Q−ZAKUの
『珍説・考察ガンダム論』
『富野監督にとってのガンダム』
巷のガンダムトークでよくある会話の中に 『富野監督はガンダムを嫌っている』 という話がある。特にZ嫌いは有名、激論が白熱すれば、「F91はスポンサーと喧嘩をしてやる気を無くした駄作」だとか、「Vガンはシリーズを終わらせる為にあえて、めちゃくちゃな話にした」とか次から次へと飛び交う。いずれも富野監督にとってガンダムは忌み嫌う存在だと言わんばかりだ。
富野監督のガンダム嫌い・・・・それは、もはやガンダマーの間では定説であり、ゆらぎようのないものになっている。しかし私は言いたい・・・本当にそれは真実なのだろうか?
実は私はこれらの話に以前から疑問をもっていた。特に真っ向から反論したいのは 『ガンダムやる気が無い説』 はっきりいってこれは有り得ない。なぜかと言えば、駄作を前提とした作品を作るクリエイターなど、この地上にはただの一人も存在しないからである。富野監督はプロなのだ。そしてさらに言えば 『一匹狼のアニメ屋』 である。そんな監督にとってのガンダムとはなにか?・・・それは一言でいえば 『お互い持ちつ持たれつ』 の関係だと私は考えている。本日はそんな富野監督への考察をお話させていただきたい。ご拝聴ただければ幸いである。
人間は収入が無ければ生きていけない。食費、衣料、家賃、光熱費、はもちろんのこと、養育費、税金、年金、医療費などなどいくらでもお金がかかる。人は、お給料、報酬というものが無ければ生活は成り立たないのだ。
収入が無ければ生きていけない、それは富野監督も同じである。
富野監督はフリー作家である。自分を売り込む仕事なのだ。自分の力をアピールし、作品に参加させてもらわなければ収入がなくなる。それが作家というものである。
そんな、富野監督にとってガンダムの大ヒットとはなんだろうか?恐らくそれは、自分が築いた、誰もが認める 『実績』 だということである。
富野監督は大ヒットを飛ばしたアニメの生みの親。スポンサーにしてみればまさに 『金の卵を産む鳥』 として認められたわけであり、それも富野監督も自負できる立場になった。アニメ作家として、これほど心強い 『金看板』 はない。その後、富野監督は、さまざまなオリジナル要素を含んだ 『富野アニメ』 を世に送ることになる。これも大ヒットを生んだ作家という実績があればこそできたのかもしれない。
ガンダムの大ヒット後、巷には様々な富野信仰を生んだ。特に生命論とも言える 『イデオン』 は今だに強い影響力を維持している。トミノコ族なる言葉も生まれた。だが、富野監督は、あまりガンダムに対して 『いい印象をもっている』 というコメントはしていないように思える。
理由は実に簡単である。大ヒットを飛ばした作家が、その作品を自画自賛するということは、自分の『底』を見せるようなものだ。作家は大ヒット作品を指差し、「あれは私の実績です」 と言うことこそあれ 「あれが私の代表作です」 というのはあまりにも浅はかな行為である。作家は大ヒットを出した後、「私に仕事をさせればいつでもヒット作を作れる」 というアピールをスポンサーなどの出資者にしなければならない。「もう、あんなヒットは飛ばせません」 などにつながるイメージの言葉など吐かぬものなのだ。
ガンダムの大ヒット後の富野監督の目指す道は恐らく、『ロボットアニメに富野あり』 という確固たる地位だったろう。しかし、世に送る作品に支持が集まらず、ついに 『あれを作ろう』 という声が周囲から飛び交う。
『あれ』 とはもうお分かりだろう。そう、ガンダムの続編である。
富野監督がガンダムの続編を作るのに反対だったのは、当然である。理由は色々ある。まずは作品として魅力的に仕上げにくかった事。完結した前作を触りたくなかったということ。そして一番妥当な理由は、ガンダム作家になりたくはなかったということ。恐らくこれが世間の『定説』だと思う。
しかし、私はあえて言いたい。これらより実はもっと重要な理由があるのではないかと。それは・・・・・
自分が仕事をする上でバックボーンとなっている 『ガンダム』 という作品のイメージにメスをいれたくなかったからではないか?ということである。
スポンサーにしてみれば富野監督が否定しようとしまいと 『ガンダム=富野』 であり 『ガンダム=大ヒット作』 これが企業の持つイメージである。机の上で数字を追いかけている、企業家にしてみれば富野監督の作家性などに関心などなく、ようは数字を出せる人間なのかという視点でしかない。ガンダム=大ヒットというイメージがあれば、富野監督は作家としてのイメージも上がるし、仕事ももらえる。しかし、一度ガンダムという作品の続編に手をつけ、もし失敗してガンダムのイメージ、信用に土をつければ、それはすなわち富野監督のイメージを大きく損なう結果になる。ガンダムという作品のイメージ低下は富野監督の発言力そして自分が理想としている作家への道を遠ざけるものであり、そしてなにより仕事の量、今後の収入へと大きく関わってくると言えるのである。
富野監督が、さまざまなガンダム小説を書いているのも、それは単に収入だけではなく、ガンダム・ブランド=富野というイメージを保つためだということも言えるだろう。
さて、Zガンダムはご存知の通り 『低視聴率』 だった。これは監督がもっとも恐れていたいたことだと言える。しかも、次もガンダムが控えていた、ガンダムZZである。
ガンダムZZを作るにあたり、富野監督の打つ手はすでに決まっていた。それは、二大人気キャラ、シャアとアムロを出さないという手段である。当初シャアは登場する予定だったらしいが、恐らく富野監督には、その気は無かったと思うのが自然だと思う。ガンダムというブランドには傷をつけた、しかしキャラは健在である。切り札は手元に残しておけばいい。
結果的にZZはご存知の通り、かなり開放的な内容になっている。それは、ガンダムという呪縛から離れたアニメであり、その心境は容易に察する事が出来る。
さて、いよいよ富野監督は一連のシリーズ完結の劇場映画 『逆襲のシャア』 に手をつける。そしてご存知の通り、シャアとアムロの命日になってしまった。
富野監督はこの作品で、なんとしてもシャアとアムロを死なせなければならなかった。それは、ガンダムが自分から離れ、シャアとアムロが他人の手に渡れば、どんな結末にされるか、わからなかったからである。
つまり、ガンダムはシャアとアムロの物語であり、この完結の仕方次第で 『ガンダムブランド』 のイメージは大きく左右する。少なくとも自分のイメージ通りの結末を描きたかったに違いない。
富野監督は逆シャアの後にF91を製作するが、前作ほどのヒットはなかった。やはり人気キャラ無しでは苦しかったのかもしれない。しかし、内容は極めて高度であり、今見ても十分楽しめる。私が好きな作品の一つだ。手を抜いている、やる気が無いと言った意見を私は否定する。第一、やる気の無い作品を後のビデオ化に際して、わざわざ新たに描いたシーンを挿入したりするだろうか?
さて、Vガンについても同じことが言える。しかし、富野監督にとって前作よりプレッシャーがあった可能性はあったと思う。なにしろ、富野ガンダム以外で、それなりの成功を収めたOAVガンダムがあるのだから、ライバル意識もあっただろう。ここで本家の意地を見せねば、自分が築いたガンダムブランドは完全に自分から離れる。
しかし、これもご存知の通り、低視聴率に終わってしまった。
その後、富野監督はガンダムからの引退を表明する。
今まで、ガンダムと富野監督とは 『持ちつ持たれつ』 の関係だった。しかし、この時点で富野監督はガンダムを必要としない作家になっていたし、ガンダムも富野監督の手を借りる必要もなくなっていた。お互い持ちつ持たれつの関係はここでひとまず終焉したのである。
ガンダムは富野監督の作家としての実績を支える作品である。確かに、富野監督がガンダムを描くことは1stの実績を削ることになり、忌み嫌うところであろう。しかし、手を抜いた、やる気が無いという意見には同調しかねるのが私の意見である。
しかし、ここまで書いていて、まだターンAを観てない私・・・・
これを観れば、上記の内容がまた変わるかも・・・(おい!)