Q−ZAKUの
『珍説・考察ガンダム論・Vガンダム編』


『カテジナとシャクティ(二つの母性の対立)』

以前ガンダムエースで不人気投票なるものが行われたことがある。結果はワースト10中、トップの半分がZが占めるといった内容だった。さすがティターンズ、悪の凄みがあるというかZの存在感はやはり大きいというか、いずれにしてもこの結果は立派、悪役冥利につきるというものである。

しかしその悪の栄光、黒き勲章に砂をかけた人物がいる。一位のバスクには及ばなかったものの堂々二位に輝いた存在・・・・・

『カテジナ・ルース』巷での俗称は 「カテ公」 。Vガンはもちろんのことシリーズ最凶の女とも噂されるアンチ・ヒロイン。以前から気になっていた存在だが今回は、じっくり彼女の活躍をVガンダム観賞の際にみせて頂いた。

さて今回のVガンコンプリートの感想を簡潔に述べさせていただくと『Vガンダムはシャクティとカテジナの戦いである』 ということになると思う。

シャクティとカテジナの戦いとはどういうことか?と思われた方もいらっしゃるとおもう。しかし私はそう考える。いつも通り妄想的な内容を脱し得ない話、ご拝聴いただければ幸いだと申し上げたい。

ある意味人間の母性には2面性があると思う。子供を暖かさで包む 『やさしさ』。そして生きていく術、知識を教える 『きびしさ』。一見、相反している行為ではあるが子供を慈しむ行為であることには変わりは無い。

母性の本質とも共通するが先にも書かせていただいたように、女性的な精神は男性の無意識を支配している、または支配したいという欲求があると思う。全てのケースが当てはまるとは言えないが・・・。

『シャクティ・カリン』 若干11歳の少女。本作品の最大のテーマの一つである 『母性』 の象徴 「マリア主義」 の女王マリアの娘、そしてVガンダムのヒロインである。

シャクティに関しては色々言われている、賛否も多い。本来なら好感度NO1になってもおかしくない少女、現に「シャクティ命」「姫様最高!!」と叫んでいるファンも多い、しかしそれに比例して嫌いだという声もある。恐らく、余りにも「やさしさ」←(?)そして「母性」を前面に出しすぎた演出に反発も大きかったのだろう。

ウッソはよくモテる。甘え上手というか特にお姉さまたちにはモテモテである。すぐに抱きつかれる。理由は三つある。「ウッソが(色んな意味で)優れた子供であること、女性の願い(希望)に答える存在であること、そして母性に飢えている少年」ということ。

カテジナは当初ウッソにとって優しい女性として登場するがクロノクルとの出会いから変貌を遂げていき最終話には、ついに『ラスボス』にまで上り詰めてしまった。これには無理があると思う人も多いとおもうが、よく考えてみればこれは自然な流れなのだと感じる。このレールはあらかじめ引かれていたものなのだ。

ウッソにとってカテジナは一見、好きな人、憧れの女性という感があるが実際ウッソが求めていたのは『母性』だと思う。カテジナは強い母性の持ち主であり、その母性の本質は「威厳的なもの、しつけや生きる厳しさ」である。それはシャクティやマリアのような「やさしさ」的なものではない、もう一つの母性なのである。

よく言われるようにカテジナは 「マリア主義」 を勝手に解釈したという話がある、これは的中していると思う。さらに言えば、マリア主義を自分に当てはめたのだろう。そうなると、一体どうなるのであろうか?カテジナの母性は先に述べたように、『きびしさ』 である。つまり、カテジナは生きる為の緊張感が人類には足りないと結論付けたのではないか?(彼女は結果ギロチンなどの恐怖政治は必要であると答えを出した)

ウッソの精神を支配していたのは誰か、それは間違いなくシャクティである。ウッソの行動は全てシャクティの願望を具現化したものである。

そして、カテジナと行動を共にしているクロノクル、彼の場合は少し違う。彼は「マリア的な母性」 に支配されながらも、それを嫌った(というより、優しさを持ったままでは女王の弟という過酷な運命を受け入れられなかった)。結果、威厳的かつ、きびしい母性を持った「カテジナ」を求めたと考えられる。

カテジナがクロノクルの元に走ったのは、彼が優しさにしばられ、苦しんでいる姿が見えたからだ。彼は自分の『厳しさの母性』を必要としてる。そう直感したのだろう。

劇中ウッソとカテジナは戦闘を繰り広げるが、その度にカテジナは苛立ちをつのらせる。ウッソのフェミニストな戦いぶりは、カテジナが求めたものとは異質だったからだ。そしてその背後にあるシャクティの存在がカテジナにははっきりと見える。同じ女ゆえに・・・・

カテジナは、どんどん危険な方向へ進んでいく。あせりといらだち、それも当然である。最も母性を受け継がせたい人間であるウッソが、自分が教えた母性を否定し、シャクティの影を色濃く見せているのだから・・・・・。いっそ殺してしまいたいと感じていただろう。

物語の終盤近くになるとカテジナはほぼ、精神が異常をきたしていたと考えられる。それは、威厳ある母親という精神がペルソナを超えた状態であり、その欲求は暴走していたのだ。

彼女の暴走の最大の理由は「クロノクルの弱さ」だったと思う。いつまでも状況に流されているクロノクルを守る為に、カテジナは鬼母にならざるを得なかったと考えられる。

だが最終話、ついにクロノクルはウッソに敗れる。彼が最後に救いを求めた母性はカテジナではなく姉であるマリアだった。結局カテジナはクロノクルが生きていく上で忌み嫌った「優しさという名の母性」の代わりに彼が求めた、「生きていく厳しさの母性」を教える事ができなかったのだ。

後半部、細かく分裂し、再度集まったエンジェル・ハイロウにV2は足をはさまれ身動きが取れなくなる。そんなV2を前にカテジナはMSを降りて、詰め寄る。ウッソもコックピットから出る。対峙する二人。そして、お互いわだかまりを捨てて抱き合う。次の瞬間、ウッソに激痛が走る。カテジナのナイフがウッソのわき腹を突き刺したのだ。

「甘よねぇ」あざ笑い、MSに乗り込みV2にとどめをと、ビームを放つカテジナ。しかし、ビームは外れ、逆にV2をはさんでいる隔壁を破壊してしまい、ウッソは自由に。「何故はずれた!?」彼女は叫ぶ。

このやり取りは、カテジナに残された最後のチャンスだった。それはウッソを殺すことではない。怒りを教える為である。生きる厳しさを教える為である。シャクティの母性に打ち勝つ為である。ちなみにこの行為を行った時、もはや彼女は正気ではなかったと私は思う。

そして最後のクライマックス、最大、最後の山場、エンジェル・ハイロウの中核、対峙するウッソとカテジナ。ウッソは待ち伏せにあい、逃げ道はない。

どこまでも汚い手を使うカテジナ。彼女の望みは、自分が忌み嫌う母性に身をゆだねたウッソが感情のままにのた打ち回る光景だっただろう。否定された母性の怨念の凄まじさは計り知れない。だが、無抵抗にカテジナを見つめるウッソ。そして哀れみすら感じさせる態度に彼女は逆上する。次に瞬間、V2に人の意思が集中し、カテジナの一撃を光の翼が撥ね退ける。

カテジナは完全にシャクティという少女に敗北した。ウッソという少年が信じた、シャクティの母性に打ち勝つことができなかったのだ。

物語のラストシーンがそれを象徴していると思う。地球に帰ったシャクティは、盲目になり、さまようように旅をするカテジナに出会う。

気がつかないカテジナにシャクティは優しく接する。そして別れる。名乗ることもなく・・・・・・・・

訳もなく、涙を流しながら、故郷に向かうカテジナ。それを涙で見送るシャクティ・・・・・・・・

私は思う・・・・・・

この、ラストシーンは 『Vガンダム』 は、ウッソという少年をめぐり、ぶつかった二つの母性の戦いだということを象徴していないだろうか?

※相変わらず私はいいかげんなことばかり書いてます。苦情、反論については、どうか、どうかご容赦を(汗)


H16 8月24日 一部修正

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