Essay 5  ほんとうの空

“智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ”
高村光太郎の『智恵子抄』に収録されている「あどけない話」の、あまりにも有名すぎる一節だ。女子思想運動や雑誌「青鞜」の表紙画制作に携わり、「新しい女」の旗手とも謳われた芸術家・長沼智恵子。彼女は光太郎との結婚生活で自らの芸術活動と家庭の板ばさみに遭い、最後は発狂に至る。僕が初めてこの本を読んだのは高校1年の時だ。当時、流行音楽の世界はミリオンセラーブームで、アーティストのCDが200万、300万と飛ぶように売れた時代だ。大衆がお手軽な現代風の恋の歌に熱狂する中、この悲しくも美しい純愛物語は激しく僕の心を揺さぶった。
あの『考える人』の作者、オーギュスト・ロダンも内妻が同じ彫刻家で、行き着いた果てはやはり発狂だったという。光太郎やロダンの才能には遥か遠く及ばないが、もし自分に結婚する事があれば,そのときは僕の芸術に理解を示してくれる“普通の女性”と結ばれたい。
もし生涯の伴侶も芸術家であったなら、彼女には筆舌に尽くしがたい重荷を背負わせる事になるだろう。最愛の人を苦しめる事は、これもまた無上の辛苦である。
智恵子にとっての東京は、芸術活動には不適当の地であったらしい。精神を病んでからは、千葉の九十九里へ静養に訪れている。僕は千葉に住んでいるが、彼女とは逆に「芸術は東京でなければできない」と考えている(時代の違いはあるが)。地方で芸術活動を行っている方々を否定する気は毛頭ないが、無から有を生み出すにはインスパイア(触発)を惹起するものを必要とする。東京にはそれが満ち満ちているのだ。半蔵門線が錦糸町まで開通してから、渋谷へよく足を運ぶようになった。流行の発信基地・109前にある“時の化石像”に座り、2時間ほど行き交う人々を観察する。着ている物は同じようでも、顔はそれぞれ違う。少女がどんなに微笑を湛えていても、その瞳の奥底に淋しさを覗いたり、来るはずの無い女性を待ち続ける若い男性達に、薄っぺらいパロディを感じたり。どんよりとした空をふと見上げて、この国の将来と自分の未来を案じたり。まるで試験管の中で色を変える化合物の変化を見つめるように、時代と人の動きを、静かに見つめるようになった。皆、大志を抱いて東京の土を踏む。
恋をし、裏切られ、そして別れる。ある者は絶望して故郷に帰り、ある者は“ここしかない”と腹をくくる。
僕に関しては、夢を夢で終わらせないために、東京で夢の断片を一つ一つ積み上げる毎日。
自分の思いひとつで、見上げる頭上は“ほんとうの空”にも、“にせものの空”にもなり得るのだ。


・・・せめて僕は、心の中に“ほんとうの空”を持ち続けよう。
2003.10.11 Shuichi Hatta