機械なのだが、精巧に作られた

表皮はその下に流れる幾つもの電気信号、鋼鉄の冷たさを感じさせない。

弁護側には誰もいない。検察側には誰もいない。裁判長すらいない。

それでも、少女はそこにいた。

 

「わたしは先日、ヒトの魂を不法洗浄しました。Cの百番台の、造形士の男です」

 

そう言いながら、少女はそっと魂の断片――フラグメントを差し出した。何の変哲もない小指の大きさほどの球体。

その中にオリジナルから分割され二千七百六十二分の一に薄められた、ヒトの根源が眠っている。

 

「我慢できなかったんです。痛覚を常時ONにされて、毎日のように暴力を振るわれて……。あの人はあえぎ苦しむ

わたしを見て、ひどく愉快そうに笑っていました」

 

壇上の下に設置された接続端子にプラグを差し込んで、少女は強奪したビジョンを投影した。サイバネーション

――情報を自在に圧縮・転送・書き込みができ、さらには情報それ自体にもぐりこむことのできるシステム。その

効率さから至る所で用いられてきたが、今ではあまり見かけない。中枢機構による完全管理社会の下では、情報など

あって無意味なものだからである。

ノイズを混じらせながらも辛うじて見て取れる映像では、同じ顔をした少年達が、これまた同じ顔をしている一人

の少年を私刑にしているところだった。

 

「あの人の潜在意識の奥深くに、これは横たわっていました。まるで古傷を隠すかのように……」

 

少女がコードを抜くと、途端に映像は途切れた。

 

「後悔しようとしても、もうすでに遅かった。胸中から核小体を、彼の魂を取り出したところで、わたしは彼の生涯を

知ったんです。

わたしは自分がインプリンティングの一つ、社会悪の排除に従ったんだと思っていました。でも実際は違った。

悪しきは別にあった。もちろん、彼だって無罪じゃないけれど……。やっぱり、わたしも罪を犯したのだと

思います。罪を犯したのなら、当然、裁かれるはずです」

 

異議も述べられなければ、待ったもかけられない静寂。

それでも、少女はそこにいた。

 

「けれど、ヒトに対して殺意を抱くという過去に例を見ない事態だとかで、わたしのAIは明日にでも回収され検査を

受けるらしいんです。何の謝罪の証も作れず、裁判を受ける権利もなく。

わたしはわたしを裁く事はできません。わたし達機械生命体には自殺という概念はありません。

教えてください。

――裁きは、わたしを癒してくれますか?

ヒトという種の延命に尽くすことで、わたし達は己を保つことが出来ます。

内蔵されているタンクを満たすことで、わたし達は充足を得ることが出来ます。

快楽という項目をフレームに組み込むことで、わたし達は擬似的にそれを体験することが出来ます。

けれど、わたしが今感じている渇きはいかなる手段をもってしても、拭える物ではないと思うのです。林の中の象の

ように歩いたところで、わたしはわたしを許容できないのです。孤独がすなわち贖罪であるはずがありません」

 

少女はただただ、続ける。

独白でしかない、告白を。

 

「わたしの罪に対する罰とは何なのでしょう。分解でしょうか。破壊でしょうか。それとも抹消でしょうか。

……いいえ、どれも大して恐ろしくはないし、いつかは迎えるものです。それでは不十分なのです。絶対的でなければ

ならないのです。

答えは一向に出ません。

わたしは死んだ後でも生き続けたいと思うほど、この世に執着はありません。遅かれ早かれ、わたしがこの体から消えて

なくなるように、命を分割しなければ生き永らえることのできないこのセカイもまた失われてしまうのですから。

それでも、わたしは裁かれないのでしょうか。

わたしはただ利用され朽ちていくだけの運命なのでしょうか。

わたしは……。

わたしは、自分がしたいと思ったことすら出来ないままにすべてを閉じてしまうのでしょうか」

 

そこで、少女は胸の核小体が痛むのを感覚した。

痛覚はもうOFにしているというのに、締め付けられているような圧迫感がある。それが転じて彼女のAIに電気信号を

送っているかのようだった。イントラ・ネットから自己修復マニュアルを展開してみても、その痛みの正体は掴めなかった。

これは何なのだろう。無視しようと思えば、押し殺せる程度で、微弱で、矮小で……。

ああ、これが悲しみというものか。

結論に至った時、彼女は自分を調べた研究員達が、感情がどうとか言っていたことを思い出した。

規格外の、判別できない何かの動き。

これが感情なのだろうか。

だとすれば、データによるとこの後、自分は泣くことになる。涙腺からあふれ出た分泌液が眼球からにじみ出てきて

頬を伝って床に落ちて――。

いや、違う。少女は気付き、愕然とした。

少女は涙腺を持っていない。必然、涙は流せない。

悲しみは――放たれることがない。

少女は『泣きたい』という感情を認識している。

しかし、行き着く場所がない。その感情を表現することはできない。

回路内に生じたエラーとして処理されるだけで。

喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみも、きっとそこに在るのに。

考えれば考えるほど、深みにはまっていく。

当然という思いと不可能という現実の狭間で、少女はこれが十字架なんだと悟った。

途切れてしまう因果の糸、道理が不整合になってしまう、その過程。

喜びたいのに、喜べず。

怒りたいのに、怒れず。

哀しみたいのに、哀しめず。

楽しみたいのに、楽しめず。

 

「これがわたしの罪に対する罰――なのですか」

 

答えない、誰も答えない。

少女はそうして、被告席から立ち去っていった。

 

その後、少女は感情を持ちえた機械生命体として注目を浴びた。彼女のAIは徹底的に精査されそれが決してルーチンに

何らかの理由で組み込まれた行動パターンではないと証明されると、機械生命体の権利はよりいっそう保護されるべきだ、

という論を構えるものが多く出てきた。それを黙らせるために、三権のすべてを取り締まる中枢機構は少女のAIの、

喜怒哀楽を持つ部分のみを消した。行動ログから擬似皮膚細胞に至るまで、余すところなく彼女の感情に関わった器官を、

そして形成された記号着地点をロンダリング――洗浄した。

一般に中枢機構の横暴とされた事件だったが、真実は若干、違っていた。

査察隊が強制侵入したAIの中で、少女が申し出たのだという。

自分を『洗って』ください、と。

もう耐えられないんです、と。

もう嫌なんです、と。

わたしの中の何かが痛くて、苦しくてしょうがないんです、と。

 

今が何年と数えるのも億劫となり。

魂を肥大化させることが可能となり。

ヒトはまだ醜くも生命を保ちながら。

ゆるやかにセカイを閉じていく。

 

少女はやがて新たな機械生命体として循環させられる。

その記憶素子に、もう感情は残っていない。

 

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まあ、あれですね。イタさ万歳、イタさハラショー、イタさマンセー。

この話は今回の部誌の前日譚、プレストーリーみたいなものです。

こっちのほうが部誌に載せたほうがまだ良いと思いましたよ?

もしかしたら自分、SSのほうが 向いているのではと思いましたよ?

いや、べつに誰も「異議あり!」なんて叫びませんよ?

期待していたそこのあなた、残念でした。

……なんですか、その目は。

いいじゃないですか! 北村弁護士マジギレだったんだからっ!!!!

あの風雲児、ネタ帳なんてこしらえていやがったんだから!!

裁判ネタを書きたくなったのは、そういうわけでした。ちゃんちゃん。