Essay 7  祖国よ、何処へ
衆議院が解散した。メディアの報道によれば、今回の総選挙は10年前、細川政権が誕生した時以来の「政権選択選挙」だそうだ。民主党が自由党と合併し、国会に200議席を超える強力な野党が出現した。
果たして英国型の健全な二大政党体制が日本に根付くかどうか。政治もまた、言葉で人の心を動かす世界である。各党党首の第一声をニュースで見ながら、私はある政治家のことを思い浮かべていた。

かつて田中角栄という政治家がいた。小学校卒ながらその類稀な記憶力と天才的な人心収攬術で大衆を熱狂させ、「日中国交回復」という世紀の大事業をやってのけた昭和の大宰相だ。不幸にもロッキードという冤罪で政治生命を絶たれ、奇しくも自民党政権下野の年にまるで旧い時代を引き連れるように瞑目したが、その政治的業績は没後10年を経て、色褪せるどころか光彩を放つ一方だ。
彼が総理になる前の頃、秘書が「先生、人の上に立つにはどのようにすればよいのですか」と尋ねた。すると角栄は一言一言を噛み締めるように、こう述べたという。
「人の好き嫌いはするな。誰に対しても一視同仁。いつでも平らに接しろ。来る者は拒まず、去る者は追わず。他人の為に汗を流せ。できるだけ面倒を見ろ。手柄は先輩や仲間に譲れ。損して得をとれ。泥から逃げるな。進んで泥をかぶれ。約束事は実行せよ。それを長い間続けていれば敵が減る。多少とも好意を寄せてくれる広大な中間地帯ができる。大将になる為の道が開かれる。頂上を極めるには、それしかない」
この言葉に触れたのは私が大学2年の時だった。角栄は既に鬼籍に入っていたが、この一文を読んだ瞬間に頭から氷水をぶっかけられたような衝撃を覚えた。以後、打算的だったり傲慢だったりした自分の“悪”の部分を改め、友人知人に対して赤誠を尽くすことを心掛けるようになった。決して偉くなろうとは思わないが、一生大切にしてゆきたい言葉のひとつだ。

ノーベル物理学賞を受賞した江崎玲央奈博士が、ドイツで行った講演でこんな事を話していた。
「アイデンティティとは、“まず自分が何者かという自らの物質を問い、それに基づいて決意する独自の生き方”と解して良い。従って、その中には二つの要素、過去のいきがかり、歴史、伝統、文化のようなもので規定される部分と、“将来かくあるべし”という未来志向の可変の部分がある。アイデンティティの危機とは、この両者がもつれる時である」

角栄は、政治家として江崎氏の言う“二つの要素”を同時に追求した男であった。また、前出の角栄の言葉は、かつての「古き良き日本人」が、皆心の底流に内包していた魂とも言えよう。彼を葬った日本人は、かくして自らをアイデンティティの危機に晒したのである。角栄以後の政治家は、国家のグランド・ヴィジョンを大衆に示せぬままだ。

今度の選挙は角栄の宿命のライバル・福田赳夫の愛弟子と、一貫して“角栄的なもの”を批判してきた市民運動家+角栄の秘蔵っ子連合の戦いだ。時代は変わった。孟子は「大旱(たいかん)に雲霓(うんげい)を望むが如し」と言っている。これは日照り続きの時に、雲や虹が出て雨が降るのを待ち望むように、物事の到来を待ち望むことを意味する。この10年の、政治の「大旱」が無駄ではなかったことを望みたい。そして再び、角栄のような血の通った政治家が登場することを心から願ってやまない。
Shuichi Hatta
 2003.10.16