Q−ZAKUの
『冨野アニメを語る』


『手塚治虫的宗教観・前編』

私は以前から、富野作品・・・特にZについてどうしても、あの漫画界の巨匠、手塚治虫の影が付きまとうと感じていた。そして、それは、「イデオン」に通じるものだということを・・・・。
本日はそんな心のどこかで思いつづけてきた、手塚的な独特の哲学、宗教観のお話をさせていただきたい。ご拝聴いただければ、幸いである。


手塚治虫は巨匠である。それは万人が認めるところだろう。しかし皆をこれほどまでにひきつける手塚漫画の魅力とはなにか?それは、手塚治虫独自の「哲学」「宗教観」が大きいと私は思っている。
では、そんな手塚治虫の宗教観とは何か?それは私が思うに、仏教をベースにした手塚治虫独特のもので、根本は仏教思想であるが、そこに様々なオリジナル要素が含まれているというものである。

まず、その前に仏教思想について簡単にのべさせていただく。本来の仏法の本質は、神は人間の中に存在し、生命は宇宙そのものである、そして、この世は正義と悪の限りない闘争の場であり、正義の本質とは、生命の尊厳を知り、それを守る為に戦うものであり、悪とは、生命を破壊し、尊厳を踏みにじるものの事を言う。そして、仏教で言う「正義」を貫くものは、宇宙的リズムに波長が一致し、徳が積まれ、様々な形で幸福境涯へと高まり、過去、現在、未来の三世永遠の幸福を手にする出来る。そして仏教で言う「悪」とは、宇宙的リズムの波長からはずれ、生命を含めた全てを破壊する衝動にかられ、結果的に自ら不幸への道を歩み、いずれ罰(地獄に落ちる)を受けなければならない、と解かれている。

ちなみに生命の尊厳というと、必ずでてくるのが、「人間は動物を殺して生きている」という話である。この辺りは手塚治虫のブッダを見ていただけると早いと思う。

さて、重要な点をお話したい。実は仏法では、善人も悪人も皆、救われると解かれている、それは、正義と悪は表裏一体であり、正義が強くなれば、悪も強くなる、一番大事な点は、生命の尊厳をかけての闘争は聖なる儀式であり、そこに参加したものは皆、救われる。つまり結果的に、偉大な「正義」が誕生すれば、それに貢献した悪もまた正義になるというのである。つまり、その儀式に参加したものは、皆救われるというわけなのだ。ただ誤解のないようにしていただきたいのは、仏法の行動理論は非暴力、言論であり(手塚治虫のブッダなどを参照)戦争を回避、または短期で終わらせる為の行動がその、本質、本懐だと言える。

では、ここから手塚的な宗教観を説明したい。手塚漫画が一貫してつらぬいているのテーマは「生命の尊厳」である。火の鳥、ブッダ、その他色々。その哲学は極めて上記に書いたとおり仏教的と言える。ただ、違うのは「正義」を貫く側に、非現実的な「奇跡的超常現象」が起きる事である。実はここがポイントなのだ。

私は、この考えに極めて強い影響を受けたのが、実は富野監督ではないか?と思っている。ご存知の方も多いと思うが、富野監督は長年、手塚治虫の元にいた。
この話をすると、恐らくこう言う人が巷には多くいると思う「富野監督はコメントやインタビューなどでそんなそぶりを見せたことが無い」と・・・。
以前から、私は思っていたのだが、巷のガンダムファンは少々富野監督のコメントに踊らされすぎではないか?と思う。私に言わせればクリエイターと呼ばれる人種が、そう簡単に手の内を見せるはずが無い。ましてや一流の監督である。手品師が種を明かすようなマネはしない。これは映画監督の深作欣二の言葉で、「監督は人をだます仕事である」と言っている。監督なるものは、そう簡単に本当のことを言わないものなのだ。


さて、本題に入らせていただく。実は私はZでのカミーユのセリフがとても気になっている。ラスト近くの「生命散って」での1シーン。「人の命はこの宇宙を支えているものなんだ!!」あまり注目されないセリフであるが、これは非常に重要である、カミーユはほとんど何かに操られるようにこのセリフをしゃべっている。この話はご存知の通り、次々に人が死んでいく話なのだが、そのたびにカミーユは「命の尊さを」叫んでいく・・・。この時点でまさにカミーユは生命の尊厳を賭けた聖なる戦いの中心者なのだ。そして叫ぶ「俺は人殺しじゃない!!」・・・と。

この時のZガンダムは、まさに超常的である。ビームを跳ねのけ、超人的なカミーユは生命を踏みにじる存在を倒し、聖なる儀式を終了させる。(ちなみに私は小説を読んでいないし、別物だと考えている事をご了承いただきたい)
生命の尊厳を踏みにじる存在(悪)を、生命の尊厳を守る存在(正義)が倒す。その時、なにか理解できない巨大な力が超常現象を起こし、正義に味方をし、勝利に導く。この構図こそが、実は多くの人々を魅了する構図、図式であり手塚漫画の魅力の秘密なのだ。そして、我らが愛するZガンダムはその流れをそのまま受け継いだ、作品ではないかと私は思っている。

改めて言わせていただくが、Zは傑作である。

上記にも書かせていただいたように、私は富野監督のいうことをほとんど信用していない。富野監督はこう言った「Zは嫌いで今まで再度みた事が無い」・・・多分本当だろう。しかし力の入れた作品だからこそ、頭の中に刻まれ、改めて見る必要が無いとも考えられる。そして、気になるのはこのコメント「商業主義に走ったから、カミーユをあんなキャラクターにした」・・・これは面白いとコメントだと思う。ようは私は、商業主義でガンダムをやれたから、主人公は自分の好き勝手な性格にすることができた、ととらえることができる。早い話が誰にも干渉されず、自分が一番好き勝手にできた主人公といえるのだ。そんなカミーユを嫌うとは思えない。これらも自分の手の内を見せないための計算ではないかと思う。


さて、今回は前編である。次回はこれらを「ニュータイプ論」「イデ論」にからませていきたいのでよろしくお願いします。


『手塚治虫的宗教観・後編』

生命の尊厳を守るのが正義、逆に生命を踏みにじり、破壊するのが悪。そして、正義と悪の力は表裏一体、同等で対等であるが、そこに超常現象とも言える神秘的な力が働き、奇跡を呼び起こし、正義に勝利をもたらす。この構図、図式にそった物語が、手塚哲学の根幹であり、それに強い影響を受けたのが、我らが敬愛してやまないガンダムの生みの親、富野監督ではないか?先日はこう言う話をさせてもらった。本日はその続きである。

まず始めに、ある手塚治虫の漫画の紹介させていただく。作品は氏の代表作の一つ「ブラックジャック」。その中の1エピソード、ご拝聴いただきたい。

ある日、BJはたまたま乗車したタクシーの運転手の青年を手術することになった。不本意な理由だったが手術を請け負い、メスを青年の体に入れた。その時・・・・その時そこで見たものにBJは愕然とする、それはその青年が赤ん坊の頃の手術の痕、その技術は自分を上回るものだった・・・・。
しかし不思議な事に、青年には実は手術をした覚えが無い・・・・。
実は青年は不思議な夢を見ることが多かった、ある外国の、内戦に荒れた街にいる夢である。その夢を頼りに、BJは青年を連れて旅に出る。ライバルを見つけ出すために・・。
そして、ついにBJは手術をした医師に出会う。ところがその医師は、実は何の医学知識も無い、老神父だった。
老神父は話をはじめた。実はこの青年は赤ん坊の頃、内乱に巻き込まれ、頭部を破損するという瀕死の重傷を負った。そこで同じ攻撃で死んだ、彼の姉の脳を移植で夢中でしたところ、成功したと言うのだ。その時、神父はまるで自分ではない、何かに操られるように手術をした。まさに奇跡だったという。

まとめさせてもらいたい。このエピソードは「ブラックジャック」にしては極めて珍しい、連続モノの大作で、かなり力が入っている。実はこの神父が手術をする前に、戦車が教会を襲うシーンがあり、神父は懸命に赤ん坊の命を救おうと、戦車に立ちはだかる。そうすると、なんと戦車の大砲がねじまがってしまった。リアルさにこだわったブラックジャックにしては極めてめずらしいシーンであるが、別の見方をすれば、これは生命の尊厳を守ろうとする、神父に起きた一連の超常現象の一つともとれる。これは、何かに取り付かれたように奇跡の手術をしたことにも合い通じる内容だ。

さて、Zに戻りたい。Zのラスト2話のカミーユは、先日書かせていただいたように、生命の尊厳の為に闘う戦士として描かれている、結果、悪を倒す為、さまざまな超常現象を起こした。特にハンブラビ、ジ・Oを倒した、力はまさにそれだと言える。この力は、「ブラックジャック」の神父に共通するものである・・・・と私は見ている。

今度は逆シャアに行きたい。逆シャアのラストは皆ご存知のように、アクシズが引力に逆らって、地球から離れるという、とてつもない奇跡が起きる。これも、手塚治虫的演出を受け継いだ一連の奇跡の一つと見ていい。地球の人類の生命の尊厳を守ろうとする、アムロを中心としたモビルスーツ隊がその中心である。
でも、それではシャアが極悪人になるではないか?と言う人がいると困るので説明させていただきたい。先日、書いたように生命の尊厳にまつわる戦いは聖なる儀式であり、正義を生み出す為に悪が存在する、この二つは表裏一体である。正義を生み出す事に貢献した悪は、結果的に正義となるのだ。この辺はかなり仏教的である。

では、ここで手塚治虫の「ブッダ」の最初のわけのわからないシーンの説明をさせていただく。そのわけの解らないシーンとは、冒頭にある賢者が飢えに苦しんでいた。そこに動物たちが集まり、それぞれが色んなものを持ち寄るが、ウサギだけが何も無い。そこでウサギ、自ら焚き火の中に飛び込み、焼かれて、その肉を賢者に与えた。
恐らく、ほとんどの方が何の事かわからないと思うが、実はこのウサギは、死後、ブッダになったのだ。つまり賢者に死をもって奉仕した、その後ウサギは輪廻転生し、無量の知恵を授かった、結果ブッダになったとされている。この話は漫画には確か説明が無かったように思えるので、書かせていただいた。

つまり究極の奉仕とは、命を与えるという行為であり、これをガンダムに当てはめると、戦場において、生命の尊厳の為に命をかけて闘うという行為は、究極の正義になる、と言える。そして生命の尊厳を知るものに倒されてこそ、悪ははじめて正義となりうるのである。

さて、こういう、一連の図式は、観る者に対して、すばらしい感動を与える。超一流のクリエイター、手塚治虫が築いた普遍的な理論であり、演出である。そして富野監督はそれを意識して、作品を作っているのではないか?というのが、私の意見である。例によってこんな事を言っているのは、おそらく私だけだと思う。こんな事を考えているヒマがあったら、仕事の利益をだすことを考えろ!と職場からの声が飛んできそうなのだが・・・。

ちなみに何故私が、手塚治虫の演出の話をしたのか?それは、非常にわかりやすいからである。富野監督の演出は非常にわかりにくい。つまり、富野監督の手の内を読むなら、手塚治虫的演出を知ったほうが早いのではないかと思ったからだ。

では、ついに議論の最大の目玉である「イデ」について大いに語りたい!!さて、イデとは・・・・。

・・・・・・・・・・・イデってなんだろう?(なんや、それ!!)


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