Essay 9  「姓名」は「生命」である
姓名学の研究を始めて5年になる。きっかけは、本屋で何気に取った占いの本であった。
当時、僕はある悲しむべき人生の試練に直面し、絶望の日々を送っていた。世間的には大学生というペルソナ(仮面)を被り、社会を構成する一個人としての役割は与えられていた。しかし幼い頃から思い描いていた青春に挫折し、夢を失った自分はまさに死者と変わらなかったのである。そんな無聊な日々の中で、姓名学に出逢った。Essay 1で「日本は言霊の国であり、発する言葉には霊が宿る」と書いたが、中国で編み出された姓名学は、漢字そのものに霊が宿るという見解だ。字の画数ひとつひとつに宿る数意が、その字で構成される名を背負う人の一生を支配するというのだ。

案の定というか、自分の名前を調べた結果はかなりの凶名であった。そこで改名を志し研究を開始。99年の正月、僕は「八田修一」という名前に生命を吹き込んだ。ここで皆さんはお気づきだと思うが、この名前は僕の本名とは違う全くのペンネームである。自分にとって吉数と思われる画数を随所に散りばめた。それは一人の人間として生まれ変わるぞ、物書きとして成功するぞという決意の証であった。「八田」という苗字は母方の姓だ。僕をずいぶんと可愛がってくれた祖母は、男子を産むことはなかった。祖母の死と共に断絶した、その苗字をもらったのである。そのおかげかいつも、自分の背中に先祖の功徳を感じる。新しい名前を名乗ってから、つとめて仏壇に手を合わせるようになった。僕は改名で、文字通り幸福になったのである。

近年、不況のあおりか人心の荒廃か、凶悪事件がとみに多くなった。ニュースや新聞で犯人や被害者の名前を見ると、無意識のうち画数計算してしまう。やはり凶名が多く、運命の怖さというのを感じてしまう。ある日突然、自分の家族が事件に巻き込まれたらどうなるだろう?その慟哭は筆舌に尽くしがたい。いつしかひとりでも多くの人に姓名学を知ってもらおうと、友人知人の申し出等で他人様の名前を診るようになった。


他人の名前を鑑定する時、僕は一切のお金を受け取らない(何度かメシを奢ってもらった事はあるが)。あくまで奉仕として、アドバイスさせてもらう。そこで「鑑定料いくら」と要求したら、邪念が入るからである。これは一貫したテーマだが、誰かの為に何かをやってあげる時は、蒸留水のような純度を保った心で行わなければいけない。相手に見返りを求めているうちはまだまだである。鑑定の最後は、未来につながるように話す。
F1の天才レーサー、故アイルトン・セナは「人は皆、平等にチャンスを与えられている。この世に生を享けたこと、それ自体が最大のチャンスではないか」と言い遺している。彼は34歳の若さでピットに散ったが、この言葉を遺しただけでも生まれてきた価値があったと思う。希望を失ったら人間は終わりだ。天寿を全うする一秒前まで、希望に生きなくてはならない。

「姓名」は「生命」と同義語である。そして「運命」とは「運名」だと思う。
一人でも多くの人がいい名前を持ち、幸福な人生を送ってくれる事を祈っている。
Shuichi Hatta
2003.10.25